天井の隅に、小さい四角なひかりがひとつ、ゆるやうにキラキラと光つてゐた。湯槽ゆぶねの上の明りとりから射し込んだ陽が、反対の壁にかゝつてゐる鏡に当つて、其処に反映してゐるのだつた。
 純吉は、先程さつきから湯槽に仰向けに浸つて、悠々と胸を拡く延しながら、ぼんやりとその小さな陽を眺めてゐた。――快い朝だ、と彼は沁々と思つた。……帰省して以来間もなく一ト月にもなつたが、その間、何といふ懶い日ばかりが続いたことだらう。
 秘かに想ひを寄せてゐた照子は、勝ち誇つたやうにかたづいてしまつたし――おまけに高を括つてゐた学校は落第してしまつたし、……。
 そんなことを思ふと口先だけでは勢ひの好い虚勢ばかりを張つてゐるものゝ内心は至つて臆病な彼は、折角の若い日も滅茶苦茶になつてしまつた気がして、暗然とした。これが動機となつて意固地な運命は何処まで暗い行手を拡げることだらう……転々ごろ/\と、底の知れぬ程深い谷底へ、足場もなく転げ落ちて行く一個のごろた石に、われと自らを例へずには居られなかつたのだ。
 純吉は、湯槽の中で思ふ様四肢を延して、朝の陽を仰いだ。前の晩、卑しい妄想になやまされて到々明方までまんじりともしなかつた。夜が明けて救はれた気がした。湯をわかすことを命じてから暫くうと/\した。厭な夢ばかり見続けた。起された時は、夏の朝らしい爽々すが/\しい陽が庭に一杯満ち溢れてゐた。彼は夢中で湯槽へ飛び込んで、ツと胸を撫で降した気になつたのだ。
 純吉は、大きな声で女中を呼んだ。
「煙草をふんだから、一本つけて来て呉れ。」
 純吉は、湯の中に仰向けの儘煙草をくはえて、悠々とふかし始めた。静かな朝だつた。煙りはゆらゆらと立ち昇つて、天井に延びた。
「おい/\。」廊下から宮部が騒々しく純吉を呼んだ。「何時まで湯に浸つてゐるんだい、稀に朝起きをしたと思へば! 居眠りでもしてゐるんぢやないのか?」
「あゝ煩いなア!」純吉は、さう呟くとさもさも迷惑さうに顔を顰めた。「もう浜から帰つて来たのか? チヨツ!」
「未だ寒くつて海へは入れなかつたよ。加藤と木村がこれからスケートへ行かうツてさ。」
「厭だ/\。」と純吉は首を振つた。(スケートといふのはローラー・スケートのことである。それが流行した頃だつた。)
「厭もないもんだ。昨夜はどうだい、あんなに面白がりやがつた癖に……」
 そこに加藤も出て来て「昨夜は純公の評判が一等素晴しかつたなア。お百合さんは貴様に確かに秋波を送つたぜ、なア宮部?」
「昼間になると変に気分家面なんてしてゐる癖に、塚田へ行くとイヽ気なものだ。」
 塚田の画室をスケート場にしてゐたのだ。百合子は塚田の従妹である。
「ほんたうか?」純吉は、からかはれたことを打忘れて仰山に湯槽から飛びあがつた。
「だが駄目だよ、これからは海が始まるんだからな、泳ぎなら俺様が大将だからね。」と加藤はふざけて胸を張り出した。「百合子さんは泳ぎの出来ない奴は嫌ひだつて云つたぜ、どうだい参つたらう、だが、それにしても彼の君が浜辺に現れたらさぞさぞ……」
「もう止して呉れ。」
 純吉は、もう不気嫌になつてゐた。彼は、タヲルにくるまつて日当りの好い縁側に出た。加藤は押入からスケートの車を取り出して回転の具合を験べたり、油を注したりしてゐた。
 木村は、純吉の机の前で薄ツぺらな雑誌をしきりに読んでゐたが、純吉の姿を見ると、
「馬鹿だな、斯んな下らねえことを書いてゐやアがる。」と笑つた。純吉は、ハツとして其方を見ると、思つた通りそれは自分が同人の一人になつてゐる文芸同人雑誌だつた。湯に入つてゐるうちに着いたものと見える。純吉は、非常に慌てゝ木村の手から雑誌を奪ひ取ると、赤くなつて次の間へ駆け込んだ。そして胸を轟かせて頁を繰つた。それには彼が、冬のうちに書いた二度目の短篇小説が載つてゐた。空想で書いた小説だつた。(あの空想が到々本物になつてしまつた。)と彼は呟いだ。そして彼は一寸意味あり気に眼を閉ぢたりした。(運命を出し抜いてやらうと思つたら、まんまと返り打ちにされたか!)
