二坪に足らぬ市中まちなかの日蔭の庭に、よくもこう生い立ちしな、一本ひともと青楓あおかえで、塀の内に年経たり。さるも老木おいきの春寒しとや、枝も幹もただ日南ひなたに向いて、戸の外にばかり茂りたれば、広からざる小路の中を横ぎりて、枝さきは伸びて、やがて対向むかいなる、二階家の窓にとどかんとす。その窓に時々姿を見せて、われに笑顔向けたまうは、うつくしき姉上なり。
 朝な夕な、琴弾きたまうが、われ物心覚えてより一日ひとひも断ゆることなかりしに、わが母みまかりたまいし日よりふとみぬ。遊びにきし時、その理由わけ問いたるに、何ゆえというにはあらず、飽きたればなりとのたまう。されど彼家かしこなる下婢かひの、ひそかにそのまことを語りし時は、稚心おさなごころにもわれ嬉しく思いみぬ。
「それはね、坊ちゃん、あの何ですッて。あなたのね、母様おっかさんがおなくなり遊ばしたのを、御近所に居ながら鳴物なりものもいかがな訳だって、お嬢様が御遠慮を遊ばすんでございますよ。」
 その隣家となりに三十ばかりの女房一人住みたり。両隣は皆二階家なるに、其家そこばかり平家にて、屋根低く、軒もまたささやかなりければ、おおいなるおうの字ぞ中空に描かれたる。この住居すまいは狭かりけれど、奥と店との間にひとつの池ありて、金魚、緋鯉ひごいなど夥多あまた養いぬ。が飼いはじめしともなく古くより持ち伝えたるなり。近隣の人は皆年久しく住みたれど、そこのみはしばしば家主かわりぬ。さればわれその女房とはまだ新らしき馴染なじみなれど、池なる小魚こうおとは久しき交情なかなりき。
「小母さん小母さん」
 この時髪や洗いけん。障子の透間すきまより差覗さしのぞけば、はだ白く肩に手拭てぬぐいを懸けたるが、奥の柱にりかかれり。
「金魚は、あの内に居るかい。」
「居ますとも、なぜ今朝ッからいらっしゃらないッて、待ってるわ、みつぎさん。」
「そう。」
「あら、そう、じゃアありません、お入りなさいよ、ちょいと。」
「だってかないもの、この戸は重いねえ。」
 手を空ざまに、我が丈より高き戸の引手を押せば、がたがたと音したるが、急にずらりと開く。婦人おんな上框あがりがまちに立ちたるまま、かいなを延べたる半身、ななめに狭き沓脱くつぬぎの上におおわれかかれる。その袖の下を掻潜かいくぐりて、摺抜すりぬけつつ、池あるかたに走りくをはたはたと追いかけて、うしろよりいだとどめ、
「なぜそうですよ。金魚ばかりせッついて、このは。私ともお遊びッてば、いやかい。」
 と微笑ほほえみたり。
「うむ。」
「うむ、じゃアありません。そんなことをお言いだと私ゃ金魚をうらみますよ。そして貢さんのお見えなさらない時に、焼火箸やけひばし押着おッつけて、ひどい目に逢わせてやるよ。」
「厭だ。」
「それじゃ、まあおすわんなさい。そしてまた手鞠歌てまりうたを唄ってお聞かせな。あの後が覚えたいからさ。何というんだっけね。……二両で帯を買うて、三両でけて、二両で帯を買うて、それから、三両で絎けて、そうしてどうするの、三両で絎けて……」
「今年はじめて花見に出たら、寺の和尚に抱き留められて。」
 とわれは節つけて唄いいだしぬ。
 婦人おんなは耳をすまして聞く。
「寺の和尚に抱き留められて、しゃれ、放しゃれ、帯切らしゃるな。」
「おや、お上手だ。」と障子の外より誰やらむ呼ぶ者ありけり。

「誰?」と言いかけて走り出で、障子の隙間すきまより戸外おもてを見しが、彼は早や町の彼方かなたく、その後姿は、隣なる広岡の家の下婢かひなりき。
「貢さんが、お上手だもんだから。立って聞いてたの。それはね、唄も節もまるで私たちの知ッてるのと違うんだもの。もっと聞かして下さい、後でまた昨日きのうの続きのお話をして上げますから。」
 この婦人おんな、昔話の上手にて、おさなきものにもよく分るよう、可哀あわれなる、おかしき物語して聞かす。いつもおもしろき節にてめては、明くる日その続きをと思うに、まずわれに鞠歌を唄わしむるなり。
「高い縁から突き落されて、こうがい落し、小枕落し……」
 と唄い続けつ。かしらを垂れて聞き果てたり。
「何だか可哀あわれっぽいのね。ふさいで来るようだけれど、飛んだおもしろいよ。私たちの覚えたのは、内方うちかた袖方そでかた御手おんてに蝶や花、どうやどうんど、どうやどうんど、一丁、二丁、三丁、四丁ッてもう陽気なことばかりで、訳がわからないけれど、貢さんのはまた格別だねえ。難有ありがとうござんした。それではちょうどひまだし、昨日のあの、阿銀おぎん小銀こぎんのあとを話してあげましょう。」
 とて語り出づる、大方の筋は継母ままははのそのまましきむごきなりけり。
「昨日はどこまで話しましたッけね、そうそう、そうするとね、貢さん、妹の小銀と云う子が感心じゃありませんか。今の母様おっかさんの子で、姉様ねえさんの阿銀とはおなかが違っているのだけれど、それはそれは姉おもいの優しい子で、姉様が継母の悪だくみで山へ棄てられるというのを聞いて、どんなにか泣いたろう。何てッて頼んでも、母様は肯入ききいれないし、父様おとっさんは旅の空。家来や小者はもうみんなが母様におべっかッてるんだから、誰一人執成とりなしてくれようと云うものはなし、しかたがないので、そっとね、姉様がむじつの罪をせられて――昨夕ゆうべ話したッけ――冤というのは何にも知らない罪を塗りつけられたの。納屋の中に縛られている処へ忍んで逢いに行ってね、言うようには、姉さん、私がどんなにか母様に頼んだけれど、どうしても堪忍しませんから、一旦いったん連れられておいでなさいまし。後でまたどうにでもしてお助け申しましょう。そうして、いらッしゃる処が解らないでは、お迎いにくことが出来ませんから、これを……ッて、そう云って、胡麻ごま一掴ひとつかみ、姉様のたもとへ入れてあげたの。く道々、中の絶えないように、そこいらにいておいでなさい。それをたよりにして逢いにくッて、まあ、賢こいじゃアありませんか、小銀はようよう九つ。
 その晩は手を取りあッて、二人が泣いて別れて、明日あくるひになると、母様の眼を忍んで小銀が裏庭へ出て見ると、枝折戸しおりどの処から、点々ぽっちりずつ、あの昨夜ゆうべの胡麻がこぼれ出して、細い、暗い、背戸山の坂道へかかっているのを、拾い拾い、ずッとずッと、遠い遠い、路を歩いて、淋しい山ン中へ入ッて行ッたの。そうするとね、新らしく土を掘りかえした処があッて、掻寄かきよせたあとが小高くなッてて、その上へ大きな石が乗ッけてあって、そこまで小銀が辿たどってくと、一条ひとすじ細うく絶々たえだえに続いていた胡麻のあとが無くなっていたでしょう。
 もう疑うことはない。姉様はこの中にれられたな、と思いながら、姉さん、姉さん、とつちに口をつけて呼んでみても返事がないから、はッと思って、泣伏して、耳をこう。」
 言いかけて婦人おんなこうべを傾け、顔をななめに眼をねむりて手をその耳にあてたるが、「ね。」とばかり笑顔寂しく、うっとり[#「うっとり」は底本では「うつとり」]眼を開きてわが顔をば見し。戸外おもてには風の音、さらさらと、我家わがいえ[#ルビの「わがいえ」は底本では「わがいへ」]なるかのかえでの葉をならして、町のはずれに吹き通る、四角よつかどあたり夕戸出ゆうとでの油売る声はるかなり。

 ひとしきり窓あかるく、白きほこり見えたるが、早ものに紛れてくらくなりぬ。寂しくなりたれば、近寄りて婦人おんなの膝に片手突きぬ。彼方かなたも寒くなりけむ、肌を入れつ。片袖を掛けてわがせないだきておおいながら、顔さしのぞさまして、なおしめやかにぞ語れる。
「そうすると、深い深い、下の方で、かすかに、姉の阿銀がね、貢さん、(ああい。)てッて返事をしましたとさ。
 それからまた精一杯な声で、姉さん姉さんッて呼んだの。そうすると、ああ、もう水が出て、足の裏が冷たくッて冷たくッて、と姉さんがお言いだとね。土を掘ったのだもの、水が出ますわ。
 どうぞして、上の石を退けて出してあげようとおしだけれど、大きな男が幾人もかかって据えたものを、どうして小銀の手に合うものかね。そちこちするうち日が暮れそうだから、泣き泣きその日は帰ってしまって、翌日あくるひまた尋ねて行って、小銀が(小銀が来ましたよ、小銀が来ましたよ。姉さん、姉さん、どこまで水がつきました。)ッて、問うたればね、膝まで水がつきましたッて、そうお言いだとさ。そのあくる日は、もうももの処へついたッて。またその翌日あくるひ行った時は、おなかの上まで来たんですとね。そうしてもうそうなると、水足が早くなって、小銀が、姉さん、姉さんッて聞く内に、乳の下まで着いたんだよ。山の中はひっそりして、鳥の声も聞えない。人ッ子一人通ろうではなし、助けてもらうわけにはゆかず、といって石は退けられないし、ただもうせめてのことに、お見舞をいうばかり、小銀が悲しい声を絞って。」
 この時婦人おんなは一息つきたり。可哀あわれなるこの物語は、土地の人口碑こうひに伝えて、孫子まごこに語り聞かす、一種のお伽譚とぎばなしなりけるが、ここをば語るには、誰もかくすなりとぞ。婦人おんなもいま悲しげなる小銀の声を真似まねむとて、声繕こわづくろいをしたりしなり。
「(姉さんや、姉さんや、どこまで水がつきました。どこまで水がつきました。もう一度顔が見たいねえ! 小銀が来ましたよう。)ッて、呼んでも呼んでも返事がないの。もう下で口が利けなくなったんでしょう。小銀の悲しさは、まあどんなだったろうねえ。かなわないとは思っても、ひょッと聞えようかと、(姉さんや、姉さんや、どこまで水がつきました。)阿銀さん、姉さんッて、はッと泣き倒れて、姉さん、姉さん。」
 と悲しき声す。先刻さきより我知らず悲しくなりしを押耐おしこらえていたりしが、もはや忍ばずなりて、わッと泣きぬ。驚きて口をつぐみし婦人おんなは、ひたとあきれしさまにて、手も着けでぞみまもりける。
 かどの戸引開けて、と入りざま、沓脱くつぬぎに立ちて我が名をあわただしく呼びたるは、隣家となりなる広岡の琴弾くかの美しき君なり。
「あれ。」とばかりに後にすさりて、うしろざまにまたその手を格子戸の引手にかけし、にげも出ださむ身のふりして、おもてをばあからめたまえる、可懐なつかしと思う人なれば、涙ながら見て、われは莞爾にっこと笑いぬ。
「まあ私はどうしたというのでしょう。」
 かく言いかけて俯向うつむきたまえり。
「どうぞ、さあどうぞお入りなさいまし。お嬢様まことに散らかしておりますが。」
 此方こなた周章あわてていう。
「はい、まだしみじみ御挨拶ごあいさつにも上りませぬのに、失礼な、つい、あの、まあ、どうしたらうございましょう。」
 詮方せんかたなげに微笑ほほえみたまいつ。はては笑いとこそなりたれ、わがその時の泣声の殺されやすると思うまではげしき悲鳴なりしかば、折しも戸にりて夕暮の空を見たまいしが、われにもあらで走入りたまいしなりとぞ。されば、わが泣きたるも、一つはこの姉上の母の、継母ぞということをば、かねて人に聞きて知れればなりき。

 うつくしき君のすまいたるは、わが町家まちやの軒ならびに、ならびなき建物にて、白壁しらかべいかめしき土蔵も有りたり。内証はいたく富めりしなりとぞ。人数ひとかずは少なくて、姉上と、その父と、母と、下婢かひとのみ、ものしずかなる仕舞家しもたやなりき。
 財産持てりというには似で、継母なる人の扮装みなりの粗末さよ。前垂まえだれも下婢と同じくしたり。髪はかささぎの尾のごときもののね出でたる都髷みやこまげというに結びて、歯を染めしが、ものいう時、上下うえしたの歯ぐき白く見ゆる。
 年紀としは四十に余れり。われをばにらみしことあらざれど、遊びにけば余り嬉しき顔せず。かつてりて、姉上と部屋にて人形並べて遊びしに、油こそ惜しけれ、しかることは日中ひなかにするものぞと叫びぬ。
 われを憎むとは覚えず、内にくことをこそ好まざれ、おもてにて遊ぶ時は、折々ものくれたり。されどかの継母の与えしものに、わが好ましきはあらざりき。
 節句のちまき貰いしが、五把ごわうちささばかりなるが二ツありき。あんず、青梅、すももなど、幼き時は欲しきものよ。広岡の庭には実のなる樹ども夥多あまたありし、中にも何とかいう一種李の実の、またなくうまかりしを今も忘れず。継母の目のなきひまに、姉上のひそかに取りて、両手にうずたかく盛りてわがたもとに入れたまいしが、袖のふりあきたれば、喜び勇みて走り帰る道すがら大方は振り落して、食べむと思うに二ツ三ツよりぞ多からざりける。
 継母はわずかに柿の実二ツくれたり。その一顆ひとつは渋かりき。他の一顆をあじわわむとせしに、真紅の色の黒ずみたる、うてななきは、虫のつけるなり。熟せしものにはあらず、毒なればとて、亡き母棄てさせたまいぬ。
 いつなりけむ、母上のたまいたる梨の、しんばかりになりしを地に棄てしを見て、彼処かしこの継母眉をひそめ、その重宝なるもの投ぐることかは、りおろして汁をこそ飲むべけれと、老実まめだちてわれに言えりしことあり。
 さる継母に養わるる姉上の身の思わるるに、いい知らず悲しくなりて、かくはわれ小銀のものがたりに泣きしなる。その理由いわれを語るべき我が舌は余りおさなかりき。
「まあ、こうなんですよ。お嬢様、ちょいと御覧なさいまし、子供ですねえ。」
 女房は笑みつつ言う。そのままにも出でかねてや、姉上は内にりたまい、
「まことに失礼いたしました。私もそそっかしい、考えたって解りますのにねえ。小母さん、悪く思召さないで下さいまし、ほんとにどうしよう私は。」と、ひたすらに詫びたまいぬ。
 此方こなたはただ可笑おかしがりて、
「いいえ、しかし何ですわ。うっかりした話はいたされませんね。私も吃驚びっくりしました、だって泣きようがひどいのですもの。いやな人ねえ。貢さん、私ゃ懲々こりこりしたよ。もうもうこんなことは聞かせません。」と半ばは怨顔うらみがおなるぞ詮方なき。
「でも賢いのね。貢さん、よくお解りだった。」
 と優しくかしらでつつ、姉上のでたまうに、ややおもてを起せり。
「お嬢様。」とものありげに戸外おもてより下婢の声懸けたれば、かの君はいそがわしく辞し去りたまいぬ。あと追うて出でむとせしを、女房の遮りて、笑いながら、
「あらそのまんまでげちゃずるいよ。もうひとつ手鞠唄をお聞かせでなくッちゃあ……」
 再び唄いたり。いなみて唄わざらむには、うつくしき金魚もあわれまた継母の手にかかりやせむ。


 我が居たる町は、一筋細長く東より西に爪先上つまさきあがりの小路なり。
 両側に見好みよげなる仕舞家しもたやのみぞ並びける。市中いちなかの中央の極めてき土地なりしかど、この町は一端のみ大通りにつらなりて、一方の口は行留ゆきどまりとなりたれば、往来少なかりき。
 あしたよりゆうべに至るまで、腕車くるま地車じぐるまなど一輌もぎるはあらず。美しきおもいもの、富みたる寡婦やもめ、おとなしきわらわなど、夢おだやかに日を送りぬ。
 日は春日山のいただきよりのぼりてあわヶ崎の沖にる。海は西のかた路程みちのり一里半隔りたり。山は近く、二階なる東の窓に、かの木戸の際なる青楓の繁りたるにおおわれて、峰の松のみ見えたり。欄にりて伸上れば半腹なる尼のいおりも見ゆ。卯辰山うたつやま、霞が峰、日暮ひぐらしの丘、一帯波のごとく連りたり。空あおく晴れて地の上に雨の余波なごりある時は、路なる砂利うつくしく、いろいろのこいしあまた洗いいださるるが中に、金色こんじきなる、また銀色ぎんしょくなる、緑なる、樺色かばいろなる、鳶色とびいろなる、細螺きしゃごおびただし。わだちの跡というもの無ければ、馬も通らず、おさなきものは懸念なく踞居ついいてこれを拾いたり。
 あそびなかまの暮ごとに集いしは、筋むかいなる県社乙剣おとつるぎの宮の境内なる御影石みかげいしの鳥居のなかなり。いと広くてつちをば綺麗きれいに掃いたり。さかき五六本、秋は木犀もくせいかおりみてり。百日紅さるすべりあり、花桐はなぎりあり、また常磐木ときわぎあり。梅、桜、花咲くはここならで、御手洗みたらし後合うしろあわせなるかの君の庭なりき。
 この境内とその庭とを、広岡の継母は一重ひとえ木槿垣むくげがきをもて隔てたり。朝霧淡くひとつひとつに露もちて、薄紫にしべ青く、純白まっしろの、蘂赤く、あわれに咲重なる木槿の花をば、継母はかゆに交ぜて食するなり。こは長寿ながいきする薬ぞとよ。
 梨のしんを絞りしつゆも、木槿の花を煮こみし粥も、が口ならばうまかるべし。姉上にはいかならむ。その姉上と、大方はわれここに来て、この垣をへだててまみえぬ。表よりかむは、継母のよき顔せざればなり。
 時は日ごとに定まらねど、垣根にたたずめば姉上の直ちに見えたまう。垂籠たれこめていたまうその居間とは、樹々のこずえありて遮れど、それと心着きてや必ず庭に来たまうは、虫の知らするなるべし。一時あるときは先立ちて園生そのうをそぞろあるきしたまうことあり。さる折には、われ家を出づる時、心の急がざることあらざりき。
 きて差覗さしのぞけば、しおれてに立ちて、こうべをさげ、肩を垂れ、襟深くおとがいうずめて力なげに彳みたまう。病気にやと胸まずとどろくに、やがて目をあげて此方こなたを見たまう時、莞爾にっことして微笑ほほえみたまえば、やまいにはあらじと見ゆ。かかることしばしばあり。
 ひとり居たまう時はいつもしかなりけむ。われには笑顔見せたまわざること絶えてなかりしが、わがために慰めらるるや、さらばつとめて慰めむとてく。もどかしき垣を中なる逢瀬おうせのそれさえも随意ままならで、ともすれば意地悪き人の妨ぐる。
 国麿くにまろという、もとの我が藩の有司のの、われより三ツばかり年紀としたけたるが、鳥居のつきあたりなる黒の冠木門かぶきもんのいといかめしきなかにぞすまいける。

