「妾のところにも、Fさんを遊びに連れてお出でな。」
 さうしないことが自分に対して無礼だ、友達甲斐がない――といふ意味を含めて、照子は、傲慢を衒ひ、高飛車に云ひ放つた。F――を照子のところへ、連れて行くも連れて行かないも、あつたものではなかつたのだ、私にして見れば――。だが私は、自分の小賢しき「邪推」を、遊戯と心得てゐた頃だつた。愚昧な心の動きを、狡猾な昆虫に譬へて、木の葉にかくれ、ひかりを見ず、夜陰に乗じて、滑稽な笛を吹く――詩を、作つて悲し気な苦笑を洩らしてゐた頃だつた。
「…………」
 で私は、意地悪さうに返事もしないで、にやにやと笑つてゐた。照子が、そんなことさへ云はなければ、此方からそれを申し出たに違ひなかつたのだ。
「毎日何をしてゐるの?」
「どうも忙しくつてね……。何しろFは珍らしい客だからね……」と、私は惰性で心にもないことを呟いて、恬然としてゐた。
「よく、純ちやんに相手が出来るわね?」
「そりやア、もう……」
 私は、どういふわけか照子の前に出ると、ほんとのことを云はなかつた。お座なりではなかつた。寧ろ、苦しい遊戯だつた。
「照ちやんから遊びに来たら好いぢやないか、僕はFとなんか往来を歩くのは厭なんだよ、何しろ異人の娘だからね、往来の人に一寸でも眼を向けられちや堪らないからね。」
「さうでせうとも、スラリとした人と並んで歩くのは気が退けるといふ質の人だからね、あんたはよッ!」と云つて照子は私を嘲笑した。照子は「スラリとした人」に自らを任じてゐるのだ。
「Fは、まつたくスラリとしてゐるね。あれが若し日本人だつたにしろ僕は、気がひけるよ。まつたく僕は、Fと話をしてゐると酷く気がひけてならないよ、そして彼女は、快活で、聡明で、邪気がなくつて……」
 照子は暗に、妾と一緒に歩くのが気がひけるんだらう、妾はスラリとしてゐるし、お前はチビだから――といふ厭がらせを与へたのであることを悟つた私は、反対にFを激賞することで照子の鼻を折つてやらうと試みたのである。
「第一僕は、Fの容貌が気に入つてゐるんだ。あの青い眼玉には、爽やかな悲しみが宿つてゐる。あの鼻の形は、往々見うけるそれと違つて、冷たさを持つてゐない。楚々としてゐて、それで冷たさがないんだ。」
「少し痩せ過ぎてはゐないこと!」と、照子は云つた。照子は、丈も高くそして、私から見ると肥り過ぎてゐた。照子は鼻の話をされるのを何よりも嫌つてゐた。私は好く悪口の心意つもりで「照ちやんの鼻は暖か味があふれてゐるよ。」と云ふのであつた。
「痩せてゐるといふ言葉は当らないよ。伸々として、引きしまつてゐるんだ。」
 私が照子を対照にして厭がらせを試みてゐるのだといふことには気づかずに、彼女はたあいもなく私に煽動されてるかたちになつて、Fに敵対する口調を洩らし始めた。
「妾だつて、洋服を着ればそんなに肥つて見えやしないわよ。妾は、さつきもお湯に入つた時、鏡の前に立つて見ると自分の恰好に見惚れたわ、なんだか自分ぢやない気がするのよ……」と照子は、鈍い眼を一寸物思ひに走らせて、
「ああ、妾どうしても洋服を作るんだ。」と独り言つた。
「うむ。」と私は、わざと真面目な賛意を示した。かうなると、もう照子は私の敵ではなかつた。
「一体妾のスタイルは、和服よりは洋服に適してゐるんぢやないかしら?」
「まア着て見なければ解らないが、……そりやアもう大丈夫だらうな。」と私は、首をかしげて点頭いた。(また軽蔑の種が出来て、退屈が一つ忍べることだらう。貴様みたいな薄ノロが洋服を着たら、さぞかし……フッフッフ。これ程思ひあがつてゐれば、大丈夫なものだ。)私は胸のうちで、そんな悪いセセラ笑ひを浮べてゐたのである。
「ワンピイスが好いかしら? それとも?」
 照子は、私などに頓著なく楽しさうな想像に耽つてゐた。
「二通りや三通りは必要だらうね。帽子のこと、靴のこと、いろいろ愉快だね……」
「Fさんは、不断は主にどんな風なの?」
「さア?」
 私は、Fの服装に就いての記憶がなかつたことを後悔した。
「ともかく、あしたあたりFさんを紹介しておくれよ。」
「Fは、日本語は喋れないんだよ。」と、私は白々しく云つた。
「いいわよ、純ちやん程度になら妾にだつて出来るわよ。」
 照子は、如何にも自信あり気に云ひ放つたのだ。不断から彼女は、東京に居る時分、一年以上西洋人に就いて Practical English の個人教授に通つたといふことを自慢して、言葉の合間などには、往々私に解らない英単語を交へるやうな女だつた。私は、或る私立大学の英文科に籍を置いてゐたが、英語の小説すら原書では読めなかつた。
