このごろ私は、ときどき音取おんどりかくからの手紙(代筆)を貰ふので、はぢめてその音取といふ苗字を知つた次第でありますが、それまではその人の姓名は怒山ぬやまかく――かとばかりおもふて居りました。ところが怒山といふのは、その人の村の名称だつたのです。左う云へば人々は、その人のことを怒山のおかくと称んでゐたのに気づきました。また、おかくに限らず町の人達は、それらの村の人々を区別するには苗字の代りに村の名前を用ひてゐたとうなづかれます。ともかく私は、この頃その人からの手紙を貰つて、音取かく――と見る場合妙なぎこちなさを覚えるのです。それも定つて音取とあるわけではなく、音頭となつたり音田であつたり、雄鳥と変つたりするのです。おかくに会つて、私が苗字を訊ねて見ると稍暫く呆然とした後に、
「おんどる……だな。」
 と答へるのですが、が、なのか、また他のものか決して聞わけ憎いのであります。字は訊ねても無駄なのです。怒山ぬやまといふひゞきの方が、明瞭であるためか、習慣のためか、いかにもおかくの風貌風姿に適はしくて親しみが多いやうにおもつて居りましたが、やがて、おんどるなのかおんどりなのか判然としないのも気にならなくなりました。その山奥の小さな村では、苗字なんてものはほんとうに要もないものだつたのです。郵便なんていふものを受けとる人は村中にひとりもないといふところなのですから――。私のゐる寄生木やどりぎも隣りの怒山も、その他五つの字名の小区域と共に竜巻村といふものゝ中の小字であり、俗称であつて、登録された名称ではないのです。
 おかくは代筆された手紙を自分で私のところへ携へて来るのですが、その内容はいつもきまつて意味が曖昧なのです。
「一体、ぶくりんの名前は何といふんだね。」
 文中に、倅柚吉とあつたり、柚七となつたり、柚太であつたりするので、また私が左う訊ねても、やはりおかくの返事は烏耶無耶なのであります。
ぶくりんが何うも悪さばかり仕でかして……」
 おかくは左う云ふだけなのです。ぶくりんといふのは、おかくの倅の仇名なのですが、仇名より他の名前を知る者は誰もゐないのであります。ぶくりんといふのは何ういふ意味なのか、凡そ字義からは忖度の出来ぬ、わけもない単なる語呂であるのでせうが、いつもおこつてゐるのか不平満々なのかわからぬ気の青ンぶくれで、憤つてゐるのかと察すると左うでもなくて、そのまゝの表情で喉の奥にわらひ声などをたてる片目のおかくの倅の風貌は見るからにぶくりんなのです。これは何もぶくりんに限つたわけではなく、何故かこのあたりでは古来から大概の男は仇名の方が有名で、いつの間にか当人でさへも自分の本名を忘れてゐる者さへ珍らしくありません。ぶくりんで連想するのは代書業のぐでりんです。私も無論未だ彼の本名は知らぬのでありますが、彼の様子は打ち眺めたところ別段に際立つてぐで/\してゐるといふわけでもなく、いつも浅黄色の絹はんかちを首に巻いたどちらかといふと優型の美男子ですが、何故か彼は他人と会話を交へる場合に決して相手の顔を見守りません。顔を稍斜めに曲げて眼を伏せたまゝ仲々の饒舌ですが、その間常に同程度の微笑を湛えてゐます。そして左の指先で頤の先を引つ張つてゐるのが癖ですが、さうしてゐるときはとても細長い顔に見うけられるのに、ひよいと何うかしたハズミに正面を向いたところを見ると寧ろ扁平なかたちで見違へられます。青いとも黄色ともつかぬヘチマ様の顔色で、時々薄化粧を施してゐることがあるさうです。尚彼は、口の利き振りが悠長のやうに見へるのに他人の云ふことを終りまで聞かず、無闇に左うか/\と点頭くのです。非常に悟りが速いことを示したがる態です。その癖彼は約束を守つたことはないといふはなしです。また彼の歩き振りは飄々たる抜きあしの態で、爪先から先へひよい/\と脚を運びますが、上体はやはり長閑なヘチマのやうにぶらついてゐるのに斜めに頤を伸した伏目をもつて、油断なく前後左右を警戒してゐます。いちいち説明をすれば際限もありませんが、彼は何故ともなくその面前では相手の者を信用させる徳か技に似たものを持つてゐますが抽象的には断じて信用の出来兼ねぬ銀ながしだ左うであります。つまり、それがぐでりんなのでありませうか。
