私は夏の中頃から、鬼涙きなだ村の宇土酒造所に客となつて膜翅類の採集に耽つてゐた。私は碌々他人ひとと口を利くこともなく、それで誰かゞ私の無愛想な顔を蜂のやうだと嘲つたが、全く私は眼玉ばかりをぎろ/\させて口をとがらせ、蜂のやうに痩せて、あたりの野山を飛びまはつてゐた。
 或る朝私は靄の深い時刻に起き出て、先達うちから山向うの柳村の鎮守社の境内に半鐘型のスヾメ蜂の巣を発見しておいたので、その後の状態を観察しようとして面紗ヴエールや皮手袋を用意して、酒倉の脇を抜けようすると、馬に荷を積んでゐたひとりの若者が、これから山向うの竜巻村まで赴くのであるが、帰途に空樽をつけて来るためにゼーロンを空身で伴れて行くから、途中まで乗つて行かないかと云つた。ゼーロンとは私が五六年も前に抽象的に名づけた酒倉の老荷馬であるが、そして私の空想ではドンキホーテのロシナンテにも匹敵すべき私の愛馬であつたが、実際では少しも私に慣れてゐなかつた。私はそれに勝手にそんな名前をつけ、永年の間夢に慈しみを寄せつゞけてゐたせゐか、目のあたりでは一向私に親しみもせず、おまけに臆病馬で、虻が一尾腹にとまつても激しく全身を震はせて飛びあがつたり、牝馬に出遇ふと己れの廃齢たるも打ち忘れて機関車のやうに猛り立つたりする態に接すると、悲しみともつかぬ憎念に炎ゆるのであつた。だが永い間の私の「ゼーロン」に寄せる感傷性は、やがて人々の間でさへ認められて稍ともすると彼等は、その鞍を私にすゝめるのが習慣だつた。
 私は、内心可成りの迷惑を感じて、
「いゝえ、要りませんよ、たくさんだよ。」
 と手を振つたが、若者は、それを、私がすゝめられる酒を辞退してゐるものと感違ひして、馬の方はもう問題の他にして、
「竜巻の権五郎へ持つて行く新酒なんだから、ともかくまあ出がけの祝ひをつけてお呉んなさいな。」
 と枡をつきつけると、朱塗の酒樽を傾けてこんこんと音をたてた。私は稀に故郷の近くに戻つてゐるものの生家へは足踏みもせず、斯んな草深い田舎で蜂を追ひかけてゐるといふのには、云ふべくもない暗鬱な情実におさへられてゐるのでもあつたが、うつかり酒の酔などに駆られると碌でもない因果観念の塊りが爆発して世にも浅猿しい青鬼と化す怖れがあつたので、堅く酒盃を慎んでゐたのであるが、祝ひの新酒ときくと口にしないわけには行かなかつた。
 川面の薄靄が颯々と消えて、川向うの櫟林には斑らな光りが洩れてゐた。ゼーロンは光りの方へ尾を向けて、後脚で切りと土を蹴つてゐた。
「ふざけるない、土竜の無精馬奴、びんた一つ喰はさうかえ。」
 若者はゼーロンを罵つて、二三日前に田原の町まで荷をつけて行つたところが、大した重さでもないのにまるで脚どりがひよろ/\して危うく酒をこぼされさうだつた、稀大の横着馬である故に、空樽より他には載せられないなどゝ述懐した。
 ゼーロンは、突然歯をむき出すと、鼻つまりのやうな鈍重な声で醜い嘶きを発した。その得意な嘶きを耳にすると何時も私は、力一杯に「びんた」の衝動に駆られるのが常だつたが、変なハズミから他人前ひとまへでは特に私はゼーロンを信じてゐるといふ風になつてしまつてゐるので、別段に憎い眼つきもしなかつたし、また蔭ではゼーロンよりも寧ろ私の方が臆病で、どちらかと云へば私の方が遠まはしに老馬の気嫌を窺ふ位ゐであつた。何ういふものか、いや、それは私の心底に真の愛情が湧かぬ為だらうが、如何どれほど私が奴の空機嫌をとつても一向に慣れるけしきもなく、その憎態な嘶きで飼手を飛びあがらせたり、尻尾の房で面体を振り払つたりするばかりであつた。
「それでもまあ、手前えのやうなビツコでも好興なお方もあつたもので、わざ/\東京から可愛がりに来て呉れるとは……」
