町立病院ちやうりつびやうゐんにはうち牛蒡ごばう蕁草いらぐさ野麻のあさなどのむらがしげつてるあたりに、さゝやかなる別室べつしつの一むねがある。屋根やねのブリキいたびて、烟突えんとつなかばこはれ、玄關げんくわん階段かいだん紛堊しつくひがれて、ちて、雜草ざつさうさへのび/\と。正面しやうめん本院ほんゐんむかひ、後方こうはう茫廣ひろ/″\とした野良のらのぞんで、くぎてた鼠色ねずみいろへい取繞とりまはされてゐる。尖端せんたんうへけてゐるくぎと、へい、さてはまた別室べつしつ、こは露西亞ロシアおいて、たゞ病院びやうゐんと、監獄かんごくとにのみる、はかなき、あはれな、さびしい建物たてもの
 蕁草いらぐさおほはれたる細道ほそみちけば別室べつしつ入口いりぐちで、ひらけば玄關げんくわんである。壁際かべぎはや、暖爐だんろ周邊まはりには病院びやうゐんのさま/″\の雜具がらくた古寐臺ふるねだいよごれた病院服びやうゐんふく、ぼろ/\の股引下ヅボンしたあをしま洗浚あらひざらしのシヤツ、やぶれた古靴ふるぐつつたやうなものが、ごたくさと、やまのやうにかさねられて、惡臭あくしうはなつてゐる。
 積上つみあげられたる雜具がらくたうへに、いつでも烟管きせるくはへて寐辷ねそべつてゐるのは、としつた兵隊上へいたいあがりの、いろめた徽章きしやういてる軍服ぐんぷく始終ふだんてゐるニキタと小使こづかひおほかぶさつてるまゆ山羊やぎのやうで、あかはな佛頂面ぶつちやうづらたかくはないがせて節塊立ふしくれだつて、何處どこにかう一くせありさうなをとこかれきはめてかたくなで、なによりも秩序ちつじよふことを大切たいせつおもつてゐて、自分じぶん職務しよくむおほせるには、なんでも其鐵拳そのてつけんもつて、相手あいてかほだらうが、あたまだらうが、むねだらうが、手當放題てあたりはうだい毆打なぐらなければならぬものとしんじてゐる、所謂いはゆる思慮しりよはらぬ人間にんげん
 玄關げんくわんさき別室全體べつしつぜんたいめてゐるひろこれが六號室がうしつである。淺黄色あさぎいろのペンキぬりかべよごれて、天井てんじやうくすぶつてゐる。ふゆ暖爐だんろけぶつて炭氣たんきめられたものとえる。まど内側うちがはから見惡みにく鐵格子てつがうしめられ、ゆかしろちやけて、そゝくれつてゐる。けた玉菜たまなや、ランプのいぶりや、南京蟲なんきんむしや、アンモニヤのにほひこんじて、はひつたはじめの一分時ぷんじは、動物園どうぶつゑんにでもつたかのやうな感覺かんかく惹起ひきおこすので。
 室内しつないには螺旋ねぢゆかめられた寐臺ねだい數脚すうきやく其上そのうへにはあを病院服びやうゐんふくて、昔風むかしふう頭巾づきんかぶつてゐる患者等くわんじやらすわつたり、たりして、これみんな瘋癲患者ふうてんくわんじやなのである。患者くわんじやすうは五にん其中そのうちにて一人丈ひとりだけ身分みぶんのあるものであるがみないやしい身分みぶん者計ものばかり。戸口とぐちからだい一のものは、せてたかい、栗色くりいろひかひげの、始終しゞゆう泣腫なきはらしてゐる發狂はつきやう中風患者ちゆうぶくわんじやあたまさゝへてぢつすわつて、一つところみつめながら、晝夜ちうやかずかなしんで、あたま太息といきもらし、ときには苦笑にがわらひをしたりして。周邊あたりはなしにはまれ立入たちいるのみで、質問しつもんをされたらけつして返答へんたふたことのい、ものも、ものも、あたへらるゝまゝに、時々とき/″\くるしさうなせきをする。其頬そのほゝ紅色べにいろや、瘠方やせかたさつするにかれにはもう肺病はいびやう初期しよきざしてゐるのであらう。
 それつゞいては小體こがらな、元氣げんきな、※鬚あごひげ[#「丿+臣+頁」、34-下-21]とがつた、かみくろいネグルじんのやうにちゞれた、すこしも落着おちつかぬ老人らうじんかれひるには室内しつないまどからまど往來わうらいし、あるひはトルコふう寐臺ねだいあぐらいて、山雀やまがらのやうにもなくさへづり、小聲こゞゑうたひ、ヒヽヽと頓興とんきようわらしたりてゐるが、よる祈祷きたうをするときでも、猶且やはり元氣げんきで、子供こどものやうに愉快ゆくわいさうにぴん/\してゐる。こぶしむねつていのるかとおもへば、すぐゆびあな穿つたりしてゐる。これ猶太人ジウのモイセイカともので、二十年計ねんばかまへ自分じぶん所有しよいう帽子製造場ばうしせいざうばけたときに、發狂はつきやうしたのであつた。
 六號室がうしつうちのモイセイカばかりは、にはにでもまちにでも自由じいう外出でるのをゆるされてゐた。れはかれふるくから病院びやうゐんにゐるためか、まち子供等こどもらや、いぬかこまれてゐても、けつして何等なんらがいをもくはへぬとことまちひとられてゐるためか、かくかれまち名物男めいぶつをとことして、一人ひとり特權とくけんてゐたのである。かれまちまはるに病院服びやうゐんふくまゝめう頭巾づきんかぶり、上靴うはぐつ穿いてるときもあり、あるひ跣足はだしでヅボンした穿かずにあるいてゐるときもある。さうしてひとかどや、店前みせさきつては一せんづつをふ。あるいへではクワスをませ、あるところではパンをはしてれる。で、かれいつ滿腹まんぷくで、金持かねもちになつて、六號室がうしつかへつてる。が、たづさかへところものは、玄關げんくわんでニキタにみんなうばはれてしまふ。兵隊上へいたいあがりの小使こづかひのニキタは亂暴らんばうにも、かくし一々いち/\轉覆ひつくりかへして、悉皆すつかり取返とりかへしてしまふのでつた。
 またモイセイカは同室どうしつものにもいたつて親切しんせつで、みづつてり、ときには布團ふとんけてりして、まちから一せんづつもらつてるとか、めい/\あたらしい帽子ばうしつてるとかとふ。ひだりはう中風患者ちゆうぶくわんじやには始終しゞゆうさじでもつて食事しよくじをさせる。かれくするのは、別段べつだん同情どうじやうからでもなく、とつて、情誼じやうぎからするのでもなく、たゞみぎとなりにゐるグロモフとひとならつて、自然しぜん其眞似そのまねをするのでつた。
 イワン、デミトリチ、グロモフは三十三さいで、かれ此室このしつでの身分みぶんいもの、元來もと裁判所さいばんしよ警吏けいりまた縣廳けんちやう書記しよきをもつとめたので。かれひと自分じぶん窘逐きんちくするとことにしてゐる瘋癲患者ふうてんくわんじやつね寐臺ねだいうへまるくなつててゐたり、あるひ運動うんどうためかのやうに、へやすみからすみへとあるいてたり、すわつてゐることほとんまれで、始終しゞゆう興奮こうふんして、燥氣いら/\して、曖※あいまい[#「目+末」、37-上-24]なあるつことでつてゐる樣子やうす玄關げんくわんはうかすかおとでもするか、にはこゑでもこえるかすると、ぐにあたま持上もちあげてみゝそばだてる。だれ自分じぶんところたのではいか、自分じぶんたづねてゐるのではいかとおもつて、かほにはふべからざる不安ふあんいろあらはれる。さなきだにかれ憔悴せうすゐしたかほ不幸ふかうなる内心ないしん煩悶はんもんと、長日月ちやうじつげつ恐怖きようふとにて、苛責さいなまれ[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、35-下-3]いたこゝろを、かゞみうつしたやうにあらはしてゐるのに。其廣そのひろ骨張ほねばつたかほうごきは、如何いかにもへん病的びやうてきつて。しかこゝろ苦痛くつうにてかれ[#「かれの」は底本では「かれの」]かほいんせられた緻密ちみつ徴候ちようこうは、一けんして智慧ちゑありさうな、教育けういくありさうなふうおもはしめた。さうして其眼そのめにはあたゝか健全けんぜんかゞやきがある、かれはニキタをのぞくのほかは、たれたいしても親切しんせつで、同情どうじやうつて、謙遜けんそんであつた。同室どうしつだれかゞ釦鈕ぼたんおとしたとかさじおとしたとか場合ばあひには、かれ寐臺ねだいからおきあがつて、つてる。毎朝まいあさおきると同室どうしつ者等ものらにおはやうとひ、ばんにはまた休息やすみなさいと挨拶あいさつもする。
 かれ發狂者はつきやうしやらしいところは、始終しゞゆうつた樣子やうすと、へん眼付めつきとをするのほかに、時折ときをりばんになると、てゐる病院服びやうゐんふくまへ神經的しんけいてき掻合かきあはせるとおもふと、はぬまでに全身ぜんしんふるはし、すみからすみへといそいであゆはじめる、丁度ちやうどはげしい熱病ねつびやうにでもにはかおそはれたやう。と、やが立留たちとゞまつて室内しつない人々ひと/″\※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまはして昂然かうぜんとしていまにもなに重大ぢゆうだいことはんとするやうな身構みがまへをする。が、またたゞち自分じぶんことものい、ことわかるものはいとでもかんがなほしたかのやうに燥立いらだつて、あたまりながらまたあるす。しかるにはうとのぞみは、つひえずたちまちにしてすべてかんがへ壓去あつしさつて、此度こんどおも存分ぞんぶん熱切ねつせつに、夢中むちゆう有樣ありさまで、ことばほとばしる。ところ勿論もちろん秩序ちつじよなく、寐言ねごとのやうで、周章あわてたり、途切とぎれてたり、なんだか意味いみわからぬことをふのであるが、何處どこかにまた善良ぜんりやうなる性質せいしつほのかきこえる、其言そのことばうちか、こゑうちかに、さうしてかれ瘋癲者ふうてんしやたるところも、かれ人格じんかくまたえる。其意味そのいみつながらぬ、辻妻つじつまはぬはなしは、所詮しよせんふでにすること出來できぬのであるが、かれところつまんでへば、人間にんげん卑劣ひれつなること、壓制あつせいりて正義せいぎ蹂躙じうりんされてゐること、後世こうせい地上ちじやうきたるべき善美ぜんびなる生活せいくわつのこと、自分じぶんをして一ぷんごとにも壓制者あつせいしや殘忍ざんにん愚鈍ぐどんいきどほらしむるところの、まど鐵格子てつがうしのことなどである。はゞかれむかしいままつたうたつくされぬうたを、不順序ふじゆんじよに、不調和ふてうわ組立くみたてるのである。

 いまから大凡おほよそ十三四ねん以前いぜんまちの一ばん大通おほどほりに、自分じぶんいへ所有つてゐたグロモフとふ、容貌ようばう立派りつぱな、金滿かねもち官吏くわんりつて、いへにはセルゲイおよびイワンと二人ふたり息子むすこもある。ところが、長子ちやうしのセルゲイは丁度ちやうど大學だいがくの四年級ねんきふになつてから、急性きふせい肺病はいびやうかゝ死亡しばうしてしまふ。これよりグロモフのいへには、不幸ふかう引續ひきつゞいててセルゲイの葬式さうしきんだ一週間しうかんちゝのグロモフは詐欺さぎと、浪費らうひとのかどもつ裁判さいばんわたされ、もなく監獄かんごく病院びやうゐんでチブスにかゝつて死亡しばうしてしまつた。で、其家そのいへすべて什具じふぐとは、棄賣すてうりはらはれて、イワン、デミトリチと其母親そのはゝおやとはつひぶつとなつた。
 ちゝ存命中ぞんめいちゆうには、イワン、デミトリチは大學だいがく修業しうげふためにペテルブルグにんで、月々つき/″\六七十ゑんづゝも仕送しおくりされ、なに不自由ふじいうなくくらしてゐたものが、たちまちにして生活くらしは一ぺんし、あさからばんまで、安値あんちよく報酬はうしう學科がくくわ教授けうじゆするとか、筆耕ひつかうをするとかと、奔走ほんそうをしたが、れでもふやはずのはかなき境涯きやうがいわづか收入しうにふはゝ給養きふやうにもきようせねばならず、かれつひ生活せいくわつにはれず、斷然だんぜん大學だいがくつて、古郷こきやうかへつた。さうしてほどなく或人あるひと世話せわ郡立學校ぐんりつがくかう教師けうしとなつたが、れも暫時ざんじ同僚どうれうとは折合をりあはず、生徒せいととは親眤なじまず、こゝをもまたしてしまふ。其中そのうち母親はゝおやぬ。かれ半年はんとし無職むしよく徘徊うろ/\してたゞパンと、みづとで生命いのちつないでゐたのであるが、其後そのご裁判所さいばんしよ警吏けいりとなり、やまひもつのちしよくするまでは、こゝつとめつてゐたのであつた。
 かれ學生時代がくせいじだい壯年さうねんごろでも、生得せいとくあま壯健さうけん身體からだではかつた。顏色かほいろ蒼白あをじろく、姿すがたせて、初中終しよつちゆう風邪かぜやすい、少食せうしよく落々おち/\ねむられぬたち、一ぱいさけにもまはり、往々まゝヒステリーがおこるのである。ひと交際かうさいすることかれいたつてこのんでゐたが、其神經質そのしんけいしつな、刺激しげきされやす性質せいしつなるがゆゑに、みづかつとめてたれとも交際かうさいせず、したがつまた親友しんいうをもたぬ。まち人々ひと/″\ことかれいつ輕蔑けいべつして、無教育むけういく禽獸的生活きんじうてきせいくわつのゝしつて、テノルの高聲たかごゑ燥立いらだつてゐる。かれものふのは憤懣ふんまんいろもつてせざれば、欣喜きんきいろもつて、何事なにごと熱心ねつしんふのである。で、其言そのいところつひに一つことしてしまふ。まち生活せいくわつするのはこのましくい。社會しやくわいには高尚かうしやうなる興味インテレースい。社會しやくわい曖※あいまい[#「目+末」、36-下-9]な、無意味むいみ生活せいくわつしてる。壓制あつせい僞善ぎぜん醜行しうかうたくましうして、つてこれまぎらしてゐる。こゝおいてか奸物共かんぶつども衣食いしよくき、正義せいぎひと衣食いしよくきうする。廉直れんちよくなる方針はうしん地方ちはう新聞紙しんぶんし芝居しばゐ學校がくかう公會演説こうくわいえんぜつ教育けういくある人間にんげん團結だんけつ是等これらみな必要ひつえうからざるものである。また社會しやくわいみづかさとつておどろくやうになければならぬとかなどとのことで。かれ其眼中そのがんちゆう社會しやくわい人々ひと/″\たゞしゆ區別くべつしてゐる、義者ぎしやと、不義者ふぎしやと、さうして婦人ふじんこと戀愛れんあいこといては、いつみづかふかかんつてくのであるが、さて自身じしんにはいまだ一戀愛れんあいてふものをあぢはふたこといので。