 その他にも仇名でなければ通用せぬ人々のことは算えきれません。親兄弟であらうが、貸借りの帳面づらであらうが凡て仇名を持つて不思議とされてゐないのでありますが、たゞひとり消防小頭の諸星源十氏だけは、これらの弊風を「根底から改革すべし」と意気捲いて居ります。源十氏は屡々これらの野卑極まりもない風習に関して、悲憤慷慨の演説を開きますが、一朝一夕に永年の習慣が改まる筈のものでもなく、稍ともすれば氏の前でその仇名を呼ぶ者に出会つては叱咤の声を枯らしつゞけてゐる始末です。で、諸星氏の本名よりも遥かに通用し易い仇名は、湯アガリといふのであります。諸星氏の顔色は何故か四六時中湯あがりのやうにテラテラと赤いからであります。彼は謹厳実直の郷士で、一滴の酒も嗜むことなく夙に竜巻村小字界隈の風教改革運動に東奔西走して寧日もなき人であります。あたりで中学の課程を終へた者は諸星氏たゞひとりださうでした。
 ところがいつの間にやら、私の上にも仇名がついてゐることを発見して、驚き且つ諸星氏と同様に憤慨しました。私はその仇名をやはり諸星氏と同様に自ら非常に嫌つて、決して認めたり許したりはせず、自ら想ふだに怒りの激情に堪えられんのでありますが、はなしの行き懸り上厭々ながら述べるわけであります。どうぞ、直ぐ忘れて下さい。私の仇名は水車小屋のトンガラシといふのです。いつも/\、唐辛子を舐めさせられたやうな苦気な顔ばかりしてゐるといふところから、誰が云ひ出したともなくそんな名前が流布されたといふのでした。私は、それを聴いた時は思はずカツと逆上して、
「トンガラシとは何だ!」
 と身震ひと一処に怒鳴りました。居酒屋の泥亀の店で、村祭りの宴の場でした。皆な白けて黙つてしまひ、私は席を蹴つて立ち去りましたが、間もなく向方にワーツといふ歓声が挙りました。名前を呼ばれて怒る奴は湯アガリだけだとおもつてゐたら、またひとり野暮なトンガラシが出現しておもしろいぞ――とはやしたてたのださうです。
 当人が高飛車な牽制を加へれば加へるほど、それは須臾の間にそれからそれへ喧伝されて、今ではもう手の施しようなく私は大勢に巻き込まれました。

 ほんの少しばかり音取かくに就いての私の回想をお聴き下さい。私は、十五ほど齢下の弟との二人兄弟で、私たちは共々に幼年のころ音取かくに育てられました。
 ぶくりんを知る者ならば、不図はぢめて出遇つても、これはあの息子の母親だなと気づくほど倅の容貌に好く似た母です。私はおかくを先に知り、ぶくりんとは五六年前からの知り合ひですが、おかくの倅だときかないでも直ぐにそれと悟りました。
 おかくは昔から滅多に口を利くためしがなく、いつもぶくりん! としてゐて年齢の想像が今でもつきません。相当のお婆さんには違ひないのですが、私にはやはり昔のおかくとそんなに違つてゐないと見えます。おかくは、何んな場合にも逆ひといふものを知らぬ驚くべき気永な性質で、蓋し子供の守役には稀大の適任者だつたのでせう。子供がおはなしを求めると、噺は何も知らぬからと弱つて、粉ひき唄といふものを歌ひました。その歌の調子といふたら世にも悠長なメロデイで、まるで欠伸のやうに漫然たるものです。今も昔と変りなく秋の収穫れが済んで冬の仕事にとりかゝらうといふ時ともなれば、あちこちの家々の窓からごろ/\とまはす石臼の響きに伴れて歌の声が聞えますけれど、何んなに私が辛棒強く聴耳を凝らして見ても、あまりにその唄の調子が緩漫に過ぎて、何うしてもその歌詞を聴きわけることが適はぬうちに、ついうとうとゝ眠気を催してしまふのです。何ういふ文句なのかと訊いて見ても、節と一処でなしにそれを口にすることの出来る者はひとりもありませんでした。つまり歌詞を明瞭に知る者は無かつたのです。
 弟の幼時には、私は中学生でしたが、おかくと赤ン坊は冬になつて風のない日であると、裏の蜜柑畑に続く芝原の日向で遊んでゐました。私の机の前の窓から、その光景が額ぶちに収つた画のやうに眺められました。粉ひき唄をきゝながら幼児はもうとうに眠つてゐても、おかくは抱きあげることもしないで切りと歌をつゞけてゐるのです。歌はやはり石臼をまはすと同様に上体を動かせてゐないと調子がつかぬと見えて、おかくは粉ひきの物腰でいつまでも歌つてゐるのです。そして子供が再び眼を醒しても相変らず石臼をひいて歌つてゐるのです。そんなに永い間子供は眠つてゐるのだから、せめてその間は歌を休んだら好さゝうなものなのに、一度子供にせがまれて歌ひはぢめたとなれば、聴手が退屈して他の遊びを申し出るまでは決して自ら止めようとは致しません。それからまた子供が芝生を逼ひ出して畑のふちなどへ差しかゝると、おかくはそれを引き戻さうとはしないで、子供の行手に筵を敷くのであります。子供の腕が伸びて行く方向へ、作物の上であらうが籔側の日蔭であらうが頓着なしに、それからそれへ筵を敷き伸せて逼ふがまゝに逼はうとする子供の行手を決して遮らうとは致しません。逼ひまはる子供の腕や脚は仲々疲労しないものであつて、私は子供が蜜柑の林の下を亀の子のやうにぐるぐると逼ひ廻つて、畑を横切り、母家の方までも逼ひ込んで来るのを見て感心し、どこまで逼つても邪魔ものゝない広場で逼はせたならば何メートル位ひの距離を逼ふものか知らなどゝ代数の問題を解くことも忘れて、見惚れました。おかくは子供が通つてしまつた後の筵を丸めて、更に行手に敷き伸す仕事を繰り返しながら子供の運動に伴れて何か口のうちで呟いて居ります。