 肩幅広く、胸張りて、頬に肥肉ししつき、顔まろく、色の黒き少年なりき。腕力ちからもあり、年紀としけたり、門閥もたっとければ、近隣の少年等みな国麿に従いぬ。
 厚紙もて烏帽子えぼしを作りてこうむり、はたきを腰に挿したるもの、顱巻はちまきをしたるもの、十手を携えたるもの、物干棹ものほしざおになえるものなど、五三人左右に引着けて、かれは常に宮のきざはしの正面に身構えつ、稲葉太郎荒象園こうぞうえん鬼門おにかどなりと名告なのりたり。さて常にわが広岡の姉上に逢わむとてくを、などさは女々めめしき振舞する。ともに遊べ、なかまにならば、仙冠者牛若三郎という美少年の豪傑になさむと言いき。仙冠者は稲葉なにがしの弟にて、魔術をよくし、空中を飛行ひぎょうせしとや。仙冠者をわれ嫌うにあらねど、誰か甘んじて国麿の弟たらむ。
 言うことかざるをいたく憎み、きびしくその手下に命じて、われと遊ぶことなからしめたり。さらぬも近隣の少年は、わが袖長ききぬを着て、き帯したるをうとんじて、宵々には組を造りて町中まちなかを横行しつつ、我がかどに集いては、軒に懸けたる提灯ちょうちんつぶてを投じて口々にののしりぬ。母上の名、仮名もてその神燈に記されたり。亡き人に礫打たしては、仏を辱かしめむとて、当時わが家をば預りたまえる、伯母の君ほかのに取りかえたまいぬ。
 かかりし少年の腕力あり門閥ある頭領を得たるなれば、何とて我威をふるわざるべき。姉上に逢わむとて木槿垣むくげがきみち、まず一人物干棹をもて一文字に遮りとどむ。十手持ちたるが引添いてまなこを配り、顱巻したるが肩をあげてめ着くる。その中にやさしき顔のかの烏帽子かぶれるはたきをば、国麿の引取りて、背後うしろかたに居て、片手を尻下りに結びたる帯にはさみて、鷹揚おうよう指揮さしずするなり。
 わびたりとて肯くべきにあらず、しおしおと引返す本意ほいなき日数ひかずこそ積りたれ。忘れぬはわがために、この時嬉しかりし楓にこそ。
 その枝のさき近々と窓の前にさしいでたれば、広岡のかの君は二階にのぼりて、此方こなたてすりつかまりたるわが顔を見て微笑ほほえみたまいつつ、かいなさしのべて、葉さきをつまみ、しないたる枝を引寄せて、折鶴、木※みみずく[#「くさかんむり/兎」、U+2B7CF、42-18]ひいなの形に切りたるなど、色ある紙あまた引結いてはソト放したまう。小枝は葉摺はずれしてさらさらと此方に撓いて来つ。風少しある時殊に美しきは、金紙きんし、銀紙をこまかく刻みて、蝶の形にしたるなりき。
 雨の日はいかにしけむ、今われ覚えておらず。うららかなる空をば一群ひとむれはと輪をつくりて舞うが、姉上とわれとむかいあえるにれて、恐気おそれげなく、此方こなたの軒、彼方かなたの屋根にさっおろしては翼を休めて、ひさしにも居たり。物干場の棹にも居たり。棟にも居たり。みな表町おもてまちなる大通おおどおりの富有の家に飼われしなりき。夕越ゆうごえくれば一斉にねぐらに帰る。やや人足繁く、戸外おもて往来ゆきかうが皆あおぎて見つ。楓にはいろいろのもの結ばれたり。
 そのまま置きて一夜ひとよを過すに、あくる日はまた姉上の新たに結びたまわでは、昨日きのうなるは大方せて見えずなりぬ。
 手届きて人の奪うべくもあらねば、町の外れなる酒屋のくら観世物みせもの小屋の間に住めりと人々の言いあえる、恐しき野衾のぶすまの来てさらえてくと、われはおさなき心に思いき。


 その翼広げたる大きさはとびたぐうべし。野衾のぶすまと云うは蝙蝠こうもり百歳ももとせを経たるなり。年紀とし六十に余れる隣の扇折おうぎおりおじわかき時は、夜ごとにその姿見たりし由、近き年は一年ひととせに三たび、三月に一たびなど、たまたまならでは人の眼に触れずという。一尾ならず、二ツ三ツばかりある。普通なみの小さきものとは違いて、夏の宵、夕月夜、ひともす時、黄昏たそがれには出来いできたらず。初夜すぎてのちともすればその翼もて人のおもておおうことあり。柔かに冷き風呂敷のごときもの口にふたするよと見れば、胸の血を吸わるるとか。幻のごとく軒にひらめきて、宮なる鳥居をかすめ、そのまま隠れ去る。かの酒屋のくらと、観世物みせもの小屋の間まで、わが家より半町ばかり隔りし。真中まんなかに古井戸一ツありて、雑草の生い茂りたるもと空地なりしに、その小屋出来たるは、もの心覚えし後なり。
 興行あるごとに打囃うちはや鳴物なりものの音頼母たのもしく、野衾の恐れも薄らぐに、きて見れば、木戸のにぎわいさえあるを、内はいかにおもしろからむ。母上いませし折は、わが見たしと云うを許したまわず、野衾の居て恐しき処なるに、いかでこの可愛かわゆきもの近寄らしむべきとてとどめたまいぬ。
 亡き人となりたまいて後は、わが寂しがるを慰めむとや、伯母上は快よく日ごとに出だしたまう。場内の光景は見れてあきらかに覚えたり。
 土間、引船、桟敷さじきなどいうべきを、うずら出鶉でうずら、坪、追込などとなえたり。舞台も、花道も芝居のごとくに出来たり。人数一千はるるを得たらむ。
 木戸には桜の造花つくりばなひさしにさして、枝々に、赤きと、白きと、数あまた小提灯こぢょうちんに、「て。」「り。」「は。」と一つひとつ染め抜きたるを、おびただしくつるして懸け、夕暮には皆ひともすなりけり。その下あたり、札をかかげて、一人々々役者の名を筆太にこそ記したれ。小親こちかというあり、重子というあり、小松というあり、秋子というあり、細字さいじもてしのぶというあり。小光、小稲こいなと書きつらねて、別にかたわらに小六と書いたり。

 印半纏しるしばんてんたる壮佼わかものの、軒に梯子はしごさして昇りながら、一つずつ提灯にともすが、右のかたより始めたれば、小親という名、ぱっと墨色濃く、あざやかに最初の火にてらされつ。蝋燭ろうそくの煮え込まざれば、その他はみな朧気おぼろげなりき。
 ありたけの提灯あかくなりたる後に、一昨日おとといも、そのさきの日も、昨日きのうも来つ。このゆうべは時やや早かりければ、しばしわれ木戸の前に歩行あるくともなくたたずみつつ、幾度いくたびか小親の名を仰ぎ見たり。名を見るさえ他のものとは違いて、そぞろに興ある感起りぬ。かねてその牛若にふんせし姿、いたくわが心にかないたり。
 見物はいまきたり集わず。木戸番のともしび大通おおどおりより吹きつくる風に揺れて、肌寒う覚ゆる折しも、三台ばかりくるまをならべて、東よりさっと乗着けしが、一斉にながえをおろしつ、と見る時、女一人おり立ちたり。続いて一にん片足を下せるを、後なる俥より出でたる女、つと来て肩を貸すに手を掛けてひらりと下りたり。先なるは紫の包を持ちて手に捧げつ。左右に二にん引添いたる、真中まんなかに丈たかきは、あれ誰やらむ、と見やりしわれを、左なる女木戸をりざま、と目を注ぎて、
「おや、お師匠様。」
 また一にん
「あの、このお子ですよ。」と低声こごえに言いたり。聞棄てながら一歩を移せし舞の師匠は振返りつ。さやかなる眼にキトわれを見しが、互に肩を擦合せて小走りにるよとせしに、つかつかと引返して、冷たききぬの袖もてわがうなじを抱くや否や、アと叫ぶ頬をしたたかに吸いぬ。
 ややありてわれ眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりたり。三人は早や木戸を入りて見えざりき。あまり不意なれば、茫然ぼうぜんとして立ったるに、ふと思い出でしは野衾の事なりき。にわかに恐しくなりてくびすを返す。とおりの角に、われを見て笑いながら彳みたるは、その頃わが家に抱えられたるそめという女なり。
 走りきて胸にすがりぬ。
こわかったよ、染ちゃん恐かったよ。」
「そう、恐かったの、貢さんはあれが恐いのかい。」
「見ていたの。」
「ああ見ていたとも、私が禁厭おまじないをしてあげたから何とも無かったんですわ。危ないことね。」
「恐かったよ。染ちゃん、顔をね、包んでしまったから呼吸いきが出なかったの。そうしてひどいの、あのほっぺたを吸ったんだ。チュッてそう云ったよ、痛いよ、染ちゃん。」
 染は眉をひそめて仔細しさいらしく、
「どれ、ちょいとお見せ。」
 と言いつつ、「て」「り」「は」の提灯のあかりに向けてすかし見るより、
「おや、おや、おや、大変。まあ。」とけたたましく言うに、わが胸とどろきたり。おどおどすれば真顔になりて、
「乱暴だ、酷いことをするわ、野衾が吸ったんだね、貢さん、血が出てるわ。……おや。」
 驚きて、
「あら、泣くんじゃアありません。何ともないよ、直ぐ治るから往来で何のこッたね、あら、泣かないでさ。」
 と小腰をかがめて、湯にきし帰途かえりなれば、手拭てぬぐいの濡れたるにて、その血のあとというものぬぐいたり。
「さあ、治りました。もう何ともないよ。」
 とすかす、血の出たるが、こう早くゆべしとは、われ信ぜず。
「嫌だ、嫌だ、痛いや、治りやしないや。」
「困るね。」
 いう折しもまたここに来かかりしは、むかいなるかの女房なりき。われはまた彼方かなたに縋りぬ。
「小母さん、恐かったよ。あのね、野衾が血を吸ったの。恐かったよ。」
「え、どうしたって云うの、大変だ、あの野衾がね。」
 かたわらより、
「姉さんほんとうですよ、あのね。」
 と言いつつ、ひたと身を寄せ、染は耳朶みみたぶささやきて、
「ね、ほんとうでしょう……ですからさ。」とまた笑えり。
 女房は微笑ほほえみながら、
不可いけないよ。貢さんは何でもほんとにするからだまされるんだよ。このにぎやかなのに、何だってまた野衾なんかが出るものかね。嘘だよ、綺麗な野衾だから結構さ。」
「あら姉さん。」
「おしよ。そんなことっておどすのは虫の毒さ、私も懲りたことが有るんだからね、欺しッこなし。貢さん、なに血なもんかね、御覧よ。」
 中指のさきを口に含みて、やがて見せたる、血の色つきたり。
べにさ。野衾でも何でもいやね。貢さんを可愛がるんだもの、恐くはないから行って御覧、折角、気晴きばらしくのものを、ねえ。此奴こいつが、」
「あれ。」
「あばよ。」とばかり別れたる、囃子はやしの音おもしろきに、恐しき念もせて、せわしくまた木戸にきぬ。
 能は始まりたり。早くと思うに、木戸番の男、鼻低う唇厚きが、わが顔を見てニタニタと笑いいたれば、何をか思うと、その心はかり兼ねて猶予ためらいぬ。

「坊ちゃん、お入んなさい、始りましたよ。」
 わが猶予ためらいたるを見て、木戸番は声を懸けぬ。日ごとにきたれば顔を見識みしれるなりき。
「どうなすったんだ。さあ、お入んなさい、え、どうしたんだね。もう始りましたぜ。何でさ、木戸銭なんか要りやしません。お入んなさい、無銭ただうごす。木戸銭は要りませんから、菓子でも買っておあがんなさい。」
 大胡坐おおあぐら掻きたるが笑いながら言示いいしめせり。さらぬだに、われを流眄しりめにかけたるが気にかかりて、そのまま帰らむかと思えるならば、こらえず腹立たしきに、伯母上がたまいし銀貨りたる緑色の巾着、手に持ちたるままハタとなげうちたり。銀貨入をおしむ。投ぐるとひとしくいだしぬ。く帰りて胸なる不平を伯母上に語らばやと、見も返らざりし背後うしろより、跫音あしおとせわしく追迫りて、手をとらえて引留めしは年若き先のむすめなり。
「坊ちゃん、まあ、あなた、まあどう遊ばしたんですよ。どこへいらっしゃるのさ。え、何かお気に入らない事があったんですか。お怒りなすって、まあ、飛んだ御機嫌が悪いのねえ。堪忍して頂戴な。よう、いらっしゃいよ。さあ、私と一所においでなさいましなね。何です、そんな顔をなさるもんじゃありません。」
「嫌だ。」
「あれ、そんなこと有仰おっしゃらないでさ。あのね、あのね、小親さんがお獅子を舞いますッて、ね、いでしょう、さあ、いらっしゃい。」
 と手を取るに、さりとも拒み得で伴われし。木戸にかかる時、木戸番のおじわれを見つつ、北叟笑ほくそえむようなれば、おもてを背けて走り入りぬ。
 人大方は来揃いたり。桟敷さじきの二ツ三ツ、土間少し空きたる、舞台に近き桟敷の一間に、女はわれを導きぬ。
「坊ちゃん、じゃあね、ここで御覧なさいまし。」
 意外なる待遇もてなしかな、かかりし事われは有らず。平時いつもはただ人の前、背後うしろわきなどにて、さまたげとならざる限り、処定めず観たりしなるを。おおいなる桟敷の真中まんなか四辺あたり※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわして、ちいさき体一個ひとつまず突立つったてり。
 とばかりありて、仮花道に乱れ敷き、支え懸けたる、見物の男女なんにょ袖肱そでひじの込合うたる中をば、飛び、飛び、小走こばしりわらわ一人、しのぶと言うなり。緋鹿子ひがのこを合せて両面着けて、黒き天鵞絨びろうどへり取りたる綿厚き座蒲団ざぶとんの、胸に当てて膝をおおうまでなるを、両袖に抱えて来つ。
 見返るむすめに顔を見合せて、
「あのね、姉さんが。」と小声に含めて渡す。
 受取りてむすめは桟敷に直しぬ。
「さあ、お敷き遊ばせよ。」
 われはまた蒲団に乗りて、すわりもやらで立ったりき。むすめは手もて足を押えて顔を見て打笑みたり。
「さあ、おゆっくり。」
 われは据えられぬ。
「しのぶさん、お火鉢。」
「あい。」と云いしが※(「目+句」、第4水準2-81-91)して、土間より立ったる半纏着の壮佼わかものさしまねき、
「ちょいと、火鉢をね。」
「おい。」とこちら向く。その土間なる客の中に、国麿のまじりしをわれ見たり。顔を見合せ、そ知らぬ顔して、仙冠者は舞台のかたまなこを転じぬ。牛若に扮したるは小親にこそ。

