どうして此処の座敷の欄間にはあのやうな扇があんな風に五つも六つもかゝげてあるんだらう! 装飾の意味にしてはあくどすぎる! 何となくわけあり気に見えるではないか?
 それにしてもあれは一体何に使ふものなのだらうか? 扇子には違ひないが、あれを扇子に使ふ者は仁王より他にはあるまい!
 樽野は祖母の家に来る毎によくそんなことを思つたことがあるが、別段誰に訊ねようともしなかつた。扇だが、あたり前の扇子と構造には何の相違もない扇だが、中で一番大きいのは雨傘の半型程もある。舞扇のやうに極彩色のものもあれば、淡白な黒絵もある。
 そんな扇が槍や陣笠や弓矢などがかゝげてある欄間の長押に仰々しく拡げて額になつてゐた。
 それが翳扇かざしおふぎふものであるといふことを樽野が聞き知つたのは彼が青年になつてからのことである、とても果敢ない恋のやうなこともあつたが、無くつてもそれ位なつまらなさは覚え初める頃なのだ、人に会ひたくない、と云つて隠れてゐればわけもなく胸が一杯になる、旅などが出来る質ではない、その癖灯りがともる時刻になると凝つとして独りではゐられない、そして誰と会つて愉快気な雑談を交してゐても稍ともすればふとおもてを隠したくなるやうな……そんな初めての憂鬱症に出遇つた頃樽野はこの祖母の家を最も好ましい「隠れ場所」にして、永い滞在を乞ふたことがあつた。
「今はシヤッポといふものがあるからそんなものもいらなからうが、昔はあゝいふ物を、斯う――」と年寄は反り身になつて片手を顔の斜め上にかゝげた。「……斯うして歩いたものさ。」
 顔の見えないやうな仕掛けで誰とでも話が出来れば好いんだが――どうかするとそんな馬鹿気た想ひに走ることがあつた樽野は、悦んで膝を打つた。そして、笑つた。
「斯うしてね……?」と彼は酷く感心しながら口真似したゞけでは足りないで、そこにあつた何かのグラフを取りあげると、見合せてゐる年寄と自分の顔の間に戸立てた。
 だが何故それをあんなに麗々と何時までも彼処にかゝげ放しにして置くのだらう? と樽野が年寄に訊ねたのは、あれからもう何年かの月日がたつて小説家になつた彼が、またこの祖母の家を最も好ましい「仕事の場所」に選んで永い滞在を乞ふた近頃のことである。年寄の家の様子はあの扇の位置に至るまで何の旧と変つてゐるところはなかつた。
 お前の知らないお前のおぢいさんはね、と年寄は、早く別れた良人が、
「あれが嫌ひでね――」と云つた。どうしても手にしないんだ、わたし達がすゝめると、これはまア斯うして飾りものにでもして置くとしようや、さう云つて、わたし達には手のとゞかない彼処にあゝして置くのさ、それがその儘に残つてゐるだけのことだ――と述べた。
 近頃樽野は軽い憂鬱症にとり憑かれてゐた。再び、誰と会つて愉快気な雑談をとり交してゐても稍ともすればふつと面を隠したくなるやうな――。
 庭にある海棠の老木が花盛りだつた。樽野は永い間の昼夜の転換が何の努力もなしに自然と治つて此頃は毎朝五時に眼を醒した、それは、明方になつて床に入る、午過ぎの二時か三時頃になつて眼が醒める……といふやうな日々の彼の「夜明け」と「おやすみ」が季節の移り変りと同じやうに極く少し宛日増しに伸びて行つて、「おはよう」が夕暮時になり、まつたくの夜になり、いつか夜中になりして、だんだんと、春になる頃から真の朝になつたまでのことである。樽野は、何となく光りがまぶしかつた。

「滝はもう起きましたか?」と樽野は窓から友達の細君に声をかけた。
 樽野の「昼間」の友達は、彼に形容させると全く「蔭」といふものを持ち合せない詩人の滝より他はなかつた。――樽野は殆ど毎日滝を訪れるのであつたが彼には如何してもあたり前の客らしく玄関口で御免! といふことが出来なかつた。彼は、巧みな忍び足で窓の蔭から先に中の様子を窺ふのであつた。そして若し其処に滝以外の人の姿を認めると彼は、慌てゝ踵を回らせずには居られなかつた。彼は、わけもなく背中に水を浴せられたやうな思ひに打たれて(誰の眼もない隅でそんな奇態な行動をとる自身の姿が青空に嗤はれてゐる気がする!)首を縮めて逃げ出すのであつた。わざ/\訪ねて来た友達の家が、振り返つて蜜柑の樹蔭に隠れてゐると、馬鹿にホツとした。滝には種々な友達が多くて、樽野は一週間も続けて無駄な訪問をすることがあつた。畑道を寄切つたり、だらだら坂を降つたり、橋を渡つたり――二人の家と家との隔りは相当の遠さであつたから、失敗の折には樽野は、若し途中で滝の家の者に出遇つても其処を訪れたと思はれたくない為に非常な速力で駆け出すので、漸く橋のあたりまで達すると胸を撫でゝ一休みするのが常だつた。「どちらへ?」――「あの……隣村まで急用が出来ましてね。滝はゐますか?」――「お友達がお見えで、にぎやかですわ、いらつしやらない?」――「えゝ、有りがたう、都合で後程にでも伺ひませうかな。」橋の上まで来れば何処から帰つて来た者か解らない、其処で樽野は滝の家の者に出遇つて洒々とそんな会話をとり交したこともある。