「文科の癖に何だい、その拙さは……」など、隣りから木村が笑つた。
「純公が小説を書いたのか?」加藤の生真面目な声も聞えた。「女のことか? さうぢやないのか、小説は女のことでなければ面白くないからな、……おい岡村、俺にも読せて呉れ、貴様にそんな腕があるとは知らなかつたぞ、……太え奴だア。」
 隣りの声など耳には入らず純吉は、眼を凝してゐた。(活字になると、何だか自分が書いたものぢやないやうな気がするな……何としてもこれが俺の二度目の小説なんだ、運命にはまかされたが、この収穫で悦びを得たいものだ。)そんな他合もないことを念じながら純吉は自作を読み始めた。(以下岡村純吉の小説『ランプの明滅』をその儘挿入する。)

 試験の前夜だつた。彼はいくら書物に眼を向けてゐても心が少しもそれにそぐはないので――で、落第だ。と思ふと慄然とした。と、同時に照子の顔が彷髴として眼蓋の裏に浮びあがつた。彼にとつては照子の存在が、その落第を怖れる唯一の原因だつたから、然も彼は非常に強く照子の存在を意識してゐたから、非常に落第を怖れた。何故なら照子は、いつも口癖のやうに、
「妾、秀才といふ文字程美しい感じのするものはないと思ふわ。妾はその感じだけにでも、妾の生命の全部を捧げて、涙を滾して恋するわ。」と云つてゐた。彼は、自分が秀才と正反対のものであるといふことを照子が侮辱して暗に嘲弄してゐるものと知つてゐた。……フン! とばかり、彼は無念のあまり、高飛車に落着を示してゐたが、内心非常に照子の言葉に圧迫され、辟易してゐた。
 或る時彼は、戯談じようだん紛れに、だが胸に一縷の望みを忍ばせて、
「僕は照ちやんのやうなお転婆と結婚がしたいよ。」とからかつた。
「妾もよ。順ちやんのやうなノラクラ茶目助と結婚したいわよ。ホツホツホ。」――で一撃のもとに笑殺されて、つまり彼の言葉の反応どほり戯談の儘とほつたのだから好さゝうな筈なのに、何時までたつても照子の云つた結婚云々といふ言葉にこだわつてゐた彼だつた。それは「どうしてなのか。」と考へて見るまでもなく「片恋」と極めて簡単に解つてゐたが、よく恋の心理を現した和歌などに「何故か――」「涙ながるゝ。」などゝ、遠回しな象徴化シンボライズを見せられると、反感とまでゆかず滑稽を感ずる彼だつたが、照子を思ふとどうやら自分の心持も「何故か、涙ながるゝ――」の気持らしかつた。
 時間は遠慮なく過ぎて行つた。書物の第一頁すら彼の頭に入つてゐなかつた。彼は、一秒を刻んだ時計の針に落第を思ひ、さうして失恋(?)をおもつた。
 彼は、深い溜息をした。――照子が、突然コロリと死んでしまへばいゝ、と思つた。
 外は酷い暴風雨だつた。激しい雨がしきりに彼の窓を打つてゐた。そのうちに彼の心は、荒れ狂ふ風雨の響きのなかに溶けて行つた。「落第がなんだ。」と彼は呟いた。――「厚顔無恥の照子だ、馬鹿!」と独り言つた。
 その時、明るく静かだつた電灯が突然と消えた。と同時に彼の胸を、何やらハツと冷い翼のやうなものがかすめた。「好いあんばいだ。」と彼は思つた。「灯りが消えては、当然勉強は出来ないんだ。」「本をまる覚えしたことで、彼奴の最も讚美する秀才になり得るものならば、勉強が止むを得ず出来なかつたといふ原因で落第しても……」そこまで考へて彼は馬鹿気た笑ひを洩した。――そして彼は、たゞ専念に、安心して照子の幻を描いた。
 彼は暗闇の中に凝として、笑ひと悲しみの分岐点にたゞずんでゐる自分を視詰めた。――恋情といふものは極めて滑稽なる感情なり……そんな気で、そんな心をさぐりながら、彼は木像のやうに動かず、背骨を延ばして端座した。
「電灯が消えて、試験だつてのに困るわね。」といふ声がしたかと思ふと、パツと部屋が明るくなつた。ランプを持つて来た照子は、彼の眼に涙が溜つてゐるのを不思議さうに見おろした。
「勉強は出来て? あまり凝らないで少し休んだらどう?」
「煩いなア!」
 彼はさう云つて、明るくなるのを待ち構へてゐたやうに、照子の方は見向きもせずに直ぐと本の上に視線を落した。
「しつかりやつてね、御褒美を上げるわよ。」
 照子はランプを彼の机の隅に置いて、ちよつと指先でシンの具合を直した。