「だが――」と私は、一寸胸を衝かれて、
「いざ実際となると中々六ヶ敷いからな。」
 などと変に不平気に呟いた。Fが日本語が喋れなければ、私と交際出来る筈はなかつた。彼女は、五六年も日本に滞在してゐたから、日本会話は相当巧みなのだつた。私とFとの会話は、和語が主だつた。
「だつて好いわよ。」と、照子も不平さうに呟いた。
「だが――」と、私は更に語尾を濁らせて、相手に聞えぬ程度の小言を何か口のうちでブツブツ呟いてゐた。
 単に、かかる卑しい心の遊戯は別として、彼女達を紹介すると、私が如何に惨めな法螺ふきであつたか! といふ事実が彼女達に知れてしまはなければならなかつた。私は、Fの前では、照子といふ女が、自分の“Sweet Heart”だといふ風に仄めかしてあつたのだ。そして照子には、Fのことを実際の親しさ以上に吹聴してゐるのだ。
「Fはね……」と私は云つた。「一寸僕に……気に喰はないところがあつてね……」
「何いつてんのさ。そんなことは如何だつて好いぢやないの?」
「いや……彼奴はヤンキー・ガールで気持が悪いんだ。」
 私は、突然そんなことを云つた。たつた今あれ程までに激賞したFである。すると照子は、(何も私を目安にしてFに競うたのではない、道を往く美しい人に反感を持つ程度の反感を私の言葉でそそられた後だつたので)軽く、卑しい自尊の眼を輝かしたのだ。だからほんとなら、私の失言をとがむべき筈のところを忘れて、
「やつぱりね……」と、快心の点頭きを示した。
「だから三十分も話してゐると、退屈してしまふよ。」
「さうかね……」
「髪の毛が、厭に赭かつたり、眼玉が菓子のやうに青いのも、一寸は興味があるが、よくよく眺めてゐるとなんとなく人間離れがしてゐるやうな気がしたり、此奴どんなことを思つてゐるか? なんていふ気がして、薄気味悪くなつてくるぜ。」
「純ちやんも随分幼稚だわね、ホッホッホ。」と、照子は嬉しさうに笑つた。
「そして彼等の習慣は、あまり物質的で気持が悪くなるんだ。」
「そりやア、妾は好いと思ふわ。」
 照子が、有頂天になつて気取つた非難を私に浴せた。「純ちやんなんての趣味は、野蛮でお話になりやアしないわ。」
「そりやアさうだらうが、ああいふ婦人の相手はとても辛いね。」
 私は、ほんとのことを云つてゐたのだが、都合の好いことには、照子は、私がFを僭越な意味で説明してゐるんだ――と誤解してゐた。で私も、つい嘘に花が咲いて、調子づいて、かうは云ふもののFと自分は愛し合つてゐるんだ、などと云ふ途方もない思はせ振りを示したりするのであつた。
「そこへ行くと妾なんぞは、心が拡いことよ。西洋人であらうと、純ちやんであらうと同じ心で附き合へてよ。妾は、いつそ外国人と結婚がしたいわ。」
 結婚――そんな言葉を聞いただけでも、私の胸には甘くて熱い煙りがムッと渦を巻いた。――照子は、立ちあがつて縁側の椅子に腰を降して、海を眺めた。私は、醜い焦躁を振り払つて、やつぱり海の方へ眼を投げた。そして細く詠嘆的な声で、
「波がおだやかだね。」などと云つた。
「Fさんは今日は留守なの?」
「親父達と箱根見物に行つた。」と、私は物憂気に答へた。

「お前は英文学を研究してゐるさうだが、英会話は不得意らしいね。」
 或る日Fは、そんな質問を発して私の喉を塞らせた。
「英文学を研究してゐるなんて、誰から聞いたの?」
「いつか、お前のダッディから聞いた。」
「いや僕は、日本のクラシックを主に研究してゐるんだ。」
「おお、さう。」
 決して疑り深くないFは、易々と点頭いて、秘かに私を恐縮させた。Fの、この疑り深くない「おお、さう。」では、私は、屡々辟易させられたのである。私は、初めて父からFを紹介された時のことを覚えてゐる。――彼等が一時間以上喋つてゐた間、私に関する部分だけは、きつと聞き耳をたててゐたから、三分通りの要所は辛うじて解つたのである。
「彼は、如何にしてあんなに黙つてゐるのか、何か気嫌でも悪くしてゐるんぢやないかしら?」と、Fは、私のことを私の父に訊ねたのだ。父は、遊蕩的な笑ひを浮べて、
「レディの美しさに大方圧倒されてゐるんだらう。然しあの私の倅は、交際下手をいくらか自慢にするといふ風な愉快でない性質を持つてゐるんだよ。」
 私は、父を軽ハズミなことを得意になつて云ふんだ、と観察しながら、横を向いた。Fは、膝の上の大きな赤革の化粧ケースの蓋を開けて、その中の鏡に顔を写して、のべつに頬のあたりを白粉で叩きながら、
「私は、そんな性質は知らない。」と、冷たく云つた。
