或る理学士のノートから――

     一

 この望遠鏡製作所に勤めて、もう半年あまり経ち、飽性あきしやうである僕の性質を知つてゐる友人連は、あいつにしては珍らしい、あの朝寝坊がきちん/\と朝は七時に起き、夕方までの勤めを怠りなくはたして益々愉快さうである、おまけに勤めを口実にして俺達飲仲間からはすつかり遠ざかつて、まるで孤独の生活を繰返してゐるが、好くもあんなに辛抱が出来たものだ――などゝ不思議がり、若しかすると、あいつ秘かに恋人でも出来て結婚の準備でもしてゐるのかも知れない――そんな噂もあるさうだが――そんなことは何うでも構はない。
 兎も角僕は、この勤めは至極愉快だ。
 僕は、Girl shy といふ綽名を持つてゐるが、近頃思ひ返して見ると僕のそれは益々奇道に反れて――これは何うも、変質者と称んだ方が適当かも知れない。恥しい話だ。
 こんな秘かな享楽は、他言はしないことにしよう。

     二

 製作所の屋上に展望室と称する一部屋があつて、これが僕の仕事場である。僕は此処で終日既成品の試験をするために、次々の眼鏡を取りあげて四囲の景色を眺めてゐるわけである。楽器製作所の試音係と同様の立場である。四畳半程の広さをもつた展望室には、僕を長として一人の少年給仕が控へてゐるだけである。
 朝九時――僕は窓を展き、仕事椅子に凭つて、A子の部屋を観る。電車通りを越した向ひ側の高台にあるさゝやかな洋館の二階であるが、一間先きに眼近く観ることが出来るのだ。勿論向うでは、此処に斯んな図々しい展望者が居て、厭な眼を輝かせてゐるなどゝいふことは夢にも知らない。
 A子は、朝、一度起き出でゝ、窓を開け放してから更に眠り直すのが習慣である。潔癖性に富んだ娘である。窓と並行にベツドが置かれてあるので、A子の寝顔が、若し此方を向いてゐれば、息づかひも解るほどはつきり見える。その上窓の横幅と寝台ベツドの長さが殆ど同じであるから、その寝相までが手にとる如く見えるのである。――此方に、こんな建物が一つあるが到底肉眼では窓と窓の顔は判別も出来ぬ距離であるし、他にはA子の窓をさへぎるものは、それこそ鳥の影より他にはない渺々たる天空に向つてゐるわけであつたから、睡眠者は気兼なく窓を開け展げて爽かな眠りをとることが出来るわけである。
 A子は、規則正しく九時に起床する。僕の執務時間は九時からである。――が、僕は大概八時か八時半に出勤して、直ちに仕事にとりかかるのが慣ひになつた。
 稀に見る勤勉家だ、何といふ好もしい学者肌の青年だらう――と此処の所長は僕のことを噂してゐるさうだ。
 思へば汗顔の至りだ。

