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「事件は今から六年前、九月三十日、午後八時から九時までの間に、いわゆる東京六大百貨店の一、S百貨店に突発した、小いさな出来事だ。大百貨店に於ける一装飾工の惨死! このことに興味をいだいた君が、これからS百貨店へ行って、六年以上勤続の店員に訊ねることは無駄だ。恐らく、誰もそんな事件に就いては初耳だ、と答えるだろうから――
 然し、当夜の惨事に立会ったものは、店内関係者としては装飾部主任とその部下、宿直主任とその部下、警備係員若干、すべてで二十人はいるのだがね。彼らは相互に警戒して口をかんし、吹聴ふいちょう本能の禁欲につとめた。実に彼らこそ訓練の行届いた模範的な百貨店員と云うべきだ!
 ところが、此処ここにわらうべき一事がある。彼ら二十余名の模範店員たちの知っていることは、何の価値も無いということだ。それらは単に事件の外観、概要、表面に過ぎないんだ。真相は彼らのそとにある。如何いかにして此の事件が起り、如何にして彼らの知らない結末に終ったか? たった二人だけがそれを語る資格がある。一人はあの晩即死してしまった装飾工で、一人はかく云う僕なんだ………」
 と、最近ふとしたことで私と知り合いになった男――前S百貨店洋家具仕入部員と自称する男――が話し始めた。同一平面上にある二つの直線は、之を充分に延長させれば必らず相交わるか平行するかの二例を生じる。後の例は吾々をすくなからず憂鬱にさせ、前の例は吾々に歓喜を与えるが、時には激しい恐怖をもたらす。この一篇の殺人物語は、二つの直線の盲目的な行進に就いて、恐怖を起させる場合であるらしい。