 髪のいと黒くてつややかなるを、元結もッといかけて背に長く結びて懸けつ。大口の腰に垂れて、舞う時なびいて見ゆる、また無き風情なり。狩衣かりぎぬの袖もゆらめいたり。長範をば討って棄て、血刀ちがたな提げて呼吸いきつくさまする、額には振分たる後毛おくれげ先端さき少しかかれり。眉凜々りりしく眼のあざやかなる、水の流るるごときを、まじろぎもせで、正面に向いたる、天晴あっぱれ快き見得なるかな。
 囃子の音寂然ひっそとなりぬ。粛然として身を返して、三の松を過ぎると見えし、くるりといたる揚幕に吸わるるごとく舞込みたり、
「お茶はよろし、お菓子はよしかな、お茶はよろし。」
 と幕間まくあい売歩行うりあるく、売子の数の多き中に、物語の銀六とてたわけたる親仁おやじ交りたり。茶の運びもし、火鉢も持て来、下足の手伝もする事あり。おりおり、小幾、しのぶ、小稲が演ずる、狂言の中に立交りて、ともすればきっとなりて居直りて足を構え、手拍子打ち、扇を揚げて、演劇しばいの物語の真似まねするがいとたくみなれば、皆おかしがりて、さは渾名あだなして囃せるなり。
 真似の上手なるも道理ことわりよ、銀六は旧俳優もとやくしゃなりき。
 かつて大槻内蔵之助おおつきくらのすけ演劇しばいありし時、かれ浅尾を勤めつ。三年みとせあまりさきなりけむ、その頃母上居たまいたれば、われ伴われて見にきぬ。
 蛇責へびぜめこそ恐しかりけり。大釜おおがま一個ひとつまず舞台に据えたり。背後うしろに六角の太き柱立てて、釜に入れたる浅尾の咽喉のんどを鎖もていましめて、真白なるきぬ着せたり。顔の色はあおざめて、乱髮みだれがみ振りかかれるなかに輝きたるまなこの光のすさまじさ、みまもり得べきにあらず。夥兵くみこ立懸たちかかり、押取巻おっとりまく、上手かみて床几しょうぎを据えて侍控えいて、何やらむいいののしりしが、たきぎをば投入れぬ。
 どろどろと鳴物なりもの聞えて、四辺あたり暗くなりし、青白きものあり、一条ひとすじ左のかたよりひらめきのぼりて、浅尾の頬をかすめて頭上に鎌首をもたげたるはくちなわなり。※(「口+阿」、第4水準2-4-5)あなやと見る時、別なるがまたうなじまといて左なるとからみ合いぬ。恐しき声をあげて浅尾のうめきしが、輪になり、さおになりて、同じほどのくちなわ[#ルビの「くちなわ」は底本では「くちなは」]すじともなく釜の中よりうねり出でつ。細く白き手を※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)もがきて、その一条を掻掴かいつかみ、アと云いさま投げ棄てつ。かわがわる取って投げしが、はずみて、矢のごとくそれたる一条、土間に居たまいたる母上の、袖もてわれをいだきてうつ向きたまいし目のさきにハタと落ちたるに、フト立ちて帰りたまいき。
 この時その役つとめし後、かれはまた再びじょうに上らざるよし。蛇責の釜にりしより心地あしくなりて、はじめはただ引籠ひきこもりしが、俳優やくしゃいやになりぬとてめたるなり。やや物狂わしくなりしよしなど、伯母上のうわさしたまう。
 何地いずちきけむ。久しくその名聞えざりしが、この一座に交りて、再び市人いちびとの眼に留りつ。かの時のおもかげは、露ばかりも残りおらで、色も蒼からず、天窓あたまげたり。大声に笑い調子高にものいい、身軽く小屋の中をせ廻りてひとり快げなる、わが眼にもこのおじが、かの恐しき事したりとは見えず。赤き顱巻はちまき向うざまにしめて、すそからげ、片肌脱ぎて、手にせる菓子の箱高く捧げたるがその銀六よ。

「人気だい、人気だい。や、すてきな人気じゃ。お菓子、おこし、小六さん、小親さん、小六さんの人気おこし、おこしはよしか。お菓子はよしか。」
 いまの能の品評しなさだめやする、ごうごうと鳴る客の中を、勢いよく売ありきて、やがてわが居たる桟敷さじききたりて、
「はい、これを。」
 と大きく言いて、紙包にしたる菓子をわが手に渡しつ。
「楽屋から差上げます。や、も、皆大喜び、数ならぬわたくしまで、はははは。何てッてこれ坊ちゃんのようなおちいさいのが毎晩見て下さる。当興行大当おおあたり、滅茶々々に面白い。すてきに面白い。おもしろ狸のきぬた巻でも、あんころもちでも、鹿子かのこ餅でも、何でもございじゃ、はい、何でもござい、人気おこし、お菓子はよしか。小六さん、小親さん、小六さんの人気おこし、おこしはよしか。」と呼びかけて前の桟敷をまたぎ越ゆる。
 ここに居て見物したるは、西洋手品の一群ひとむれなりし。顔あかく、まなこつぶらにて、おとがいひげうずめたる男、銀六のきものすそむずと取りて、
「何を!」と言いさま、三ツ紋つきたる羽織の片袖まくし揚げつつ、
「何だ、小六さん、小六さんの人気おこしたあ何だ。」
「へい。」
「へいじゃあない、小六さんたあ何だ。客の前を何と心得てるんだ。けだものめ、乞食芸人の癖に様づけに呼ぶやつがあるもんか。きさまあ何だい、馬鹿め!」
 と言うより早くこぶしをあげて、その胸のあたりをハタとちぬ。背後うしろ蹌踉よろけて渋面せしが、たちまち笑顔になりて、
「許させられい、許させられい。」
 と身を返してきぬ。
 この時、人声静まりて、橋がかりを摺足すりあしして、膏薬こうやくねりぞ出できたれる。その顔はさきにわれを引留めて、ここに伴いたるかのむすめたるに、ふと背後うしろを見れば、別なるうつくしき女、いつか来て坐りたり。黒髪をつかねて肩に懸けたるのみ、それかと見れば、おもかげは舞台なりし牛若の凜々りりしげなるには肖で、いと優しきが、涼しき目もて、振向きたるわが顔をば見し。打微笑うちほほえみしままいまだものいわざるにソト頬摺ほおずりす。われは舞台に見向きぬ。
 背後うしろ見らるる心地もしつ。
 ややありて吸競すいくらべたる膏薬練の、西なるかた吸寄せられて、ぶざまにけかかりたるさまいと可笑おかしきに、われ思わず笑いぬ。
「おもしろうござんすか。」
 と肩に手をかけてひそめき問いぬ。
「よく来て下さいますね。ちょいと、あの、これを。」
 かれは先にわが投げ棄てし銀貨入を手にしつつ、
「私これ頂いときますよ。ね、頂戴。うござんすか。」
「ああ。」
 またうなずけば軽く頂き、帯の間に挟みしが、
「木戸のがね、お気に入りませんだったら叱ッてもらってあげますから、腹を立てないで毎晩、毎晩、いらっしゃいましな、ね。ちゃんとここを取って、私のこのお蒲団敷いてあげますわ。そうしてお前さんの好きなことをして見せましょう。何がいの、狂言がおもしろいの。」
「いいえ。」
「じゃあ、お能の方なの。」
「牛若が可いんだ、刀持って立派で可いんだ。」
「そう。」と言いかけて莞爾にこりとせしが、見物は皆舞台を向いたり。人知れずこそ、また一ツ、ここにも野衾居たりしよ。


 見物みな立ちたればわれも立ちぬ。小親が与えし緋鹿子ひがのこ蒲団ふとんの上に、広き桟敷さじきの中に、小さき体一ツまたこそこの時突立つったちたれ。さていかにせむ。前なるも、うしろなるも、左も右も、人波打ちつつどやどやと動揺どよみ出づる、土間桟敷に五三人、ここかしこに出後でおくれしが、頭巾かぶるあり、毛布けっとまとうあり、下駄のつつみ提げたるあり、仕切の板飛び飛びに越えてく。木戸のかた一団ひとかたまりになりて、数百すひゃくの人声推合おしあえり。われはただ茫然としてせむすべを知らざりき。
「おい、帰らないか。」
 と声を掛け、仕切の板に手をきて、われを呼びたるは国麿なり。ぼたん三ツばかり見ゆるまで、胸を広く掻広かきひろげて、袖をもひじまでまくし上げたる、燃立つごときくれない襯衣しゃつ着たり。尻さがりに結べる帯、その色この時は紫にて、
「どうした、一所に帰ろうな。」
「後から。」と低く答えぬ。
 国麿は不満の色して、
「だってみんな帰るじゃあないか。一人ぼッちで何しに残るんだ。」
「だって、まだ、何だもの。」
 となお猶予ためらいぬ。むすめ来て帰れと言わず、座蒲団このままにして、いかで、われかるべき。
 国麿はものあり顔に、
いじゃあないか、一所に帰ったって可いじゃあないか。」
「だって何だから……どうしたんだなあ。」
 ひたすら楽屋のかた打見やる。国麿はひややかなるえみを含み、
「用があるんか。誰か待ってるか、おい。」
「誰も待ってやしないんだ。」
「嘘をけ。いまに誰か来るんだろう。云ったって可いじゃないか。」
「誰も来るんじゃあないや。そうだけれど……困るなあ。」
「何を困るんだ。え、どうしたんだ。」
「どうもしないさ。」
「じゃあ困る事はないじゃあないか。な、一所に帰ろうと云うに。」
 顔の色変りたれば恐しくなりぬ。ともかくも成らば成れ、ともに帰らむか。鳥居前のあたりにて、いかなる事せむも計られずと思いて逡巡するに、国麿は早や肩を揚げぬ。
はやくしないかい、おい。」
「だって何だから。」
「何が何だ、おかしいじゃあないか。」
「この座蒲団が……」
 国麿はいま見着けし顔にて、
「や、すばらしい蒲団だなあ。すばらしいものだな、どうしたんだ。この蒲団はどうしたんだ。」
「敷いてくれたの。」
「誰が、と聞くんだ、敷いてくれたのは分ってらい。」
「お能のね、お能の女。」
「ふむ、あんなやつの敷いたものに乗っかる奴が有るもんか。彼奴あいつ等、おい、みんな乞食だぜ。踊ってな、うた唄ってな、人に銭よウ貰ってる乞食なんだ。内の父様おとっさんなんかな、能もるぜ。む、うたいも唄わあ。そうして上手なんだ。そうしてそういってるんだ。ほんとのな、お能というのは男がするもんだ。男の能はほんとうの能だけれど、女のは乞食だ。そんなものが敷いて寄越よこした蒲団に乗るとな、けがれるぜ。からだが汚れらあ。しちりけっぱいだ、退け!」
 踏みこたえて、
「何をする。」
「何でえ、おりゃ士族だぜ。退け!」

 国麿は擬勢を示して、
きさま平民じゃあないか、平民の癖に、何だ。」
「平民だっていや。」
「ふむ、豪勢なことを言わあ。平民も平民、きさまの内ゃ芸妓げいしゃ屋じゃあないか。芸妓も乞食も同一おんなじだい。だから乞食の蒲団になんか坐るんだ。」
 われは恥かしからざりき。娼家のよと言わるるごとに、不断はおもてを背けたれど、こういわれしこの時のみ、われは恥しと思わざりき。見よ、見よ、一たび舞台に立たむか。小親がかろき身のはたらき、躍ればつちつまを着けず、舞の袖の飜るは、そらに羽衣かかると見ゆ。長刀なぎなたかつぎてゆらりと出づれば、手につ敵の有りとも見えず。足拍子踏んで大手を拡げ、さっ退いて、と進む、きこといなずまのごとき時あり、見物は喝采かっさいしき。かろきこと鵞毛がもうのごとき時あり、見物は喝采しき。重きこと山のごとき時あり、見物は襟を正しき。うつくしきこと神のごとき時あり、見物は恍惚こうこつたりき。かくても見てなお乞食と罵る、さは乞食の蒲団に坐して、何等やましきことあらむ。われは傲然ごうぜんとして答えたり。
「可いよ乞食、乞食だから乞食の蒲団に坐るんだ。」
「何でえ。」
 国麿は眼をつぶらにしつ。
「何でえ、乞食だな、きさま乞食だな、む、乞食がそんな、そんな縮緬ちりめんの蒲団に坐るもんか。」
「可いよ、可いよ、あたい、私はね、こんなうつくしい蒲団に坐る乞食なの。国ちゃん、おこも敷いてるんじゃないや。うつくしい蒲団に坐る乞食だからね。」
 国麿は赤くなりて、
「何よウ言ってんだい。おい貢、きさまそんなこと言って可いのかな、帰途かえりがあるぜ。」
 おどされてわれはその顔を見たり。舞台は暗くなりぬ。人大方は立出たちいでぬ。寒き風じょうに満ちて、釣洋燈つりランプ三ツ四ツ薄暗きあかりすに心細くこそなりけれ。
帰途かえりがあるって、帰途がどうしたの、国ちゃん。」
 国麿は嘲笑あざわらえり。
「知ってるだろう。鳥居前のおれが関を知ってるだろう。」
 手下四五人、稲葉太郎荒象園の鬼門おにかど彼処かしこに有りて威をほしいままにす。われは黙して俯向うつむきぬ。国麿はじりりと寄りて、
みんな知ってるぜ、おい、皆見ていたぜ。きさま婦人おんなとばかり仲好くして、先刻さっきもおれを見て知らない顔して談話はなししてたじゃあないか。そうするが可いや、うむ、たんとそうするさ。」
「国ちゃん、堪忍おし。」
「へ、あやまるかい。うむ、あやまるなら可いや。じゃあ可いから、な、その座蒲団にちょっとおれをのッけてくれないか、そこを退いて。さあ、」
 国麿はヌト立ちつつ、つま取りからげて、足を、小親がわれに座を設けし緋鹿子に乗せんとす。むなく、少しく身を退きしが、と見れば足袋を穿きもせで、そこら跣足はだしにてあるく男の、足の裏いたく汚れて見ゆ。ここに乗せなばあとつけなむ、土足にこの優しきもの踏ますべきや。
「いけないよ。」
「何だ……」
 覚悟したれば身をかわして、案のごとくかかとをあげたる、彼が足蹴あしげをばそらしてやりたり。蒲団持ちながら座を立ちたれば、こぶしたて差翳さしかざして。

「あら。」
 国麿の手はゆるみぬ。われは摺抜すりぬけてかたえに寄りぬ。
「いやです、いやです、あなたはいやです。」
 緋鹿子の片隅に手を添えて、小親われをかぼうて立ちぬ。国麿は目を怒らしたり。その帯は紫なり、その襯衣しゃつくれないなり。緋鹿子の座蒲団は、われと小親片手ずつ掛けて、右左に立護たちまもりぬ。小親この時は楽屋着のすそ長く緋縮緬ひぢりめんの下着踏みしだきて、胸高に水色の扱帯しごきまといたり。髪をばいま引束ねつ。優しき目のうちりんとして、
「もし、旦那様、あの、乞食の蒲団は、いやです、私が貴方あなたにゃ敷かせないの。私の蒲団です。渡すことはなりません。」
 と声いとすずしくいい放てり。
「よく敷かせないで下さいました。お前さん、どこも何ともないかい。ひどいよ、乱暴ッちゃあない。よくねえ、よくかばって下すッたのね。楽屋でみんながせりあって、ようよう私が、あの私のを上げたんですもの。他人ひとに敷かれてたまるものかね、お帰りよ、お帰り遊ばせよ。あなた!」
「何でえ、乞食の癖に、失敬な、失敬じゃあないか。お客にむかッて帰れたあ何だい。」
「おからだのけがれになります。ねえ。」
 とわが顔に頬をあてて、瞳は流れるる[#「流れるる」はママ]ごとく国麿を流眄しりめに掛く。国麿は眉を動かし、
「馬鹿、年増としまの癖に、ふむ、赤ン坊にれやがったい。」
「え、」
 と顔をあからめしが、
「何ですねえ、存じません。何の、贔屓ひいきになすって下さるお客様を大事にしたって、何が、何が、おかしゅうござんすえ。」
「おかしいや、そんなッぽけなお客様があるもんか。」
「あら、私ばッかりじゃありません。姉さんだッて、そういいました。そりゃ御贔屓になすッて下さるお客も多いけれど、何の気なしにただおもしろがって見て下さるのはこのおばかり。あなた御存じないんでしょう。当座こちらではじめてから毎晩、毎晩来て下すって、あの可愛らしい顔をして傍見わきみもしないで見ていて下さるじゃありませんか。このお年紀としで、お一人で、行儀よく終番しまいまで御覧なすって、欠伸あくび一ツ遊ばさない。
 手品じゃアありません、独楽こま廻しじゃ有りません。球乗たまのりでも、猿芝居でも、山雀やまがらの芸でもないの。狂言なの、お能なの、謡をうたうの、母様おっかさんに連れられて、お乳をあがっていらっしゃる方よりほか、こんな罪のない小児衆こどもしゅうのお客様がもウ一人ござんすか。
 目につきました、目立ちました。ほかのお客様にはどうであろうと、この坊ちゃんだけにゃ飽かしたくない。退屈をさしたくない、三十日なり、四十日なり、打ち通すあいだ来ていただきたい、おもしろう見せてあげたいと、そう思ったがどうしました。……
 ほんとうに芸人冥利みょうり、こういう御贔屓を大事にするは当前あたりまえでござんせんか。しのぶも、小稲も、小幾も、重子も、みんな弟子分だから控えさして、姉さんのをと思ったけれど、私の方がわかいからお対手あいてに似合うというので、私の座蒲団をあげたんですわ。何も年増だの、何のって、貴方に、そ、そんなことを言われる覚えはない!」
 といた気色けしきばみ言い開きし。声高なりしをあやしみけむ。小稲、小幾、重子など、狂言囃子ばやしの女ども、楽屋口より出できたりて、はらりと舞台に立ちならべる、大方あかり消したれば、手に手に白と赤との小提灯こぢょうちん、「て」「り」「は」と書けるをひっさげたり。

 舞台なりし装束を脱替えたるあり、まだなるあり、烏帽子えぼし直垂ひたたれ着けたるもの、太郎冠者たろうかじゃ[#ルビの「たろうかじゃ」は底本では、「たらうかじゃ」]あり、大名あり、長上下なががみしもを着たるもの、髪結いたるあり、垂れたるあり、十八九をかしらにて七歳ななつばかりのしのぶまで、七八人ぞたちならべる。
「どうしたの、どうしたの。」
 と赤き小提灯さしかざし、浮足うきあししてソト近寄りたる。国麿のわきに、しのぶの何心なく来かかりしが、
「あれ。」
 恐しき顔してめつけながら、鼻のさきにフフと笑いて、
「何か言ってらい、おたふくめ。」
 と言棄てに身を返すとて、国麿は太き声して、
「貢!」
「牛若だねえ。」
 とて小親、両袖をもてわがせなおおいぬ。
「覚えておれ、鳥居前は安宅あたかの関だ。」
 と肩をゆすりて嘲笑せせらわらえる、かれは少しく背かがみながら、くれない襯衣しゃつの袖二ツ、むらさきの帯に突挿しつつ、腰を振りてのさりと去りぬ。
「済まなかったね、みつぎさん、お前さん、貢さんて言うの?」
「ああ。」
「楽屋に少し取込みが有ったものだから、一人にしておいて飛んだめに逢わせたこと。気が着いて、悪いことをしたと思って、急いで来て見るとああだもの。よくねえ、そして、あの方はお友達?」
「友達になれッていうのよ。」
「おや、そう。しない方がいよ。可厭いやな人っちゃあない。それでもよく蒲団を敷かせないで下すッた。それは私ゃ嬉しいけれど、もしお前さんきずでも着けられちゃ大変だのに、どうして、なぜ敷かせてやらなかったの。」
「だッて、あんな汚い足をつけられると、この蒲団が可哀かわいそうだもの。きれいだね、きれいな座蒲団、可愛かわいんだねえ。」
 真中まんなかを絞りて、胸にいだき、ななめに頬を押当つるを、小親見て、あわただしく、
「あら、そんな事をなすッちゃ、お前さんの顔に。まあ、勿体ない。」
 とて白きたなそこもてぬぐ真似まねせり。
「あのほんとに、毎晩いらっしゃいよ。私もついあんな事を云ったんだから、あの人につけても、お前さんが毎晩来てくれなくッちゃきまりが悪いわ。後生ですよ。その代り、この蒲団は、誰の手も触らせないでこうやって、」
 二隅を折りて襟をばかいあけ、胸のあたりいと白きにそのくれない推入おしいれながら、
「こうやって、おまもりにしておくの。そうしちゃあっためておいて、いらっしゃる時敷かせますからね、きっとよ。」
「ああ。」
「ほんとうかい。」
「きっと!」
「嬉しいねえ。」と莞爾にこりとして、
「じゃあね、おそくなりましたから今夜はお帰んなさいな。母様おっかさんがお案じだろうから。」
 母はあらず。
「母様じゃあないの。伯母さんなの。」
「おや、母様ないの。」
「亡くなったの、またいらっしゃるんだッて、みんなそう云うけれど、嘘なの。もうお帰りじゃない、亡くなってしまったんだ。」
「まあ。」と言いかけてまたみまもりしが、うなずさまにて、
「じゃあその伯母さんがお案じだろうから、私が送って行ってあげましょう、ね。鳥居前ッて言うのはどこ? 待伏まちぶせをしてると不可いけないから。」
じき、そこだよ。」

