一

 糧食庫に狐や鼬が現れるので、事務所の壁には空弾を込めた大型の短銃ピストルが三つばかり何時でも用意してあつたが、事務員の僕と、タイピストのミツキイは、狐や鼬に備へるためではなく、夫々一挺宛の短銃を腰帯バンドの間に備へるのを忘れたことはなかつた。夜、夫々のベツドに引きあげて眠りに就く時にも枕の下に、それを入れて置くことを忘れてはならない――と約束し合つてゐた。
 村里から馬の背をかりて七まいるも登つた山奥の森林地帯で、谿流の傍らに営まれてゐる伐木工場である。僕は、工場主であるアメリカ人のミツキイの父親に雇はれて、その一ト夏をそこの山小屋で働くために、「冒険」といふ言葉に止め度もなく麗らかな憧れを抱いてゐる十八才のミツキイを伴つて、早春の頃から山に住んだ。
 橇引きのでんは、名前よりも狼といふ仇名の方が有名で、何年か前に村里の居酒屋で酌婦の奪ひ合ひから大立廻りを演じて、相手の炭焼の男を殴り殺した。山猫といふ通称を持つた樵夫の吉太郎は、嘗ては強盗を働いた経験があるといふことを、山で酒に酔ふと(里では決して口にしないといふ。)寧ろ得意さうに吹聴するのが習慣であつた。現在でも、春秋二季に訪れる山廻りの役人が現れると「狼」と「山猫」は、森林の一番奥の洞窟にかくれて、二日でも三日でも、其処に泊つてゐるとのことであつた。二人の他にも、役人の眼を怖れて洞窟に逃げ込む連中には、やはり、猪とか、山犬とか、荒熊とか、モモンガアとか、蝮とか、禿鷹とかいふやうな動物の名で称ばれてゐる、それはもうたしかに土人と云ふより他に見様のない人物が居たが、僕は屡々彼等と共に酒盃を挙げたり、村里に繰り込んで彼等の鞘当喧嘩の仲裁をしたり、また、山小屋の囲炉裡の傍らで開帳される博打の車座に加はつて、勝利を得たこともあるが、一度だつて危害を加へられたこともなかつたし、また僕の見たところに依ると、寧ろ彼等は独特の人情に厚かつた。
「それあさうですとも――」
 と僕がいつか彼等の不思議に温厚な恬淡さを見て首をかしげると、山番の老爺が嗤つたことがある。「皆なは一生この山の中で暮す決心を持つた独り者なんだから、女のこと以外で争ひなんて起すことはありませんよ。」
 山番は熊鷹といふ通称で、五十年もこの山で働いてゐる人望を集めた山長やまおさであつた。彼も亦、独身者であつた。で僕は、何うしてこの山の労働者は悉く独身者であるのか? と質問すると、彼は更に皮肉気な嗤ひの皺を深めて、
「この森の中に女が現れたら大変だ。誰の女房もくそもあつたものぢやない。忽ち、寄つてたかつて喰ひ殺してしまひますからな。」
 彼は、さういふ類ひの怖ろしい挿話エピソードをいくつも語つたが、そんなやうなわけで、結局山の中には女は住めない、山の神様は女は不浄なるものとして住むことを許さぬ、山の中に現れた女は神様へのいけにえとして喰ひ殺してしまふことが、神へ対する最も忠実な信仰である――左う云ふ迷信が深く彼等の脳裡に先祖代々から伝はつてゐるのだからといふやうな意味を聞かされた。だから、女のために犯した犯罪は、誰も別段とがめだてをする者もなく、山にさへ住んでゐれば決してまちの牢獄へ曳かれることにはならぬといふことであつた。――彼等の言葉には余程の誇張があるわけで、いくらそんな山の中だつて、そんな、彼等が、口にする程の罪人が、事実横行してゐるわけのものではないのであるが、神様と女に関する掟を信じてゐることだけはたしかであるらしかつた。