 彼は滝の細君でも成るべくなら逃げ出したかつたので例の如く窓から覗くと、不幸にもその拍子に思はず彼女と顔を見合せてしまつたのである。彼は細君の返事も待たずに急に浮わついた変な能弁になつて「何とまァ毎日好いお天気ぢやありませんか!」とか「僕はどうも此頃は大変な早起きで午前中に三度位ひ退屈をする。」とか「この家は朝から晩まで陽が当つてゐるだらうな、滝には適当だ。」とか「来月に入ると蛍が出ますよ、あなたは東京育ちだから蛍狩りは知らないでせう、今年は皆なで出かけませうか。」などゝ厭に景気好気に熱つぽく口走つた。彼は嘗て恋らしい経験をした時も(さうだ、あのT子の窓を屡々斯んな風に訪れた、が会つた時には決つて無駄をしてゐるといふことを告げて、相手を悦ばせなかつた! と思つた。)黙り合つてゐることが何だか堪らないで、決して恋する者にふさはしくない出任せなことばかりをキヤツ/\と景気好気に口走つてたうとう不実な男のやうに思はれてしまつたのだ。
「滝はひとりで浜へ出かけましてよ。……ぢや行つて見ませうよ。」と細君も樽野の返事も待たずに直ぐに立ちあがつた。
 陽の輝やき渡つた静かな朝の海辺であつた。
 石ころかと思つたのが生きた鳥で、ぶらぶらと歩いて行く二人の直ぐ爪先きから鴉や鴎がさもさも退儀さうにバサバサと鳴る羽ばたきを立てゝ凧のやうに飛び立つた。何の加減かその朝はまた莫迦に夥しい鴎の群だつた。南洋か何処かの海辺のやうですね! などゝ滝の細君が形容した。
「あら、うちの人はあんな処で――」と細君が指さした方を樽野が、真実まぶしい陽をすかして眺めると、他には一点の人影も見えないからそれが彼女の良人に相違ない、豆人形程の滝が、砂地を縦横無尽に駆け廻つてゐた。いつも着通しでゐる白キヤラコの西洋寝間着を外に出る時は裾をたくしあげてダブダブのパンツを穿く滝である。飛び立つ鴎の群で稍ともすると滝の姿は掻き消される、彼は飛び立つ鴎に籠球家のやうに腕を伸して飛びつかうとする、グルグル回つて、直ぐに砂地に降りる鳥をまた追ひあげる、滝はアヤツリ人形のやうに脚を挙げ腕を振り駆けては跳ぶ、やり損つてモンドリを打つた、息もつかずに「バネにはぢかれ」て跳ねあがる! 蚊トンボだ! さうかと思ふと、稍暫し地に跼つて、「パッチン!」と米つき虫になる、起きあがり小坊子になる! ひるまず脚をバツタにして跳ねあがる、風車になつて拳固を振る――滝は、飴色の陽の中で鴎の雪に降りこめられながら奇妙な立廻りを演じてゐた。
 細君は両手の平をメガホンにして呼んだ。とても達しなかつた。「樽野さん呼んで御覧なさいよ。」
 樽野は、はにかみ笑ひを浮べたゞけで声は出なかつた。細君がゐなければ――と彼は思ふのであつた。
「これだけゐるんだからね、君、一羽位ひつかまへられさうなものぢやないか、どうしても駄目だよ、アハヤ! といふところでね、はねにも触れないぜ――」滝は、奇妙だな! と、つかみ損つたボール・マンがするやうに首をかしげた。全く、奇妙だ! と思つても差支へない、もう鴎達は彼等の一尺先きに来てきよとんと休んでゐる。
「あゝ、汗ビッショリだ、脱いでやれ!」
 滝はさう云つて、シャツの中へ首をかくした。シャツは脛まである寝間着だもので彼の顔は容易に現れなかつた。細君が途中から手伝つた。
「何だい、キザな奴だな、今時分からそんなものを持つて来やがる!」
 滝は、細君が携えて来た真夏になつて砂地にたてる赤白のパラソルを指さした。
「嘘よ――樽野さんが持つて行かうと云つたのよ。屹度色でも黒くなるのが怕いのよ、この、この人は……」
「冗、冗……」と樽野は口ごもつた。「あの、あの――僕が帽子をかむつてゐないのを見てあなたが――」
「ハッハッハ……あんな赤い顔をした、馬鹿ね、そんなにムキにならなくつても好いわよ、樽野さん!」
 樽野はもう背骨が鉄の棒に化してゐた。
「癪だな!」
 滝の声が余り大きかつたので樽野は思はず胸を叩いた――胡坐になつてゐた滝は、眼の先の鴎を眼がけて飛びつき、腹這ひになつた。鴎は悠々と二三間先きに飛びのいた。滝は、腹這ひの儘で、
「樽野――」と云つた。
「え?」
「四五日見えなかつたぢやないか、何処かへ行つて居たの?」
「あゝ!」
「来れば好かつたのに! 女房の友達が来たりして――美人だつたよう、Y子さん! あの人を見たら君は屹度恋を……」
「おい止せよ、滝!」
 見た! 見た! 窓の蔭から! と樽野は胸のうちで呟いだ。
「Fさんにも樽野さんは会はなかつたね。」