 弟の時も私の時も、その養育振りは全く同様だつたといふことで、そしてそれ程齢の違ふ弟と兄を稍ともすると感違ひして、呼び間違えるのです。おゝ、それで私は今不図気づいたのですが、子供が私の窓の下に差しかゝつた時、おかくが、
「トン、トン、トントン――」
 と子供の歩き振りに伴れてうたつてゐるのでした。
「トントントントン、トンガラシ……」
 それだけが何かの文句の後先にはつきりとひゞきましたが、おかくは窓の中の私の顔を見ると、アツ、間違えたか! といふやうに眼ばたきして、
「ラツキヨウ坊主、ネギ坊主……」
 と拍子を変えました。
 して見るとトンガラシの仇名は、何も近頃の私にはぢまつたわけではなく、赤児の時からそんな苦気な顔をしてゐたものか、それとも頭の格構でもが唐辛子を髣髴させるのか、ともかくおかくに与へた私の印象がトンガラシであり、それはおかくの命名に他ならなかつたのです。ぶくりんとかぐでりんとかいふのと同じやうに別段の意味もなく、別にこの男の何処がトンガラシに似てゐるといふわけでもなくとも、何やら左ういふ印象を人に与へるところから即興的におかくの口に登つたのだから適ひません。また弟のことをおかくは、ラツキヨウ坊主、ネギ坊主と呼びましたが、左う云はれて見るとたしかに私の弟の感じは、それに違ひありません。
 その町には、昔ながらの鐘つき堂といふのがあります。一時間毎に、その時刻の数だけを報じて、更に「棄て鐘」と称して、三つだけを余分に打ちます。つまり、十一時には十四、十二時には十五の数を打つのです。これはその後大正の震後に改正されて、今では朝(六時)と午の二回に減らされ、棄て鐘なるものも廃止されたようですけれど、何百年の昔世は北条の戦国時代から打ち鳴らしつゞけられたものといふことです。
 子供はこの鐘楼の下に立つて、鳴り響く鐘の響を算えるのを好みました。おかくは子供を伴れて、その下に立ち、子供といつしよに一つ二つと鐘の音を唱えました。鐘が鳴り止むと子供は、
「もつと/\!」と強要するのです。
 朝、学校へ行く私が、子供を伴れたおかくと共に家を出かけて、午後になつて再び其処に帰りかけると、おかくは未だ鐘つき堂の石垣の下でランチ・バスケツトをさげたまゝ鐘の鳴るのを待つては、まだ算えて居ります。私には、鐘つき堂の下で子供の手を引いたおかくが、ぼんやりと仰向いて鐘の鳴るのを待つてゐる時の姿が一番鮮やかな印象に残つて居るのです。
 弟が中学生になつてから間もなく、おかくは初孫を得て、その養育係りのために怒山へ呼び戻されましたが、その前後から孫の父である片目のぶくりんが不意と行衛不明になつたのださうです。おかくは、ぶくりんを育てる時も、やはり筵を伸してぶくりんやぶくりんや、と調子をとりながら逼ひ廻らせ放題に遊ばせたといひます。
 厩の前には沢山な鶏が放飼ひにされて餌を拾つてゐました。ぶくりんは鶏の群の中へ、ぱく/\と這ひ込みますが、鶏も驚かずに筵の上に登つたり降りたりしてゐました。おかくはそれを見守りながら唄を歌つてゐましたところ、不意と赤児が気たゝましい悲鳴を挙げたので、さすがに仰天して、見ると、子供の左の眼玉を鶏の啄が突いたのでした。子供の眼玉は、ぴよこりと地面の上に落ちましたが、あはやの間に一羽の鶏がそれをくわえると、翼を鳴して孟宗籔へ駈け込んださうです。
 ――だから彼の左眼は義眼であります。それが右の眼との調和を欠いて、度ぎつく光るさまなども、その仇名の、一因かと私は思つたら、おかくの父がもと/\左ういふ仇名で、彼は祖父に好く似てゐるといふところから子供の時に既にぶくりんと称ばれてゐたとのことでした。彼の右の眼は象のやうに細くて、二つの眼を並べると恰度何かをねらつてゐるものゝやうでした。左う云へばおかくの眼は、いつも眠つてゐる見たいに細くて両方のふくらむだ頬に圧しあげられてゐるやうであります。