 一日ついたちとか十五日とかの祝日に彼等一同が隊伍を組んで、村里を目がけておし寄せる光景は、恰も永い航海の後に港に着いた海賊船の隊員を目のあたりに見るが如く、全く血に飢えた猛獣に等しいものであつた。彼等は半ヶ月の間に貯へた労金の袋を景気よく鳴らしながら、ワアーといふ唸りを挙げて村里の酌婦茶屋オブシーン・ホテルへ突貫すると、飲み、歌ひ、踊り、激しい一夜の歓楽を貪り尽して、夜明けを待つて山へ引きあげるのであつたが、この夜は娘を持つた家々は堅くを閉して番犬の備へを忘れなかつた。村に営まれる三軒の茶屋は彼等の到来のために繁昌を続けてゐるので、この上もなく歓迎したが、彼等の中にも、そんな荒くれた遊蕩を嫌つて、民家に恋人を持つ若者もあつたのだ。ところが、若しも、そんな媾曳あひびきを仲間の者に発見されると、忽ち、可憐な恋人は「神様のいけにえ」に供されるのか、大勢の熊や狼に囲まれて、森の中に担ぎ込まれてしまふのであつた。
 僕は、或晩、気たゝましい女の悲鳴を聞いて、一散に戸外に飛び出したことがあつた。僕はミツキイを内に残して、扉に外から錠を降すと、短銃を脇腹に構へたまゝ山あらしのやうに森を突ツ切つて、悲鳴を追跡して行つた。
 得体の知れない喚き声を挙げて駈けて来る一団が、焚火たいまつを先頭に立てゝ一本道を上つて来るので、僕は、ともかく、道の上に傘のやうに腕を伸してゐる老木の(何の木か知らないが)枝に、飛びついて、息を殺した。
「皆なで可愛がつてやるから往生するんだぞ。」
「山に泊るのも――お前にとつたら本望だらうが……」
 そんな男の声が聞えた。女は、定めし気絶してゐることであらう。この下に通りかゝつたら、いきなり蝙蝠のやうに奴等の上に飛び降りて、パン/\/\! と空に向つて、こいつを打つて(何故かと云ふと、山の連中は、何ういふわけかピストルといふものを常々から魔物のやうに怖がつてゐて、事務所に来てもそれがぶらさがつてゐる壁の下にさへも近寄りたがらないのである。)――。
「ロビン・フツドを気取つてやりたいものだぞ!」
 と僕は、ぞく/\と胸を躍らせてゐた。
「何を云つてやがんだい。」
 それが女の声だつた。――「手前達の食物になんかされて堪るもんかへ。往生ぎわの悪い狼共だね……」
 木の間を洩れる月あかりにすかして見ると、一人の男が、一人の女を肩の上に高くのせてゐるのを、多勢の者がぐるりと取り囲んで、意気揚々と引きあげて来るのであつた。黒い頭かずの上に差しあげられてゐる女の上半身が焚火の焔に照らされて、綺麗に、妖気を醸して見へた。
 そして、女は、屡々、夜鳥の叫びに似た声を挙げたが、仔細に眺めると、それは、怖れや、苦悶の悲鳴ではなくつて、誰やらが、女の脚のあたりを擽る度に放つ馬鹿/\しいわらひ声のようでもあつた。だから、女は、かしましい叫びを挙げながら、
「畜生――誰だい、あたいの脚を――あゝツ、擽つたいぢやないか――馬鹿ア」
 などゝ呼ばはつた。
「もう、そろ/\声をひそめろよ。」
「熊鷹に見つけられちやならないからね。」
「がんどういはに着いたら、いくらでも騒いで呉れ。」
 がんどう窟とは、例の博打を行ふ森の奥の洞である。彼等は、彼処に引きあげて――当分あの女を囲ふらしい。
 何のことか! と僕は思ふと、慌てゝ飛び出して来たことが少々馬鹿らしくなつたので、そのまゝ彼等を通してしまはうと考へてゐた時、突然行手の木影から見事な蹄の音を立てて突き進んで来る馬上の人物が現れた。
 と、見ると、今迄有頂天になつてがや/\と打ち騒いでゐた連中は、一勢に足並みを止めて、
「やツ、事務所の役人だ。」
「眼鏡の若者だツ!」
 などゝ叫んだかと思ふ間もなく、ワツと云つて、散り散りに繁みの中へ逃げ込んでしまつた。
 草の上に投げ出された女を、ミツキイが馬の上に救ひあげてゐた。
 Hurrahウラー !