 かれくも神經質しんけいしつで、其議論そのぎろん過激くわげきであつたが、まち人々ひと/″\れにもかゝはらずかれあいして、ワアニア、と愛嬌あいけうもつんでゐた。かれ天性てんせいやさしいのと、ひと親切しんせつなのと、禮儀れいぎるのと、品行ひんかう方正はうせいなのと、着古きぶるしたフロツクコート、病人びやうにんらしい樣子やうす家庭かてい不遇ふぐう是等これらみなすべ人々ひと/″\あたゝか同情どうじやう引起ひきおこさしめたのであつた。まためんにはかれ立派りつぱ教育けういくけ、博學はくがく多識たしきで、んでもつてゐるとまちひとふてゐるくらゐ。で、かれまちきた字引じびきとせられてゐた。
 かれ非常ひじやう讀書どくしよこのんで、※(二の字点、1-2-22)しば/\倶樂部くらぶつては、神經的しんけいてきひげひねりながら、雜誌ざつし書物しよもつ手當次第てあたりしだいいでゐる、んでゐるのではなく間合まにあはぬので鵜呑うのみにしてゐるとふやうな鹽梅あんばい讀書どくしよかれ病的びやうてき習慣しふくわんで、んでもおよれたところものは、れが縱令よし去年きよねん古新聞ふるしんぶんらうが、こよみであらうが、一やうえたるもののやうに、屹度きつとつてるのである。いへにゐるときいつよこになつては、猶且やはり書見しよけんけつてゐる。

 あるあきあさのこと、イワン、デミトリチは外套ぐわいたうえりてゝ泥濘ぬかつてゐるみちを、横町よこちやう路次ろじて、町人ちやうにんいへ書付かきつけつてかねりにつたのであるが、猶且やはり毎朝まいあさのやうにあさ引立ひきたたず、しづんだ調子てうし横町よこちやう差掛さしかゝると、をりからむかふより二人ふたり囚人しうじんと四にんじゆうふて附添つきそふて兵卒へいそつとに、ぱつたり出會でつくわす。かれ何時いつ囚人しうじん出會でつくわせば、同情どうじやう不愉快ふゆくわいかんたれるのであるが、其日そのひまた奈何云どういふものか、なんともはれぬ一しゆ不好いや感覺かんかくが、つねにもあらずむら/\いて、自分じぶんかせめられて、おな姿すがた泥濘ぬかるみなかかれて、ごくいれられはせぬかと、にはかおもはれて慄然ぞつとした。れから町人ちやうにんいへよりの歸途かへり郵便局いうびんきよくそばで、かね懇意こんい一人ひとり警部けいぶ出遇であつたが警部けいぶかれ握手あくしゆして數歩計すうほばかともあるいた。すると、なんだかこれまたかれには只事たゞごとでなくあやしくおもはれて、いへかへつてからも一日中にちぢゆうかれあたまから囚人しうじん姿すがたじゆうふてる兵卒へいそつかほなどがはなれずに、眼前がんぜん閃付ちらついてゐる、理由わけわからぬ煩悶はんもんあやしくもえずかれこゝろ攪亂かくらんして、書物しよもつむにも、かんがふるにも、邪魔じやまをする。かれよるになつてもあかりをもけず、よもすがらねむらず、いまにも自分じぶん捕縛ほばくされ、ごくつながれはせぬかとたゞ其計そればかりをおもなやんでゐるのであつた。
 しか無論むろんかれ自身じしんなんつみもなきこと、また將來しやうらいおいても殺人さつじん窃盜せつたう放火はうくわなどの犯罪はんざいだんじてぬとはつてゐるが、またひとりつく/″\とうもおもふたのであつた。故意こいならず犯罪はんざいすことがいともはれぬ、ひと讒言ざんげん裁判さいばん間違まちがひなどはべからざることだとははれぬ、そもそ裁判さいばん間違まちがひは、今日こんにち裁判さいばん状態じやうたいにては、もつとべきことなので、そうじて他人たにん艱難かんなんたいしては、事務上じむじやう職務上しよくむじやう關係くわんけいつてゐる人々ひと/″\たとへば裁判官さいばんくわん警官けいくわん醫師いし、とかとふものは、年月ねんげつ經過けいくわするとともに、習慣しふくわんつてつひには其相手そのあいて被告ひこくあるひ患者くわんじやたいして、たん形式以上けいしきいじやう關係くわんけいたぬやうにのぞんでも出來できぬやうに、習慣しふくわんやつがさせてしまふ、はやへば彼等かれらあだかも、にはつてひつじや、うしほふり、にはかぬところ劣等れつとう人間にんげんすこしもえらところいのだ。
 翌朝よくあさイワン、デミトリチはひたひ冷汗ひやあせびつしよりいて、とこから吃驚びつくりして跳起はねおきた。もういまにも自分じぶん捕縛ほばくされるとおもはれて。さうしてみづかまたふかかんがへた。くまでも昨日きのふしき懊惱なやみ自分じぶんからはなれぬとしてれば、なにわけがあるのである、さなくていまはしいかんがへ這麼こんな執念しふね自分じぶん着纒つきまとふてゐるわけいと。
『や、巡査じゆんさ徐々そろ/\まどそばとほつてつた、あやしいぞ、やゝ、またたれ二人ふたりうちまへ立留たちとゞまつてゐる、何故なぜだまつてゐるのだらうか?』
 これよりしてイワン、デミトリチは日夜にちやたゞ煩悶はんもんあかつゞける、まどそばとほものにはものみな探偵たんていかとおもはれる。正午ひるになると毎日まいにち警察署長けいさつしよちやうが、町盡頭まちはづれ自分じぶんやしきから警察けいさつくので、いへまへを二頭馬車とうばしやとほる、するとイワン、デミトリチは其度毎そのたびごと馬車ばしやあまはやとほぎたやうだとか、署長しよちやう顏付かほつきべつつたとかおもつて、んでもれはまち重大ぢゆうだい犯罪はんざい露顯あらはれたのでれを至急しきふ報告はうこくするのであらうなどとめて、しきりにれがになつてならぬ。
 家主いへぬし女主人をんなあるじところ見知みしらぬひとさへすればれもになる。もん呼鈴よびりんたび惴々びく/\しては顫上ふるへあがる。巡査じゆんさや、憲兵けんぺいひでもするとわざ平氣へいきよそほふとして、微笑びせうしてたり、口笛くちぶえいてたりする。如何いかなるばんでもかれ拘引こういんされるのをかまへてゐぬときとてはい。れがため終夜よつぴてねむられぬ。が、這麼事こんなこと女主人をんなあるじにでも嗅付かぎつけられたら、なに良心りやうしんとがめられることがあるとおもはれやう、那樣疑そんなうたがひでもおこされたら大變たいへんと、かれはさうおもつて無理むり毎晩まいばんふりをして、大鼾おほいびきをさへいてゐる。しか這麼心遣こんなこゝろづかひ事實じゝつおいても、普通ふつう論理ろんりおいてもかんがへてればじつ愚々ばか/\しい次第しだいで、拘引こういんされるだの、獄舍らうやつながれるなどこと良心りやうしんにさへやましいところいならばすこしも恐怖おそるるにらぬこと這麼事こんなことおそれるのは精神病せいしんびやう相違さうゐなきこと、と、かれみづかおもふてこゝいたらぬのでもいが、さてまたかんがへればかんがふるほどまよつて、心中しんちゆう愈々いよ/\苦悶くもんと、恐怖きようふとにあつしられる。で、かれももう思慮かんがへること無益むえきなのをさとり、全然すつかり失望しつばうと、恐怖きようふとのふちしづんでしまつたのである。
 かれれより獨居どくきよしてひとはじめた。職務しよくむるのはまへにも不好いやであつたが、いまなほそう不好いやたまらぬ、とふのは、ひと何時いつ自分じぶんだまして、かくしにでもそつ賄賂わいろ突込つきこみはぬか、れをうつたへられでもぬか、あるひ公書こうしよごときものに詐欺さぎ同樣どうやう間違まちがひでもはせぬか、他人たにんぜにでもくしたりはせぬか。と、無暗むやみおそろしくてならぬので。
 はるになつてゆき次第しだいけた或日あるひ墓場はかばそばがけあたりに、腐爛ふらんした二つの死骸しがい見付みつかつた。れは老婆らうばと、をとことで、故殺こさつ形跡けいせきさへるのであつた。まちではもういたところ死骸しがいのことゝ、下手人げしゆにん噂計うはさばかり、イワン、デミトリチは自分じぶんころしたとおもはれはぬかと、またしてもではなく、とほりあるきながらもさうおもはれまいと微笑びせうしながらつたり、知人しりびとひでもすると、あをくなり、あかくなりして、那麼あんな弱者共よわいものどもころすなどと、是程これほどにくむべき罪惡ざいあくいなど、つてゐる。が、れもれもぢきかれ疲勞つからしてしまふ。かれそこでふとおもいた、自分じぶん位置ゐち安全あんぜんはかるには、女主人をんなあるじ穴藏あなぐらかくれてゐるのが上策じやうさくと。さうしてかれは一日中にちゞゆうまた一晩中ひとばんぢゆう穴藏あなぐらなか立盡たちつくし、其翌日そのよくじつ猶且やはりぬ。で、身體からだひどこゞえてしまつたので、詮方せんかたなく、夕方ゆふがたになるのをつて、こツそり自分じぶんへやにはしのたものゝ、夜明よあけまで身動みうごきもせず、へや眞中まんなかつてゐた。すると明方あけがたうち女主人をんなあるじはう暖爐造だんろつくり職人しよくにんた。イワン、デミトリチは彼等かれら厨房くりや暖爐だんろなほしにたのであるのはつてゐたのであるが、きふなんだかうではいやうにおもはれてて、これ屹度きつと警官けいくわんわざ暖爐職人だんろしよくにん風體ふうていをしてたのであらうと、こゝろ不覺そゞろ動顛どうてんして、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)いきなりへや飛出とびだしたが、ばうかぶらず、フロツクコートもずに、恐怖おそれられたまゝ、大通おほどほり文字もんじはしるのであつた。一ぴきいぬえながらかれふ。うしろはうでは農夫のうふさけぶ。イワン、デミトリチは兩耳りやうみゝがガンとして、世界中せかいぢゆうあらゆる壓制あつせいが、いまかれ背後うしろせまつて、自分じぶん追駈おひかけてたかのやうにおもはれた。
 かれとらへられていへ引返ひきかへされたが、女主人をんなあるじ醫師いしやびにられ、ドクトル、アンドレイ、エヒミチはかれ診察しんさつしたのであつた。
 さうしてあたまひやくすりと、桂梅水けいばいすゐとを服用ふくようするやうにとつて、不好いやさうにかしらつて、立歸たちかへぎはに、もう二とはぬ、ひとくる邪魔じやまるにもあたらないからとさうつた。
 くてイワン、デミトリチは宿やどかりことも、療治れうぢすることも、ぜにいので出來兼できかぬるところから、幾干いくばくもなくして町立病院ちやうりつびやうゐんれられ、梅毒病患者ばいどくびやうくわんじや同室どうしつすることとなつた。しかるにかれ毎晩まいばんねむらずして、我儘わがまゝつてはほか患者等くわんじやら邪魔じやまをするので、院長ゐんちやうのアンドレイ、エヒミチはかれを六號室がうしつ別室べつしつうつしたのであつた。
 一ねんて、まちではもうイワン、デミトリチのことわすれてしまつた。かれ書物しよもつ女主人をんなあるじそりなか積重つみかさねて、軒下のきしたいたのであるが、何處どこからともなく、子供等こどもらつてては、一さつき、二さつ取去とりさり、段々だん/\みんないづれへかえてしまつた。

 イワン、デミトリチのひだりはうとなりは、猶太人ジウのモイセイカであるが、みぎはうにゐるものは、全然まるきり意味いみかほをしてゐる、油切あぶらぎつて、眞圓まんまる農夫のうふうから、思慮しりよも、感覺かんかく皆無かいむになつて、うごきもせぬ大食おほぐひな、不汚ふけつきはま動物どうぶつで、始終しゞゆうはなくやうな、むねわるくなる臭氣しうきはなつてゐる。
 かれまはりを掃除さうぢするニキタは、其度そのたびれい鐵拳てつけんふるつては、ちからかぎかれつのであるが、にぶ動物どうぶつは、をもてず、うごきをもせず、いろにもなんかんじをもあらはさぬ。たゞおもたるのやうに、すこ蹌踉よろけるのはるのも氣味きみわるくらゐ
 六號室がうしつだい番目ばんめは、元來もと郵便局いうびんきよくとやらにつとめたをとこで、いやうな、すこ狡猾ずるいやうな、ひくい、せたブロンヂンの、利發りかうらしい瞭然はつきりとした愉快ゆくわい眼付めつきちよつるとまる正氣しやうきのやうである。かれなに大切たいせつ祕密ひみつものつてゐるとふやうなふうをしてゐる。まくらしたや、寐臺ねだい何處どこかに、なにかをそツとかくしてく、れはぬすまれるとか、うばはれるとか、氣遣きづかひめではなくひとられるのがはづかしいのでさうしてかくしてものがある。時々とき/″\同室どうしつ者等ものらけて、ひとりまどところつて、なにかをむねけて、かしらかゞめて熟視みいつてゐる樣子やうすたれ近着ちかづきでもすれば、きまりわるさうにいそいでむねからなにかをつてかくしてしまふ。しか其祕密そのひみつすぐわかるのである。