 祝ひ酒でほのぼのとした若者は、そんな冗談を呟きながら老馬の背中に鞍をつけてゐた。好興なお方とは私の意である。仔細に検めぬと判別し憎い程度であるが、ゼーロンの後の左脚は大腿の関節が自由でなかつた。
 私は、若者が口先ばかりで終ひにびんたを試みなかつたのが遺憾であつた。あの若者の団扇のやうな平手が、どす黒いゼーロンの頬骨に景気よく響いたら、何んなに目醒しいことだらう――私は、左うおもふだけで胸先がうづき、その想ひを晴らし損つた向つ腹が胸一杯にくすぶつてしまつた。

 重荷をつけて若者に轡をとられてゐるタイキの方は、恰で出陣の軍馬のやうに勇ましく急な登り坂に差しかゝつても嬉々として鬣を振り、蹄の音も面白気に歩調を乱すこともなかつたのに引き換へて、私のゼーロンは断じて乗手の意に従はなかつた。奴は、流れのふちに来ると、勝手に首を長く垂れて何時までゝも水を呑み、草を喰つた。そして、乗手が如何程ぢれて、腹を蹴つても(然し私には思ひきり拍車をかける度胸がないのだ。若しもそれで途方もなく悸かして、狂奔でもされたら! と懸念すると、私のこめる股間の力は悉く背骨に逆戻りするばかりで、それは半ばも相手には通ぜず、私は自らの力の反作用で五体を異様にしびらせるばかりだつた。)――呑み足りるまでは動かなかつた。
 それをまた若者は、私がゼーロンを愛するのあまりそのやうに気まゝに放擲してゐるのだらうと思ひ違へてゐるので、今更私としても不平もあげられず、また私の御馬の手腕が実際にこれほど稚拙であらうとは誰も信じなかつたから、そんな手前も手つだつて顔つきだけは私も能ふ限り己が愛馬を甘やかせてゐる態度よろしく、悠々と見せかけてゐるものゝ、胸底は疳癪の火であるのみであつた。
 私は、多くの傑れた騎手のやうに姿だけはのうのうと胸を張つて、喉などをギユウ/\と巧みに鳴らしながら、更に軽やかに、発足の合図をかけるのだが、ゼーロンが再び歩き出すのは私の「動」の声に御せられるのではなくて、飽食した時であり、また私は、その瞬間を見はからつて、合図をするのでもあつた。
「庄さん――」
 と私は、漸くはじめの丘を登つて、降りにかゝつた時、もう先の田甫道に達してゐる若者へ精一杯の声をかけた。吾れながら聞く己れの声が悲鳴のやうであつた。「お宮へまはつて蜂の巣を見て行くんだから、君は関はず先へ行つて呉れないか。」
 私は、その柳村の出端れで厄介馬を若者に渡す内意だつたが、この憎い畜生の多くの悪癖中の悪癖とも云ふべきは、左程に鈍重な性質でありながら、乗手の心を食つてゐて稍ともすれば鼻の先で嘲る如き横意地を示すのである。例へば奴は自分ばかりが、そんなにのろのろと草を喰んだり水を呑んだりしてゐるので、私も謀らぬ酔のために喉の乾きに駆られるので、鞍から降りようとすると、直ぐにその気合ひを悟つて、突然ピーンと後脚で跳ねあがつて、メリゴウラウンドの木馬のやうな波型で飛び出したりするので、私は降りる機会さへも見出せなかつた。だから私は、若者にすゝめられるがまゝに、この儘乗り通して竜巻村の新酒祝ひの家まで行つてしまはうと決心してゐた。左うするうちに、更に因つたことには私は切りと尿意を覚えはじめてゐた。すると恰もゼーロンは私のその意を察して逆ひ出した如くに、木馬様の駈足を次第に急速に運んで、やがて柳村の中宿に達した。
「いよう、宇土のびつこ馬が、今日は珍らしい御機嫌で飛び出したぢやないか。」
「お天気でも変らなければ好いがね……」
「さすがは東京の伯楽だと見えて、あの極道馬を見事に乗りこなすぢやないか!」
 物見高いことゝ、柳のやうにふわふわと他人ひとの挙げ足をとることが道楽だといふので、古来から左う云ふ字名を持つた柳村の人達が一勢に軒先に走り出て、ゲラゲラと嗤つた。そして、口々に「それツ、駈けろや、ドタ臼馬!」とか「助平馬の競馬だぞや!」などゝはやし立てるのであつた。
