1

 それは火曜日の地理の時間でした。
 森先生は教壇の上から、葉子ようこ附図ふずかげにかくれて、ノートへ戯書いたずらがきをしているのを見つけた。
「葉子さん、そのノートを持ってここへおでなさい」不意に森先生が仰有おっしゃったので、葉子はびっくりした。
 葉子は日頃ひごろから成績の悪い生徒ではありませんでした。けれど鉛筆と紙さえ持つと、何時いつでも――授業の時間でさえも絵をきたがる癖がありました。今も地理の時間に、森先生の顔をそっと写生していたのでした。そして葉子は森先生を大変好きでした。
 森先生に呼ばれて、葉子ようこはそのノートを先生の前へ出した。先生はすこしこわい顔をしてノートを開けて御覧になった。するとそこには、先生の顔がいてあった。
 森先生は、それをお読みになって、笑いたいのを我慢して、やっとこう仰有おっしゃった。
「今日は許してあげますけれど、これからはほかの時間に絵を画いてはいけませんよ。これは私が預っておきます」
 葉子はお辞儀をして静かに自分の席へつくと、教壇の方を見あげた。けれど森先生は、決して葉子の方を御覧にならなかった。葉子にはそれが心配でならなかった。
 やがて授業時間がすむのを待ちかねて、生徒達は急いでうちへ帰っていった。葉子は一番最後に学校の門を出て、たったひとり帰ってきた。途途みちみちにも今日の地理の時間のことが心を放れなかった。

   2

 つぎの日、葉子はすこし早めに家を出て、森先生のいつも通っていらっしゃる橋の上で先生を待っていた。やがて先生は、光子みつこという同級の生徒と連れだって歩いていらした。葉子は丁寧にお辞儀をした。先生は何事もなかった前のように、にこやかに「おはよう」を仰有った。それで葉子は、ほっと安心した。そしてうれしさに忙しくて、悪い気ではなく光子に「おはよう」を言うのを忘れていた。
「葉子さんおはよう!」光子はわざと意地悪く葉子の前へ突立つったってお辞儀をした。そして「葉子さん、今日はまわり道をしていらしたのね」
 と光子はとがめるように言った。葉子は日頃ひごろから意地の悪い光子が好きでなかった。
「ええ」と葉子はおとなしく答えた。
 森先生は、葉子のリボンをなおしてやりながら、
「葉子さんのおうちは山の方でしたねえ。お宅の近所の野原には沢山に草花が咲いていてどんなにかいでしょうね」
「先生はあんな田舎いなかの方がお好きですか」
「ええ、毎日でもゆきたいと思いますわ」
「先生、私の宅へいつかいらっしゃいましな。そりゃあ綺麗きれいな花があるの。だって、葉子さんのお宅の庭よかずっと広いんですもの」
 光子がいきおいこんで言ったけれど、だれもそれには答えなかった。

   3

 つぎの日も、そのつぎの日も、葉子ようこは森先生を橋の上で待合して学校へ行った。けれどノートの事については何にも仰有おっしゃらなかった。葉子もそれをきこうとはしなかった。
 光子みつこは葉子が先生と一緒に学校へ来るのがねたましくてならなかった。その週間も過ぎて、つぎの地理の時間が来た。
 葉子が忘れようとしていた記憶はまた新しくなった。葉子は、おずおずと先生の方を見た。先週習ったところは幾度となく復習して来たから、どこをきかれても答えられたけれど、先生は葉子の方を決して見なかった。そして光子に向って、
巴里パリーはどこの都ですか」とおたずねになった。すると「佛蘭西フランスの都であります」と光子がうれしそうに答えた。
 地理の時間が終ると、運動場うんどうばのアカシヤの木の下へいって、葉子はぼんやり足もとを見つめていた。何ということなしに悲しかった。
「葉子さん」そう言ってあとから葉子の肩を軽くたたいた。それは葉子と仲好なかよし朝子あさこであった。朝子は葉子の顔をのぞきこんで「どうしたの」ときいた。
「どうもしないの」そういって葉子は笑って見せた。
「そんならいけど。何だか考えこんでいらっしゃるんですもの、言って好いことなら私に話して頂戴ちょうだいな」
「いいえ、そんな事じゃないの、私すこし頭痛がするの」
「さう、そりゃいけないわね」
 葉子はじっと思入おもいいって朝子を見つめて「朝子さん」
「え」
「あなた森先生お好き?」
「ええ、好きよ、大好きだわ」
「あたしも好きなの、でも先生は私のことを怒っていらっしゃる様なの」
「そんなことはないでしょう」
 葉子は、朝子に心配の種を残らず打明けた。それから二人は森先生のやさしいことや、先生は何処どこの生れの方だろうという事や、先生にもお母様があるだろうかという事や、もし先生が病気なさったら、毎日そばについて看病してあげましょうねという事や、もしや死んでしまっても、先生のお墓のそばに、小さいうちをたてて、先生のお好きな花をどっさり植えましょうという事などを語り合った。

