一

 六年振りに、庸介ようすけが自分の郷里へ帰って来たのは七月上旬のことであった。
 その日は、その頃のそうした昨日、一昨日と同じように別にこれという事もない日であった。夜の八時頃、彼は、暗く闇に包まれた父の家へ到着した。
 彼は意気地なくおどおどしていた。玄関の戸は事実、彼によって非常に注意深く静かに開けられたのであったが、それは彼の耳にのみはあまりに乱暴な大きな音を立てた。「なあにこれは俺の父の家だ。俺の生れた家だ。……俺は今、久しぶりに自分のふるさとへ帰って来たのだ!」彼は、心の中でこう自分自身に力附けようとした。
 誰もそこへ出て来る者がなかった。彼はそこに突立ったまま、何と言葉を発していいか、また、何としていいか自分に解からなかった。「来るのではなかった。やっぱりここは俺の来る所ではなかった。そうだ。……否、まったく何という馬鹿げた事だ。この家は俺の生れた家だ。……それ、その一間ひとまへだてた向うのふすまの中には、現在この俺を生んだ母が何か喋舌しゃべっているではないか。それがこの俺の耳に今聞えているではないか。そら! その襖が開くぞ。……そして、それ、そこへ第一に現われて来るのが、……お前の帰るのを一生懸命に待っていてくれた妹の房子だ。……六年目に会うのだよ。どんなに大きく、可愛らしくなっている事だか。……」そこへ、自分の荷を運んで車夫が入って来た。色のせた粗末な革鞄トランクをほとんど投げ出すように彼の足許あしもとへ置くと、我慢がしきれないと云ったように急いで顔や手に流れている汗を手拭でふいた。
 取次ぎに出て来た一人の少女(それが小間使で、お志保というのであるという事を彼は知っているはずはなかった。)がつつましやかに坐って自分を仰ぎ見ているのに気がつくと、彼は「そうだった。」と思った。「どなたさまでいらっしゃいますか。……どちらからお出になりましたので?」少女は黙ってはいるが、その顔の表情が確かにそう云っているのが解かった。彼はあわてて、少しまご附いて、意味もなく、
「あ、私は……。」こう云った。が、ひどく手持不沙汰なのでそのまゝ口をつぐんでしまった。ちょうどその時、
「まあ、兄さんだわ。……兄さん!……ほら、やっぱりわたしが当ってよ。」こう云って妹が元気よく走り出して来てくれなかったら、彼は、飛んでもない、重苦しい翻訳劇のせりふのような調子で、不恰好ぶかっこうな挨拶を云い出したかも知れなかったのである。
 祖母、母、今年十二歳になるめいの律子などが珍らしがって我慢なくそこへどやどやとやって来た。
「どんなに待ったか知れなかったわ。むろん、先月のうちだとばっかり思っていたのよ。」
 荷物を内へ運び入れながら、妹は無邪気な、馴々しい調子で云った。これが不思議にも堪え難い窮屈さから救い出してくれた。そしてそれからずーッと数時間の間、安易な、日常茶飯の気分が保たれた。

     二

 父は往診に出ていて、まだ帰宅していなかった。
 庸介は暑苦しいので、着て来た洋服をすぐに浴衣ゆかたに替えた。そして久し振りの挨拶が一通りすむと、絵団扇えうちわで襲いかかる蚊を追い払いながら、
「明るいうちに着きたいと思いましたが、汽車の時間をすっかり間違ってしまったので、それで………」こう云った。
 しかし、それは、全然、嘘であった。庸介を乗せた汽車はその日のお午少し過ぎた頃にこの家から一里半ほどへだたった所にある淋しい、小さな停車場へ着いたのであった。そしてその時、彼は確かにそこへ下車したのであった。赤帽のいない駅なので、自分のお粗末な革鞄トランクをまるで引摺ひきずるようにして、空架橋の線路の向う側からこっち側へと昇って降りて来た。改札口を出ると、一人の車夫を探し出して来てそれに荷物を運ばせて、停車場前にならんでいる、汽車の待合所を兼ねた小さな旅舎はたごの一つへと上って行った。そしてそこでお茶を命じ、喰いたくもない食事を命じ、それからひどく疲れたから、などと云って、旅行用の空気枕を取り出して横になったりしたのであった。
 夏の太陽が赤々と燃えて、野の末の遠い山の蔭へ落ちかけた頃になって、宿の女中が胡散臭うさんくさそうに、
「あの、……お客様はお泊りでござんすのかね。」
 と云った時にようやく立ち上って、そこをつ仕度に取掛った。そして彼は口の内で苦々しく独言ひとりごった。
「お客様はお泊りでござんすのかね、だとさ。これはいったい、何と云うこった。俺は六年ぶりで自分の郷里へ帰って来たんだよ。自分の生れた家が、ついここから一里半しかない所にあるんじゃないか、そうさ。……そして家の者がみんなで自分を待っていてくれているんじゃないか。……それだのにこの人はそこへ明るいうちは乗り込めないんだとさ。誰がそんな事を本当にする者があるものか。……」
 それは、彼が今年三十歳の大人であったという理由からであった。――そうではない。そんなはずのある道理がどこに在るものか。否、それではこう言ってみよう。もし、彼が今十七歳の少年であったとしたら、たといどんな場合だとしても、何でそんな真似をしたであろう。
 彼は二十三歳の時、東京のある専門学校を卒業した。その後、一年半の間、就職難のために父の補助を受けて、それから自活の途に入った。思わしい事もなかったにかかわらずとにかく押しも押されもしない一個の男として、大勢の他人にじって独立して来た。しかるに、彼の思想がようやく根を生じ次第に生長してゆくにつれて、世間が追々狭くなってゆくのを彼自身に感じた。思わざる打撃が徐々に迫って来た。三度目の解雇の時、その雑誌社を出て家へ帰る電車の中で、「みんなが、どうも勘違いをしているのだ。」こう思った。彼は自分の友に向って、
「なあに、窮迫がどれほどひどくなったって、この俺をほろぼせるものではない。俺は、泥まみれになったって俺の道を歩き続けるのだ。」こう語った。
 しかし、世間の事はきわめて簡単で明瞭であった。下宿の払いがとどこおり滞りして、「もう、どうも。」と云う所まで来た時、持ち物をすべて取り上げられてそこを突き出されるのを彼はこばむ訳にはゆかなかった。
「こうなっては、いよいよしかたがない、道普請みちぶしんの土方にでもなるほかに道はないだろう。」実際こう彼には思われたのであった。
 郷里の父は、とうとう彼に手紙を与えた。
「身体でも丈夫なら、それだって本当に良い事かも知れないのだ。しかし、お前は生来弱い。何んでそんな労働などができようぞ。思いもよらぬ事だ。……ほかにまた方法もあろう。とにかくいったんこっちへ引上げたらどうだ。そして静かに前途をはかるとしたらよかろう。」
 こう云う意味の事を書き、それにその旅費にもと云って金弐拾円の為替券かわせけんを封じ込んでよこした。これは、田舎に多少の田地も持ち、その上にかなり立派な医院を開いて、やっている彼の父としてこれ位の心附きは何の不思議でもない事であった。とはいえ、その手紙を受取った時には、彼はしみじみと有難く、その暖かい情に我れ知らず涙を流して泣いた。
 彼は、自分自身に向って幾度となく云った。
破廉恥はれんちな事をしたのではない。俺は何の罪を犯したと云うのではない。」
 しかし、あまりに意気地がなさ過ぎると思った。また、一ツには自分のこうした帰郷が、平穏な両親の家へ一ツの暗い、醜い影を投げ付ける事になりやしないだろうかを憂えた。
 親切をおそれるのは善くない。――だが、なろうことなら、自分の悲惨を家の人達に際立って感じさせたくないと思うた。それにはできるだけ、強い感動を家の人達に与えないようにして家へ帰り着くことが必要である。驚かさないようにするのが何よりだと考えた。彼が特に夜を選んで帰って来たのは、こうしたわけからであった。ちょうど、八時頃にはいつもごたごたしていた一日中の事に一段落が付いて、家の者が茶の間へ集って茶でも飲みながら心静かに四方山よもやまの話をしているだろうと云う事を、彼は、自分もかつてよくそうした仲間の一人であったのでよく知っているのであった。