     三

 彼女の父親の名前は僕も兼々聞き知つてゐた神経病科の有名な医学博士である。
 僕は、好奇心的野心を抱いて、患者となり済まし(が、診察を受けて見ると、やつぱり僕は神経衰弱症患者ではあつたが――。)ビルヂング街にある博士の診療所へ、此方の仕事の合間を見計らつては通つてゐる。僕は、勤めを始めてからは終日の規律正しい労役! のお蔭で爽快な健康体に戻つてゐると自分では思つてゐたが、博士に向つては、不眠症だ! と憂鬱な顔をして呟いたりした。
 或日僕が診療所の控室で順番の来るのを待合せてゐた時、隣りの応接部屋で、友達らしい老紳士と博士が雑談に耽つてゐる様子であつたが二人の会話のうちから次のやうな絶れ絶れの言葉を聞きとつたこともあつた。
 紳士「……すると、お娘御は間もなく婿君をお選びになるといふわけ……」
 博士「……本来ならば、さうでもしなければならんですが、何しろあの通りの我儘者ですし、それに私は、さういふことは一切当人の自由を認めるといふ方針で……」
 紳士「……なるほど……恋愛結婚に就いて……」
 博士「普通の親らしい意見は僕には……ハツハツハ……だが、この頃の娘のアメリカ張りには大分此方もたじ/\のかたちで……。……好きな人が出来たら直ぐにお父さんの処に伴れて来るから、その時……むづかしい顔なんてしないで呉れ! なんていふほどの勢ひで……どうも、却々なかなかそれに就いては僕も戦々兢々の……」
 紳士「……特に親しい青年でも……」
 博士「交際は大分広いらしいですが、却々なか/\自尊心が強いと見えて……」
 紳士「自分で自分の美しさを知つてゐるとなると、その点は安心……ハツハツハ……、近頃何処へ行つても、娘の話となると屹度お宅の噂が人気をさらつてしまふ……なにしろ評判の器良好しで……」
 僕は、そんな会話に耳を傾けてゐるうちに、何とも名状し難い不安な心地に襲はれて来て、もう一刻も其処に凝つとしてゐられなくなり、物をも云はずに慌てゝ務先へ引き返したことがある。
 真夏の蒸暑い真昼時であつた。この朝は幾分遅れて出勤したのであつたが、例に依つてA子の部屋を視守つてゐたが(寝台ベツドの様子で見ると、一刻前に起き出て、取り散らかつたまゝの様子だつたから、直ぐに現はれるであらう――何時も彼女は自分で寝具を取り片づけるのが常である故。)何時迄経つても現はれないのである。鳥が飛び出した後の籠の中のやうに、取り乱れたまゝの部屋であつた。主の居ない部屋を見守つてゐるのも別種の犯罪的好奇心などが伴つて――おゝ、枕元に書物が一冊翻つてゐるな、何の本だらう? とか、側卓子の上に珈琲茶碗が! おや、二つある! 兼書斎ではあるが、娘の寝室など訪れた者があるのかな? 若し前夜のことゝすれば、後片づけの間もない程の夜更けか! ……そんなやうな痴想に暫く耽つてゐたが、何時まで経つても娘の姿は現はれようとしないので、僕は苛々として彼方へ出向いたのであつた。
 ――が、再び引き返して、眼鏡を執りあげて見ると、丁度其処に外出先から娘が戻つて来たところであつた。A子と一緒に入つて来たのは、彼女が常々余程愛してゐると見えて二人が此処に現はれると何時までゝも抱き合つたり、頬をすり寄せて睦言に耽つたりするのが慣ひのA子の妹のやうな女学生のR子(と勝手に僕が称び慣れてゐる)であつた。
 女学生だつたので僕は安心した。あの学生ならば、A子が眠つてゐるところにでも何時でも平気で入つて来るのだ。
 二人はラケツトを携へてゐた。おそらく学生が朝夙くA子をテニスに誘ひに来て、二人は此処で珈琲を喫んでから出掛けたに相違ない。
「馬鹿な!」
 と僕は思はず呟いで自嘲の舌を打ち鳴らしてしまつた。「珈琲茶碗に飛んだ疑ひなんて掛けて、馬鹿を見てしまつた。俺は余ツ程何うかしてゐるぜ。」
 二人の者は、大急ぎで運動シヤツを脱ぎ棄てゝ、寝台ベツドに倒れたまゝ稍暫らく風に吹かれながら空を見あげて歌などうたつてゐる様子であつたが、間もなく起きあがるとタオルを羽織つてバスへ出て行つた。

     四

(理学士が観た半年もの間のA子の生活に就いての描写を悉く移植することは不可能事である故、此処には主にこの一日の話だけに止めて置くつもりである。理学士が此処に奉職したのは冬の終り頃であつた。春、夏、秋――と今や季節はすゝんでゐる。彼の手帳を通読すると、一人の娘が約半年の間に、たゞ一部屋のうちに於ける営みでさへも、日々に成長があり変転がありして行くことが自づと知れて、新しい発見を覚ゆるが、それは長大篇であるばかりでなしに、発表は許されぬであらう個所が多くの部分を占めてゐるからである。その上男兄弟のみで成長し、未だ何んな恋愛沙汰もなかつた彼は、路上で出遇ふ以外の――それも彼はおそらく迂滑で、恬淡であつた――若き女性の生活などゝいふものは想像の外であつたから、彼にとつては彼女等は冬はあの外套の下にあんな衣裳をつけてゐるのか、下着といふものはあんな風に着るものか、靴下はあんな風に難かしく吊りあげてゐるものか、夏になるとあんな簡単な下ごしらへで、その上にあんなうすものをつけたゞけで外出してゐるのか、彼女等は独りになると何といふ不思議な不行儀に成り変ることか……などゝいふことが、全篇を通じて驚嘆の調子をもつて、あまりに臆することなく、あまりに微細に、あまりに研究的に記述されてゐた。――何の事件もない、最も平凡な一個人の、その上たゞ一室内に於ける生活を観るだけでも、傍観者の態度に依つては、そこに不思議な熱と、新しさとをもつた芸術味が感ぜられる――などと、わたしは彼のノートを翻しながら思つた。それは、同じモデルを様々なポーズで描いてゐる熱心な画学生のデツサンを見るかのやうであつた。)