 ミツキイは、冬の間北国のスキー場で遊んでゐたので、雪焦けのした顔だつた。山を訪れた時に、そこにも未だ雪があるだらうと思つて陽よけ眼鏡をかけてゐた。髪は短いボイツシユ・バヴで、はじめて山に来た時には乗馬ズボンを穿いてゐた。何も知らなかつた僕等は、その時は別段、何の魂胆もなかつたが、出迎へに来た山の連中は誰一人彼女を娘と感じた者はなかつたのである。
 その遇然が俺達に、安全を齎せたのだ。
 あんな怖ろしい挿話を聞いたので、僕達は、そのまゝ、ミツキイを、男にしてしまつてゐたのである。彼女は、戸外へ出る時は黒い眼鏡を忘れなかつた。胸からズボンへつゞいてゐる労働服や、山刀とピストルの鞘のついた帯皮をしめた、西部型の牧童カウ・ボーイパンツや、スペイン型の、鍔広の帽子や、長靴や、兵隊靴を着用しつゞけ、また、巧みに煙草を喫することを練習したり、出鱈目のアパツシユ・ダンスを演じて、奴等の度胆を抜いてゐたので、未だに誰も、彼女を、女と見破る者は、現はれなかつた。それには、それに準じて、僕達の決死的な用意を、ミツキイの男振りに関しては、仔細に保ち続けてゐたのだが――。
 ミツキイが日本語が喋舌れなかつたことも具合が好かつたし、精悍な風姿を持つてゐたので、例へば僕が、「こいつはね、横浜の不良少年でピストルのジヨンニーといふ命知らずなんだよ。」
 などゝ紹介すると、彼女は、こゝぞと云はんばかりに口笛などを吹きながら肩をそびやかせて、彼等の眼の先で、指の先にひつかけたピストルをぐる/\回して見せたりすると、禿鷹や狼などでさへ、震へあがつて、おそる/\、銃器の構造を質問したりするといふ風だつた。
「この分では、たしかに成功だらう。」
 などゝ彼女が僕に話しかけると僕は、
「僕自身の眼にさへ、最も豪胆な牧童とより他には見へぬから、いさゝかの不安を持つ必要もないであらう。」
 とかと答へたり、そして、牧童が何の意味を喋舌つたのか? と、狼達が僕に眼配せをすると、僕は、
「――俺らは山の酒が飲めねえのが癪だけれど、女郎買ひなら何時でも附合ふ――だつてさ。」
 などゝ全く出鱈目な通訳を伝へた。
 それは左うと、ミツキイに救けられた女は、すつかり蒼ざめて、僕が現れると、
「御免なさい/\」
 と震へながら、何うかこのことを山長の熊鷹に内密に願ひたいと、泣き出すのであつた。いろ/\訊ねて見ると、狼達は、十五日間もの山ごもりが兼々苦痛であつて、時々斯うして茶屋の女を伴れ出して来て、がんどうの山窟にかくまつて置くとのことであつた。――しかし、君自身は苦痛ではないのか! と僕が訊ねて見ると(点頭いたならば僕は彼女を永久に救はねばならぬと決心して――。)彼女は、あの岩屋へ行くと、一同の者が恰も奴隷のやうに従順に奉仕して、下へも置かぬもてなしであるから、噺に聞く盗賊の頭目にでもなつたやうな気がして幸福である。
「皆な、うちの仲間達は、がんどう行きを楽しみにしてゐるだあな。」
 折角の通路を塞がれて、悲しい――と女は啜り泣いた。
「熊鷹には断じて云はないが、まさか、これから、君ひとりで彼処まで行くことは出来まいから、ともかく俺達の小屋へ行かないか。」
 と誘ふと、女は不服さうに伴いて来た。
「扉に錠を降すことを僕は忘れなかつたのに、何うして出られたの?」
「いけないよ、そんなレデイ扱ひをしては――。おれは――」
 とミツキイは一人称だけを日本語で太く呟くのであつた。
「窓を飛び越えて、危険に瀕した姫君タルニシアンを救ひに来た勇敢な騎士ジヨーンズぢやないか。」
 だから僕達は、驚くべきタルニシアンを馬に乗せて左右から轡をとりながら、小屋へ引きあげた。
 女を暖炉のある部屋に休ませて、僕達は左右の「アパート」に引きあげて灯火あかりを消したが、たしかに窓の外に蠢く人の気配が絶えないので、僕は、いつまでも眼を開けてゐたところが、やがて隣りの窓を静かに叩く音がするので、此方も静かに伸びあがつて外を眺めた。
