回想
 父の十三回忌が一昨年と思はれ、たしかその歿後の翌年と回想される故指折れば早くも十星霜にあまる時が経ちしなり、故葛西善蔵氏が切りと余に力作をすゝめ、稿終るや氏は未読のまゝに故滝田哲太郎氏へおくられたるなり。その稿が幸ひにも大いに滝田氏の賞揚するところとなり、次々の作を滝田氏より多くの鞭韃を享けつゝ発表の期を得たるなり。最初の作「父の百ヶ日前後」また次の「悪の同意語」等の題名は滝田氏の与へられたるものなりき。葛西氏は屡々酒間に余をとらへて、君は滝田氏の末子なりきと云々されたるが、まことに今やその感も深く、五十周年の末席に列する栄を得たるは内に欣快の情を禁じ得ざるも、近来の吾上を省れば汗顔の至りなり。



 彼は何時も薄暗い部屋に閉ぢ籠つて、特に難解な哲学書に凝つてゐた。例へば、「物質的並びに精神的宇宙に関する論文」といふE・A・ポーの「ユリイカ」などゝいふ類ひのものだつた。彼は自ら一つ端の人間嫌ひと自覚してゐた。彼は折々卒倒したり、眠り薬の分量を間違へて止め度もなく眠り痴けた。そんな状態が三年越だつた。恐怖性神経衰弱症と診断されてゐた。彼はそんなことでは母に心配を掛けたくないと考へて音信不通のまゝ、あちこちの海辺や山峡ひに逃れて、稍ともすると蕨ばかりを喰ふ日が続いたが別段空腹も不満も覚えなかつた。精神的生活に満足しようねといふやうなことを、彼は稍黄色沁みた音声で細君に語つた。細君は陋巷の生活は得意であつた。彼は何時にも細君を女と感じた験もなかつた。細君に限らず、彼は一切の女性と口を利く興味もなかつた。哲学的妄想の結果だらうと想つた。
 ところが何うして彼の状態を遠方の母が知つたのか彼は神妙に首を傾げても不思議であるだけだつた。向う一年ばかりの間、養生費ともつかぬものを送るから、然し一ヶ月の定額は必ず厳守して、万一前借などを申し込む如き場合があつたら、それはもう健康態に戻つた徴と見なして、送金は打ち切るといふ約束だつた。
 彼は、その母の手紙を見た途端に年来の持病は一切快癒したやうだつた。――この時ほど彼は、自分に対して幻滅と軽蔑を覚えたことはなかつた。だが、まさか、もう治つたとも云へなかつたので、憂鬱さうな顔をして、静かにその手紙を細君へ渡すと、いつものやうにさもさも頭痛がするといふ風情に眼をつむつて、そして鼻柱を二本指でつまみながら自分の部屋へとつて返すと、手鏡をとつて一種の嗤ひ顔を写して見てゐた。不気嫌な時には如何にも頭痛に堪えられぬといふ露はなしぐさで、拳骨で首筋を叩いたり、鼻柱をつねつたりする彼の癖は、もともと母の遺伝であつた。母が縁側の椅子に腰をかけて、鼻をおさへてゐる折は、何んな類ひの無心でも享け容れられたこともなく、それはヒステリの発作で、一見して誰でもが近寄れなかつた。その代り天気がカラリとして、五月の鯉幟でもあげようといふころであると、そして相手が慇懃で、どこかにひようきんなおもしろさがあると、有無なく何事にでも首を縦に振つた。
「今朝は、どうだね、母さんの容子は……?」
 毎日のやうに彼の母の容子を見た上で秘かに金の話を持ち出すことに専念の六十歳近い彼の親成先の弥三郎などはいつも盗棒のやうな忍び足で先づ彼の窓先へ忍び寄つて、そんな風に訊ねた。そして彼の眼付次第で、玄関へまはつたり、そのまゝすご/\と引き返したりした。いつかなど弥三郎は横領詐欺罪で起訴されるといふ瀬戸際に出会つて泣込んで来たが、生憎と母の不気嫌の日で死ぬ生きるの騒ぎを演じても諾き入れられなかつた。さうかと思ふと弥三郎が母の前で大いに酔つ払つて、軽口沁みた洒落などを飛した揚句、狸寝入りをしてゆくといふこともあるさうだつたが、そんな時には、いつも彼はポケツト判の「ハムレツト」を懐ろにして三日も家を空けた。同じ町に小説家の宇野氏が病養を続けてゐた頃、不図彼の懐ろから滑り落ちたその本の体裁を賞めたので、泥酔してゐた彼は、扉のM・アーノルドの贈呈詩を朗読したりしながら、恭々し気に進呈などした。千八百末年の出版本で、若い彼の亡父が誕生日の祝ひか何かに外国での女友達から贈られたらしいサインのあるものだつた。後で彼は変なものを人に贈つたと赤面したが、泥酔すると常規を逸し勝ちであつた。
