わたしはこの四五年来、少くとも一年のうちに二回以上は、全く天涯の孤独者であるかのやうな、そして深い寧ろ憂ひに閉ぢこめられたやうな姿で独り、登山袋に杖を突いて、遠方の景色にばかり見惚れてゐるかのやうな眼を挙げながら、すたすたとその山峡の村へ赴くのが慣ひである。
 行先の村は、名称を誌したところで無駄に過ぎない程度の寒村で、いつもわたしは家族の者に向つても、出掛けの椽先で、遥かの山脈の一角に雲を含んで達磨型にそびえてゐる禿山の方角を、頤でさし、
「――あそこだよ。」
 と云ふだけであつた。
 何時の場合でも、わたしが如何にも偶然さうに、その出発を決行する間際までは、わたしは、恰度永年の飲酒家や喫煙家が慾望を断念してゐる間のやうに、薄ぼんやりとして、止め度もなく朦朧たる憂鬱を吾ながら弥々持てあました挙句に決つてゐたから、かへつて周囲の者達は厄介な荷を払つたほどのおもひであつた。
「まあ、せいぜい、ゆつくりと落着いて来るが好いよ。用があつたら、手紙で沢山だからね――」
 と母は云つた。
「一日でも長い方が好いよ――誰も心配なんてしやしませんよ。」
 と妻も元気であつた。このまゝわたしが永遠に戻らなかつたら、実に爽々しいといふ風な調子であつた。
 わたしは、小田原の町を、冬ならば山提灯を携えて煙りのやうな息を吐きながら、また夏ならば漸く海からの微風が白みかゝつた雨をかすめて、未だ射手座の星が光つてゐる時刻に、口笛を吹きながら出発した。大略わたしの心懐は無人島を夢見る想ひと同様と称ふべきであつた。わたしは、ケーベル博士の随筆集の中で、若しも自分が海上遥かの孤島へ流される場合には、何んな書物を携帯するであらうか? と自問した中に、ベートーベンの楽譜をあげてゐるのに興趣を覚えた故為か、わたしはメンデルスゾーンやモツアルトのレコードを四五枚画板の中へ入れて肩にかけた。
 車が尽きると馬に乗つた。夏ならば村里の家々にランプが点り、そのまはりに集つた蛾や甲虫類の数々を、わたしは思はず軒下から覗き込んで、あちこちで迂散な奴と怪まれたりしながら、冬ならば馬の背で琴座の星をかぞえながら――だから長くとも短かくとも日はもうとつぷりと暮れた刻限に、森蔭の水車小屋に到着した。
 これは、流れのふちの猫柳の芽がふくらみ、苔蒸した水車小屋の草葺屋根が水の上を絨※(「糸+亶」、第4水準2-84-57)のやうに染めてゐる春さきのころを選んでおかう。――扉の隙間から洩れる二三条の光りが、終日の労働を終へて翼をやすめた水車を透して水の上に螺旋状を投げ、馬が四ツ脚を注意深く丸木橋を渡ると、螺旋の縞が光り雨のやうにふるえた。わたしが鞍から降りて手綱を放すと、馬はひとりでとぼ/\と裏側の厩へまはり、鵞鳥の箱につまづいたりした。
 “A gallant knight,
  In sunshine and in shadow,
  Had journeyed long,
  Singing a song,
  In Search of Eldorado.”

 大概もうその時刻は三人の米搗連は囲炉裡のまはりで、密造モロコシ酒の大気焔の最中で、加けに年柄年中水車の尾鳴り震動の中で暮してゐるために皮張りのやうな鼓膜になつてゐたから、わたしの生来気障つぽい――コンバンワ、コンバンワ――などゝいふ猫なで声などは一向耳に這入ぬのであつた。そればかりでなく彼等は、世にも怪し気なる犯罪めいた大酒を酌み交してゐるので、夜分の訪問者のためには容易に扉の閂を引かぬのであつた。
「わけのわからぬ歌をうたつて、扉を叩く者があつたら吾輩だと悟つて、慌てずに扉を開けて呉れ。」
 わたしはかねてから、合言葉を用意してゐるのであつた。
 “Over the mountains
  Of the moon,
  Down the valley of the shadow
  Ride, boldly ride.”