わたくしをおいはひなすつてください。』
と、かれ時々とき/″\イワン、デミトリチにふことがある。
わたくしだいとうのスタニスラウの勳章くんしやうもらひました。だいとう勳章くんしやうは、全體ぜんたいなら外國人ぐわいこくじんでなければもらへないのですが、わたくしにはの、特別とくべつもつてね、例外れいぐわいえます。』
と、かれいぶかるやうにちよつまゆせて微笑びせうする。
じつまをしますと、これはちと意外いぐわいでしたので。』
わたくし奈何どうもさうふものにいては、全然まるでわからんのです。』
と、イワン、デミトリチはうれはしさうにこたへる。
しかわたくし早晩さうばんれやうとおもひますのは、なんだかつておゐでになりますか。』
 もと郵便局員いうびんきよくゐんは、さも狡猾ずるさうにほそめてふ。
わたくし屹度きつと此度こんど瑞典スウエーデン北極星ほくきよくせい勳章くんしやうもらはうとおもつてるです、其勳章そのくんしやうこそはほね甲斐かひのあるものです。しろい十字架じかに、くろリボンのいた、れは立派りつぱです。』
 の六號室程がうしつほど單調たんてう生活せいくわつは、何處どこたづねてもいであらう。あさには患者等くわんじやらは、中風患者ちゆうぶくわんじやと、油切あぶらぎつた農夫のうふとのほかみんな玄關げんくわんつて、一つ大盥おほだらひかほあらひ、病院服びやうゐんふくすそき、ニキタが本院ほんゐんからはこんでる、一ぱいさだめられたるちやすゞうつはすゝるのである。正午ひるにはけた玉菜たまな牛肉汁にくじると、めしとで食事しよくじをする。ばんには晝食ひるめしあまりのめしべるので。其間そのあひだよこになるとも、ねむるとも、そらながめるとも、へやすみからすみあるくとも、うして毎日まいにちおくつてゐる。
 あたらしいひとかほは六號室がうしつではえてぬ。院長ゐんちやうアンドレイ、エヒミチはあらた瘋癲患者ふうてんくわんじやはもうくより入院にふゐんせしめぬから。またゝれとて這麼瘋癲者こんなふうてんしやへや參觀さんくわんものいから。たゞ二ヶげつに一け、理髮師とこやのセミヨン、ラザリチばかこゝる、其男そのをとこいつつてニコ/\しながらつてて、ニキタに手傳てつだはせてかみる、かれえると患者等くわんじやら囂々がや/\つてさわす。
 患者等くわんじやら理髮師とこやほかには、たゞニキタ一人ひとりれよりほかにはたれふことも、たれることもかなはぬ運命うんめいさだめられてゐた。
 しかるに近頃ちかごろいたつて不思議ふしぎ評判ひやうばん院内ゐんないつたはつた。
 院長ゐんちやうが六號室がうしつ足繁あしゝげ訪問はうもんしたとの風評ひやうばん

 不思議ふしぎ風評ひやうばんである。
 ドクトル、アンドレイ、エヒミチ、ラアギンは風變ふうがはりな人間にんげんで、青年せいねんころにははなはだ敬虔けいけんで、宗教上しゆうけうじやうてやうと、千八百六十三ねん中學ちゆうがく卒業そつげふするとぐ、神學大學しんがくだいがくらうとけつした。しかるに醫學博士いがくはかせにして、外科げくわ專門家せんもんかなるかれちゝは、斷乎だんことしてかれ志望しばうこばみ、かれにして司祭しさいとなつたあかつきは、とはみとめぬとまで云張いひはつた。が、アンドレイ、エヒミチはちゝことばではあるが、自分じぶん是迄これまで醫學いがくたいして、またぱん專門學科せんもんがくゝわたいして、使命しめいかんじたことはかつたと自白じはくしてゐる。
 かくかれ醫科大學いくわだいがく卒業そつげふして司祭しさいしよくにはかなかつた。さうして醫者いしやとしてつるはじめにおいても、なほ今日こんにちごと別段べつだん宗教家しゆうけうからしいところすくなかつた。かれ容貌ようばうぎす/\して、何處どこ百姓染ひやくしやうじみて、※鬚あごひげ[#「丿+臣+頁」、40-上-12]から、ベツそりしたかみぎごちない不態ぶざま恰好かつかうは、宛然まるで大食たいしよくの、呑※のみぬけ[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、40-上-13]の、頑固ぐわんこ街道端かいだうばた料理屋れうりやなんどの主人しゆじんのやうで、素氣無そつけなかほには青筋あをすぢあらはれ、ちひさく、はなあかく、肩幅かたはゞひろく、せいたかく、手足てあし圖※づぬ[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、40-上-15]けておほきい、其手そのてつかまへられやうものなら呼吸こきふまりさうな。れでゐて足音あしおとしづかで、ある樣子やうす注意深ちゆういぶか忍足しのびあしのやうである。せま廊下らうかひと出遇であふと、みちけて立留たちどまり、『失敬しつけい』と、さもふとこゑひさうだが、ほそいテノルで挨拶あいさつする。かれくびにはちひさい腫物はれもの出來できてゐるので、つね糊付のりつけシヤツはないで、やはらかな麻布あさか、更紗さらさのシヤツをてゐるので。さうして其服裝そのふくさうすこしも醫者いしやらしいところく、一つフロツクコートを十ねん着續きつゞけてゐる。まれ猶太人ジウみせあたらしいふくつてても、かれると猶且やはりしわだらけな古着ふるぎのやうにえるので。一つフロツクコートで患者くわんじやけ、食事しよくじもし、きやくにもく。しかれはかれ吝嗇りんしよくなるのではなく、扮裝なりなどにはまつた無頓着むとんぢやくなのにるのである。
 アンドレイ、エヒミチがあらた院長ゐんちやうとして此町このまちときは、病院びやうゐん亂脈らんみやく名状めいじやうすべからざるもので。室内しつないはず、廊下らうかはず、にははず、なんともはれぬ臭氣しうきはないて、呼吸いきをするさへくるしいほど病院びやうゐん小使こづかひ看護婦かんごふ子供等抔こどもらなどみな患者くわんじや病室びやうしつに一しよ起臥きぐわして、外科室げくわしつには丹毒たんどくえたことはい。患者等くわんじやら油蟲あぶらむし南京蟲なんきんむしねずみやからてられて、んでゐることも出來できぬと苦情くじやうふ。器械きかいや、道具だうぐなどはなにもなく外科用げくわよう刄物はものが二つあるけで體温器たいをんきすらいのである。浴盤よくばんには馬鈴薯じやがたらいも投込なげこんであるやうな始末しまつ代診だいしん會計くわいけい洗濯女せんたくをんなは、患者くわんじやかすめてなんともおもはぬ。はなしにはさき院長ゐんちやう往々まゝ病院びやうゐんのアルコールを密賣みつばいし、看護婦かんごふ婦人患者ふじんくわんじや手當次第てあたりしだいめかけとしてゐたとふ。で、まちでは病院びやうゐん這麼有樣こんなありさまらぬのではく、一そう棒大ぼうだいにして亂次だらしいことを評判ひやうばんしてゐたが、これたいしては人々ひと/″\いたつて冷淡れいたんなもので、むし病院びやうゐん辯護べんごをしてゐたくらゐ病院びやうゐんなどにはひるものは、みんな病人びやうにん百姓共ひやくしやうどもだから、其位そのくらゐ不自由ふじいうなんでもいことである、自家じかにゐたならば、猶更なほさら不自由ふじいうねばなるまいとか、地方自治體ちはうじちたい補助ほじよもなくて、まち獨立どくりつ立派りつぱ病院びやうゐん維持ゐぢされやうはいとか、かくわるいながらも病院びやうゐんるのはいよりもましであるとかと。
 アンドレイ、エヒミチは院長ゐんちやうとして其職そのしよくいたのちかゝ亂脈らんみやくたいして、はたしてこれ如何樣いかやう所置しよちしたらう、敏捷てきぱき院内ゐんない秩序ちつじよ改革かいかくしたらうか。かれ不順序ふじゆんじよたいしては、さのみめた樣子やうすはなく、たゞ看護婦かんごふなどの病室びやうしつることをきんじ、機械きかいれる戸棚とだな二個ふたつ備付そなへつけたばかりで、代診だいしんも、會計くわいけいも、洗濯婦せんたくをんなも、もとまゝいた。
 アンドレイ、エヒミチは知識ちしき廉直れんちよくとをすこぶこのあいしてゐたのであるが、さてかれ自分じぶん周圍まはりには然云さうい生活せいくわつまうけること到底たうてい出來できぬのであつた。れは氣力きりよくと、權力けんりよくける自信じしんとがりぬので。命令めいれい主張しゆちやう禁止きんし恁云かういことすべかれには出來できぬ。丁度ちやうどこゑたかめて命令めいれいなどはけつしていたさぬと、たれにかちかひでもてたかのやうに、れとか、つていとかとは奈何どうしてもへぬ。で、ものべたくなつたときには、何時いつ躊躇ちうちよしながら咳拂せきばらひして、さうして下女げぢよに、ちやでもみたいものだとか、めしにしたいものだとかふのがつねである、其故それゆゑ會計係くわいけいがゝりむかつても、ぬすむではならぬなどとは到底たうていはれぬ。無論むろん放逐はうちくすることなどはぬので。ひとかれあざむいたり、あるひへつらつたり、あるひ不正ふせい勘定書かんぢやうがき署名しよめいをすることねがひでもされると、かれえびのやうに眞赤まつかになつて只管ひたすら自分じぶんわるいことをかんじはする。が、猶且やはり勘定書かんぢやうがきには署名しよめいをしてるとふやうなたち
 はじめにアンドレイ、エヒミチは熱心ねつしん其職そのしよくはげみ、毎日まいにちあさからばんまで、診察しんさつをしたり、手術しゆじゆつをしたり、ときには産婆さんばをもたのである、婦人等ふじんらみなかれ非常ひじやうめて名醫めいゝである、こと小兒科せうにくわ婦人科ふじんくわめうてゐると言囃いひはやしてゐた。が、かれ年月としつきつとともに、此事業このじげふ單調たんてうなのと、明瞭あきらかえきいのとをみとめるにしたがつて、段々だん/\きてた。かれおもふたのである。今日けふは三十にん患者くわんじやければ、明日あすは三十五にんる、明後日あさつては四十にんつてく、毎日まいにち毎月まいげつ同事おなじこと繰返くりかへし、打續うちつゞけてはくものゝ、市中まち死亡者しばうしやすうけつしてげんじぬ。また患者くわんじやあし依然いぜんとしてもんにはえぬ。あさからひるまでる四十にん患者くわんじやに、奈何どうして確實かくじつ扶助たすけあたへることが出來できやう、故意こいならずとも虚僞きよぎしつゝあるのだ。一統計年度とうけいねんどおいて、一萬二千にん患者くわんじやけたとすれば、すなはち一萬二千にんあざむかれたのである。おも患者くわんじや病院びやうゐん入院にふゐんさせて、れを學問がくもん規則きそくしたがつて治療ちれうすること出來できぬ。如何いかなれば規則きそくはあつても、こゝ學問がくもんいのである。哲學てつがくすてしまつて、醫師等いしやらのやうに規則きそくしたがつてらうとするのには、だい一に清潔法せいけつはふと、空氣くうき流通法りうつうはふとがくべからざるものである。しかるに這麼不潔こんなふけつ有樣ありさまでは駄目だめだ。また滋養物じやうぶつ肝心かんじんである。しかるに這麼臭こんなくさ玉菜たまな牛肉汁にくじるなどでは駄目だめだ、また補助者ほじよしや必要ひつえうである、しかるに這麼盜人計こんなぬすびとばかりでは駄目だめだ。
 さうして各人かくじん正當せいたうをはりであるとするなれば、なんため人々ひと/″\邪魔じやまをするのか。かりにある商人しやうにんとか、ある官吏くわんりとかゞ、五ねんねん餘計よけい生延いきのびたとしてところで、れがなんになるか。もしまた醫學いがく目的もくてきくすりもつて、苦痛くつううすらげるものとすなれば、自然しぜんこゝに一つの疑問ぎもんしやうじてる。苦痛くつううすらげるのはなんためか? 苦痛くつうひと完全くわんぜんむかはしむるものとふではいか、また人類じんるゐはたして丸藥ぐわんやくや、水藥すゐやくで、其苦痛そのくつううすらぐものなら、宗教しゆうけうや、哲學てつがく必要ひつえうくなつたとすつるにいたらう。プシキンはさきだつて非常ひじやう苦痛くつうかんじ、不幸ふかうなるハイネは數年間すうねんかん中風ちゆうぶかゝつてしてゐた。してれば原始蟲げんしちゆうごと我々われ/\に、せめ苦難くなんてふものがかつたならば、まつた含蓄がんちく生活せいくわつとなつてしまふ。からして我々われ/\病氣びやうきするのはむし當然たうぜんではいか。
 かゝ議論ぎろん全然まるでこゝろあつしられたアンドレイ、エヒミチはつひさじげて、病院びやうゐんにも毎日まいにちかよはなくなるにいたつた。

 かれ生活せいくわつかくごとくにしていた。あさは八き、ふく着換きかへてちやみ、れから書齋しよさいはひるか、あるひ病院びやうゐんくかである。病院びやうゐんでは外來患者ぐわいらいくわんじやがもう診察しんさつ待構まちかまへて、せま廊下らうか多人數たにんず詰掛つめかけてゐる。其側そのそば小使こづかひや、看護婦かんごふくつ煉瓦れんぐわゆか音高おとたか踏鳴ふみならして往來わうらいし、病院服びやうゐんふくてゐるせた患者等くわんじやらとほつたり、死人しにんかつす、不潔物ふけつぶつれたうつはをもつてとほる。子供こどもさけぶ、通風とほりかぜはする。アンドレイ、エヒミチは恁云かうい病院びやうゐん有樣ありさまでは、熱病患者ねつびやうくわんじや肺病患者はいびやうくわんじやにはもつとくないと、始終しゞゆうおもひ/\するのであるが、れをまた奈何どうすること出來できぬのでつた。