     三

 庸介はぐっすり寝込んで、翌朝九時過ぎになってようやく目を覚ました。と、妹の房子がさっそく部屋へやって来た。
「まあ、お早いんですね。」こう云って笑い出した。彼女はいかにもおかしさに堪えられないと云ったようにいつまでも笑い続けるのであった。彼も、ついそれに釣り込まれて、何という事もなく、
「は、は。」と声を出して笑った。
「この部屋はひどく日が当るんで、もう少しすると大変なんだわ、暑くて。それはとても寝てなんぞいられやしないのよ。」こう云ってまた、房子は笑った。
 庸介は朝の食事を一人でした。それがすむと、房子が彼を案内して庭へ出た。梅や、かえでや、青桐やの植込みの間を飛石伝いに離屋はなれの前へ立つと、
「兄さんのいらっしゃるのに、この室が一等いいと思ったのよ。わたし。」
 先に立ってとんとんそこへ上って行く妹の後から、彼は黙って続いた。そこは二方に縁側がついていて、さっぱりした明るいところであった。可愛らしい小窓が一つあって、そこに大きな、り心地の良さそうな一つの机(これには彼は見覚えがあった。)を据えて、その上に硯箱すずりばこだの、水入れだの、巻紙の類が行儀よく載せられてあった。床の間には、口の大きな花瓶の中に石竹せきちくの真紅な花がおびただしく挿し込まれてあった。そして彼の革鞄トランクや、その他の小荷物やが部屋の一隅にすでに運び置かれてあった。
「素敵だね。まったくいい部屋だ。」
 この離屋は、彼には予想外であった。彼の驚いたのは無理はなかった。六年前には影も形も無かったのであった。房子は、これは一昨年の秋出来たのである事、上等の病室の補充のつもりで建てられたのだが、一度もその方で使われた事がないと云う事やを彼に説明して聞かせた。
 戸を開け放すと、房子は思い出したように急に窓のところへ行って、そこから母屋おもやの方へ向って小間使のお志保を呼んだ。そして手真似で何かを命じた。すると間もなくそこへ美しく熟した水蜜桃すいみつとうの数個が盆に載せられて運ばれて来た。
 房子は、その中から一つを手に取って、
「家の畑でできたのよ。」と云った。それは「わたしの栽培している樹にったのよ。」と云う意味を十分匂わせたつもりだったが、他の事に思いふけっていた庸介にはそれが少しも通じなかった。
 沈黙があった。四囲の樹々の葉蔭を通して涼しい風がそこへ流れ込んでいた。房子はたちまち退屈を感じて来た。庸介はすぐとそれに気がついたので、
「さあ、話しておくれ。ね、房子。家の事を、お前の事を、すっかり。」と、まるで妹の機嫌でもとるように口を開いた。
 そこで房子は話し出した。
 今年の春、庸介のすぐ下の妹の政子(此所から七里ほど離れた村の、ある豪家へ縁付いている)が一度訪ねて来た事、その長女が今年四つで、まあ、それは可愛らしい児である事、それが房子を「おばちゃん! おばちゃん!」と云って、どんなに仲よく自分と遊んだかという事。それから去年の夏、裏の畑の中へ灌水用の井戸を掘ったところが、そこから多量に瓦斯ガスが出だして、あまりたくさんに出るままにタンクを据えつけて、今でもそれで台所の煮焼から風呂場まで使ってそれでもまだ余るほどであるという事や、つい先達せんだって、家の前を流れている△△川が近年にない大洪水になって、ちょうどこの村の向岸が破堤して、凄まじい響を立てて轟々と落ち込む水の音が、三日三晩も続いて、それがどんなにか自分には恐ろしく感じられたかと云う事やを熱心に語り続けた。しかし、最後に彼女は、
わたしだって、ついこの四月までは女学校の寄宿舎でばかり暮らしていたんですもの。そんなに、いろんな事はよくは知らないわ。」と、つけ加えた。
 庸介の頭は、まるで乾ききっている海綿が、水の中へ入れられてもすぐに水を吸いこまないように、今、妙に落ち付かない心持ちのために、妹のこれらの言葉には何の交渉をも持ち得なかった。その代りに彼は、妹の頬に浮んでいる美しい赤い血の色や、よくうるおうている口の中や、その奥で見え隠れしている宝玉のような光沢を持った純白な歯やに我れにもなくじっと見入っているのであった。そして無意識の間に、自分の内なる本能の一部分が狡猾にもその事によってあるかすかな快感に耽っているのであった。彼はみずから、それに気がついた時、驚きと羞恥とのために周章あわてて眼を他に転じた。しかし彼女は、そんな事を露ほども感じなかった。
 彼女は喋舌しゃべる事に油が乗って来て、問われもしないのに今度は続いて女学校にいた頃の事に語り及んだ。
 数多くの学友の事、先生達の事、寄宿舎の部屋部屋のはなし、食堂、浴室のありさま、――その浴室には素晴らしく大きな鏡があって、それへ自分の裸体の全身が初めて写った時のどんなにはずかしかったかという事、それから非常に親しくし合った友達が都合四人できてその人達とよく他人に隠れてその浴室の大鏡の前へ並んで立ったという事や、それから、やはりその中の一人で寺本さんという人が巻煙草をすう事が好きで、それが舎監に知れやしないかとどんなに心配していたかという事や、そんな数知れない多くの事を語った。語り終った後になって、彼女は、「それにしても、あんまり何もかも話し過ぎた。」と思った。が、また、「やっぱりこの方が良いんだわ。そして一時も早くすっかり兄さんと親しくなってしまわなければ……。」こうみずからそれを打ち消した。そして、
「兄さん! 妾、もうこれですっかりだわ。この外にはもう何んにも云う事なんかないわ。――あるかも知れないが思い出せないわ。」と云って、少しはずかしそうに、しかしいかにも満足そうににっこりした。
 その日の午過ひるすぎ頃、庸介の父は、その日の最後の患者であった中年の百姓女の右の乳の下の大きな腫物はれものを切開して、その跡を助手と看護婦とが二人がかりで繃帯ほうたいをなし終えるのを見ると、急いで外科室を出て来た。そして白い手術服を着けたままで、医院の方の応接室で庸介に遇った。
 久しぶりの対面なので、おたがいに何と云っていいか適当の言葉を見出せなかった。
「まあ、そこへお掛け!」
 こう云って、父は、露出むきだしにしてある手を挙げてテーブルわきの一つの椅子を指差した。そのようすは年に似合わずいかにも元気に見なされた。老医師はあらかじめ自分でそれと知っていた。そしてわざとこのしぐさをこの場合に用いたのであった。
 庸介は心持首を垂れて、重く沈黙していた。それに引替えて父の方は、できるだけそうした気分を打ち破ろうと努めていた。で、次のような事を云い出した。
「道中はどうだったな。信州の山々は今はちょうど青々と茂り合っていて、さぞ気持がいい事だったろう。……新聞でみると浅間山がこの頃だいぶおだやかでないように書いてあるが、よっぽどさかんに煙をふき出しているかね。」
「そうですね。私が通った時には、ちょうど煙が見えませんでしたが、汽車へ乗り込んで来たその土地の人の話では、何でもひどい時には上田の町あたりまでも灰が降って来るという事ですね。それがために今年はあの地方の養蚕ようさんがまるで駄目だという事です。」
「そうか。」
「桑の葉が灰だらけになってしまうのだそうです。」
「なるほど……。」
 庸介は、限りなく空虚な感じがした。まるで自分自身の口で物を云っているのではないようにさえ思われた。自分のそばにもう一人、誰か他の人がいて何かしゃべっているとしか思われなかった。
「何しろ、十五六時間も汽車に乗り通したんでは、さぞ疲れた事だろう。」
「え、おかげさまで、今朝はとんだ寝坊をしてしまいました。つい、今しがた起きたばかりなんです。」
「はゝゝゝ」
 庸介は「何という拙劣な事だ!」と思った。「まるで会話の体をなしていないじゃないか。」とさえ思った。彼は、さっきから、今度自分がこうして帰って来たことについて、それから、先日、父の送ってくれた為替券のことについてそれとなく一言言い及びたいと思っていた。そうでないといつまでも中途半端な所に落ち着かないでいるようで、いかにも気が済まなかった。しかし父の方では、何の怪我もなくこうして彼が帰っている事であれば何も大して案じる事もなかった。今は、彼に、もう一度世の中へ勇ましく出発してゆくだけの勇気を得させるようにひたすら努めさえすれば良いのだと、こう思うているのであった。
 彼がもじもじしているうちに、また、父の方から口を開いた。しかし、今度は今までよりもやや厳格の調子であった。とはいえ、やさしく、
「お前が帰って来てくれてちょうど良かったんだ。私は今、ある翻訳を初めているんだ。――なあに、同業者の間に出しているある雑誌から頼まれたのだ。――ところが、この頃は絶えて物を書いた事がないので文章がどうしてもうまくいかないのだ。それにはほとほと弱っている。……急ぐのではないが少し落附いたら、一つそれを読み良いように綴り合わして貰いたいと思っているんだがね。……」と、云った。
 彼は、すぐ今日からでもお手伝しようと云い出した。それではとにかくその原稿を見せようから、という約束をして二人ともその応接間から外に出た。そこの戸口の所で二人は右と左とに別れた。

     四

 翌日の午後には夕立があった。それから二三日また一滴も降らなかった。その代りに夜は溢れるように露が何でもかんでもをうるおした。
 庸介は家の中を、あっちの部屋、こっちの部屋とぶらぶら見舞って歩いた。いかにも興味なさそうにしながらも色々の物を一々じっと凝視みつめては過ぎて行った。口を堅く閉じて一言も物を云わなかった。それからまた、庭へ出て行った、家のまわりをゆっくりめぐった。裏手にある納屋なやや小屋類の戸を細目に開けて、薄暗い内部をそとから覗き込んだりした。しかしこれらの生活は彼にとって決して愉快なのではなかった。それと同じように、そうして彼にみまわれ、彼に凝視められるすべての物もまた決してそれを愉快には感じなかったであろう。それどころではなく、中には彼の視線に対して、明らかに醜い反感を示し、
「悲惨なる友よ。虚無の眼よ。……何だってそう薄気味悪るく俺を凝視みつめるのだ。なあにお前達のようなものに幾ら睨まれたって俺の値打は決して変らないのだからね。何で変ったりなんぞするものか。……しかし厭だ。もう止してくれ。お前に用はない。早くあっちへ行ってくれ。」
 こうつぶやき出すものなどもあった。彼が、客室の床の間の前に立った時、そこに何か黒く光る木の台に載せられてあった白色の半透明な石材の香爐と、そしてそれに施こされてあるきわめて微細な彫刻とが確かにそうであった。庭に在る、こけむした怪しげな古い石や、不自然にりきみかえっている年老いた樹木やは、彼に対して皮肉な、不明瞭な説明を試みた。否、説明ではない、それはむしろ毒々しい嘲笑であった。そして彼はどこへ行っても、自分自らのこの上もなく貧しい事と、何物とも馴染なじみ得ない孤独とを感じた。
 帰郷して五日目の朝、彼は初めて裏門を出て、そこに遠くひらけている豊かな耕原を眺めた。
 夏の真紅な日光があらゆる物の上に煌々こうこうと光っていた。彼の目にそれが痛く感じられるほどであった。遠い左手に当って大きな桃林があった。その林の上では薄緑色の陽炎かげろうはっきりと認められた。右手には美しく光る青田が限りもなく続いていた。他の方面に、そこにはキャベツ畑の鮮明な縞があった。近い南瓜畑かぼちゃばたけでは熊蜂のうなる音がぶんぶん聞えていた。高く葦を組んでそれにからみ附かせた豌豆えんどうの数列には、蝶々の形をした淡紅色の愛らしい花が一ぱいに咲いていた。農夫とその女房達やが、そこここに俯向うつむいて何か仕事をしていた。とは云え、これ等は何も決して物珍らしい景色というのでもなかった。ことにこれは、彼にとってはこれまでに飽きるほども眺めかえされて、……と云うよりはむしろ、あまりに親しいがままにかつてはことさらに眺めるという事さえなかったほどのものであった。それだのに彼は今ここに立って、云うばかりない清新の感にうたれて子供のようによろこばしくなって来た。それがために、自分の現在のさま/″\の事も何もかも一遍にどこかへ消えて行ったかとさえ彼には思われたほどであった。
 彼は、畑と畑との間を辿たどって進んだ。河骨こうほねなどの咲いている小流れへ出た。それに添うて三四町行くと、そこに巾の狭い木橋がかかっていた。そこからほど遠からぬところに、さほど広くもないが年中びしょびしょしている一つの荒地のあった事を思い出したので、彼はそれを目あてに歩いて行った。その場所は、今はだいぶすでに開墾されて立派な畑地になっていた。それでも残余の部分には、一面に雑草が繁り合い、所々に短かい葦などが生えていたりして、どこかにまだ昔の面影が忍ばれた。赤のまんまや、金ぽうげなどが昔のまゝに多くそこに認められた。
 彼は、そこに大きな柳の樹が一本あった事を忘れる事ができなかった。が、それはもう見られなかった。その柳の樹には、彼が幼年時代のもっともあざやかな思い出の一つが宿されていた。それは、歳月とともに次第に薄らぎ滅びてゆく過去の多くの記憶の中に、それのみは独ります/\生々と光を増して来るような種類のものであった。
 ――彼は、まだ九歳か十歳であった。春の日のある暮れ方二三の遊び友達と遊んだあとで何かつまらない落し物を探していた。その時はそこに自分一人だけであった。と、ふとしたおりに、彼はその大きな柳の樹の根元の草叢くさむらの中に雲雀ひばりの巣を見つけ出したのであった。彼は躍り上るようにして喜んだ。どうしようと云う訳もないのだが、たゞむしょうと嬉しくて胸がいたずらにどきどきするのを覚えた。藁屑や、鶏の胸毛や(人間の女の毛なども混じっていた)で巧妙に造られたその巣の中には、灰色の小さな卵が、三個まで数えられたのであった。親鳥が自分の頭の上でしきりに鳴いていた。それに気がつくと彼は、つとそこから離れた。それは、この巣の主が、この乱暴者のために自分の巣をうかがわれている事を知って、それをひどおそろしがってその日から巣も卵も捨ててどこかへ逃げてしまいはしないかと思ったからであった。そして彼は、
「まるでうまい工合に深く草の中に隠れていやがる。これでは誰の目にも決して入りはしない。」こう囁いて、その日はそのまま家へ帰って来た。明くる朝、そっとそこをみまってみると、急に巣の中から親鳥が一羽飛んで出た。
「あ、母親だ。」彼はこう云った。そして「卵を温めていたんだな!」と思った。毎日同じようにしてその巣を覗きに行った。
 彼の背丈せいを埋めそうに麦が伸びて、青い穂が針のようにちかちかと光っていた。菜の花が放つ生温い香気が、彼をせ返らせそうにした。
 五日目の午後、学校から帰ってすぐにそこへ駈けつけた時、彼はとうとう、昨日までの三個の卵の代りに、飛び立つ事ができないでしきりに鳴いている三羽の小さな雛を見た。彼は、あまりの嬉しさに両の目から涙が流れ出たほどであった。手で触ってみると、赤々した肌が柔かくて暖かった。
 彼はそれを籠の中へ入れて育てた。水といろいろの食物とを与えた。青菜を擦ってこしらえた食物を彼等は一等お甘味いしそうにして食べた。彼が指先へそれを着けて籠の中へ突込むと、腕白わんぱくそうな大きな眼を見開いて、黄色いふちのある三角の口を大きく開けて、争うてそれを食べるのであった。
 ところが、一週間と経たないうちに、お尻の所がいちように青くふくれ出して、腐れ出して、とうとう三羽とも可哀相にころりと倒れてしまった。
 下男の敬作(そうそう、あの頃はそういう名の男が居たっけ。)は、
ふんづまりでさ」と事も無げに云った。彼は、自分の無分別のために飛んだ気の毒な事をしてしまったものだと、心から悲しく思った。……そこで、彼は、その三つの死骸を一つの彩色のしてある玩具箱の中へ入れて、例の大きな柳の樹の根元へ持って行って、丁寧に葬ってやった。――
 庸介は、そこの赤楊はんの木の根に尻もちをついて、われにもなく、恍惚こうこつとして遠い昔に思をせているのであった。彼の足もとのあたりには、小さな赤蟻の群が頻りに何か忙しそうに活動していた。彼のうつろな目は見るともなしにそれに見入っていた。
「あら、兄さん。まあ、そんな所で何をしていたの?」
 急に、つい近くで、こう呼びかける房子の透き通った声がした。びっくりして目を上げると彼がさっき渡って来た小流れの方から房子と律子とがけ出して来るのが見えた。二人とも、海水浴をする時のような、つばの広い麦藁帽をかぶっていた。そして妹の方は長い竹の先端へ小さな網を結び附けたものを持ち、姪の方は、絵模様の附いた玩具のバケツをさげているのであった。
 房子は、庸介のそばへ来ると、少し甘えた調子で、
「律子が、麦魚うるめを採ってくれってきかないんだもの。暑いから止しましょうって云ったら『日曜日くらいは妾と遊んでくれたっていいじゃないの』って泣き出すんですもの。」と、云った。
 そして今度は、律子の肩へ手をかけて、
「さっき泣き出したのはだあれ?」
 こう云って律子の顔を覗き込むようにしてにっこりした。
 庸介は、なんだか、自分が責められているような気がした。妹から、「あなたは何という不愛相な兄さんなんでしょう。妾になんかちっともかまってくれないのね。」とでも云われたような気がしたのであった。そこで彼は元気よく、
「どれ、僕が採って上げよう。ね。律子。」
 こう云って立ち上った。