 私は、口の悪い柳村のことだから、これ幸ひと駈るゼーロンの鬣に頭を埋めて、一気に通り過ぎようと眼をつむつてゐたが、何うも応援の様子が尋常でないので、そつと薄眼をあけて前方を眺めると、直ぐ二三間先きを赤毛の裸牝馬に乗つた子供が、うしろ向きになつて、あかんべえをしたり、おいでおいでの手まねぎをしたりしながら、切りとゼーロンをからかつてゐるのだ。ゼーロンは夢中で牝馬の尻を追つてゐた。宿場を出脱れようとすると、先の悪戯餓鬼は曲馬師のやうに巧みに向きを変へて、元の通り路に引き返すと、ゼーロンも飽くまで後を追ひ、前脚をあげて、挑みかゝらうとするのであつた。私は、満身の力を込めて手綱を絞めたが、利かばこそ、やがて蜘蛛のやうに蝟集した口さがなき人々にとりかこまれて、それぞれの乗手を持つた二頭の馬は神社の境内に圧し込められて行つた。
「びつこ馬が△△を伸して、腹太鼓を叩いてゐやがら!」
ざまあねえや!」
 私はそれらの嘲り声を聞くと同時に、慌てゝ蜂除けの面紗を深く降した。そして、もう真に夢中となつて、腰にさしてゐた捕虫網を抜き放つや、つかも折れよとばかりに必死の思ひでゼーロンの尻を擲つた。
 群集は鬨の声を挙げて、囃し立てた。あたりの梢からは、凄まじい翼の音を立てた鴉の群が驚きの叫びを挙げながら飛び立つた。
 でも私はそんな大活躍の最中でありながら、
「アホウ、アホウ、アホウ!」
 鴉の鳴き声は、なる程左うだ! と思つたり、刻々に強まつて来る尿意の苦痛を忘れるためにも、鬼のやうな歯ぎしりを噛んだりしながら、網の柄を頭上高く構へては、満身の力を込めて根限りにゼーロンの尻を打ち降しつゞけた。棒切れの音が、馬の肉体にピシリ/\と沼を叩くやうな不気味な響きを発して鳴るごとに、打たれる馬は色慾に眼を眩まされて阿修羅と化してゐる為に反つてグロテスクな興奮に猛り立つた。音は翻つて私の頭天から釘を打ち込むかの如くに、めりめりと喰ひ込んで、その度毎に全身で堪へてゐる尿意が蜂の巣のやうに動揺した。
 ゼーロンと私と、悪童の牝馬との世にも奇怪な格闘は、世紀末流の泰平民の残虐性に投じて歓呼の声を浴びながら、此処を先途と戦はれて何時に果てるかの始末もなかつた。――二頭の馬は前脚を挙げて棒立ちになるかと見れば、私はゼーロンの喉笛に武者振りついて、息の音を止めようとする、敵方が後脚をあげてゼーロンの頤を蹴らうとすれば、私は矢庭に槍を伸して打ち払ひ、ゼーロンの耳をつかんで鼻面の向きを変へて、滅多打ちに尻を打ち、鷲の翼のやうに殆んど一直線に拡げた両脚を飛びあがりざまに、ハツタ! と打ちしぼめて左右から馬の胴を蹴つた。私の両脚の猛獣捕獲器の如きバネ仕掛けと、右腕の鞭の力とは水車小屋の構造のやうに活躍を続けてゐたが、次第に動力の鈍りが現れ、あはや私の腕や脚はバツタのそれのやうに折れて、精根も尽き、今にも昏倒しかゝつた。面紗をへだてゝゐるので観衆には私の表情が在りのまゝには映らなかつたのか、
「ゼーロンの乗り手の顔は、男らしいぞ」とか「眼つきが強さうだぞ!」などゝいふ賞讚を浴せるのだが、私はもう眼蓋さへも動かすことが出来ぬやうなフラ/\状態で、妙にあたりがしいんとして来ると、有り難い眠りのやうなものにふわ/\と体を宙に浮せられるかのやうだつた。
「落ついてやがら、あいつ奴、わらつてゐるやうだぞ!」
「自分こそ面白がつてゐるんだらう!」
 そんな声が、遠くから聞えたが、何といふこともなしに私は、
「あゝ、もう駄目だ!」
 と呟いた。そして私は、たしかにそれまで握つてゐた捕虫網の棒を、意味もなく空へ向けて投げ棄てたまま、激浪に弄ばれる小舟に似た馬の首根に観念の眼を閉ぢて、安らかに眠つた。
