一

 図書館を出て来たところであつた、たゞひとりの私は――。脚どりが、とてもふわ/\してゐるのを吾ながら、はつきりと感じてゐたが、頭の中に繰り拡げられて行く夢の境と今、其処に足が触れてゐる目の前の風景とが難なく調和してゐるので、面白気に平気で歩いてゐた。
 あわたゞしく目眩しい街であつた。真夏の日暮時であつた。濤のやうな――騒音が絶え間なく渦巻いてゐる賑やかな大きな四ツ角であつた。音響の一つ一つに注意すれば、自動車の警笛であり、電車の轍の音であり、建築場から響いて来るクレエンの響きであり、人の会話であり、レストランのオーケストラであり――と何も彼も立所に識別出来るのではあるが、別の想ひに耽つてゐる者の耳には、無限に轟々たる濤の響きのやうであつた。汽車の窓に頬杖を突いて、たつた今出発して来た都の賑やかな風景を、彼方の蕭条たる山の上に回想してゐる時に聞く列車の轍の音の適応性にも似た、円やかな音響が巷に溢れてゐた。轍の音や、深夜に聴く時計の音に伴れて、何でも関はず歌つたり饒舌つたりしてゐると、あの音響のリズムは忽ち歌になり、言葉になり、話相手になりして自由であることを私は屡々経験するが、この巷の混然たる絶間なき響きも、憂への日には吾を憂へ、悦びの日には躍動を、勝手気儘に節づけることは自由であらう――など、私は、さもさも六ヶ敷いことでも考へてゐるかのやうな勿体振つた胸で呟きながら、何といふこともなしに、自信あり気な思ひに打たれてゐた。
 私は車道の片端にある瓦斯灯の柱に凭りかかつて、腕を組み、ぼんやりと眼をかすめて、美しい洪水のやうな往来の有様を熱心に眺めてゐた。――一日の務めを終へて、いそいそと帰路を急いで行く人達、夕食後の散歩に手を携へて出かけて来た恋人同志、酒場へ行かう、酒場へ行かう! と先を急いで行く若者達、いや俺はダンス・ホールへ行くのだ――と振り切つて行く者。
「酷い目に合つたよ。彼奴が、そんな悪人とは気付かなかつた。」
「悲しみを知つてゐる悪人であるところが、惨めだな。」
 ちよつと耳を澄すと、耳の傍らを寄切つて行く人々の切れ切れの言葉が、はつきり解るのである。
「憐れな男だ。一体彼奴は何に憧れてゐるんだらう。」
「虚妄と現実の境界線を見失つてまるで化物のやうな歩き振りをしてゐるぢやないか。」
 聞くまい――と思ふと直ぐに消えてしまふ、面白いやうだ! 私は、作曲家のやうに空を見あげてゐる。見る見るうちに黄昏の帷が深々と降りて行き、彼方の高楼の屋上、此方の店先の軒先に、青、赤、黄の万花灯ネオン・サインの光りが一斉に瞬きはじめてゐた。窓々の拡声ラッパは花やかな夜の開幕を告げる狂燥曲を放送しはじめてゐた。濤の音が忽ち圧倒されてしまふ。
万有の精は吾が心のうちにあり
天地を流れ、吾が心を流れて
おお、この止め度なさ
君を抱きて吾狂せん――
 街の音楽は十五世紀の理想家が歌つた恋歌を奏でてゐるかのやうである。試みに、口のうちで、あの長い歌詞の処々を口吟んで見ると、ぴつたりと街の音楽のリズムに合ふのが私は愉快であつた。
「あの唄は流行してゐるの?」
「雨の中で歌ふ――とかといふ、つい此頃出来たレヴュウの小唄でせう。」
 娘が斯んなことを話し合ひ、ラヂオに合せて私の知らない文句の歌を口吟みながら過ぎて行つた。
 今の私の――とは似ても似つかぬ歌であるらしい。おやおや! と私は思つた。で私は、もう一遍私の歌をうたつて見た。
 愉快だ! まさしく、街の音楽は私の歌の伴奏である。
太鼓の響きが聞えるだらう
唱歌の声が聞えるだらう
新来の音楽隊か
否、否、君よ、驚く勿れ
裏山の沼のほとりの
蘆の中に群れつどうてゐる
五位鷺達の騒ぎだよ
………………
 突然群集がワーッ! といふ歓声を挙げた。それに伴れて私も思はずその方角の天を仰いで見ると、素晴しい花火が散つてゐるところであつた。――いつの間にか私の眼の前は物凄い群集であつた。花火のあがる空の下を目指してゐるのだ。無数の自動車が行手を塞がれて街一杯にあふれてゐた。そして、合間を置いては堰が切れてドッとばかりに流れ出すのであつた。