     五

 房子は、自分自身を不幸ふしあわせであるとは思えなかった。とは云え、自分のしているどの一つ一つについて考えてみても、またそれらをみんな集めた自分の生活全体というものを考えてみても、どうしても「これで良いのだ。」という確信を持つ事ができなかった。そうかと云って、それをどうすれば良いのだかほかに何を初めたらばよいのだかを知らなかった。それがために彼女は、どんな場合にでも何かしらある同じ欝憂に出遇わない訳にはゆかなかった。それはきわめて幽かなものには相違なかったが、彼女の心ではとても測り知り得られないほど広い、大きな、――云わば、何もかも、世界中のあらゆる物をそれで包んでいるのではないかとさえ思われるようなものであった。それを思うと、彼女はいつも妙に退屈を感じた。何をしている時でも、すぐにその事が退屈になり出して来るのであった。
 それは、もう、長い長い以前からの事であった。
 女学校の三年級であった時、彼女は、ある書物の中にちょうど自分と同じような事を思うている一人の少女の事が書かれてあるのを読んだ。すると、その少女に対して、その叔父に当る、ある学識のある親切な人が、
「それは、……そうだ、(何か、こう、善い事をしたい。)こんなふうに考えてみるのだ。(何か、こう、有益な事をしたい。)こんなに思うてみることだ。……」
 こんな工合に答えていた。
 房子は、それは恐らく真理なのだ、と思うた。しかし、それを直接わが身の現在の境遇に引移して考えてみると、まるで大空を眺め上げるようで何のあても見出せないのであった。また、ある時、学校の倫理の教室で、あの温良な、年老いた先生は次のように云われた事があった。
「人間はいかなる場合に立到っても決して迷う事をしてはいけません。絶望するという事があってはいけません。常に『限りなき前途』という事を考えるのです。――否、そう云ってはかえって解らなくなるかも知れません。まあ、こう云いましょう。あなた方一人々々について考えてごらんなさい。――例えば将来に、立派な人の妻になる時の事を考えるのです。そう願うのです。もしまた、不幸にして自分の夫となった人がよこしまな人間である事を見出した場合には、自分の純白な心をもって、それを何とかして正しい道に導き入れてやろうと思うてみるのです。そういう風にして立派な勇気を養うのです。……それから、やがて二人の間に生れて来る自分達の子供の事について考えてごらんなさい。さて、その子供というものはまあ、何と云ったら良いのでしょう、それは、どんな子供でもかた一つでどんな立派な人間にならないとも限らないのです。……この点です。もしも、万一、あなた方が自分自身に望みを失うような事があった場合か、もしくは本当に美しい謙遜な心になり得た場合にはこの偉大なる望みと結び附くことです。私があなた方にお勧めしたいのは実にこの事です。そういうと、何かあなた方に対して失礼なようではありますが、自分自身が偉くなろうと思うよりは、むしろ、皆様女の方は、自分の子供を偉いものにしたいと云う事を志して頂きたいのです。……できるだけ多くの女の方が、……そこにこそ本当の『限りなき前途』があるのです。……もちろん、それがためには自分自身をも修養しなければなりません。されば、どうぞあなた方は自分の処女時代をその修養のために、そうです。立派な母となる準備のために費すようにして頂きたいと思うのです。……とにかく、……いずれにしても、いかなる場合に立到っても前途の望みを捨てるような事のないように、これだけは特によく記憶して置いて頂きたいのです。それでは、私は、『あらゆる罪悪は、まったき絶望よりのみ生ず。』こう申して置きましょう。」
 房子は、これをいつまでも忘れなかった。その後、幾度となくその言葉を自分の心の中で繰り返してみた。そのたびごとに彼女はそれに少しも不同意を持ち得なかった。それにもかかわらず、例の測り難き欝憂と退屈とは依然として消え去りはしなかった。この問題はまた父の前にも持ち出された。父は、娘の云う事を静かに聞き終ると、その最後のところへ封でもしてやるかのように、厳重な語調をもって、しかもいかにも慈愛の籠った声で、
「房子や、お前には何の不足しているところはないのだよ。たゞ、少しばかり身体が弱いだけだ。これとて気遣う事などは少しもない。これからは私達の側で、できるだけ身体を動かすような事をして、できるだけ日光に当るような工風くふうをして、そしてもう少し丈夫になってくれさえすればよいのだ。それですっかり良くなるのだよ。ね、房子や。そのほかの事は何もかも私達にまかせて置きさえすれば良いのだから。」こう云うのであった。
 父は、彼女に、屋敷続きになっている一つの畑を与えた。それへ数種の果樹を植えてやった。いちごの苗を買ってやった。草花の種子や球根やをいろいろ遠い所からわざわざ取り寄せてやった。くわや、鎌や、バケツや、水桶や、如露じょろや、そう云ったものを一式揃えて持たせた。……間もなく彼女はこの仕事(?)にかなり深い興味と趣味とを感じて来た。うっかりしているとすぐにおびただしく繁殖する、果樹につく天狗虫てんぐむし、赤虫、綿虫や、それから薔薇や他の草花やの茎にとかくつきたがる油虫やのたぐいを見つけ次第に一一除り去ってやった。それは、良い果実を収穫し、良い花を咲かせたいという考よりもむしろ、それ等の木や草やをいたわり愛する情のためからであった。房子は、今、朝顔の鉢を幾つとなく持っていた。竹やよしを綺麗に組み合わせて小さな小屋形のものを作り、それに朝顔を一ぱいにからませたりしてあるのも、その園内に持っていた。
 ある日の暮れ方、房子が、たすきがけになってそれ等の草木に一生懸命になって水を与えているところへ、庸介がやって来た。彼は、仕事の済むまで妹の邪魔をしまいと思って、入口の所で黙って立っていた。すると、すぐに房子がそれを見つけて、嬉しそうにけ出して来て兄を中へ案内した。青々としたすべての葉が、今そそぎかけられた水のためにいっそう生々と光沢を添えて、見るからに健康そうで幸福そうであった。煌々きらきらと光る露のダイヤモンドが、方々でかすかな音を立ててしきりにしたたっていた。
 二人は、その園の一隈にあるベンチの上へ並んで腰をおろした。
 庸介は非常に爽やかな気持ちになって来た。それと同時に、妹の房子がこれまでになく可愛らしく感じられて来た。彼女は、その辺にある、まだ花を附けない二三の草花について説明をした。それから、どうしたのだか、そのベンチのすぐ側の所に植えられてある、咲き揃うているスウィート・ピーの花にじっと見入りながら黙り込んでしまった。兄は、妹のそのようすに気がつくと、「このような、可憐いたいけな少女の心にも何かなやみと云ったようなものがあり得るものだろうか。」と思った。「もしも、実際にそんなものがあるのだとすれば俺の力で何とかそれを今すぐに除き去ってやりたいものだ。」心の中で静かにこう云った。しかし、彼は、そんな事は素振りにも見せずに、
「何て綺麗なんだろう。そして、まあ、何て可愛らしいんだろうね。この赤い花は!」
 うぶ毛の生えている妹の白い手をらぬばかりにして、こう云った。
 こう云われて房子ははっとした。そしてものうげに、とは云えいかにも懐かしげに、
「え。わたしはこの花が大変に好きなんですのよ。」と、云った。
 彼女は、先刻から、いつか一度は試してそれに対する兄の意見をいてみようと思っていた例の自分の唯一の問題についてしきりに考えていたのであった。兄さんこそは本当に自分の心に納得なっとくできるような答をしてくれる人だと、ずーっと以前からそう思うていたのであった。兄さんは、何と云っても自分の知っているすべての中での一番立派な思想家なんだ、とは彼女の堅く信じている所であった。それに兄さんは誰よりも今の若い人達の心をよく知っている。そして事実、東京で若い多くの女のお友達もおありの事であったろうし……こんなふうにも思うているのであった。――いつか云い出そう、云い出そうと思いながら、いつも良い機会を見出せないでいたのを、今こそはもっとも良い時だと、先刻、最初に兄の顔をちらと見た時にすぐにそう思ったのであった。
 幾度か口の中でためらった揚句あげく
わたしほど不用な人間は一人もありませんわ。……妾は自分が哀れで堪まりません。……妾は何をしたら一番善いのでしょうね。兄さん。どうぞ、それを教えて下さい。いゝえ。兄さんはきっとそれを知っていらっしゃいます。」
 はずかしさのために顔を真赤にして、両の眼には涙さえ浮べながらやっとこれだけを云う事ができた。しかし、彼女自身は自分が今、何を云ったのだかよくは解らなかった。庸介は今度は本当に妹の手に触れた。それを自分の両方の手の間へしっかり握りしめながら、少しの間をいた後、精一杯な爽快さを声に表わして、
「お前の云う事はみんな間違っている。ね、房子。今、お前の云ったような事は、それは、醜く生れついてそれでいつも退屈ばかりしている者の云う事だよ。……それだのに、お前のようにこんなに美しい可愛らしい人が、何でそんな事を云う事があろう。お前は、自分の美しい事ばかりを思うていればそれで良いのだ。一生涯。……それがお前のしなければならない一番善い事なのだ。……ね、房子。わかったかい。」
 こう云って、彼は[#「彼は」は底本では「彼に」]妹の手に接吻を与えてやった。
 房子には、自分がからかわれているように思えた、しかしそれがまた、何だか馬鹿に嬉しいようでもあった。そして兄のこの一言のために、不思議にも今まで自分に附き纒うていたいとわしい影が一時に跡もなく消えて行ったように思われた。……永遠に。何だか笑い出したくなって来た。じーっとそれを口の中でこらえていても、次第に、それはどうしても堪えきれなくなって来た。彼女はとうとう真赤になってふき出してしまった。