「それぢやお前は当分温泉場でも歩いて来たら好からう、暮しにさへ困らなければお互ひに別居の方が幸せさうだもの。」
 細君の言葉に無論彼は大賛成だつた。でも細君は折々の彼の卒倒の発作を気遣つて、いや、もう大丈夫だ/\と、うつかりと彼が本心の元気を出して迷惑がつたにも係はらず、百合子を一緒に伴れて行けと云つて諾かなかつた。――細君の亡友の妹なんだが、家庭の不和でもあるらしく何時からともなしに百合子は彼等の行く先々へ伴いてまはつて、時々映画女優になり度いなどと云つて姿をくらますこともあつたが、やはり文学が一番のものだと云つては舞ひ戻つてゐた。尤も口ではそんなことを云ひ、二三年前までは女子大の文科へも通つてゐたやうであつたが、別段創作方面への野心があるわけでもなく、主に鏡の前で生意気なポーズをつくつて己惚れてゐた。
「ブルジヨア的になると、元気が出るかも知れないから、危ないぞ。」
 彼がそんなことを云つても、細君にしろ、当の百合子にしろ、まるで感じもしなかつた。
「他のことは何も彼も駄目だけれど、そのことだけは確かだからな……可哀想になる位ひよ。」
 全く細君は彼のことを左う信じ切つてゐた。彼にしても、やがてこのまゝ干ものゝやうに枯れて、突つ張つてしまふであらうと、別段悲しくもなく想像してゐた。
「つまり徹底的なイン××ントなのね。」
 百合子は近頃細君から習ひ覚えたチエリイを不器用に喫しながら、靴下も穿いてゐない脚をぬつと卓子の上に載せてゐた。
「でも、宿屋などに泊つてゐたら女房か何かと間違へられやしないかね?」
「間違へられたつて何でもありやしないぢやないの、それが何うしたの?」
 百合子も細君もたゞ白々しいだけだつた。
「俺、こんな行儀の悪い看護婦を伴れて行くのは閉口だよ。」
 と彼は切りに辞退したが、やはり百合子が秤や薬瓶を入れたケースを携へて、一人分の費用で二人分を割出さなければならないんだから自炊でも出来るところを探さうと云ひながら伊豆の方へ向つた。
「勉強するにはやはり一人でなければいけませんね。今迄は否応なくそこに居たんだけれど、礼儀も何も知らない北の連中が煩さいことばかり云つて遣り切れたものぢやない。その為に此方は病気になつてしまつたんだが、あゝいふ連中には斯んな病気は偽病とより他は見えないんだ。僕はもうこのまゝ世帯を持たうなんていふことは一切止めようかと思つてゐる……」
 出発の途中で、母のところに立ち寄つた時、彼は眼を据ゑてそんなことを云つた。北といふのは細君の里の姓である。
「それあ無理もない。好くお前はそれに気がついたよ。」
 母は深く点頭いて、旅などしたことのない彼の行程心理を気遣つて、一ヶ月分を余分にして呉れたりした。母は縁側の日向で、泉水を掘らうといふので弥三郎が職人に交つて泥まみれになつて働いてゐるのを見物してゐた。五月の或る朝だつた。
「あたしがもう齢をとつて、お前はそんな態だし、何ひとつ楽しみなんてありはしないと云つたら、おぢさんがね、此処に池をつくつてやらうと云ふんだよ、鯉を飼つて……」
 お前が――となると彼は冷たくなつたが、母の気色に安堵しながら、
「このごろはもう幟は立てないの?」などゝ云つた。
 停車場の前の憩所に待つてゐた百合子に旅費のことを告げると、思はず、うまいツ! と叫んで人前も憚らず彼の頬を撫でて、
「ねえ、時計買つてよ、腕時計が無くつちや歩けないわ。」と浮き立つた。