「わけ無しだね。ちょいと衣物きものを着替えて来るから待っていらっしゃいよ。小稲さん、遊ばしてあげておくれ。」
「はい。」
 ばらばらと女ども五六人、二人を中に取巻きたり。小稲と云うがまず笑いて、
「若お師匠様、おめでとう存じます、おほほほほほ。」
 小親は素知らぬ顔したり。重子というが寄添いつつ、
「ちょいと、何がおめでたいのさ。」
「おや、迂濶うっかりだねえ。知らないのかい。」
「はあ、何ですか。」
「何ですか存じませんが、小稲さんのいいますとおり、若お師匠様、おめでとうございます。」
 かたわらより小幾がいう。小松がまた引取りて、
「私もお祝い申しますわ。」
「それでは私も。あの、若お師匠様おめでとう存じます。」
 小親は取巻とりまかれてうろうろしながら、
「お前達は何をいうのだ。」
「何でも、おめでたいに違いませんもの。」
「姉さん、何なの、どうしたの。」
 と差出でて、しのぶの問いければ、小稲はしずかうなずきて、
「お前は嬰児ねんねえだからわかるまいね、知らない道理わけだから言って聞かせよう、あのね、若お師匠様にね、御亭主だんなさまが出来たの。」
 大勢、
「おやおやおやおや。」
 小親は顔をあからめたり。
「知らないよ!」
 小稲また立懸たちかかり、
「おかくし遊ばしても不可いけません。そうして若お師匠様、あなたもうお児様こさまが出来ましたではございませんか。」
「へい。」
「何を言うのだね。」
「争われませんものね。もうおなかが大きくおなり遊ばしたよ。」
「む、これかえ。」と俯向うつむきて、胸を見て、小親は艶麗あでやか微笑えみを含みぬ。
 一同目を着け、
「ほんにね。おやおや!」
「だから、お芽出たかろうではないの。」
「そして旦那様はどなたでございます。」
「馬鹿だねえ、嘘だよ。」
「それでは何でございます、どうしてそんなにおなり遊ばしたの。」
「何でもないのさ、知らないッて言うのに。」
「いえ、御存じないでは済みません。あなた私たちにお隠し遊ばしては水臭いじゃアありませんか。是非どうぞ、どなたでございますか聞かして下さいましな。」
「若お師匠様、どうぞわたくしにも。」
わたくしにも。」
「うるさいね、いまちょいと出懸けるんだから。」
「いえ、お身持で夜あるきを遊ばすのはお毒でございます。それはお出し申されません。ねえ?」
「お身体からだに障りましては大変ですとも。どうして、どうして、お出し申すことではございませんよ。」
「うるさいよ。つまらない。」
「じゃあお見せ遊ばせ、ちょいとそのおなかとこを、お見せ遊ばせ。」
「そうはゆかない、ほほほほほ。」
くすぐりますよ!」
「そうはゆかない、あれ!」
 と言うより身震みぶるいせしが、俯伏うつむけにゆらめく挿頭かんざし、真白きうなじ、手と手の間を抜けつ、くぐりつ、前髪ばらりとこぼれたるがけざまに倒れかかれる、もすそ蹴返しかかとを空に、下着のくれない宙を飛びて、技利わざききのことなれば、二けんばかり隔りたる舞台にひらりと飛びあがりつ。すらりと立って向直り、胸少しかいあけて、緋鹿子の座蒲団の片端見せて指さしたり。
「稲ちゃん、このことかい。」
「は。」と小稲は前に出でて、
「もうお幾月ぐらい?」
「さようさ、九ツ十……」とばかり、小親われを見てまた微笑ほほえみぬ。

「さあ、こん度は坊ちゃんの番だよ。」
 とて、小稲つッと差寄りつつ、
「坊ちゃん、お相手をいたしましょうね。何をして遊びましょう。」
 われは黙して言わざりき。
「おや、私ではお気に入らないそうだよ。重子さん、ちょいとお前伺って御覧。」
「はい。」と進み、「さあお相手。」と言う。
「そんなやぶから棒な挨拶あいさつがありますか!」
「おや! おや!」と退いたるあと、小松なるべし立替れり。
「私では不可いけませんか。」
「遊ばなくッてもいい。」
「まあ、素気そっけなくッていらっしゃる。」
 小稲は笑いぬ。
「坊ちゃん、私にね、そっと内証でおっしゃいな、小親さんが、あの、坊ちゃんに何かいったでしょう。」
「言わない。」
「うまくおっしゃるのよ、可愛い坊ちゃんだッて、そういったでしょう。」
「ああ、言った。」
 皆どっと笑いたり。
「驚きましたね、そして何でしょう。あの、外の女と遊ぶ事はなりませんて、そう言やあしませんか。」
 さることは聞かざりき。
「そんなこと、言やあしないや。」
「あら、お隠し遊ばすとくすぐりますよ。」
「ほんとう、そんなこと聞きやしない。」
「それじゃ堪忍してあげますから、今度はかくさないで有仰おっしゃいよ。あのね、坊ちゃんは毎晩いらっしゃいますが、何が第一いっちお気に入ったの。」
「牛若がいんだ。そしてお獅子も可いんだ。」
「じゃあ小親さんが可いんですね。うつくしいからお気に入ったんでしょう。え、坊ちゃん。」
「立派で可いんだ。刀さげて、立派で可いんだ。」
「うそをおっしゃい。綺麗だから可いんですわ。」
「いいえ。」
「だって、それではお能の装束しないでいる時はお気にゃ入りませんか。今なんざ、あんな、しだらないなりをしていたじゃありませんか。」
 われは考えぬ。いかに答えてからむ。言い損わば笑わるべし。
「やっぱり可いんでしょう。ね、それ御覧なさい。美女きれいだからだよ。坊ちゃんは小親さんにれたのね。」
 皆どっと笑う。
「惚れやしない、惚れるもんか。」
「だってお気に入ったんでしょう。い人だと思うんでしょう。」
「ああ。」
 また声をあげて笑いしが、
「じゃあ惚れたもおんなじだわ。」
「あらあら、惚れたの、おかしいなあ。」
 しのぶ手をたたきてげながら言う。
 どっと笑いて、左右より立懸たちかかり、小稲と重子と手と手を組みつつ、下よりすくいて、足をからみて、われをば宙にいて乗せつ。手の空いたるが後前あとさきに、「て」「り」「は」の提灯ふりかざし、仮花道より練出ねりいだして、
(お手々の手車に誰様だれさん乗せた。)
(若いお師匠さん婿様むこさん乗せた。)
(二階桟敷さじきの坊ちゃん乗せた。)
 と口々に唄いつれて舞台を横ぎり、花道にさしかかる。ものうければおろせとて、上にてあせるを許さばこそ。小稲はわが顔を仰向き見て、
「坊ちゃんも何ぞお唄いなさい。そうすると下してあげます。」
 むなく声あげてうたいたり。
(一夜源の助がまけたに借りた、)
(負けたかりたはいくらほど借りた。)
金子かねが三両に小袖が七ツ、)
(七ツ七ツは十四じゃあないか。……)
 しのぶは声を合せてうたいぬ。
下谷したや一番伊達者だてしゃでござる。)
(五両で帯を買うて三両でけて、)
絎目くけめ々々に七房さげて。)
 木戸の外には小親ハヤわれを待ちて、月を仰ぎてたたずみたり。


 頭巾着て肩掛ショオル引絡ひきまとえる小親が立姿、月下にななめなり。横向きて目迎えたればと寄りぬ。立並べば手を取りて、
「寒いこと、ここへ。」
 とて、左の袖下掻開かいひらきて、右手めてを添えて引入れし、肩掛ショオルのひだしとしとと重たくわが肩にかかりたり。冷たき帯よ。その肩のあたりに熱したる頬をでて、時計の鎖輝きぬ。
「向うなの、貢さんのうちは。」
 きぬずれの音立てて、手をあげてぞ指さし問いたる。霞ヶ峰の半腹に薄き煙めぐりたり。頂の松一本ひともと、濃く黒き影あざやかに、左に傾きて枝垂しだれたり。頂のげたるあたり、土の色も白く見ゆ。雑木ある処だんだらにくまをなして、山の腰遠く瓦屋根かわらやねの上にて隠れ、二町ふたまち越えて、ながれの音もす。
 東より西の此方こなたに、二ならび両側の家軒暗く、小さき月に霜てて、冷たきしろがね敷き詰めたらむ、踏心地堅く、細く長きこの小路の中を横截よこぎりて、ひさしより軒にわたりたる、わが青楓あおかえで眼前めさきにあり。
「あそこ、あの樹のある内。」
「近いのね。」
 と歩を移す、駒下駄こまげたの音まず高く堅き音して、石に響きて辻に鳴りぬ。
「大分おそくなったね、伯母さんがさぞお案じだろうに、悪いことをしたよ。貢さん、じき送ってあげればかったのに、早いと人だかりがしてうるさいので、つい。」
「いいえ、案じてやしないよ。遊びに出ていると伯母さんは喜ぶよ。」
「どうして? まあ。」
 小親は身をかがめてわが耳をのぞいて聞く。
みんなで、余所よその叔父さんと、兄さんと、染ちゃんと、皆でね、お酒を飲んでそうして遊んでいるの、にぎやかだよ。あたいばかり寂しいの、一所に遊びたいんだけれど、お寝、お寝って言うもの。」
 小親はまた歩行あるきかけつつ、
「それはね、貢さんがねむがるせいでしょう。」
「そうじゃあなくッて、あたい床ン中に入ってからね、母様おっかさんが居なくッて寂しくッて寝られないんだ。伯母さんも、染ちゃんも、余所の人もみんなおもしろそうだよ。賑かなの。私一人寂しいんだ。」
「そうかい。」
「鼠が出て騒ぐよ。がたがたッて、……こわいよ。」
「まあ。」
「恐かったよ、それでね、あたい、貰っといたお菓子だの、お煎餅せんだの、ソッとたもとン中へしまッとくの、そしてね、紙の上へ乗せて枕頭まくらもとへ置いとくの。そして鼠にね、お前、私をいじめるんじゃアありません。お菓子をるからね、おとなしくして食べるんだッて、そう云ったよ。」
「利口だねえ。」
「そうするとね、床ン中で聞いて、ソッと考えているとね、コトコトッてっちゃ喰べるよ。そうしてちっとも恐くなくなったの。毎晩やるんだ。いつでも来ちゃあ食べてくよ。もう恐くはなくッて、可愛らしいよ。寝るとね、鼠が来ないか来ないかと思って目をふさいじゃあ待ってるの。そうすると寝てしまうの。目を覚すとね、みんな食べて行ってあったよ。」
 われは小親の名呼ばむとせしが猶予ためらいぬ。何とか言うべき。
「ねえ。」
「あいよ。」
「ねえ、鼠は可愛いんだねえ。」
「じゃあ貢さんとこに猫は居ないのかい。」
「居るよ、三毛猫なの。この間ね、四ツを産んだよ、伯母さんが可愛がるよ。」
「貢さんも可愛がっておくれかい。」
 われは肩掛ショオルの中に口籠くちごもりぬ。袖おもておおいたれば、掻分かきわけて顔をばいだしつ。冷たき夜なりき。

 小親の下駄の音ふとみて、取り合いたるに力こもりしが、うしろざまに退すさりたり。鳥居の影のよこたうあたり、人一人立ったるが、動き出づるを、それ、と胸とどろく。果せるかな。いなごの飛ぶよ、と光を放ちて、小路の月にひらめきたるやりの穂先霜を浴びて、柄長く一文字によこたえつつ、
「来い!」とばかりによばわりたる、国麿は、あやうきもの手にしたり。
「何だ、それは何だい。」
 われは此方こなたに居て声かけぬ。国麿は路の中央まんなか突立つったちながら、
「宝蔵院の管槍くだやりよ!」
 小親は前に出でむとせず、固く立ちてみまもりぬ。
「出て来い、出て来い! 出て来い!」
 といと誇顔ほこりがおにほざいたり。小親わが手を放たむとせず。
「出て来い。男なら出て来い。意気地いくじなし、女郎めろうの懐にはさまってら。」
 われは振放たんとす。小親は声低く力をめて、
「いけない、危いから。」
いんだ。」
「可いじゃアありません。おし、危ないわね。あんながむしゃらの向うさき見ずは、どんな事をしようも知れない。怪我けがをさしちゃあ、大変だから……あれさ!」
「構うもんか、いやだ! 厭だ。」
「厭だって、危いもの。返りましょう。あとへ返りましょう。大人でないから恐いよ。」
 国麿は快げに、
「ざまあ見ろ、女の懐を出られやしまい、牛若も何もあるもんか。」
「厭だ、厭だ、女と一所にゃ厭だ。放して、放してい。」
「堪忍おし、堪忍おし、堪忍して頂戴、私が悪いんだから堪忍おしよ。」
 ひしといだきて引留むる。国麿は背ゆるぎさして、
「勝ったぞ、ふむ、おれが勝った。貢、きさまが負けた。可いか、能のな、能の女は己がのだぜ。」
 言棄てて槍を繰り込み、流眄しりめに掛けながらかむとす。
「負けない、負けやしないや。」
 国麿は振返り、
「それじゃあ来るか。」
「恐かあないや。」
「む、来るなら来い! 女郎の懐から出て来て見ろ。」
 小親※(「口+阿」、第4水準2-4-5)あなやと叫びしを聞き棄てに、振放ちて、つかつかとぞ立出でたる。背後うしろひとはいかにすらむ、前には槍をしごいたり。
「さあ、来い。」
 と目のさき穂尖ほさき危なし。顔を背け、身をそらし、袖をかざして、
「牛若だ、牛若だ、牛若だ。」
「安宅の関だい。」
「何するもんか、突かれるもんか。」
「突くよ、突くよ。芸妓げいしゃ屋の乞食なんかつッついてね飛ばさあ。」
 し兼ねまじき気勢けはいなれば、気はあせれども逡巡ためらいぬ。小親背後うしろに見てあらむと、われは心に恥じたりき。
「ざまあ見ろ、きさま先刻さっきは威張ったけれど、ふ、大きな口よウたたくなあ、蒲団ふとんに坐ってる時ばかりだ。うつくしい蒲団に坐ってる乞食ゃそんなものか。つまらないもんだなあ。乞食、弱虫、背後うしろに立ってるなあどいつだ。やっぱり乞食か、ええ、意気地が無いな。」
 するりと槍を取直し、肩に立懸けつえつきつつ、前にかがみて、突出つきいだせる胸のくれない襯衣しゃつ花やかに、右手めてに押広げてたたいたり。
口惜くやしくばドンと来い!」

 驚破すわ、この時、われは目をねむりて、まっしぐらにその手元に衝入つきいりしが、膝を敷いて茫然たりき。
「あれ!」
「危い。」
 と国麿の叫びつつ、しばし呆れたるさましてたたずみしが、見上ぐるわれとおもてを合し、じっと互にうちまもりぬ。
「恐しいやつだなあ。」
 国麿は太い呼吸いきとつきて、
きさまの方が乱暴だい。よっぽど乱暴だ、無鉄砲極まらあ、ああ。」
 とまた息きつつ、落胆がっかりしたる顔色かおつきして、ゆるやかにつくばいたり。
「え、おい、胸でも突かれたら、おい貢、どうするつもりだ。気が短いや、うったぜ。乱暴な。どこだ、どこだ、むむ。」
「痛かあない、痛かあない。」
「む、泣くな、泣いちゃあ不可いかんぜ。ああ、何、たもとくさを着けときゃあわけなしだ。」
 と槍を落して、八口やつくちより袂の底を探らむとす。暖かき袖口もて頬の掠疵かすりきず押えたりし小親声を掛けて、
いやですよ、そんな袂ッ草なんて汚いもの、不可いけません。ひどいことね。もう、きゅうのあとさえないに、酷いっちゃあない。御覧なさい、こんなになったじゃありませんか。あら、あら、血が出て、どうしよう。」
 国麿は仰ぎ見て、
「疵は深いかな。酷いかな。」
 その太き眉をしかめたり。小親は月の影にすかしながら、
「そんなじゃあないんだけれど、かすったんでしょうけれど。」
「じゃあ、何、袂ッ草で治ッちまあ。」
 再びその袂の中探らむとす。
「厭、そんな、そんなものを、この顔に附着くッつけていもんですか。」
 国麿は苦笑して、
「それじゃあそちらで可いようにするさ。ああ、驚いた。」
 力なげに槍を拾うて立ちしが、
「貢、もうおらあ邪魔あしない。堪忍してやらあ、案じるな。」
 と、くるりと此方こなたせな向けつつ、行懸ゆきかけしが立ち返りて、つぶらなる目に懸念の色あり。またむこうむきに身を返して、
「袂ッ草が血留ちどめになるんだ。袂ッ草が血留にならあ。」
 聞かすともなくつぶやきつつ、鳥居のわきなる人の家の、雪垣に隠れしが、二の鳥居の有るあたり、広き境内の月の中に、その姿あらわれて、長く、長く影を引き、槍重たげににないたる、平たき肩をすぼめながら向うかがみに背を円くし、いと寒げなるさま見えつつ、黒き影法師小さくなりて、つきあたりはるかなる、門高きかまえの内に薄霧めて見えずなりぬ。われはうかうかと見送りしが、この時その人憎からざりき。
「ちょいと、痛むかい。痛むだろうね、可哀相かわいそうに。」
「何ともない。痛かあない。」
「大した事もないけれど、私ゃもうハッと思った。あの児をつかまえて喧嘩けんかもならず、お前さんがまたかないんだもの、はらはらと思ってる内、もう、どうしたら可いだろう。折角送って来ながら申訳がないね。」
「可いよ、痛かあないもの。」
「だってきずがつきました。かすり疵でも、あら、こんなに血が出るもの。」
 と押拭おしぬぐい、またおしぬぐう。
「もう可い。」
かアありませんよ、このまんまにして、帰しちゃあ、私が貢さんのお内へ済まないもの。」
 伯母上何をかのたまわむ。