     六

 郵便の配達は、日に二回ずつしかなかった。午前の十時頃と、午後の三時頃と、この時刻になると、彼はいつもうろうろと玄関のあたりを行ったり来たりして少しも落ち着いてはいられなかった。それは、はたの人達の目にもそれと気がつくほどであった。配達夫が門の中へ入って来ると、きまって彼がそれを受取りに出た。そのくせ、その中に自分の分があってもすぐにそこで開いて見るような事は決してせず、その場は妙に済まし切った顔附をして一まず自分のふところの中へ納めてしまうのである。そして、どうかするとそのまま自分の部屋へ引込んで、そこから長い間出て来なかったりする事があった。
 この事を、彼の母はひどく気にした。息子に何か自分達の知らない秘密でもあって、そしてそれは自分達には打明けられないような種類の事で、それがために一人で思い悩んでいるのに相違ないと思うた。それに対して房子は、
「そんな事ではないと思うわ。……兄さんには、お友達から来る手紙が何よりの楽みなんですよ。それで、それが待ち遠でならないんでしょう。きっと。……だから、兄さんの方からもよく手紙をお出しになることよ。」
 事もなげに、こんなふうに云うのであった。
 母は、また、東京に「おんな」でもあるのではないか、とも思うのであった。しかし、そんな事はもちろん自分の胸だけのはなしで、口に出して云うような事は誰にもしなかった。それから、もう一つ、彼女が庸介について不審にも思い、かつははがゆく不満でならなかったのは、彼が、もうそろそろ何か、例えば読書のような事なり、またその他の何なりをやり出してもいいのだ。という事であった。この第二の事では、彼の父もまたまったく同感であった。しかし、今はまだ、そんな事を彼に云う時ではないと思うていた。
 ある日、庸介が自分の部屋の涼しい縁側の所へとうで組んだ寝椅子を持ち出して、その上で午睡に陥っていた時、郵便配達夫が一枚の端書はがきを玄関の中へ投げ込んで行った。房子がそれを受取った。それは庸介へあてたので差出人の名前の代りに、兄が下宿していた旅舎の商用のゴム印がされてあった。こういう種類のものは彼女自身にはちょっと珍らしく、またちょっと異様にも感じられたので、裏を反えして読むともなく二三行目を通してみた。と、急に彼女は、何か怖い物をでも見たように、はっと驚いて目を他に転じた。が、次ぎの瞬間に、今度は非常に熱心に、一字一字丁寧に読んで行った。それには次のような意味の事が書かれてあった。「いつもながら、不得要領なお返事ばかりで当方の迷惑は一通りではない。こちらをつ時にはあれほど堅い約束をして置きながら何と云うことだ。もし一両日が間に御送金なくばもはやあなたとははなしはしない。例の証文の件を親御の方へ照会して処決して貰うようにするから。左様承知ありたい。草々頓首。」多分に憤りの調子を含んだ条文で細かく書き続けられてあった。
 房子は三度目に読み返して行った時に、もう堪えられないような気がして来た。何ぼ何だって、これは何という乱暴な物の書き方だ! と思った。誰かが彼女自身の面前で、彼女自身を厳しく責めつけ、はずかしめているように感じた。胸の動悸がおのずから高まって来た。顔色が蒼く変り、手がふるえて来た。やがて両方の目へ涙さえ浮んで来るのであった。何はともあれ、お母さんにこの端書を見せねばならぬと彼女は思うた。そして一刻も早くこのいまわしい事件を根絶してしまわねばならぬと思うた。……しかしそんな事を自分勝手にやっては兄さんに悪るくはあるまいかとも思うた。咄嗟とっさの間にいろいろと迷うた。……と、今度はこの端書がここへ来るまでに多くの人の目にさらされた事を思うた。大勢の人がすでにこの事を知ったような気がされた。そして、むろん、さっきこれを配達して来たあの男もこれを読んだに相違ないと思った。――こうなっては、もう今は一刻も猶予ゆうよしていられる時でないと、深く決心して彼女は急いで母の居間へやって来た。そして黙ってその端書を母の前へつき出した。
 母は、それを受取って一通りずーっと目を通すと、何も云わずにそれを自分の針箱の中へ納めて、そのあとですぐにまた、針仕事に取りかかりそうにした。別に驚いた様子もなかった。まるで出入の呉服屋から来た端書を見た時くらいの表情しか見ることができなかった。
 房子は、母の心をはかりかねて、いかにも不安そうに、
「お母さん!」こう呼びかけた。
「はい。」
 母の声は、いつもに変るところなく少しの濁りもなかった。
「どうなるのですの?」
「そんなに気をもむ事なんかっとも無いんですよ。お前はもういいんだから、あっちへ行っておいで。」
「でも、わたし……。」
「どうしたの? お前、母さんがいいようにして上げるのだから、お前なんかが心配などするのではありませんよ。ね、房子。――それから、兄さんが目を覚ましたら此室ここへ来てくれるようにって云っておくれ。誰にも知れないように、そっと云うのですよ。」
 房子は、これでやっと安心して母のそばを離れた。
 庸介が、母の前へ坐った時、母はすぐに口を開いた。何の修飾するところもなく、きわめて直接に、
「お前は、何か至急にお金の入用な事がおありなのでしょう。……それはいくらあれば良いのだか云いなさい。」こう云うのであった。この簡潔な母の一言は彼を動かすに十分であった。そして、そこには何等の説明もなしに彼をしてたちまちに、
「八十円ほど……。」と答えしめるだけな恩愛の情がみなぎっていた。
「ほんとにそれだけで良いのかい。……あとでまた何か云い出したって、わたしはもう知りませんよ。それですっかりよくなるのだね、ほんとに?」
「はい。」
 こう、はっきりと答えた時に庸介の眼から涙がぽろりと落ちた。
 彼は、母の深い情を感ずるよりも、自分自身の臆病な、卑屈な心をつくづくはずかしく思うた。彼が今、しきりに督促にっている借財の口は都合三ツあって、それを片附けるには百弐拾円と少しなければならないのであった。「何で、それを正直に打明ける事ができないのだ! この場合になってかくのごとく限りなき母の愛情の前に坐っていながら、四拾や五拾の金額を少なく申出る事によって幾分なりともなお自分の面目なさを軽くしようなどとは実に何という見下げ果てた根性だ!」彼はこの時ほど自分自身に対してひどく憎悪の感を覚えた事は、これまでに一度もなかった。
 この事は、その後幾日も彼を責めた。
 家の中に息づまるような、厭な小暗さが加って来た。家の人達と彼との間に陰気な密雲がおおいかぶさったようになって、名前をもってたがいを呼び合うというような事が、何となくできにくいような心持ちが続いた。
 父の翻訳の方が忙しくなっていた。主にそんな事で彼は日を暮らした。それは維也納ウィーンのある博士が、ある医師会の席場に試みた、終焉しゅうえんに関しての講演の筆記であった。殆んどすべての終焉が生理的にまったく快感性のものである事を論じたので、きわめて興味深いものであった。それには、数えきれないほどさまざまな終焉の場合と、それについての饒多じょうたな実例とが挙げられてあった。中には、高い崖の上から落下して長い間気絶していた人や、溺死した人やのその人自身のくわしい実話などもあった。それ等の人々は、その後他人によって幸にして蘇生させられなかったならば正しくそのまゝ絶命してしまったに相違なかったものであった。……
 その博士は貴族であった。それにゲーテなどを愛読している人のようでもあった。云わんとしている事がきわめて微細な科学的なものであるにもかかわらず、その云いまわしは典雅荘重をきわめていた。時にゲーテの詩の数句が引かれてあったりした。
 彼は、明快を主とするのゆえをもって、口語体が一番良いと云った。それに対して彼の父はあくまでも漢文口調の文体を主張した。そんな事から議論に花が咲いて、しまいには全然それ等の事から離れたさまざまな問題にまで移り移ってゆくのをまぬかれなかった。

