怪談浪曲師浪華綱右衛門なにわつなえもんの家に、怪奇なおばけの面があった。縦が二尺横が一尺で、左の眼は乳房が垂れさがったように垂れて、右の眼は初月みかづきのような半眼はんがん、それに蓬蓬ぼうぼうの髪の毛、口は五臓六腑が破れ出た血にまがわして赤い絵具を塗り、その上処どころ濃鼠こいねずの布で膏薬張こうやくばりをしてあった。
 それは初代林家正蔵が秘蔵していた物であった。その正蔵が百六歳の長寿を保って、沼津で歿くなった際、形見として弟子の中川海老蔵に与えたが、海老蔵は昭和五年の秋、女房に逃げられて、その苦悩のうちに病気になり、久しく病床に呻吟しんぎんしていたが、某日あるひ杖にすがって、弟子の綱右衛門の家へ現われ、
「人間は、今日在って明日無い命だ、これをおめえにやるぜ」
 と云って風呂敷包の中からりだしたのが、そのお化の面であった。綱右衛門は喜んだ。
「師匠、これを、わっしに」
「形見だから、執っといてくんねえ、乃公おいらの後を継いでくれるのは、おめえだけだ」
 海老蔵はそれから夕陽の影法師のようなちからない足どりで帰って往ったが、それから一週間して綱右衛門は、海老蔵の死亡の通知に接した。
 其の後綱右衛門は、お化の面を用いて人気を博するつもりで、深川の桜館さくらかんでそれをかむって四谷怪談をやったところで、前晩まで三四百人来ていた客が、次の晩には十四五人になり、その翌晩は、木戸で喧嘩が起って血の雨が降った。
 綱右衛門は恐れをなしてお化の面をしまいこんだが、昭和七年になって、久しぶりに執り出して、弟子の綱行に冠せ、記念の写真を撮って、その後でビールを飲んでいたところで、平生いつもは猫のように温順おとなしい綱行がちょっとした事で綱右衛門に喰ってかかったので、
「なにを、この野郎」
 と云ってビール瓶で殴りつけたので、綱行は負傷するし、つづいて女房が病気になってなかなかなおらず、そんなこんなで家作かさくは人手に渡ってしまった。その時遊びに来たのが伊藤静雨せいう[#「静雨」はママ]であった。
 綱右衛門は静雨[#「静雨」はママ]に不吉なお面の話をして別れたが、翌日になって静雨[#「静雨」はママ]から夫人の歿くなったと云う通知を受け取った。
 そこで綱右衛門は、すっかり怖気おじけをふるって、昭和十一年三月、菩提寺の浅草玉姫町の永伝寺へ奉納して、永久に同寺に封じこめる事にした。

底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
   2003(平成15)年10月22日初版発行
底本の親本:「新怪談集 実話篇」改造社
   1938(昭和13)年
入力:Hiroshi_O
校正:noriko saito
2010年10月20日作成
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