 男の肩から肩を伝つて、女が窓から忍び出るところであつた。今となれば別段邪魔をする必要もなかつたから僕は、ただ、そつと眺めてゐると、五六人の狼達が女を真ン中に抱きあげて抜足で木影の方へ消えて行かうとしてゐた。――僕が見てゐるのを知つてか、知らぬか、一同は声を立てずに一勢に此方を振り返ると、女も一処になつて、満足さうな憎々しげな顔をつくり、そろつて、ぺろりと舌を出した。
 僕は僧侶の破戒の光景を連想した。――やがてはミツキイの男装を見破られて、掠奪される光景を聯想せずには居られなかつた。その時のは、共謀の茶屋の女だつたから騒ぎもそれだけだつたが、民家の女房や娘が彼等のために危害を加へられた噂は常に頻繁であつたが、何故か村人達は、それらの事件を危害とまで数へぬといふ風な、風習であることも、次第に僕に解つて来たが、「男ぞろひの山」であることばかり信じられてゐる此処に、ミツキイを擁してゐる事実は、僕とミツキイにとつては決して好奇心程度の冒険ではなかつた。
 通信が多忙であると称して、ミツキイは滅多に小屋の外へ姿を現はさぬことに努めた。僕達は、なるべく日暮時に散歩した。事務所がランプを用ひてゐるだけで、酒盛りでもはじまらぬ限り何処の小屋でも蝋燭も惜んでゐる始末だから、訪ねて、声をかけても、言葉だけの応酬で姿などには気づかれもしなかつた。
「ミツキイ、お前の胸に――」
 と僕は屡々云つた。「いさゝかでも陰鬱なおそれや戦きが湧きあがるようだつたら、吾々は速刻山を下らうよ。」
「おれは――」
 と彼女は答へるのが常だつた。「輝やかしい思ひ出として、これが残るためには、物語のやうな冒険に出逢ふことも厭はないさ。」
「この間の朝、お前が山鳥を打ち落した時、俺は、思はず、お前を抱きあげて接吻を与へた……」
「……おゝ、また、山鳥を打ち落して見たいものよ、お前の暖い接吻のために!」
「ところがね、それを、橇引きのミスター伝に発見されたことを、さつき知つたのさ。」
「……えツ!」
 ミツキイは、思はず震へあがつて、慌てゝ窓にカーテンを降すと、僕の胸に飛びついた。
「許してお呉れ、結果を先に云はなかつたことを――」
 と僕はあやまつた。
「驚ろかなくても好いんだ――あれはね、俺達が悦びの感情を示し合ふ時の、西洋風の無頼漢同志の挨拶なのさと説明したらばね、ミスター伝は、俺達は西洋流を知らないことは幸福だ、知つてゐたならば、ぢや、あの禿鷹や山犬をつかまへて唇を寄せ合ふなんて……と彼は、思はずその光景を空想して、激しい戦慄と一処に唾を吐いたよ。」
「…………」
「大丈夫だよ。彼等はシネマを観た経験もないんだから。」
 それでもミツキイは、僕のはじめの発言に驚ろかされて、いつまでも僕の胸の中で震へてゐた。
 ともかく僕達は、寝む時に、夫々の枕の下に短銃を忍ばせることは忘れなかつた。風の激しい晩に窓が鳴つたりすると、思はず跳ねあがつて、顔を見合せることも珍らしくはなかつた。ミツキイは、厚い皮製の牧童ズボンを着け兵隊靴を穿いたまゝ、うたゝ寝のまゝで夜を明したこともあつた。
「奴等が、これと眼をつけた女を見つけ出せば、その晩のうちにおし寄せて、担ぎ出してしまはなければ、神様に申しわけがないと信じてゐるんだから――さうなればもう相手が役人であらうが、村長であらうが見境ひの余裕なんてありはしない。」
 山長の熊鷹が、自分の若者時代の手柄噺などを語りながら、そんな意味のことを壮烈な方言で附け加へて、密かに僕達の胸の中を怯やかせたこともある。

     二

 毎日僕は目醒しい労働をつゞけてゐるので、ミツキイよりも先に目を醒したことはなかつた。僕が起きる頃には大抵もう朝餉の仕度が出来て、ミツキイは僕の出て来るのを待ち兼ねて、煙草をくわへながら囲炉裏の傍らでカルタを切つてゐることが多かつた。