「毛唐ぢや駄目だよ、結婚だもの――第一樽野は異人嫌ひだよ。」
「おい、何云つてるんだよ、そんな話は止せよ――帰らうか。」
 樽野は、Fとかといふ西洋娘も見た、滝はいつも名前の代りに「異人娘」とか「ヤンキー娘」とかとんでゐるが、そして聴手に俗なフラッパアを想像させるが、樽野はいつも慎ましいFを見た、彼女は小柄で少年のやうな自由な四肢に恵まれてゐた、横顔しか見ないが、目蓋を伏せてゐることの方が多かつたが、長い睫毛か緑色の眼にうつとりと沾んで影を宿してゐた、あのすき透つた青い眼を見てゐると淡く無限な淋しみに誘はれる、楚々たる雪の峰を望むやうに自分で自分の鼻先きを見降してゐる、稀に言葉を発す度には礼儀正しくいちいち瞼を挙げて、相手に新緑の微風を注ぐのだ、そしてあまり表情を豊かに動かさないのが気高く見える、あの冷たさは快い、俗語めく個所は言葉が通じないので黙り勝ちになるのであらうが、その孤独めいた姿からは、岩間の清水に口をそゝぐやうな哀感に打たれた、あした微風そよかぜに洗はれ、夕べの露を含んで、夕陽に染められた! などと樽野は詠嘆せずには居られなかつた。稀に見る健やかな金髪が首筋のほとりで内に巻き返つてゐるのが可憐であつた……見た! 見た! 見た! 見た! 一日に三度も――と樽野は心臓の底で呟いだ。
「ねえ!」と細君が滝に告げた。「蛍狩りね、樽野さんはとても佳い処を知つてゐるから案内してあげるつてさ。」
 樽野はギヨツとした。別段好い処を知つてゐるわけでもなかつたが彼は、そのうちに独りで面白く蛍狩りを試みようと思つてゐた矢先に、さつき細君の前でうつかりそんなことを云つてしまつて失敗つた! と思つた。
「ほんとうか、樽野?」
「どうして……」
「いや横浜のFにね、蛍を送つてやらうかと云つてやつたらね、とつた蛍はいらない、追ひかけることを欲する――だつて! そんな返事が来てね、処が俺は蛍の場所を知らないんでね。ぢや、頼んだよ。」
 樽野は異様に胸が震え出した。
「でも君はそんな娘の伴れがあつては厭か?」
「うむ……」
「場所だけ教へて貰つても好い。」
「うむ……」
 帰り途で樽野は、滝の細君からあの大日傘を持たされた。

 禅宗に凝つてゐる祖母だつた。そして質素で正直で朗らかな年寄だつた。樽野は、たつた二度年寄の不機嫌な顔を見た以外では、常に忠実な唯一の孫だつた。或時彼が、うつかり「牛肉でも喰はうかしら。」と呟いだら年寄は口を覆つて、
「籔へ行つて喰ふてくれ。」と云つた。もう一度は、彼が肥料日であつた野菜畑の傍を通る時に鼻をつまんで駆け抜けた……のを見とがめられて、この時は懇々と「道理」を説き聴かされた。それ以外では祖母と孫とは睦まじい二人暮しであつた。――孫は、下婢の手助けのために深い釣籠井戸から黙々として水を汲みあげることがあつた。食膳にのぼす為の蕗や胡瓜を剪つたり、鍬をかついで筍を掘りに行くこともあつた。ランプや行灯の仕末も引きうけた。斧を揮つて薪をつくつた。――彼は、凝つとしてゐるよりはそんな働きをした方がらくだつた。単に寝起きの時間が周囲の者と喰ひ違つてゐたゞけで別段余外に眠るわけでもなく、その為に酷く自堕落な者のやうに母達には思はれたが、夜中に起きてゐる時の方が遥かに、心のまゝに何かに向つて孜々たる気持を持ち続けてゐたやうにも思はれた。働きでもしてゐないとテレ臭さかつた。時々、書斎に定めたあの物々しい飛び道具や飾り物のしてある座敷に入つて机の前に坐つたが、昼間の勉強には容易に慣れられなかつた。
 彼は、耽念に巴丹杏や梅の木の虫を払ふこともあつた。籔の雑草かりを手伝つたり、茶摘みの手助けになつたりした。夜になると、就寝前の短い間を、雑談よりはその方が好もしく年寄の傍らで孝子伝や武勇伝を朗読した。また年寄と二人で半弓の技を争つたり、投扇遊びに打ち興じて夜を更すこともあつた。これは厭々だつたが脚のシビレを堪えて祖母に謡曲も少々習つた。
 兎も角彼は昼間の方が稍ともすれば不安を覚える位ひに変に馬鹿々々しくらくだつた。彼は、書斎に坐つてもテレ臭く、滝の処へ行つても誰かゞゐて逃げ帰り――そんな時には年寄にも隠れて籔の中へ行くのが常だつた。
 深い籔で奥が崖に突き当つてゐたから中程まで行くと真昼でも薄暗かつた。そして手入れが隅々まで行きとゞいてゐるので凄惨な気分は起らなかつた、あれ程夜に慣れてゐる癖に真暗な夜道を独りですることの出来ないやうな樽野にも――。
 籔は中途まで進むと中窪なかくぼみになつてゐた。筍を避け枯笹を踏んで四五間も進んでから振り返ると通つて来た竹籔が頭の上にあつた。舟底のやうな窪地だつた。そして更に窪地を進んで崖の近くに達すると、そのあたりは「空堀からほり」と称ぶ小範囲の湿気地だつた。そして常磐木が鬱蒼としてゐた。空堀の汀に立つて見あげると、熊笹に覆はれ槙や椿の老木を天蓋にした崖が眼上まで迫つてゐた。光りにすかして見ると湿気地の薄い水の表面には瘴気の泡が蟹の呼吸のやうに沸々としてゐた。時に依ると生餌を漁つてゐる亀の子を見かけることもあつた。