「宝あり、青き焔の炎ゆるところに――」
 群集はブロッケンの迷信を遵奉してゐる夢想家であつた。ブロッケンの山麓を目ざして群れ集うて行く長蛇である。――私は図書館の円天井の下での十六世紀の空中楼閣に、ありのままに迷ひ込んでしまつた。
 馬車、馬車、馬車――大河の流れの如く続いて止まぬ馬車の行列である。近衛兵にとりまかれた金色の馬車が通る。遥拝すると、白髪の鬘をつけたオベロン王が、白孔雀の扇を胸先に構へてゐるチタニア妃と厳かに同乗してゐる。金髪の巻毛の鬘をいただいた総理大臣が内務大臣を相手に何事かを語らひながら静々と馬車をすすめて行く。長槍兵フアーランクスの一隊が青、赤、黄、色とりどりの三角旗を翻して隊伍堂々と列を組んで行く。一団の太鼓隊の壮んなる撥音に伴れて、軽騎兵の馬は朗らかな蹄の響きを挙げて節面白く行進して行く。
街を過ぎ野を往き丘を越え
吾等は行くよ
青き火の炎ゆる祭りの山へ
………………
人の世の潮の流れ
嵐の雨、波に漂ひ
吹雪に目眩み
ああ、されど吾等は飛び交ふ
自由自在に
生と死と限り知られぬ海原に
天と地の定めも忘れ野の果に
翻つては飛んで行く
ただ知る、大神の御恵みの光り
………………
 斯んな軍歌の合唱が挙つた。円楯組の歩兵隊が、剣の先でその楯を叩いて調子を合せながら行進して来るのであつた。
 すると、斯の軍歌に合せて街全体が巨大なサイレンのやうな唸りを挙げて、続く軍歌を合唱した。この、きらびやかな行列を取り囲む群集の和讚である。――合唱隊は見る間に街の彼方に行き過ぎて行つたが、その声は津波のやうに何時までも空に反響してゐた。
 空には、花火が砕けては散りしてゐた。
 杖にすがつて歩みを運んで行く老哲学者がゐた。望遠鏡を鉄砲のやうに担いで一心に空を眺めながら、ふらふらと歩いて行く天文学者も居た。シルクハットをあみだにかむつた不良青年が、長袴の裾をとつた恋人の腕を携へて、詩の講釈をしながら行き過ぎて行つた。
 老若男女、限り知れぬ群集の流れであつた。そして、様々な、切れ切れの言葉が、何うかすると妙にはつきりと私の耳に聞えて来たりする。
 ……「円楯組と角楯組が、今夜はブロッケンの麓で戦車競技を行ふさうだが、君は何方の味方なんだい。」
 ……「それにしても、この人出ぢや、万一青い火が炎え出しても発見されぬうちに踏み潰されてしまひはしなからうか。」
「地上で、毎晩々々斯んな風なドンチヤン騒ぎを演じてゐたら、地の霊が好奇心を起して青い炎を噴き出しはしなからうか、といふのがこの祭りの主旨ださうだがね。」
「昨夜のページェントでは、悪魔と悪魔の格闘の場面がクライマックスだつたけれど、あれは一体何ういふ結末を吾々に予想さすための主題だつたのか知ら?」
「悪魔と悪魔でなければ、騒々しい音響が出ないではないか、悪魔同志の罵り合ひを聞かせたら、さすがの地の霊も眠りをさまたげられて怒鳴り出すであらう――といふ。然し生物のうちで、永遠に憎み合うてゐるといふのは互ひが悪魔であるといふことの証拠ださうだね。」
「あの場面にオルフェスの竪琴を伴奏につかつたところは舞台監督の奇智だつたな。」
「おお、フエス! おお、フイス! ――悪魔の格闘騒ぎで地の霊を呼び醒さうなんて、何とまあ怖しい謀みごとであらう。怖ろしい報いが来なければ好いが……俺の胸は震へて来た。あの空の無限の薄黒さにおびえずには居られない。あの空に閃めき出る光りの乱舞は、とうの昔にクリステンダムのセント・ジヨウジに退治された筈の飛竜が再び生を得て、吾等に向つて毒気を浴せかけてゐるかのやうだ。」
「フエス――だつて? ああ、さうか、愛といふ言葉であつたかね、フイス――健やかなる光り――か。何だい、馬鹿々々しい、愛とか、光りとか、そんな言葉は俺達はとうの昔に忘れてしまつてゐるよ。働くことと、享楽と――それ以外には何んな余裕もないんだからな。フエスとか、フイスとか、そんなことを云つてゐられるのは神学校の学生か、でなければ貴族のお姫様位ゐのものだらうよ。」