 代診だいしんのセルゲイ、セルゲヰチは、いつ控所ひかへじよ院長ゐんちやうるのをつてゐる。代診だいしんちひさい、まるふとつたをとこ頬髯ほゝひげ綺麗きれいつて、まるかほいつあらはれてゐて、氣取きどつた樣子やうすで、あたらしいゆつとりした衣服いふくけ、しろ襟飾えりかざりをしたところは、全然まる代診だいしんのやうではなく、元老議員げんらうぎゐんとでもひたいやうである。かれまち澤山たくさん病家びやうか顧主とくいつてゐる。で、かれ自分じぶん心窃こゝろひそか院長ゐんちやうよりはるか實際じつさいおいて、經驗けいけんんでゐるものとみとめてゐた。なんとなれば院長ゐんちやうにはまち顧主とくい病家びやうかなどはすこしもいのであるから。控所ひかへじよは、かべおほきい額縁がくぶちはまつた聖像せいざうかゝつてゐて、おも燈明とうみようげてある。そばにはしろきれせた讀經臺どきやうだいかれ、一ぱうには大主教だいしゆけうがくけてある、またスウャトコルスキイ修道院しうだうゐんがくと、れた花環はなわとがけてある。聖像せいざう代診だいしんみづかつて此所こゝけたもので、毎日曜日まいにちえうびかれ命令めいれいで、だれ患者くわんじや一人ひとりが、つて、こゑげて、祈祷文きたうぶんむ、れからかれ自身じしんで、各病室かくびやうしつを、香爐かうろげてりながらまはる。
 患者くわんじやおほいのに時間じかんすくない、で、いつ簡單かんたん質問しつもんと、塗藥ぬりぐすりか、※麻子油位ひましあぶらぐらゐ[#「箆」の「竹かんむり」に代えて「くさかんむり」、42-上-12]くすりわたしてるのにとゞまつてゐる。院長ゐんちやう片手かたて頬杖ほゝづゑきながら考込かんがへこんで、たゞ機械的きかいてき質問しつもんけるのみである。代診だいしんのセルゲイ、セルゲヰチが時々とき/″\こすり/\くちれる。『にはみなひと病氣びやうきになります、入用いりようなものがありません、なんとなれば、これみな親切しんせつ神樣かみさま不熱心ふねつしんでありますから。』診察しんさつとき院長ゐんちやうはもううより手術しゆじゆつことめてゐた。かれるさへ不愉快ふゆくわいかんじてゐたからで。また子供こども咽喉のどるのでくちかせたりするときに、子供こども泣叫なきさけび、ちひさい突張つツぱつたりすると、かれ其聲そのこゑみゝがガンとしてしまつて、まはつてなみだこぼれる。で、いそいでくすり處方しよはうつて、子供こどもはやれてつてれとる。
 診察しんさつとき患者くわんじや臆病おくびやうわけわからぬこと、代診だいしんそばにゐること、かべかゝつてる畫像ぐわざう、二十ねん以上いじやう相變あひかはらずにけてゐる質問しつもん是等これら院長ゐんちやうをしてすくなからず退屈たいくつせしめて、かれは五六にん患者くわんじや診察しんさつをはると、ふいと診察所しんさつじよからつてしまふ。で、あと患者くわんじや代診だいしんかれかはつて診察しんさつするのであつた。
 院長ゐんちやうアンドレイ、エヒミチはとうからまち病家びやうかたぬのを、かへつてさいはひに、だれ自分じぶん邪魔じやまをするものはいとかんがへで、いへかへると書齋しよさいり、書物しよもつ澤山たくさんあるので、うへなき滿足まんぞくもつ書見しよけんふけるのである、かれ月給げつきふ受取うけとると半分はんぶん書物しよもつふのにつひやす、の六りてゐるへやの三つには、書物しよもつ古雜誌ふるざつしとでほとんどうづまつてゐる。かれもつとこのところ書物しよもつは、歴史れきし哲學てつがくで、醫學上いがくじやう書物しよもつは、たゞ醫者ヴラーチ』とふ一雜誌ざつしつてゐるのにぎぬ。讀書どくしよ爲初しはじめるといつ數時間すうじかん續樣つゞけさまむのであるが、すこしもれで疲勞つかれぬ。かれ書見しよけんは、イワン、デミトリチのやうに神經的しんけいてきに、迅速じんそくむのではなく、しづかとほして、つたところ了解れうかいところは、とゞまり/\しながらんでく。書物しよもつそばにはいつもウオツカのびんいて、鹽漬しほづけ胡瓜きうりや、林檎りんごが、デスクの羅紗らしやきれうへいてある。半時間毎はんじかんごとくらゐかれ書物しよもつからはなさずに、ウオツカを一ぱいいでは呑乾のみほし、さうして矢張やはりずに胡瓜きうり手探てさぐりぐ。
 三になるとかれしづか厨房くりやちかづいて咳拂せきばらひをしてふ。
『ダリユシカ、晝食ひるめしでもいものだな。』
 不味まづさうに取揃とりそろへられた晝食ひるめしへると、かれ兩手りやうてむねんでかんがへながら室内しつないあるはじめる。其中そのうちに四る。五る、なほかれかんがへながらあるいてゐる。すると、時々とき/″\厨房くりやいて、ダリユシカのあか寐惚顏ねぼけがほ[#ルビの「ねぼけがほ」は底本では「ねぼけがは」]あらはれる。
旦那樣だんなさま、もうビールを召上めしあがります時分じぶんでは御座ござりませんか。』
と、彼女かれんでふ。
『いやだ……もうすこたう……もうすこし……。』
と、かれふ。
 ばんにはいつ郵便局長いうびんきよくちやうのミハイル、アウエリヤヌヰチがあそびにる。アンドレイ、エヒミチにつては人間ひとばかりが、町中まちゞゆう一人ひとりけぬ親友しんいうなので。ミハイル、アウエリヤヌヰチはもとんでゐた大地主おほぢぬし騎兵隊きへいたいぞくしてゐたものしかるに漸々だん/\身代しんだいつてしまつて、貧乏びんばふし、老年らうねんつてから、つひ郵便局いうびんきよくはひつたので。いたつて元氣げんきな、壯健さうけんな、立派りつぱしろ頬鬚ほゝひげの、快活くわいくわつ大聲おほごゑの、しかい、感情かんじやうふか人間にんげんである。しかまた腹立易はらだちツぽをとこで、だれ郵便局いうびんきよくもので、反對はんたいでもするとか、同意どういでもぬとか、理屈りくつでもならべやうものなら、眞赤まつかになつて、全身ぜんしんふるはして怒立おこりたち、らいのやうなこゑで、だまれ! と一かつする。其故それゆゑ郵便局いうびんきよくくのはこはいとふは一ぱん評判ひやうばん。が、かれまちもの部下ぶかのやうにあつかふにもかゝはらず、院長ゐんちやうアンドレイ、エヒミチばかりは、教育けういくがあり、高尚かうしやうこゝろつてゐると、うやまあいしてゐた。
『やあ、わたしです。』
と、ミハイル、アウエリヤヌヰチはいつものやうにひながら、アンドレイ、エヒミチのいへはひつてた。
二人ふたり書齋しよさい長椅子ながいすこしけて、暫時ざんじたばこかしてゐる。
『ダリユシカ、ビールでもしいな。』
と、アンドレイ、エヒミチはふ。
 はじめのびん二人共ふたりとも無言むごんぎやう呑乾のみほしてしまふ。院長ゐんちやう考込かんがへこんでゐる、ミハイル、アウエリヤヌヰチはなに面白おもしろはなしやうとして、愉快ゆくわいさうになつてゐる。
 はなしいつ院長ゐんちやうから、はじまるので。
なん殘念ざんねんなことぢやいですかなあ。』
と、アンドレイ、エヒミチはかしらりながら、相手あひてずに徐々のろ/\話出はなしだす。かれはなしをするときひとぬのがくせ
我々われ/\まちはなし面白おもしろい、知識ちしきのある人間にんげん皆無かいむなのは、じつ遺憾ゐかんなことぢやりませんか。これ我々われ/\つておほいなる不幸ふかうです。上流社會じやうりうしやくわいでも卑劣ひれつなこと以上いじやうには其教育そのけういく程度ていどのぼらんのですから、まつた下等社會かとうしやくわいすこしもことならんのです。』
れは眞實まつたくです。』と、郵便局長いうびんきよくちやうふ。
きみつてゐられるとほり。』
と、院長ゐんちやうしづかこゑで、また話續はなしつゞけるのでつた。
なかには人間にんげん知識ちしき高尚こうしやう現象げんしやうほかには、ひとつとして意味いみのある、興味きようみのあるものはいのです。人智じんちなるものが、動物どうぶつと、人間にんげんとのあひだに、おほいなる限界さかひをなしてつて、人間にんげん靈性れいせいしめし、程度ていどまで、實際じつさいところ不死ふしかはりをしてゐるのです。これつて人智じんちは、人間にんげん唯一ゆゐいつ[#ルビの「ゆゐいつ」は底本では「ゐいつ」]快樂くわいらくいづみとなつてゐる。しかるに我々われ/\自分じぶん周圍まはりに、いさゝか知識ちしきず、かずで、我々われ/\全然まるで快樂くわいらくうばはれてゐるやうなものです。勿論もちろん我々われ/\には書物しよもつる。しかこれきたはなしとか、交際かうさいとかとふものとはまたべつで、あま適切てきせつれいではりませんが、たとへば書物しよもつはノタで、談話だんわ唱歌しやうかでせう。』
れは眞實まつたくです。』と、郵便局長いうびんきよくちやうふ。
 二人ふたりだまる。厨房くりやからダリユシカがにぶかぬかほて、片手かたて頬杖ほゝづゑて、はなしかうと戸口とぐち立留たちどまつてゐる。
『あゝきみいま人間にんげんから知識ちしきをおのぞみになるのですか?』
と、ミハイル、アウエリヤヌヰチは嘆息たんそくしてふた。さうしてかれむかし生活せいくわつ健全けんぜんで、愉快ゆくわいで、興味きようみつたこと、其頃そのころ上流社會じやうりうしやくわいには知識ちしきつたとか、また其社會そのしやくわいでは廉直れんちよく友誼いうぎ非常ひじやうおもんじてゐたとか、證文しようもんなしでぜにしたとか、貧窮ひんきゆう友人いうじん扶助たすけあたへぬのをはぢとしてゐたとか、愉快ゆくわい行軍かうぐんや、戰爭せんさうなどのつたこと、面白おもしろ人間にんげん面白おもしろ婦人ふじんつたこと、また高加索カフカズところじつ土地とちで、騎兵大隊長きへいだいたいちやう夫人ふじん變者かはりものがあつて、いつでも士官しくわんふくけて、よるになると一人ひとりで、カフカズの山中さんちゆう案内者あんないしやもなく騎馬きばく。はなしくと、なんでも韃靼人だつたんじんむらに、其夫人そのふじんと、土地とち某公爵ぼうこうしやくとのあひだ小説せうせつがあつたとのことだ、とかと。
『へゝえ。』
と、ダリユシカは感心かんしんしていてゐる。
さうしてみ、つたものだ。また非常ひじやう自由主義じいうしゆぎ人間にんげんなどもつたツけ。』
 アンドレイ、エヒミチはいてはゐたが、みゝにもとまらぬふうで、なにかをかんがへながら、ビールをチビリ/\とんでゐる。
わたし奈何どうかすると知識ちしきのある秀才しうさいはなしてゐることをゆめることがあります。』
と、院長ゐんちやう突然だしぬけにミハイル、アウエリヤヌヰチのことばさへぎつてふた。
わたしちゝわたし立派りつぱ教育けういくあたへたです、しかし六十年代ねんだい思想しさう影響えいきやうで、わたし醫者いしやとしてしまつたが、わたし其時そのときちゝとほりにならなかつたなら、今頃いまごろ現代思潮げんだいしてう中心ちゆうしんとなつてゐたであらうとおもはれます。其時そのときには屹度きつと大學だいがく分科ぶんくわ教授けうじゆにでもなつてゐたのでせう。無論むろん知識ちしきなるものは、永久えいきうのものではく、變遷へんせんしてくものですが、しか生活せいくわつふものは、忌々いま/\しい輪索わなです。思想しさう人間にんげん成熟せいじゆくたつして、其思想そのしさう發展はつてんされるときになると、其人間そのにんげん自然しぜん自分じぶんがもうすで輪索わなかゝつてゐるのがれるみちくなつてゐるのをかんじます。實際じつさい人間にんげん自分じぶん意旨いしはんして、あるひ偶然ぐうぜんことために、から生活せいくわつ喚出よびだされたものであるのです……。』
れは眞實まつたくです。』
と、ミハイル、アウエリヤヌヰチはふ。
 アンドレイ、エヒミチは依然やはり相手あひてかほずに、知識ちしきあるもの話計はなしばかりをつゞける、ミハイル、アウエリヤヌヰチは注意ちゆういしていてゐながら『れは眞實まつたくです。』と、ばかりを繰返くりかへしてゐた。
しかきみ靈魂れいこん不死ふししんじなさらんのですか?』
と、にはかにミハイル、アウエリヤヌヰチはふ。
『いや、ミハイル、アウエリヤヌヰチ、しんじません、しんじる理由りいういのです。』と、院長ゐんちやうふ。
じつまをすとわたしうたがつてゐるのです。しかもつとも、わたくし或時あるときなんもののやうなかんじもするですがな。れは時時とき/″\おもことがあるです。
 這麼老朽こんならうきうからだんでも時分じぶんだ、とさうおもふと、たちままたなんやらこゝろそここゑがする、氣遣きづかふな、こといとつてるやうな。』
 九すこぎ、ミハイル、アウエリヤヌヰチはかへらんとて立上たちあがり、玄關げんくわん毛皮けがは外套ぐわいたう引掛ひつかけながら溜息ためいきしてふた。
しか我々われ/\隨分酷ずゐぶんひど田舍ゐなか引込ひつこんだものさ、殘念ざんねんなのは、這麼處こんなところ往生わうじやうをするのかとおもふと、あゝ……。』