「F!」と、尚も私の父は厭味な微笑を漂はせながら云つた。「彼に作法を教へてやつて呉れないか? だんだんに――」
 チェッ! ――と私は、ふてくさつた舌打ちを、胸の中に感じた。
「おお、さう。」と、Fは無頓著に点頭いて、そして直ぐに私の方を向いて、
「……You……dear……お前の町の美しい海岸を案内して呉れないか……私は日本語を研究してゐる……見物に興味を持つてゐる……青年と交際して……この街に著いた最初の印象は……」
 ……は、私に聞き取れなかつた部分である。私が、黙つてゐるのでFは父の方を振り向いて、
「彼は、英語は話せないのか。」と訊ねた。
「Practical は不得意らしい。」と父は答へた。弁護したんだな、Practical も Academical も不得意なんだぜ――と私はそつと呟いて、気おくれを感じた。
「おお、さう。この先私と交際して行つたら、彼の勉強にもなるだらう。」
「非常に、非常に――彼は、学校を卒業したらお前の国を訪問したい希望を持つてゐるさうだ。」
 私は、一層迷惑を感じて、更に苦い顔をした。父は、一寸私の堅い存在に疾しさを感じたらしく、素早く、
「何とか云へよ。」と囁いた。
 私は、眼と首を横に振つた。
 父は、軽く舌を打つて――直ぐに、また愛嬌好くFに話しかけた。――私は、うつかり素晴しく大きな欠伸をしたのである。
「お前エは、もう帰えれよ。」と、更に父は、私に囁いた。私は、ホッとして立ちあがつた。父とFは、何か私に解らないことを喋つてゐたが、うしろを向いて立ち去らうとした私の熱い耳にふつと父の一言が入つた。
「彼は、Foolish なんだよ。そして時々病ひの発作が来るんだよ。」
「おお、さう、Foolish!」
 Fの言葉は、科学者のやうに冷く澄んでゐた。そして、動くところなくはつきりと断定してゐた。
(Foolish といふ言葉に、軽蔑や嘲笑の意味が含まれてゐないんだな――こいつア、却つてどうも堪らないぞ! 患者にされてしまつたわけだな。……Foolish boy! A Foolish boy!……)
 私は、そんなことを呟きながら石のやうに愚かしく重い体を、重苦しく運んで帰つて来た。私は、祖母と母の前で父を罵倒した。
「好く帰つて来た。阿父さんのやうなお調子者の真似はするな。」
 七十歳の祖母は、そんなことを云つた後に仏壇に向つて、
「ナム・アミダブツ。御先祖様、何卒純一の身をお守り下さい。」と、祈つて仰々しく礼拝した。母方の祖母である。私は、F達の前で自分が因循であつたことに秘かに冷汗を覚えながら、却つて自分を潔癖者の如く吹聴して、父を罵り、祖母達の歓心を買つたのだ。――一年ばかりの間に、Fは非常に日本語が巧みになつてゐた。そして私とも交際出来るやうになつた。
「海のシイズンになつたら、お前は私の家族と一緒にK――へ行く約束だつたね。」
「ああ。」と、私は困つた返事をした。この間そんな話が出た時、私はFと行く海水浴場の花やかさに浮かされて、俺は水泳なら相当のチャンピオンだ……などと、出たら目な高言を吐いたのである。
「お前と二人だけぢや寂しいんだが、お前の友達のミス・テルコは私達と一緒に行つては呉れないだらうか?」
「行かないだらう、第一彼女の性質は因循で面白くないよ。」
 私は、照子のことを蔭で、あらぬ悪態をついてやることが面白かつた。
「インジュンとは、どういふ意味なの?」
「つまり、Fと正反対の性質なんだ。そして馬鹿馬鹿しいカントリー・ガールだ。」
 この間照子の前で、Fの悪評を試みたと同じやうに、あの生意気な照子のことを今日はさんざんにこきおろしてやらう――などと私は思つた。
「だつてお前は、この間友達の中で最も好きなのはミス・テルコだつて云つてゐたよ。」
「うむ――。ただテルコは僕に対して非常に柔順だから、僕はつまりペチイに思ふだけさ、愛し方だつて色々な種類があるだらうぢやないか。」
「妾のことを、妾のBがさう云つたことがある。」
 Fは、軽く笑つて慎ましやかに眼を伏せた。私は、陰鬱な嫉妬を覚えた。Bといふのは、横浜に居るFと同国生れの青年で、常々親しく往来してゐるといふことを、私は屡々Fから聞されてゐた。
「B君と同伴すれば好いぢやないか。」
「Bは、オフィスの仕事を持つてゐるから日曜日だけしか遊べない。」と云つたFの眼は、私の思ひなしか、悲しさうに見えた。
 庭の木々は、輝いた陽を一葉一葉の新緑に受けて、水に映つた影のやうに光つてゐた。私は、静かな庭に眼を放つてゐた。真向きにFを感ずるのが苦しかつたからである。庭木の合間からは、裏の小さな野菜畑が見えた。畑の隅の物干場には、Fの靴下が長い一本の細引に沢山掛けてあつた。そして、凝と静かな陽を浴びてゐた。私は、それらの靴下に凝と眼を注いでゐた。
