イタリアでアシジのサンフランチェスコの遺跡を見たので、エスパーニャではサンロヨラの遺跡を見たいものだと思つてゐた。聖ロヨラはヂェズイタ派(耶蘇會)の開祖であり、その同志で後輩なるハヴィエル(ザベリヨ)は天文年間に初めて日本に耶蘇教を持つて來て猛烈な布教をした人であり、私の生れた豐後の地は領主大友宗麟の洗禮に拍車をかけられて最も早く耶蘇教化した地方であつたので、今も昔語にいろんな話が遺つて居り、ロヨラの名はザベリヨの名やワリニャーニの名と共に早くから親しみを感じてゐた。それに、私自身耶蘇教徒ではないけれども、一方、聖フランチェスコの超俗的な修道生活に敬意を捧げると同時に、他方、聖ロヨラの鬪士的教化運動にも興味を懷いてゐたので、その勇猛な精神の發生弛を一見したいと望んでゐた。
 サン・セバスティアンの公使館の食堂で、その話が出た時、矢野公使は、明日はオニャーテの古い大學とビルバオの新らしい戰場に案内しようと思つてゐたが、ついでにロヨラにも寄らうといつた。
 サン・セバスティアンのヴィラ「ラ・クンブレ」を車で出かけたのは朝の八時半だつた。八月中旬の炎熱の日ではあつたが、道は山から山を傳つて行くのではあり、車の速度に比例して嵐氣を含んだ風が爽やかに車窓を吹き拔けるので、少しも倦怠を感じなかつた。私たちの車は、初めは南へ南へと山道を登つたり降つたりして進むのであつたが、どつちを見ても鋭い突つ立つた山ばかりで、次次に奇怪な形が展開するので馴れない目には珍らしかつた。それに、エスパーニャといふ國は貧乏國だと思つてゐたが、道路だけは、どんな山の中へ行つてもすばらしい近代的な鋪裝がしてあつて、不思議なくらゐだつた。何しろ最後の王朝時代に政府が思ひ切つた苛斂誅求をして全國に完全な道路網を張つたといふのだから、おかげでわれわれまで助かるといふものである。
 エルナニを左に見て、最初に通つた町はトロサであつた。オリアの盆地に横たはる人口一萬餘の工業都市で、またベレ帽の本産地である。ベレ帽には赤と黒があり、一體に此の邊バスク地方では赤羅紗のベレ帽をかぶつた男が多く目につく。私たちの車にガソリンを入れた男も赤いベレ帽を横つちよにかぶつてゐた。
 トロサで道が二つに分れる。左の道を南東の方へ行くと昔のナヴァラ王國に出る。ナヴァラにはパンプロナの町があつて、聖ハヴィエルの生れた城が寺になつて遺つてゐるといふから、其處へも行つて見たかつたが、だいぶ寄り道になるのでまた出直すことにして、私たちは右の道を西南の方へ取つて進んだ。
 その道をかまはず眞直ぐに行くと、サラゴサの手前から國道二十四號に出逢つてマドリィに達するのであるが、私たちはトロサの町から少し行き、ちよつとわかりにくい道(それでも鋪裝はよく出來てゐる)を右へ曲つて、また山あひを走らせた。此の附近は最近の内亂初期の戰場で、ところどころに散らばつてる農家に彈丸で壞された痕などが見えた。矢野公使は内亂の發生經路にくわしく、戰線に立つて觀戰したこともあるので、みちみち詳細な説明を聞きながら行つた。
 アスペイティアの村を通つたのは十時を過ぎてゐた。聖ロヨラの洗禮を受けた寺があるといふことだが、そのまま通り拔けると、やや打ち開けた盆地の前面約二キロの地點に、一つの高い圓屋根の塔が白つぽい横に伸びた四角な建物に圍まれて立つてゐるのがすぐ目につく。それがこれから訪ねようとするロヨラの寺であつた。

 ロヨラは地名で、それを姓にして領主の家はデ・ロヨラと名乘つてゐた。私たちの主人公は領主の息子で、俗名をドン・イニーゴ・ローペス・デ・レカルデといひ、後に聖列に加へられて聖イグナシオ(イニャーシオ)と呼ばれた。コロンブスのアメリカ發見の前の年(一四九一年)に生れ、少壯の頃パンプロナの戰爭に出かけ、重傷を負うて家の子郎黨に舁がれてロヨラに歸り、城内の一室に長い間病臥してゐた。一念發起して大悟したのはその時だつたといはれる。彼は助からないものと覺悟してゐた命が助かり、譬へやうもない法悦の心に浸つて、神とキリストに對する感謝で充たされ、生涯を神の道に捧げたのである。それには、もとよりわれわれの容易に窺ひ知ることのできない深い冥想と強い決意が先立つたものでなければならぬ。人類を無知と不信から救つて神の國の門へ導くために命を投げ出さうとした彼の仕事が雄辯にそれを語つてゐる。