 そこに何れ位の時が経つたのか気づきもしなかつたが、やがて私は、先程の調子とは全く趣きの違つた、聞くも非常と察せられる態のにわかに物々しい、
「ワーツ!」……といふ群集の悲鳴に呼び醒された。さつきからのはみんな夢だつたのかしら? と私は耳を疑ひながら首をあげて見ると、おゝ、何とまあ、それまで七重八重に私達を取り巻いて執拗な哄笑を挙げてゐた村人等が、まことに急天直下の天変に打たれた如くに狼狽して転んだり跳ねたりしながら頭をかゝへて、四方八方へ火の粉のやうに飛び散つてゐるのだ。彼等はあたふたと逃げ惑つて、道を選ぶ余裕なく取るものも取りあへず流れへ飛び込み田畑をまたいで、雲を霞と壮烈な遁走を試みるのであつた。
 ゼーロンも私も、あまりに突然の出来事に呆然として、しばし不動の姿勢で、実にも奇異なるけしきを見守るばかりであつた。
 静かな大空は水色に隈なく晴れ渡つて、遥かの緑青色に映えた足柄連山の背後にひと塊りの真白な積乱雲が凝つて停滞してゐた。見渡す限りの稲田の中に点々と飛び交ふてゐる人々の有様は蝗採りが始まつたかのやうな光景であつた。
 ゼーロンは真黒な図太い鼻腔を栓を抜いたやうに開放して息絶れの吐息を濛々と吐き、長い舌を横口からだらりと垂したまゝ、奥の院への坂径をまつしぐらに駈け登つて行く牝馬の後ろ姿を土塊に似た眼玉でどんよりと見あげてゐた。とても追ひつけぬものとあきらめたものか、奴は荒々しい溜息ばかり衝いて口腔をも開け放してゐたが、やがて、吸ふ息が皆無で、吐き出すだけの溜息の源も尽きて風船玉が凋んで行くやうに吐息の音が次第にかすれて来たかともおもふと、膝頭がふらふらとして腑抜けとなり今にも地面に腹をつけて了ひさうな症状を呈した。
 私は、思はず前後のことも忘れて、
「これは、うまいぞ!」
 と呟いた。此奴が、このまゝくたばつてしまへば、今こそのうのうと鞍から降りて、何ものよりも切なくこゝまで持ち辛えてゐた用が足せるぞ! と思つた。その瞬間、真に私は蘇生の感を沁々と味はつた。
 その時、どこからともなく、
「蜂だぞ、蜂だぞ、熊ン蜂だぞ!」
 と叫んでゐる声を私は聞きわけた。さつきから逃げ惑ふ者共が口々に何事かを叫んでゐたが、私の耳には意味などは通じなかつたし、また私は面紗を深く降してゐる上に、あぶら汗の滝で視力も怪しかつたのだが、その声で不図見直すと、ヴエールの上に二三匹のスヾメ蜂が止つて、切りと剣をしごいてゐる状態が窺はれた。考へて見ると、あの釣鐘型のスヾメ蜂の巣は恰度今自分が立つてゐる頭上の神楽殿の軒先にさがつてゐたことに気づいたので何気なく仰向いて見ると同時に、私は思はず、
「アツ!」と仰天の叫びを挙げて舌を噛んだ。――私が、さつき夢中で投げ棄てた網の先が遇然にも、蜂の巣に衝突したに相違ないのだ。釣鐘型の横腹に拳骨大の風穴があいて無数の蜂が湧き立つてゐた。
 然し私が驚いたのは、怒れる蜂を怖れたのではなかつた。私は前述の如く充分な武装を施してゐるので彼等の来襲は怕れなかつたが、朝な夕な私は蜂と同じやうに営々と此処に通つてこれらの状態を観察することを、近頃の生甲斐としてゐたのである。――足柄郡曾我村五郎丸字夜見よみ、何処へ出るにも馬の背を借りずには街の灯も見ることも許されぬ人煙稀なる草深いところに、遊蕩的性格の持主である私が酒も飲まずに永い滞在が保たれてゐたのは、夙にこの社のスヾメ蜂の巣のお蔭であつたのだ。私は早朝と、日中と、そして晩と山を越えて柳村へ来ては、蜂の巣の下に蹲跼して、時間に依る膜翅類の生活状態を観察し、撮影した。
 このあたりの人々は、スヾメ蜂を熊ン蜂と称して非常に怕れ、近寄る者もなかつた。事実この蜂の被害は恐ろしく、人や馬を刺し殺した験しも珍らしくなかつた。一匹や二匹の襲来は左程のこともなかつたが「熊ン蜂の巣が割れた!」といふ言葉は、最大なる恐怖の代名詞に通用されてゐた。