(どんな褒美なんだい?)彼は、にやりとしてさう問ひ返すところだつたが、問ひ返さるゝ程の真実味をもつて照子が云つたのではなかつたのだ、と気附いたから、やはりツとした態度を保つてゐた。照子は、足音を気兼ねしながら梯子段を降りて行つた。
 彼は、凝とランプの灯を視詰めた。シンのあたりが秋の虫のやうにジーツといふ音をたてゝゐた。それが気になつたので、彼はネジをつまんでシンを引ツ込めたり出したりした。何遍も繰り返した。間もなく音は止んだが、所在のない彼は指先をネジから離さなかつた。部屋は、明るくなつたり、暗くなつたりした。
 明るくなつた瞬間には、試験と失恋の怖ろしさを想つた。暗くなつた瞬間には、安心して照子の美しさを想つた。――そのうちに彼は、指先の速度をそれに伴れて心の変る暇のない程だんだんに速めて行つた。非常に素速く反転させた。彼の心も同じやうに速く反転して、そして無心になつた。彼は、たゞ面白がつてランプのシンを弄んだ。
(しまつた!)と彼が気附いた時、シンは油壺の中へ落ちてゐた。
 暗闇だけが残つた。困つたことか、困らぬことか? 彼は心にそんな区別をつけることを忘れた。そして深い溜息をした。――虚無、安心、悦び、涙――そんなやうなものが白い絹に包まれたまゝ胸の中へ一時に流れ込んで来る感じがした。
 彼は、落第した。
 照子はその翌年結婚した。彼は、照子の結婚が少しも自分の心に反応のない気がした。
「やつぱり恋といふ程のものぢやなかつたんだ。ほんの気紛れだつたんだ。」彼は、斯う自分の心に呟かせたが、少しギゴチない気がした。で彼は、自分に「悲しき勇士」といふ冠を与へて、楯と剣を持せて丘の上に立たせて眺めてみた。
 また試験の夜がめぐつて来た。一昨年と同じ部屋で、彼は机に向つてゐた。照子は居なかつたが、やはり彼の心は本に集注しなかつた。「さうだ、俺は試験そのものが嫌ひなんだ。照子なんてには係りはないんだ。」――「だから俺は試験の時節になると屹度、ものを書きたくなつたり、恋を空想したりするんだ。」
 彼は、そんなことを呟いて、何か意味あり気にひとりで点頭いた。
 彼は、自分の結婚を空想した。妻を得た或る日の自分とその見知らぬ妻を描いて、二人に会話を与へた。彼はペンを取つてノートブツクに次のやうなことを書いた。
 ――その年に彼も結婚した。
「あなたは妾と結婚する前に恋をしたことがあるでせう。」妻はよく斯んなことを云つて彼を困らせた。
「ない/\。ほんたうに、決して――」彼は、心から妻を愛してゐたから、無気になつて答へるばかりだつた。
「嘘だ/\。」と云つて妻は泣いた。そんな事も聞いた。あんな事も聞いた。と妻は古い手紙などを持ち出して、又泣いた。
 彼が或る女と家を逃げ出したこと、雛妓おしやくに惚れて親爺から勘当されたこと、などを妻は知つてゐた。
 が実際、彼はこの妻程愛した者は一人もなかつたから、「嘘ぢやない」と懸命になつて云へば云ふ程、妻は反対に焦れた。さうなると彼は癪に障つて、妻以上に深く愛した恋人を持たなかつた過去を寂しく思ひ、後悔した。
「明るくつて眠れない、灯りを消せ。」
 結婚して始めて彼が怒気を含んだ音声を発したので、妻は吃驚びつくりして(どうして夫がそんなに怒つたのか解らなかつたが。)おとなしく立ちあがつて灯りを消した。
 その様子が可愛かつたので、彼は妻の手を握つた。妻は又泣いた。
 その時彼は不意と、今迄全然忘れてゐた照子のことを思ひ出した。「嘘ぢやない。」と妻に弁解しながら、嘘でないその言葉から過去を寂しく思つてゐた矢先に、ふと照子の顔を思ひ出したら、
「やつぱり俺は、妻に嘘をついてゐるのかな。」といふ気がして、軽い会心の笑が浮んだ。同時に堪らない寂しさが湧きあがつた。
「何故俺はそれ(?)以上の愛を持つことが出来ないのだらう。」斯んなことを思ふと、彼は滅入りさうな気になつて、
「やつぱり眠られない。もう一度灯りを点けておくれ。」と云ふには云つたが、妻と一緒に、暗い部屋の中で、その儘身動きもしたくなかつたので、堅く妻の手をおさへた儘灯りを点けさせなかつた。(完)

 純吉は、読み終ると同時に思はず亀の子のやうに首を縮めた。(チエツ! 厭な奴だなア。)彼は、ニキビのある青年が東京の下宿の一室で「ランプの明滅」を書いてゐる光景を回想した。