     七

 老医師の云う所は、哲学というよりは当然それは処世術とも呼ばるべき種類のものに限られていた。彼は常に(欲望の節度、明らかな教養、気高い心ばえ)こうならべて云うのであった。そしてそれについて、その場合々々に応じてそれぞれ適当な説明を附けて行った。
「むやみに快楽を追おうとする所にいっさいの紛雑が生ずるのだ。あせればあせるほど、藻掻けば[#「藻掻けば」は底本では「薄掻けば」]藻掻くほどすべてが粗笨そほんに傾き、ますます空虚となってゆくばかりだ。そうではないか。むしろ、常に我々をめぐりややともすれば我々に襲い掛ろうとしている所の数知れない痛苦と心配とから離脱しようという事をねがうべきだ。すべてのしき雲のはらわれた後にこそ誠に『晴やかな平和、ゆるぎなき心の静けさがある。』のではあるまいか。」
「絶えざる修養によって迷を去らねばならぬ。そしてもっとも正しい生活に入る事を思わねばならぬ。そうすれば不安や恐れが無くなるのであろう。間違がないという事より強い事はない。泰然として他の何物からもわずらわされるという事がなくなるであろう。」
「それからまた、我々は高尚にならねばならぬ。ほろび易き形や物に淡くなり、永く続くであろうところの心と美とは濃くなってゆく事が必要である。こういう風にして初めて限りもなく都合の良い友情とか善意とかいうものが広く成り立つのである。そうなれば、自分一個人だけではなく、我々の住んでいる社会全体がいかにもなめらかにとどこおりなく愉快なものとなるであろう。」
 また、老医師はいうたであろう。
「決して一人という事を思うべきでない。人間はそれを取囲む雰囲気が必要である。それだから各人が「自分だけの都合、勝手という考からできるだけ慎み合わなければいけない。そしてめいめいが、できるだけ、悪るい影、悪るい臭気、悪るい響、こういうものを自分から発せしめないように努むべきである。そうではないか。」
 これらの事は、みんないつも順序がきちんと定まっていて何の渋滞もなかった。老医師の口から、ちょうど滑らかな物の上を水の玉が徐々にべり落ちでもするかのようにいかにも流暢りゅうちょうに流れ出るのであった。そして、そのように喋舌しゃべるという事、その事がすでに彼自身には何とも云えず愉快に感じられるらしくあった。
 それに反して、庸介には、自分の考えてる事に一ツとしてこれと纒った形をしたものが無かった。それでいて、自分の面前でこんなふうに云い出されると黙っている訳にはいかなかった。父の云っている事は一から十までみんな反対しないではいられない事ばかりのように感じられた。それに、何よりもその悠揚ゆうようとした話しぶりが彼には堪え得られないものに思われた。彼には、すべての真理というものがこんな風に流暢に語り得らるべき性質のものでないようにさえ思われた。こういう時には、彼はやや激して、鋭く叫び出すのが常であった。
「あなたのおっしゃるようでは、それではまるで日向ひなたぼっこです。……生きながらにして美しい笑顔をしたミイラにでもなれ、という事と同じです。そんな事が我々にできましょうか。……第一、退屈で我慢ができないでしょう。しまいにはその退屈のために世界中が窒息して亡びて仕舞うかも知れません。……」
 彼の言葉は、すぐにぽつりと切れてしまう。そしてそれに続かる言葉が、もういくら探しても、おそらくは全宇宙に一つもないように思われた。
おのれの自我が無いところに全実在が何でありましょう。」
「たった『一日』しか願わない人間があったとしましたら……。」
「そうです。二度と帰って来ない決心で進んで行くとします。――一ツのらちを破り、また他の埒を越え、こうして限りなく突撃し、拡大してゆくとします、そういう事をする性質をおのずからそなえた者があったとしたらどうしましょう。封じる事を厳しくすればするほど、抑える事を重くすればするほど、いよいよ爆発するような事があったとしたら?」
「みんなといっしょに居る事に堪えないような人があったとしたら、そしてその人はみんなの中に混り込んでいればいるほど悲しく淋しくなって来て、どうしてもそれに堪え得られないとしましたら……。」
とうとき憤り!」
「際涯なき自由!」
 彼は、ついに、一つの句さえ満足に云えないようになって行くのであった。そして自分の云っている事が自分ながらあまりに乱暴で、粗雑で、あまりに空元気のような気がしてならなかった。
 老医師は、おいおいと、自分の息子があまりに激越してゆくさまをあわれに感じ出すのであった。そしていつの間にか、話題を巧みに他に滑らし行くのであった。
 庸介は、これらの議論の後に心の中で、静かに、
「いつか、俺の考をちゃんと纒めて書いてみよう。」こんなふうに云う事もあった。しかし、筆を執ってみると、各の思想と、各の思想との間には常に千万のへだたりや矛盾やがあるように思われたり、言葉と言葉とがおたがいに相続き合う事を妙にこばみでもしているように感じられたりしていつも五行と書き進める事ができなかった。やがてその原稿を引裂いて投げ捨ててしまうのであった。
 時にはまた、父は静かな調子で「家」の事を庸介に話して聞かせた。
 この家では、いまだに相続する人が定っていなかった。というのは、長男の豊夫というのが今から十年ほど前に家出をして、そのまま今に、帰って来る事やら帰って来ないものやらそれさえ明らかでないのであった。彼は事業熱のために家の金を持ち出して、それで東北地方へ行って林檎園を企てようとしたがうまく行かず、それから山林、牧畜などにも手を附けようとしたがいずれも物にはならず、ついに北亜米利加アメリカへ渡って労働に従事した。それからが六年ほどになる。それでやはり面白い事もないらしい。最近に次男の修二のところへ来た手紙には、「……さて、愚生には当分帰国出来そうにもない。一生をこの地で過すやも知れないから、愚生の事はこの世になきものと思って後の事はくれぐれもよろしくお願いする。いずれ土産でもできたら一度みんなにお目にかかりに行こう。何分にも遺憾至極なのは今もって父母に御報恩相叶あいかなわない一事だ。貴下にはできる限り御孝養のほど御願い申上げる。……愚兄より」こんな意味の事が書き記されてあった。
 次男の修二は、はやくから実業に志し、これは万事好都合に運んで、今は神戸の街にかなりの店を開いてそこの主人として相当に活動している。こんな訳で今更ら、こんな所へ来てこんな家の相続をするなどは思いも寄らぬ事であった。その次ぎがこの庸介であるが、この問題はそこまで行く前に律子の上に向けられた。彼女は豊夫が、家出をする一年前に持った唯一の子供であったので、それに養子婿をさせて……という事に親族会議でほぼ定められてあるのであった。
「養子と云ったところで、立派な教育のしてある者は、なかなか、手離そうという親もなし、それに本人にしても、そんな事はあまり望むものでもなしさ。……それだから、性質の良さそうなものを今のうち貰い受けて、こっちの手で教育しようかと思うているのだよ。……この隣り村に一人気に入った子供があるのだが、両親が承知してくれれば良いがと思うているのだ。」こんなふうに云い出すのであった。
「やはり医者がよかろうと思うのだ。とにかく、こうしてこれまでやって来たのだし、このままあとを絶やすのも惜しいと思ってね。それに、そうなれば私もいっしょにやる人ができてどんなに好都合だか知れやしないしね。」
「は。」
「あの子も、来年はもう十三歳になるんだ。あと二年で女学校へ入るだろうし、それから四年するともう卒業するのだ。月日の経つのはほんとに早いものさ。そういうている内についそんな時がやって来るのだ。」
「は。」
 庸介は、父の考え方と自分の考とがひどく違っていることを思うた。ある時、彼は、
「養子なんてことは、大体があまり結構なものではありませんね。」こんな事を云った。
 こんな話しの出る席には、彼の母も加っているのが常であった。庸介のこの言葉は彼の母の心をぎゅっと荒らくつかんだ。彼女はすぐに、
「なぜだい。しかし、やむを得ない時にはね。」と云わないではいられなかった。
 続いて父が問うた。
「ほかに何か名案でもあるというのかい。」
「しかし、そんな不自然な事をしたって、結局、いたずらに複雑と面倒臭さとが殖えるばかりじゃありませんか。」庸介は何の気もなくこんなふうに答えるのであった。
「と云って、この先、それではこの家はどうなって行くのだい。」父が重ねて問うた。
「その時には、またその時にする事があるでしょう。」
「と、いうと?」
「さあ。」
 黙って考に沈んでいた母が、この時、悲しそうな顔をして、
「つまり、お前のような事を云えば、この屋敷はしまいには畑になって行ってもかまわないと云うようなものではないかね。」と云った。
「そうかも知れませんね。……しかし、どんな事があろうとも、あなた方の生きておいでの間はそんな事をしない方がいいでしょう。」
「馬鹿な! 誰がそんな事をするものか。」父は云った。
「何だか、わたし、いやだね。」母が云った。
「庸介の云うようでは、まるで無責任きわまった話しだ。まったくさ。先祖代々の屋敷を畑にして良い位なら、何で私達がこれまでこんな苦労をして来たであろう。」たまりかねたようにして父が云った。
「しかし、私共がまたどこかで新らしい先祖となって行ったら、それで同じことではありませんか。――私などの考ではこういう事はできるだけ自由な、どうでもいいような気持ちでいられるのが一番幸福だと思うんですがね。」
「あゝ、厭だ。もう、そんな話しはしにしよう。……そんな事を考えるとほんとに心細くなってしようがないから。……だから妾はいつもそう思っているんですよ。どうかして妾は誰よりも先きに死んでゆけばいいとね。……あとに一人ぼっちで残されたりしたら妾、ほんとにどうしよう。……」
 母が、こう云い出したので庸介は、自分が今何を云っているかという事に初めて気が附いた。「何という事だ。俺は実に何という馬鹿者なのだ。何の益にもならない、下らない事をしゃべり散らして、それがために父や母はどんなにか心をいためておいでの事だか……」こう思うて急に口をつぐんだ。自分の無分別がたまらなく口惜しかった。で、彼は、まるでお詫びでも申上げるように、
「お母さん、これはみんな、いつもの私の出鱈目でたらめなんですよ……馬鹿な、そんな事を云い出しっこはなしにしましょう。ね、みんなじょうだんなんですよ。……それに私のような者が何を云ったって、どうなるもんでもありゃしないじゃありませんか。」と云った。
 何もかもこの一言で、今まで云った事をすっかりけむりにして掻き消したいものだと願った。

     八

 太陽が地平線へ沈んだあとのしばしが間の野のながめ、その美しさ、その静けさはまた何にたとえよう。……畑中の並木が紫に烟り、昼間は藍色あいいろに見えていた遠くの山々が、今は夕栄ゆうばえの光りを受けてほとんど淡紅色と云い得るまでに淡く薄い色になってゆく。まるで(色づけられた気体)と云ったように……あたり一面に低く白い雲が下りて来る。野の末は次第に空と溶け合い、そしてそこからやがて静かな重い夜が迫って来る。するとそれを待ちかねていたかのように村々の寺からつき出す鐘の音が、一時に長く鳴り出す。平安の夕べを讃美するように、またこの平安の耕原を祝福するかのように、あとを曳いて遠く物静かに響きわたる。……
「俺は、もう何にも云うまい。」こう、庸介は心に深くきめた。
「俺が、彼等に何をしてやる事ができるのだ、彼等は俺に何も望んでいるのではない。そしてまた、自分から云ってみても、彼等をみだりに乱したりする必要が何であろう。……飛ぶ鳥をして飛ぶ鳥の歌を唄わしめるがいい、野の草をして野の花を咲かしめるがいいのだ。何者がそれを妨げたり、それに手入を加えたりする事がいろう。……俺が今、どのような思想を持ち、どのような人生観を抱いていたからと云って、それはみんな俺一人のことだ。むろん、俺はそれを何者からも自由にさして置いて貰いたい。その代り、俺もまた、俺の思想、人生観のために他人をとやこうしようとはしまい。通じ合い、融け合うものなら、おのずからにして通じ、おのずからにして融け合うであろう。我々はそれを待つほかないのだ。そうだ。自分が偉大になり、自分が成就じょうじゅするのゆえをもって他を騒がし、他をそこねたくはないものだ。――例えば善悪のような場合にしても、悪を滅さなければ善がなり立たないように考えるのは誤ではあるまいか。善の生長、善の存立のためにあながちに悪を圧し、悪と戦わねばならぬような善なら、そんな善なら俺は賛成できない。……泥海の底で、真珠が自分の光を放っていたってそれでもいい訳ではないか。」こう思うのであった。
 その日は、初秋の風が朝から家のぐるりをさらさらと廻っていた。家の前の大きな竹林が、ちょうど、寄せてはかえす海の波のような音を立ててざわめいていた。何となく遠い事がそこはかとなく忍び出されるような夜であった。この六年の間、いろいろに結びつき、また離れ合った彼、彼女、彼等、彼女等――都恋しい思いがたまらなく彼の胸に迫って来るのであった。
 彼は押入れの戸をあけて、一本の葡萄酒ぶどうしゅの瓶をとり出した。そして、それを台のついた小さなグラスに汲んでちびりちびりとやり初めた。よいが快く廻って行った。
 母屋おもやの方はもうすっかり燈火あかりが消えて、家の人達は誰もかも深い睡りに入っていた。屋外には冷やかな夜が、空にきらめく数限りもない星々を静かにはぐくんでいた。
「何という淋しい酔であろう。」
 と、彼は口に出して自分自身に云った。しかし、何故かもっと深く酔って行ってみたかった。そこで、彼は再び立ち上って戸棚の中から、今度はウイスキーの四角な瓶をとり出して来た。さかなは? と思ったが何もあるはずがないので、机の上に置いてあった干葡萄の皿を引きよせて、それをつまんでぽつりぽつりやり出した。
 おいおいに目がちらついて来た。ランプの光線の赤いのが、たちまちにいっそう際立って来たように感じた。障子の桟が不規則にかすかに揺ぎ出した。これ等はすべて彼には愉快であった。……と彼の目の前に女の顔が一つぷいと浮び出して来た。「房子だ。」と思う、とすぐにまたぷいと消えて行った。と思うとまた現われて来た。「おや、お志保だ。」かと思う間に今度はそれが母の顔に変った。そんな事を幾度か繰り返した。と、最後に現れたお志保の顔が、彼の目をじーっと視詰みつめてにっこり笑った。それを見ると、庸介もおもわず同じようににっこりとした。そして、
「十七だというが、年の割には大人だ。――いや、あれはまだ子供だ。おそらくは何にも知っていはしない。」こんな事を囁いた。
 目をつぶって、もう一度お志保の顔を求めた。が、どうしてもそれはもはや見られなかった。グラスを取り上げて一杯のみほして、びりびりする唇をぷーっと吹いた。
「否、俺は遠からず上京するであろう。そしてそれっきり、再びこの土地へは帰って来ないかも知れない。そうだとも、俺は遠からずこの地を出発とう。数週ののち、しからざれば数カ月の後、……そして今度こそは本当に勇敢に餓死と戦うのだ。……万物はみんなそうしているのだ。」かう云って、また盃を重ねて行った。……
 夜のしらしらと明ける頃になって、ふと目を覚ました彼は蒲団ものべずに着物を着たままそこに酔いつぶれていた自分を見出した。ウイスキーの瓶が空になって転がっていた。机の上には、けっぱなしにされていたランプが疲れ果てた、ぼやけた光をあたりに投げていた。酔は気持ちよく醒めかけていた。彼はあたりを取片附けて改めて床の中へ入った。
 と、つい先刻見た一つの夢がおぼろげに彼の頭に思い出されて来るのであった。
 ……はじめ、お志保がそこに坐っていた、何か自分に訴える事でもあるような、憂わしげな顔付をしていた。と、庸介の母がそこへやって来て、何か厳しく彼女を責め初めた。その調子は非常に熱してはいるが、ひどくあたりをはばかっているような所が認められた。母の口から時折彼の名前が呼ばれた……やがて、どうしたのか急にお志保はしくしくと泣き出した。と、それに続いて庸介の母も声を出して泣き伏した……
 その朝は、庸介はいつもと同じ時刻に起き出で、いつもと同じように家の人達といっしょに朝の食事をした。