 朝は、前の日の労金を受けとりに来る者や、出勤の札を預けに来る人々で、事務所の受付口は仲々混雑するのであつたが、稍早めに出て来た人々は囲炉裏のまはりに集つて四方山の話に耽つてゐるのであつたが、僕が出て行くまでのミツキイは、言葉の通じないのは苦痛でもなかつたが、西洋人であるといふことで何となく人々の注視を浴びるのに向つて、容易ならぬ身のこなしの六つかしさに辟易した。
 私は、だから目醒めると直ぐに、その「食堂」に駆け込んで、元気一杯に其処に集つた人々に向つて朝の挨拶を浴せると、
「ジヨンニー、綺麗な天気が続くぢやないか。」
 などゝさりげなく呼はりながら、ミツキイの椅子の腕に凭つて――挙動さへ互ひに飽くまでも男同志らしく振る舞つてゐれば、会話は何を喋舌らうと自由であつた。
「さつきから、何うも伝の目つきが怪し気に光るのだが、不審を抱きはぢめたらしいよ――」
 その朝、私の姿を見るがいなやミツキイは、囲炉裏の傍らで朝酒の茶碗を傾けてゐる伝を指差した。
「君達は今日は仕事は休みかね。」
 五六人の者が、厭に落着き払つて傾けてゐる茶呑茶碗は悉く酒らしいので、僕が左う訊ねると、今日は、橇道がこわれたから、朝の発荷だけを済したら、一日休むと決めて村に下らうと思ふのだから金を借して欲しいと、稍不気嫌さうな口調で申し出た。――で、僕が納得すると、一同は忽ちはしやぎ出して、先日僕達に救けられた茶屋の女が、あの時の「ジヨンニー」の甲斐/″\しい様子に、すつかり魂を奪はれてしまつて、是非ともあの「男らしい異人さん」を伴れて来て欲しい、若しこの頼みを諾かなければ、今後決してもうお前達の申し出はお断りだ――と威嚇するのである。あの女には俺達五人の者が同じ程度に激しく参つてゐて、若し、そんなことになれば俺達は生甲斐がなくなつてしまふのだ、それ故今日は是非ともジヨンニーをあの女の許へ伴れてつて呉れ――と、五人ばかりの男が、云はれて僕は人数をしらべて見ると伝をはじめ、山猫、禿鷹、モモンガア等々と、たしかに五人の男が、頭をさげて僕に懇願するのであつた。
 僕達には想像も及ばないのであるが、一人の女をめぐつて、平気でいくたりもの男が仲睦まじく、そんなことを云つてゐるのを目のあたりに見せられると、その、あまりな「唯物的」な愛の共有ともいふべきものに対して、僕は滑稽感さへ誘はれた。この間の婦人が、是非ともお前に会つて礼を述べたいからといふので皆なと一処にこれから山を下らないかと彼等は、僕達を迎へに来たのだが――といふ風に僕がミツキイに伝へると、
「発見される怖れさへなければ――」
 と彼女は、寧ろ同意した。
「若し発見されたとしても、村へ行つてからのことならば安心だよ。再び山へ戻つて来ない用意も整へてから行つて見ようぢやないか、不思議な面白さに出逢へさうだぜ。」
 僕達の代りを務める事務員が一週間ばかり前から到着してゐたので、僕達はもう何時からでも自由であつた。寝ても起きても、不自然な気苦労ばかりの連続て、ミツキイも僕も稍ともすれば溜息をついてゐたところであつた。――ミツキイの雪焦けの顔は、もう、とつくにさめてしまつて、朝晩のメーキアツプが相当の困難となつてゐたところであつた。夜おそく、人々が寝静まつたのを見定めてから、馬小屋の隣りにある浴室で、闇の中でミツキイはゆあみをしなければならなかつた。僕は、ミツキイの入浴中、それは恰も国境を警備する番兵のやうな厳めしい顔をして、短銃を握つたまゝ張り番をしてゐるのであつた。――もう夏のちかい頃で、蛍がちらほらと飛んでゐた。
「終つたよ。出て行つても確かい?」
 ミツキイは、稀な入浴時に、はじめて武装を解いた身軽さのまゝで、戸外の空気を呼吸することを希ふのであつた。――で、僕が一層眼を皿にして、あたりの気配を験べた後に、O・Kを告げると、
「ぢや、これを、あたしの窓の中へ投げ込んでお呉れよ。」