「スケートへ行かう。」
 苦い顔をして縁側へ現れた純吉を見あげて宮部が云つた。
「厭だ/\。」
「小説でも書くのか?」木村が意地悪気にからかつた。
「木村はイヽ加減の了見で他人の気持を推し計らうとするから失敬だぞ。」
 純吉は、憤つとしてそんなことを云つたが、それは相手に喋舌つたのか? 自分で自分を冷笑したかたちなのか、解らなかつた。
 純吉は、自分の気持の何処にも力の無かつたやうな愚しさに打たれた。そして、わけもなく無しや苦しやして来て、
「君たちも、さつさと湯に入つて来ないか!」と怒つたやうな調子で云つた。
「皆なで一緒に入らう/\、狭くつたつてかまふものか。」宮部がさう云つて、先に湯殿へ駆け出すと、木村も加藤も、すつぽりと其処に着物を脱ぎ棄てゝ、おどけた格構で続いて行つた。
 純吉は、折角晴れ/″\した朝の気持を忽ち奪はれた気がして、照子のことを思ひ出したり、また落第のことを思つたりして――酷く気が滅入り始めた。
(寝てしまはうかな!)彼は、そんなことを思ひながら、庭の青葉に降りそゝいでゐる光りを、物憂気に眺めてゐた。
「お爺さん/\、熱くつて仕様がねえよ、水を出して呉れ、水を出してお呉れよう――」
 湯殿では、そんな騒がしい声がしてゐた。間もなくガタン、ガタンと退屈気にタンクをあをる音が、のどかな朝の色に溶け込むやうに響いた。

 家に居る間は誰もが無遠慮に百合子を称揚したが、此処に来ると皆な堅くなつてゐた。男同志時々眼と眼とを見合せて、一寸微笑むだけで、各々取り済した円陣をつくつて「メリーゴーラウンド」を保つた。スケートの車の音が緩なリズムとなつて、大波のやうに部屋中に充ち溢れた。回転しながら落着いた態度で、ポケツトから手布はんけちを出して汗を拭く者もあれば、威勢よく上着を脱いで傍らの椅子に投げ棄てる者もあつた。百合子は薄いスカートをひら/\と翻しながら、「ゴー・ラウンド」の一隊に加つてゐた。――純吉は片隅の椅子に凭れて、燦然たる光景を羨し気に眺めてゐた。……あんなに美しい百合子は、一体どんな男と恋をするだらう! 彼はそんなことを考へて、体の竦む想ひをした。そして、一同がこれ程烏頂天になつて快活に跳ね廻つてゐる時に、そんなに卑しく因循な空想に耽つてゐる自身を顧て、風穴に吸ひ込まれて行くやうな不快な想ひに襲はれた。
「岡村さんどうなすつたの?」百合子はさう云ひながら円陣を滑り出て純吉の前に現れた。
「……」ウツと純吉の喉は詰つた。
「妾もう逆行が出来るわよ、演つて見ませうか?」
「転ぶといけませんよ。」そんなつもりではなかつたのだが彼は、つまらないといふ風な云ひ方をしてしまつた。そして横を向いた。
「あなたは出来て?」
「出来ますよ。」と彼は、思はず何の思慮もなく呟いだ。普通の滑り方だつて満足に出来ない彼だつた。
「ぢや教へてよ。」
 此奴俺をからかつてゐやがるんだな――純吉はさう思つた。純吉の滑り方は一種特別だつた。両脚を交互にスツスツと踏み出す当り前の滑り方が彼には如何しても出来なかつた。彼が試みると、左脚が棒の様に延びた儘で右脚は分廻しのやうに一方に反れて、それがたゞガクガクと跛足のやうに思はせ振りな動き方をするばかりだつた。球投げをする時ガマ口のやうにパクリと二つの手の平を開けておどおどと球の来るのを待ち構へてゐるやうな捕手が上達の見込のないと同じく、斯ういふ要領のスケートマンは如何程練習しても無駄だといふ話だつた。純吉がホールに現れると皆な、悪意のない軽蔑の眼で彼を見物したがるのだ。――止せば好いのに、彼は木村達に誘はれるとふら/\と伴いて来るのだつた。
「教へてもいゝけれど……」彼は涙が胸に溢れるやうな切なさを感じた。(もう明日からは何と云つても来るものか、畜生奴、馬鹿にしてゐやアがる! 手前達のやうな野蛮な人種とは違ふんだ。俺は瞑想的な詩人なんだ。斯んな馬鹿/\しい遊戯に心を奪はれるやうな安ツぽい男ぢやないんだ。)彼は唇を噛んでそんなことを胸のうちで呟いだ。
「そんな負け惜みを云はないで、もう少し熱心に練習しなさいよ。……ほら御覧なさい、あんなに不器用な加藤さんだつて、あんなに巧くなつたぢやありませんか。」