 タオルを胸に捲きつけてバスからあがつて来た二人は、そのまゝ椅子に腰を降ろして、アイスクリームを喰べはじめた。二人は並んで前の鏡台に顔を写してゐた。
 で、僕は鏡の面に眼を向けると、にこ/\と笑ひながら水菓子のスプンを口もとに運んでゐるいとも健やかな二人の顔が、鏡の中にはつきりと写つてゐるのを見た。額ぶちに入つた上半身の動く大写しであつた。
 二人は、ふざけて、わざと大きな口をあけて舌の上にスプンを乗せて互の顔を見合せたりした。そして、仰山に、まんまるく眼を視張つて、突然笑ひ出すと、何が可笑しいのか、切なさうに胸をおさへて何時までも突伏して身悶えをした。さうかと思ふとA子は急に、多分虫歯に冷たいものが滲みでもしたかのやうに、露はな肩をすぼめながら夢見るやうな眼つきを保つたりした。すると、更にR子が、A子のその顔つきについて何か囁くと、A子は笑ひ転げて椅子から飛びのき、卒倒でもしたかのやうに烈しく寝台に倒れて、頭からタオルをすつぽりとかむつて、その中に四肢をかぢかめて丸くなつたりした。するとR子が駆け寄つて、タオルを奪ひとつて、打つ真似をしたり、腕を引つ張り合つたりした。
 漸く茶卓が終るとA子は、シヤツを着換へて、別の側にある姿見の前に立つて、何か誇り気な様子で自分の姿を眺めた。そして、R子に向つて、何か説明しながら体操に似た運動のポーズを次々に示した。
 R子は端の方に寄つて、A子の運動をぼんやり眺めてゐた。そして、合間々々に何かいち/\点頭いてゐた。
 僕は、運動競技に関しては、この若さであるにも拘はらず全く無智なる徒輩であつたから、いつもA子はR子に向つて、何かの運動競技の構へや要領に就いてのコーチをしてゐるらしいのだが、僕には、それが何種の運動かさつぱり訳が解らなかつた。
 ……僕は、いつも彼女の口許の動きを見て、会話を想像するのが癖になつてゐた。動作と営みと表情などを仔細に注視してゐれば、言葉などゝいふものは大概誤りなく想像出来るであらう――と僕は思つてゐる。
 A子は頻りに半身を折り曲げたり、飛び跳ねる恰好をしたり、重たいものを投げるかのやうな姿をとつて、R子に示してゐた。それが姿見にも映つてゐるので、此方から眺めると全く二人の運動者が、そこに動いてゐる通りに見えた。
 ドアを誰かゞノツクしたと見える――二人は、一斉に其方を向いて、
「入つてはいけません。」
 と断つたに違ひない。丁度、その時二人は、外出着に着換へようとしてゐるところで、これからコルセツトをしめて靴下を穿かうとしてゐたところであつた。
 二人が支度が出来あがつて、外出しようとした時分此方も丁度退出時間だつた。僕は宿直日であつたが、夕飯を食べに出かけなければならなかつた。