「退屈だから、ミス・テルコを訪れて見ようぢやないか。」と、Fは云つた。
 勿論私は、極力反対した。到頭Fの感情を害ねてしまつた程、それほど熱心に反対したのである。
 私は、床の間の端に座蒲団の折つたのをあてて、そこを枕にして上向けに寝転んで、黒い天井を眺めてゐた。
 Fと照子は、縁側に近い処に椅子を向ひ合はせて、切りに巧みな会話を続けてゐた。
「テルコさんと知り合ひになつてから、妾は大変幸福になりました。」
「ジュンから聞いたあなたの印象と、お目にかかつて以来の感じとはまるで別ぢやありませんか、ジュンは何といふ嘘つきでせう。」
 照子は、半ば私を意識に容れて、そして私をからかふためにそんなことを喋つた。Fが私のことを自国の習慣に従つて、「ジュン」と呼び棄てにするのを、照子は真似たのである。
「お世辞がうまいでせう。」
 Fは、さう云つて巧みに笑つた。勿論私は、Fと照子が知合ひになつた翌日から、二人からすつかり除け者にされてしまつたのである。彼女等は、私を軽蔑にさへ価しない者として取扱つてゐるといふ風だつた。
 音楽の話、芝居の話、オペラの話、結婚の話などが主に彼女達の話材だつた。そして、そのうちの何れに就いても私は無関係で唖だつた。
 彼女等に取り入る一つの手段として、何か一つ自分も相当の知識を披瀝したいものだ――私は、無暗とあせつたが、凡てが夢になるより他になかつた。
 私は、静かに眼を閉ぢた。……(こんな馬鹿女達を相手にして、焦々するなんて俺も甘いものだな。――)口惜し紛れにそんな独言を浮べて見たが、少しも力が入らなかつた。却つて、甘い悲しさを煽りたてて、不快の度を強めるばかりだつた。
「ジュンは眠つてしまつた。」
 ふと私の耳に、Fの声が伝つた。私は、胸でにやりとして、眠つた真似をした。
「なんとなく気の毒な気がしますね。」
「彼のダッディが、ずつと前彼のことを Foolish だつて云つたことがあります。」
「ホッホッホ。」と、照子は堪らなさうに忍び笑ひをした。

 私の友達の山村と、照子の弟の一年前中学を卒業した龍二と、私と、Fと、照子と蜜柑山の方へ散歩に出かけた。
「秋になると、この辺一帯が黄色い蜜柑ですつかり覆はれてしまひますのよ。」
 照子は、Fの質問に答へて、洋傘の先で眼の下の畑やら、上の丘などの青い樹を指し示したりした。
「純ちやんところの蜜柑畑はこの辺ぢやなかつたかしら。――あの花を折つたつて構はないだらうね。」
「ああ構はないとも、よそのだつて構ふものか。」
「龍ちやん、あのハチスの花をとつてお出でよ。」と、照子は弟に命じた。龍二は、懐ろからジヤックナイフを取り出して、二三本のハチスの花を切つて来た。
「Fさん、山村さんのボタンに一つさして上げなさいな。」などと照子は、噪いで云つた。山村は、赭い顔をして、細い上りの道を駆けて行つた。Fは、ポケットからのべつに菓子を撮み出してムシャムシャと頬張りながら「オレンヂのシイズンになつたら、また妾は訪れませう。その時分はジュンは居ないだらうが、あなたと、あなたの龍二が居れば充分だから。」と云ひながら龍二の肩を叩いたりした。
 丘の中腹を一周して、私達は帰り路についた。私達は中学の裏から運動場へ出たのである。
「ここが皆なの出た中学なんですよ。」と照子は、Fに説明した。
「おお、ナイス、グラウンド!」
「山村さんと龍二は、このグラウンドの人気者なんですよ。」
 照子は、さう云つて、運動会の時の話などをした。日曜の午後で、広い運動場には子供が二三人隅の方で遊んでゐるより他に人影はなかつた。
 そこは、旧式の運動の盛んな学校だつた。卒業生の大半は、陸軍士官学校と海軍兵学校を志願した。運動場の周囲には様々な体操器具が堂々と立ち並んでゐた。――十二階段、平行棒、飛越台、木馬、棚、幅飛び、棒飛び、梁木、遊動円木、天秤台、機械体操、射撃場、名前は忘れたが、穴の上に丸太が渡してある処――その上で二人の者がそれぞれ一本の腕で争ひ穴の中へ落し合ふ場所である丸太橋――。
「ここで暫く遊んで行きませう。」と、Fが先に云ひ出した。私は、厭だと主張したが、照子は聴き入れずに、
「皆なの運動を見物しようぢやありませんか。」
 と、云つて山村や龍二を促した。
「うん、やらう。」と山村は云つた。
「俺は、暫くやらないから巧くやれるかどうかね。」などと云ひながらも、龍二も賛成した。そして私達は、先づ機械体操の前に集つたのである。山村と龍二は、シャツ一枚になつた。