 おかくの手紙は、私の強意見をもつてぶくりんの行状をたしなめて呉れといふのが本意なのですが、ぐでりんの代筆に依るその文面はいつもほんとうにぐでりん流に一向要領が得られず、私はもうその筆者のヤケに肩さがりにそろつた達者な筆蹟を一目見るや虫唾が走るのです。これらの村々の人達は、未だに封建的といふのか何うか、他の土地から入り込んでゐる者の上には何とはなしに白眼を向け勝ちで、また直接に会話を交へるのを好みません。ひとつは彼等の方言が夥しく扁端なせゐであるためなのかも知れませんが、育て親である筈のおかくにしてからが未だに、例へば私とも自由な会話を交したがらぬのです。おかくは、口では何うしてもその頼みごとを私に告げる術がなくて、ぐでりんに代筆を乞ふのですが、それらの事情の一端にはもともとぐでりんも相当な主要人物として登場してゐるのですから、これは完全なる代筆文とも申されぬのです。ぐでりんは、相手の面前では決して自分の意志を発表することを好まず、他人ひとの名前に隠れて綾をとるのが癖です。だから責任を問はれるやうな場合になると、いゝえあれはたゞ頼まれて為したことで自分のあづからぬはなしだと回避してしまふのです。ぶくりんは五六年の浮浪の旅から戻りましたが、既におかくは家督を孫に譲つて馬耳東風なので不平満々なのです。そして彼は屡々怒山の実家に、家財横領の目的で闖入するのですが、腕力にかけてはおかくの敵ではなくひとたまりもなくおかくに畳まれてしまふのです。彼の妻君は永年の間泥亀の店を手伝ふて居りましたが、鉄砲玉といふ怒山の分限者に見込まれて後妻に輿入りました。おかくは鉄砲玉と縁者になつたことを此上もなく名誉としてゐます。
 ぶくりんは、はぢめ私の水車小屋の雇員なのでしたが、遊びほうけてゐるばかりで滅多に寄り付かうともしないのです。もと/\私はこんな水車小屋にかゝり合ふてゐても埒があきませんので、ぶくりんの行状さへ収まるならば、おかくへの義理合ひのために直ぐにも音取家へこのまゝ進呈して、ぶくりんを働かせ度い念なのでした。
 そのことをおかくにはなすと、
ぶくりんにやつたら台なしぢや……」
 とかぶりを振るのです。
「然しぶくりんだつて、何時までものらくらしてゐる了見でもなからうし――噂に依れば女房同様の女もあることだといふのだし、いつそこつちから斯うと物優しく出たら、案外素直な働き手になるだらうとおもふのだがね……」
 私はそんな風にこんこんと悟すのであつたが、左う云はれて見るとやはり倅に対する愛情も涌かぬでもないらしく、おかくは迷ひはぢめるのだが、何故か私にその煩悶を直接告げようとはしないで、止せば好いのにぐでりんの許へ赴くのです。
 ……「いつそそれでは、おかくの孫のものとするかね。ともかく私は一日も早く此処を立ち退き度いのだからな……」
 私は関はず云ふのです。ぐでりんはおかくの前では孫のものにするが好からうといふし、ぶくりんをつかまへると、ともかくトンガラシが左う云ふんだからひとまづ仮面めんをかむつてお辞儀をしておくんだな、こつちのものにさへなれば後は俺が采配をふるつて一儲けしてやるから――と、売渡先の周旋を誓ふことを云ひ、また湯アガリなどに出会ふと、極力その水車小屋は村の公有物にしよう、その間の運動は自分が引うけた――とばかりに出しや張るのです。私の左ういふ考へが洩れると、村の一部では、それを公有物に寄付せしめて、消防器具の置場に代へようといふ議が起つてゐたのです。私は別に意見もないのですが、どちらかと云へばそれには反対で後は何うならうとも兎も角一端はおかくの眷族へ贈り度いのでした。だからおかくに会ふと、あれこれと世話を焼きたがるのでしたが、私が稍熱心になればなる程おかくはぼツとしてしまつて、あの鐘を聴いてゐるやうな顔つきを保つばかりなのです。
 孫の田市は未だ十三なのだ、それともおかくは田市と二人で水車を廻しながら、ぐでりんの了見の入れ換はるのを待つ気なのか――一向にそこのところのおかくの考へも解らぬのであります。実にもうこんな場合の無智文盲の始末の悪さと来たらおはなしになりません。
「何もいち/\、あんなアテにならぬぐでりんのところへなんて行かないで、ぶくりんを一体何うしようとおもふのか、どんなに憎くても子は子である限り、ゆくゆくはこれ位ひのものはぶくりんへもやりたいとか、それ位ひのことは口で云へさうなものだらうがね!」
 私は次第に焦れつたくなつて、稍突つ離したものゝ云ひ方に走ると、おかくはもうぐでりんの救けでも求めたいらしく、川下のペンキ塗の役場の方へ吸ひとられるやうな視線を投げてゐるのです。手の施しようもなく私も腕を拱ねくばかりでしたが、さつきから私は、いくらその方が有名であるとは云ふものゝ親の前で、その子の名前を平気で仇名で呼んでゐるのが厭に太々しく顧みられたりしました。加けに自分は「仇名廃止論」の賛成者ではなかつたか! と気づくのだが、いろいろな人の顔を思ひ浮べても今では唯一人の本名すら思ひ出せぬ始末でした。