 わたしは盗賊の窟をたゝくアリババのやうに唄ひながら、切りと扉を叩くのであつたが、大抵の場合は終ひにわたしが疳癪を起して、
「俺だあよ、俺だあよ。」
 と、モモンガーのやうに扉に吸ひついて地団太を踏まぬうちは、合言葉の効も奏さなかつたから、気どつた歌などは無駄に過ぎなかつたといふものゝ、一応歌つた後に、心底から焦れつたくなつて喚き出す声でないと生憎く番人共の耳には達しなかつた。
 わたしの書斎は、大鯨の肋骨のやうな棟木が露はな屋根裏の二階であつた。そして、比喩とは云ひ条、屡々わたしに真実そんな夢を見させた如く、そこは薄暗いガラン洞で、鯨の腹の中に潜つて“Mare Tenebrum”の海上をさ迷ひ、梯子を登つて天井のあかり窓から折々息を衝く時は“Oh Universe !”と唸つて、汐を吹く慨であつた。鯨は昼となく夜となく万里の海を泳ぎまはつた。見あげる空には星の変幻出没が限りなかつた。
 寝台も椅子も卓子も自然木を組合せた態の石造りに似て、使用者の凡ゆる感情をも甘えさせはしなかつた。壁には十八年式のライフル銃が懸つてゐた。納屋に出没する鼬の威嚇用であつた。それ故、疳癪玉以外の実弾は決して見当らなかつたから、折々わたしが自殺者の心理を分析して、俳優沁みたアクシヨンを演じたが、誰も驚きはしなかつた。寧ろ番人達は交代で夜々重い銃を擬して発砲をする手間が省けて、その点だけはわたしの滞在を便宜とした。盗棒酒の張番をしてやるのは馬鹿々々しいと、わたしだつて意地悪るでもあつたが、稍ともするとわたしは銃を構へて火蓋を切らぬと、眠れぬのであつた。わたしは次第にこれを睡眠薬の代用に使用する如く、さあ、床に這入らうといふ間際になるともはやこの世に未練もないといふやうなおもひ入れなどを演じて、アツ! と引金をひいて、虚空をつかみながらベツドに倒れぬと、迷信的に眠れず、一夜のうちに幾通りもの自殺演技を試みた。わたしは、これが若し一人でもの見物の前で演じられたならば、相当の俳優だ――などゝ信じた。
 鼬や鼠の聯隊は丘を越えて、隣り村の養魚場へ移住した。
 また一方の壁には(わたしが選んだものではなかつた)ロビンソン・クルウソウがフライデーを相手に丸木舟を建造してゐるところの石版画が二十号大の緑青色の額ぶちに収まつてぶらさがつてゐた。その下の卓子の上には自由女神の像を模した青銅の燭台が、腕を伸してゐた。適当な太さの蝋燭が見当らぬので、わたしは炊事道具コツヘルの包みから取り出したアルコール・ランプを載せると、恰度自由の篝火の模型の態を呈して、ロビンソンの横顔を赤々と照し出した。わたしは、それをライタアにして莨の火を点けると、空腹も忘れて漂流者の夢を追つた。また、赤煉瓦造りの火床マントルピースには、緑地のビロードに金糸のオベリスクを縫ひとつた覆ひをつけたオルゴール・ボツクスが載つて居り、音譜箱には五六種の唱歌の巻譜が残つてゐた。(註・自働ピアノ用の巻譜に似た玩具である。)それは「僕の故郷のケンタツキーの家」「悲しアイ、悲し、悲し」「青い鳥」「カドリール」「星条旗の下に」等であつた。覆ひのビロードには金の糸よりも、雨洩りの痕の唐草模様の方が鮮やかであり、ゼンマイの工合も余程鈍つて、「アイ・アイ・アイ」などをかけると、オルゴールが自分の老朽を嘆いてゐるやうでおもしろくなかつた。そして、行進曲をかけるには全く不適当であつた。わたしはそんな時にも思はず自殺の発作に駆られて、発砲を演じないと気分が転じなかつた。その癖わたしは、おそらくこの部屋中の何物よりも、それを愛してゐる自分が解らなかつた。番人の女房が、子供の玩具にと執拗に所望したが、わたしは聞くだに身震ひをして、
「じよ、じよ、冗談ぢやない。と、と、と、飛んでもない。」
 と眼を丸くした。夙に、わたしは吝嗇漢シワンボウと目されて評判が悪かつた。
「好い齢をして、あんなもの、ひとりで聞いて何がおもしろいのだらう。駄菓子屋の蓄音機だつて、もつと新式だ。」
 何とか音頭を演るのだから、わたしの蓄音機を貸せと云つて来た時も、わたしは戸袋の錠を開かなかつた。そこにしまつてあるわたしの蓄音機は、朝顔型のラツパのついたものと、円筒型の蝋管レコードを用ふるものと二台もあつた。蝋管レコードの中には、ボストン大学のウヰルソンなる言語学の教授が、E・A・ポー作「エルドラドオ」を朗読したのがあつた。扉の前のわたしの合言葉は、ウヰルソン先生の模倣であつた。わたしには自発的にはあんな工夫の頭はなかつた。
 わたしは、読むことも書くことも、また自分を愛することも憎むことも忘れて――たゞ自殺の真似ごとばかりを繰り返しながら、夜を更し、昼を眠つて、囈言を喋舌るために――とまれ、わたしにとつてこの小屋は必要であつたのだ。わたしは、凡ゆる人間に対する強さを養はなければならなかつた。決して、風景や孤独や星に憧れて、逃避するといふわけではなかつた。――それにしてもわたしの持参した書物は一冊の「ユリイカ」であるのみだつた。御存じの如く、それは一句たりとも人間の上は論ぜられてゐなかつた。飽くまでも、それは「物質的並びに精神的宇宙に関する論文」――即ち一片の果敢き詩であるのみであつた。
 何故にわたしが、その矛盾を――といふいきさつは省かう。