「君は呪はれてゐる。僕は神学生でもなければ、貴族でもない。角楯組の最も貧しい一兵卒だ、――教会堂の天気鶏の翼が未だ暁の露に沾うてゐる朝まだきに起き出でて、大隊長から小隊長までの楯と剣を磨いた後に、起床ラッパを吹き鳴らさなければならない身分の番兵だ。夜は夜で、降つても照つても、営舎の物見台に突ツ立つて、何時何処に炎えあがるかも謀り知れない青い焔のために張り番をしてゐなければならない見張番だ。何うして僕が、これだけの労役に堪へられるかといへば、兵士としての此上もない誇りを持つ他に、僕の胸を不断に沾すフイス(光)とフエス(愛)の爽々しい羽ばたきを感ずるからなのだ。」
 いろいろな人々が様々な話を交しながら十字路で、堰の切れるのを待つてゐた。私は、この角楯組の兵士の言葉に同感を覚えたので、
「おい、君、待つて呉れ――君の宛名を知らせて呉れ、君は俺の、容易に出遇ふことの出来ない友達だ。」
 と叫んで、行列を横断しようとすると、急に車馬も群集も速やかに進み出したところであつた。私は腕をさし伸して彼を追はうとすると、
「馬鹿ツ、退れ――罰金だぞ。」
 と突然、交通整理官に手酷い一喝を浴せられた。
「おーい。」
 私は、ひるまず、ステッキの先に帽子を載せて高くさしあげた。
 すると、二台も三台もの馬車が私を取り囲んで扉をあけた。
「お望み通りに小世界を見てから、おいおいと大世界の方へ参りませう。屹度あなたは非常な悦びと非常な利益を得て、その道すがら踊り出すに違ひありません。」
 と御者の助手が言葉巧みに誘つた。
「やあ、何だか聞き覚えのあるやうな怖ろしい言葉だと思つたら――」
 と私は二三歩後ろにたぢろぎながら、相手の顔をまじまじと打ち眺めて呟いた。「光りと愛を打ち消す者――メフイストフエレスの科白ぢやないか……だが、そんな洒落た科白で誘はれては此方も乗り込まずには居られないが――」
「そこで貴方も一つ科白の受け渡しを試みて見ませんか。」
「この※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)面では仕方があるまい――といふ、あれだな、あれなら俺も思ひ出した。よし、では一番見得を切つて、唸り返してやらうよ、面白いぞ。」
 と私は、まるで酔つ払いのやうに仰山に胸を拡げて、気取つた音声を発した。「だが、この※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)では仕方があるまい。僕は軽妙な社交術に長じて居らぬから今回の計画はおそらく上首尾には行くまいと思ふのだ。人の前に出る段になると、無性に肩身が狭くなつて何うすることも出来なくなつてしまふのが僕の性質だからね。」
「そんな心配は無用ですよ。」
 とメフイストの科白が続けられた。「処世の道なんてものは案じるより生むが易いと云はるる通りですからね。あなたが、ただ強い自信だけを以つて平然としてゐれば宜しいですよ。」
「そいつは心得た。で、出立の方法は?」
「はい、この上衣を拡げさへすれば、それで宜しいのです。」
 と助手は「馬車」の扉を更に大きく拡げ直して科白を続けた。――「この上衣は私達を空中高く運んで呉れます。この大胆な旅行に重い荷物は一切御持参なさらぬがよろしいでせう。私が只今用意いたして居ります少しばかりの瓦斯が出来次第に私達は飄々とこの地上を離れます。そして段々体が軽くなると益々迅速に飛行することが出来ます。さあ、新旅行の首途を祝しませう。」
 私は、これらの科白の受け渡しがあまりに流暢に、恰も吾々が日常の会話を取り交すごとくに自由に運ばれたのに有頂天になり、座席に飛び込むと、今度は全くの自分の言葉であるにも拘はらず、思はず今迄通りの、気取り込んだ重々しい声色で、
「俺に懸念することなく、案内役の勝手気儘に先づ最も愉快であらう小世界へ運んで呉れ。だが、この群集の列からは脱れて、出来るだけ速かに、あの花火の空とは反対の方角を目指して一散に飛行して呉れ――青い焔に背を向けよう。それツ、急げ急げ!」