 彼がフランシスコ・ハヴィエル(ザベリヨ)と知つたのはパリであつた。彼は宗教の研究を志してコレジュ・サント・バルブに學んでゐた。其處へ十五歳年少のハヴィエルが後れて留學した。當時はルネサンス思想の影響を受けてどこの國にも自由奔放な物の考へ方が行き亘つてゐた。殊にパリは文化の中心地で、集まつてゐる學生の生活も極端に放縱に流れがちだつた。ハヴィエルもその影響を少からず受けてゐたといはれる。それを引き止めて戒律の正しい宗教生活の方へ連れ込んだのは先輩ロヨラであつた。なほ他にも幾たりかの同志ができた。彼等は一五三七年ヴェネティアに會合して、將來のヂェズイタ派運動の基礎となるべき盟約を結んだ。その時、ロヨラ四十六歳、ハヴィエル三十一歳であつた。
 機會は遂に法王パオロ三世の公然の允許を得て海外傅道の仕事を始めるやうに彼等を助けた。海外とはいつても專ら東洋であつた。東洋も印度を基礎にして當時新たに「發見」された日本に主力を盡した。日本の傳道は最後には迫害を以つて禁止されたけれども、天文・永祿から元龜・天正へかけて極めて短年月の間に驚くべき改宗者を得たことは、ヂェズイタ派としては奇蹟的な成功といふべきであつた。それは主としてハヴィエル以下第一線に立つた多くの熱心な伊留滿たちの不撓の努力の結果ではあつたが、根本は彼地に於いて絲を引いてゐた管長ロヨラの人格に因るものでなければならなかつた。
 さうしてロヨラの生れた家のある土地であり、其處に建てられたヂェズイタ派の本山であるから、日本から來た旅行者が興味を持つのも理由のないことではない。
 しかし、矢野氏の話によると、日本人で此の寺を訪問する者は甚だ稀だといふことで、恐らく私たちが最初ではないだらうかといふことだつた。

 ところが、その寺へ行つて見ると、何とこれがロヨラの宗派の本山かと失望せざるを得なかつた。
 此の寺は一六八一年、ロヨラの歿後百二十六年目にエステルライヒのフィリプ四世の皇妃マリアナが建てたもので、技師はカルロ・フォンタナであつた。規模は相當に大きく、構造はロトンダ式で、一階は八角形を成し、上に支へられた圓屋根も決してわるい形ではないが、一たび内部に足を踏み入れると、誰しもその金碧燦爛たる裝飾に首を傾げないではゐられないだらう。内部には圓柱がないので、隨つて主廊も側廊もなく、ただ徒らに廣い空間の正面に拱形の大きな聖壇が光り輝いてゐるのだが、その主材はイトサリスの山から切り出したといはれる大理石で、壁面にくつ附いた數本の柱は極彩色に彩られ、その内の四本は大蛇が捲かりついたやうた印象を與へるのもよくないし、中央上部の龕の中に安置された聖イニャーシオの立像のけばけばしい銀色に光つてるのもどうかと思ふ。その他の細部について、私は正確な記憶を持たないが、一言にして盡せば、あくどく、しつこく、ごてごてして、いかにも人の目を眩惑させようとするかの如き意向が見え、感歎の念を起させるやうなものではなかつた。
 私はエスパーニャの古い寺院では、その多くはエスパーニャ特有のゴティク樣式で、いづれも見事な構成に敬意を表したのであるが、ロヨラの本堂の惡趣味のバロッコ樣式だけは何としても贊成することができなかつた。
 しかし、本堂の左右から背面へかけて接合された大きな修道院(それは公開されてない)の一部に包み込んであるロヨラの生家は十分に一見に値するものであつた。古い繪圖で見ると、昔は孤立した方形の城――といふよりは、大きな箱のやうな家で、高い一階は石で疊み上げ、比較的低い二階と三階は煉瓦造で、一階の内部には大理石を張りつめ、ところどころ砲眼があるのは籠城の必要があつたものと見える。今ではそれがそつくり修道院の建物の中にそのまま保存されて、希望者には觀覽させるやうになつてゐる。
 本堂を出て右へ曲ると、すぐ「聖館サンタ・カザ」(ロヨラの生家はさう呼ばれてゐる)の入口の前に出る。其處に二つの銅像がある。右側のは、武裝した少年時代のロヨラの立像で、左手に長槍を持つて仰向いてゐる。その顏だけを白大理石にしてあるのは、他の青銅の部分とあまりに際立つた對照でいけない。左側のは、職場で負傷したロヨラとそれを助けたり途方にくれたりしてゐる三人の從者の群像で、特別の傑作でもないがまづくもない出來である。
 おもしろいのは入口のアーチの上に嵌め込んだロヨラ家の古い標札で、二匹の熊が一本の樹を中央にして向ひ合つてる浮彫である。
 案内者は三階から先に見せた。木造の天井も柱も昔のままに遺つて古色甚だ掬すべきものがある。一室は負傷したロヨラが長い間横臥してゐた所で、其處で彼は生涯の重大な轉向を體驗したといはれる。