「じゃあこうしようね、一所に私のうちへ来て今夜お泊りでないか。そうして、翌日あすになったら一所に行って言訳をしましょうよ。私でも、それでなきゃ誰か若いしゅでも着けてあげてね、そして伯母さんにおわびをしたらいでしょう。」
「可いよ、そんなにしなくッても、一人で帰るよ。」
「だって……困ること。」
「何ともないじゃあないか。」
 さきになりて駈出かけいだせば、後よりせわしく追縋おいすがりて、
「そんなら、まあ可いとしてかどまで送りましょう。だがねえ、かったらそうおしな。お嫌!」
「嫌じゃあないけれど、だって、あの、待ってるから。」
「そう、伯母さんがさぞ、どんなにかね。」
「いいえ、伯母さんじゃあない、姉さんなの。」
「おや、貢さん、姉さんがいらっしゃるのかい。」
うちにじゃあないの。むかいのね、広岡の姉さんなの。」
「広岡ッて?」
「継母の内なの。継母が居てね、姉さんが可哀相だよ、」
 こう言いたる時、われは思わず小親の顔見られにき。
「あのウ、」
「何。」
「何てそういおうなあ、何て言うの。あの、お能の姉さん?」
「嫌ですね、お能の姉さんッて、おかしいね、嫌だよ。」
「じゃあ何ていうの。え、どういうの。」
 頭巾のうちえみを籠めて、
「私はね、……ちか。」
「親ちゃん!」
「あい。おほほ。」
「親ちゃん、継母じゃあないの。え、継母は居ないのかい。」
 憂慮きづかわしければぞ問いたる。小親は事も無げに、
「私には何にもないよ。ただね、親方が有るの。」
「そう、じゃあ可いや、継母だと不可いけないよ。ひどいよ。広岡の姉さんは泣いている……」
 先よりさまで心にも止めざるようなりし小親は、この時身にみて聞きたるさまなり。
「それは気の毒だね。みんなそうだよ、継母はなさけないもんだとね。貢さんなんざ、まだまあ、伯母さんだから結構だよ。何でも言うことをいて可愛がられるようになさいよ。おお、そういやあほんとうにおそくなって叱られやしないかね。」
「もう来たんだ。ちょいと。」
 手を放すより、二三間駈出かけだして、われはまず青楓の扇の地紙開きたるよう、月をおおいて広がりたる枝の下にたたずみつ。仰げば白きものほの見ゆる、さきの日雨ふりし前なりけむ、姉上の結びたまいし折鶴のなごりなり。
 打見るさえいと懐しく、退すさりて二階なる窓の戸に向いて、
「姉さん、唯今ただいま帰りました。」
 と高く呼びぬ。毎夜狂言見にきたるかえりには、ここに来てかくは云うなりけり。案じてそれまではねたまわず。
 しばし音なければ、彼方かなたに立てる小親のかた視返みかえりたり。
 頭巾深々とかぶれるが、駒下駄のさきもて、つちの上叩いて、せわしく低き音刻みながら、手をあげて打ち招く。来よ、もの言わむとするさまなり。心にかかりてかむとする時、しずかに雨戸の戸一枚ソトその半ばを引きたまいつ。
 楓の上にあかりさして、小灯こともしの影ここまでは届かず月の光に消えたり。と見る時、立姿あらわしたまいしが、寝みだれていたまいき。
 横顔のいと白きに、髪のかかりたるが、冷き風にゆらぐ、欄干に胸少しのりかけたまいぬ。
「おかえりですか。」
「唯今。」
「遅かったから姉さんは先へ寝ていたがね。」
 言いかけて四辺あたりを見まわしたまいし。小親の姿ちらりと動きて、ものの蔭にぞなりたる。ふッとあかりを吹消したまい、
「お待ちなさいよ。」

 小親わがかたに歩み寄りしが、また戻りぬ。内よりくるる外す音して、かどの戸のいたるは、跫音あしおともせざりしが、姉上の早や二階を下りて来たまいたるなり。
「……寒いこと。」
 羽織の両袖打合せて、しずかに敷居を越えたまいぬ。
おそかったのね。」
「あのね、面白かったんだよ。」と言いたるが、小さき胸のうち安からず。目には小親の姿見ゆ。
「それは、うございましたけれど、風邪をひくと不可いけません。あんまり晩くならないうちに、今度からお帰りなさいよ。」
「はい。」
 姉上はなお気遣わしげに、
「そして、まだ内へはお入りでないのでしょうね。」
「まだ。」
 しばらく考えたまいしが、
「それではね、私がここに見ていますからね、貢さん、そっと行って、あの、格子まで行って、見て来て御覧。」
 深き思いに沈みつつのたまうよう見えたれば、いぶかしさに堪えざりし。
「どうしたの、あたいの内はどうしたの。」
「いえどうもしませんけれど、少し何んですから、まあ、そっと行って見ていらっしゃい。」
 はて怖気こわげちて、
「嫌だ、こわいもの。」
「ちっとも恐いことはない。私がここに見ていますよ。」
 われは立放れて抜足しつつ、小路の中を横ぎりたり。見返れば姉上の立ちたまう。また見れば、小親居処いどころを替えしがなお立てり。
 ひそかにわが家のかどの戸に立寄りぬ。何事もあらず、内はいとしずかなり。かかる時ぞ。いつもわが独寝ひとりね臥床ふしど寂しく、愛らしき、小さき獣にうまきもの与えて、寝ながらそのくらうを待つに、一室ひとまの内より、「あおよ、」「すがわらよ。」など伯母上、余所よその客など声々に云うがふすま漏れて聞ゆる時なり。今宵こよいもまたしかならむ、と戸に耳を附けて聞くに、ただ寂然ひっそとしたれば、し、また抜足して二足三足ぞ退きたる。
 ど、ど、どッというひびき、奥のかた騒がしく、あれと言う声、叫ぶ声、魂消たまぎる声のたちまち起りて、にわかにフッとみたるが、一文字に門口かどぐちよりまりのごとく躍り出で、白きものくうけて、むかいなる屋根に上るとて、すさまじき音させしは、家に飼いたる猫なりき。
 とばかりありて、身を横さまに、格子戸にハタとあたりて、うめきつつ、片足踏出でて※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)あせれる染をば、追い来し者ありて引捉ひっとらえ、恐しき声にて叱りたるが、引摺ひきずりて内にりぬ。咄嗟とっさかんに、われ警官の姿を見たり。慌てて引返ひっかえす、小路のなかばに、小親走り来て手を取りつ。手を取られしままに、姉上の立ちたまえる広岡の戸口にきぬ。
 三人かくはたちならびしが、いまだものいわむとする心も出でず。呆れて茫然と其方そなたを見たる、楓の枝ゆらゆらと動きて、大男の姿あり。やがてはたと地に落ちて、土蜘蛛つちぐもすくむごとく、円くなりてうずくまりしが、またたくひまに立つよとせし、矢のごとく駈けいだして、曲り角にて見えずなりぬ。
 頭巾をば掻取かいとりたる、小親の目のふちあかかりき。
貴女あなた。」
 声かくるに、心着きたまいけむ。はじめて顔を見合せたまいしが、姉上は、いとものしずかに、
「はい。」
 とばかり答えたまう、この時格子の戸きぬ。すかし見るかまちの上に、片肌脱ぎて立ちたるは、よりより今はわが伯母上とも行交ゆきかいたる、金魚養う女房なり。かれは片肌脱ぎたるまま、縄もて後手うしろでいましめられつ。かどに出でし時、いま一にんの警官うしろより出でて、毛布けっともてその肌おおいたり。続きて染の顔見ゆ。あとなるは伯母上なりき。


 楽屋なる居室いまの小窓と、垣一重ひとえ隔てたる、広岡の庭の隅、塵塚ちりづかかたわらよこたわりて、たけ三尺余、周囲まわりおよそ二尺は有らむ、朽目くちめ赤く欠け欠けて、黒ずめる材木の、その本末もとすえには、小さき白きこけ、幾百ともなくむらがいたり。
 ゆびさして、それを、もとのわが家なる木戸の際に、みちおおいて繁りたりしかの青楓のはてなりと、継母の語りし時、われは思わず涙ぐみぬ。
「この変りました事と云ったら、まるで夢のようで、わしでさえかどへ出ては、時々ぼんやりして見る事がございますよ。ほんに貢さんなんぞ、久しぶりでお帰んなすったが、ちっとも故郷らしい処はありますまい。」と継母は庭に立ちてぞ語れる。
 しかり、町の中にても、隣より高かりし、わが二階家の、今は平家に建直りて、煙草たばこ屋の店開かれたり。扇折おうぎおりの住みし家は空しくなり、角より押廻せる富家の持地もちじとなりて、黒き板塀建て廻されぬ。
 そのあたりの家はみな新木造あらきづくりとなりたり。小路は家を切開きて、山の手の通りに通ずるようなしたれば、人通ひとどおりいと繁く、車馬の往来しきりなり。
 ここに居て遊ぶ小児等こどもら、わが知りたるは絶えてあらず。風俗もまたかわりて見ゆ。わが遊びし頃は、うつくしく天窓あたまそりたるか、さらぬは切禿きりかむろにして皆いたるに、今はことごとく皆毬栗いがぐりに短くはさみたり。しらくも頭の一人目に着きぬ。
 すべてうつくしき女あらずなりて、むくつけなる男ぞ多き。三尺帯前にめて、印半纏しるしばんてん着たるものなんど、おさなき時には見もせざりし。
 町もこうは狭からざりしが、今はただ一跨ひとまたぎ二足三足ばかりにて、むかい雨落あまおちより、此方こなたの溝までわたるを得るなり。
 筋向いなりとわれは覚ゆ。かの石の鳥居まで、わが家より赴くには、路のほどいとはるかなりと思いしに、何事ぞ、ただ鼻の先なる。宮の境内もまことに広からず、引抱ひっかかえて押動かせし百日紅ひゃくじつこうも、肩より少し上ぞこずえなる。仰いで高しいかめしと見し国麿がかど冠木門かぶきもんも、足爪立つまだつれば脊届くなり。
 さてその国麿はと想う、かれはいま東京に軍人にならむとて学問するとか。烏帽子えぼしかぶりて、はたきりしかの愛らしき児は、煎餅せんべいをば焼きつつありとぞ。物干棹ものほしざお持てりしは、県庁に給仕勤むるよし。いま一にん、また一人、他の一人にはわれとおりにて出合いたり。その時渠は道具屋の店に立ちて、皿茶碗など買うたりき。
 皆さいわいなるべし。
 伯母上はいかにしたまいけむ、ものけて花がるたしたまいたりとて、警察に捕えられたまいし後、一年ひととせわが県に洪水ありて、この町流れ、家のせし時にも何の音信おとずれも無かりしとか。おもうに、身を恥じていずくにか立去りたまいしならむ。かの時の、そのより、ただちに小親に養われて、かくすこやかに丈のびたる、われは、狂言、舞、謡など教えられつ。さればこの一座のためにはやくなきにもあらぬ身なり。ここに洪水のありし事は、一昨年おととしなりけむ、はたそのさきのなお前の年なりけむ、われ小親とともに、伊予の国なる松山にて興行せし時聞及びつ。かかるべしとは思わでありし、今年またこの地にて興行せむとて、一座とともにきたりたる八年ぜんのふるさとの目に見ゆるもの皆かわりぬ。

 たそがれに戸に出ずる二代目のおさなき児等こら、もはや野衾のぶすまおそれなかるべし。もとのかの酒屋の土蔵くらの隣なりし観世物みせもの小屋は、あともとどめずなりて、東警察とか云うもの出来たり。
 一座がかかりたる仮小屋は、さきに金魚養いし女房の住みたる家のあとを、その隣、西のかた、二軒ばかり空地となりしに建てられつ。小さき池は、舞台の真下になりたれば、あたかもしとて、興行はじむる時、大瓶おおがめ一個ひとつ俯向うつむけてうずめたり。こは鼓の冴えさせむとてしたるなりき。
 揚幕より推出おしいだされて、多勢の見物の見る目恥かしく、しのぶ、小稲とともに狂言のなかに立交たちまじりて、舞台に鞠唄まりうたうたいし声の、あやしく震いたるも多日しばしがほどぞ。
 ふりのむずかしき、舞の難き、祭礼まつりに異様なる扮装いでたちして大路を練りありくそれとは同じからず。芸に忠にして、技に実なる、小親が世におけるまことの品位は神ありて知りたまわむ、うつくしき蒲団ふとんに坐る乞食よと、人の口さがなくわば言え。
 何か苦しかるべき。この姿して、この舞台に立ちて、われは故郷ふるさとの知人に対していささかも恥ずる心なかりしなり。
 されども知りたるは多からず。小路を行交ゆきか市人いちびともすべてわが知れりしよりは著しく足早になりぬ。活計たつきにせわしきにや、夜ごとに集う客の数も思いくらぶればいと少し。
 物語の銀六は、大和めぐりする頃病みてまかりぬ。小六はおいたり。しのぶも髪結いたり。小稲はよきほどの女房とはなりぬ。
 その間、としに風雨あり。あしたに霜あり。ゆうべに雪あり。世の中とかく騒がしかりければ、興行の収入みいり思うままならで、今年この地にきたりしにも、小親は大方ならず人に金借りたるなり。
 楽しき境遇にはあらざれど、小親はいつも楽しげなりき。こなたも姉と思うひとなり、姉とも思う人なり。
 さりながら、ここにまた姉上と思いまいらせしひとこそあれ。
 ふる里の空のなつかしきは、峰の松の左に傾きて枝を垂れたる姿なり。石の鳥居なり。百日紅なり。いさごのなかなる金色こんじき※(「羸」の「羊」の代えて「虫」、第4水準2-87-91)きしゃごなり。軒に見馴みなれしと思う蜘蛛の巣のおかしかりしさまさえ懐しけれど、最も慕わしく、懐しき心に堪えざりしは、雪とて継母のむすめなる、かの広岡の姉上なりき。
 伯母上にそのあしきことありし時、姉上は広岡の家に来よとのたまいぬ。小親は狂言の楽屋にきたれと言いぬ。二人の顔を見かわして、わが心動きしはいずれなりけむ。継母の声したれば、ふと小親のあたたかき肩掛ショオルの下に、小さきわが身体からだひそみにき。
 寂しかりしよ、わかれの時、てたる月に横顔白く、もの憂きことにやつれたまいし、日頃さえ、弱々しく、風にも堪えじと見えたまうが、寝着ねまき姿の肌薄きに、折から身を刺すこがらしなりし。悵然ちょうぜんとして戸にりてはるか此方こなたを見送りたまいし。あわれのおもかげ眼前めさきを去らず、八年やとせ永き月日の間、がこのおもいはさせたるぞ。
 広岡の継母に、かくて垣越に出会いしは、ふるさとに帰りし日の、二十日過ぎたる夕暮なりけむ。