 親友しんいう送出おくりだして、アンドレイ、エヒミチはまた讀書どくしよはじめるのであつた。よるしづかなんおとぬ。ときとゞまつて院長ゐんちやうとも書物しよもつうへ途絶とだえてしまつたかのやう。書物しよもつと、あをかさけたランプとのほかには、また何物なにものらぬかとおもはるるしづけさ。院長ゐんちやう可畏むくつけき、無人相ぶにんさうかほは、人智じんち開發かいはつかんずるにしたがつて、段々だん/\やはらぎ、微笑びせうをさへうかべてた。
『あゝ、奈何どうして、ひと不死ふしものではいか。』
と、かれかんがへてゐる。『腦髓なうずゐや、視官しくわん言語げんご自覺じかく天才てんさいなどは、つひにはみな土中どちゆうはひつてしまつて、やが地殼ちかくとも冷却れいきやくし、何百萬年なんびやくまんねんながあひだ地球ちきうと一しよ意味いみもなく、目的もくてきまはくやうになるとなれば、なんため這麼物こんなものるのか……。』冷却れいきやくしてのち飛散ひさんするとすれば、高尚かうしやうなるほとんかみごと智力ちりよくそなへたる人間にんげんを、虚無きよむより造出つくりだすの必要ひつえうはない。さうしてあたかあざけるがごとくに、またひと粘土ねんどくわする必要ひつえうい。あゝ物質ぶつしつ新陳代謝しんちんたいしやよ。しかしながら不死ふし代替だいたいもつて、自分じぶんなぐさむるとこと臆病おくびやうではなからうか。自然しぜんおいおこところ無意識むいしきなる作用さようは、人間にんげん無智むちにもおとつてゐる。なんとなれば、無智むちには幾分いくぶんか、意識いしき意旨いしとがある。が、作用さようにはなにもない。たいして恐怖きようふいだ臆病者おくびやうものは、こともつ自分じぶんなぐさめること出來できる。すなはたい將來しやうらいくさいしひきがへるうちつて、生活せいくわつするとこともつなぐさむることが出來できる。
れとも物質ぶつしつ變換へんくわん……物質ぶつしつ變換へんくわんみとめて、すぐ人間にんげん不死ふしすとふのは、あだか高價かうかなヴアイオリンがこはれたあとで、其明箱そのあきばこかはつて立派りつぱものとなるとおなじやうに、まことわけわからぬことである。』
 時計とけいる。アンドレイ、エヒミチは椅子いす倚掛よりかゝりげて、ぢてかんがへる。さうしていまんだ書物しよもつうち面白おもしろ影響えいきやうで、自分じぶん過去くわこと、現在げんざいとにおもひおよぼすのであつた。
過去くわこ思出おもひだすのも不好いやだ、とつて、現在げんざいまた過去くわこ同樣どうやうではないか。』
と、かれれから患者等くわんじやらのこと、不潔ふけつ病室びやうしつうちくるしんでゐること、などおもおこす。『ねむらないで南京蟲なんきんむしたゝかつてゐるものらう、あるひつよ繃帶はうたいめられてなやんでうなつてゐるものらう、また患者等くわんじやら看護婦かんごふ相手あいて骨牌遊かるたあそびてゐるものらう、あるひはヴオツカをんでゐるものらう、病院びやうゐん事業じげふすべて二十年前ねんまへすこしもかはらぬ。窃盜せつたう姦淫かんいん詐欺さぎうへてられてゐるのだ。であるから、病院びやうゐん依然いぜんとして、まち住民ぢゆうみん健康けんかうには有害いうがいで、不徳義ふとくぎなものである。』
と、かれおもきたり、さらまたの六號室がうしつ鐵格子てつがうしなかで、ニキタが患者等くわんじやら打毆なぐつてゐること、モイセイカがまちつては、ほどこしふてゐる姿すがたなどをおもす。
 れよりまたかれ醫學いがくちかき二十五年間ねんかんおいて、如何いか長足ちやうそく進歩しんぽしたかとことかんがはじめる。
自分じぶん大學だいがくにゐた時分じぶんは、醫學いがく猶且やはり錬金術れんきんじゆつや、形而上學けいじゝやうがくなどとおな運命うんめいいたるものとおもふてゐたが、じつおどろ進歩しんぽである。大革命だいかくめいともなづけられるくらゐだ、防腐法ばうふはふ發明はつめいによつて、大家たいかのピロウゴフさへも、到底たうてい出來得できうべからざることみとめてゐた手術しゆじゆつが、容易たやすられるやうにはなつた。いまでは腹部截開ふくぶせつかいの百たびうちることは一度位どぐらゐなものである。梅毒ばいどく根治こんぢされる、其他そのた遺傳論ゐでんろん催眠術さいみんじゆつ、パステルや、コツホなどの發見はつけん衞生學ゑいせいがく統計學とうけいがくなどは奈何どうであらう……。』
 我々われ/\ロシヤの地方團體ちはうだんたい醫術いじゆつ如何どうであらうか、精神病せいしんびやういてふならば、現今げんこん病氣びやうき類別法るゐべつはふ診斷しんだん治療ちれう方法はうはふとも皆是みなこれ過去くわこ精神病學せいしんびやうがく比較ひかくするならば、はエリボルスのやまごと高大かうだいなるものである。現今げんこんでは精神病者せいしんびやうしや治療ちれう冷水れいすゐそゝがぬ、蒸暑むしあつきシヤツをせぬ、さうして人間的にんげんてき彼等かれら取扱とりあつかふ、すなは新聞しんぶん記載きさいするとほり、彼等かれらために、演劇えんげき舞蹈ぶたふもよほす。
 かれまた思考かんがへた。
 現時げんじ見解けんかいおよ趣味しゆみるに、六號室がうしつごときは、まことるにしのびざる、厭惡えんをへざるものである。かゝ病室びやうしつは、鐵道てつだうること、二百露里ヴエルスタ小都會せうとくわいおいてのみるのである。すなは此所こゝ市長しちやうならび町會議員ちやうくわいぎゐんみな生物知ゝまものしりの町人ちやうにんである、であるから醫師いしることは神官しんくわんごとく、ところ批評ひゝやうせずしてしんじてゐる。たとへば、溶解ようかいせるなまりくちるゝとも、すこしも不思議ふしぎにはおもはぬであらう。が、これところおいては如何どうであらうか、公衆こうしゆうと、新聞紙しんぶんしとはかならかくごと監獄バステリヤは、とうに寸斷すんだんにしてしまつたであらう。
しかれが奈何どうである。』
と、かれはパツとひらいてみづかふた。
防腐法ばうふはうだとか、コツホだとか、パステルだとかつたつて、實際じつさいおいてはなかすこしも是迄これまでかはらないではいか、病氣びやうきすうも、死亡しばうすうも、瘋癲患者ふうてんくわんじやためだとつて、舞踏會ぶたふくわいやら、演藝會えんげいくわいやらがもよほされるが、しか彼等かれらをしてまつた開放かいはうすることは出來できないではいか。れば、なんでもみなむなしいことだ、ヴインナの完全くわんぜん大學病院だいがくびやうゐんでも、我々われ/\病院びやうゐんすこしも差別さべついのだ。
 しかおれ有害いうがいことつとめてるとふものだ、自分じぶんあざむいてゐる人間にんげんから給料きふれうむさぼつてゐる、不正直ふしやうぢきだ、れどもおれ其者そのものいたつて微々びゞたるもので、社會しやくわい必然ひつぜんあくの一分子ぶんしぎぬ、すべまちや、ぐん官吏共くわんりどもでもみなつま無用むよう長物ちやうぶつだ。給料きふれうむさぼつてゐるにぎん……さうしてれば不正直ふしやうぢきつみは、あへ自分計じぶんばかりぢやい、時勢じせいるのだ、もう二百ねんおそ自分じぶんうまれたなら、全然まるでべつ人間にんげんつたかもれぬ。』
 三る、かれはランプをして寐室ねべやつた。が、奈何どうしても睡眠ねむりくことは出來できぬのであつた。

 二ねん此方このかた地方自治體ちはうじちたいはやう/\ゆたかになつたので、其管下そのくわんか病院びやうゐん設立たてられるまで、年々ねん/\三百ゑんづつを町立病院ちやうりつびやうゐん補助金ほじよきんとしてこととなり、病院びやうゐんではれがため醫員いゐん一人ひとりことさだめられた。で、アンドレイ、エヒミチの補助手ほじよしゆとして、軍醫ぐんいのエウゲニイ、フエオドロヰチ、ハヾトフといふが、まちへいせられた。其人そのひとだ三十さいらぬわかをとこで、頬骨ほゝぼねひろい、ちひさい、ブルネト、其祖先そのそせん外國人ぐわいこくじんつたかのやうにもえる、かれまちときは、ぜにつたら一もんもなく、ちひさいかばんたゞ一個ひとつと、下女げぢよれてゐた醜女計みにくいをんなばかりをともなふてたので、さうして此女このをんなには乳呑兒ちのみごつた。かれつねひさしいた丸帽まるばうかぶつて、ふか長靴ながぐつ穿ふゆには毛皮けがは外套ぐわいたうそとあるく。病院びやうゐんてよりもなく、代診だいしんのセルゲイ、セルゲヰチとも、會計くわいけいとも、ぐに親密しんみつになつたのである。下宿げしゆくには書物しよもつたゞさつ『千八百八十一年度ねんどヴインナ大學病院だいがくびやうゐん最近さいきん處方しよはう』とだいするもので、かれ患者くわんじやところときにはかなられをたづさへる。ばんになると倶樂部くらぶつては玉突たまつきをしてあそぶ、骨牌かるたあまこのまぬはうさうして何時いつもおきまりの文句もんく人間にんげん
 病院びやうゐんには一しうに二づつかよつて、外來患者ぐわいらいくわんじや診察しんさつしたり、各病室かくびやうしつまはつたりしてゐたが、防腐法ばうふはふこゝではまつたおこなはれぬこと、呼血器きふけつきのことなどにいて、かれすこぶ異議いぎつてゐたが、れと打付うちつけてふのも、院長ゐんちやうはぢかせるやうなものと、なんともはずにはゐたが、同僚どうれう院長ゐんちやうアンドレイ、エヒミチを心祕こゝろひそかに、老込おいこみ怠惰者なまけものとして、やつ金計かねばか溜込ためこんでゐるとうらやんでゐた。さうして其後任そのこうにん自分じぶん引受ひきうおもふてゐた。

 三ぐわつすゑかたえがてなりしゆきも、次第しだいあとなくけた或夜あるよ病院びやうゐんにはには椋鳥むくどりしきりにいてたをりしも、院長ゐんちやう親友しんいう郵便局長いうびんきよくちやう立歸たちかへるのを、門迄もんまで見送みおくらんとしつた。丁度ちやうど其時そのときにははひつてたのは、いましもまちあさつて猶太人ジウのモイセイカ、ばうかぶらず、跣足はだしあさ上靴うはぐつ突掛つツかけたまゝ、にはほどこしちひさいふくろげて。
『一せんおくんなさい!』
と、モイセイカはさむさにふるへながら、院長ゐんちやう微笑びせうする。
 することの出來でき院長ゐんちやうは、かくしから十せんしてかれる。
『これはくない』と、院長ゐんちやうはモイセイカのせたあか跣足はだしくるぶしおもふた。
みち泥濘ぬかつてゐるとふのに。』
 院長ゐんちやう不覺そゞろあはれにも、また不氣味ぶきみにもかんじて、猶太人ジウあといて、其禿頭そのはげあたまだの、あしくるぶしなどを※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまはしながら、別室べつしつまでつた。小使こづかひのニキタはあひかはらず、雜具がらくたつかうへころがつてゐたのであるが、院長ゐんちやうはひつてたのに吃驚びつくりして跳起はねおきた。
『ニキタ、今日こんにちは。』
と、院長ゐんちやうやさしくかれ挨拶あいさつして。
猶太人ジウくつでもあたへたら奈何どうだ、うでもせんと風邪かぜく。』
『はツ、拜承かしこまりまして御坐ござりまする。すぐ會計くわいけいまをしまして。』
うしてください、おまへ會計くわいけいわたしがさうつたとつてれ。』
 玄關げんくわんから病室びやうしつかよひらかれてゐた。イワン、デミトリチは寐臺ねだいうへよこになつて、ひぢいて、さも心配しんぱいさうに、人聲ひとごゑがするので此方こなたみゝそばだてゝゐる。と、きふひと院長ゐんちやうだとわかつたので、かれ全身ぜんしんいかりふるはして、寐床ねどこから飛上とびあがり、眞赤まつかになつて、激怒げきどして、病室びやうしつ眞中まんなかはし突立つゝたつた。
『やあ、院長ゐんちやうたぞ!』
 イワン、デミトリチはたかさけ[#「口+斗」、47-上-10]んで、わらす。
た々々! 諸君しよくん目出めでたう、院長閣下ゐんちやうかくか我々われ/\訪問はうもんせられた! 畜生ちくしやうめ!』
と、かれこゑ甲走かんばしらして、地鞴踏ぢだんだふんで、同室どうしつ者等ものらいまつて騷方さわぎかた
畜生ちくしやう! やい毆殺ぶちころしてしまへ! ころしてもるものか、便所べんじよにでも敲込たゝきこめ!』
 院長ゐんちやうのアンドレイ、エヒミチは玄關げんくわんから病室びやうしつなか覗込のぞきこんで、物柔ものやはらかにふのでつた。
何故なぜですね?』
何故なぜだと。』と、イワン、デミトリチはおどすやうな氣味きみで、院長ゐんちやうはう近寄ちかより、ふる病院服びやうゐんふくまへあはせながら。
何故なぜかもいものだ! 盜人ぬすびとめ!』
 かれ惡々にく/\しさうにつばでもけるやうな口付くちつきをして。
山師やまし! 人殺ひとごろし!』
『まあ、落着おちつきなさい。』
と、アンドレイ、エヒミチはるかつたとふやうな顏付かほつきふ。
くおきなさい、わたしなんにもぬすんだこともなし、貴方あなたなにいたしたことはいのです。貴方あなたなに間違まちがつておいでなのでせう、ひどわたしおこつてゐなさるやうだが、まあ落着おちついて、しづかに、さうしてなに立腹りつぷくしてゐなさるのか、有仰おつしやつたらいでせう。』
『だがなんため貴下あなたわたし這麼こんなところにれてくのです?』
れは貴君あなた病人びやうにんだからです。』