 Fと、照子と、私は隅の芝生に腰を降して熱心な眼を視張つた。
「妾は、未だかういふ種類の運動を見たことがない。」と、Fは云つた。
「僕は、かういふ種類のミリタリスティックな気風は余り好かない、……ミリタリズムは嫌ひぢやないんだが。」
 私は、そんなことを呟いてゐたがFにも照子にも聞えなかつた。
 山村は、最初に逆車輪を演じた。私も、その妙技には沁々と感嘆したのだが、Fと照子が余り熱心に見物してゐるのに反感と嫉妬を覚えて、仲間の技術を監視してゐるといふ風な冷かな眼で眺めてゐた。
 たくましい山村の腕に握られると、鉄棒の方が飴のやうに自由になるかのやうに見えた。そして張り切つた筋肉が、ピシ、ピシと快い音をたてて鉄棒に鳴つた。山村は、多少の恥らひを含みながらも、いつの間にか自分の技倆に恍惚として、息を衝く間も見せず鮮かに鉄棒に戯れた。天空を飛翻する鳶の如く悠々と「大車輪」の業を見せて、するりと手を離したかと見ると、砂地に近いところで伸々とした宙返りを打つた。
「おお、キレイだ。」
 Fは、思はず叫んで照子と私を見た。
「どうも、まだいかん。」といふ風に山村は、得意らしく首をかしげて笑つた。山村の勇敢な、そして謙遜な姿は、男の私が眺めてさへ恍惚とした。
「龍ちやん、今度やつて御覧!」と、照子が叫んだ。――龍二は、十二階段の頂上に駆けのぼつて、倒立をした。彼は、それが得意だつた。足先をそろへていつまでも蝋燭のやうに立ち続けた。そして、ゆるやかな弾道を描いて、地上に降りた。山村は、続いて頂から、上向に寝て脚から先きに落ちる芸当をやつた。
「ジュンも何かやつて御覧な。」と、Fが云つた。私は、さつきからその言葉を聞くことばかりを怖れてゐたのだ。
「純ちやん、機械体操をやつて御覧な。」
「……」――「僕は、遊動円木が好きだ。」
「遊動円木なら、妾だつて出来るわよ、ねFさん。」
 Fは、笑つて点頭いた。山村と龍二は相競うて運動を続けてゐた。――梁木渡り、幅飛び、棒飛び、……何れも悉く見物を感心させぬものはなかつた。Fも、照子も、私も手に汗を握らせられた。
 二人は、汗でシャツをぬらせて私達の傍に来て休んだ。Fは、山村にいろいろ運動に関する質問をしたり、激賞したりして山村をてれさせた。
「ああ、暑い暑い――海へでも入りたいな。」と、龍二は云つた。
「今頃の海の水は、却つて暖いよ。俺この間、一遍入つて見た。」
 山村は、無器用な手つきで煙草をふかしながら呟いだ。
「もう!」と、Fは眼を丸くした。
「僕は今年の冬は、三度も泳いだ。」と、龍二は云つて「あしたあたり、験しに入つて見ようや。」など呟いた。
「ぢや妾達も海辺へ行つて見ませう、ね、テルコさん。」
 照子は、点頭いて、
「妾達も入つて見ませうよ。波打ちぎはのところで、脚だけ――」と、云つた。
 夏になつたら、皆なで一緒に毎日海水浴へ行かうなどといふことを話し合ひながら、私達は家へ帰つた。――その晩、私は『水泳術』の本を読みながら寝た。

 翌朝、私が起きた時は、もうFの姿は見えなかつた。さつきFが、私を起しに来たのを、私は知つてゐたが、知らん振りをしてゐた。無邪気に眠つてゐる風を装うてゐたのだ。私は、前の晩Fに、自分も龍二達と同じやうに、冷い海で泳ぐと云つたりしたのである。
「龍二や山村は、達者に泳ぐことはたしかだが、漁師の泳ぎであるから見苦しい。」
 私は、そんなことを云つて暗に自分は目覚しい水泳の選手であるといふことを仄めかしたのである。――そして終ひには、彼等の泳ぎ方は馬のやうだなどと露骨に罵倒した。Fは、私の云ふことを信じて、
「ぢや、サドルのある馬には乗れないといふ種類なんだね。」と、冷笑した。
「Fは、アレゴリイが巧みだね。その通りその通り、――その代り、F達が泳ぐ時のライフ・ボオトには持つて来いの代物さ、ハッハッハ……」
 私は、テエブルの上に立ちあがつて飛び込みの型を示したり、眼鏡を懸けて海の底へもぐつた時の印象を話したりした。また、クロオルを行ふ時の、首の振り具合、腕の抜き具合、呼吸の仕方等を説明した。打ち寄せる大波の底を目がけて砲弾のやうに飛び込み、波向ふに進む時は、大海原を征服したやうな誇りを感ずる、などと云つてFに舌を巻かせた。
「今日の運動場では、お前は活躍しなかつたが、ぢや海辺へ行けば素晴しいヴィクタアなわけだね。」
「階段の飛び降りとか、機械体操のトンボ返りぐらひなら子供の時分は巧かつたが、あんな単調な運動には愛想が尽きてゐるのさ。」
「あした、お前も泳いで見る!」