 舞台には隣間近なり。ここに居ても、この声の聞えやせむかと、夜ごとに枕をそばだてなどしつ。おもて立ちて訪ずれむは、さすがにはばかりありたれば、強いて控えたり。余所よそながら姉上の姿見ばやと思いて、木槿垣むくげがきの有りしあとと思うあたりを、そぞろ歩行あるきして、立ちて、伺いしその暮方なりき。
 ふとこの継母とわれは出逢いであいつ。
 幼顔おさながおは覚えみて忘れざりけむ、一目見るよりわれをば認めつ。呼懸けられたれば隠れもせで、進寄りて、二ツ三ツものいううち、青楓の枯れたるをはじめとして、継母はいたずらに数々のその昔をぞ数えたる。
「あんたに面と向うては言悪いいにくい事じゃがの。この楓の樹な、はや見るたびに腹が立つ。憎いやつで、水の出た時にの、聞いてくんなされ。
 あんたのうちも、私家わしとこも、同一ひとつに水びたり。根太ねだゆるんだはお互様じゃが、わしとこなど、随分と基礎どだいも固し、屋根もどっしりなり、ちょいとや、そっとじゃ、流れるのじゃなかったに、その時さの、もう洪水みずが引き際というに、どっとそれ一瀬ひとせになって打着ぶッつかると、あんたの内のこの楓の樹が根こぎになって、どんぶりこと浮き出いてからに、うちの、大黒柱に突き当ったので、それがために動き出いて、とうとう流れたというもんじゃ。ハヤ実に……誠に、何も何も、それをうらむのじゃありやせぬけれど、いつまでってもこいつの憎いは忘れられませぬ。因って、お宮様の段にしがらんで、流れずに残っていたのを、細い処は焼いてしもうたが、これだけは残しておいて、腹の立つ時は見ています。」
 それを楓の知ることか。われは聞くに堪えざれば、ひややかに去らむとせしが、この継母に、そのひとのこと、なつかしきわが姉上のこと問わむと思いたればこらえてたたずむ。
「そして何か、今あんたは隣に勤めていなさるのかな。」
 軽んじいやしむる色はそのおもてに出でたれど、われは逆らわでうなずきぬ。かの人の継母なれば、心からわれもかれに対しては威なきものとなれるなるべし。
「うう、何、それでも結構じゃ。口すぎさえ出来れば、なあ、あんた。」
 ただ微笑ほほえみて見せぬ。姉上のことく語らずや、と思うのみ。
「ええ、ところで、おおそれさ、あんたの一座の中じゃそうなの。ええ、何とかいう、別嬪べっぴんが一人居なさるそうじゃな。何とか言うたよ。あんた、知ってじゃろう。」
 と言いかけて少し歩み寄りたり。その不快なる顔、垣の上にヌト出でて、あたかも梟首きょうしゅせられたるもののごとくに見ゆ。
「小稲ですか。」
「小……稲、いや、違うた。稲じゃない、稲じゃない、はて、何とか言う。」
 眉をしかめながら顔をななめにす。いたく考うるさまなれば、あえてその意を迎えむとにはあらねど、かりにもかのひとの母なれば、われはついにわが惜しき小親の名語りたり。
「違いますか、小親。」
「うむ、それそれ、それそれその小親と言うのじゃ。小親じゃ。ははははは。」
 蓮葉はすはなる笑声、小親にゃ聞えむかと、思わず楽屋なる居室いまかた見られたり。
 継母は憚るさまなく、
「その小親、と言うのは、あんた、中がいのかな。」
「何ですね、小母さん。」

「はッはッはッ、可愛がられておいでじゃろ。わしは早あんたがてのひらへ乗っかるような時の事から知っとるで、そこはえらいもの。顔を見るとちゃんと分ります。可愛がられると書いてある。」
 快よからずニタニタ笑いて、
「そしてその小親と云うのは幾歳いくつにおなりだ。はははは、別嬪盛べっぴんざかりじゃと言えば、十七かな、八ぐらい?」
「いいえ、二十二。」
「む、二十二はちょうどいい。二十二はい年じゃ。ちょうどその位な時が好いものじゃ。何でもその時分がさかりじゃ。あんたもい別嬪に可愛がられてうらやましいの。いんえ、隠しなさるな、書いてある、書いてある。」
「小母さん、何ですね。」
「何でもないが少しその談話はなしがあるで、何じゃよ。お前さんはほんとに小児こどもの時から可愛らしかった。色が白くての、ぼちゃぼちゃとふとって、ほおッぺたへかじりつきたいような、抱いてみたいような、いやもうちょっと見ると目がなくなるくらいじゃった。それもそうかい、あんたの母様おっかさんはな、何でもこのあたりに評判のい女で、それで優しくって、穏当で、人柄で、まことに愛くるしい、人好ひとずきのする、わしなんか女じゃが、とろとろとするほどれていました。そのおなかの貢さんじゃ。これがまた女の中で育ったというもので申分の無いお稚児様に出来ているもの。誰でも可愛がるよ、可愛がりますともさ。はははは、内のお雪なんかの、あんな内気な、引込思案な女じゃったけれど、もう、それは、あんたの事と言うたら、まるで狂気きちがい。起きると貢さん、寝ると貢さん、御飯を頂く時も貢さん、何でも貢さんで持切ってな、あんたがこっちに居なくなっても、今頃はどうしておいでなさるじゃろ。船のはなしが出りゃ、お危い。雨が降りゃ、寂しかろ。人なつッこいおじゃったから、どんなに故郷へ帰りたかろ。風が吹けば、風が吹く、お風邪でも召すまいかと、それはそれは言続け。嘘ではない、神信心もしていたようじゃが、しかし大きくおなりで、お達者なように見える。まあ、何より結構。
 今では能役者と言うものじゃな。はははは、役者々々。はて、うつくしい、能役者はまた上品で、古風でいもんじゃよ。わしも昔馴染なじみじゃから、これ深切で言いますが、気を着けなされ。む、気を着けなさい、女では失策しくじるよ。若い時の大毒は、女と酒じゃ。お酒はあがりそうにも見えぬけれど、女には、それ、可愛がられそうな顔色かおつきじゃ。
 いんえ、串戯じょうだんではない、嘘ではない。余所よそに面白いことが十分あると見えて、それ、たまたまで、顔を見せても、雪のの字も言いなさらぬ。な、あの児も、あんたには大きに苦労をしたもんじゃが。
 早や懺悔ざんげだと思いなさい。わしもあの時分は、意地が張って、根性が悪うて、小児こどもが、その嫌いじゃったでの、憎むまいものを憎みました。が、もう年紀としも取る。ふッつりと心を入れかえました。優しいでの、今もそれ言う通り、あんまりあんたを可愛がるもんじゃから、わしうらやましいので、つい、それ嫉妬やきもちを焼いて、ほんに、貢さんの半分だけなと、わしを可愛がッてくれたらなと、の、嫉妬の故に、はははは、あんたにも可い顔見せず、あのにも辛かったが、みんな貢さん、あんたのせいじゃ。
 ほんに、そのくらいまでに、あんたを思うているものを、何と、貢さん、わしの顔を見ながら、お雪はどうした、姉さんは達者かと、一言ぐらいは、何より先に云ってくんなされてもさそうなものを、小親に可愛がられるので、まるで忘れるとは、あんまりな、薄情だ。芸人になればそんなものか、うらみじゃよ。」
 にわかしめやかなる言語ものいいぶりなり。

 その時の我顔を、継母はじっと見しが、にわかに笑い出しぬ。
「あの真面目まじめな顔が、ははは、串戯じょうだんじゃ、串戯じゃ。
 何の、そんな水臭い人でない事は、わしがちゃんと知っている。むむ、知っとるとも。
 あんずや、桃を欲しがった時分とは違うて、あんた色気が着いた。それでな、もとのように、小母さん、姉さんは、と言悪いいにくい。ところで、つい、言いそそくれておしまいのであろ。何、むかし馴染なじみじゃあるけれど、今では女というものが分ったで、女と男、男と女、女と男ということが胸にあるに因って、私に遠慮をして、雪のことをちょっと口へ出しにくい、とまあいうたわけじゃの、違うまい。むむ。」
 おもてを背けてわれは笑いぬ。継母は打頷うちうなずき、
「それ見なされ。そこは何と言うても小母さんじゃ。胸の中は、ちゃんと見通みとおしの法印様。
 それでわしも落着いた。いや、そういう心なら、モちっとも怨みには思いませぬ。どうして、あんたのような優しいが、いかに余所よそいことが出来たとて、さっぱりふいと、こっちを忘れなさるとは思やせなんだが、そこは人情。またどうであろと思うたで、ちょいと気を引いてみたばかり。
 悪く取られては困ります。こんな婆々ばばあが、こんな顔で、こんな怨みっぽい事を言うたとて、何んとも思いはしなさるまいが、何じゃよ、雪が逢うてもこう言います。いまわしの言うたような事を言いますわいの。それはの、言うわけがあるからで。
 けれども、あのは、じたい、無口で、しんみりで、控目で、内気で、どうして思う事を、さらけ出いて口で云えるようなたちではない。因って、それ、わしがの、その心を察して、あのの代りに言いました。
 雪じゃと思うて聞きなさい。そこは、わしがちゃんとあんたの胸のうちを見すかしたように、あののおなかんなかもったように知っとるで、つい、嫌味なことを言うたもの。
 あんたがそうした心なら、あのが何、どうしていようと、風が吹くとも思やせぬ。……泣いていようと、煩っていようと、物も食べられないで、骨と皮ばかりになっていようと、髪の毛を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしられていようが、生爪なまづめをはがれて焼火箸やけひばしで突かれていようが、乳の下を蹴つけられて、呼吸いきの絶えるような事が一日に二度ぐらいずつはきっと有ろうと、暗い処に日の目も見ないで、色が真蒼まっさおになっていようと、ふみにじられてひいひいうめいていようと……そっちの事じゃ、わしは構わぬ。ふむ、世の中にはそんな事もあるものですか、妙だね、ふふふで聞き流いて、お能の姉さんと面白そうに、お取膳とりぜんで何か召あがっておいで遊ばすような事もあるまいと思われる。な、あんた。」
 顔の色も変りたるべし。冷たき汗にわが背のうるおいしぞ。黙して聞かるることかは。堪えかねたれば遮りたり。
「姉さんは御機嫌ですか。」
 継母は太き声にて、
「はい、生きてはいます。死にはせいで、ああ、息のある内に、も一度貢さんの顔が見たいと云うての。」
「え!」
「それが、そういう事口へ出してはわれぬじゃで、言いはせぬ。けれど、そこは小母さんちゃんと見通し。ま、この大きくおなりの処を見たら、どんなにか喜ぶであろ。それこそ死なずにいたかいがあると、喜びますじゃろ。ああ、ほんとうに。」
「小母さん、逢いたい。」
「む、逢いたい、いや、それは小母さんちゃんと見通し。」
「お目にかかりたい、小母さん。」
道理もっともじゃ。」
「逢わして下さいな。」
 と垣に伸上りぬ。継母は少し退すさりて、四辺あたりを見まわし、声を潜め、
「養子がの、婿がの、その大変な男で、あんたを逢わしたりなんかしようもんなら……それこそ。」


「貢さん、何をそんなにおふさぎだ。この間から始終くよくよしておいでじゃないか。言ってお聞かせ、どうしたの。何も私にかくす事は無いわ。」
 二三日来、小親われを見ては憂慮きづかいて、かくは問うたりき。心なく言うべきことにあらねば語らでありしが、このかれとわれとのみ、かたわらに人なきおりなり。
「私の事じゃないよ。」
「おや他人ひとのことで苦労してるの、お前さんは生意気だね。」
 と打微笑うちほほえむ。浮きたる事にはあらじ、われは真顔になりぬ。
「だって何も心配をするのは、我身の事ばかりなものではない。他人ひとのだッて、しなきゃならない心配ならしようじゃないか。お前さんだって、私のことを心配おしだから、それで聞くんじゃないか、どうしたッて?」
「はい、はい。沢山たんと心配をしておあげなさいまし。御道理ごもっともなことだねえ、ほほほ。」
「また、そんな、もう言うまいよ、つまらない。」
「ま、承りましょう。いからお話しなさい。大方、また広岡のお雪さんのこッたろう。」
「え、知ってるの。」
紅花染べにはなぞめだね。お前さんの心配はというと、いつでもおきまりだよ。またどうかしたのかい。」
「ああ、養子が大変だと、ひどいんだとさ。あの、恐しい継母が、姉さん、涙を流して、そっと話した位だもの。大抵ではないと、そうお思い。お雪さんが可哀相っちゃない。ようよう命が有るばかりだと言うんだもの。姉さん、真面目になって聞いておくれ。いやに笑うねえ。」
「ちっとけますもの。」
「詰らない、じゃあ言うまい。」
「いいえ承りましょう。酷いかね、養子にゃ可いのはないものだと云うけれど、そっちが酷くッて、こっちがいじめられるのは珍しいね。そして、あの継母が着いてるじゃあないか。貢さんに聞いたようでは。養子に我儘わがままなんかさせそうにも思われないがね。」
 われも初めは現在いま小親の疑うごとく疑いたるなり。
「それがね、姉さん、みんな金子かねのせいですとさ。洪水みずが出て、うちが流れた時、もとあった財産も家もみんななくなってしまってね、仕方が無い時にその養子を貰ったんだッて。」
持参金もちこみかね。」
「ええ、大分だいぶんの高だというよ。はじめッからお雪さんは嫌っていた男だってね。私も知ってるやつだよ。万吉てッて、とおりの金持の息子なの。ねえ、姉さん、どういうものか万の字の着いたのに利口なものは居ないよ。馬鹿万と云うのがあるしね、刎万はねまんだの、それから鼻万だのッて、みんな嫌な奴さ。ありゃ名でもっておんなじような申分のあるのが出来るのは、土地に因るんだとね。かえって利口なのも有るんだって。」
「また、詰らないことを言出したよ。幾歳いくつだねえ、お前さんは。そんなこと云っていて、人の心配も何も出来るものじゃない。」
「だって、それに違いないのだ。あのお雪さんの養子になってるのは、やっぱり万という名だからさ。私がね、小さい時、万はもう大きなからだをして、良い処の息子の癖に、万金丹売のね、能書のうがきを絵びらに刷ったのが貰いたいって、革鞄かばんを持って、お供をして、嬉しがって、威張って歩行あるいただものを。誰が、そんな。
 だからお雪さんも嫌っていたんだそうだけれど、どっさりお金子かねを持って来ると言うので、あの継母がね、是非婿にしよう、しなけりゃあなりませんと、そう云ったんだ、と。お雪さんが嫌だと云ったけれど……あの、姉さんも知ってるはずだよ。……私の内に楓の樹があって、往来へ枝がさして茂ってたのが、あすこの窓へ届いたので、内が暗くって、仕様がない。貢の内へ掛合って、らしてしまうと言った時分に、私は何も知らないけれど、お雪さんが、あれだけは、そんなかわいそうな事をしないで下さい。後生ですって、止めたんだ。……それがあの洪水みずの時に流れ出して、大丈夫だった広岡のうち衝突ぶつかったので流れただろう、誰のおかげだ……」

「……みんなお前のせいじゃないか。あの時らしてさえおけば、こんなに路頭に立つようになるまで、うちを流されるんじゃなかったッて、難題を言って、それで、お雪さんも仕方なしに、その養子をしたんだって。……それがひどいんだ。
 小児こどもの内は間抜けのようだったけれど、すっかり人がかわって、癇癪持かんしゃくもちの乱暴な奴になったと見えるんだよ。……姉さん、年紀としがゆくと変るものかしら。」
 小親は火箸もて炭を挟みたる手を留めて、
「そりゃ、変るね。貢さんだって考えて御覧なさい、大そうかわったじゃあないか。」
「私は何、大きくなったばかりだね。」
「いいえ、ちっと憎らしくもおなりだよ。」
「そうかね。」
「その口だよ、憎らしい。」
「じゃ沢山憎んでおくれ。いよ、どうせ憎まれッだ、構やあしない。」
 小親はすずしき目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりぬ。
「いいえ、可愛がるよ。」
「そんな事いうからだ。今でもみんなでなぶって不可いけない。いろんな事をいうもんだから、人の前でうっかりした口も利けまいじゃないか。一所に居て、そうして、何も私は姉さんにものを云うのに、遠慮をすることは要らないわけだと思うけれど、皆がなぶるから、つい、何でも考えてしたり、考えてものを云ったりしなけりゃならないよ。窮屈で弱ってしまう。皆がどうしてああだろう。」
 莞爾にっこりして、
「さようでございますね。」
「ほんとうにお聞き、真面目でさ。」
かしこまりました。」
「そら、そうだから不可いけないよ。姉さん、姉さんというものはね、年のいかない弟に、そんなことをするもんじゃあないよ。ちゃんと姉顔をしてすましていなくっちゃあ。妙にお客あしらいで、私をばお大事のもののようにして、その癖ふざけるから、みんな種々いろんなこと云うんじゃアあるまいかね。立派に姉さんの顔をして、貢、はい、というようにして御覧。おかしなことは無くなるに違いないから。そうしてなかよくして、ね、可愛がっておくれ。私も心細いんだもの。」
 いいかけて顔を見合せぬ。小親は炭を継ぎて火箸もて、火をならしながら、ややありてのちしめやかにうなずきたり。秋の末なれば月の影ひややかなりし。小親はうしろむきて其方そなたを見たる、窓少しきたりしが、見たるまま閉めむともせで、また此方こなたに向きぬ。
「そして、お雪さんはどうしたの。」
「それがね、酷いんだ。他人ひとの口から言ったのなら何だけれど、あの、継母が我身で我身の邪慳じゃけんだったことを私に話したんだよ。
 そんな風にして、無理に推着おッつけて婿を取らしたが、実は何、路頭に立つなんて、それほどこまりもしなんだのを、慾張よくばりで、お金子かねが欲しさに無理に貰ったが悪いことをしたッて、言うんだ。
 それがというと、養子の奴が、飛んだ癇癪持で、別に、ほかに浮気なんぞするでもなしに、朝から晩まで、お雪さんをいじめるんだってね。今まで苛めていた継母さえ見るに見兼ねると云うんだから酷いではないか。ねえ、姉さん。
 それに、はじめお雪さんを無理強いにした言草いいぐさが、私の内の楓の樹で、それをお雪さんがひどかばってらさなかったからこんなことが起ったんだってね、……そしてなぜ楓の樹を伐らさなかったろう。それは一ツ貢さん、あなたが考えて見ておくれッて継母が言いましたさ。」
 煙管きせるをば取りあげつ。小親は煙草たばこの箱はじきながら、
「そして。」
「私、考えた。」