「もうこれから先……えゝ、と?」
 云ひかけて私は思はず眼玉を白黒させるのです。湯アガリ氏の苗字が何うしても思ひ出せないぢやありませんか。「それ、あの、何と云つたかな……チエツ!」
 私は苛々して、囲炉裡のまはりを歩きはぢめるのですが、やはり、
「湯アガりさんやぐでりんを――」
 と云ふより他はありません。「口利きになんて頼んで寄したつて!」
 私は寧ろ自分に焦れて、ほき出しました。
「俺は知らんぞ。――あの人達は左ういふ場合になると、頼まれた当のおかくなら、おかくの意見は他にして……」
 こんな言葉がおかくに通じる筈もないのですが――「自分の了見ばかりを喋舌るといふことになるんだから、俺は何も彼も解らなくなるんだよ。」
 と気色ばみました。すると、おかくは警官にでも叱責されてゐるかのやうにおどおどしてしまつて、貧棒ゆすりをはじめたかとおもふと、やがて次第に不気嫌の度が増して小屋中をあちらこちらと大股で歩き出した私のあとをふら/\と付いてゐます。
「何も彼もわからぬものだらけだ。楽天的になどなれる筈のものではなからう――たゞ俺たちは歩いてゐるばかりだ、命のある限り歩いて/\……」
 私は、轟々と車の回つてゐる水車場の中をぐる/\と歩き回るのでした。
 消防小屋移転の件と、ぶくりんを耕地整理の旗持に抜摘しようといふ案を提げて湯アガリが時々ぐでりんと伴れだつて私を訪ねるのですが、彼はその問題よりも「仇名廃止論」で気焔を挙げるのでした。それならば元々私も意見が一致するので、ちよつとでも膝を乗り出すと彼は、忽ち戦国時代の勇士が決死の誓ひを立てるかの如くに亢奮して、
「よしや村人の一揆と戦つても、先づ君と僕とがこの提携の上に立つて同志を糾合しようぜ――」
 と、胸を叩き相手の肩先をむんずと掴むのです。それがまた夥しい腕力で、私の片腕は鉛筆のやうにしびれてしまふのです。その主意は飽くまでも賛成なのですが、この意気投合の表現法には全く怕れをなして、私はなるべく天気と耕作物の噂の方へ話頭を向けずには居られませんでした。
「こゝにゐる石綿枝之助君も同志として先づ紹介いたしませう。石綿君は僕等の説に徹頭徹尾賛成で、全力を挙げたいといふんだ。」
 湯アガリは大変な切り口上でぐでりんを振り反ると、
「ねえ石綿君、間違ひないでせうな!」
 と念をおしました。するとぐでりんは相変らず斜めにうつ向いて頤を撫でながら、
「それあ、もう……」
 と珍らしくはつきりと点頭きました。
 湯アガリもぐでりんもそんな用事で私を訪れたわけではないのですが、何でも形式的なことを悦ぶ湯アガリは、もうそつちのことばかり無気になつて、ぐでりんと私とを握手させたり、自分は飲みもしないのに盃をあちらこちらへ回したりした後に、凝つと腕を組んで瞑想に耽つたりするのです。
 ぐでりんの云ふことは私はいつも好く聞きとれないのですが、総合して見ると、彼はおかくの依頼で私を訪れるのだとのことであり、また近いうちに自分とおかくとがぶくりんを同行して来るから、今迄の彼の怠慢振りを許した上(許すも許さぬも私はいつにもぶくりんに対して憤つてなどはゐないのだ――)もう一度この小屋で働かせてやつて呉れ――といふやうな意味でもあるらしいのだが、何も彼もその云ひ回し振りが遠回しで、そしてまた難解な方言であり、その上一言云ふかとおもふと「いづれ詳しいことはまた改めて――」とか「追つてぶくりんを伴れて来た時に――」とかとぬらぬらして、こちらの意見なり返答なりを即坐に要求もしない如く、先から先へ、自分の云ふことを自分で後回しにしてゆくのです。
「働きたいんなら何時からでも戻つて来たら好さうなものぢやないか、僕が何とも思つてゐないのに詫びも意見もあつたものぢやなからうが――」
 それでも私がそんなことでも云ふとぐでりんは言葉が通じないらしくに、え? え? え? と幾度でも訊き返します。そしてまた彼が、にた/\とつゞけるところから察して見ると、この水車小屋を音取家へ渡すつもりなら矢張り一応はぶくりんの名に換へた後に、村へ寄贈し度いのである、左うするとぶくりんの信用もついて耕地整理の方へ抜摘する運動も成し易いから――といふつもりらしくもあるのですが、そんなことは何うであらうと私は関ひはしない、多少なりと音取家の為になるならばそれで結構なのですが、いつかなぐでりんの物腰態度から口の利き振りにはやりきれないので、つい横を向いて了ふのでありました。
 すると、また手紙なんです。その手紙たるやまた言語同断の烏耶無耶で幾度も云ふやうでありますが一向要領を得ないのであります。