     九

 川原地に繁っている尾花に穂が出た。それを遠くから眺めると、秋の白い光を受けてそれが雲母うんものように光った。銀色に、淡紅色に、薄紫色にいろいろになって波うった。
 十月のある晴れた朝、庸介は、すぐ家の前に近く見えているG山へ登ろうと思って家を出た。二里とは離れていなかった。それは、国境の山々がちょうどもう終ろうとして平原の中へ岬のように突き出している小山脈の一峰で、高さは云うほどの事もなかった。それに頂上まで大幅の立派な道がついていた。松や杉の林に富んだ、美しい愛らしい小山であった。その麓には温泉場などもあり、この地方の農民が春や秋の休み日に、よく三々五々打連れてわらびや栗を採りに登る山であった。
 彼はただ何という事もなしに、高い処から遠く眺めてみたいというような願から、ふと思いたったのであった。前の△△川を舟で渡って向う岸につくと、堤防に添うて一つの郡道へと出た。それはそこからかのG山の麓を目がけてそこへ一直線に導いてゆくような道であった。道の右、左には田や畑が限りもなく続いていた。穀物はすでにみのりきって、今にも刈り取られるのを待っているように見えた。田では早稲わせは刈り終られ、今や中手の刈り入れで百姓は忙しそうに見えた。田の中で鎌の刃を白くきらきらと光らしている人、刈り取られた稲を乾すためにくろの並木に懸けている人、それを運ぶ人――年寄も、若者も、女も子供もみんな一生懸命になって、まるで駈け歩くようにして働いている。一方には大豆、きびなどが収穫されつつあった。畑の中に長々と両足を投げ出して一休みしている人々もあった。太い煙管きせるすぱすぱけむりをふいている人などもあった。そうかと思うと、二町ほどもへだたった所から、まるで風のような荒い声で、何か面白そうにその老爺に話しかけている者などもあった。空には赤とんぼの群がちらちら飛んでいた。農夫等の仕事は、彼にはいかにも楽しそうに見られた。そこには適度の暖かさを持った日光と、爽やかな清新な外気とがある。健康な肉体がその中で、その右、左、前、後へと、いとも安々と動いている。いかにも滑らかに。何の滞りもなく。――それは決して労働と呼ぶ事ができないように思われた。と云うよりは、むしろそれは慰みであり、一種の遊び事ででもあるかのようにさえ見做みなされたのである。
 何事にわずらわされるという事もないだろう。むろんこの瞬間に何を憤り誰をうらみ、また誰から怨まれるという事があり得よう。そして一日の仕事を終った時には、疲れてまったくの無心になって空腹を感じて家路を急ぐのである。それは夕餉ゆうげと睡眠とだけしかない。そして夜が明けて目を覚ました時、再び昨日と同じように一家打揃うて野に出て来るであろう。……それだもの彼等にとって何で国家の考などが必要であろう。何の思想が必要であろう。庸介にはこんなふうにも思われるのであった。それを、
「百姓は土の奴隷だ。」などと云う者があるとすれば、それはまるで見方を違えているというものだ。それはまるで別の世界から覗いて云った言葉で、彼等農夫自身にとってそれが何の意味でもありやしない。こんなふうにも思われるのであった。
 山のいただきは岩になっていて、このあたりには木がまるっきり繁っていない、で、展望が非常によかった。△△川がすぐ目の下で白くうねうねと流れている。そこに白帆が列をなして幾つともなく通っている。橋の上をゆく人力車までが見える。今、通って来た耕原の中の人々がここから呼べば応じそうに近く見えた。遙か遠くに日本海が白く光って見えた。そこを航海している汽船や帆前船やが白い、黒い点となって見えた。そしてその向うには佐渡の山々が淡く浮いている。
 やや左手に独立した小山脈の一帯が青く見えてるほか、数十里という耕原はいささかの凸凹もない。たとえば、ちょうど、大海原のようである。そしてその黄色な稲の海の中に、村々の森、町々の白堊はくあがさながら数限りもなく点散している島嶼とうしょの群のようにも見られるのであった。
 彼は、ついこの三週ほど前に父の用のために、向うに青く見えているかの小山脈の麓にあるT村という所へ行った事があった。父の村からそこまでは八里ばかりもあろうか、が、汽車や汽船の便もないので人力車で乗り通した。みちみち注意してゆくと、半里に一村、二三里に一村と云った工合であった。この地方は一帯に非常に細かく耕し尽されているので、ほとんど一尺四方の遊ばせてある土地も見られないのである。云わば、地表がまったく少しの隙間もなく穀物と野菜と果樹とでおおわれていると云っても良いのである。それがために道にするだけの土地も惜まれ、はなはだしきは、田の中に挟まれた小部落のごときは道らしい道も通うて居らず、それで、急病人があって医者を招んでも医者が車で駆けつける訳にゆかないような所さえあるのである。
 一村に三四軒位ずつちょっとした地主がある。そして三ヶ村に一軒位の割で、とてつもなく大きな地主がある。こういう地主になると米を毎年七八千俵から、多いのになると三万俵も、それ以上も売るというのである。で、住宅なども四囲に際立きわだって宏壮なものである。多くはふるくからの家柄で、邸の内外には数百年の老樹が繁っているのを見受けるのである。現に、庸介の親戚にも千何百年も続いたという旧家が一軒ある。――それで是等の豪家の人達がどんな暮らしをしているかと云うに、たいていは、多くの番頭どもを相手に銭の勘定をしたり、家の普請ふしんをしたり、庭の手入をしたり、そんなきわめて泰平な事で一生涯を終ってしまうのである。そしてこの土地から一歩も離れてみた事もなく死んでしまうものも決してすくなくないのである。……小作人共は、収穫の分け前の事で年中何かと愚痴をこぼしているが、さて、それだと云ってそれをどうしようともしない。何か良い法案を携えて地主へ願い出ようという者も一人もない。そんな所から見ると、彼等はあながちに彼等の常に口にするほど窮境にいるのでもないらしい。……
 彼は遠く眺めやり、かついろいろと考えた。
 実に長い長い平穏と伝習との覚める事のない夢だ。一つの村、そしてその隣りの村々、町、町々、……五里、十里、二十里……、すべてその通りだ。見渡すかぎりはてしなく続くこの耕原の中には、濛々もうもうと吐き出すただ一本の煙突の形さえも見出されない。どこまでも澄み切って静かである。あゝ、伝習の静けさ、眠りの静けさ、実に堪えられぬ退屈だ。どこへ行っても、いかなる家を訪れても、そこには「新らしい企て」そんなものは噂にさえ聞くことができないではないか。「何事もなかれ、ただ静かに、ただ静かに。」こういう声が形なく天地にみなぎっているのだ。
 やがて、庸介は大きな息をして、大空を仰ぎ上げた。――これはまた、何という高さであろう。まあ、実に何という美しさであろう。何という事なしにこう、「際涯もなく」という感じがされるではないか。青く青く澄んで、何とも云えず明るい。
 足の下の谷々で鳴いている小鳥の声が、一つ一つ強く響き渡って、じーっと耳をすましていると、それ等の遠い近い数限りもない音のために耳の中が一ぱいになってゆく。
 庸介はこれらの清らかさ、静けさに酔わされてしばしの間恍惚こうこつとしていた。が、すぐにそのあとからある寂寥が徐々しずしずとして彼に襲いかかって来た。山の頂には、彼一人のほか誰の姿も見られなかった。彼の思いは、ほかの何者でもない自分自身の上に突き進んで行った。最初に彼は自分の貧弱と、それから漠としたある空虚とを感じた。そしてそれはついに最後まで変わる事なく続いて行ったところのものであった。
「俺というこの人間はいったい何なのだ。何をしているのだ。つて何をしたか。そしてこれから先、何をしようとしているのか。……」
「俺が今、この岩蔭に身を隠したとする、そうしたら誰がこの俺を探しに来る?……」
「ここで今、俺がピストルかなんかで胸を貫いて死んだとする。そうすればどうなるというのだ。……房子が泣くであろう。母と父とが泣くであろう。それが何日続くか。……そしてそれはいったい、何の為めに泣くのか……」
「いったい、この俺という存在に何の意味があるのだ。何を意味しているのだ。ほんとに、この俺という存在にどういう価値があるのだ。……全実在と俺とはどういう点で結びつけられているのだ。……俺でないところの大きな実在が、今、かくのごとく明らかに見えている。」
 こう云ったような事が、いろいろにもつれ合って繰り返えされて行った。
 やがて、彼の心が、かすかに、どこか底の方で叫び出した。
「俺は真にゼロにも劣っている、俺は無にも値しないであろう。」
 彼は泣きたくも泣き出されないような思いを抱きながら、黙然もくねんとして山を下りて来た。