 わたしは或る日、東京の友達(オガワ・カヅオ)へ電報を打つた。
「ホンヤクノコトデ タノミアルスグ キテクレ」
 彼は、わたしの部屋の壁、ライフル銃もロビンソンもオルゴールも、ペナントも、昆虫標本の額も、みんなどこかへ棄てられて、それらのものゝかゝつてゐた痕だけ白い壁に、途徹もない論文の抜き書ばかりが落書されてゐるのを発見した。
“In the meantime bear in mind that all is Life―Life―Life within Life―the less within greater, and all within the SPIRIT DIVINS”

「あゝ、俺は、何にも言葉が解らなくなつてしまつた。翻訳を手つだつて呉れ――こいつは屹度百万部も売れると思ふんだがね。」
 とわたしは兼てからこれと睨んで、暗に御機嫌をとつてゐた若い傑れた学徒をそゝのかせて、真面目な算盤を弾いた。何にも、言葉が解らなくなつてしまつた――などゝ云つて上眼をつかひながら唇を歪めると、何か意味深く、魂胆もあり気に見えたが、どうやらわたしの力では、その英語の大半はトルコ語であるかのやうな始末であるだけだつた。
 白状しよう――。
 意味があつて、屡々、はるばると小屋を訪れたのでもない。読みもせず書きもせず――と述べたのも他意はなかつた――読みたくても、悲し、悲し、悲し、わたしはそれらの英語とトルコ語の差別も怪しい学力で、書きたくても書けず――云へば、こんなところにかくれて大いに翻訳の腕をふるつて、威張つても見たい魂胆であつたのに――嗚呼戯あゝ、わたしは一行の文句さへが三晩かゝつても、怪しく――わたしは自殺を夢見ずには居られなかつたのである。不思議なことには、それらの意味が斯程までわたしに通じ難かつたにも係はらず、その上に曝したわたしの眼には所詮は逃避成し難い発光体が何年来となく渦を巻いて魂をゆるがせるのであつた。片言まぢりの言葉の箭が極光を放つてわたしの憐れな魂を粉砕するのであつた。
 実を申せばわたしは決して、厭世思想家ではなかつたのだ。先づ何よりもの、その証拠としては、一度び彼が現れて、水車が回る如く訳文の紙片が厚くなるに従つて、わたしの相好は牡丹の花のやうに崩れて、稍ともすれば馬小屋の天井裏からモロコシ酒を盗み出して、印税のカサばかりを、万円、万円と算えて、うつゝを抜した。
 そして、こつそりと村境ひのターバンなどへ登楼して、左り団扇をつかひながら、わたしはメートルをあげた。夜更けに千鳥あしで小屋へ戻ると、わたしは近頃“Haunted Palace”を合言葉に唱つたが、そんな時間までもわたしの堅い椅子に腰かけて、こつこつと仕事に没頭してゐるオガワは、わたしの歌が一向に詩人の趣きをつたへて荘重ではなく Haunted――どころか、河童でゞもあるかのやうに素頓狂に響いて、耳障りになると滾した。せめてウヰルソン教授の発音法を応用したならば、そんな失策もなかつたらうに、浮れたわたしの巻舌は、メリケン親爺の口真似になつて、聞くだに野卑で、滑稽なる亡霊の声に過ぎなかつた。囲炉裡端の連中は、どうやらわたしの歌が、先の合言葉とは、音声も抑揚も別人のやうに不思議な力がこもつてゐるのを悟り、監察官でもが姿を変へて現れたのではないかと戦き、わたしが隙間から覗いてゐるとも知らず、これも亦、全くの荘重味に欠けた化物のやうに眼玉を白黒させ、互ひの袂をひきながら、何事か囁いでゐるばかりで容易に扉を開けようとはしなかつた。そして、類ひ稀なるモロコシ酒の利き目は、盞を傾ければ忽ち羽化登仙、二盞を呑み尽せば王侯貴族の宮殿にアルジとなつて、錦の寝椅子に恍惚としてゐるものを、あの声を耳にするがいなや、真さかさまに元の馬小屋に戻つてしまふと、憤つて、やがてはわたしの帰来と知つても故意に扉を開けようともしなかつた。
 “And travellers, now within that valley
  Through the red―litten windows see
  Vast forms, that move fantastically――

 わたしは、いつまでも、ものゝ怪の、カケスのやうに鳴きつゞけてゐた。

 わたしは当時邦訳「物質的並びに精神的宇宙に関する論文」の苦業を――苦業、何といふ長い間の苦業であつたことよ、悲風惨雨とは正しくわたしのこれに適当な言葉と云はずには居られない――幾星霜の苦業を終へて、一切の苦業裡に於ける生命――「一切の生命裡に於ける生命、生命、生命」をもつて「宇宙の通観サベイ」の途上に、稍々機嫌麗はしく、オルゴールのゼンマイを巻いてゐると附記して置かう。

底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
   2003(平成15)年5月10日初版第1刷
底本の親本:「早稲田文學 第三巻第一号」早稲田文學社
   1936(昭和11)年1月1日発行
初出:「早稲田文學 第三巻第一号」早稲田文學社
   1936(昭和11)年1月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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