「その年、誰が一等先に海に入つたかといふことは中学生時分には誇りになつたものだ。新年の第一の朝などは、旭の昇るのを待ち兼ねて泳いだことだ。」
「夏になつたら、いろいろ泳ぎの方法をお前から教はることが出来るね。」
 朝になると、私は胸騒ぎがして不断なら容易に眼が醒めないにも拘はらず、試験の朝が思はれるやうに眼が醒めた。Fが、枕元に立つて切りに起したのであるが、私は、微かな鼾をたてて眠つた振りをしてゐた。
「ぢや、海辺へ行つて待つてゐるよ。」
 Fは、さう云つて出掛けた。
 Fが来て以来、祖母と母は伊豆の温泉へ出かけてゐた。父は四五日前から事業の用事とかで、旅へ出て留守だつた。
 私は、暫く振りでのうのうと独りの朝飯を済してから、書斎に入つて端然と机の前に坐つた。東京の友達とやつてゐる文芸同人雑誌の翌月号に、小説を書く筈だつた。照子だの、Fだのを相手にして愚劣な焦躁を覚えながら、馬鹿馬鹿しい日ばかりを送つて来たことを、今更のやうに後悔した。今度こそ、真剣になつて力作を執筆するんだ、と力んで東京の友達に別れて来たのである。
「君、恋愛なら恋愛をむきになつて書き給へよ。吾々の感覚のリズムは、常に張り切つてゐるんだ。微風が触れても啜り泣く、そこに生命の躍動があり、血みどろな生活も意義があるんだ。」と、藤田は云つた。彼は三人の女から次々に愛を強要されたが、彼は悪魔的で、虚無思想を奉じてゐた。凡ての女を振り棄てて、暗い独りの道を、宇宙の何物かに憑かるるやうに、首を垂れてたどつた。「A子さん、B子さん、C子さん、僕の残酷を許して下さい。」と、彼は叫び、そして何者かの力を感じて微笑した。A子は人妻だつた。B子は友達の恋人だつた。だが、宇宙には善もない、悪もない、ただ永遠の流れがあるばかりだ、と悟つて憂鬱な青春を過した――といふ主題の長篇小説を書いた男である。「その主人公の世紀末的思想!」さういふのが藤田の口癖だつた。自分の生活を如実に描いたのだと云ひながら、「その主人公は、その主人公の気分は――」などと云ふのも彼の口癖だつた。「宇宙には、善もない悪もない、ただ永遠の流れがあるばかりだ。」その言葉に軽い節をつけて、聖者のやうに重々しく呟くのである。
「国滅びて、山河在り――かね。」と、私が云ふと、彼は苦い顔をして、
「そんな旧思想ぢやないんだよ。」と云つた。
 こんな薄汚い奴に、好くもそんなに多くの女が涙をこぼしたものだ――さう思つて、私は、藤田に感心した。さんざん女を欺した後に「善もない、悪もない。」と叫んで、孤独になり「ああ俺は悪魔だ、悲しき悪魔だ。」などと呟くなんて、随分虫の好い話だ――私は、そんな気もしたが、うつかりそんな感情を述べると、またどんな六ヶ敷いことを云はれて説伏させられないものでもない、と思つて遠慮した。さうは思つたものの、ぢつと悩まし気に、深刻気に、眼をこらし口を引きしめてゐる藤田の表情を眺めてゐると、妙に圧迫されたり、また彼が偉いもののやうに思はれたりした。
 私は、机に向つて架空的な思ひを凝した、藤田が云つた、「微風が触れても啜り泣く。」といふ言葉と「宇宙には善もない、悪もない。」といふ言葉とが、奇妙にチラチラと眼の前に翻つた。架空的な想像は、それで消えてしまつたのである。――この頃の生活を漫然と書き流して見るかな、照子のこと、Fのこと――それより他に心に触れてゐるものもなかつたが、それを書くことになると、主人公であるべき自分が惨め過ぎてならなかつた。
 いつそ、未だ照子とFとが知り合ひにならなかつた頃、照子の前ではFのことを、Fの前では照子のことを、ああいふ風に仄めかしてゐたところを、更に輪をかけて、二人の女に悩まされてゐると云ふ風に書いてやらうかな、口惜しいから――などとも思つた。
 照子の顔が浮び、Fの顔が浮んだ。――私は、思はず亀の子のやうに首を縮めた。なんとしても空々しかつた。
 私は、この頃の生活を顧みて沁々と嘆息を洩らした。感情は悉く上滑りをしてゐる。虚飾、追従、阿諛、狡猾、因循、愚鈍、冷汗、無智、無能――それぞれ、かういふ名前のついた糸に操られて、手を動かし、脚を投げ、首を振り、眼玉を動かし、口を歪める操り人形に自らを譬へずには居られなかつた。
 さういふ悪い名前の糸は切らなければならないのだ……野卑な楽隊の音に連れて、見すぼらしい人形がヒョロヒョロと舞台の真中に歩いて来た。(私は、せめてこの人形に道化の服を着せたかつた。だが私には、地におちた帽子を脚で蹴あげて頭に受ける業が出来ない。鮮かなトンボ返りを打つて見物の同情をくことが出来ない――)