 百合子が指差した方を純吉が眺めると、加藤は両腕を翼のやうに延して、軽々と回転してゐた。選手チヤンピオンの木村は、左手を軽く腰のあたりに当てがつて口笛を吹きながら逆行してゐた。宮部は左右の脚を交互に入れ違ふ行き方で、純吉の前を通つた時「どうだ、巧いだらう、一処に伴いて来いよ。」と叫んだ。
「木村さん!」と百合子は叫んだ。「妾の手を執つて頂戴よ。」
 百合子は木村の後を追ひかけて行つた。純吉は、わけもなくほツとして、星が一杯輝いてゐる窓外の空を見あげた。
(斯んな時に、沁々とした孤独に浸らう、そして印象的な詩を作つてやらう。)
 純吉は、そんなことを思つて静かに眼を閉ぢたが、何の「詩的な霊感」も浮ばなかつた。驢馬の耳のやうに鈍重な神経ばかりが、執拗に嫉妬深く百合子の姿を追ひかけたり、光りのない未来の空漠が不安な雲となつて五体を覆ひ包んだりするばかりだつた。
 スケートの音が遠雷のやうに響いたり、また純吉の眼近く崇大なオーケストラのやうに渦巻いてゐた。純吉は、影のない夢見心地でぼんやりと眼を視開いてゐるばかりだつた。
「大さう六ヶ敷い顔をしてゐるな。」
 宮部は、純吉を浮きたゝせてゞもやるらしい心意こころで、そんなことを口走つて彼の前をかすめ通つた。
「やれよ/\。」続けて加藤の声もした。
「俺ばかり百合子さんを教へてゐるんぢやテレるよ。」木村は、純吉の耳にそつと囁いで滑つて行つた。
「少し勢ひをつけると、片方の脚だけで一週出来さうだわ。」
 百合子は歌劇女優のやうに、わざとらしく脚を挙げて走つてゐた。
(俺だつて出来ないこともあるまい。)皆なの注目が反れた時、純吉はそんなに呟きながらそつと立ち上つた。だが、足の重いスケートを感ずると「とても駄目だ。」といふ気がした。――(自転車を習ふ時のやうな身構へで好さゝうだが、ハンドルが無いには閉口だ。)――(静かに/\。)――(脚ばかりに気を取られないで。)――(まつすぐに眼を向けて、傍見せずに。)――(重い脚を、軽く意識せよ。)――(それにしても斯んな重いものをつけて、あんなに巧みに踊り回れる彼奴等は尊敬に価するぞ!)――(何ツ! くそツ! 俺も男だ。)――(死んだつて関ふものか、滅茶苦茶に飛び出してやらうか!)――(それで失敗しくじるんだよ、落着け/\!)――(厭にまた、この車は回りが好すぎるやうだ。)――(石に噛りついても上達して見せるぞ。たかゞスケート位ひ!)――(叱ツ、他念なく/\、脚の踏み所、力の入れ具合、細かく呼吸して……)
 純吉は、それらの言葉でわれと自らを励ませながら、注意深く壁に添うて一歩一歩静かに、靴を挙げては降ろした。危険に気付くと、直ぐに窓枠に噛りついた。――窓の外には月の光が明方のやうに明るく輝いてゐた。

 純吉は、昼頃眼を醒した。雨脚が他人のものゝやうに堅苦しく、痛かつた。――(やつぱり俺は独りに限る。もう今日からは、何と云つても出かけないぞ。……あの苦しみは地獄の有様だ!)
 彼は、飯を食べる気力もなく、ぼんやりと窓に腰を掛けた。――(それにしても癪に触ることだなア、あんなこと位ひが出来ないで斯んなに気が滅入つたり、恥を感じたり――。よしツ、ひとつ彼等に内緒で一週間ばかり単独で練習してやらうかな。そして眼醒しい上達をして、再び現れて彼奴等の度胆を抜いてやるのも痛快だな。)
 さうも思つたが、あの醜いいざりのやうな滑り方をする姿を想像すると、彼は忽ち慄然として堪らない冷汗を覚えた。
(止せ/\。俺には俺の天分があるんだ。同じく渚に転がつてゐる小石であらうとも、俺には角があるんだ、矢鱈に転々して堪るものか。)――口惜し紛れにそんなことも考へたが少しも力が入らなかつた。
(……多くの怠惰学生は、その怠惰さ加減に比例して、愉快なる大胆さを備へてゐる、そして朗らかな自信を把持してゐる、若少し誇張して云ふならば、彼等は快活な夢と、微妙な涙と、花やかに巧みなる感傷と、繊細な豪胆さとを夫々融和して胸の底に秘蔵してゐる。若しも彼等の一人が、その中何れか一つの性質を忘れて生れたならば、彼の存在は何と惨めで、如何に醜く、何と彼は不幸な青年であらうか!)