「私はおかくに育てられた赤ン坊だつたんぢやないか、味方に違ひないよ、何にも他人ひとになんて頼む筋はありはしないだらうがな、云ひたいことや訊ねたいことは何でも遠慮なしにはなしたら好さゝうなものなのにな……」
 私はなさけなさうな顔をしたり、慨嘆の胸を叩いたりして呟くのですが、おかくはいつ迄経つてもぼんやりしてゐるばかりです。
「えゝツ、こんな手紙を見たつて何うなるものかツ!」
 私はぐでりんの文字に吐気を催して思はず吠えたてました。それに、その手紙の宛名からしてが、全くの出鱈目やら当字やらで先づ私の気分を悪くさせるのです。――牧野を槙野と書いたのは未だしもで、何うかすると槙島になつたり巻原と変つたりするのです。――名前と来ると、信之介やら、新太郎とか真平なんていふ風にこれもその都度まちまちなのです。それでも、おかくは信一のシンおんだけは覚えてゐるのかといくらか私が感心しようとすると、次の手紙では槙原英太郎殿と麗々しく認められたり、英兵衛となつたりしてゐるのです。それもまあ、弟の英二郎、祖父の英清などの想違ひなのでせうが、これでは私たる者も顔まけがせずには居られないではありませんか。
「えゝ、と? あのトンガラシのほんとの名前は何といふんだつたかね、おつかあや?」
 ぐでりんは手紙を書き終へると、おかくに斯う訊ねるのです。おかくとぐでりんの会話を聞いて見ようと私は思ひましたので、いつか私はおかくが出て行くと先回りして役場へ赴き、代書所と障子一重の小使部屋で莨を喫してゐたのです。
 おかくの返事は直ぐには聞えません。
「わつしら村の人の名前を書くのが商売なんだが、名前を書いてゐてそれが誰のことなのか一向解りもしないし……何しろ商売となると忙しいのでな。」
 ぐでりんは左う云ふ意味のことを呟いてゐました。非常に忘れツぽい男ときいたが、それは未だ湯アガリの斡旋で仇名廃止論者の同志として、私と握手してから間もない日でしたのに、もうぐでりんは私の名も忘れてしまつたのかと私は密かに驚きましたが、不図私もぐでりんの名前は何と云つたか知らと考へて見ると、やはり思ひ出せぬのです。
 ぐでりんは、眼ばたきをする間にハガキの宛名を書き終へるといふ速筆を人々から尊敬されてゐますが、彼は見物人の前であると一層にその妙技を揮つて、全々それに関はりのない会話を他の者と交はしながら、何本の手紙でも書いて見せます。その代り内容は千変一律で無責任この上もありません。その時だつておかくの顔を見ると、何も聞かぬ先から、
「あゝ、あゝ、例の件か――わかつてゐる、わかつてゐる……」
 と即座に筆をとつて、
「拝啓、酷寒益々その威を逞うし、感冒の猖獗日に増して」
 と必ず卦紙一二枚は時候見舞と「憚りながら拙宅一同も無事消光つかまつり居り候故偏へに御休心下され度候」といふ慇懃な御挨拶です。――「陳者、倅音取柚太こと度々ながら貴殿の御迷惑を病し汗顔至極の至りに御座候も来る××日夕刻同伴の上参上致しその節万々申し上ぐべく候故、何卒御用意の件御備え置き被下様重々御願ひに及び候」
 と、他の来客と他の話をしながら書くのであります。そして後先の文句が極めて物々しいばかりで、同じ文面の手紙ばかりを受取る私は空いた口も塞がらぬのです。その日の夕刻に待つてゐれば、まるつきり梨のつぶてゞ、また幾日か経つと同じやうな手紙が舞ひ込んで来るのです。それには前回の違約を詫びて、私こと持病の喘息――にてとか、終ひに流行性感冒に犯され――などゝ言わけしてありますが、おかくはそんな持病はおろか、生れて以来薬を飲んだ験しもないのです。
「なあに斯うした手紙であの男の脚さへつないで置けば好いのさ。こつちの段どりがつきもしないうちに、例の気紛れで不意とあいつに姿を隠されでもしたら片なしだからな。おつかあは、囮りと見張番の役で……」
 何のことか解らなかつたが、仕事を運びながら切りと、ぐでりんが、そんな意味のことを達者な方言で誰かと語り合つてゐるのが、隣りの私の耳に這入つたものです。
 ぐでりんは研究の余地ある二重人格者ではないでせうか。

 はなしは雲の如くに尽きない。はなしは煙りであつて、あとさきもなく、口を切ると同時に虚無である。
 私は、旅を考へてゐた。
 小屋の裏口から川ふちへ出ると、花麗な月夜であつた。誰に聞せるといふ考へもなく、私は小屋のうちに居ると酷くへりくだつた心地でうとうとゝ呟きはぢめるのだ。呟きがやがて演説となり、訴へとなりかゝるのに気づいて私は驚きに醒めるのだ。幾本もの杵が水車に廻されてごと/″\と鳴つてゐるのがいち/\私のはなしへの享け応への如く手にとるやうであつたのだ。