 百合子は行く先々の地に着くと自炊などゝいふ考へは毛頭もなく、急に金持の婦人のやうに取り済して、貸切風呂がなくては居られないわ――そんな調子に変つた。昨日までは、あいつがと彼のことを細君と共々に「あいつが変梃な顔ばかりして稼がうともしないので、あたし達はずろすの掛け換へもなくなつて銭湯へも行かれやしない。」などゝ、さういふ時だけは真剣になつて罵りまくつてゐた同人物とは、比ぶべくもなかつた。そして事毎にパンツのピヂヤマが必要だとか、靴の代りを忘れたとか、ヴアニテイ・ケースが欲しいとかとさへずつて東京の百貨店から汽車便でとり寄せた。八月が終らうとする頃になると、母からの為替と同封の手紙にはもう一年分が終りさうになるが? と大分けしきばんだ言葉も見られた。孤独で歩きまはるといふ彼の言で一時は余程心象を好くして、如何にも神妙さうな彼の手紙のまゝに前借の重複を忘れたのであるが、送れば送るで一向手ごゝろも知らぬ気な彼の雲行に不安を抱きはじめたやうであつた。
「一体お前えは伺ういふ了見なんだい。自分が保養にでも来てゐる気なのかね。看護婦として雇はれてゐるといふことを忘れたのかね。」
「忘れやしないわよ。陰気な先生の心を晴れやかにさせてやらうと思つてゐるだけよ。」
 彼がもうとつくに起きて机に向つて十時にもなつてゐると云ふのに、百合子は未だ床の中だつた。片脚を斜めに畳の上に転げ落して、醒めても改めようともしなかつた。「あたしだつてもうとつくに一度起きたわよ。邪魔しちや悪いと思つて斯うやつてゐるだけなのよ。」
 成程短い髪には新しいウエーヴもついて居り、唇などは椿の花のやうに赤かつた。気づいて見ると足の爪にまでマニキユアが施してあるかのやうであつた。――彼は机に向つてゐても、近頃はどうやら哲学も宇宙も忘れてゐた。百合子が買つて来る映画などにもなつてゐるといふ小説本を読んでゐた。接吻とか、抱擁とか、恋愛を打ち明ける場面とかゞ、空々しく書かれてゐても厭に刺戟的だつた。
「あれ! あんなものを読んでら。偉さうなことを云つてた癖に……マツチ、とつてよ、ついでに火を点けて……」
 百合子は仰向になつて莨をくわへた。そして彼が火をともして腕を伸すと、うつとりと眼をつむつて煙を吹いた。河豚の腹のやうに白いはだけた胸が深々と波打つてゐた。彼女だつて、多少なりとも彼を男として意識したならば女らしい慎しみを抱いたに相違ないのであるが、何年もの間殆んど一緒に貧しい暮しを共にして今では恰で彼を阿呆な兄貴か叔父のやうに信じて、見くびつてゐるので、そんな態度が逆に彼の心底を悩ましてゐるなどゝいふ途方もないことは夢にも知らぬ気であつた。
「ねえ、先生、あたし今年こそは結婚しようと思つてゐるんだけど、ほんたうにその時は親の代りになつて呉れる?」
「好きなやつが見つかつたのかね。」
「面倒だから先生に探して貰ひ度いのよ。先生見たいにエライ人でない少しは道楽ぐらひしたつて関はないから男性的魅力に富んだ人が好いわ、どうせ此方だつて前科があるんだから兎や角云はないわ。」
「えツ、そんな前科があるの?」
 彼は嫉妬とも親しみともつかぬ炎に煽られて思はず眼を丸くした。
「二度もあるわよ。だから早く結婚し度いのも無理ないでせうよだ……」
 百合子はさすがに顔を赤くして首をすくめた。川のせゝらぎと蝉の声より他はない森閑たる真昼時だつた。
 細君のところへ手紙を書いたから読んで御覧と百合子が紙片を彼に渡したので、見ると斯んな一節があつた。――。
「その明方妾が眠れないでゐると先生が妙な唸り声を挙げるのよ。病気が起つたのぢやないか知らと思つて静かに妾が眠つた振りをして容子を窺つてゐると、やがて先生は、あツ、しまツた! と叫んで起きあがり、何とも形容も成し難い表情でした。そして妾の容子を見ながら着てゐるものを慌てゝタオルに包むと、そつと部屋を脱け出して川ふちへ降り、せつせと洗濯を始めてゐる姿が月あかりにはつきり浮んでゐました。もう健康なんです。妾は逃げ出さなければならない。」
 彼は終り迄読むに堪へられず、あまり人を馬鹿にするな! とか、失敬極まる! などゝ憤つて粉のやうに破いた。
 間もなく彼は○町の検事局へ召ばれることになつて、その都合上箱根へ移つた。彼が詐欺罪で起訴されるのであつた。何うも思ひあたるところがないので、いろいろ考へて見たところ漸く何年か前に百合子が彼の名前で衣類を註文し、つい金を使ひ込んで先方へは未払のまゝであることがわかつた。
「そんなことありはしないわ、妾、二十円宛二度位ひは払つたわよ、何にも払つてないなんてこと断然無いわ。」