『はあ、病人びやうにんしかなんにん狂人きやうじん自由じいう其處邊そこらへんあるいてゐるではないですか、れは貴方々あなたがた無學むがくなるにつて、狂人きやうじんと、健康けんかうなるものとの區別くべつ出來できんのです。なんためわたしだの、そら此處こゝにゐる不幸ふかう人達計ひとたちばかりがあだか獻祭けんさい山羊やぎごとくに、しゆうためこゝれられてゐねばならんのか。貴方あなたはじめ、代診だいしん會計くわいけいれから、すべ貴方あなた病院びやうゐん奴等やつらは、じつしからん、徳義上とくぎじやうおいては我々共われ/\どもよりはるか劣等れつとうだ、なんため我々計われ/\ばかりがこゝれられてつて、貴方々あなたがたうでいのか、何處どこ那樣論理そんなろんりがあります?』
徳義上とくぎじやうだとか、論理ろんりだとか、那樣事そんなことなにりません。たゞ場合ばあひです。すなは此處こゝれられたものはひつてゐるのであるし、れられんもの自由じいう出歩であるいてゐる、けのことです。わたし醫者いしやで、貴方あなた精神病者せいしんびやうしやであるとふことにおいて、徳義とくぎければ、論理ろんりいのです。つま偶然ぐうぜん場合ばあひのみです。』
那樣屁理窟そんなへりくつわからん。』
と、イワン、デミトリチは小聲こゞゑつて、自分じぶん寐臺ねだいうへすわむ。
 モイセイカは今日けふ院長ゐんちやうのゐるために、ニキタが遠慮ゑんりよしてなに取返とりかへさぬので、もらつて雜物ざふもつを、自分じぶん寐臺ねだいうへあらざらひろげて、一つ/\ならはじめる。パンの破片かけら紙屑かみくづうしほねなど、さうしてさむさふるへながら、猶太語エヴレイごで、早言はやことうたふやうにしやべす、大方おほかた開店かいてんでも氣取きどりなにかを吹聽ふいちやうしてゐるのでらう。
わたし此處こゝからしてください。』と、イワン、デミトリチはこゑふるはしてふ。
れは出來できません。』
如何云どういわけで。れをきませう。』
れはわたし權内けんないことなのです。まあ、かんがへて御覽ごらんなさい、わたしかり貴方あなたこゝからだしたとして、甚麼利益どんなりえきりますか。御覽ごらんなさい、まちものか、警察けいさつかがまた貴方あなたとらへてれてまゐりませう。』
左樣さやうさ/\れはうだ。』と、イワン、デミトリチはひたひあせく、『れはうだ、しかわたし如何どうしたらからう。』
 アンドレイ、エヒミチはイワン、デミトリチの顏付かほつき眼色めいろなどひどつて、如何どうかして若者わかもの手懷てなづけて、落着おちつかせやうとおもふたので、其寐臺そのねだいうへこしおろし、ちよつかんがへて、さて言出いひだす。
貴方あなた如何どうしたらからうと有仰おつしやるが。貴方あなた位置ゐちくするのには、こゝから逃出にげだす一ぱうです。しかれは殘念ざんねんながら無益むえきするので、貴方あなた到底たうていとらへられずにはらんです。社會しやくわい犯罪人はんざいにんや、精神病者せいしんびやうしやや、すべ自分等じぶんら都合つがふわる人間にんげんたいして、自衞じゑいすのには、如何どうしたつてこと出來できません。で、貴方あなたすべきところは一つです。すなは此處こゝこと必要ひつえうであるとかんがへて、安心あんしんをしてゐるのみです。』
『いや、たれにも此處こゝ必要ひつえうぢやりません。』
しかすで監獄かんごくだとか、瘋癲病院ふうてんびやうゐんだとかの存在そんざいする以上いじやうは、たれ其中そのうちはひつてゐねばなりません、貴方あなたでなければ、わたくし、でなければ、ほかものが。まあおちなさい、左樣さやういまはるとほ未來みらいに、監獄かんごくだの、瘋癲病院ふうてんびやうゐん全廢ぜんぱいされたあかつきには、すなはまど鐵格子てつがうしも、病院服びやうゐんふくも、まつた無用むようになつてしまひませう、無論むろん然云さういとき早晩さうばんませう。』
 イワン、デミトリチはニヤリと冷笑わらつた。
さうでせう。』と、かれほそめてふた。『貴方あなただの、貴方あなた補助者ほじよしやのニキタなどのやうな、然云さうい人間にんげんには、未來みらいなどはなんえうわけです。で、貴方あなた時代じだいやうとすましてもゐられるでせうが、いや、わたくしふことはいやしいかもれません、笑止をかしければおわらください。しかしです、新生活しんせいくわつあかつきかゞやいて、正義せいぎかちせいするやうになれば、我々われ/\まちでもおほいまつりをしてよろこいはひませう。が、わたし其迄それまでたれません、其時分そのじぶんにはもうんでしまひます。たれかのまごかは、つい其時代そのじだいひませう。わたくし誠心まごゝろもつ彼等かれらしゆくします、彼等かれらためよろこびます! すゝめ! 同胞どうばう! かみ君等きみらたすけたまはん!』と、イワン、デミトリチはかゞやかして立上たちあがり、まどはうのばしてふた。
格子こうしうちより君等きみら祝福しゆくふくせん、正義せいぎ萬歳ばんざい! 正義せいぎ萬歳ばんざい!』
なに那樣そんなよろこぶのかわたくしにはわけわかりません。』と、院長ゐんちやうはイワン、デミトリチの樣子やうす宛然まるで芝居しばゐのやうだとおもひながら、また其風そのふうひどつてふた。
成程なるほどときれば監獄かんごくや、瘋癲病院ふうてんびやうゐんはいされて、正義せいぎ貴方あなた有仰おつしやとほかちめるでせう、しか生活せいくわつ實際じつさいれでかはるものではありません。自然しぜん法則はふそく依然いぜんとしてもとまゝです、人々ひと/″\猶且やはり今日こんにちごとみ、い、するのでせう、甚麼立派どんなりつぱ生活せいくわつあかつきあらはれたとしても、畢竟つまり人間にんげん棺桶くわんをけ打込うちこまれて、あななかとうじられてしまふのです。』
『では來世らいせいは。』
なに來世らいせい戯談じやうだんつちやけません。』
貴方あなたしんじなさらんとえるがわたししんじてます。ドストエフスキイのうちか、ウオルテルのうちかに、小説中せうせつちゆう人物じんぶつつてることります、かみかつたとしたら、其時そのときひとかみかんがさう。で、わたくしかたしんじてゐます。來世らいせいいとたならば、其時そのときおほいなる人間にんげん智慧ちゑなるものが、早晩さうばんれを發明はつめいしませう。』
『フヽム、うまつた。』
と、アンドレイ、エヒミチは滿足氣まんぞくげ微笑びせうして。
貴方あなたしんじてゐなさるから結構けつこうだ。然云さうい信仰しんかうりさへすれば、假令たとひかべなか塗込ぬりこまれたつて、うたうたひながら生活せいくわつしてかれます。貴方あなた失禮しつれいながら何處どこ教育けういくをおけになつたか?』
わたくし大學だいがくでゝす、しか卒業そつげふせずにしまひました。』
貴方あなた思想家しさうか考深かんがへぶかかたです。貴方あなたのやうなひと甚麼場所どんなばしよにゐても、自身じしんおい安心あんしんもとめること出來できます。人生じんせい解悟かいごむかつて自由じいうなるふか思想しさうと、おろかなるさわぎたいする全然ぜん/\輕蔑けいべつすなは人間にんげん以上いじやうのものを未甞いまだかつらぬ最大幸福さいだいかうふくです。さうして貴方あなた縱令たとひぢゆう鐵格子てつがうしうちんでゐやうが、幸福かうふくつてゐるのでありますから。ヂオゲンを御覽ごらんなさい、かれたるなかんでゐました、れども地上ちじやう諸王しよわうより幸福かうふくつたのです。』
貴方あなたふヂオゲンは白癡はくちだ。』と、イワン、デミトリチは憂悶いうもんしてふた。『貴方あなたなんだつてわたくし解悟かいごだとか、なんだとかとふのです。』と、にはか怫然むきになつて立上たちあがつた。『わたくし人並ひとなみ生活せいくわつこのみます、じつに、わたくし恁云かうい窘逐狂きんちくきやうかゝつてゐて、始終しゞゆうくるしい恐怖おそれおそはれてゐますが、或時あるとき生活せいくわつ渇望かつばうこゝろやされるです、非常ひじやう人並ひとなみ生活せいくわつのぞみます、非常ひじやうに、れは非常ひじやうに。』
 かれ室内しつないあるはじめたが、やが小聲こゞゑまたいひす。
わたくし時折ときをり種々いろ/\こと妄想まうざうしますが、往々わう/\幻想まぼろしるのです、或人あるひとたり、またひとこゑいたり、音樂おんがくきこえたり、またはやしや、海岸かいがん散歩さんぽしてゐるやうにおもはれるときります。何卒どうぞわたくしなか生活せいくわつはなしてください、なにめづらしいことでもいですか。』
まちことをですか、れとも一ぱんこといてゞすか?』
まちことからしてうかゞひませう。れから一ぱんのことを。』
まちではじつにもう退屈たいくつです。だれ相手あひてはなしするものもなし。はなしものもなし。あたらしい人間にんげんはなし。しか此頃このころハヾトフとわか醫者いしやまちにはたですが。』
甚麼人間どんなにんげんが。』
『いや、非文明的ひぶんめいてきな、奈何云どういふものかまちところものは、みなるのもむねわるいやうな人間計にんげんばかり、不幸ふかうまちです。』
左樣さやうさ、不幸ふかうまちです。』と、イワン、デミトリチは溜息ためいきしてわらふ。『しかし一ぱんには奈何どうです、新聞しんぶんや、雜誌ざつし奈何云どういこといてありますか?』
 病室びやうしつうちはもうくらくなつたので、院長ゐんちやうしづか立上たちあがる。さうしてちながら、外國ぐわいこくや、露西亞ロシヤ新聞しんぶん雜誌ざつしいてあるめづらしいこと現今げんこん恁云かうい思想しさう潮流てうりうみとめられるとかとはなしすゝめたが、イワン、デミトリチはすこぶ注意ちゆういしていてゐた。がたちまち、なにおそろしいことでもきふおもしたかのやうに、かれかしらかゝへるなり、院長ゐんちやうはうへくるりとけて、寐臺ねだいうへよこになつた。
奈何どうかしましたか?』と、院長ゐんちやうは問ふ。
『もう貴方あなたには一ごんだつてくちきません。』
 イワン、デミトリチは素氣そつけなくふ。『わたくしかまはんでください!』
奈何どうしたのです?』
かまはんでくださいとつたらかまはんでください、チヨツ、だれ那樣者そんなものくちくものか。』
 院長ゐんちやうかたちゞめて溜息ためいきをしながらく、さうして玄關げんくわんとほりながら、ニキタにむかつてふた。
此處邊こゝらすこ掃除さうぢしたいものだな、ニキタ。ひどにほひだ。』
拜承かしこまりました。』と、ニキタはこたへる。
なん面白おもしろ人間にんげんだらう。』と、院長ゐんちやう自分じぶんへやはうかへりながらおもふた。『こゝてから何年振なんねんぶりかで、恁云かういともかたられる人間にんげんはじめて出會でつくわした。議論ぎろんる、興味きようみかんずべきことに、興味きようみをもかんじてゐる人間にんげんだ。』
 かれ其後そのゝち讀書どくしようちにも、睡眠ねむりいてからも、イワン、デミトリチのことあたまかららず、翌朝よくてうさましても、昨日きのふ智慧ちゑある人間にんげんつたことをわすれること出來できなかつた、便宜べんぎらばもう一かれ是非ぜひたづねやうとおもふてゐた。

 イワン、デミトリチは昨日きのふおな位置ゐちに、兩手りやうてかしらかゝへて、兩足りやうあしちゞめたまゝよこつてゐて、かほえぬ。
『や、御機嫌ごきげんよう、今日こんにちは。』院長ゐんちやうは六號室がうしつはひつてふた。『きみねむつてゐるのですか?』
『いやわたくし貴方あなた朋友ほういうぢやいです。』と、イワン、デミトリチはまくらうちかほ※(二の字点、1-2-22)いよ/\うづめてふた。『また甚麼どんな貴方あなた盡力じんりよくやうが駄目だめです、もう一ごんだつてわたくしくちひらかせること出來できません。』
へんだ。』と、アンドレイ、エヒミチはむ。『昨日きのふ我々われ/\那麼あんなはなしたのですが、なににはか御立腹ごりつぷくで、絶交ぜつかうすると有仰おつしやるのです、なにれともさはることでもまをしましたか、あるひ貴方あなた意見いけんはんかんがへしたので?』
『いや、那樣そんな貴方あなたひませう。』と、イワン、デミトリチはおこして、心配しんぱいさうにまた冷笑的れいせうてきに、ドクトルをるのでつた。『なに貴方あなた探偵たんていしたり、質問しつもんをしたり、こゝるにはあたらんです。何處どこへでもほかつてはういです。わたくしはもう昨日きのふ貴方あなたなんためたのかゞわかりましたぞ。』
これ奇妙きめう妄想まうざうたものだ。』と、院長ゐんちやうおもはず微笑びせうする。『では貴方あなたわたくし探偵たんていだと想像さうざうされたのですな。』
左樣さやう。いや探偵たんていにしろ、またわたくしひそか警察けいさつからはされた醫者いしやにしろ、何方どちらだつて同樣どうやうです。』
『いや貴方あなたは。こまつたな、まあおきなさい。』と、院長ゐんちやう寐臺ねだいそば腰掛こしかけけてせむるがやうにくびる。
しかりに貴方あなたところ眞實しんじつとして、わたくし警察けいさつからまはされたもので、なに貴方あなたことばおさへやうとしてゐるものと假定かていしませう。で、貴方あなた其爲そのため拘引こういんされて、裁判さいばんわたされ、監獄かんごくれられ、あるひ懲役ちようえきれるとしてて、れが奈何どうです、の六號室がうしつにゐるのよりもわるいでせうか。こゝれられてゐるよりも貴方あなたつて奈何どうでせうか? わたくしこゝよりわるところいとおもひます。うならばなに貴方あなた那樣そんなおそれなさるのか?』