 人形は、灰色の服を着てゐた。そして、ただフラフラと舞台の上を、あちこちと歩き回つてゐるばかりだつた。彼は、鏡の前にたつて自分の姿を写した。
「この洋服は、似合はない。」
 さう呟いて、青い服と着換へた。青い服も似合はなかつた。赤、黄、紫、鳶色……皆な失敗した。そこで彼は、自暴自棄になつて上着を脱ぎ棄て、ズボンを棄て、シャツを棄てて素裸になつた。ところが、首と手首と足先だけは着物を着てゐても見ゆる個所だつたから、白く塗つてあつたが、その他のところは藁で出来てゐた。彼は、自分の浅猿しい姿に初めて気づいたやうに、茫然とした。そこで彼は、気が狂つて、無茶苦茶な舞踏を演じた。……狂気、乱酔、哄笑、それらの渦の中で踊り狂つた。――彼は、自分が操り人形の身であることを忘れてしまつた。糸が皆な切れてしまつた。ガチャリといふ音がして、板の間に倒れた時、ああ俺は人形だつたんだな――と気附いた。もう遅かつた。彼は、恨めしさうにピッカリと眼を開けた儘天井を睨んだ。……静かに幕。
 私は、そんな馬鹿馬鹿しい空想に走つて、間の抜けた苦笑を洩らした。
 私は、執筆は断念して藤田に手紙を書いた。
「いつか君に話した恋愛小説の計画は失敗した。自身の心が小説の中へ溶け込んで行くと、僕はその苦痛に閉口してしまふのだ。だが、やがて書くであらう。その代りとして、この間うちからドラマの計画を立て始めた。うまくまとまれば、荘厳な舞踊劇になるかも知れない。印象的なシムボリックなもののつもりだ。この頃僕の思想がリアリズムを離れてゐる、といふしるしになるであらう。」
 私は、手紙を書いただけで疲れてしまつた。藤田から手紙が貰ひ放しになつてゐるので、厭々ながら書いたのだ。――手紙にすら、ほんとのことが書けないとは情けない、つまり俺の頭にも生活にも、文字に換ふべき一物もないといふ証拠なんだらう、小説なんていふものは止すべし、止すべし――私は、そんなことを思ひながら、却つて清々したやうな気持になつて、縁側に出てどつかりと大儀な体を椅子に落した。
 Fと照子が砂だらけになつて帰つて来た。二人は跣足になつて、足袋や靴下の儘で、泉水を蹴つて、砂を落した。照子は、電話をかけて自家から着換への着物を取り寄せた。濡れたスカートの儘で、Fは座敷にあがり唐紙をぴつたりと閉めて、照子と二人で着換へをした。
「もの云へば唇寒く――もの書けばペンまた寒く、思ふこと更に寒し。」などと思ひながら、私は泉水に眼を放つて茫然と煙草をふかしてゐた。
「ジュンは、どうして来なかつたの?」
「行かうと思つてゐたんだが、忘れてゐた仕事を思ひ出したんだ。」
「そして、それはもう片附いたの?」
「僕の仕事はビジネスぢやないんだから、片附くも片附かないもあつたものぢやない。」
 私の細く濁つた声などには頓著なしに、
「妾達は、膝の上まで浸して来た。」と、Fは照子を顧みて云つたりした。
「純ちやんの仕事ッて何さ?」
「照ちやん達と、こんな風に話しをしてゐることと反対なものが僕の仕事なんだよ。」
 私は、自分でも有耶無耶ながら、さう云つて何か漠然と別のことを考へたりした。
「ジュンの仕事は、朝寝坊と夜更しだらう。」
 Fは、爪を磨きながら呟いた。照子は、一寸敵意を含んだ眼つきでFの指先を眺めた。
「まア、てんでんに閑な人はバカな日ばかりを送つてゐたら好いだらうよ。――どれ、また仕事の続きに取りかからうかな。」
「今晩妾の家で、Fさんをお客にしてお茶の会をするんだが、ぢや純ちやんは来られないね。」
「大嫌ひだ。仕事がなくつたつて御免蒙る。」
 私は、さう云つたが一寸羨しかつた。さういふ家の中の会合なら、また何か出たら目をやつて、彼女達の眼を牽くやうなことが出来ないわけでもない。この間の晩などは、私は調子に乗つて長持の中から虫臭い裃を取り出して、
「われわれの国の昔の風俗習慣を見せてやらう。」とFに云つて、刀を持つて立ち上つた。「危いよ。」と、照子が云ふと、私はここぞと云はんばかりに、見物を次の間にさがらせ、十畳間の真中に突ッ立つて、
「ヤア!」と叫んで、ギラリと白刃を抜き放つて見せた。そして仮想の敵を描いて、正眼の構へをした。太刀の方を用ひたかつたのだが、それは重たくてとても振り回せないので小刀を用ひた。何か芝居の真似事をして見せたかつたのだが、私は何の台詞も知らなかつたので、ただ縦横無尽に切りまくつた。長押から槍を取り降して、それをしごいて見せもした。かういふ単独の業なら、私も相当巧みだつた。
「なにしろ僕は、武士の子だからね。町人風情の照子とか、毛唐人のFなどは、これが若し昔ならとうに吾輩の手打になつてゐるところだ。」