「何だか分りませんッて、継母には言ったけれど、考えて見ると、何だかねえ、遠い処に、かすかに小さい、楓の樹のこんもり葉の繁ったのが見えて、その緑色が濡れているのに、太陽がさして、空があおく晴れた処に、キラキラとうつくしいものが振下ぶらさがって……それにね、白い手で、高い処の枝にゆわいつけておいでのお雪さんが、夢のように思い出されるんだよ。だもんだから、何だか私のために、お雪さんが、そんな養子を推着おッつけられて、ひどいめにあわされているようにね、何ということなしに、我身でめてしまったんだもの。可哀相でたまらないんでね、つい、ふさぐの。」
 言うほどにまた幻見ゆ。空蒼く日の影花やかに、緑の色濃き楓の葉に、金紙、銀紙の蝶の形ひらひらと風にゆれて、さしのばしたまう白く細き手の、その姉上の姿ながら、へやの片隅の暗きあたり鮮麗あざやかにフト在るを、見返せば、月の影窓より漏れて、青き一条の光、畳の上にしたるなり。うっとりせしが心着きぬ。此方こなたには灯影ほかげあかく、うつくしき小親の顔むかいあいて、額近きわが目のさきに、いたく物おもう色なりき。
 われはこらえず俯向うつむきぬ。
「そしてまあ、その継母はまた何だって遠まわしに、貢さんのせいのようにおしつけて聞かしたんだろうね。お前さんにどうかしてくれろというのかね。貢さん、お前さんが心配をすればどうにかなるとでもいうような事を、継母が知ってて言うようにもれるがねえ。一体どうしたというんだろうね。」
 小親は身にみて聞きたりけむ、言う声も落着きたり。
「でね、継母がそういったよ。貢さん、あんたは小親という人に可愛がられているんだろうッて。」
「お前さんは、何と言ったの。」
「黙っていました。」
「そうかい。」
 とばかり寂しく笑いぬ。煙管きせるは火鉢によことうたり。
「どうしたの、姉さん。」
「何、いよ。」
「だっておかしいもの、ね、そりゃ私を可愛がっておくれだけれど……何だか、おかしいなあ。」
「何が、え? 何がおかしいの。」と口早にいう、血の色薄くまぶたを染めぬ。
「何も気をまわすことはないよ、真面目じゃあ困るわね。私あ何とも思やしない、串戯じょうだんさ。なぜね、そういうことを聞いたら、そりゃ可愛がってくれますとも、とこうお言いじゃないッて云うのさ。串戯だよ、串戯だけれどもねえ、その位にさばけておくれだと、それこそお前さんの言草いいぐさじゃあないが、誰も冷かしたり、なぶったりなんぞしないようになっちまうわね。え、貢さん、そうじゃないか。しかし不可いけないかい。」
「だってきまりが悪いもの。」
「なぜさ。」
「なぜッて、そう云うとね、他人は何だもの、姉弟きょうだいだと思わないで、おかしく聞くんだからね。」
「何と聞えるんだね。」
「何だか、おかしい。」
「まあさ、何と聞えるんだねえ、貢さん。」
「それはね、あの……」
「何だね。」
「お能の姉さん。」
いやだよ!」

「しかし御察しのいことね、継母もどうして洒落しゃれてるよ。そう云ってくれたのなら、私ゃその人に礼を言おうや。貢さん、逢ったらよろしくと申しておくれ。」
「むこうでもそう云ったよ。小親によろしくッて。」
「何のこッたね。」
「それが、何だって、その養子がね、大層姉さんのことを、い女だってね、云ってるそうだ。」
 煙管きせるを落して、火鉢の縁をおさえつつ、小親は新しくわが顔をみまもりぬ。
「いつか見物をしたんだろうね。」
 小親はこれを聞きてえみを含み、
「貢さん、もう大抵分ったよ。道理でお前さんは妙な顔をしちゃあ、こないだッから私を見ていたんだわ。ああ、そしてお前さんはどう思います。」
「何をさ。」
「何をって、継母はお前さんに私となかいかッて聞いたろう。」
「そりゃ聞いたよ。今も話したように。」
「道理で。」
 とまた独りうなずきつつ、
「貢さん、そして何だろう、お前さんの口から、ものを私に頼んでくれと言やあしないかい。」
「ええ。」
「云ったろうね、ほほほ、わかってるよ、解ってるよ。」
 とまた笑えり。
ひとりで承知をしてるのね、姉さん。」
「うっかりじゃあないわね、いよ、まんざら知らない方じゃあなし、私も一度お目にかかって、優しそうな可い方だと思ってるもの。お雪さんがそんなひどいめに逢っていなさるんなら、可いよ、貢さん、お前さんにつけて、その位なことならばしてあげようや。」
 としずかにいう、思いの外なればいぶかりもし、はたあやぶみもしつ。
「解ってるの。姉さんがどうにかしておくれなら、それを言ぐさにして、不品行ふみもちだからって、その養子を出してやろう。そんな奴だけれど、ただ、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そそうがあるの、不遇ぶあしらいをするのッて、お雪さんをいじめるばかり。何も良人おっとの権だから、それをとやこう言うわけのものではない。ほかに落度は無いものを、立派な親類が沢山控えているにつけて、こっちから手の出しようがない。そんならって、浮気などするんじゃなし、生真面目きまじめだから手も着けられないでいたのに、ついぞ無い、姉さんを見て、まるで夢中だから、きっとその何なんだって。そして、どうかしておくれなら、もう一廉ひとかどのものいいがつく。きっと叩き出してお雪さんを助けると継母が云うんだがね。――承知だ、宜しいッて、姉さん、どうして分ったんだね。どうして知っておいでなんだい。」
 小親は俯向うつむきたる顔をあげて、
「貢さん、お前さんは何とも思っちゃあいまいけれど、私は何だよ、お前さんの事はというと、みんな夢に見て知ッてるよ。この間だっけ、今だから云うんだがね、真闇まっくらな処でね、あッと云う声が聞えるから、吃驚びっくりして見ると、何だったの。けだもののね、恐ろしいものに追懸おっかけられて、お前さんと、お雪さんと抱き合って、お隣の井戸の中へおっこちたのを見て、はッと思って目が覚めたもんだから。……」
 われは悚然りつぜんとして四辺あたりを見たり。小親は急に座をちしが、きぬすそかかとにからみたるに、よろめきてハタと膝折りたる、そのまま手を伸べて小窓の戸とざしたり。月の明り畳にせて、透間すきまりしの葉の影、浮いてあがるようにフト消えて見えずなりぬ。一室ひとまの内ともしびくまなくはなりたれど、夜の色こもりたれば暗かりき。さやさやと音さして、小親は半纏はんてんの襟引合せ、胸少し火鉢の上におおうよう、両手をば上げて炭火にかざしつ。
「もっとお寄りではないか。貢さん、夜が更けたよ。」

 あわせの上より、ソトわが胸をでて見つ。
「薄着のせいかね、動悸どうきがしてるよ。お前さん、そんなに思い詰めるものではないわ。そりゃお雪さんのことを忘れないで、心配をしておあげなのは、お前さんが薄情でないからで、私だって嬉しいよ。ねえ、貢さん、実のある弟を持ったと思って、人のことに心配をおしのでも、私は悪い気はしませんよ。けれども、そんなに思い詰めちゃあ、ほんとうに大事な身体からだをどうおしだえ。気味の悪い夢だったから、心配でならないので、稲ちゃんにもそういって、しょっちゅう気を着けていたんだもの。人にかくれちゃ、継母とちょいちょいおはなしのことも知ってるんだよ。こっちから言い出す分ではなかったから、知らない顔で見ていたけれど[#「けれど」は底本では「けれで」]たまらないほどおふさぎだもの。いよ、もうどうにかしてあげようや、貢さん。」
 吐息もつかれ、
「じゃあ、姉さん、あの養子を、だましてくれるの。」
「ま、しようがないわね。」
「だって、ひどい奴だというよ。」
「たかが田舎者さ。」
「そして、どうして? 姉さん。」
「狸を御覧よ、ほほ、ほほほ。」
「ああ、一人助かった。」
 小親が顔の色沈みたり。
「しかし、貢さんいことだとは思うまいね。」
 胸痛かりし。われは答にためらいたり。
「善いことだとは思うまいね、貢さん。」
 その心にわかにはかりかねたる、胸はまたとどろきぬ。
「私ゃ、芸人でありながら、お前さんに逢ってから、随分大事に身を持ったよ。よ、貢さん、人に後指うしろゆびさされちゃあ、お前さんの肩身が狭いだろうと思ったし、その上また点を打たれる身になるとね。」
 小親引寄せて、わが手を取りたり。
「お前さんは何にも知るまいけれど、どうせ、どうせ、姉の役ッきゃあ勤まらない私だけれど、姉だッて、よ、姉だッて、人に後指さされたり、ちっとでも、お前さんとこうやっていることの、邪魔になるような人が私に有ってはいやだから、そりゃ随分出来にくい苦労もしたもの。何にも恩にせるんじゃあない。うらみをいうんじゃあない。不足を云うんじゃないけれど……貢さん、広岡のお嬢さんの顔が見られるようになりさえすりゃ、私ゃ、私ゃ、どうなってもいのかい。よ、よ、私ゃどうなっても、可いのかよう。」
 はげしく手の震いたればか、何のはずみなりけむ、火箸横に寝て、その半ばうずもれしが、見る間に音もなく、ものの動くともなく、灰の中にとぼとぼと深く沈みたり。
「あら、起しますよ。」
「可いよ。」
 わが指のさき少しく灰にまみれたれば、小親手首を持添えて、たなそこをかえしてじっと見つ。下着の袖口引出ひきいだして払い去るとて、はらはらと涙をぞ落したる。
 わが身体からだの筋皆動きぬ。
「御免なさい。」
 小親は涙ぐみたるまま目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりぬ。
「御免なさい。私が悪かった。」
 さしうつむきて声を呑みたり。
「悪かった、姉さん、さげすんでおくれでない。広岡の姉さんも私にゃあどんなにか優しかったろう。おっかさんのなくなった時から、すきな琴弾かなくなっておしまいだもの。このくらいなおもいを私がするのは、一度は当前あたりまえだったと思って、堪忍しておくれ。悪かった、ほんとうにさもしいことだった、姉さん、姉さん。」
 こたえなければ繰返しぬ。
「姉さん!」
 ひたと寄り添い、肩をいだきて、きっと顔を見合せぬ。
「あれ!」
 とう声、広岡の家より聞えつ。


 井戸一ツ地境じざかいに挟まりて、わが仮小屋にてそのなかばを、広岡にてその半ばを使いたりし、ふたは二ツに折るるよう、蝶番ちょうつがいもてこしらえたり。井戸の蓋と隔ての戸とをこれにて兼ね、一方を当てて夜ごとには彼方かなた此方こなたを垣したる、透間すきま少し有りたる中より、奮発はずみたるまりのごとく、くぐり出でて、戸障子に打衝うちあたる音すさまじく、の内に躍り込むよと見えし、くるくると舞いて四隅の壁に突当る、出処なければ引返ひっかえさむとする時、あわただしく立ちたるわれに、また道を妨げられて、座中ざなかうずくまりたるは汚き猫なりき。
 背をすくめて四足を立て、眼をいからしてうなりたる、口には哀れなる鳩一羽くわえたり。にとて盗みしな。鳩はなかばほふられて、羽の色の純白なるがまだらに血のあとをぞ印したる。二ツ三ツ片羽かたはね羽たたきたれど、早や弱り果てたるさまなり。
「畜生!」
 と鋭く叫び、小親片膝立てて身構えながら、落ちたる煙管きせる羅宇らお長きを、力めてふりかざせし、吸残りけむ煙草たばこの煙、小さく渦巻きて消えせたり。
「あいつ、あ、あ、いつ。」
 うつくしき眉をひそめつつ、はたと得物を取落しぬ。
 驚きてわが走り寄る時、遁路にげみちあきたれば潜り抜けて、猫は飛び出で、遠く走る音して寂然ひっそとなりたり。
「どうしたんだね、姉さん、どうしたんだね。」
 小親は玉のかいな投げいだして、右手めてもてさすりながらひじを曲げ、手の甲を頬にあてて、口もてその脈の処を強く吸いぬ。
僂麻質りゅうまちかい、姉さん。」
 と危ぶみ問いたる、わが声は思わず震いぬ。
「あら、顔の色を変えて、真蒼まっさおだね。そんなに吃驚びっくりしたのかね、気の弱い。」
 かえってわれを激ましぬ。
「いいえ、猫にも驚いたけれど、りゅうまちじゃあないかい、え、僂麻質じゃあないかい。」
「ちょいとだよ。何でもないんだよ、何をそんなに。たかがりゅうまちだもの、生命いのちを取られるほどのことは無いから。」
「でも、私はもう、僂麻質と聞いても悚然ぞっとするよ。何よりこわいんだ。なぜッてまた小六さんのように。」
はりつけ!」
 言いたる小親も色をかえぬ。太き溜息ためいきとつきて、
「鶴亀、々々。ああ、そういったばかりでも、私ゃ胸が痛いよ、貢さん、ほんとに小六さんもどうおしだろうね。」
 物語の銀六は、蛇責へびぜめかまりたる身の経験おぼえありたれば、一たびその事を耳にするより、蒼くなりて、何とて生命いのちの続くべきと、おいの目に涙うかべしなり。されど気丈なるひとなれば、今なおつつがなかるべし。
 小親いまだその頃は、牛若の役勤めていつ。銀六も健かに演劇しばい真似まねして、われはあわれなる鞠唄うたいつつ、しのぶとおどりなどしたりし折なり。
 あたかもいま小親が猫を追わむとて、煙管かざしたるそのさまなりしよ。越前府中の舞台にて、道成寺の舞の半ばに、小六その撞木しゅもくを振上げたるトタンに左手ゆんで動かずなり、右手めても筋つるとて、たちすくみになりて、楽屋にかれてぬ。
 しからざりし以前より、かれはこの僂麻質の持病に悩みて、仮初かりそめなるくるまの上下にも、小幾、重子など、肩貸し、腰を抱きなどせしなり。
 月日に痛みおもるを、苦忍して、強いて装束着けたりしが、その時よりまたたずなりき。
 楽屋にては小親の緋鹿子ひがのこのそれとは違い、黒き天鵞絨びろうど座蒲団ざぶとんに、蓮葉はすはに片膝立てながら、繻子しゅすの襟着いたるあら竪縞たてじま布子ぬのこ羽織りてつ。帯もめで、懐中ふところより片手出して火鉢に翳し、烈々たる炭火うずたかきに酒のかんして、片手に鼓の皮乾かしなどしたる、今も目に見ゆる。
 手の利かねば、割膝にわが小さき体引挟ひっぱさみて、渋面つくるが可笑おかしとて、しばしば血を吸いて、小親来て、わびて、引放つまでは執念しゅうねく放たざりし寛闊かんかつなる笑声の、はじめは恐しかりしが、はては懐しくなりて、そとうしろより小さき手に目隠めかくしして戯れたりし、日数ひかずもなく、小六は重き枕に就きつ。
 湯を呑むにさえ、人の手かりたりしを、なさけなき一座の親方の、身のしろ取りて、そのなかば不随の身を売りぬ。
 買いたるは手品師にて、観世物みせものはりつけにするなりき。身体からだは利かでもし、やりにて突く時、手と足※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)もがきて、と苦痛の声絞らするまでなれば。これにぞ銀六の泣きしなる。
「ほんとにねえ、貢さん。」

 小親きて、泣く泣く小六の枕頭まくらもとにその恐しきこと語りし時、かれ剛愎ごうふくなる、ただひややかに笑いしが、われわれはいかに悲しかりしぞ。
 その時の小親、今の年紀としならましかば、断ちても何とか計らいたらむ。あどけなき人のただ優しくて、親方にすがりたれど、内に居ては水一つまぬ者なり。手足の動かぬを何にかせむ、歌妓うたひめにも売れざるを、塵塚ちりづかに棄つべきが、目ざましき大金おおがねになるぞとて、北叟笑ほくそえみしたりしのみ。
 そもそも何の見処ありて、小六にさるあたいなげうちけむ、世にはいやしきわざも多けれど、誰か十字架はりつけかからむとする。
 向うづけに屋根裏高き磔柱はりつけばしらいましめられて、の下ひらきてひとの前に、槍をもて貫かるるを。これに甘んずる者ありとせむか、その婦人おんないかなるべき。
 小六のはだは白かりき。色の黒き婦人ものにては、木戸にるが稀なりとて、さる価をぞ払いしなる。手品師はせんずるに半ば死したる小六の身のそのうつくしくつややかなりし鳩尾きゅうび一斤の肉を買いしなり。諸人もろびとの、諸人の眼の犠牲いけにえに供えむとて。
 売られし小六はおさなきより、刻苦して舞を修めしひとぞ。かくて十年二十年、一座の座頭ざがしらとなりて後も、舞台にはげしきはたらきしては、楽屋に倒れて、その弟子と、その妹と、その養うと、取縋り立蔽たちおおいて回生剤きつけを呑ませ呼びけたる、技芸の鍛錬積りたれば、これをかの江戸なる家元の達人とくらべて何か劣るべき。
 あわれ手品師と約成りて、一座と別れんとしたりし時、扇子もて来よ、小親。一さし舞うて見せむとて、とどむるを強いて、立たぬ足膝行いざり出でつ。小稲が肩貸して立たせたれば、手酌して酒飲むとは人かわりて、おとなしく身繕いして、粛然と向直る。
 小親は膝に手を置きぬ。
 揚幕には、しのぶと重子、涙ながら、踞居ついいて待ちたり。
 一息つき、きっと見て、りんとして、
(幕を!)
 と高く声かけぬ。開けと云うなり。この声かかる時は、弟子達みな思わずひれ伏す。威なるべし。
 さて声に応じて、「あ」と答え、棒をもて緞子どんすの揚幕キリリといて揚げたれば、舞台見ゆ。広き土間桟敷さじきびて人の気勢けはいもなく、橋がかりつややかに、板敷白き光を帯びて、天井の煤影すすかげ黒く映りたるを、小六はじッと見て立ったりしが、はじめてうるめる声して、
(親ちゃん、)
 とばかりはたと扇子落して見返りし、凄艶せいえんなる目のうちに、一滴の涙宿したり。皆泣伏しぬ。むかいくるま来たれば乗りて出でき。
 可愛かわゆき児の、何とて小親にのみはなつき寄る、はじめてが頬に口つけしはわれなるを、かいなくかれらるるものかは。小親の牛若さこそとならば、いまに見よ、われえなば、牡丹ぼたん作物つくりもの蔽い囲む石橋しゃっきょうの上に立ちて、たけ六尺なるぞ、得意の赤頭あかがしらふって見せむ。さらば牛若を思いすてて、わが良き児とやならむずらむ。
 とやまいの床に小親とわれと引きつけては、二人の手を取り戯れて、小親に顔赤うさせし愉快のひとは、かくて手品師が人の眼を眩惑げんわくせしむる、一種の魔薬となり果てたり。
 過去りしことありのままに繰返せば、いままのあたり見るに似たり。
 小親と顔を見合せぬ。
「よく覚えておいでだね。」
 いかでわれ忘るべき。