 ことばにイワン、デミトリチはおほい感動かんどうされたとえて、かれ落着おちついてこしけた。
 とき丁度ちやうど時過じすぎ。いつもなら院長ゐんちやう自分じぶんへやからへやへとあるいてゐると、ダリユシカが、麥酒ビール旦那樣だんなさま如何いかゞですか、と刻限こくげん戸外こぐわいしづか晴渡はれわたつた天氣てんきである。
わたくし中食後ちゆうじきご散歩さんぽ出掛でかけましたので、ちよつ立寄たちよりましたのです。もう全然まるではるです。』
いま何月なんぐわつです、三ぐわつでせうか?』
左樣さよう、三ぐわつすゑです。』
戸外そと泥濘ぬかつてりませう。』
那樣そんなでもりません、にはにはもう小徑こみち出來できてゐます。』
今頃いまごろ馬車ばしやにでもつて、郊外かうぐわいつたらさぞいでせう。』と、イワン、デミトリチはあかこすりながらふ。『さうしてれからうちあたゝか閑靜かんせい書齋しよさいかへつて……名醫めいゝかゝつて頭痛づつう療治れうぢでもらつたら、ひさしいあひだわたくしはもうこの人間にんげんらしい生活せいくわつないが、それにしても此處こゝじつ不好いやところだ。じつへられん不好いやところだ。』
 昨日きのふ興奮こうふんためにか、かれつかれて脱然ぐつたりして、不好不好いやいやながらつてゐる。かれゆびふるへてゐる。其顏そのかほてもあたまひどいたんでゐるとふのがわかる。
あたゝか閑靜かんせい書齋しよさいと、病室びやうしつとのあひだに、なんいのです。』と、アンドレイ、エヒミチはふた。『人間にんげん安心あんしんと、滿足まんぞくとは身外しんぐわいるのではなく、自身じしんうちるのです。』
奈何云どういわけで。』
通常つうじやう人間にんげんは、ことも、わることみな身外しんぐわいからもとめます。すなは馬車ばしやだとか、書齋しよさいだとかと、しか思想家しさうか自身じしんもとめるのです。』
貴方あなた那樣哲學そんなてつがくは、あたゝかあんずはなにほひのする希臘ギリシヤつておつたへなさい、此處こゝでは那樣哲學そんなてつがく氣候きこうひません。いやさうと、わたくしたれかとヂオゲンのはなしましたつけ、貴方あなたとでしたらうか?』
左樣さやう昨日きのふわたくしと。』
『ヂオゲンは勿論もちろん書齋しよさいだとか、あたゝか住居すまゐだとかには頓着とんぢやくしませんでした。これあたゝかいからです。たるうち寐轉ねころがつて蜜柑みかんや、橄欖かんらんべてゐればれですごされる。しかかれをして露西亞ロシヤすまはしめたならば、かれかならず十二ぐわつどころではない、三ぐわつ陽氣やうきつても、へやうちこもつてゐたがるでせう。寒氣かんきためからだなに屈曲まがつてしまふでせう。』
『いや寒氣かんきだとか、疼痛とうつうだとかはかんじないこと出來できるです。マルク、アウレリイがつたことりませう。「疼痛とうつうとは疼痛とうつうきた思想しさうである、思想しさうへんぜしむるがためには意旨いしちからふるひ、しかしてこれてゝもつて、うつたふることめよ、しからば疼痛とうつう消滅せうめつすべし。」と、これつたことばです、智者ちしや哲人てつじんしくは思想家しさうかたるものゝ、他人たにんことなところてんは、すなはこゝるのでせう、苦痛くつうかろんずるとことに。こゝおいてか彼等かれらつね滿足まんぞくで、何事なにごとにもまたおどろかぬのです。』
『ではわたくしなどはいたづらくるしみ、不滿ふまんならし、人間にんげん卑劣ひれつおどろいたりばかりしてゐますから、白癡はくちだと有仰おつしやるのでせう。』
うぢやいです。貴方あなた※(二の字点、1-2-22)いよ/\ふか考慮かんがへるやうにつたならば、我々われ/\こゝろうごかところの、すべての身外しんぐわい些細さゝいなることにもならぬとおわかりになるときりませう、ひと解悟かいごむかはなければなりません。これ眞實しんじつ幸福かうふくです。』
解悟かいご……。』イワン、デミトリチはかほしかめる。『外部ぐわいぶだとか、内部ないぶだとか……。いやわたくしには然云さういことすこしもわからんです。わたくしつてゐることたゞ是丈これだけです。』と、かれ立上たちあがり、おこつた院長ゐんちやうにらける。『わたしつてゐるのは、かみひと熱血ねつけつと、神經しんけいとよりつくつたと事丈ことだけです! また有機的組織いうきてきそしきは、れが生活力せいくわつりよくつてゐるとすれば、すべての刺戟しげき反應はんおうおこすべきものである。れでわたくし反應はんおうしてゐます。すなはち疼痛とうつうたいしては、絶※ぜつけう[#「口+斗」、51-下-12]と、なんだとをもつこたへ、虚僞きよぎたいしては憤懣ふんまんもつて、陋劣ろうれつたいしては厭惡えんをじやうもつこたへてゐるです。わたくしかんがへではこれそも/\生活せいくわつづくべきものだらうと。また有機體いうきたい下等かとうればけ、よりすくなものかんずるのでらうと、其故それゆゑによりよわ刺戟しげきこたへるのである。で、高等かうとうればしたがつてよりつよ勢力せいりよくもつて、實際じつさい反應はんおうするのです。貴方あなた醫者いしやでおゐでて、如何どうして那麼譯こんなわけがおわかりにならんです。くるしみかろんずるとか、なんにでも滿足まんぞくしてゐるとか、甚麼事どんなことにもおどろかんとふやうになるのには、あれです、那云あゝい状態ざまになつてしまはんければ。』と、イワン、デミトリチはとなり油切あぶらぎつた動物どうぶつしてさうふた。『あるひまた苦痛くつうもつ自分じぶん鍛練たんれんして、れにたいしての感覺かんかくまるうしなつてしまふ、ことばへてへば、生活せいくわつめてしまふやうなことにいたらしめなければならぬのです。わたくし無論むろん哲人てつじんでも、哲學者てつがくしやでもいのですから。』と、さらげきして。『ですから、那麼事こんなこといてはにもわからんのです。議論ぎろんするちからいのです。』
如何どうしてなか/\、貴方あなた立派りつぱ議論ぎろんなさるです。』
貴方あなた例證れいしようきなすつたストア哲學者等てつがくしやら立派りつぱ人達ひとたちです。しかしながら彼等かれら學説がくせつすでに二千年以前ねんいぜんすたれてしまひました、もう一すゝまんのです、これからさきまた進歩しんぽすることい。如何いかんとなればこれ現實的げんじつてきでない、活動的くわつどうてきいからでる。恁云かうい學説がくせつは、たゞ種々しゆ/″\學説がくせつあつめて研究けんきうしたり、比較ひかくしたりして、これ自分じぶん生涯しやうがい目的もくてきとしてゐる、きはめて少數せうすう人計ひとばかりにおこなはれて、多數たすうものれを了解れうかいしなかつたのです。苦痛くつう輕蔑けいべつするとことは、多數たすうひとつたならば、すなは生活せいくわつ其物そのもの輕蔑けいべつするとことになる。如何いかんとなれば、人間にんげん全體ぜんたいは、うゑだとか、さむさだとか、凌辱はづかしめだとか、損失そんしつだとか、たいするハムレツトてき恐怖おそれなどの感覺かんかくから成立なりたつてゐるのです。感覺かんかくうちおい人生じんせい全體ぜんたいふくまつてゐるのです。これにすることにくこと出來できます。が、これ輕蔑けいべつすること出來できんです。でるから、ストア哲學者てつがくしや未來みらいこと出來できんのです。御覽ごらんなさい、世界せかいはじめから、今日こんにちいたるまで、※(二の字点、1-2-22)ます/\進歩しんぽしてくものは生存競爭せいぞんきやうさう疼痛とうつう感覺かんかく刺戟しげきたいする反應はんおうちからなどでせう。』と、イワン、デミトリチはにはか思想しさう聯絡れんらくうしなつて、殘念ざんねんさうにひたひこすつた。
なに肝心かんじんなことをはうとおもつてなくなつた。』
と、かれつゞける。『れぢや基督ハリストスでもれいきませう、基督ハリストスいたり、微笑びせうしたり、かなしんだり、おこつたり、うれひしづんだりして、現實げんじつたいして反應はんおうしてゐたのです。かれ微笑びせうもつくるしみむかはなかつた、輕蔑けいべつしませんでした、かへつて「さかづきわれよりらしめよ」とふて、ゲフシマニヤのその祈祷きたうしました。』
 イワン、デミトリチはつて笑出わらひだしながらすわる。
『でりに人間にんげん滿足まんぞく安心あんしんとが、其身外そのしんぐわいるにらずして、自身じしんうちるとして、またりに苦痛くつう輕蔑けいべつして、何事なにごとにもおどろかぬようになければならぬとして、て、だい貴方あなた自身じしんなんもとづいて、這麼こんなことを主張しゆちやうなさるのか、貴方あなたは一たい哲人ワイゼですか、哲學者てつがくしやですか?』
『いやわたくし哲學者てつがくしやでもなんでもい。が、これ主張しゆちやうするのは、おほい各人かくじん義務ぎむだらうとおもふのです、これ道理だうりことで。』
『いやわたくしらうとおもふのは、なんため貴方あなた解悟かいごだの、苦痛くつうだの、れにたいする輕蔑けいべつだの、其他そのたこといてみづか精通家せいつうかみとめておいでなのですか。貴方あなた何時いつにかくるしんだことでもるのですか、くるしみとこと理解りかいつておでゝすか、あるひ失禮しつれいながら貴方あなたはお幼少ちひさい時分じぶん打擲ぶたれでもなされましたことがおりなのですか?』
いえわたくし兩親りやうしんは、身體上しんたいじやう處刑しよけい非常ひじやうきらつてたのです。』
わたくしちゝにはひど仕置しおきをされました。わたくしちゝ苛酷かこく官員くわんゐんつたのです。が、貴方あなたことまをしてませうかな。貴方あなたは一生涯しやうがいだれにも苛責かしやくされたことく、健康けんかうなることうしごとく、嚴父げんぷ保護ほごもと生長せいちやうし、れで學問がくもんさせられ、それからしてわりやく取付とりつき、二十年以上ねんいじやうあひだも、暖爐だんろいてあり、あかりあかるき無料むれう官宅くわんたくに、奴婢ぬひをさへ使つかつてんで、其上そのうへ仕事しごと自分じぶんおもまゝてもないでもんでゐると位置ゐち。で、生來せいらい貴方あなた怠惰者なまけもので、嚴格げんかく人間にんげん其故それゆゑ貴方あなたんでも自分じぶん面倒めんだうでないやう、はたらかなくともむやうとばか心掛こゝろがけてゐる、事業じげふ代診だいしんや、其他そのたやくざものまかり、さうして自分じぶんあたゝかしづかところして、かねめ、書物しよもつみ、種々しゆ/″\屁理窟へりくつかんがへ、またさけを(かれ院長ゐんちやうあかはなて)んだりして、樂隱居らくいんきよのやうな眞似まねをしてゐる。一げんへば、貴方あなた生活せいくわつふものをないのです、れをまつたらんのです。さうして實際じつさいことたゞ理論りろんうへからばかしてゐる。だから苦痛くつう輕蔑けいべつしたり、何事なにごとにもおどろかんなどとつてゐられる。れははなは單純たんじゆん原因げんいんるのです。「くうくう」だとか、内部ないぶだとか、外部ぐわいぶだとか、苦痛くつうや、たいする輕蔑けいべつだとか、眞正しんせいなる幸福かうふくだとか、と那麼言草こんないひぐさは、みなロシヤの怠惰者なまけもの適當てきたうしてゐる哲學てつがくです。で、貴方あなたうなのだ、いたむと農婦のうふる……と、れが奈何どうしたのだ。疼痛とうつう疼痛とうつうこと思想しさうである。且又かつまた病氣びやうきくてはきてわけにはかぬものだ。はやかへるべし。おれ思想しさうとヴオツカを邪魔じやまるな。とふでせう。またある若者わかもの奈何云どういふう生活せいくわつたらいかと相談さうだんけられる、と、他人たにんづ一ばんかんがへるところらうが、貴方あなたには其答そのこたへはもうちやん出來できてゐる。解悟かいごむかひなさい、眞正しんせい幸福かうふくむかひなさい。とかうふです。我々われ/\這麼格子こんなかうしうち監禁かんきんしていてくるしめて、さうしてこれ立派りつぱことだ、理窟りくつことだ、奈何いかんとなれば病室びやうしつと、あたゝかなる書齋しよさいとのあひだなん差別さべつもない。と、まこと都合つがふ哲學てつがくです。さうして自分じぶん哲人ワイゼかんじてゐる……いや貴方あなたこれはです、哲學てつがくでもなければ、思想しさうでもなし、見解けんかいあへひろいのでもい、怠惰たいだです。自滅じめつです。睡魔すゐまです! 左樣さやう!』と、イワン、デミトリチは昂然かうぜんとして『貴方あなた苦痛くつう輕蔑けいべつなさるが、こゝろみ貴方あなたゆびぽんでもはさんで御覽ごらんなさい、うしたらこゑかぎさけ[#「口+斗」、53-上-13]ぶでせう。』
あるひさけ[#「口+斗」、53-上-15]ばんかもれません。』と、アンドレイ、エヒミチはふ。
那樣事そんなことい、たとへば御覽ごらんなさい、貴方あなた中風ちゆうぶにでもかゝつたとか、あるひかり愚者ぐしや自分じぶん位置ゐち利用りようして貴方あなた公然こうぜんはづかしめていて、れがのちなんむくいしにんでしまつたのをつたならば、其時そのとき貴方あなたひとに、解悟かいごむかひなさいとか、眞正しんせい幸福かうふくむかひなさいとかこと効力かうりよくはたして、何程なにほどふことがわかりませう。』