 と合図した。
 人通りの全く杜絶えてゐるかのやうな公園の森の中を、タキシーは砂煙りを挙げて疾走してゐた。
 不図助手が振り返つて(何といふ鋭い眼光を持つた青年だらう……と私は、その時はじめて彼の容貌に気づいた。どうやらさつきの角楯組の兵士の横顔にも似てゐる、あの鋭い眼光はフエスに憧るる者の眼だ――と私は思つた。)
「金貨は何枚位ゐお持ちですか?」
 と訊ねた、今日私は、アゼンスの煽動政治に反旗を翻し、そしてソクラテス亜流の唯心哲学を嘲笑したアリストフアーネスの一作物――「乱雲」他一篇――の翻訳を三ヶ月ばかりで脱稿したところで、一袋の金貨を所持してゐたから、そのままそれを彼の眼の先に差し示すと彼は腕を伸して握手を求め、そして歌つた。
「木造りの食卓また酒を出し得べし
炯眼を放ちて自然を見よ
ここに奇蹟あり疑ふ勿れ」
 で、私も歌つた。
「偽りの姿と言葉
想ひを変へ国を変へて
ここに現れよ、またかしこにも」
 彼もまた更に折り返して歌つた。
「………………
迷妄よ、彼等の眼より覆面を去れ。」
私は、兎でもぶらさげてゐるやうに胸の先につまみあげてゐた金貨の袋が、床の上に滑り落ちたのも気づかず、やつぱり袋をつまみあげてゐるまゝの胸のかたちをとつたまま、自分の歌ひ出さうとする歌に酔うた。さつき円楯組の軽騎兵が歩調に合はせて歌つて来た軍歌に、私は自分の作に依る歌詞を調子づけて得意を覚えたところだつたので、また私はあの軍歌の節で歌つた。
………………
転がせ転がせこの樽を
夜告鳥にさそはれて
樽は酒樽 鯨飲み
飲んで歌つて目をあけば
手品使ひの檻の中
………………
「おい運転手俺は綺麗な女の顔が見たくなつた。そこで婦人に対する礼儀を重んじて、この※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)面を何処ぞの美容院で、さつぱりと剃り落して来たいものだな。」
「春の微風そよかぜが頬を撫でるほどの感触も覚えさせずに、たつた五分間でさつぱりお顔をこしらへる手ツ取り早い理髪師を存じて居ます、私は――そこで、ロンバルデイの椿油で御髪おぐしを綺麗に分け込んで、オシリスの香りを含んだ香水を吹きかけられて、エヘンと一つ咳払ひをしながら、その店を出て来れば、屋根裏住ひの鼻曲りの哲学者も忽ち変じてドン・フアンの仲間入りが叶ふといふ名看板の理髪師を存じて居ります。」
「そいつは何うも少々話が甘過ぎるね。まさかバーデンブルグの美容師ぢやあるまいね。」
 ………………
 註――一五〇〇年代の話であるから吾々のヨハン・ゲイテが戯曲ファウストの稿を起す凡そ二百年も前のことである。テレンブルグの医学博士ウヰールが「ファウストとの交遊」なる著に於て次のやうな挿話を伝へてゐる――ファウスト、魔術を乱用したる廉に依りてバーデンブルグの獄屋に投ぜられし時、蓬髪垢面の一教誨師に会ひたり。彼がファウストに述懐する処に依ると、余は剃刀を用ひることが実に不得意で本意なくかかる面貌をしてゐるのだが、御身に何か好き知識はなきか――と。ファウスト、膝を打ちて直ちに、剃刀を用ひずして※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)を剃る方法を伝授したりき。教誨師は深く感謝して、ファウストに一壜の葡萄酒を贈り、加へてその罪を赦し獄屋より放ちたり。されど日を経るに従ひ牧師の面皮は次第に脱落し、終ひには肉までも失はれ、世にも浅はかなる面貌となりたり。追手を八方に放ちて怖るべきファウストを追跡したれど終に捕ふることを得ず。間もなく諸々の国々に、面皮脱落病なる不思議なる疫病が流行し、巷の風に骸骨の頬を曝す市民が頻々として続出するに至れり。この疫病を伝染せしむる者は、奇体なる装ひをなし町から町へ渡り歩きつつある怪し気な理髪師の仕業なり――といふことが判明したれども、理髪師の変装とその神出鬼没の出現は人力をもつては如何に為すべき術も見あたらざりき。