   4

 それから三日目の朝、学校へゆくと森先生が病気だという掲示が出ていた。葉子ようこは、学校から帰ると大急ぎで野原へ出て、いつぞや森先生が仰有おっしゃった、お好きな花を抱えきれないほどたくさんに摘みとった。
 葉子は、いつか森先生に出逢であった橋の所まで来ると、向うから光子みつこが来るのに会った。
何処どこへ行くの?」光子がいきなりきいた。森先生のとこへといえば、また何とか意地悪い事を言われるのがいやさに、それとなく、
「ちょっとそこまで……」と答えた。
「隠したって知っててよ、森先生の許でしょう! 先生の所へいったって駄目よ。先生はあなたのこと怒っていらしてよ。そしてあなたを大嫌いだって」
 さも憎らしそうに光子は言って、葉子の持っている花を見つけた。
「まあ、それを先生の許へ持っていらっしゃるの。そうでしょう※(疑問符感嘆符、1-8-77) 先生の許にはもっと綺麗きれいな花が山のようにあってよ。だって温室からとっていったんですもの。でもいらっしゃりたいなら勝手にいくといわ。そんなきたない花を先生はお喜びになるかもしれないわ。あばよ」そう言捨てて光子は行ってしまった。
 あとに残された葉子は橋の欄干にもたれて、じっと唇をかんでこらえたが、あつい涙がはらはらと水のうえに落ちた。
 葉子はしばらく橋の上から川の水を眺めていたが、手に持っていた花束を水の中へ投捨てて一散にうちの方へ走った。

   5

 その日の夕方、森先生の使つかいが、葉子のもとへ一つの包を届けた。葉子は何事かと思いつつ包をとくと中からいつぞやのノートが一冊出てきた。葉子は恐る恐るノートをあけた。すると、森先生の手蹟しゅせきでつぎの事が書かれてあった。
 葉子さん。
 あなたの愛らしいノートをお返しする時がきました。
 絵を画くことは少しも悪くなかったのです。ただ、画く時でない時に画いた事だけがいけなかったのです。あなたが私のために花を摘んで下さったことも、橋の上から川へ流したことも、みんな私は知っています。あなたの心づくしの花束は、私の病室の窓の下を流れる水におくられて、私の手に入りました。私はどんなにあなたのやさしい親切を感謝したことでしょう。
 安心して下さい。私の病気はほんの風邪に過ぎません。次の月曜日からまた教場でお目にかかりましょう。
 葉子ようこさん。
 どうぞこれからはもっと善い子になって下さい。ほか稽古けいこの時に絵をいたりしないような、そしてお友達に何を言われても、いと思ったことを迷わずするような、強い子になって下さい。
それでは
さようなら

底本:「童話集 春」小学館文庫、小学館
   2004(平成16)年8月1日初版第1刷発行
底本の親本:「童話 春」研究社
   1926(大正15)年
入力:田中敬三
校正:noriko saito
2005年9月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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