投票を売る

 投票値段は、一票につき、最低五十銭から、一円、二円、三円と、上って、まず、五円から、十円どまり位いだ。百姓が選挙場まで行くのに、場所によっては、二里も三里も歩いて行かなければならない。
 ところが、彼等は遊んでいられる身分ではない。丁度、秋蚕あきごの時分だし、畑の仕事もある。そこで、一文にもならないのならば、彼等は棄権する。二里も三里もを往って帰れば半日はつぶしてしまうからだ。
 金を貰えば、それは行く。五十銭でもいゝ。只よりはましだ。しかし、もっとよけい、二円でも三円でも、取れるだけ取っておきたい。取ってやらなければ損だ。
 どうして、彼等が、そういうことを考えるようになるか。
 彼等も昔の無智な彼等ではない。県会議員が、当選したあかつきには、百姓の利益を計ってやる、というような口上には、彼等はさんざんだまされて来た。うまい口上を並べて自分に投票させ、その揚句、議員である地位を利用して、自分が無茶な儲けをするばかりであることを、百姓達は、何十日[#「何十日」はママ]となく繰返えして見せつけられて来た。
 だから、投票してやるからには、いくらでも、金を取ってやらなければ損だ、と、そういう風に考えだしたのである。

   永久の貧乏

 百姓達が、お前達は、いつまでたっても、──孫子の代になっても貧乏するばかりで、決して頭は上らない。と誰れかに云われる。
 彼等は、それに対して返事をするすべを知らない。それは事実である。彼等は二十年、或は三十年の経験によって、それが真実であることを知りすぎているのである。
 しかし、彼等は、どうして貧乏をするか、その原因も知らない。彼等は、貧乏がいやでたまらない。貧乏ぐらい、くそ嫌いなものはない。が、その貧乏がいつも彼等につきまとっているのだ。
 これまでの県会議員や、国会議員が口先で、政策とか、なんとか、うまいことを並べても、それは、その場限りのおざなりであることを彼等は十分知りすぎている。では、彼等を貧乏から解放してくれるものは何であるか。──彼等には、まだそれが分っていない。分っている者もないことはない。しかし、大部分の百姓に、それがまだ分っていない。
 俺達は、何故貧乏するか。
 どうすれば、俺達は、貧乏から解放されるか。
 この二つを百姓に十分了解させることが、なによりも必要だ。それが分れば、彼等は誰れに一票を投ずべきかを、ひとりでゞ自覚するのである。

   演説会

 民政派の演説会には、必ず、政友会の悪口を並べる。政友会の演説会には、反対に民政党の悪口をたゝく。そういう時には、片岡直温のヘマ振りまで引っぱり出して猛烈に攻撃する。
 演説会とは、反対派攻撃会である。
 そこへ行くと、無産政党の演説会は、たいていどの演説会でも、既成政党を攻撃はするが、その外、自分の党は何をするか、を必ず説く。そこは、徹頭徹尾、攻撃に終始する既成政党の演説会に比して、よほど整い、つじつまが会っている。
 しかし、演説の言葉、形式が、百姓には、どうも難解である。研究会で、理論闘争をやるほどのものではないにしろ、なお、その臭味がある。そこで、百姓は、十分その意味を了解することが出来ない。
「吾々、無産階級は……」と云う。既に、それが、一寸難解である。「我々貧乏人は……」と云う。それでも分らないことがある。
 聴衆の中には、一坪の田畑も所有しない純小作人もある。が、五段歩ほど田を持っている自作農もいる。又、一反歩ほど持っている者もいる。そこで「吾々貧乏人は……」と云われても、五反歩の自作農は、自分にはあまり関係していないことを喋っているように思ったりするのである。
 話は、十分に砕いて、百姓によく分るように、百姓の身に直接響いて行くように、工夫しなければならない。徒に、むつかしい文句をひねりまわしたところで、何等役に立つものではない。
 何故、俺等は貧乏するか。
 どうすれば貧乏から解放されるか。
 それを十分具体的にのみこませた上でなければ、百姓は立ち上って来ないのである。

   無産政党

 いまだに、無産政党とか、労農党とかいうと危険な理窟ばかりを並べたて、遊んで食って行く不良分子の集りとでも思っている百姓がだいぶある。
 彼等には、既成政党とか、無産政党とか、云ったゞけでは、それがどういうものであるか分らない。政友会とか、憲政会とか云えば彼等には分る。だが、既成と、無産になると一寸分りにくい。
 社会主義と云えば、彼等は、毛虫のように思っている。
 だが、彼等は、その毛虫の嫌う、社会主義によらなければ、永久の貧乏から免れないのだ。
 それをどうして、百姓に了解させるか。
 それから、百姓の中には、いまだに、自分が農民であるという観念に強くとらわれて、労働者は彼等と対立するかの如く思いこんでいる者が少くない。農民から立候補した者は、自分の味方であるが、労働者は、自分たちの利益を考えないものであるように思っている。だから、附近の鉱山から立候補するものがあっても、近くの農民がそれに投票しようとしない。そして却って、地主で立候補した者に買収されたりするのである。

   政治狂

 一村には、一人か二人、必ず政治狂がいる。彼等は、政友会か、民政党か、その何れかを──している。平常でも政治の話をやりだすと、飯もほしくないくらいだ。浜口雄幸がどうしたとか、若槻が何だとか、田中は陸軍大将で、おおかた元帥になろうとしていたところをやめて政治家になったとか、自分たちにとっては、実に、富士山よりも高く雲の上の上にそびえていて、浜口がどうしようが、こうしようが、三文の損得にもならないことを、熱心に喋って得々としている。そういう男は選挙に際して、かかあや子供がえようが、蚕が桑の葉をなくして死のうが、そんなことはかまわずに、只で運動をして歩く。自分の村ばかりでなく、隣村まで出かけて喋くりに行く。自分の村から百五十票取って見せると云いだせば、そういう男は必ず取る。若し、自分の村で約束したゞけ取れそうになかったら、隣村へ侵蝕してでも、無理やりに取る。
 候補に立とうとするような地主は、そういう男を必ず逃がさずにとっ掴まえ、金を貸したり(勿論、貸した金から利子を取る!)田を作らしたりしておいて、必要に応じて走りまわらせるのである。又、そういう男に限って、金を借りていると義理があるように思っているのだ。
 そういう男をアジテートすることは、山を抜くほど困難な仕事だ。

底本:「黒島傳治全集 第三巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年8月30日第1刷発行
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2009年6月17日作成
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