彼は巨大なる一葉の団扇に乗りて空中を飛行し、山を越え、海を越え、更に時代を飛び越えて、永遠にこの疫病を流行させん――と豪語せり。されど、この「剃刀を用ひずして※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)を剃る術」とのみ云へば魔的に聞ゆれど、余の研究するところに依つて見ると、これは単に、液状になしたる砒石の素を塗りつけるのみの至つて原始的な手段なりき。その他に於ける彼の様々なる魔術も科学上の説明を加ゆるなれば、凡そこの類ひのカラクリには相違なからんも、大方の諸賢は先づ世の化粧術師に対しては慎重なる注意を施すべきが肝要なり。彼の魔術師の子孫、何れの町に、如何なる姿に身を窶して潜み居るやもはかり知れざればなり。

     二

「一体何を見てゐらつしやるの? ――あたしの眼だけを凝つと見て……他のことなんて考へてゐては駄目ぢやありませんか……」
 私に腕をとられて颯々と踊りまはつてゐる綺麗なダンサーが、踊りながら私の耳に囁いた。
 私は、口が利けなかつたので、片隅に誘ひ出して、窓に凭りかかつた。
「あたし、足でも踏まれやしないかしらと思つて、とてもひやひやしてゐたわよ。」
「失敬した。――どうも有りがたう。」
「何うなすつたの? 何をぼんやりしてゐらつしやるの、変な眼つきばかりしてゐらつしやるぢやありませんか?」
「今朝、手紙を書かうとして、ペンを探すと……」
「あたしに手紙を書かうとお思ひになつたの? え、――それで?」
「君ぢやない、田舎の友達なんだ。」
「…………」
「何てまあ景色の好い面白さうな田舎だらう、是非行きたい――と何時も君が云つてゐる田舎……僕が其処の生活を歌つた詩を読んだ君の憧れになつてゐる――」
「伴れてつて下さる。嬉しい! 何時?」
「あさつて――だよ。そんな靴ばかりを履き慣れてゐる君には、とてもあの山径はのぼれないのだ。だから、ロシナンテと称する僕等の名馬を――だね、停車場へ曳いて来て貰ふことを頼む手紙なんだ。」
「でも、あたし馬になんて乗れないわ、怖くつて――」
「何うしても馬車をつけるわけには行かないんだ、細い細い山径を三哩も上らなければならないから。」
「……さうなると、また愉快ね。ぢや思ひきつて乗るわ。」
「慣れるまでは誰かが轡をとつて呉れるから大丈夫さ。君の轡のとり合ひぢや、とり手の志願者が殺倒して、一騒動が持ちあがるだらうよ。」
「空想ぢやないんですのね、あなたの「西部劇の歌」といふ作品は――」
「生活記録だね。」
「ぢや、あなたは、あの時分には、ほんたうに、あんな、アメリカ・インヂアンの着物を着て、麦袋を担いだり、枯草を積んだ馬車を駆つたり、居酒屋で手風琴を弾いて騒いだりしてゐたの?」
「思ひ出しても冷汗を覚える。――憫れなる者よ、何故あつて汝は汝の見る客観世界に満足せざるか、汝は太陽・月・星辰及び海原よりも、観るべき更に豊かな、更に偉大なる何物を把持するや――この聖人の言葉は俺の胸を貫く、それ故に俺は俺の幸福の追求のために与へられたる凡ゆる実在の事物に最高の満足を求めて悔なき筈であるものの、何故なるか、過去の己れの姿を回想するに及ぶと、その姿の憐れさ、その行為の滑稽さに目眩んで悪夢の谷に転倒する、明日、省る今日の己れが怖ろしい。」
「だからお酒を止めれば好いのよ。」
「うむ。都合が好いことには俺は空気にでも酔つ払ふことが出来るんだ、酔はうとさへ思へば――一杯のデイルスの水と一壜のウオッカとの差別も知らぬ。悪夢の谷を――陶酔の――と云ひ代へることだつて、別段至難の業とも思はれぬまでさ。馬鹿な話は止めて、さあ、もう一遍踊らう。」
「……で手紙は、何うなつたの?」
「さうだ――で、書かうと思つたらペンが何処かへ行つてしまつて見つからないのさ。そこで、鉛筆を拾ひあげると、こいつがまた折れてゐるんだ。」
「まあ、可哀想に――」