 二階も古い天井の木組が珍らしく、一室はロヨラの生れた部屋、その隣りにゆかを大理石で敷きつめた部屋があり、種種の貴重な物が藥味箪笥のやうな抽斗に所藏してある。これは耶蘇會の信者たちが後で蒐集したものださうだが、その中にはキリストの爪などもあるさうだ。東洋で佛骨や佛齒を珍重するやうなものだらう。その隣りは銀でゆかを張つた祭壇で、これはロヨラの家族の祭壇だつたものだといふ。
 一階に下りると、サン・ホセ(ヨセフ)を祀つた部屋があり、イタリア風のモザイクの床が美しく、大理石の床の間からは先にいつた砲眼が開いてゐる。隣りには法王ピウス匹世を祀つた部屋があり、またロヨラの前で多くの聖列に入れられた同志たちが膝まづいて拜んでる大きな浮彫の祭壇がある。左列の中央から二番目の像がハヴィエルだと案内者は説明した。ハヴィエルの像の信用すべきものは少いと聞いてゐたので私は熱心に見たが、俯向いた横顏で個性の表はれはよく見取れなかつた。

 參詣人は私たちの外には殆んどなかつた。「聖館サンタ・カザ」でアメリカ人らしい一組に出逢つただけだつた。土地も僻遠な所であり、ヴァティカノのやうな大量的な參詣人を見出さうとは豫期してゐなかつたけれども、とにかくヂェズイタ派の本山ではあり、相當な群集があるものと思つてゐたのに、意外だつた。さういへば、アジジの聖フランチェスコの寺だつて大して參詣人はなかつた。
 しかし、ヂェズイタ派にしても、フランチェスコ派にしても、寺よりは修道院が主體で、寺に善男善女を集めて拜ませるよりも俗界へ飛び込んで行つて傳道する鬪士を養成するのが目的だつたのだ。今はさういつた仕事を救世軍がやつてゐる。ヂェズイタ派の組織は近代の初葉に於いては時勢に適合したものであつたが、今日では場ちがひなものになつたのではなからうか? エスパーニャはカトリック國の中でも「最もカトリック的な國」だといはれ、どこの寺へ行つても多くの熱心な信者が本堂の隅隅に膝まづいて十字を切つて拜んでるのが見られるが、それは皆サンタ・マリアを拜むのである。サン・イニャーシオなどは人氣がなささうである。
 サン・イニャーシオの一黨が三百年前に日本へ侵入して布教したのは、日本文化史の上から見れば多大の貢獻をしてくれたことになるが、ハヴィエルにしてもトレスにしても、ワリニャーニにしても、いづれも宗教的情熱に湧き立つ拔群の鬪士ではあつたけれども、靈魂の救濟のことばかりに夢中になつて、彼等の文化の美しい花を移植しようとは考へもしなかつた。果實を持つて來て蒔いて置けばよいといつたやうな態度だつた。その證據には、當時あれほど見事に爛※(「火+曼」、第4水準2-80-1)と咲き亂れてゐたルネサンスの文化が何一つとしてわれわれの國には傳はらなかつたのである。建築・彫刻・繪畫・音樂・詩・戲曲・等等。尤も、それ等のものの大部分は傳道者たち自身が否定しようとしたものであつただらうから、傳はらなかつたのも當然といへるかも知れないが。
 しかし、それは日本を理解しなかつたからである。日本民族の藝術に對する鋭敏な知性を觀破したならば、彼等は千三百年前の佛教傳道者の如く、まづきらびやかな藝術の衣を着せて人類愛の教義を持ち込んで、或ひはもつと成功したかも知れなかつたのだ。ところが、さういつた民族的不理解は、三百年を經過した今日に於いてもまだいろんな方面に於いて東洋と西洋の間に嚴存してるのだから驚かざるを得ない。……
 そんなことを考へながら、それでもわれわれの祖先の中に彼の最善と信じるものを蒔きつけようとしたサン・イニャーシオ上人に敬意を表することを私は怠りはしなかつた。
 寺を出ると左手のイサライツの山の緩い斜面には正午に近い陽光が一面に降り注いで、その上の碧空にはアド・バルーンのやうな白い雲が二つ三つ浮かんでゐた。
 私たちはオニャーテの方へ駈けらした。

底本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月10日発行
   1941(昭和16)年12月10日10版
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2011年3月11日作成
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