 あたりの山々は、いつもえんえんと起伏する山でありながら、さて若し私が大男であつて不図疳癪を起して掴みあげようと腕を鳴しても、掴みどころに迷ふであらう特に際立つた峰も見あたらぬ眠むたげな色合でぐるりと村を取り巻いてゐた。流れは白く日の光りを泛べてせゝらぎの音もなくうねうねと流れて行手の景色も見あたらなかつた。もと/\この川は森の向方の本流から、人巧的に呼び込んだ灌漑の水で本流へ逆戻りする前に大方田畑の底に吸はれて水蒸気となる水で、とりとめもなかつた。然しこの流れにも名前を付けるべきといふ議はあつたが、誰も自らそのために頭を曲げようとする苦労人も現はれなかつた。人々は凡てこの水に育つて生き永らへ放浪の夢を知らなかつた。
 私は、腕を組んで川ふちをさ迷ふてゐた。私の胸は短気で一杯だつた。振り向くと、おかくが後ろに立つてゐた。
「帰つてお呉れな。ひとりで歩き度いのだから……」
 私が左う云ふとおかくは、泡のやうな声で、ぶくりんがまた行衛不明になつて寂しく、この上お前に姿を消されたら、
「おらあ、もう往生も出来ん。」
 としやくりあげた。
「何? ぶくりんはまた逃げ出したのか? それぢや何も一層はなしはない。」
 私は、ぶくりんのあとを追ひたかつた。こんな村で、私は水蒸気に化して了ひたくはないのだ。
「わしらにも何もはなしはないのだ。あんな水車場なんて欲しいこと無いんにや。わしら、たゞトンガラシと一処に暮したいんぢや。うつゝ抜かすと首根つこ、ふんづかまへるぞや。」
「無茶を云ふな。こんな村にまご/\してゐたら、こつちもぐでりんになつてしまふづらア。わしや鯰は嫌ひなんぢや。」
 私は身震ひを挙げて飛びのいた。
「寒鯰を喰ふたら、そんな出放題は吹かなくなるべえよ。」
 ――私はおかくの鯰に見込まれ、竦毛を震ふて、大股で歩き出した。川下の鍛冶屋へ行つてゐる水車場の馬を引き出して、今夜のうちにでも町を目指さうと考へた。
「下へ降つたつてビツコ馬は、とつくにぶくりんが乗り出して、ガラ倉は消防小屋で寄り合ひ騒ぎづら。」
 おかくは、もう私の行手を察してゐた。
「不埒だね、ガラ倉が俺の馬をぶくりんに引き出させる権利はないぞ。」
「ニワツトリに突つツかれぬうちへ怒山へ引ツ返せ、水車場が厭ならおらが怒山へ来てニワツトリを絞めろや。」
 絞めろといふのは鶏を喰へといふのだが、もうひとつのニワツトリといふのはぐでりんの兄貴のことで声が鶏に似てゐる田地売買周旋業者である。おかくは何故かぐでりんとは懇意にしたがニワツトリを毛嫌ひした。倅が鶏に目玉を突かれて、放浪性に富んだ旋毛曲りとなつたといふ迷信からかも知れない。
「ひとの馬を勝手に追つ放すなんて言語同断だ。俺アこれからガラ倉をつかまへて道案内をさせてやるぞ。」
 と私は力んで、消防小屋へ爪先を向けた。恰であたりの景色のやうに何方つかずの連中が、私は心底から腹が立つて来た。私は封も切らなかつたが、うつかり片手に握つてゐたぐでりんの手紙に気づいて、
「人を玩具にするにも程があるぞ、面と向ツて訊いてやらう。」
 と怒鳴つた。
 ――消防小屋は人のざわめきで一杯であつた。大鍋をとり囲んで酒盛りだつた。鯰を喰つてゐるのに違ひなかつた。私は、決して喩へではなしに鯰の料理は見ても吐気を催すのだ。私は、ぐでりんを外へ呼びたいと思ひ、水へ飛び込むときのやうに大きな息を吸ひ込んで悪臭を防ぎながら入口の扉をあけた。見ると連中は大鍋を突きながら、消防小屋の移転問題に甲論乙駁の真最中だつた。
 ぐでりんは相変らずの下向き加減で、にやにやとあちらこちらへ向つて酒の酌に忙しかつた。私は彼に声を掛けようとした時に、不図正面の湯アガリと顔を見合せ、ハツとして思はず口を塞ぐと乗り出した上体を後ろに退いた。奴との仇名廃止論に深く同意したにも関はらず、ぐでりんの苗字が口に出ないからである。
 私は、小屋の軒先に掛つてゐる消防係りの名札を月あかりに透して、中の連中を順々に見比べるのであつたが、小頭の湯アガリを諸星源十と突き留めた他、ニワツトリガラ倉泥亀河童の金さん鉄砲玉屋根音ぐでりん等々と難なく十七八人も数えられるのに、筒先係の新倉善太が誰なのか、機械係りの又岡又平、乙波孫十郎が誰なのか、何うしても見当がつかなかつた。するとニワツトリが私の姿を見つけて、
「恰度好いところに水車のトンガラシさんが来たよ。相談があるんだよ、まあ此方へ……」
 と招いた。
「何だと、トンガラシが来たつて! 野郎を逃さないやうに引つ張り込め――ぐでりんや!」