「今更そんなことを云つたつて始まりはせんぞ。一体、君は、何故払はなければ、払はないと、僕に……」
 と彼は震へたが、百合子の陳述は恰で埒もないもので、終ひにはワツと泣き出して、吝嗇男とか、芸術家らしくもない、臆病者などゝ暴れて、絶交よ! と叫びながら帰つて了つた。
 百合子は箱根に来てからは彼とは部屋を別にして新婚者用の風呂に鍵を降して独りで取り済してゐた。その鍵がそのまゝになつてゐたので今度は彼が独りで、その湯槽につかつて天井を眺めてゐた。彼は何の余憤もなく、美しい温泉に近頃稍健康色をとり戻したとは云ふものゝ、眺めるだに貧弱な鉛筆のやうな手足を浮べた。思想などは何一つ湧くこともなく、あの高慢鼻の牝馬が、さすがに己れの失態を見破られてうろたへた上句、涙を滾して逆上した姿を想像すると、胸のすく底の小気味好さやら、さうかとおもふと実にも逞しい恋々の情が噴泉のやうに湧きあがつた。何とかおどし文句を考へて、もう一度呼び戻してやり度いものだ……と彼は「相生」と称ふ札のかゝつてゐる浴室の裡で秘かに悪計をめぐらした。
 それはさうと、住居不定のまゝ今迄幾度かの召喚にも応ぜられなかつたゝめにいよいよ一両日中に解決しないと、汚名が決定するといふ瀬戸際に及んだので、彼は召喚状をふところにしてやはり母の許を訪れるより他はなかつた。夜来の雨が明方から勢ひを増して天も地も轟然たる唸りを挙げてゐた。見あげる四囲の山々は灰色の雲気に閉されて、折から風を交へた沛雨にありかも見えぬ森林の雄叫びが韋駄天と化して縦横無尽に荒れ狂つてゐた。
「母上様の御気嫌は……?」
 彼は、ほんたうに声を出して祈りを挙げながら山を降つた。町端れの低地帯へ移つてゐる母の家の近くに達するに従つて、次第に小川が溢れて往来を流してゐた。彼の胸は、近づくに伴れて海綿のやうにふくれたり縮みあがつたりして、今にも卒倒しさうな恐怖状態に陥入つた。雨は更にひとしきりの勢ひを増して目をふさぎ耳を聾した。その物音に彼は追手の喚声に囲まれた悪人と化して逆上しながら遁走したものゝ、如何に勇気を奮つても玄関口から飛び込むことが適はず、ハチスの生垣のまはりをぐるぐると駆け廻つた。と風に煽られたまはり灯籠のシルエツトは益々意味もなく回転の速度を増して、バツタのやうに細い空ツ脛で踏散らす水のしぶきが全身に跳ねあがつた。――間もなく彼れは息絶れに参つて、吾知らず生垣の中に首を突ツ込んだまゝ眠りかゝつた。
「そらツ、むかうにも逃げてゐるぢやないか、何を愚図々々してゐるんだね。……あゝ、あゝ、あ……折角丹精して飼つたのに、あゝ、あゝ、みんな逃げてしまふだらう……」
 たしかに母の疳高い嘆声だつた。
 キラキラと眼蓋の上に降りかゝる滝の様に明る気な木の葉の雫の中で彼が目を開けて見ると、庭先は泉水の痕かたもなく縁下まで濁水がたうたうとおし寄せてゐた。弥三郎が蓑を着て、母の指さしにしたがつて、あちこちと竿網をのばしてゐた。左かと云へば右、右かと云へば後ろ――といふ母の惨たらしい命令に狼狽してゐる弥三郎の表情は、今にも泣出しさうに見えた。母は縁側に立ち竦んで、ひと言叫ぶ度に、あはや昏倒でもしさうに顔を顰めて、力一杯鼻筋を圧へてゐる有様であつた。――前に彼が伝へ聞いたのだつたが、母は弥三郎の周旋で余程高価な鯉を何十尾とか放つたのださうである。

底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
   2003(平成15)年5月10日初版第1刷
底本の親本:「酒盗人」芝書店
   1936(昭和11)年3月18日
初出:「中央公論 第五十巻第十号」中央公論社
   1935(昭和10)年10月1日発行
※冒頭の「回想」は、底本では罫囲みの上辺を割って、横組で組まれています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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