        2

 彼は闇の中でまたたきをした。睡魔―敢えて此の場合「睡魔」と云う―が彼を見捨てようとして、足で彼の肩を蹴ったのだ。
「あっ……こいつはひどいぞ!」
 彼は、カラをつけ、襟飾ネクタイを結び、背広を着たままで、地上六十フィート、寂寞とした無人の大ビルディングの一角で――正確に云えば、S百貨店五階、洋家具売場附属倉庫内で、睡眠を摂っていたのだった。やがて闇をみつめる彼の眼前に、彼の犯した勤務上の失態が大写クローズアップされた――
 仕入部の柱時計が長短針を直線につなぐ。午後六時の執務終了の第一電鈴ベルが百貨店全体にジリリーッ! と響き渡る。彼は鍵を掴んで事務所を飛び出す。洋家具部倉庫の扉締りに行く。これが彼の日課の最後の部分だ。しかし、その余白にもう一つの日課を書入れることが出来る。何故なら、六時の第一電鈴ベルから第二の電鈴までの三十分間は、彼のみに与えられた自由休憩時間――人間的な時間だ! 倉庫の中で記帳執務に疲れた手足をううんと伸す。機械から人間への還元だ。その証明として睡眠を摂ることもある。機械は眠らない。――その日に限って、彼は睡眠時間の限度を超過してしまったのである。
 巨大なガラス窓が、倉庫の闇の中へ微量の光線を供給している。彼はその前へ立って眼下六十呎の世界を俯瞰ふかんした。此の都会に於ける最も繁華な商店街の、眩耀的な夜景がくり展げられている。だがその夢ましい展望に、詩人的な感慨をたのしんでいられる彼ではない。マッチを摺って腕時計にかざす。七時十二分。
「何アんだ。まだ早いぜ! 三時間も寝たかと思った」
 此の長方形の倉庫の一方は、ガラス窓で外界に接触し、一方は扉で売場との間を遮断している。彼は扉の方へ進んだ。
「おっと待ったり! 駄目だ! 一階の宿直室へ出る迄には途中に合計三枚の扉が邪魔をしている。その鍵を僕は持っていないと来た………」
 こうして倉庫脱出は断念せざるを得なかった。ポケットの手先が冷めたい鍵の触感におびえる。彼はそれを取り出して、扉の鍵孔キイホールへ突込んで見る。鍵は「廻れ右」をする。扉に錠が下りたのだ。
「さて、僕はどうしたらいいんだい?」
 一時間を費してその問題を研究した。彼の前に二つの方法が横たわっている――第一は即刻此処を出ることだ。困難な仕事は暗黒のビルディングの中を、手探りで三階商品券売場まで泳ぎつくことだ。宿直室への直通電話がそこの壁に彼を待っている。ボタンを押して電波を呼び醒ます。宿直員は途中三枚の扉を開けて呉れる。それから彼は宿直主任の前へ直立して、午後六時以後に起った肉体上精神上の経過を陳述し、決して商品窃取の目的を以って行動したことで無いことを諒解させることにつとめる。
 第二は、今晩中を甘んじて此の倉庫内に過し、翌朝店員達が出勤し来る頃を見計らって、そしらぬ風を装おって出るのである。毎朝倉庫の扉を開放するのも彼の役目だったから万々疑ぐられることはない――此の方法に依れば、全然勤務成績に影響を及ぼすことがない――
「だが、宿直員の店内巡回と云うやつがあるぞ」
 然し、これは極わめて形式的に行なわれる。彼らは一階から出発して五階へ来るまでには充分に疲れている。ただ扉を開けて提灯カンテラをふり廻すだけだ。その場合、彼は倉庫の隅の大きなソファの上で――決して下へかくれる必要はない――二分乃至三分間、静粛にしていればいい………
 ――彼はガラス窓を透して夜を知らぬ地上の繁栄を眺めやった。八時半に近い。人の出盛りだ! 彼の胸には急に人恋しさ、灯の街恋しさの念が湧き上って来た。馬鹿らしいロマンチシズムだ! そして彼はまだ夜食を摂っていない。非常な空腹を覚えて来た。笑えない生理的欲求だ!
「よし、逃げ出すと決めた!」彼は錠を外ずして扉を開けた。「勤務成績なんか糞喰らえだ。一杯の珈琲コーヒーのためには……おや何んだ?」
 扉を四五寸開けかけて、彼は彼自身の眼と耳に疑惑を持った。敢えて「家具部倉庫の扉だから」と云うわけではない。然し此の扉は実際素張らしい出来だ。ピッタリ閉めると完全に外部の音響を遮断する! ところで彼が扉を開けた刹那に売場の方から男声テノールが飛込んで来たのである――
花の巴里パリーのどん底の
闇に咲いたる血の華は
罪と罰との泥水の
中に生れた悪の華………
 それと同時に扉の間隙から、彼は意想外な光景を目撃した。彼の観念のうちに、暗黒と沈黙とから形造られていたビルディングには、どうやらあちらこちらに燈光が輝やいているらしいではないか! そして彼の視線の尖端には幾つかの小さな人影が立ち働いている! 畜生、何んということなんだ?
 分って見れば何事もなかったが、此の刹那に彼を襲った驚愕の激しさ! はっと胸をって来るものの強さ! これは凶事の恐るべき予感だったのであろうか………
「ああ、成程。今日は九月の三十日だった………」
 此の百貨店では二ヶ月毎に装飾部主任が外部の装飾業者に請負わせて、全店の装飾面貌に革命を企てる。このことは彼の決心に明るい光りを与えた。既に装飾部員が仕事をしている以上、「三枚の扉」の杞憂きゆうは抹殺していい。
暗い冷めたい下水道
濡れて育ったアパッシュは………
 又誰かが唱っている。彼は憂鬱な唱い手の咽喉に好感を持てた。彼は扉を押した。外に何かつかえるものがある。間隙七八寸で止まった。やや力を加えて見る。それほど力を要しないでも扉は動く様子だ。彼は押した………突然歌声は途切れて、その代りに狂おしげな叫声が伝わった………実にその刹那、扉一枚隔てた外側では、戦慄に値いする惨事が突発したのである!