「ナイフなんてありはしない。で、うつかり大事な剃刀で、そいつを削つて手紙を書いたのは好かつたが、さて今度は※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)を剃らうとすると、さあ大変だ……」
「面倒な話だわね。宿屋の近所にだつて床屋位ゐあるでせうに……」
「…………」
「ほんたうに、その※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)ぢや、憂鬱にもなるでせう。折角、そんな新しい着物を着てゐるのに――」
「何うかして、俺の尊敬するタルニシア姫の頬ちかくに、この顔が近づきはしなからうと思ふと、気が気でなかつた。それ以外に何んな哲理を索めあぐんでゐたわけでもなかつたんだよ。失敬――」
「このビルヂングの下にだつて、床屋がありますから一寸行つていらつしやいよ、案内してあげますわ。」
「…………」
「ぢや散歩に出かけませうか。」
「もう一度踊らう――そのうちには、うちの細君を迎へに行つた馬車が帰つて来るだらうから。」
 そして私達は再び踊りの群に投じた。
「はるかに聞える太鼓の響、新たに来れる唱歌隊――こんな歌を知つてゐる。」
「知らないわ。」
「大昔のドイツの歌だよ。」
「でも、調子好くステップに合ふぢやありませんか。」
「合さうと思つて歌へば何んな類ひの歌だつて、その場その場のステップに合ふ位ゐのことは当然ぢやないかね。――可憐な驚き方をする愛らしい人形だ、君は!」
「ぢや、もつと歌つて御覧なさいよ。今よりも、もう少し低い声で――ね。」
「一度は美味に飽きたれど、
今は絶えて口にせず、
踊り躍りて破れ靴
これより先きは跣足だよ。」
「面白い歌だわね。それから?」
「沼の中より現れて、
舞踏の列につらなれば
……………… 
「あら、もつと小さな声で――といふのによ。」
「…………
舞踏の隊はすすみゆく
曲りし脚は跳ねすすみ
肥つちよ脚も飛びすすむ
見得外聞に懸念なく
ランラ、ランラ、ランラ……」
「もう――沢山だわ。そんな大きな声で、見つともなくて困つてしまひますわよ。」
「やあ、窓から月が見える。――やあ、綺麗だ、花火が見事々々。……俺は斯うしてはゐられなくなつた。さよなら――」
 私は後ろも見ずにホールから駆け出した。馬車は忠実に私を待つてゐた。

 仏壇に灯明の炎がゆらめいてゐた。黒い壁に包まれてゐる焔が、青白く私の眼に映つた。インヂアン・ガウンを頭から眼深く被つた私は、雨戸の隙間から、ものの一時間も凝つと青白い炎を瞶めてゐた。
「俺は怠け者ではない。だが俺の勉学も労働も俺の空腹を充すに足るだけの物質を俺に与へないのである。辛ひに俺は、此処に見すぼらしく憐れに苔むした生家の名残を見出してゐるのだ。何うして俺は、この行為を自ら掠奪と称び、盗み――と嘲り、真に盗賊の挙動で、斯んな風に忍び込まずには居られないのだらう。親愛なる妻にまでも俺は、この行為を秘密にしてゐるではないか。馬鹿奴、真ツ昼間に大手を振つて出直したら好ささうなものなのに。あの仏壇の抽斗に蔵されてゐる黄金の小判は誰の所有権に属するものでもない筈だ。顔を洗つて出直せ、身装をあらためて出直せ――」
 私は、このやうなことを幾度吾が胸に繰り返したか解らなかつたが、決してそんな言葉に従ふわけに行かなかつた。理性では制御し得ぬ心的現象である。私の胸は戦きのために気たたましい半鐘がヂヤンヂヤンと鳴り響き、足は地を踏む心地すらなかつたにも拘はらず、身動きもせずに屋内の様子を窺つてゐたのである。斯んな思ひを忍び得るほどの力量があれば、他の如何なる職業に就いても、より平易な朗らかさを持つて事に当れる筈である。私の血潮の流れのうちには、悪を好む変質性が潜んでゐるのだらう。自ら秘密をつくり、秘密の帷のうちで吾と自ら吾肉体に邪悪の針を打ち込んで、快哉を叫ばんとする如き犯罪性に憧れてゐるのだらう。
 私の腰には、皮袋に突きさした短剣が用意されてゐた。