「あゝツ!」
 純吉は、思はず太い溜息を衝くと同時に、そんな愚にもつかない感想を振り棄てようとして、乱雑に首を振りまはした。
 窓辺の柘榴の蕾は、大方開かうとしてゐた。緑の深い細い葉と、紅色の蕾の球とが、窓を覆ふやうに拡がつて、それらの隙間から覗かれる晴れた海と空の蒼い平板に鏤められたやうに浮きあがつて見えた。まどろみかけた純吉の鈍い眼に、そんな風に映つたのだ。
 純吉は、窓枠に腰を降した儘、柘榴の花を沁々と眺めたり、小さく動かない船の見ゆる沖の方をぼんやりと視詰めたりした。――だが彼の心は、未だたつた今の愚考から離れてゐなかつた。
(あゝ、俺は何といふ不幸な怠惰学生なんだらう――。怠惰にかけては、誰にもひけはとらなかつた、が自分は怠惰以外の、彼等の徳とする凡ての心を持ち合さなかつた。ブランクならば未だしも救はれる、にも関はらず自分の胸の底には彼等のそれと反対の凡てを鬱積させてゐる――小胆の癖に大胆を装うてゐる、自信は毛程も持ち合せない、役に立たないカラ元気ばかりを煽りたてゝゐるんだ――卑しい妄想と、愚かな感傷と、安価な利己心と、陰鬱な夢と、その癖いけ図々しい愚昧な策略とを持つてゐるんだ。……あゝツ!)
 そんな他合もない心を動かせてゐるうちに彼は、ふつと気持が白けたかと思ふと、わけもなくにやりとセヽラ笑つた。若しも其処に相手がゐたならば、その人はおそらく「馬鹿にするなツ」と憤慨するに相違ない。純吉は近頃独りの時そんな風な薄気味悪い笑ひを浮べるのが、何時の間にか自分でも気付いてゐない習慣になつてゐた。
(……彼女は、ボストンの郊外に、母親と二人で小さな果物店フルーツパーラーを経営してゐるさうだ。E――といふ混血児の小娘だ、混血児は軽蔑されるかな、そんな馬鹿な話はあるまいな、だが頓興にも程があるぢやないか、そのE――が、E――が、俺の妹だなんて、気味が悪いな、気味が悪いな!)
 突然に純吉は、そんなことを思ひ出した。(やつぱりあのことは気にかゝつてゐると見えるな、だがあんな不気味なことは思ふまい/\。)
 E――のことを或る偶然の機会で知つて以来、純吉は自家うち起伏おきふしするのが若しかつた。父親の顔を見るのも苦々しかつた。母親と言葉を交すのも退儀だつた。幸ひ海辺に近いこの家が空いてゐたので、学年試験が終つて帰省すると間もなく独りで此方へ移つたのだ。父の姿に接しても、母の顔を見ても、憂鬱と軽蔑の念が交々起つて堪らなかつた。
 門の石段のあたりから、木村達が帰つて来る威勢の好い靴の昔に高笑ひが交つて聞えた。
「あゝ、腹が減つたなア。」
「やつぱり木村のモーシヨンはプロフエツシヨナルに出来あがつてゐやアがる。」
「この分ぢや明日あたりから泳げるぜ。」
「寒い思ひをして泳いだつて見物人が居なくつちや、馬鹿/\しいな!」
「百合さん/\。」
「加藤は酷い不良だな、ハツハツハ……」
 純吉は、妙に慌てゝ窓側を離れると、机の抽出から剃刀を取り出して、柱に懸つてゐる革砥に巧みに合せた。椽側から射し込む光りが、剃刀の刃に映つてキラキラと反転した。木村達は庭を回つて、縁側に腰を降した。グローブやミツトを隅の方に投げ棄てゝ砂を払つて、加藤は座敷の真中に寝転んだ。(あゝ、早く夜になれば好いな。)
「岡村は今起きたところか?」
「今日から僕は勉強を始めるんだよ。」
 純吉は、机の上に鏡を立てゝ、シヤボンの渦をたてゝゐた。
「此奴鬚もない癖に、厭に顔ばかり剃りやアがるね。」と木村が椽側からひやかした。
「怪しいぞ/\。」加藤は仰山に叫んで、純吉の鏡を覗き込んだ。「俺も剃るぞ。塚田へ行くには精々キレイになつて……」
「俺はもうスケートは御免だ。」純吉は、さう云ひながら快い剃刀の音をたてゝゐた。
「行きたい時には、わざとあんなに空とぼけるのが岡村の癖だよ。」と宮部が云つた。
「岡村は学校を落第したもので、少し此頃変だね、意久地もない。」
「ワセダあたりで落つこちるなんて普通の出来事ぢやないなア、加けに純公は文科ぢやないか、何か恋愛事件でもあつたのかな。」
「何だい、貴様だつて落第ぢやないか。」傍から木村が加藤にからかつた。
「俺は官立学校だよ。」
 加藤は済してゐた。純吉を除いて彼等は悉く官立学校の法科だか工科だかの学生だつた。
 皆な休みになつて帰つて来たが、純吾が此処の家に独りで暮してゐるもので、いつの間にか彼等も此処に寝泊りするやうになつてしまつた。