        3

 都市美術社の若い装飾工の一人は、五階の欄干てすりに足を一本からげ、他の一本は小天使エンゼルの彫像の肩に載せて、猿の身軽さを保ち、彼に分担された仕事をやっていた。
 彼の脚下垂直六十呎、視線は一階中央大広間の寄木板モザイック張りの床に衝突する。今夜の装飾工事の中心を成すものは、その広間に築き上げられる大装飾塔だ。工事は進行しつつある! 指揮者は装飾部主任MT氏。装飾工が蟻のように群がっている。
 然し五階で仕事をしているのは彼の外に二人の仲間だけだ。その二人は五階の向う側をやっている。彼の咽喉が俗謡を唱う。「巴里アパッシュの唄」が、百貨店装飾工の仕事行進曲になっても別に差支えはない筈だ。
暗い冷めたい下水道
濡れて育ったアパッシュは………
 彼は仕事の手を止めた。
「はてな? 俺の気のせいかな?………確かにあの扉が動いたように思ったがね」生憎と扉の周囲は照明不足だった「だが、そんな筈はないだろう。今頃あの中に人が居るなんて!………ブルルッ! 万引女の幽霊かな。何しろむやみと扉を動かされちゃあ困るね。立てかけといた丸太がブッ倒れらア」
 扉の方を気にし乍ら――
光りを閉ざす地の底の
闇に生れたならず者………
「あッ、いけないや!………誰かあすこに居るんだ!」
 彼は口に出して叫ぶ。装飾材料の二本杉丸太が扉の前に立てかけてある。扉が押されれば倒れようとする位置にある。二本共に斜めに倒れる方向は正しく彼の方を指示している!………
「ちょ、ちょっと待てっ!………待ってくれ!……あっ!」
 間髪を容れず彼の杞憂は事実に置きかえられた。扉は容赦なく内から押し開らかれた………長さ一丈に余る大丸太は二つながら風を切って彼を目懸けて倒れて来た! 驚愕! 咄嗟とっさ、彼は左足を欄干から外ずし、身体の位置を変えようと試みた………と、何んたる不幸! その時全体の体重を支えていた右足が小天使エンゼルの肩をツルリと滑ったのだ! 死の唸めきがその唇をついてほとばしる………次の瞬間彼の両腕は六十呎の空間に空しく泳いでいた!………

        4

 人々は事件直後から今日までの、彼の選んだ態度に就いて非難を試みるかも知れない。――彼はその翌朝、平然として倉庫からあらわれた。そして今日まで、一言でも事の真相を歯から外へは出さないで来たのだ――それは彼の意志だった。だが、或いは彼の環境が、その意志を助長させたとも云える。誰一人として彼に疑惑の視線を投げない! 否、この惨事の一幕に於ける彼の存在そのものを知らない。彼には当夜何事も起らなかったのだ。
「え? 僕がこの手で犯した殺人に恐怖を感じないかって? 良心の苛責? 精神的苦悶?………冗談だ! 僕はその種のロマンチシズムやセンチメンタリズムはとうの昔にどこかへ置き忘れて来てしまった。これは君、何の不思議もない出来事さ。舗道を歩いたら靴の底が減ったと云うようなものだ。………扉を開けたら一人の男が死んだ………殺したんじゃない死んだんだ。それは僕の責任じゃあない……」
 ――都市美術社の若い装飾工の墜死は、墜死者自身の不注意に基因する! というのが居合せたすべての人々の到達した結論だ。彼が墜ちたのは二本の丸太の衝撃を避けようと試みたことにある。何故装飾用材は自然的に倒れたのであるか? 彼の立て方に何らかの不注意があったのだ。若い未熟な技工の間にはしばしば起ることだ。敢えて珍らしくはない。又それ以外に想像は許されない。生憎彼の近くには誰もいなかったのだ。その丸太が家具部倉庫の扉のあたりに立てられてあったことは、倒れた位置で推察された。
 だが、それで終りだ。
 誰が――全く、誰が錠の下りた倉庫の扉に就いて疑がうことが出来るだろう! さて、私は、この物語に大そう古風な標題をつけた――
「扉は語らず」
(一九三〇年四月号)

底本:「「猟奇」傑作選 幻の探偵雑誌6」ミステリー文学資料館編、光文社文庫、光文社
   2001(平成13)年3月20日初版1刷発行
初出:「猟奇」
   1930(昭和5)年4月号
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2005年8月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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