 いかで忘らるべき。時々起る小親が同一おなじやまいの都度、大方ならずわれは胸いためぬ。
 殊に今は隣家となりにて、※(「口+阿」、第4水準2-4-5)あなやと一声叫びたまいし姉上の声の、覚えあるのみならず、猫の不意にも驚かされし、血の動きのなおまぬに、小親またかいなを痛めたれば、さこそわが顔の色も変りつらむ。
「姉さん、ほんとうに気を付けておくれ、またこの上お前が病気にでもなったらどうしよう。」
「案じずともいよ、ちょいとだわ。しかし小六ねえさんもどうしているんだろう。始終気に懸けちゃあいるけれど、まだどうにもしようがないが、もうこの節じゃあ、どこに居なさるんだかそれさえ知れない位だもの、ねえ、貢さん。」
 いい掛けつつ打湿うちしめりて、
「ああなぜまあ私達はこうだろう。かわいそうに、いろんなことに苦労をおしだねえ。」
「仕方がないんだ。」とわれは俯向うつむきぬ。
「どうしてまた、お前さんを可愛がってあげたいものは、こんなにふしあわせなんだろうね。小六ねえさんだって、あんな気の強い人だったけれど、どんなにかお前さんを可愛い、可愛いッて、いつも言ったろう。それがああだし。
 いままたお雪さんだって、そうじゃあないか。お前さんも恋しがってるし、むこうでもそんなに思っているものが、飛んだ、お婿さんをってまたそうだし……」
 小親が口籠くちごもりてくいきに、引入れらるるよう心細く、
「姉さんは何ともありゃあしないだろうね。」
「え。」
「姉さんは何ともなかろうね。」
「誰? え、お雪さんかえ。」
「いいえ。」
「私?」
 われうなずきぬ。小親は襟に首垂うなだれつつ、
「私、私なんざあ、どうせやっぱりはりつけにでもなるんだろうさ。親方持ちだもの、そりゃこうして動いてる内ゃ可いけれど、病気にでもなった上、永く煩いでもしようもんなら、大概さきが分ってるわね。」
つまらない、そんなことが。」
 といきおいよく言いたれど、力なき声なりしよ。
「いいえ、つもっても御覧、小六ねえさんなんざ、いままでのお礼心で、据えておいたって可いんじゃあないか。私も世話になってるし、内のは大抵みんな小六ねえさんに仕込まれたひとだもの、座をこれまでにしたのはみんなあのひとの丹精じゃあないか。寝さしておいて、謡を教えさしたッて一廉ひとかどの役には立つのに、お金子かねだといや直ぐあれなんだもの。考えてみりゃ心細いよ。」
 思わず涙さしぐみぬ。十年ととせの末はよも待たじ、いま早やかれやまいあり。肩寒げにしおれたる、そのさまみまもらるる。
「姉さん、私は、私はどうなるんだろうね。」
 小親はハッとせし風情にて、顔をあげしがまたうつむきぬ。
「堪忍しておくれ、もう私ゃそういわれると、申訳のしようがないよ。つい、手前勝手で、お前さんを私が処へ引張っておいて、こんなに甲斐性かいしょうがないんだものね。あの時お雪さんの方へ行っておいでなら、またこんなことにならなかったかも知れないものを。つい何だか、お前さんをば人ン処へやりたくなかったので、……それも分別がある人なら、そりゃ、私とお前さんと両方で半分ずつ悪いんだからいけれど、東西もお分りでなかったものを、こんなにしてしまってさ。そして心配をさせるんだから、みんな私が悪いんだね、本当に、もうどうしたらかろうね。」
 いたく激したるようなりき。さりとは思い懸けざりし。心もきて、
「何だね、何も、そんな気で言ったんじゃあないんだのに。」

「いいえ、お前さんはきっと腹を立っておいでだよ。堪忍して下さい、よう後生だから。毎日々々果敢はかないことが有るけれど、お前さんの顔を見たり、ものをいうのさえ聞いてれば、何にも思わないで、私ゃ気がはずむんでね、ちっとも苦労はしないけれど、そりゃ私の、身勝手だった。御免なさいな。」
 と身をふるわして涙を呑む。われはその膝おさえたり。
「姉さん、何が気に障りました。何だって、私がそんなこと思います。宿なしの、わがままものを、暑さ、寒さの思いもさせないで、風邪ひとつおひかせでない。おっかさんに別れてから、内に居ちゃあ知らなんだ楽しいことも覚えさして下すった。伯母さんと居た時は、外へばかり出たかったに、姉さんとこう一所になってから、ちっとも楽屋の外のことは知らなくって済むようにして、こんなに育てておくれだもの、何が私に不足があるえ。そりゃお雪さんのことは……何だったから、だから、謝罪あやまったじゃあないか。先刻さっき云ったのはちっともそんな気じゃアありません。何だか心細い事おいいだから、嘘にもそんなこと云って私を弱らして下さるなって、そういうつもりだったのに、悪く取ったのかね、まだ胸にゃあ済まないかい。」
 すがりつきて、
「ひがむんだね、ああ、つい、ああもしてあげよう、こうもしてあげて、お前さんの喜ぶ顔が見たいと思うことが山ほどにあるけれど、一ツも思うようにならないので、それでついひがむのだよ。分りました。さ、分ったら、ね、貢さん、いかい、可いかい。」
「だってあんまりだから。」
「ほんとはお前さんが何てったって、朝夕顔が見ていたいの。そうすりゃもう私ゃ死んだってうらみはないよ。」
「まあ!」
「いいえ、何の、死んだって、売られたって、観世物みせものになったって、どうしたって構うものかね。私ゃ、一晩でもお前さんとこうしていられさえすりゃ。」
「そんなこと云っちゃあいやだ。」
 分れて坐したり。
「じゃあ、もうつまらない事はいいッこなし、気をしっかりして、私がきっとお前さんに心配はさせないよ。そのかわり私が煩って、悲しいめにあうことが――あったらばね。」
 またその声を曇らせしが、
「甘えさしておくれ。いかい。ちょいとでもお前さんに甘えさしてもらいさえすりゃ、あとはどうなったって、構うものか。したいようにするが可いや。もうもう、取越苦労なんざしないでおこうね。」
「ああ。」
めた!」
 急に坐り直して、
「あら、もう火が消えたよ。」
 小親はいそいそ灰のなか掻探かいさがして、煙管きせる取って上げたるが、ふと瞳を定めて、の隅、二ところ見廻したり。
「おや! 鳩はどうしたろう。」
 われもまた心着きぬ。さきに一たび姉上のことを思い断たむとしたりし折、広岡の家に悲しき叫び聞えしは、たしかに忘れず、その人なりし。われわれとおなじにかの猫の鳩くわえしを見たまいしならむとのみ、仮りに思い棄てたれど、あるいはさもなくて、何等かの憂目うきめに合わせたまうならずや。むごき養子のありといえば。また更に胸の安からず。

 小親はなおしきりにあたりを見廻して、
「変だよ、ちょいとお前さんも見たろうね、何だか私ゃ茫然ぼんやりしてたが、たしかあの猫が鳩をくわえて飛込んだっけね。変な気がするよ、つい今しがたの事だった。」
「ああ、私はまた、またいうと何だろうけれど、お雪さんの(あれッ)てった声が聞えたようでね。」
「気のせいだよ、そりゃ気のせいだろうけれど、はてな、一体どこから飛込んだろうね。」
「井戸の処さ。」
「井戸だえ……」
 わが顔の色見て取りたり。小親は寂しきえみを含みて、
いよ、どうせ心配をさせないと言ったこッた。貢さん、ついでにその心配もさせないから、もう案じないが可いよ。」
「何の心配さ。」
「お雪さんのことさ。」
「その事なら、もう。」
「いいえ、そうじゃあないよ、一旦いったんは何、私だって、先刻さっきのように云ったけれど、お前さんの心配をすることだもの、それに、どうせ、こんなからだだから、お前さんさえ愛想をおつかしでないことなら、もうどんなにでも私ゃなろうわね。構うものかね、なに構やあしない。」
 かかるひとに何とてさることをさせらるべき。わが心はほぼ定まりたり。
「そんなに云っておくれだと、なお私は立つ瀬がない。お雪さんも何だけれど、※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、128-17]さんが何だもの。」
「何だえ、貢さん。」
「何でもいいよ。」
かアありません。」
「可かアありませんたって、何もわるいこっちゃあない。」
「じゃあまあそうさ。しかしどうにかするよ、私ゃ、そのまんまにしちゃあおかないから。」
「あすのこと……そして姉さん冷えちゃあまた悪いだろう。」
 われは独り自由にものおもわむと欲せしなり。
 小親は軽くうなずきつつ、
「また心配をさしちゃあ悪いね。」
「だからさ。」
「あい、じゃあ、お前さんもおやすみだと可い。」
 つま引合せて立上れり。
「しのぶや、……む、もう寝たそうな。」
 戸口にて見返りながら、
「貢さん、床は私が取ってあげよう。」
「なに、構わないよ。あとで敷かせるから。」
 うちうなずきさま微笑ほほえみたり。
「邪魔だったら、あっちへおいで、稲ちゃんと一所に寝ましょう。」
「のちほど。」
「それじゃあ……」
 とて立出でたる、後姿隣のの暗きなかに隠れしが、すそ花やかに足白く、するすると取って返して、
「貢さん!」
 顔をあげてぞ見たる、何をか思える、小親の、憂慮きづかわしげなる面色おももちなりしよ。
「また、鼠とでも話すのかね。」
「考えてるの。」
「そんなこと云わないで、鼠とたんとお楽しみ。ほほほ、私は夢でも見ましょうや。」
 と横顔見せて身をななめに、此方こなたを見てなお立ちたりしが、ふと心着き耳傾け、
「あら! 狐が鳴いてるよ。」
 と、あだなる声にていいすてつつ、すらすらと歩み去りぬ。


 あれという声、※(「口+阿」、第4水準2-4-5)あなやと姉上の叫びたまいしと、わが覚ゆる声の、猫をば見たまいて驚きたまいしならばし。さなくて残忍なる養子のために憂目うきめ見たまいしならばいかにせむ。それか、あらぬかとのみ思い悩みつつ、われは夜半よわの道をくなりき。
 小親と同一おなじ楽屋に居て、その顔見つつありては、われ余りに偏して、ただものに驚かせたまいしよと思い棄つるようになりがちなればぞ。
 窓をすかして、独居ひとりの時、かの可哀あわれこけいたる青楓の材を見れば、また姉上の憂目を訴えたまいしがごとく思われつつ、心いたく惑いてつむりの苦しきが、いずれか是なる、いずれか非なる。わが小親を売りて養子の手より姉上を救い参らせむか、はた姉上をさし置きて、小親とともに世を楽しく送らむか、いずれか是なる、いずれか非なる。あわれわれこのかんに処していかにせむと、手をこまぬきて歩行ありくなりき。
 しずかに考えさだむとて、ふらふらと仮小屋を。小親が知らぬ間に出でて、ここまで来つ。山の手の大通りはせきとして露ひややかなり。
 路すがらいかなるものにか逢いけむ、われは心着かざりし。四辺あたりには人の往来ゆきき絶えて、大路の片隅に果物売のおうな一人露店出して残りたり。三角なり行燈あんどんかんてら煤煙ばいえん黒く、水菓子と朱の筆もて書いたる下に、栗をうずたかく、蜜柑みかん、柿の実など三ツ五ツずつ並べたり。空には月の影いとあかるきに、行燈のともしかすかなれば、その果物はみな此方こなたよりちいさく丸く黒きものに見ゆ。電信の柱長く、ななめに太き影のよことうたるに、ふと立停たちどまりて、やがてまたぎ越えたれば、鳥の羽音して、高く舞い上れり。星は降るごとし。あなやと見れば、対岸なる山の腰に一ツ消えて、峰の松の姿見えつ。われはながれに沿うたりき。
 岸にはおしならべて柳の樹植えられたり。若樹のこずえより、老樹おいきに、居所いどころかわるがわる、月の形かからむとして、動くにや、風のぎたる柳の枝、下垂れて流れの上にゆらめきぬ。
 来かかる人あり、すれ違いて振向きたれば、立停りて見送るに、われ足疾あしばやに通り過ぎつ。
 柳は早うしろのかたはるかになりて、うすき霧のなかに灰色になりたる、ほのかに見ゆ。松の姿の丈高きが、一抱ひとかかえの幹に月を隠して、途上六尺、くま暗く、枝しげき間より、長き橋の欄干低く眺めらる。板の色白く、てらてらとむかいなる岸にかかりたり。
 その橋の上に乗りたるよう、上流の流れ白銀しろがねの光を浴び、うねりにあおみを帯びて、両側より枝おおえるの葉の中より走り出でて、橋杭はしぐいくぐり抜け、かたまちのあたり、ごうごうと深き瀬の音ぞ聞えたる。
 わが心はさだまらで、とこうしてその橋のたもとまできたりたり。ついでなればと思いて渡りぬ。
 木津は柿の実の名所とかや。これをひさぐもの、皆むすめにて、いちよりおよそ六七里隔たりたる山中の村よりこの橋の上に出できたるなり。夜更けては帰るにみちのほど覚束おぼつかなしとて、あきないして露店しまえば、そのまま寝て、夜明けてのち里に帰るとか。紫のひも結びつつ、一様に真白き脚絆きゃはん穿きたるが、足を縮め、むしろもて胸を蔽い、欄干に枕して、縦横に寝まりたる乙女等五七人、それなるべし。ことごとく顔にふたして、露をいとえる笠のなかより、くれないの笠の紐、二条ふたすじしなやかに、肩より橋の上にまがりて垂れたり。
 小親も寝たらむ、とここにて思いき。

 われは一足立戻りぬ。あれという声、※(「口+阿」、第4水準2-4-5)あなやと叫びたまいし声、いかでそのままに差置きて、小親と楽しく眠らるべき。
 いま少し、いま少し、仮小屋と広岡の家と楓の樹と、三ツともにある処に、いま少し、少しにても遠く隔りたらば、心の悩ましさ忘られむ。
 渡り越せば、仮小屋とハヤ川一ツ隔たりたり。麓路ふもとじ堤防どてとならびて、小家こいえ四五軒、蒼白あおじろきこの夜の色に、氷のなかにてたるが、すかせば見ゆるにさも似たり。月は峰の松のうしろになりぬ。
 坂道にのぼりかけつ。頂にいたりて超然として一眸いちぼうのもとに瞰下みおろさば、わが心高きに居て、ものよくさだむるを得べしと思いて、峰にのぼらむとしたるなり。
 歩をずる足のそれよりも重かりしよ。掻いずるたなそこを、吸い取るばかり、袖、たもといたく夜露に濡れたり。
 さて暗き樹の下をくぐり、白き草の上を辿たどく。峰は近くなりぬ。
 路の曲りたる角に石碑あり。はちす花片はなびらの形したる、石の面に、艶子つやこ之墓と彫りたるなり。
 貴き家に生れし姫の、継母に疎んじられて、家をば追われつ。このあたりに隠れすみて里の子に手習てならい教えていたまいしが、うらわかくてみまかりたまいしとか、老いたる人の常に語る。こけ深き墳墓の[#「墳墓の」は底本では「墳慕の」]前に、桔梗ききょうやらむ、萩やらむ、月影薄き草の花のむらいたるのみ。手向けたる人のあとも見えざるに、われは思わず歩をとどめぬ。
 あわれ広岡の、姉上は、われにいかなるひとぞ。小親をだに棄つれば救わるべきをと、いと強く胸をって叫ぶものあり。
 草に坐して、耳を傾けぬ。さまざまのこと聞えて、ものの音響き渡る。つむり苦しければ、目を眠りてしずかに居つ。
 やや落着く時、耳のなかにものの聞ゆるが、しばしみたるに、頭上なる峰のかたにて清き謡の声聞えたり。
 松風なりき。
 あまりたえなるに、いぶかしさは忘れたるが、また思い惑いぬ。ひそかに見ばや、小親を置きて世に誰かまたこのおんの調をなし得るものぞ。
 身を起して、坂また少しく攀じ、石段三十五階にして、かの峰の松のある処、日暮ひぐらしの丘の上にぞ到れる。
 松には注連縄しめなわ張りたり。こうく箱置きて、つちの上にまろむしろ敷きつ。かたわらに堂のふりたるあり。廻廊の右左稲かけて低く垣結いたる、月は今その裏になりぬ。
 謡は風そよぐ松のこずえに聞ゆ、とすれど、人の在るべき処にあらず。また谷一ツ彼方かなたに謡うが、この山の反響こだまする、それかとも思われつ。試みにソト堂の前にきて――われうかがいたり。
 伸びあがりてひそかにすかしたれば、本堂のかたわらに畳少し敷いたるあり。おなじ麻の上下かみしも着けて、扇子控えたるが四五人居ならびつ。ここにて謡えるなりき。かまかけたる湯の煙むらむらとたなびく前に、尼君一にん薄茶の手前したまいぬ。謡の道しゅするには、かかることもするものなり。覚えあれば、跫音あしおと立ててこのしずかさ損なわじと、忍びて退きぬ。
 山の端に歩み出でつ。
 と見れば明星、松の枝長くさす、北の天にきらめきて、またたき、またたき、またたきたる後、ぬぐうて取るよう白くなりて、しらじらと立つ霧のなかより、ふもとの川見え、森の影見え、やがてわが小路ぞ見えたる。襟を正していわく、聞け、彼処かしこにある者。わが心さだまりたり。いでさらば山を越えてわれかむ。いつくしみ深かりし姉上、われはわが小親と別るるこの悲しさのそれをもて、救うことをなし得ざる姉上、姉上が楓のために陥りたまいしと聞く、その境遇に報い参らす。
明治二十九(一八九六)年十一〜十二月

底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店
   1942(昭和17)年9月30日発行
※誤植の確認には、底本の親本を参照しました。
入力:門田裕志
校正:酔いどれ狸
2013年5月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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