 それは左うとして当の蜂軍の追撃隊は、逃げる群集を追ふのみに急で、あしもとの私達の周囲には殊の他数が少なく、或ひは私達を生物でない他の物体と見違へたものか、残留部隊は破壊された城壁を守つて応急防備に多忙であるかのやうであつた。だが、折角の蜂の巣は横腹に穴をあけられたばかりでなく根を払はれたと見えて、風のないのに宙にかゝつたまゝゆら/\と動揺して今にも墜落せんばかりの惨状だつた。
「これこそ何としても取り返しのつかぬ失策でありしよ。」
 私もゼーロンのやうな吐息を衝いて、そんなに思ひながら、遣方のない悲しみを呑み込んで行くと恰度その悲しみの重味に圧潰されて行く空気枕のやうに、次第にゼーロンの腰は低くなつて、あはやその腹部が地面とすれすれに垂下して、私の両脚の先も亦地上に達しさうになつたので、兎も角私は用を足して了はなければならぬと負傷者のやうな痛ましい物腰で鞍から逃れようと試みた。そこで私の片方の脚がハネ釣籠のやうに静かに虚空に動きはじめた時、急遽、斜め頭上のあたりから二三条の茶褐色の光りの如き一直線が射したかのやうに翅音を震はせた蜂達が飛びかゝつて来たかと見ると同時に有無なく彼等はゼーロンの流汗で黒光つてゐる巨大な臀部に鋭い槍先を突きとほした。
 ゼーロンは名状し難い悲痛の嘶きをあげると同時に四ツ脚を伸すと、地雷火に跳ね飛ばされた凄まじさで、宙に飛びあがつた。私の軽い五体は、たしかにその瞬間、ゼーロンの背中から更に二三尺も上の宙に飛びあがつて、落ちると私は不幸にも、矢張りゼーロンの臀部にべつたりと、ももんが(※(「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2-94-68)鼠)のやうに吸ひついてゐた。
 ゼーロンは、虹型の弾道を描いて一挙に境内を突き切ると、花やかな水煙りを挙げて流れへ飛び込み、息を衝く間もなく水を駈け渉つて、一目散に竜巻村の森林へ駈け込んだ。社の境内から、水を渉り河原を横切り、桑畑を飛び越えて、径もなく、山中の谿谷に踏み込んでも、決してゼーロンの勢ひは鈍らなかつたが、その間に漸く私の進歩はその臀部から背筋を逼つて首根に達し、鬣に武者振りついてゐた。乗鞍などは何時の間にか振り落されて、背骨の凸所はところ/″\皮膚が破れてゐた。――然しながらゼーロンの狂奔状態はいさゝかの気勢を落すけしきもなく、斜めへ、斜めへと森を突き、籔をくゞり、崖を降つて、馬の背のみで小半日もかゝると云はれてゐる竜巻山の嶮を忽ちにして踏み越えて――しまつたらしかつた。

 がや/\といふ人の声で、私はゼーロンの鬣の中で息を吹き返した。権五郎家の主人をはじめ若主人、妻女、娘、馬方、その他大勢の村人達にとり囲れて、ゼーロンは水を呑んでゐた。あの狂奔で、漸く痛みも去つたらしく奴は事の他元気さうに尻尾を振つてゐた。どうやら私はその尻尾のはためきに背中を打たれて目を醒したらしくもあつた。
 遅ればせに到着したタイキの若者は、この光景に接すやいなや、私の膝を引つ張つて、
「有りが度う/\!」
 と連呼した。「どうしてこの馬を伴れて来ようかと持てあましてゐたところを、お蔭でこんなに楽々と着いてしまつて、何ともお礼の申し様もありません。」
 空樽でもつけてゐれば厭々ながらでも後を伴いて来るゼーロンなのだが、空身で引いて来るのに難渋しないものはない――「それにしても何うしてこの横着馬を、斯んなにも速やかに伴れて来られたか、是非とも秘術を伝授して貰ひたい。」