     十

 何かよう。みんなが何かしらしている。何にもしないでいるのは自分だけだ。自分も何事をか企てねばならぬ。何事をか初めねばならぬ。今日、すぐ今からでもそれに取掛らなければならぬ。そうしないではいられないような心持ちが続いた。
「しかし、その前に俺は俺自身が何であるかを知らねばならぬ。そして俺に何ができるかを知らねばならぬ。そしてその後に傍目わきめもふらず突進しよう。」庸介はこう考えた。
「一生の仕事にとりかかるのだ! そんなに慌ててはいけない。前途を測るに当って、一通り過去を振り返ってみるのもあながちに無益なわざではないかも知れない。自分がこれまでに実際何をしたか、何をなし得たか、またどんな事の方へ主として傾いて行ったであろうかを明らかに思い起してみよう……そうだ。俺は今のこの静かな境遇を利用して自分の自叙伝を書いてみよう。あるいはその中に、自分の前途の暗示が見られないとも限らない。」
 で、彼は、その日から、できるだけ詳細に自分の過ぎし時代のさまざまな事柄に探り入る事につとめた。そして思い出すがままにそれを一々原稿紙に書きつけた。時代がいろいろに前後になった。彼は、最初はただ材料を集めるだけの考で、そんな事には関係なくどんどん仕事を運んで行った。一つの端緒から手繰たぐり手繰りしてゆくうちにそれからそれと五日間も書き続けてまだその項が終らないような事もあった。おのおのの項が終るごとにそれを一つに纒めて紙捻こよりで綴じた。三週間もたたないうちにその原稿は積もり積って三四百枚にもなっていた。うずたかいそのかさなりを眺めてみずから驚嘆した。む事なくなお熱心に続けて行った。
 だいぶ冷え冷えして来た。ある朝、真白ろに霜がおりた。村雨むらさめの時節がやって来た。雲が小暗おぐらく流れて来たかと思うと少しのこらえもなくすぐにばらばらと降りこぼれた。かと思うと跡かられて行った、秋の薄日が追うようにして間もなくはかないその光を投げてぱーっと現われ出たりした。雨が、まるで歩いているかと思われるようにして過ぎてゆくようであった。
 庸介の机の側には大きな火鉢が新たに据えられた。彼は疲れて来ると、静かに筆をいてそれに両手をかざした。
 こうした気候の変り目に、ちょっと不用意をしたために風邪をひいてある日とうとう床を起き出る事ができなかった。彼は寝ながら、これまで書いて来たたくさんの原稿の中からあれこれと引き出して読みかえしたりして一日を暮らした。その翌日も快くはならなかった。その日も前の日と同じような事をして寝ていた。が、しまいにはそれにもいて来た。何にもしたくなかった。で、原稿を枕元から押しやって静かに目をつぶった。
 とりとめもない事を小一時間も思いめぐらした後で、彼は小さな声で囁いた。
「俺もずいぶんといろいろな事をして来た。……ところで、どこと云って美しい部分というものが一つもない。」
 実際、彼には、自分や自分達のして来た事、なし得た事のすべてがあまりに醜かったように思われたのであった。よく「美しい少年時代のあこがれ!」と云うような事が云われているが、今、彼の心には自分の少年時代が決してそんな姿をしては映って来なかった。その頃を思い出せば何もかもがあまりに浅墓すぎ、あまりに分別が無さ過ぎ、あまりに意地っ張り過ぎていて、一つとして慙愧ざんきの種でないものはなかった。
「これから先もやはりこの通りであるかも知れない。……そして俺の一生は終ってしまうのだ。」
 こうも思われた。つまらない生存だと思った。つくづくと世の中が味気なく感じられた。幾度となく大きな溜息を洩らしたりしているうちに、淋しい冷たい涙がいつか彼の両方の眼に浮び出て来た。……
 健康は間もなく回復された。雨は高くれ上った。しかし彼は何かおびただしくがっかりしたようで、それからというものは仕事の方に少しも興が乗って来なかった。「何故にかく物淋しいあじきない世の中であるか。」そんな、とりとめもない思いが何日までも続いた。それでいて、どこか底の底の方では、「俺にはようく解かっている事があるのだ。……ただそれは口に出して云えないだけだ。」と云ったような一種もどかしいような一種くすぐったいような心持ちがおどんでいた。
「自分には、ほんとに思い思われるという仲になった人が一人も無かった。――この事は自分のこれまでの生涯にとって何よりもの大きな不足に相違ない。それが欠けていたばっかりに、俺のこれまでは無かったも同じようなものになって仕舞ったのだ、否、ほんとにそれよりも悪いのだ。……」
 自叙伝は、ほんの少し書き出されただけでほうってあった。あとを続けようとして机に向っても心はいつもあらぬ事にのみそれて行った。ある時、ほとんど二時間近くも一字も書かずにぼんやり考え込んでいたのち、とうとう次のような事を原稿紙に書き出していた自分を見出したのであった。
おゝ、うるわしき黄昏たそがれよ。
お前は、私に何をしようとしているのだ。
それでなくとも、長い長い
悩ましさのために、
疲れ果てている私の魂は、
どんな小さなかどわかしにも
従うだろうものを。
………………………………
 庸介は、自分の思いがいつからとはなしにお志保の方へ引き寄せられていたのを知っていた。それにしても、かほどまでに彼女の事が自分の心に深く喰い入っていようとは知らなかった。彼女に対してしようとしている自分のある企てが、かくまでしゅねく自分を掻き乱し、悩ましていようとは思わなかった。

     十一

 裏門に近い所に一つの粗末な小屋があった。そこへ藁がたくさんに入れられてあった。それからその一部分がちょっと片附いていて、そこへ、一年中ついぞ使う事のないような雑具がしまいこまれてあった。めったに用もないので常には家の人達からまるで見捨てられているような所であった。入口が横に附いていて、そこへ出入りするに、その姿を他人から見られまいとする位の事はきわめて容易であった。それにその裏手が、なしだの桃だのの苗木が植えつけられてあり、なおそれに続いて荒れた雑木林があって、そこには食べられる小さなきのこがあったりした。そんな工合で、その辺から誰かがひょっこり出て来たからとて、それは少しも可怪あやしく思われるような事もないのであった。
 庸介は、ずーっと前から、そこに深く心を寄せていた。
 入口の戸がいつも半開きのままに打ち捨てられてあった。彼は時々ここへそーっと一人で忍び込んで行った。昼間でもその中は薄暮のような光しか無かった。頭の上へおっかぶさるように藁束がうずたかく積み重ねられてあった。すかすかするような、それでいて馬鹿に甘ったるい乾藁のれる匂いがいつもむんむん籠っていた。屋外の苗木林で、木の葉がそよ風のためにひらひらと裏返えしにされるのや、やがて枯れてからからと散ってゆくさまやが、戸のすき間から覗かれた。
 彼は、小半時間もそこから出て来ないような事もあった。そして注意深くあたりのようすをうかがっていた。また、どうかすると、藁束に身をもたせかけたままいつか心持が重くなってついうとうと転寝うたたねの夢に入るような事さえもあった。それにもかかわらず、これまでについぞ一度、物に驚かされたという事も無ければ、近づいて来る人の足音さえも聞かなかった。
 彼は、そこから再び外へ出て来ると、いつも「まったく安全だ。」こう思わない事はなかった。
 彼女の心は、すでに十分になめされ、たわめられてあった。この上はただ、彼女に最後の暗示を与えさえすればよいのであった。……

     十二

 農家では夕飯がすむと多くは早くから寝床へもぐり込んだ。若い者どもだけは、煙草入れや尺八などを腰へさしこんでそーっと外へ出て行った。卑猥ひわいな雑談にふけったり、流行唄はやりうたを唄ったりして夜更けまで闇の中をあちこちとうろつき廻った。年頃の娘のいる家の裏口のあたりへ忍び寄って、泥棒ではないかと家の人達に怪しませたりする事もすくなくはなかった。庸介の家の女中部屋の裏でも時々そうした怪しい人影が出没した。夜廻りに行った人に驚いて、慌ててばたばたけ出したりする事もたびたびであった。家の人達は老医師はじめそれを快い事には思わぬながらも、長年馴れっこになっている事とてさして気にも掛けなかった。ところが、都会の学校生活を終って来たばかりの房子には、それがひどく気に入らなかった。何かにつけてそれを云い出した。
いやだわ! ほんとに。……わたしにはとても我慢ができない!」
 そしてそれを云う時にはいつも眉をしかめて、ほとんど泣き出しそうにした。
「ほんとにうるさいんでございますよ。昨夜なんかも終夜雨戸のそとでごとごとやっているんですもの。」こんな事を女中達が云う事があった。しかし、その口振りには何となくそれほど気にしているらしくもないので、それが房子にはひどく不審に思われた。
「どうかできないんですの?」
 こう彼女はよく父や母に訴えた。
 ある家では、乱暴にも女中部屋の窓を打ち破って闖入ちんにゅうした者があった。そこの家では、困り果てたので大きな犬を他家から貰って来て飼った。すると、一週間も経たぬうちにその犬は村の若い者どものために人知れず殺されてしまったとの事であった。こんな噂さが房子の耳にも入った、房子は歯を喰いしばって身をふるわした。顔色が蒼くなった。「……とても我慢ができるものか。こうなっては、もう一刻もそのままにさせて置くわけにゆかない。どんな方法をしても、……ピストルでも放すほかはない。……よろしいとも!」こんなふうに考えるほど激昂した。
「今日、これからすぐに駐在所へ誰かをやって下さい。そしてお巡査まわりさんに今晩からよく見廻りして貰うようにして下さい。」こう云って父親に迫った。
「そんな事を云ったって、こんな大きな村に巡査が一人しかいないのだから、とてもそんな事まで手が届くものではないよ。」と、父は笑いながら云った。
「いゝえ、そんな事ってありません。それじゃ、警察署へ云ってやって大勢応援して貰えばいいでしょう。」
「ところが、こんな事はこの村ばかりというのではないからね。どこもここも一帯にそうなんだから。」
「それだからと云って、そんな……そんな、」
「房子、そんなにお前のように心配したものでもないよ。家の者にはどんな事があっても手出しなんかしやしないのだから、召使いの者共にほんのちょいと調戯からかってみるだけなのだよ。」
「いゝえ、いゝえ、放って置くという法はありません。決して。……まったく許す事のできない悪い事です。それは泥棒よりも悪いんです。人殺しよりも悪うございます。そうですとも確かに。……人殺しよりも悪うございますとも。……世界中で一番悪るい事です。一人残らず縛り上げてしまうがいいのですわ。」
「そう一図にお前のように云い初めたって……。」
 両親は娘をなだめようとしたが、
「人殺しの方がどれほどましだか知れないわ、……こんな事を何ともできないくらいなら巡査なんか無い方がいいんだわ。ほんとに、……何といういまいましい、何という憎々しい……」
 房子はどうしても黙ってはいなかった。
 昼間はついうっかり忘れているが、夜になると、彼女はいつも深く部屋の中にとじこもって、そして烈しい憤りに心をいらいらさせていた。恐ろしい大蛇のような者から附けねらわれてでもいるかのように気味悪るがって、矢もたてもなく不安でたまらなかった。
「そんな者の手にほんのちょっとでも触られる位なら、その前に死んだ方がましだ!」こんなに思った。
 ……一人の大きな荒くれた男と悪戦苦闘を続けているような夢をよく見た。……短刀をもってとうとう敵者あいてを突き殺してその上になおも、黒い毛のもじゃもじゃ生えたその胸のあたりを飽くまでも切りつけていたような夢から覚めて、びっしょり身体中に流れている汗を拭うために起き出た事さえ一二度あった。
 房子は、とうとう庸介に迫って響察署へ匿名とくめいの手紙を書かせた。しかし、何日まで待っても、むろん何の甲斐もなかった。
 そのうちに何時か房子も馴れて来たのでか、次第に初めのような気のもみようもしなくなった。
 幾カ月か経った。
 ある夕の事、それは日が暮れて間もなくであった。家の裏手の方で、急に房子のけたたましい悲鳴が聞かれた。「それ、何事が起った!」というので時を移さず家の者は一人残らず履物を穿かずに飛び出して行った。
 人々はどんなにか吃驚びっくりした事であったろう。房子は、物干のところで、まるで死体のようになって地べたへっ倒れていた。慌てて水を吹きかけるやら、気つけを飲ませるやらしてようやくにして蘇生させた。家の中へ連れ込んで来てからも、房子は瞳をぶるぶるふるわして物を云う事さえできないようすであった。家の人達には、房子が何でそんな事になったのだか、ずーっと後までからなかった。何でも何か干物の入れ忘れていたのを急に思い出したので、もう日が暮れていたがすぐ二十足も歩けばよい所なので提灯ちょうちんを持たずにそれを取り入れに行くと、どこかの物蔭に隠れていた一人の若い者が急に忍び寄って来て、いきなり房子を抱き上げた。それでびっくりしたままに思わず大声あげて叫び出したのであった。がそのあとはどうなったのか彼女自身にもわからなかった。
 房子は、すぐに寝床の中に横にされたが、しばらくすると非常な大熱になった。氷嚢ひょうのうで、取換え取換え頭を冷してやった。いろいろ薬も飲ませたが、何もかも一向にその効目がなかった。現実の物の形や、響きや、それ等が彼女には何の交渉もなかった。そして、絶えず何か恐ろしい幻影に追い責められてでもいるらしく、それから逃れでもするようにしきりと身体をもがいた。両手でしっかり顔をおおい隠したり、また、時々訳のわからない事を云って悲鳴をあげた。静かな眠りは一時間と続くことがなかった。……身体は燃えるように熱かった。こんな事がちょうど三昼夜もつづいた。
 めずらしく彼女は静かにすやすやと眠っていた。そしてその後に目を開いた時に、初めて再び彼女は幻影の世界から帰って来た。
 房子は、そこに附き添っていてくれた兄の顔を懐しげにじっと見入った。そしてあどけないはじらいを帯びた微笑を口元に浮べて、
「兄さん!」と呼んだ。
 庸介は、ほっと安心した喜ばしい顔を妹の顔の上へつき出して、
「おや、房子、お目覚めなのかい?」と云った。そしてその額のところを軽く撫でてやった。
「何だか、……わたし大変だったわね。」と、晴やかに云って、それから「いったい、どうしたんでしたの?」と憂わしげに附け加えた。
 それにもかかわらず、兄は、
「それよりも、お母さんをすぐに呼んで来てあげよう。ね、すぐに来るから。」こう云ってそこを走り出た。
 父も、母も、一同が房子の枕元へ集って来た。房子が、やがて、
「もう、すっかり良いようよ。妾、大変にのどが乾いたから何か飲むものを少し頂戴な。」
 こんな事を云い出したので、みんなすっかり、っくりしてよろこんだ。病人がしきりに事のおこりを聞きたがるままに、母がそのあらましを話してやった。房子は熱心にそれに聞き入っていたが、急に、ひどくふさぎ出した。それからやや長い間何か深く考えこんでいるようすであったが、急に、いかにも絶望的な声をあげて泣き出したのであった。誰一人としてその意味がわからなかった。いたずらにまごまごして彼女の背中をさすってやったりするほかになすすべも知らなかった。
 幾日も房子の容態ははかばかしくなかった。彼女は、誰が何と云っても黙りこんで重くふさいでばかりいた。時々いかにも堪え兼ねたと云ったように、わあと急に泣き出したりするのであった。
 房子は、自分の身体の所々に痛みがあるように覚えた。それは、みんな「あの時」のが残っているのだと思った。そう思うと一切がそんなふうに意做おもいなされて行った。どの追想もどの追想もすべて「それ」を証明するに十分であるように思われた。庸介は彼女をかくまでひどく心痛させている根をすぐに了解できたので、妹の部屋へ行くたびに、
「そんな馬鹿な! 断じてそんな事はなかったのだよ。……僕が確に証明してやる。……お前が叫び声をあげた時と、僕がけつけて行った時との間には、三十秒とは経っていなかったのだから。」こう云って聞かせた。しかし、房子は、それを信じるよりも自分の思っている方を信ずるのが何層倍も真実らしく、かつ楽のような気がした。彼女の意識内には、次第にまどいが無くなってゆき、悲痛のみが間断なく、反対なく独占してゆくようになった。そして不思議にも今は、それの方がかえって彼女自身には安易で、どこか快いように思われてゆくのであった。仕舞には父の与える薬さえ嫌い出した。
身体からだの方はもう何ともないんだわ。それだのに何でこんな薬をいつまでも飲んでいなければならないというのだろう。」なんて云うようになった。「なんでも、妾を呆然ぼんやりにさせてしまって、それで『あの事』をすっかり妾から忘れさせてしまおうというんだわ。」と思った。
「そうとしても、これを飲むと馬鹿にねむくばかりなってしようがないんだもの。何か考えようとしてもどうしてもそれを長く続けていられないんだもの。何か思おうとしてもちっともうまく思う事ができやしない。こんな風だと、かえってだんだんわたしの頭が悪くなってゆくばかりだわ。……わたし、この上にまた、気でも狂うような事でもあったらどうしよう。それでなくてさえ、『あんな事』があった身だのに。……何という情ない事になったのだろう。」と云って、気をもんでは泣き出した。
 屋外には峻酷しゅんこくな冬が、日ごと夜ごと暴れ狂っていた。世界はすべて、いやが上にも降り積もる深雪の下にしつぶされて死んだようになっていた。
 ある夜、その夜も屋外はひどい吹雪ふぶきであった。ちょうど真夜中とも思われる頃、房子が彼女の部屋の中で急にけたたましい声で、
「……早く、早く、誰か起きて下さい。……それ! そこへ逃げて行く。」こんな事を呼び出した。
 隣りの部屋に寝ていた両親は驚いて、寝巻のままで走って行った。房子は土のような顔色をして、闇の中に怪しげにぼんやり立っていた。どうしたのかと聞いてみると、今、自分がふと目を覚ましてみると、自分の床の中に一人の男が入っていたのに気がついた、そしてそれはいつから入っていたのだか自分にもわからなかった。……自分が驚いて飛び起きるとその男は慌ててどこかへ逃げて行ってしまった。というのであった。そして彼女は、
「事によると、先達せんだっての男かも知れません。きっとそうです。……そこから逃げ出たのに相違ありません。」と云って、小窓の方を指差した。が、むろん、そのあたりに何の異常のあろうはずはなかった。
 それから一週間もすると、彼女は、自分の腹の中に何か一つの塊ができて、それが時々訳の解からない事を自分に言いかけるようだ、と云うような事を言い出した。
 父はひどく狼狽ろうばいした。
「いよいよ駄目だ! 病院へ入れるほかあるまい。……あゝ実に情ない事になってしまった!」
 ほとんど泣き出しそうにして言った。
 母は、仏壇や神棚へお燈火あかしをあげてお祈りした。
 空は、いつも重く垂れていた。太陽は幾日となくその姿を見せなかった、物を裂くようなうなりをあげて寒い風が時折過ぎて行った。そのたびに、幾重にも戸をとざしてある家が、がたがたと鳴って揺れた。