 裃の肩を脱いで、一休みした時、私は、そんなことを云つて笑はせたが、ふと「まつたく昔なら……」といふ気がした。
「今夜は、仮装会をして遊びませうよ。」と、Fは照子に云つた。
「Fさんはジュンの学校服を借りて大学生になりなさいよ。妾は龍二の野球のユニフォームを借りますわ。」
 多分嘘だらうと私は思つた。

 二三日雨が降り続いた。私は、救はれた思ひがした。終日、机に向つて痴想に耽り続けた。夜になるとFを相手に、相変らず馬鹿馬鹿しい騒ぎをした。照子は、蓄音機の音楽でFにダンスを習つたりした。
 その朝は、青く晴れた。薔薇色の陽が深々と部屋の中まで流れ込んだ。Fと私は、夏の話と、いつもの水泳の話に耽つてゐるところに照子が、
「今日は皆なが海へ行きましたよ。妾達には未だ這入れないけれど、散歩に行つて見ませんか。」さう云つてFを迎へに来た。
「お前、泳いで見ない?」とFは、私に云つたのである。
「まだ寒いよ。」
「寒いもんですか、そんなに急いで来たわけぢやないんだが、妾はこんなに汗をかいてしまつた。」と、云ひながら照子は袂からハンカチを取り出して頬のあたりをおさへた。
「この間うちからジュンの水泳の話は、充分聞いたから、今日は実際のところを見せてくれないか。」と、Fは熱心な眼を輝かせた。
「いや、未だ仕事が片附かないんだ。」
「ぢや、仕方がない。」
 照子とFは、白い洋傘を並べて出かけて行つた。私は、ほッと胸を撫で降した。――だが私の胸は異様に時めいてゐた。私は、部屋の中を口笛を吹きながらグルグルと歩きまはつた。
 日増しに暑くなつて来る、そして毎日海へ誘はれるんぢややりきれない――と、私は思つた。私は、水泳の出来ないことを沁々と嘆かずには居られなかつた。初めから嘘さへつかなければ、こんな苦しみもなかつたものに――さう思つて、堪らない後悔を感じた。
 泉水の鯉を眺めても、可笑しいほど羨ましかつた。子供の時分、私は海に行くことを許されなかつた。その代りこの小さな泉水に盥を浮べて乗り回つた。私は、玩具の舟を沢山浮べて、自分だけは盥に乗つてガリバアの小人国巡遊になぞらへたりした。港をつくつて、貿易を始めたりした。暴風雨を起して舟を沈め、陸に這ひあがつてロビンソンクルウソオの冒険を試みもした。……海辺の行楽を知らずに過した。中学に入るやうになると、友達が海へ行くために迎ひに来たが、今更泳げないといふのも間が悪い気がして、様々な口実をつくつて断つた。たしか私は、中学二年の夏まで泉水で戯れた。
 俺は目方が軽いから、今だつて若しかすると盥に乗れるかも知れないぞ――私は、真面目でさう思つた。と同時に、私は何の思慮もなくシャツ一枚になつて、跣で庭に飛び降りそつと物置から盥をさげ出した。そして泉水に浮べたのである。
 盥の真中に坐つて、腰と背骨で中心をとる方法は、永年の経験で今だに巧みなものだつた。盥のふちは、殆んど水の表面とすれすれになる位まで沈んで、そして辛うじて浮んだ。――七年前までは、自由に浮んだものだ、そして私に大海原の聯想をさせたものだ、短い年月が過ぎ、盥は今では走らなくなつた。大海原の聯想も出来なかつた。七年の間に自分の頭はどれだけ成長したであらうか。妄想の重味だけが盥を動かなくさせてゐるばかりだらう……私は、そんな愚かなことを考へてセンチメンタルな哀愁に囚はれた時、ザッといふ音をたて、忽ち盥は泉水の底にとどいたのである。――私は、急にてれ臭さを覚えて縁側へ駆けあがつた。
「飛んでもないことをしてゐたことだ。若しあの最中に彼女達でも帰つて来たら、何と言ひわけをしたものだつたらう。」
 私は、酷い冷汗を覚えた。私は、シャツを脱ぎ棄て乾いた猿股をはき換へて、裸のままで日向に浴した。
「泳ぎぐらゐ三日も練習したら出来さうなものだがな!」――私は、この間うちから、かくれて読んでゐる水泳術の本を、鍵のかかつた本箱の抽斗から取り出して来て開いた。
 そして本にならつて、腕を上げたり下げたりして見た。私は、座敷に入つて、腹這ひになつた。
「一、二、三!」

底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「牧野信一全集」第一書房
   1937(昭和12)年3月20日
初出:「時流」新潮社
   1925(大正14)年2月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年4月21日作成
2011年1月11日修正
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