 屋内は、ひつそりとして人の声すらなかつた。……あの仏壇の抽斗は「永久に開かぬもの」といふ、家の伝来の掟であつたから、この私の行為が今、他人の眼にさへ触れなければ、永遠に私の所業は秘密の裡に埋れる筈である。
 ………………
 それから私が首尾好く仕事を成し遂げるまでの、自分の姿や物腰や心持などを私は今此処に誌すに忍びない。やがて私は戯曲家の仮面を被つて、大時代劇の舞台で、秘かに、審かに、実を吐いて、人知れず顔をあからめよう。
 ………………
 裏の竹藪の蔭にある栗の木に繋いでおいたロシナンテの傍らに、抜足で立ち帰ると私は二つの袋を鞍の両脇にしつかりと結びつけ、幾枚かの小判は財布にぎりぎりと巻き込み、息を殺して街道に忍び出た。そして、ロシナンテの蹄から、ワザと水に濡らしておいた草鞋を脱ぎ去つて、体をかはかして鞍上に飛び乗つた。さつきの良心や戦きは忽ち消え去つてしまつて、名状し難い痛快さに襲はれてゐたので、そんな風にして飛び乗りでもせずには居られなかつた。私はロシナンテの鬣の中に顔を埋めて、青白い月の光りを切つてヒウと鞭を鳴した。――野良帰りの農民が通つてしまへば、宵のうちでも絶えて人通りのない小川に沿うた長い一直線の街道である。ロシナンテの四個の蹄は、巨大な霰の如く凄まじく大地を鳴して突風を巻き起しながら一散に駆け出した。何だかわけがわからなくなつてゐた――おそらく、凄まじい風に翻るロシナンテの鬣が、その首根にしつかりと吸ひついてゐる騎手の眼となく鼻となく口となく耳となく、そして露はな胸となく、滅茶苦茶に乱れかかつて息苦しくでもなつたのであらう――騎手は困つたクシヤミの発作に駆られて、顔や胸を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)つてゐたが、そのうちに止め度もない涙がパラパラと滾れ落ちてゐた。
 春であつた。丘の真下にある村里の灯が、ぼつと滲んでゐた。――そんな全速力の馬の背に伏して、だらしのない顔を埋めてゐる私の耳に、傍らの小川のせせらぎの音が時たま酷く長閑に響いてゐたのを、私は今もはつきりと憶えてゐる。汽車の窓から眺める夜の景色のやうに、白い街道が激流のやうに走り、麦畑が沼のやうに見え、大根の花が蝶々の群のやうに飛び散つて見え、川ふちの猫やなぎの幹が、はつきりとそれと判別出来たことなどを記憶してゐる。
 私は、その向うに見ゆる村里の一隅で森に通ふ樵夫のやうな生活を送つてゐた。
 私は、その小判と袋の中銀の器とを現代の通貨と売り代へて、都へ上つた。
 ………………
 私は、再びこの夜、あの隣り村の生家を「訪れ」なければならぬ窮境に立ち至つてゐたのである。――ここに至れば私は、何も彼も云つてしまはずには居られない、仮面は被りきれなくなつてしまつた。
 アリストファーネスの喜劇を翻訳して、一袋の金貨を持つてゐた――などと、私はこの文章の冒頭に、酷く取り澄して誌してゐたが、あれは虚妄の言だ。あの金貨の袋は、古小判に依つて代へられた最後の銅貨である。第一私には、ギリシヤ喜劇を翻訳するなどといふ偉い学力なんて持合せてゐない。また、砒石の恐怖も同じく虚妄の言語であつた。今時、何んな裏町の理髪所を探さうとも、あんな間抜な魔術師が居るものか。出遇つたとしても私は怖れぬ。――私は、この夜の訪問のために、このむさ苦しい頬鬚を人知れず努めて蓄へたのである。
 私は、絵葉書屋の店で、紙製の目覆ひを買つた。仮面舞踏会用の青いマスクである。
「図書館の帰りに、ダンス・ホールへ廻る。そこで会はう。」
 私は妻に、このやうな約束をして置いたのであるが、終列車の時間が愈々迫つて、凝つとしてゐられなくなつたので、
「今日R社に赴いたら、文芸講演会に誘はれて急に今から京都へ向つて出発することになつた。僕は、ギリシヤ喜劇の発生に就いて――といふ講演をするのだ。明日の晩おそく、土産を持つて帰るから心配しないで待つておいでなさい。」
 と書置きを残して逃げ出して来たのであつた。