     五

 二人が僕の前を歩いてゐた。僕は素知らぬ風を装ひ(自分が、自分だけに――)二人の後を追うて省線電車に乗つた。僕はA子の隣りに澄して(これも、自分だけの――)腰を掛けてゐた。
 二人は絶えずお喋舌りをしてゐたが、一向僕の耳には入らなかつた。――僕は、真に眼近にA子を見ると、却つて、何だか、嘘のやうな気などがして、たゞ索漠たる夢心地に居るばかりであつた。僕には、あのA子の部屋のみが、輝ける空中楼閣であつて、「地上」で見出すA子の姿などには、何んな魅力も感じてゐない自分を知つた。――僕は、二月も前から電車の中でだけ読むために携へてゐるが未だ十頁も読んでゐない(何故なら僕はA子の部屋を眺めてゐない他の時間でも、不断にあの部屋の幻ばかりを夢見てゐて何事も手につかぬのであつた。)「花の研究」といふ小冊子をとり出して、何時になく落ついた心地で、冒頭の一節を読んでゐた。
「試みに路傍の草の一葉をとりあげて見るならば、吾等はそこに独立不撓の計らざる小さな叡智が働いてゐることを知るであらう。例へば此処に吾等が散歩に出づる時は何処でゝも常に見出す二つのしがない葡萄草がある。これは一握りの土のこぼれた不毛の片隅にでも容易に見出される野生のルーサン即ちウマゴヤシの二変種である。最も通俗の意味で二種の「雑草」である。Aは紅色の花をつけ、Bは豌豆大の小さな黄色の球をつけてゐる。彼女等が尊大振つた野草の間に匐ひ隠れてゐるのを見る際、誰が、かのシラキウスの著名なる科学者よりも遥か昔に、彼女等が自らアルキメデスのスクリウを発見して、之を飛行の術に応用してゐるのに気づいたであらうか。」などゝ読んでゐるうちに新橋駅に着いたので僕は、独りになるつもりで先にたつて降車すると、二人も続いて降りるのであつた。
 脚並豊かに歩いて行く二人は忽ち僕を追ひ越して改札口を出ると、傍らから一人の紳士に呼びかけられた。見るとA子の父親である博士であつた。
「おい/\、丁度好いところで出逢つた。一緒に銀座でも散歩しようぢやないか。」
 と博士は娘達を誘うた。と娘達は何故か、ちよつと狼狽の気色を浮べてたじろいだが、苦笑を浮べて点頭いた。
「やあ、君も……」
 その傍らに、思はずぼんやり立つてゐた僕を見出して博士は、
「娘と一緒なのかね?」と訊ねた。娘達は吃驚して僕の方を振り向いた。
「いゝえ――」と僕は慌てゝ否定した。気易い博士は緩やかな微笑を浮べて、
「差支なかつたら一緒に散歩し給へな。紹介しよう、これが僕の娘で、こちらが……」と二人を僕に引き合せた。
 僕は、落ついてゐるつもりでゐたが、いろ/\なことを思ひ出して、わけもなく慌てゝしまつた。僕は、今、執務時間であるから――などといふことを、いんぎんな調子で述べてから、それが何んなに非常識な行動であつたかといふことも気づかず、切符を買つて再びプラツトホームへ引き返して行つた。途中で振り返ると、向方の三人は此方を見送つてゐた。それでも僕は、自分の奇行に気づかずに、もう一度帽子の縁に手をかけて、
「さよなら。」と挨拶した。娘達も手を振つたが、向方の三人が、あまりに意味もなくニコ/\として此方を見送つてゐるので、僕はもう一度帽子をとらうとして、不図気づくと、帽子などはかむつてゐなかつた。

     六

 僕は孤独を愛す。
 僕の世界はこの展望の一室だけで永久に事足りるであらう。僕は僕の胸のうちにあるアルキメデスの測進器に寄り、風を介して、無言の現実と親しむのである。
 A子に関する彼の記述は、この十倍あまりもあるのであつたが、そのうち最も平凡な以上の記述で中断されてゐる。あれ以来彼とA子とは親しく往来する仲になつてゐたが、何故か彼の眼鏡は方向を転じて、町端づれの裏道にある薄暗い長屋に向けられてゐた。A子の部屋と同様に手にとる如く観察出来る一室の家を見出した。
 その家にも娘がゐた。理学士のノートには、この一室の展望記が日毎に誌されてゐた。――彼は、この娘の父親とも偶然に裏町の食堂で知り合ひになり、娘とも友になつた。が、その精密な記述も、やはり、そのあたりで中断されてゐる。
 やがて、洋室の娘にも、長屋の娘にも相前後して恋人が到来した。どちらも秘かに窓を乗り越えて来る夫々に二組のロメオとジユリエツトであつた。
 それまでの間は主に海に向つて船舶の観察に余念のない彼であつたが、再び彼の眼鏡は異常な執念を含んで、夫々の娘の窓に向つてゐた。そして、眼を覆ひたくなるほどの濃厚な情景が、数限りなく彼のノートに誌し続けられてあつた。
 夫々の恋人同志が決して人目に触れぬと思つてゐる夫々の部屋で、熱烈な想ひを囁き合ふてゐる光景を、凝つと視守つてゐると、奇怪な生甲斐を覚える――と彼は或時震へながら私に告白した。
 私も、その展望台に行つて見ようか? と云ふと、彼は、うつかり飛んだ事を洩らして了つたといふやうな後悔の色を浮べ、厭に慌てゝ、「それは困る、それは迷惑だ。」と苦しさうな吃音で断つてゐた。「あの展望台は僕の仕事場であると同時に、寝室でもあり、その上僕はあの室でだけ結婚の夢を見てゐるのだから、うつかり入つて来られると何んな迷惑を蒙るかも解らない。結婚の夢は見るが僕は、おそらく真実の結婚は何時までゝも出来ないであらう……それこそ僕は夢にも望まない。あの部屋の秘密だけは君、許して、見逃して呉れ給へ。」
 妙なことを云ふ奴だ――と私は思つた。私にはその意味がさつぱり解らなかつた。ひよつとすると、どちらかの娘の恋人は彼自身なのかも知れないぞ?
 折を見て展望室に忍び込んでやらう。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文學時代」新潮社
   1931(昭和6)年7月1日発行
初出:「文學時代」新潮社
   1931(昭和6)年7月1日発行
入力:宮元淳一
校正:砂場清隆
2008年1月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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