 若者が舌を巻いて驚嘆すると、権五郎の主人が私の前に恭々しく叩頭して、何は兎もあれ祝ひの席の上坐についてから、村民代表の前で、乗馬心得に関しての訓話を一席披露して貰ひたいものと申し出た。私は無論辞退する決心だつたが、舌の先が釣つてしまつて言葉を発することも出来なかつた。その間に主人が何やら一同の者に合図すると、それツ! とばかりに八方から腕が伸びて来て、私の体は靄の深かつた明方の夜見を出発して以来数時間(?)の後、はじめてゼーロンの背中から離れると、空に突き伸された数十本の腕の上に五月鯉のやうに横たはつた。そこで更に何やらわけのわからぬ呪文めいた合図が起ると、わあツ! といふ歓声といつしよに私の体は一つの大きなうねりを喰つたかとおもふと、続く鬨の声に伴れて凡そ三メートルちかくの空中へ投げあげられた。脳天から脚の先へ向つて稲妻のやうなものが走つた。
 同じ運動が三辺繰り反されたやうだつた。
 私は、急ピツチの拍手喝采にとり巻かれて、漸く憧れの地上に降された。
 私の徹底的に厳かな無言の表情から、主人は何も彼も私が承知したものと合点して、祝宴の先にあたつて、未だ一同の者が酩酊をせぬ間に折角の訓話を謹聴したきもの――と襟を正して、道を展くのであつた。私は、聴く耳もなく先程から、何となく胡散な眼つきであたりの様子を物色してゐたが、不図門脇のモロコシ畑の一隅に、堀立の野外厠を発見すると、思はずお神楽の武将が快諾の見得を示すみたいな実にも物々しい仁王立で、はつたと胸を叩き、沈重にかぶりを縦に振つた。――そして、突然両腕で力一杯下腹を抱へると、折れ釘の如く腰を直角に曲げてモロコシ畑へ姿をかくした。

「吾が昆虫採集記」の件りとしては、その間の出来事は脇道に外れる故に省略して、夜見の酒倉の二階にペン先を戻さうならば、あたりは既に秋の香りが立ち込めて、私は低いラムプの下で蜂の巣の破片を整理してゐた。殻の蜂の巣にも退屈して、窓掛の間から空を仰ぐと、蝎座の一端から仄かに流れ出てゐる銀河が北方の空高く竜巻山の上に翼を拡げる白鳥座を貫いて、夜更けのアンドロメダを呼んでゐた。
 三番酒倉の門口にある枡売り場の障子には、野良帰りの枡酒の度を過してゐるらしい二三の連中の手振足振りおかしく何かを物語り合つてゐるらしいシルエツトが踊つてゐた。――私は星を眺めてゐると、あんなに憎らしいゼーロンではあるが、その理由は兎もあれ、あの素晴しい狂奔振りはこの世のものとも思へぬ程の、観れば観るほど異彩を放つて、いつかは天空のペガサスを連想せずには居られない花やかな畏怖に駆られて来るのであつた。あんなビツコ馬に、そんなきらびやかな連想を通はせるだに業腹なので、大いそぎで星空から眼を落すと、日頃から口を極めてゼーロンを軽蔑して、土竜と嘲つてゐる影法師連へ想ひを通はさうと努めたのである。
「もぐらだ! まさしく彼奴は土竜の性だ。」
 と私は呟くのであるが、逆へば逆ふほど翼ある馬の奇怪な幻は見るも鮮やかに虚空を蹴り、きらびやかな星空を駈け回り、やがては恵みに富んだペガサスの頭上には、さんらんたる金色の後光が輝き始めるのであつた。
 当のゼーロンは数日前から厩に籠居して、秣草だけは常にも増して貪る癖に、何故か人間の姿を極端に嫌つて、人の近寄るけはひがすると放屁をもつて退け、終日終夜入口の方に背を向けたまゝ「ふて寝」の惰眠に耽つてゐるといふ専ら噂であつた。酒倉の土竜馬と云へば誰しも、鼻をつまんで顔を顰めぬ者とてはなかつた。
 たとへこの現世の上では、不貞くされの土竜馬であるとはいへ、ひとたびゼーロンとしての因果なゆかりを持つた上は、自分までが土竜馬と蔑んで見回りもしないといふのはうしろ目たき思ひであらう――私は、終ひに左う気づいて、提灯に灯を入れた。そして街から届いてゐたコツペ・パンの棒と、一本の蜂ブドウ酒とを携へて納屋裏へ愛馬の厩を訪ねた。
「土竜の畜生が死んだら太鼓の皮にでも売るだあね、罰当り馬も太鼓にでもなつたら浮ばれるづらあな。」