 窪地の裾で、一間先きからは葦になり空堀に続き越えて黒い崖を控えた一隅が程好い陽溜りになつてゐた。スギナと芝の地に斑らになつた弱い陽が点々としてゐた――。樽野は其処の椿の枝から肉桂の幹にハンモツクを釣り放しにして置いた。
 仰いでも辛うじて青空が窺えるだけだつた。時たま椿の木蔭から目白が囀り、葦の間から繁殖期の蝦蟇が鳴いた。彼は、釣床に寝て書物を繙いたり、夜の頃に似た空想に耽つたりした。稍ともするとあたりの深緑樹が海底の藻草に化して彼の寝床を包んだ。鳥の羽ばたきか何かで散り落ちて来る木の葉が游泳する小さかなになつたりした。
 また彼は、樫の梢に掛けてあるブランコに乗ることがあつた。風を切ると、五体に爽々しい一脈の清水が通つた、水が雷光になつて胸を轟かせたり、流星の尾になつて眼の先きをかすめたりした。疲れると彼は腰を降して、軽くゆるがせながら腕を伸して桑の実をつまんだり木苺を拾つたりした。
 或る日彼がいつものやうにブランコに腰かけて緩やかな振子になつてゐると、ふつと眼の先の空堀の向ひ側に可愛らしい西洋娘が立つてゐるのに気づいた。彼女は椿の幹に凭りかゝつて、ぼんやり此方を眺めて居た。向ふ側は幻灯のやうにぼんやりしてゐて、加けに此方は相当の大振りを試みてゐたところで光りがキラキラと眼の邪魔になつたが彼は、急に運動を止めるのも変な気がして、その儘振り続けてゐた。それでも、動揺する船の窓から灯台を眺める心地で彼は熱心な瞳を娘に投げてゐた。……でなければ俺には他人ひとの顔をそんなに凝つと見守る業は出来ないし! と彼は、益々大きく振つて行つた。
「ラウテンデラインだ!」と樽野は、何の不思議な気もせずに呟いだ。そして好く好く見ると、それはFが扮してゐる「森の娘」であつた。
 同時に樽野は、釣床の中で「沈鐘」を胸にしてうとうとしてゐた自分を見出した。
 樽野は、真つ赤になつて釣床から転げ降りた。そして彼は、肚を抱えて、笑はうとしたが、笑ひの方が空々しくて如何どうもならなかつた。
 彼は、ふざけて、声を挙げて、
「クラアックス、クラアックス! ブレッケッケックス!」と叫んだが、それでも笑へなかつた。笑へるどころか、真実自分がニッケルマンになつてしまつたかのやうな陰気臭さに囚はれた。
「クラアックス、クラアックス!」と、なほも呼んで見たが、樽野の顔は、悲しい鴉になるばかりであつた。彼は、呆然とした。馬鹿な濁声が馬鹿に空々しく樹々の梢にこだまするだけだつた。――彼は、眼眦が熱くなるのに気づくと慌てゝ傍のブランコに飛び乗つて、
「笑ひ出せ! 笑ひ出せ!」
 それに達するまで! と念じながら、無茶苦茶な大振を始めた。

 Fは、床柱を背にして、困つた! といふ風なはにかみを露はにした脚を鹿のやうに折り曲げてゐた。
「窮屈? Fさん!」滝の細君が時々思ひやつてゐた。
「いゝえ、関はない!」Fは、薄ら笑つて短いスカートの裾を撫でゝゐた。
「あたしに解るかしら、これ!」細君は膝の上の部厚な洋書の頁を翻がへしてゐた。色刷りの挿画に出遇ふ時だけ彼女は眼をとゞめてゐた。
「まアS子は遠慮がお上手なこと! アラまた間違へてしまつた、S子だつて! 御免なさい、ミセス・タキ!」
「まアFさんの人の悪いこと!」
 そして彼女達は、声を合せて笑つた。Fが両腕を腰にしてお辞儀をするやうに笑ひこごむと、玉(?)のついた細い首飾りが蜘蛛のやうに宙にブランとした。
 二人は睦まじさうにいつまでも話し合つてゐた。――やがて突きあたりの襖が開くと衝立の蔭から緋おどしの鎧に身を固めた奇妙な武士がよた/\と現れた。とても身に合はない鎧で、草摺は膝をかくすまでに垂れさがつてゐる。顔は、面の下で眼だけしか見えない、そんな甲冑が――全く中に人間がゐるとは思はれない、鐙は座敷の真中まで進んで、婦人達の前に立ちはだかると翼を拡げて、
「どんなもんだい。」とうなつた。滝の声だつた。
 彼女達は手を打つて、肚を擁えた。武士は自ら携えてきた床几を据えて、どつかりと腰を降した。――さうなると、それはもう全く人間が着てゐる物とは見えなかつた。完全に単なる一そろひの甲冑よろひかぶとが其処に据えられてあるに過ぎなかつた。
「重いでせう、かなり!」と細君は、蜻蛉のやうに痩せて小兵な具足の中の良人を想像して声を掛けた。
「重くはないさ。」と、鬚があり口のかたちがある鉄の面の上で重い作り声がした。「だけど俺には之を着ては到底いくさは出来さうもない。」
「此間パヽ達とインペリアル・シアタに行つた時それと同じなものを着たナイトを見たけれど、そのナイトは非常に勇敢に戦つた!」