 と、ほつとした彼女としての特有な声を送るのであつた。僕は、その時、未知の婦人の声を突然に聞いたやうな胸のときめきを覚ゆるのであつた。こんな山の中で、婦人の綺麗な声を聞くことが、いかにも荒唐無稽な現象のやうに思はれたり、また、こんな風な森の中であのやうな生活を続けてゐる男達が、女の夢のためには、あのやうに猛々しい狼になり変るのは当然のことであると、突拍子もない同情の念に駈られたりした。
「……タイム・イズ・トレジユア!」
 僕がためらつてゐるのに気づいて、ミツキイは板囲ひの浴室の中から疳癪の声を挙げたりした。
「靴を先へ……」
 と、兵隊靴をつまみあげたミツキイの腕が扉の間から僕の眼の先へ現れる。僕は、大いに慌てゝ、次々に攫み出される皮ズボンを、ジヤケツを、帽子を、肌着を、靴下を、ピストルのぶらさがつた腰帯を、夢中で抱へ込んでミツキイの寝室の窓へ投げ込むのであつた。あんな武装の下には、やつぱし婦人用の沓下留めを用ひ、コルセツトを絞め、こんなふわふわとしたシユミーズを来てゐるのか――などゝ僕は、今更のやうに、そんなものを愚かし気な眼つきで改めながら、一つ一つ窓の中へ投げ込んだりしてゐると、いつの間にかミツキイが背後に現れて、厭といふほど背中を叩いた。
 月あかりで見ると、全く別人と変つたミツキイがタオルのパジヤマにくるまつて、薄らわらひを浮べてゐた。
「コンパクトの鏡と、ライタアの光りで、ちよつとお化粧をしたのよ。」
「……そんな美しい顔に!」
 と僕は思はず叫んだ。「また、これから、直ぐに、あんな毒々しいセピア絵具を塗らなければならないかと思ふと、僕は大分もう山の生活が呪はしくなつて来たよ。」
 朝の発荷を終へると、乗馬は事務所のラルウが一頭より他残らなかつたので、さて、今朝は、三国一の色男と祭りあげられたミツキイが、晴れの長靴を輝やかせて、先頭に手綱を執ると、一同の取巻連は鬨の声を挙げて村里を目指した。
「あの男ばかりが――」
 と僕は馬上のミツキイを指差して山犬の伝に訊ねた。「その女の人に、もてはやされるのを見ても君達は別段厭な心地はしないのかね?」
「ジヨンニーが、首尾好く俺達の女と寝て呉れゝば、これから後あの女は当分俺達の窟に来て住まはうといふ話なんだ。山長の眼をかすめるために、あの女を男に仕立てゝ山籠りをさせようといふことになつてゐるんだな。左うなればお前やジヨンニーも仲間にするから、一晩置きに通つて来るが好からうぜえ、今日からお前たちも、れつきとしたぬすつとの仲間となつたわけだ。」
 他人の眼をかすめて、山に女を貯へる一味を、彼等は盗人団になぞらへてゐるらしかつた。

     三

 なるほど山の男達が五人がゝりでのぼせてゐるだけあつて、お銀と称ふ、その、先夜の女は、稍風変りな性質を持つたらしい神経質な眼差の、どこかに颯爽たる雰囲気のある美女であつた。
 お銀は僕達を発見するやいなや、いきなり僕の手をとつて、物蔭へ招き、
「あたしは斯う見へたつて、未だ山の奴等には誰一人にだつて許したことはありはしないんだよ。好く来て呉れたね。」
 と云つた。そして、斯んな野蛮な村は一日も早く逐電したい意志を持つてゐる――に就いては僕達が村を去つて都へ帰る日に、何かと口実をつくつて一緒に伴れ出して呉れないか、山を越へた先の市まで行けば落着くところがあるのだから――。
「頼まれて呉れるかね。」
「道伴れにならう……次第に依つては今夜にでも俺達は出発するかも知れないんだよ。」
「奴等はお金を大分持つてゐるらしいね。どんなに、だらしがなく奴等はあたしの云ひなりになるか、面白い芝居を見せてあげようか。」
「――うむ、見せて呉れ。」
 と僕は云つた。
 僕とお銀が、そんな相談をしてゐると、もう隣りの部屋で酒盛りをはじめてゐる一同のやかましい声が聞えた。
「今日まで俺は、息を殺してゐたが、薄々は気づいてゐたんだが、はつきり、それと、おとゝひの朝見とゞけたんだ。」
「どんなところを見とゞけたんだよ?」
「…………」
 急に声を潜めたので、その説明は開きとれなかつたが、
「して見ると、野郎の方が俺達よりも悧口なぬすつとだつたんだなあ!」