     十三

 ようやくにして三月が来た。うららかに晴れた日が続いた。長く固まり附いていた根雪が溶けて、その雪汁がちょろちょろと方々で流れた。黒い土の肌が久し振りに現われた。そこにはいつの間にかすでに若草が青々と芽を出していた。長々湿っていた樹木の皮からほかほかと水蒸気がたち上った。どこかの隅から、かの四月や五月やが人知れずにこにこして覗いているような気勢けはいさえ感ぜられるのであった。
 房子のその後の経過はことのほか良好であった。老医師の家では彼女の退院の日を指折り数えて待っていた。帰って来たらしばらく温泉場へでもやって置いたら良かろう。そしてそれに附き添うてゆくのは庸介が良かろう、と、そんな事まで相談されていた。
 ある日の午後、庸介が、自分の部屋でしきりに何か書き物をしているところへ、そーっとお志保が入って来た。彼女のようすにはどこか落ち附かないおどおどした処があった。彼の側近くへ坐ったまま伏目になって黙っていた。そして時々かすかな吐息を洩らしたりした。庸介は、お母さんにでも気づかれたのではないか、そして何か云われたのではないか、と思って咄嗟とっさの間にひどく心がまごついた。が、そんな素振りは見せずに、膝の上へきちんと組んでいたお志保の手をって軽くそれを握ってやった。彼女は素直に彼のするがままにさせていたが、やはり黙り込んでいた。たまり兼ねて彼が、
「どうかしたのかい?」と、問うた時に彼女はようやく眼をあげて彼を見た。その眼は平常に似ずからからに乾き切っていた。お志保は何か云おうとしたが、急に顔を真紅にした。と、たちまちのうちにそれはまた真蒼まっさおに変って行った。そして何故か物も言わずに男の膝の上へ顔を伏せるのであった。庸介は女がふびんに思われてならなかった。で、いたわってやるつもりで背中の上へ自分の手を乗せた。すると、その瞬間、彼は、ごそごそした木綿着物の下にむっちりした丸みを持った、弾力性に富んだ肉体の触感を覚えた。髪の毛の匂いと、それからどこから来るのだかからない、ある不思議な女の香気が彼にもつれ掛って来た。いつも甘い、不敵な、息のまるような予感が通り雲かなどのように、すーっと男の体内を過ぎて行った。男の手にはおのずからある重い力が加わって来た。と、この時初めてお志保は口を開いた。どこかへ引っかかるような、ほとんど聞きとれないようなかすかな声で、「わたし、……懐妊なんでございますわ。」と、云った。
 庸介はそれを聞いた。彼の心の中では、何か積み上げてあったものが急にがらがらと壊れ落ちたような響が聞えた。とはいえ、そこには愚かな濃いもやが一ぱいにたちこめていたので、その響はまったく鋭さのない遠いおぼおぼろしいものになっていた。……
 お志保はしばらくしてそこを去った。

 白い光の月が空にあった。時々、薄い雲がそれにかかってにじのような色に染められた。庭には木々の黒い影が、足の入れどころもないまでに縦横に落ちていた、庸介は小松の林をぬけ、池を廻って母屋おもやの裏手へ出た。ばさっとしたの木の上からちらちらと灯が洩れていた。それはお志保の居間の小窓であった。幸いにもカーテンが半ば引かれてあった。彼は、まるで※(始め二重括弧、1-2-54)夜の獣※(終わり二重括弧、1-2-55)のようにして息を殺ろしてその窓下へ忍び寄った。そーっと、覗き込むと内にはそんな事とは少しも知らないお志保が、窓側へより添うて一人何かせっせと編物をしていた。赤い笠をつけた小ランプの光りが彼女の顔のところだけをまともに照らしていた。頬へ垂れたほつれ毛の一筋一筋まではっきりと浮いて見えた。彼女の目は編物の進められてゆく所に熱心に注がれていた。金属製の編棒が、動くたびに冷たい色にちかちかと光った。ガラス戸の内と外との顔はわずかに二尺とは離れていなかったであろう。それほど庸介は窓の近くに立っていた。自分の吐き出す熱い息が、冷たいガラスの面を白く曇らすのに気がついて、初めてそっと身を引いた。
「……あれが母親だろうか。あんないたいけな、あんな可愛らしい娘が、何でお母さんなどと呼ばれる事ができよう。」彼はそう思った。
「彼女はどう思っているだろう。あんな子供に何が考えられるものか。ほんとに、――どんなふうに思っているのだろう。」また、こうも思った。
 彼は再びそーっと池を廻り、小松の林をぬけて家の前の方へ出て来た。
「子が生れるのだ。あのお腹の中にいるのだ。それがおれの子だ。――あのお志保が母親で、この俺が父親なのだ。」
 庸介は、今はっきりと心の中で、こう云うのであった。静かに歩きまわった。いろいろの思いが限りなく湧いて来た。「生れて来る子供は男かしら、それとも女かしら、……女の子ならばどうぞお志保によく似てくれ。あれと同じように美しく可愛らしくあってくれ。もしまた、男であったら、……それにしても俺に似てはいけない。」
「否、否、そんな事はどっちだっていい。俺はどうだって構わない。」「ほんとを云えば俺は子供なんか少しも欲しくはないのだ!」「男には子供というものは要がないのだ。……俺は子はいらない。一生涯、何でそんなものがろう。一人も要らない。……」こんな事を思っているうちに、彼の心はあやしく昂奮して来た。何もかも投げ出すような強い非情な心のすぐその裏に、きわめて涙もろい弱い気持ちがぴったり寄り添って拡がった。何かしら、世界がしきりに物悲しくなって来た。誰もかれも、みんなが不幸なのだ、どこに、誰が、ほんとに幸福な者がある? そんな者が一人だっているものか。……彼は、誰かが、とりわけふびんでならなかった。それは誰か、――それは必ずしもお志保のお腹の中の子供だとも云えなかった。むろん、それは彼自身ではなかった。
(大正三年七月)

底本:「日本短篇文学全集 第29巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年7月30日第1刷発行
初出:「早稲田文学」
   1914(大正3)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:林 幸雄
2007年8月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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