「それは屹度何かでつくつたモデルに違ひないよ、さうでないにしても――いや僕にだつて自分の身に合せて仕立てられたものなら、ちつたア此処で armoured warrior の面目スタイルを見せてやれないこともなからうが……」と身じろき一つしない鎧が不平さうに答へた。
「おゝ、ありがたう――それで十分よ。」
「樽野さんのおばアさん、困つた顔をしやしなかつた? それ借りる時に――」
「得意だつたよ。未だ借りて来たものがあるんだ、F――、今見せてやるよ、裃といふものがある、翳扇といふものもある、一本君の為に貰つて来た、あげようね。」
「樽野さん何してゐた?」と細君が訊ねた。
「今日も留守だつたぜ……」
「まア!」
吾家うちへ来ると云つて出かけたさうなんだが、悪いから俺もそのつもりにして置くんだが、変だね、毎日/\!」
 置物の甲冑と、細君がそんな話を始めると、Fは鎧の側に近寄つて物珍らし気に、面の口に指を触れたり胴を叩いたり草摺をパタパタと鳴したり……仔細に見聞してゐた。「鎧」はその儘言葉を続けた。「今日などはね、途中で遇はなかつたか? と聞かれたんだが――無論此処こゝに来やしなかつたらう、仕方がなしに、えゝ! ツて云ふと、それぢや筍でも掘りに行つたのでせうと云ふんで、おばアさんと二人して籔の奥まで行つて見たんだがね……」
「居ないの?」
「うむ。」
     ――――――――――
 滝の細君のらしいフランネルの着物を着たFは籐椅子に凭つてゐた。湯あがりらしかつたが、いつも生々としてゐるせゐか、殊更入浴の後の人のやうにも思はれない。鏡台をさゝげた下婢が後から追ひかけて来ると彼女は、不用の意味の手を振つた。――何の化粧を施さないでも(?)彼女の唇は椿の花のやうに赤かつた。頬は桃のやうにふくやかだつた。
 彼女は北側の窓の近くへ椅子を寄せて、遥かな紫色の連峰を眺めてゐた。――滝が、そつと背後から忍んで来て彼女の椅子の背に凭つた。彼女は驚きもしないで振り返ると、たゞ笑つて滝の顔を見あげた。滝は此頃は無精を改めていつも整つた身装みなりをしてゐた。
 彼等は屡々戯れて手をとつたり、顔を眼近かにして熱心な会話を取り交したり、肩に凭り掛つたりすることがあつたが――そんなことは滝の細君にさへ何の厭な心地を起させもしなかつた。
「どれがハコネ山なの?」
「いや、ハコネ山といふのはね、あの一帯の mountain-range の、だね、えゝと? つまりそのトータル……で好いかな、解る?」
「さう! あたしは一つの山の名前かとばかり思つてゐた。」
「あの一つ一つには夫々の名前があるんだよ、明神ヶ岳とか、聖ヶ岳とか、駒ヶ岳とか、岳といふのは The mountain のシノニムだよ……だけど僕は、何れが明神ヶ岳で、何れが何と訊かれると返事は出来ない、あの二つ同じやうな姿で並んでゐる円屋根のやうな山を二子山フタゴヤマふのは知つてゐるが――」
「二つを合せて?」
「さう。あの麓の村へでも行つて村の老人にでも訊ねたら、二子山が更に分れて二つの名前を持つてゐることを吾々は知るかも知れないが……」
「あの山の下に二つの池があるわね!」
「ある、たしか一つはお玉ヶ池とひ、一つはヒョータン池とつたと思ふ……それから」と滝は余り詳細を訊ねられるのを怖れるかのやうに指先きの方向を転じた。「ずつと此方の方は、またトータルで足柄山とふんだがね、金時山は何れかな?」
「蛍があるのは何の山?」
「Fは蛍のことを思つてゐたのか――蛍はあんな山には産しないだらうよ、産したつて、夜行かれるわけはない。……蛍は、夕飯後に一寸と行つて来られる程度の処で、いや僕も未だはつきりは知らないんだ、友達の樽野が案内して呉れる筈なんだが……」
「それはどんなに美しい夜でせう! 流れにも畑にも一杯、光りの粉が乱れ飛んでゐるとあたしは滝から聞いたね。」
「僕は樽野から聞いたことを君に取りついだゝけなんだが、其処では何んな美しい我々の形容詞も役立ないさうだ、たゞ想へよ! と僕の友達は云つた、フエアリイ・ランド!」
 Fは、うつとりと眼をあげて滝の顔を眺めてゐた。
「Fの頭の中にどんなに壮麗な光景が拡がつてゐるか僕には好く解るよ、そして僕の頭の中のそれがまた君にも――」
「……」彼女は、切なさうに点頭いた。そして思はず滝の額にキスした。
 間もなく滝の細君も現れて彼等は、いつまでも眼近かに迫つた幸福な夜への憧れを中心にして晴れやかだつた。――そして夜になると滝の父親なども現れてダンスを始めた。