 といふ酷く感嘆のうめきが響いた。
 ミツキイを見破られたな! と僕は気づいたから、直ぐに其方へをどり込まうとすると、お銀が僕の腕を囚へて、
「あたしにだつて、そんなことは、とつくに解つてゐたんだよ。あのまゝぢや危いと思つたから、それで今日、こんな仕組をして、お前達を呼び出したのさ……わかつた?」
 と耳うちした。
 然し僕は凝つとして居られないので破目の隙間から、覗いて見ると、ミツキイは何も気づかずに、伝の傍らに、窮屈さうに胡坐を組んで煙草を喫してゐた。セピアの塗料を念入りに塗つたミツキイの横顔がはつきりと見えた。
「大丈夫だぞ、もう此処に来てからのことならば――」
 となほもお銀は僕にさゝやくのであつた。「今にあたしが、奴等を吃驚させてやるから見ておいでよ、もう暫く――」
「異人さん――何んにも知らないで色男振つてゐるね。」
 伝がそんなことを云ひながら、ミツキイの方へ腕を伸すと、ミツキイは、まつたく好い気で、伝と烈しい握手を交したりしてゐるのであつた。
「あゝあゝ、俺らは酔つ私つて来たぜ。」
 今度は、山犬の何某が、そんなことを呟きながらにや/\と笑つたかと思ふと、ごろりと横になつて、ミツキイの膝に頭を載せようとした。
「ゴツデム!」
 とミツキイは叫んだ。左う云ふ言葉を使ふべきである、と彼女はいつか僕に教はつた通りつくり声で唸つたのであるが、それがあまりに故意わざとらしく響いた程、真実彼女は寒心に襲はれた風であつた。そして彼女は、いきなり奴の鼻柱を拳固で突いた。
「痛え/\――仲々、これでも力がありあがるぜ。嬉しいぜ……」
 男達の云ふことを聞いて見ると、彼等は、僕とミツキイに対しては、飽くまでも、ミツキイを見破つてゐないつもりにして置いて、徐ろに享楽を貪らうといふ計画なのであつた。
 素知らぬ風を装つて僕とお銀は、その部屋へ入つて行つた。
「ジヨンニーが、お前のことを聞くと、とても悦んで、お待ち兼ねだ。」
 伝が頤を撫であげながら、お銀に云つた。
「まあ嬉しい、ジヨンニーさん、好く来て呉れたわね。」
 お銀は、たくみなしなをつくつてミツキイにとりすがつた。――男達が、わつといふ笑ひ声をあげた。ちやんと、もう、ミツキイのことを知つてゐて、奴等はあんなことを申し出てゐたのかと思ふと、さつきから、真面目さうな顔を保つて自分が、彼等に、俺の友達ばかりが君達のお銀にもてはやされるのを見てよくも平気で居られるね? などゝ訊ねたりしたことが、吾ながら滑稽で、口惜しかつた。
 お銀に聞いたところに依ると、もう彼等はずつと前からミツキイのことは感づいてゐて、いつか僕達がお銀を救ひに走つた時だつて、彼等の方が先を越して、はじめから、その魂胆であつたさうだつた。お銀を伴れ出す素振りで、僕達が聞き耳をたてゝゐるのも承知で、僕達の部屋へ忍び込んだのは、ミツキイの寝姿を見物するのが目的だつたといふことであつた。だが、その時はミツキイが武装のまゝ、ピストルを握つたまゝ椅子でうたゝ寝をしてゐるので、彼等は非常に落胆したといふことであつた。――どうかして僕達の手から短銃を奪つた後に、いよ/\ミツキイを掠奪しようと計画してゐるのであるが、彼等は飽くまでもピストルといふものを怖ろしい生物のやうに考へてゐて、うつかり触らうものなら無闇に弾丸が飛び出して来て、己れに命中するであらうと思つてゐるので、たぢろんでゐるのだ――等々のことを僕はお銀から聞かされた。
「お銀ちやん、ジヨンニーは承知だつてよ、今直ぐにでも好いから伴れ出して可愛がつて来いよ。」
 云ひながら、伝は僕に向つて、ミツキイが遠慮なくお銀を自由にするように――早く、ミツキイに通じて呉れ! などとせきたてるのであつた。
 そして彼等は、僕が何も気づいてゐないと思つてゐるので、さかんに卑猥なことを口にして、皮肉な哄笑を挙げるのであつた。
「お前は、ジヨンニーなんて云ふ友達があるから、休みの日であらうとなからうと、村になんて来たくはなからうね。」とか「男同志でも、お前達位仲が好かつたら、色女などは欲しくはあるめえよ。」