 私は、人生の半ばを既に一ト昔も超えてゐる健康な壮年者でありながら、斯んな愚かなトリックに頭を悩す自分を思ふと、就中妻に対して恥を覚ゆるのであつた、日増に、年毎に「この訪問」の手段が六ヶ敷くなるだけで、他に何の成長力もないこんな男を配偶者に選んだ婦人の上を思ふと、そぞろに憐れを覚ゆるのであつた。だから私は、決して彼女に、この謀りごとを打ちあけようとはしなかつた。こんなことを明らかに申し立てたならば彼女は、悲嘆に暮れ、十年の苦節も水泡に帰したか――といふやうなあきらめに達して、そして、私を軽蔑して、新生涯を求めに行くであらう――と私は思ふのである。
 ただ、私は、人情のことは別にして、拡く、一婦人に、斯る類ひの悲しみや決心を抱かせるといふことは、紳士としてのこの上もなき恥辱である――といふ西洋古来の礼節を尊敬してゐたからである。
 芸術――
 それは、私、孤りにとつてのみの、永遠の苦悶であり、怖ろしき陶酔であり、果しなく花やかな巻雲であるのみだ。
 ――泥棒だつて、嘘つきだつて、あの仕業さへ見つけ出されなければ、誰も悲しみを感ずる者はないのであるから、そして私自身だつて、そんな戦きは、その場限りで消えてしまふことなのであるから――結局、これは善行為と云ふべきであらう……ストア哲学を生活上の(芸術上ではなしに……)模範として遵奉してゐる私は、行為を健全と善に帰せしめなければ冒涜を覚ゆるのであつた。私は、自分の母親に関しても、ほぼ前述の如きいとも簡明なる女性観を持つてゐた。
 ともかく私は、あらゆる苦心をして、人目に触れぬように、あの仏壇の抽斗を、音もなく開き、静かに閉ぢて、煙りの如く舞ひ戻つて来なければならない。そして、立ち帰つたならば、早速母親へ宛てて時候見舞の手紙を書かなければならない――とも考へた。早く、斯んな煩い仕事は片づけてしまつて、自分は専念研究の机に凭らなければならない――などと慌てたりした。
「あの抽斗が空ツぽになつたら何うするの?」
 私はそんなことを呟いた。
「空ツぽを発見するのも俺ひとりか――」
「先祖伝来の掟を堅く守つてゐる母親は、内容を験べることなしに、やがて恭々しくあの仏壇の看守権を、僕の細君に譲り渡すことであらう。」
「空ツぽの抽斗が何代までも引続いて相続されるであらうか。」
「子孫のうちの誰かが、やがて、それを発見して、何代目の祖先が斯る不心得を働いたのであらうか――と研究するであらうが、果して犯人を指摘し得られるであらうか。」
「来年の春は、ロシナンテの騎手になつて懸賞競馬に出場して見ようか知ら……」
 私は、急行の三等列車に乗つてゐた。列車の轍の響きが私の耳に、ロシナンテ、ロシナンテ――と聞えた。
 私は、列車の洗面所に入り、中から錠を降すと、ふところから紙の目覆ひを取り出して耳に掛けて見た。そして、黒い頬の鬚を撫でまはしながら、鏡に映る姿に眺め入つた。
「何といふ巧みな変装であらう、これぢや自分が見ても自分とも思はれない。苦労の甲斐があつた。」
 などと呟きながら私は、尖つた頭布を被り、上衣を脱ぎ、ズボンをとつて見ると、黒い肉襦袢一枚で、紛ふかたなきメフイストフエレスであつた。
 私は、扇子を使ひながら、鏡に向つて何時までも奇体に愉快な見得を切つてゐた。
 窓の外は、インヂアンのガウンでロシナンテを飛したいつぞやの晩と同じやうな朧月夜であつた。
 真夏の夜更けであつた。汽車は警笛を鳴して鉄橋を渡つてゐた。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第二十七巻第十号」新潮社
   1930(昭和5)年10月1日発行
初出:「新潮 第二十七巻第十号」新潮社
   1930(昭和5)年10月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2009年12月9日作成
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