 一杯気嫌の親父は、洋盃を打ち振つて、蛍の団へ行かうとする若人達の為に! などゝ巻舌の英語で戯れのプロージットをしたりした。親父は更に調子づいてFを相手に古めかしい奇妙な踊りを演じた。相手のFは軽く上体を揺り動かしながら、たゞ相手の踊りの拍子をとつてゐるだけらしい、合間合間に向き合ふとスカートの両端をつまんでお辞儀するやうな格構をする、それが相の手で、親父は、種まき権兵衛のやうな腰つきをしたり、ブム大将のやうに肩を振つたり、蕨のやうに腕を伸したり、そして殊の他巧みなステップであつた。親父の姿は貴婦人の前で踊るゴリラのやうであつた。「古風な令嬢」は、それは踊りの範囲のうちで、微笑を湛へ、上眼をつかひ、満悦の態を表現した。――滝は、蓄音機の番をしてゐる細君の肩に凭つて熱心な眼を注いでゐた。
     ――――――――――
 滝は、椅子におちて仰向あをむいてゐた。蜜柑の樹蔭の芝生だつた。滝の椅子の片肘には編物に没頭してゐる細君が凭つてゐた。此方側の肘にはFが凭つて、空を仰いでゐた。彼女は、組み合せた靴の先きを緩やかに振つてゐた。
 滝は、あの、いつかの鴎の海辺の印象からヒントを得て創作したらしい極めて幼稚な歌を誰を憚ることもなしに胸を拡げて口ずさんでゐた。「あゝ!」とか「おゝ!」とかいふ詠嘆詞が夥しく彼の口から放たれるのであつた。――そして、あの時の彼の跳ねたり飛んだりした云はゞ貧弱で滑稽な姿は、悉く壮厳めかしく(それは主に彼の声色に依る)空々しい、「憧れの表象」として、無稽な美辞に変じてゐた。
 だが女達は、愚かな詩人の言葉に魅せられてゐるらしかつた。詩人が折々息を休めて婦人の感想を叩くと、細君は、尊敬の眼を輝かせた、異人娘は詩人の手にキスを捧げた。Fの為めに滝は既に拵えて置いたと見えて、多少込み入つた言葉の個所は(それは稀だつたが)英語に直して読みあげた。
「蛍の夜のわたし達の悉くの感想は、滝の詩に代へてね、あたしはそれを、自身の感想としてパヽに示したい、パヽは屹度滝へ感謝の手紙を書くでせう。」
 滝は、頷いてゐた。
 Fの塗り靴の先きは、葉蔭から射す光りを蹴つてゐた。
     ――――――――――
 ……ハチスの生垣の中に蜂のやうに顔を埋めてゐる樽野は、オペラ・グラスの眼で凝つとFの靴の先きを瞶めてゐた。
 空を仰いで頬笑んだ彼女の円らな瞳が、巨大な緑石になつて樽野の眼鏡を覆つた。乳色の大空が光りに映えて春の日の波のやうにうねつてゐた――それは樽野の眼鏡を白く塗沫してゐる彼女の露はな胸であつた、彼女の唇は芙蓉の花になつて樽野のおもてを包んだ――。
 同じく右の四節に引用した少量の場面は、日毎樽野が、木立に接した青い窓の隙間で、或ひはハチス葉の生垣の蔭で斯のやうに息を殺しながら見物した無数の「舞台面」から最も容易く叙述し得られるものだけを極めて杜撰なる態度で愴惶と並べたに過ぎない。
 ……兎に角樽野は、怪し気な熱情に駆られた悲惨な「観客」であつた。

 熊笹が密生してゐた。
 樽野は、背中に陽を浴びた丘の頂きに差しかゝると、其処から突然崖になつて瞰下される草木の深い急な斜面をアケビの蔓をたぐりながら転落する石のやうに素早く駆けり始めた。
 あの竹籔の奥で、真昼でも薄暗かつた。
 彼は或日いつものやうに空堀の傍らのブランコに乗つて水底の想ひに耽りながら、ふとそゝりたつ前の崖を見あげた時、
「さうだ、これを通路に選んだなら滝の家までは五ふんで達せられるだらう!」と気づいたのであつた。
「幾度往来しても誰にも見つからずに済むだらう。」と彼は寂し気な微笑を湛えたのであつた。彼は、Fがゐる滝の部屋へは如何程決心しても客になつて訪れることが出来なかつた。普段は独りの滝を見出すために他人が居ると覗いて逃げ帰つた樽野であつたが、此頃は独りの滝を見出しても彼は言葉をかけようとはしなかつた。いつまでも、Fの現れるのを待つ彼であつた。
 樽野にとつて此の崖ほど望ましく便利な近道はなかつた。
 樽野には、もうこの崖を昇り降りするのは何の苦もなかつた。彼は、口のうちでは何やら別なことを呟きながら、そんな危険な道も殆ど無意識の行動で降ることが出来た。滝の明るい窓を逃れて此処まで来ると彼は、一途な感情の疲労と寂しい安易に戻るのであつた。――観劇に疲れた見物が、次の幕が開くのを待ちながら夜空の運動場へ出て深呼吸をする類ひでゝもあつた。
 勢ひがあまつて彼が縋りつく椿の幹、青竹、野生桑の枝、モチの幹等の夫々の一個所は、日毎の樽野の手触りで公園の運動器具のやうに不自然な艶を帯びてゐた。熊笹の中にはいつの間にかゝら微かな一筋の径がなつてゐた。足場になる樹々の根瘤が選まれてゐた。玩具の玉転板に障碍の釘が打つてあるやうに順次に彼が飛び縋る木々がジクザクに選まれてゐた。