「あつはつは……、異人といふのは男でも、女のやうにおとなしいものかね。」
「俺達にも、ちつと英語とやらを教へて呉れろよ――何とか云つて、口の先をくつ付け合ふ、そこんところだけで好いから、言葉を教へて呉れよう――伝や、禿鷹なんぞぢや真つ平だが、ジヨンニーさん見たいな綺麗な男とならば……だね。」
 彼等は、次第に酔の火の手をあげて、大騒ぎであつた。お銀からの理由を訊かぬ昨日までは、思へば、それに類するお世辞見たいなことを屡々彼等から聞かされて僕は却つて得意さうな顔を保つてゐたものゝ、今となつて見ると、毒々しい皮肉が僕の胸を嵐のやうに掻き※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)つた。
「おい、何うだい、今のうちに皆なで一風呂浴びようぢやないか。」
 突然そんなことを云ひ出した男があつた。
「ジヨンニーさんも一緒に入れ――俺らが背中を流してやらうよ。」
「あつはゝゝゝ、ジヨンニーさんはお前と一緒でなければ、うんと云はねえか?」
 さう云つて僕の方へ顔を突き出した男の酒臭い呼吸いきが、僕の鼻先に触れた時、僕はいよ/\堪らなくなつて、
「馬鹿ツ!」
 と一喝すると同時に、力任せに其奴の頬つぺたをグワンと擲つた。
 ――ミツキイは、何時もの僕達の単なる酒興の戯れかとばかり思つて、相変らずのアパツシユ気どりの身構へで頬笑んでゐた。
「おや/\、怒つたのかね?」
「あたり前だ――あんまり人を馬鹿にするない。」
「面白いね。喧嘩かね?」
 むく/\と起きあがる男があつた。
「ジヨンニーは――俺の雇主のお嬢さんミツキイてんだ。それが、何うしたんだと云ふんだ。」
 僕も起き上つて叫んだ。
「よしツ!」
 と、伝が叫んだ。
「手前達こそ俺達を馬鹿にしてゐやがつたんだ。畜生奴、女と、事がわかれば、もう此方のものだ。」
 男共がワツと叫んで僕とミツキイに飛びかゝつた時、ミツキイは手早く引金を引いたのだ――無論空砲なのだが、銃声が響き渡ると、奴等は忽ちワーツといふ悲鳴をあげて戸外へ転げ出た。
「警官なんて居ない村だよ。場合に依つたら実弾込めて、奴等の脚もとをねらつて御覧!」
 僕が続けて空砲を打ちながらミツキイに告げると、彼女は狂喜の叫びを挙げて、腰帯から弾丸を取り出すと、正しく実弾を込めた。
 Hurrahウラー !
 ミツキイは、ラルウに飛び乗つて河堤を一散に追跡したが、必死になつて逃げ惑ふ狼達の速力は、馬よりも速やかで、銃声が鳴る毎にぴよんと宙に飛びあがつたり、尻持ちをついたりしながら、空に向つて救けを呼ぶ声が続いた。
「ミツキイ、ミツキイ――早く出発の用意をしないと日暮れまでは市に着き損ふから、もう引き返してお出でよ。」
 僕は、声を限りに呼ばはつたが、ミツキイは堤下どてしたのもろこし畑に逃げ込んだモモンガアを追ひまくつて、しきりに短銃の音を響かせてゐた。
 僕はお銀と二人で堤の上から、嵐のやうにざわめいてゐるもろこし畑の騒ぎを見物してゐたが、僕の呼声に応じて時折答へるミツキイの音声は、一段と巧みな有頂天の男らしいつくり声であつた。この騒動の原因を知らされてゐないミツキイは、勿論未だ、勇敢なジヨンニーの心意つもりで荒れ回つてゐたのである。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 オール讀物号 第二巻第六号」文藝春秋社
   1932(昭和7)年6月1日発行
初出:「文藝春秋 オール讀物号 第二巻第六号」文藝春秋社
   1932(昭和7)年6月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
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