 もともと純吉は、楽をする目的で私立大学の文科を選んだのだ。学期試験になると、それでも臆病な彼は、大して楽な気持も味へず、前の晩毎には、可なり亢奮もし、相当に教科書にも眼を曝し、課目も全部受験したから、何の私立大学の文科位ひのつもりで、万一も気遣はず、成績発表の日には大手を振つて登校した。貼出紙のうちに、岡村純吉の名前は消えてゐた。勿論、恋愛事件などのあつたわけではない。小胆な彼の喉には、その刹那から異様に重い玉がつかへて、今だにそれは消化しなかつた。
 E――を発見したのはその間もなく後のことであつた。この二つのドス黒い玉が重なつて、彼の胸を塞らせてゐた。
 落第のことでも純吉は、大いに狼狽して、一寸世を味気なく思つたりしながら愴惶として、先づ祖母の許へ走つた。――そして、それは両親に秘して呉れ、その代りこの先は……などゝホロリとして頼んだりした。(一年位ひのことは、二三年のうちには何とか親達の前にはごまかして済むだらう、たつた一年ばかり。祖母にも云はなければよかつた、とんだ慌て方をしたことだつた……)
 加藤と純吉は、時々斯んな会話を取り換した。
「落第が何だい。」純吉は胸を張り出してそんな風に云ふのが常だつた、「学問なんてやらうとさへ思へば、どんなボンクラな奴だつて一等になれるんだ。(彼はそんなことを夢にも思つたことはない。)試験などになつてビクビクするやうな男は、死んだ方が増だらう、俺は二回受けたきりで実は止めちやつたんだよ、あの気分が堪らないんだ、青ざめた学生の面を見ると浅猿あさましくて仕様がないだア。」
「さうとも/\、試験なんぞに囚はれてムザ/\と若い日をつぶしてゐられるものか、俺は二三年学生時代を延して、その代りいざ社会に出た日には――」
 加藤の言葉は誇張ではなかつた。確かな自信に充ちてゐた。彼は、純吉と違つて中学の頃から秀才だつた。
「岡村、早く剃つてしまつて、俺にも一寸剃刀を借して呉れや。」純吉の背後うしろから、加藤に続いて宮部も声を掛けた。
「そして、俺のは、木村、お前が剃つて呉れないか、ボールなんてやつたもので手が震えて仕様がねえや。」と加藤は不平さうに呟いた。
「加藤は反つて髭つ面の方が様子がいゝぜ、ねえ宮部?」木村は苦笑を含みながら、まじまじと加藤の顔を眺めた。
「加藤は、荒尾譲介を気取つてゐる古めかしい男なんだからなア、スケートなんておこがましいぜ。」そんなことを言ひながら宮部は、もうタオルを胸に懸けて、純吉の後ろに胡坐を掻いてゐた。
「早く木村程上達して、お百合さんの手を握ることを俺は切望してゐるんだぞ。」加藤は天井に眼を向けてそんなことをうなつた。
「俺も顔を剃らうや。」と木村も云つた。
「俺、今日こそ思ひ切つてお百合さんの傍に滑り込むよ、突き当つて、御免なさい、といんぎんに詫びるんだ、斯ういふ具合に。」
 加藤は立ちあがつて、おどけた構えをした。
「おツと危いツ、で、斯う俺が抱き止めてしまふんだよ、斯ういふ風にさ――百合子の君を、どうだ、これには木村も敵ふまい。」
「うむ。」と木村は生真面目に点頭いてゐた。そして微かに赤くなつた。
「あゝ、あの髪の毛に一寸でも好いから触つて見たいな、ブルブルツ!」と宮部は仰山な身震ひをした。
「抱き止める拍子に転んでしまつたら、どうだらう。」加藤は調子づいて叫んだ。「何しろ脚には車が付いてゐるんだからな。……危い/\で、しつかりとつかまるぜ。」
「一寸今此処で、その要領を練習して見ようかね、加藤は家だと熱を吹いてゐるが、いざとなれば、口も利けないんだからなア、加藤がやらなければ僕がやるよ/\。」宮部も軽く亢奮した。
「何しろ面白い遊戯が訪れて来たものだ。」
 加藤は、妙に浮んでそんなことを呟きながらどつかりと胡坐を掻いて、庭に眼を反らせた。――黙つて聞き流してゐる風を装うてゐたが純吉の心も、異様に明るく躍動してゐた。
「塚田も此頃は画はそつちのけだね、彼奴もいくらか百合子に怪しいんぢやないのか。」
「まさか、従兄姉同志ぢやないか。」
「従兄姉といふのは、油断がならないぜ。」
「さうかね。」
「さうとも/\。彼奴が怪しいとなると困つたね、強敵だね、何しろ同じ家に起伏してゐるんだからな。」
「止せ/\、不幸な空想に走ることは徒らに己れを傷けることだ。」
 木村と加藤は、冗談とも真面目ともなく、そんな話を取り交してゐた。
 皆な、丹念に顔を剃つた。宮部はタルクパウダーを思ひきり沢山手の平にあけて、ごしごしと磨り込んだ。加藤は、鏡の前で、様々に顔を歪めたり延したりして、独りで悦に入つてゐた。木村が、トランプをやらないかと純吉を誘つたが、彼は、厭だといつた。
「岡村は、ほんとに行かない気か?」
 夕飯の時宮部が、そんな風に訊ねた。
「勉強だ/\。」と純吉は、わざと笑ひながら云つた。