 彼は、もう、目かくしをして飛び降りても縋るべき木々の枝を間違へる筈はあるまい、順次の運動に軍隊的な号令を懸けても、前回のそれに比べて一挙動のピッチの相違も見出せまい、飛びつけば必ず其処に鉄の棒が横たはつてゐる、脚を挙げれば青い虚空がある、彼は機械体操では青空の鳥を眺めながら恰で無意識な手足であの危険なる「蝙蝠」の枝も出来た――そのやうに慣れた物腰で樽野は、様々な運動器具に戯れた斯道のチヤンピオンであつた頃に返つて、悠々と蔓をたぐり、空々しく技に飛びつき、発止と跳ねて青竹の笹を鳴した……演技に亢奮されて夜のバルコンに忍び出た観客のやうに、さうかと思ふと失敗を悟つた学生が試験場を飛び出して来たかのやうに頭髪を掻き※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)りながら――或ひは蟹の呟きを思はせる低い自嘲の溜息を衝きながら――木兎の眼に微かな涙を湛えながら――。
 全く其処の眼上に翼を拡げた椿の枝は飛びつくに程好い「鉄棒」であつた、崖に逆つて幹を跼めてゐる柏の老木はヨセミテの奇岩にも似た、鬣の豊かな木馬にも等しかつた。猿になつた彼がアケビの蔓から椿の杖へ飛び移つた、椿の杖からモチの梢に飛び交す彼は目白であつた、トロヤの戦士を装つて柏の蔭に身を潜めた。
 崖を降りきると、五月幟の竿のやうに伸びてゐる青竹によぢのぼつて、たわめて、弾道を描くと彼は一息で湿気地を飛び越えた。いまでは両岸の二本の青竹は左右からハネ釣籠のやうに空堀の上に弧をなして、飛手の現れるのを常に待ち構えてゐた。
 彼は毛布を被つて釣床ハンモツクの中で石になつた。
 さうして暫く凝つとしてゐると今迄切なく胸に生きてゐたFの姿が、極めて遠くお伽噺の人物になることがあつた。これは、いつもの創作の前の悩みに過ぎないのだ! と思へることもあつた。……かと思ふと、にわかに、起床ラッパを耳にした一兵卒になつて跳ねあがり、舞台に恋人を持つた秘かな一観客が開幕のベルに打たれた如く胸を躍らせて、あの原始時代の戦器にも似た飛越器に身を持つて石弾になり、降つたばかりの崖を一目散に昇り返すことも多かつた。
 ――彼は釣床の中で石になつてゐた。
 彼は太い溜息を衝いて起きあがつた。
 彼はそゝくさと威容を直しながら年寄の家へ向つて竹籔を脱けた。彼は平地の何気なさ気な散歩者に返つてコツコツと庭下駄の脚を曳いて行つた。そして、野菜畑の間を急ぎ足で素通りして、庭を横切り、もう悉く青葉に覆はれてゐる海棠の木蔭からあたりに人目のないのを見定めた後に、腰窓をまたいで書斎に飛び込んだ。
 床の間には四五日姿をかくしてゐた緋おどしの具足が再び返つてゐた。金泥に姥桜の散しを置いた小型の翳扇が一面欠けてゐるだけで、欄間の様子も元のまゝに返つてゐた。
 滝は今日借りたものを返しに来たと見へる、Fは何時帰るのだらう――樽野は欄間を見あげたり、床の間の飾物を眺めたりしなから呟いだ。
 突然動き出して来た具足を見せられてあの時一寸と驚かされたせゐか樽野は、いつにも気を止めて見たこともなかつた其処の具足をぼんやり眺めてゐると、今にもその四角張つた面の口から滝の声が洩れて来さうな気がした。
「蛍狩りはいよ/\沙汰止めかな!」樽野は呟いだ。そして何となく怖る/\、Fがした物腰を思ひ出しながら具足の傍に近寄つて、甲を叩いたり、口腔に指をいれたりした。
 樽野だつて勿論滝達に嘘を云ふつもりではなかつた。源氏蛍の名所がある! 蛍の合戦を見た! 蛍の吹雪に目を呟まされた! 水の上を飛びかふ蛍の群で其処の流れは光りの縞をなしてゐた! 大空を見あげれば星が砕けて飛び散つた光景だ! ――たしか年寄からそんな素晴しい話を聞いて樽野だつて、思はず眼を視張つたのである。
 或晩などは彼は、下検分のつもりで、オートバイを駆つて村を出はづれ、松の並木道を越え堤に添つて、此処ぞ! と思つた河原の傍を上つたのであるが、このあたりでキツネ蛍と称ぶランプの灯とりに飛んで来ても誰も見向かうともしない、瞬くやうな微かな光を時たま淡く放つだけで、風船虫程の大きさの小蛍――そんなのが折々流れの向ひ側でアッケなく明滅するのを瞥見したゞけで、子供の狩り手にさへ出遇はなかつた。
 だが樽野は、もうそれ以上車では進めなかつたので引き返したのだから、徒歩で出直し、もつと先きまで遡つたら必ず話のやうな蛍の産地に出遇ふに相違ないといふ確信はもつてゐたのだが、たつた独りであんな暗い道をトボ/\と出向いて行かうとする段になると堪らない気遅れがするのであつた。と云つて、あのやうな望みを持ち続けてゐる籔の向ひ側の向ふ見ずな連中を誘つて的度もなく出発するには自分ばかりの荷が重過ぎた。
「ね、滝! そして俺は君達に嘘つき者だと思はれてしまふのも敵はないんだ、どうしたら好いだらうな!」と彼は、生ける者に物言ふ通りに、儼然と控えてゐる具足に向つて訴へた。
「そして俺は次第に君達から遠ざけられてしまふのかと思ふと寂しい。」