 左う唸つた主は、湯アガリだつた。私は、彼こそは一滴の酒も口にせぬ謹厳な郷士と認めてゐたのに、思ひきや、大あぐらの茶碗酒で湯アガリどころか茹蛸もどきの大入道で最早呂律も廻らぬ態たらくであつた。
 私は、よろ/\と後退りして田のふちへ立つてゐた。――小屋の軒先からは、鍋の湯気が酒盛りの騒ぎと一処に濛々と空へ向つて、蒸気をあげてゐた。
 寒鯰の寄合ひには屹度喧嘩がはぢまるものだから、近寄らぬ方が好からう、鯰は喰はせたいが――おかくは左う云ふことを呟きながら私の爪先を眺めてゐた。冬のうちには屡々その如き名前の夜宴が開催される由は私は知らなかつた。水車小屋の移転論などは、単なる酒のさかなで左したる眼目ではないのか――と私は気づいた。して見ると湯アガリの仇名廃止論もそれと五十歩百歩でその場限りのものだつたのだらう。だが、あの説を持出す時の彼の熱意の籠つた姿は疑ふ余地もなく真剣だつたが? と考へると、私は煙に巻れて止惑ふ度も知らなかつた。
 向方から戻つて来る馬があるので、見るとぶくりんが鞍の上で眼を光らせてゐた。川狩りの最中に泥が跳ねたのを拭はうとした時、謀らずも硝子目玉を突き壊したので、大急ぎで懸換へを買ふために町へ赴いたのだと云ふ。私は、また呆気にとられた。おかくの言葉つきは泡を吹くやうで通じ憎かつたから、大概私は終りまで聞かずに察するのだが、確かに「逃げ出した」とは聞いたが考へて見ると彼等は一帯に「赴く」ことを「逃げる」といふのであつた。然し好く好く耳を傾けても、どうせ彼等の言葉は完全には通じなかつたが、この分では今迄にも何んな感違ひをしてゐたかも計り知れないのだ。
 ぶくりんはおかくと二三言会話を投げ合ふと、火の見櫓に馬を縛いで小屋の中へ消えた。
 私は古沼を覗く時のやうな――云ふならば弱少の身のうつゝが疑はれ、水底に映る空の雲の眼近く遠い不思議の奈落にのめり込む戦きに襲はれた。仰げば、月夜の空が隈もなく掴みどころもない四囲の山々へ天頂の暈から円かな翼を拡げて山の彼方へ光りを滑らせた如く、此処は洞ろな擂鉢の底だつた。
「何うしておかくは、俺の行先がそんなに気になるんだ、ぢや俺はもうどこにも行かないよ……」
「…………」
 おかくは両腕を拡げて欠呻を発した。その影が私の爪先へ莚に似てゐた。「馬へ乗つて何処へ逃げ出すかのう――」
 逃げ出す――をまた私は感違ひして、逃げるのぢやない、ぶくりんが俺の馬に秣草も与へず縛ぎ放しにしておくから、飼馬桶を捜すのだ! と叫んだ。そして更に大声で、
「馬は生きてゐるんだぞう――ぶくりん!」
 と憤つた。扉を蹴破つてやれ、そして出て来た奴から誰彼の差別もなく、一騎打ちだ! と私はわけもない業腹を破つて、おかくの陰から飛び出した。 
「気違ひだぞう……」
 おかくが、そんなに叫んだ。(ずつと後になつて知つたのだが、左ういふ病気の疑ひで私はその村に閉ぢ込められ、またおかくはその看護人として雇はれてゐたのであつた――冗談ぢやない。)
 扉に突き当ると、何かバネのやうに強いものに私は弾かれた。――ビツコ馬に飛び乗ると、おかくが、その轡をとつて動かさうともしなかつた。
 私は、月を仰ぎながら火の見櫓の梯子を登つてゐた。私は寂しく、嘆かはしく、悒鬱極まりもない擂鉢の底から逃れ出すには、それより他に方便もない一心で、どんどんと梯子を登るとやがて鐘の傍らまで達してゐた。
 下を見ると、おかくが口を開けて仰向き、そのまはりには幾つもの黒い影が蠢いて、切りと物やさし気な手振りで、さしまねいてゐた。――私は、突拍子もない真似をしてしまつたと気づいたが、あまり突拍子もなくて、今更ぬけ/\と降りて行くのも気恥しく、この寒さには弱つたぞ! と呟きながら、鐘の傍らに丸くなると、丁度ぐでりんのやうに顔を斜めに下向けて下界の模様をじろ/\と窺つた。
 あけ放された小屋の扉から立ち昇る煙りは、可成り濛々と勢ひ強かつたが、半鐘の下までもとゞかず月の光りに溶けそしてまた仰向いてゐる人達の口から立昇る呼吸が寒気の中で線香の煙りのやうに鮮やかであつた。

底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
   2002(平成14)年7月20日初版第1刷
底本の親本:「鬼涙村」芝書店
   1936(昭和11)年2月25日発行
初出:「文藝春秋 第十二巻第四号」文藝春秋社
   1934(昭和9)年4月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月15日作成
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