 酒呑み連がそんな冗談を喋舌つてゐた。
 酒倉の軒下を抜けて納屋裏へまはると、星月夜に映えた豆畑が青白く光つて、淵のやうに静かだつた。二本の横木が渡された土竜馬の厩の入口にも微かな光りが縞になつて射し込んでゐた。横木の間から覗いて見ると、成ほど奴は頭部を奥にして太々と寝そべつてゐた。人間を毛嫌ひしてゐるといふからには就中、私であるといふことを悟られたら激しく冠りを曲げて脚蹴にでもされるだらう――私は誰よりも奴に対して脛に傷持つ身と覚えてゐるので怕る怕る近づくと、恰で猛獣に餌でも与へるかのやうな臆病な物腰で、さつと奴の口のあたりにパンの棒を投げ出すと同時に外へ飛び退いた。そして息を殺して様子を窺つた。土竜馬は寝そべつたまゝ餌食を頬張つてゐたが、別段私に危害を加へさうもないので、私は如何にも物優しく慈愛のこもつてゐるかのやうなつくり声で、
「ゼーロン!」
 と呼んだ。奴の面と向つて、この名前を口にしたのは、おそらく最初の決心だつた。私は吾ながら自分のわざとらしい音声に冷汗を覚えずには居られなかつた。
 すると枯草の中から、黒い塊りが、やをらと起きあがつて、人の声の方に首の方向を向けて来るのであつた。私はぞつとして豆畑のふちまで後退りして、凝つと土竜の顔色を窺つた。――ところが、全く私にとつては意外のことには奴の両眼は女のやうに柔和な光りに溢れて、物優し気にまたゝき、真実親しさうに長い顔を上下にゆすりながら、片方の前脚で、もつと私に側へ寄つて呉れと物言ふが如くにこつこつと飼馬桶の端を叩くのであつた。私は寧ろ薄気味悪い心地で、左の肩を先にして横歩きに近づいて行くと、奴は益々猫のやうに慣れて来て、終ひには私の肩の上に長々と伸し出した鼻面を載せかけて私の顔に並べると、恰も嚶々たる睦言を語らふ如く微かな吐息を衝いた。――私は、もう大丈夫と安心して、もう一度、
「ゼーロン!」
 と呼んだ。私の胸は奇妙に甘く高鳴つた。私は胸の下まで垂れ下つて来た奴の鼻面を静かに撫でた。それからブドウ酒の壜を取りあげて、彼の口へ向けると、彼はヒヽヽヽヽと嗤ふが如き陰気な声をあげて大きな口腔くちを天井へ向けてあんぐりと開いた。私は飼馬桶を踏台にして、それに酒を注ぎ、残りを自分の口に傾けた。私が踏台から降りると彼はまた元の通りに私の肩に鼻面を伸して厩の軒からうつとりと月を仰いだ。竜巻山の空のあたりには星雲アンドロメダの薄光がゆらめいてゐた。
 勲を立てた名馬と騎手の銅像だ――と私は唸り、凝つと空の彼方を望んだ瞳と、ゼーロンの首を抱へた腕に底知れぬ陶酔を覚えながら武張つた姿勢を崩さなかつた。扉に掛けた弓張り提灯に、ゑんまこほろぎが止まつて切りと翅をこすつてゐた。私の採集は膜翅から直翅に移つてゐたので、少なからず食指が動いたが、折角の姿勢と未曾有の恍惚状態を崩すのが惜しまれて尚も微動さへ浮べなかつた。ゼーロンの吐息と首の重量との触感が私の肩先から頬へかけて、生温く動いて次第に私は切ない擽感を覚えはじめたが、一層全身に力を込めて、壮麗な大空をほのぼのと視守りつゞけた。
(昭和八年作)

底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
   2002(平成14)年7月20日初版第1刷
底本の親本:「文壇出世作全集」中央公論社
   1935(昭和10)年10月3日
初出:「文藝春秋 第十一巻第十二号」文藝春秋社
   1933(昭和8)年12月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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