「お前はさつき出かけたね?」
 たつた二人の静かな夕餉を終へた時に樽野の祖母は、不機嫌な顔を露はにして訊ねた。
「…………」
 樽野は、あれだな! また見つかつてしまつたのか! と気づいたが、わざと空とぼけた眼を視張つて首をかしげた。決して誰にも見つかる筈はないと思つてゐたのだつたが、いつの間にかゝら年寄だけにはあの往来を見つけられてゐた。――「あゝさうか、一寸と滝のところまで……」と仕方がなしに半ば独白的に呟いだ。
 年寄は常々他人ひととの往来は強ひても彼にすゝめるのであつたが、彼が他人を訪ねるのに、裏伝ひで「とんでもない!」道もない竹籔などを抜けて、夜盗ぢやあるまいし! と嘆くのであつた、玄関を出て玄関から訪れないことを非常な不満にしてゐた。そして樽野は、一言もなかつた。
「滝さんはお留守ぢやつたらう、お前が戻る一寸と前に此処にお見えになつたわ、また! 何処へ行つたのかと訊ねられたが、まさかお宅へあがりましたとは云へない……残念ぢやわい!」と年寄は息を切つた。……毎々のことで心苦しさの至りだ、黙つて出かけました、筍でも掘りに――と云ふと、滝さんはにや/\笑ひ出して、
「お宅の籔は珍らしい、いつになつても筍があるんですな!」
 私は、赤面した、
「それとも――」と思はず口ごもつた、
「用があるんだがな……」
「見て参じませう、少々お待ちなされて――」とお願ひして立ちあがつたが、途中で遇ふかも知れないと滝さんは若気な顔をして元の道を帰られた――たつた一つ貴様の仕業が間違つてゐるだけで皆なの者がどんなに迷惑を蒙るか計り知れない、気がつかなかつた方が私はましだ! 私の心苦しさと云つたらない、私は生れて始めて斯んな嘘を覚えさせられてしまつた……この儘では私はもう滝さんに合す顔は持てない!……。
「あれは――」と年寄は、未だあたりは明るかつたが其処だけはもう真ッ黒に暮れてゐる彼方の竹籔を指さした。「あれは、止めて貰へんものかな!」
「……」樽野は閉口してうつ向いてゐるばかりだつた。――そして、はつきりと青い眼のFが恋しかつた。
「どうかね、返事は?」
「……」樽野は肩で息をしてゐた。
「それともお前はあの異人さんが――」
「!」樽野はギョツ! とした。
「そんなに異人さんが好きなのなら、異人さんをお嫁にしてアメリカへでも行つたら好いだらう――私はお別れだ。」
「…………」
 どうして祖母に、こんな秘かな自分の想ひが知れたのだらう――さう思ふと樽野は、年寄が怖ろしかつた。
「お前の机に艶めかしい西洋の手鏡がのつてゐるのを私は見た、あれはどうしたことだらう、お前が此処に置き忘れて行つた懐中時計を見ると、蓋の裏側には西洋娘の写真が貼つてあつた!」
「…………」
「私はお前の奇妙な寝言を聞いたよ。」
「…………」
「いつの間にか大変な寝坊になつたね!」
「…………」
 云はれて見れば、次第に朝の目醒め時が伸び夜の寝つきがそれに準じてゐるのに! そして一ト頃のやうに何の戸外の働きもしなくなつてゐるのに! 夕飯時でなければ年寄と顔も合せずにゐるのに! 彼は気づいた。
「兎も角も籔を抜けることだけは止めて欲しいね――」
「…………」
「当分自分の家へ帰つたら如何かね……」
「…………」
「帰つて貰はうよ。」
「……だけど――」膝に額を接するばかりに近寄せてゐる樽野は、蚊のやうに細い声で鳴いた。――屹度健康な生活を取り戻して帰つて来る、それまではどんなことがあつても吾家は覗かうともしない――さういふ約束を母と取り換して、祖母の家へ来た樽野であつた。朝寝を罪悪と心得てゐる樽野の祖母であつた。年寄とも元々堅い約束を取り換して勇んで滞在を乞ふた樽野であつた。
「……入梅に入つてゐるのにおしめりがないのを案じてゐたんだが、まア好かつた、雨になつて来た、これで一と安心だ――カラ梅雨つゆは不吉だ。」
「…………」
 樽野は見向きもしなかつた。
「まア/\考へて御覧よ。――どれ/\私は御仏前へお灯明をあげて来なければならない。」
 間もなく年寄の木魚を叩く音が聞えて来た。
 樽野が、そつと顔をあげて外を眺めてゐると簑を着た男が小走りに籔の中へ駆けて行くのが眼に映つた。

底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第二十四巻第七号」新潮社
   1927(昭和2)年7月1日発行
初出:「新潮 第二十四巻第七号」新潮社
   1927(昭和2)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年7月18日作成
2011年5月6日修正
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