 塚田の画室の窓が、それは海辺の一軒立だつたから、遠くからでも、あかりが点くと松林の間から眺められた。山の夕陽ゆふやけは、すつかり消えて、松にはさまれた海浜の一筋道が白ツぽく横たはつてゐた。彼等は、各々スケートの包みを小脇に抱へて、勇みたつて、白い道を踏んで行つた。
「俺もひとつ今日こそは、大いに滑走するぞ、笑ふなよ。」
 さう云つたのは純吉だつた。彼の胸には無性に花やかなうづまきが、わけもなく賑やかに波立つてゐた。――(決心したのだ、決してもう愚図/\しないんだ、俺だつて/\。)
「誰が笑ふものか。」先を急いでゐるためか普段なら何とか冷かさずには居られない宮部は、きつぱりと答へた。純吉には、その答へが莫迦に嬉しく、親し味深く響いた。
「加藤は厭に黙つてゐるね。」純吉は、一寸調子づいてそんなことを云つた。
「俺は、未だお百合さんの脚の格構を考へてゐるんだよ。さう思つてゐるだけで、何となく胸が涼しくなるんだ。――お百合さんの滑走の姿を空想してゐるんだ、二つの脚が快活に左右に滑り出て、或は高く、或は……」
「そんなことは止して呉れよ、俺は何だか妙に悲しくなつて来る。」さう横から口を出したのは木村だつた。
「今日は何時もより少し遅かつたね。」
「急がうよ、急がうよ。」
 そんなことを云ひ合ひながら足を早めてゐるうちに、間もなく塚田の赤い窓が眼近くなつて来た。彼等は、さうなると妙に黙つてしまつて、足音だけが厭に勢急にバサバサと砂地を整つて踏んでゐた。
「おいツ!」
 先頭に立つてゐた加藤が突然、声を殺して力を込めて囁いた。「聞えるぜ/\、俺達の行き方が遅いもので、お百合さんはひとりで、ひとりだ/\! ひとりで始めたんだ。あゝ、好い音だなア。」
 加藤の言葉と同時に彼等は、一勢に踏み止まつた。そして耳をそばだてた。微かに、転々ごろ/\と板の間に鳴る車の音が、微妙な旋律となつて純吉の耳にも伝つた。
「沁々と聞かうぜ、斯んな機会は何時あるか解らないからね。」木村もさう云つて、凝と腕を組んだ。
「おツと危いツ! 今一寸片方の脚が乱れたぞ、しつかり/\。」
「宮部、真面目になれ。」と加藤は無気になつて呟いた。たしかに今踏み脱したやうな音、純吉も聞いて、何となくゾツとしたところだつた。――その後は、また絶間なくスルスルと鮮かな音が続いてゐた。
「人魚が砂の上を匐ふやうな音だね。」とまた宮部は半畳をいれた。
「巧いものだな、あの滑り具合の……」加藤もそんな感投詞を放つた。「無数の真珠を、銀盤の上に落すやうな音だ。」
「俺は何となく風船に乗つてゐるやうな気持になつて来た。」と木村は情けなさうな声で呟いた。
「この儘皆なで此処で、眠つてしまふのも好いね、月夜の海辺だぜ。」
「それは好いね。」と、その時始めて純吉は低く呟いた。純吉も、勿論胸の中を一脈の清水が流れ通つてゐるやうな爽々しさを覚えてゐたのだ。
「もう好い加減にして、宮殿を襲はうぜ、これからあの音の主に眼見まみえるんぢやないか、幸福/\。」と加藤がせきたてた。
「そつと忍び寄らうぜ、虫の音を消さないやうに……」
 彼等は口々に、科白でも云ふやうに、つまらぬ文句を吐きながら、だが動作は飽くまでも熱心に、悪漢のやうに息を殺し、体を曲げ、足音を忍ばせて、窓に近寄つた。――間断なき轍の音は、刻々と鮮かになり、その合間には晴れやかな女の笑ひ声などが交つて聞えた。“Rolling―Rolling―Rolling”ぐる/\回る、ごろ/\回る……。
 純吉の胸では、轍の響きに伴れて、そんなに、これもとりとめなく鳴り続いてゐた。そして彼の心は、薄暗く滅入つて行つた。――(ごろ/\ごろ/\、転がる/\。)彼は、途方もなく暗い空想に走つてゐた。
 それにしても、これからまたあの明るい快活な家へ入つて行かなければならないのか、そして俺もスケートを演らなければならないのか!
 ふつと純吉は、そんな風に気が附くと、――この儘蟹のやうに砂の中へ潜つてしまひたかつた。

底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「婦人公論 第九巻第十二号」中央公論社
   1924(大正13)年11月1日発行
初出:「婦人公論 第九巻第十二号」中央公論社
   1924(大正13)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
2010年5月23日修正
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