『これは奇※きばつ[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、53-上-21]だ。』と院長ゐんちやう滿足まんぞくあま微笑びせうしながら、兩手りやうてこすり/\ふ。『わたくし貴方あなたすべてを綜合そうがふする傾向けいかうつてゐるのを、面白おもしろかん敬服けいふくいたしたのです、また貴方あなたいまべられたわたくし人物評じんぶつひやうは、たゞ感心かんしんするほかりません。じつわたくし貴方あなたとの談話だんわおいて、此上このうへ滿足まんぞくましたのです。で、わたくし貴方あなたのおはなし不殘のこらずうかゞひましたから、此度こんど何卒どうぞわたくしはなしをもおください。』

 くてのちなほ二人ふたりはなしは一時間じかんつゞいたが、れより院長ゐんちやうふか感動かんどうして、毎日まいにち毎晩まいばんのやうに六號室がうしつくのであつた。二人ふたり話込はなしこんでゐるうちれてしまこと往々まゝくらゐ。イワン、デミトリチははじめのうち院長ゐんちやう野心やしんでもるのではいかとうたがつて、かれ左右とかくとほざかつて、不愛想ぶあいさうにしてゐたが、段々だん/\れて、つひにはまつた素振そぶりへたのでつた。
 しかるに病院びやうゐんうちでは院長ゐんちやうアンドレイ、エヒミチが六號室がうしつしきりかよしたのをあやしんで、其評判そのひやうばんたかくなり、代診だいしんも、看護婦かんごふも、一やうなんためくのか、なん數時間餘すうじかんよ那麼處あんなところにゐるのか、甚麼話どんなはなしるのでらうか、彼處かしこつても處方書しよはうがきしめさぬではいかと、彼方あつちでも、此方こつちでも、かれ近頃ちかごろなる擧動きよどう評判ひやうばん持切もちきつてゐる始末しまつ。ミハイル、アウエリヤヌヰチは此頃このごろでは始終しゞゆうかれ留守るすばかく。ダリユシカは旦那だんな近頃ちかごろ定刻ていこく麥酒ビールまず、中食迄ちゆうじきまでおくれることが度々たび/\なので困却こまつてゐる。
 或時あるときぐわつすゑ、ドクトル、ハヾトフは、院長ゐんちやう用事ようじつて、其室そのへやつたところらぬのでにはへとさがしにた。すると其處そこ院長ゐんちやうは六號室がうしつるとき、にはからすぐ別室べつしつり、玄關げんくわん立留たちとゞまると、丁度ちやうど恁云かうい話聲はなしごゑきこえたので。
我々われ/\到底たうてい合奏がつそう出來できません、わたくし貴方あなた信仰しんかうせしむるわけにはきませんから。』
と、イワン、デミトリチのこゑ
現實げんじつことまつた貴方あなたにはわからんのです、貴方あなた未嘗いまだかつくるしんだこといのですから。しかわたくしうまれた其日そのひより今日迄こんにちまでえず苦痛くつうめてゐるのです、其故それゆゑわたくし自分じぶん貴方あなたよりもたかいもの、萬事ばんじおいて、よりおほ精通せいつうしてゐるものとみとめてるです。ですから貴方あなたわたくしをしへると場合ばあひいのです。』
わたくしなに貴方あなた自分じぶん信仰しんかうむかはせやうと權利けんり主張しゆちやうはせんのです。』院長ゐんちやう自分じぶんわかつていので、さも殘念ざんねんふやうに。『然云さういわけではいのです、れは貴方あなた苦痛くつうめて、わたくしめないといふことではないのです。せんずるところ苦痛くつう快樂くわいらくうつくもので、那樣事そんなこと奈何どうでもいのです。で、わたくしはうとおもふのは、貴方あなたわたくしとが思想しさうするもの、相共あひとも思想しさうしたり、議論ぎろんたりするちからるものとみとめてゐるといふことです。縱令たとひ我々われ/\意見いけんくらゐちがつても、こゝ我々われ/\の一するところがあるのです。貴方あなたわたくしが一ぱん無智むちや、無能むのうや、愚鈍ぐどんほどいとふてるかとつてくだすつたならば、また如何いかなるよろこびもつて、うして貴方あなたはなしをしてゐるかとことつてくだすつたならば! 貴方あなた知識ちしきひとです。』
 ハヾトフは此時このとき少計すこしばかけて室内しつないのぞいた。イワン、デミトリチは頭巾づきんかぶつて、めう眼付めつきをしたり、ふるへあがつたり、神經的しんけいてき病院服びやうゐんふくまへはしたりしてゐる。院長ゐんちやう其側そのそばこしけて、かしられて、じつとして心細こゝろぼそいやうな、かなしいやうな樣子やうすかほあかくしてゐる。ハヾトフはかたちゞめて冷笑れいせうし、ニキタと見合みあふ。ニキタもおなじくかたちゞめる。
 翌日よくじつハヾトフは代診だいしんれて別室べつしつて、玄關げんくわんまた立聞たちぎゝ
院長殿ゐんちやうどの、とう/\發狂はつきやう御坐ござつたわい。』と、ハヾトフは別室べつしつながらのはなし
しゆあはれめよ、しゆあはれめよ、しゆあはれめよ!』と、敬虔けいけんなるセルゲイ、セルゲヰチはひながら。ピカ/\と磨上みがきあげたくつよごすまいと、には水溜みづたまりけ/\溜息ためいきをする。
打明うちあけてもをしますとな、エウゲニイ、フエオドロヰチもうわたくしうから這麼事こんなことになりはせんかとおもつてゐましたのさ。』

 其後そのご院長ゐんちやうアンドレイ、エヒミチは自分じぶん周圍まはりもの樣子やうすの、ガラリとかはつたことやうやみとめた。小使こづかひ看護婦かんごふ患者等くわんじやらは、かれ往遇ゆきあたびに、なにをかふものゝごと眼付めつきる、ぎてからは私語さゝやく。折々をり/\には會計係くわいけいがゝり小娘こむすめの、かれあいしてゐたところのマアシヤは、せつかれ微笑びせうしてあたまでもでやうとすると、いそいで遁出にげだす。郵便局長いうびんきよくちやうのミハイル、アウエリヤヌヰチは、かれところて、かれはなしいてはゐるが、さきのやうにれは眞實まつたくですとはもうはぬ。なんとなく心配しんぱいさうなかほで、左樣々々さやう/\々々/\、と、打濕うちしめつてつてるかとおもふと、やれヴオツカをせの、麥酒ビールめろのとすゝめはじめる。また醫員いゐんのハヾトフも時々とき/″\ては、何故なにゆゑかアルコール分子ぶんしはひつてゐる飮物のみものせ。ブローミウム加里かりめとすゝめてくので。
 八ぐわつにアンドレイ、エヒミチは市役所しやくしよから、すこ相談さうだんるにつて、出頭しゆつとうねがふと招状せうじやうつた、で、定刻ていこく市役所しやくしよつてると、もう地方軍令部長ちはうぐんれいぶちやうはじめ、郡立學校視學官ぐんりつがくかうしがくゝわん市役所員しやくしよゐん、それにドクトル、ハヾトフ、また一人ひとり見知みしらぬブロンヂンのをとこずらりならんでひかへてゐる。そばにゐたものぐに院長ゐんちやう人間にんげん紹介せうかいした、猶且やはりドクトルで、なんだとかとふポーランドのにくまちから三十ヴエルスタばかへだゝつてゐる、育馬所いくばしよもの今日けふまちなにかのようちよつ通掛とほりかゝつたので、場所ばしよ立寄たちよつたとのことで。
『えゝ只今たゞいま足下そくか御關係ごくわんけい事柄ことがらで、申上まをしあげたいとおもふのですが。』と、市役所員しやくしよゐん居並ゐなら人々ひと/″\挨拶あいさつむとした。『あ、エウゲニイ、フエオドロヰチの有仰おつしやるには、本院ほんゐん藥局やくきよく狹隘せまいので、これ別室べつしつの一つに移轉うつしては奈何どうかとふのです。勿論もちろんこれ雜作ざふさことですが、れには別室べつしつ修繕しうぜんえうすると其事そのことです。』
左樣さやう修繕しうぜんいたさなければならんでせう。』と、院長ゐんちやうかんがへながらふ。『たとへばすみ別室べつしつ藥局やくきよくてやうとふには、わたくしかんがへでは、少額せうがく見積みつもつても五百ゑんりませう、しかあま不生産的ふせいさんてき費用ひようです。』
 みな少時すこしもくしてゐる。院長ゐんちやうしづかまたつゞける。
わたくしはもう十ねんまへから、さう申上まをしあげてゐたのですが、全體ぜんたい病院びやうゐん設立たてられたのは、四十年代ねんだいころでしたが、其時分そのじぶん今日こんにちのやうな資力しりよくではかつたもので。しか今日こんにちところでは病院びやうゐんは、たしか資力ちから以上いじやう贅澤ぜいたくつてゐるので、餘計よけい建物たてもの餘計よけいやくなどで隨分ずゐぶん費用ひようおほつかつてゐるのです。わたくしおもふには、是丈これだけぜにつかふのなら、かたをさへへれば、こゝに二つの模範的もはんてき病院びやうゐん維持ゐぢすること出來できるとおもひます。』
『では一つかたへて御覽ごらんになつたら如何いかゞです。』
と、市役所員しやくしよゐん活發くわつぱつふ。
わたくしさきにも申上まをしあげましたとほり、醫學上いがくじやう事務じむ地方自治體ちはうじちたいはうへ、おわたしになつては如何どうでせう?』
地方自治ちはうじちぜにわたしたら、れこそ彼等かれらみなぬすんでしまひませう。』と、ブロンヂンのドクトルはわらす。
りやきまつてます。』と、市役所員しやくしよゐん同意どういしてわらふ。
 院長ゐんちやう茫然ぼんやりとブロンヂンのドクトルをたが。『しか公平こうへいかんがへなければなりません。』とふた。
 みなまた少時しばしもくしてしまふ。其中そのうちちやる。ドクトル、ハヾトフはみなとの一ぱんはなしうちも、院長ゐんちやうことば注意ちゆういをしていてゐたが突然だしぬけに。『アンドレイ、エヒミチ今日けふ何日なんにちです?』それからつゞいて、ハヾトフとブロンヂンのドクトルとは下手へたなのをかんじてゐる試驗官しけんくわんつたやうな調子てうしで、今日けふ何曜日なにえうびだとか、一ねんうちには何日なんにちるとか、六號室がうしつには面白おもしろ豫言者よげんしやがゐるさうなとかと、交々かはる/″\尋問たづねるのでつた。
 院長ゐんちやうをはりとひには赤面せきめんして。『いや、あれ病人びやうにんです、しか面白おもしろ若者わかもので。』とこたへた。
 もうたれなんとも質問しつもんぬのである。
 院長ゐんちやう玄關げんくわん外套ぐわいたう市役所しやくしよもんたが、これ自分じぶん才能さいのう試驗しけんするところ委員會ゐゐんくわいつたとはじめてさとり、自分じぶんけられた質問しつもんおもし、一人ひとりみづか赤面せきめんし、一しやううちいまはじめて、醫學いがくなるものを、つくづくと情無なさけなものかんじたのである。
 其晩そのばん郵便局長いうびんきよくちやうのミハイル、アウエリヤヌヰチはかれところたが、挨拶あいさつもせずに匆卒いきなりかれ兩手りやうてにぎつて、こゑふるはしてふた。
『おゝきみ、ねえ、きみぼくせつなる意中いちゆうしんじて、ぼく親友しんいうみとめてれることしようしてくださるでせうね……え、きみ!』
 かれ院長ゐんちやうはんとするのをさへぎつて、なにかそわ/\してつゞけてふ。『わたし貴方あなた教育けういくと、高尚かうしやうなるこゝろとをはなは敬愛けいあいしてるです。何卒どうぞきみわたしふことをいてください。醫學いがく原則げんそくは、醫者等いしやらをして貴方あなたじつはしめたのです。しかしながらわたし軍人風ぐんじんふう眞向まつかう切出きりだします。貴方あなた打明うちあけてひます、すなは貴方あなた病氣びやうきなのです。これはもう周圍まはりものうよりみとめてゐるところで、只今たゞいまもドクトル、エウゲニイ、フエオドロヰチがふのには、貴方あなた健康けんかうためには、すべから氣晴きばらしをして、保養ほやうせん一とんければならんと。これ實際じつさいです。ところが、丁度ちやうどわたしせつひまもらつて、かはつた空氣くうきひに出掛でかけやうとおもつてゐる矢先やさき如何どうでせう、一しよ付合つきあつてはくださらんか、さうして舊事ふるいことみんなわすれてしまひませうぢやりませんか。』
しかわたしすこしも身體からだ異状いじやういです、壯健さうけんです。無暗むやみ出掛でかけること出來できません、何卒どうぞわたし友情いうじやうことなんとかしようさせてください。』
 アンドレイ、エヒミチははじめの一分時ぷんじは、なん意味いみもなく書物しよもつはなれ、ダリユシカと麥酒ビールとにわかれて、二十年來ねんらいさだまつた其生活そのせいくわつ順序じゆんじよやぶるとこと出來できなくおもふたが、またふかおもへば、市役所しやくしよりしこと其自そのみづかかんじた不愉快ふゆくわいことおろか人々ひと/″\自分じぶん狂人視きやうじんししてゐる這麼町こんなまちから、すこしでもたらば、ともおもふのでつた。
しか貴方あなたは一たい何處どこへお出掛でかけにならうとふのです?』院長ゐんちやうふた。
『モスクワへも、ペテルブルグへも、ワルシヤワへも……ワルシヤワはじつところです、わたし幸福かうふくの五年間ねんかん彼處あすこおくつたのでした、れはまちです、是非ぜひきませう、ねえきみ。』

 一週間しうかんてアンドレイ、エヒミチは、病院びやうゐんから辭職じしよく勸告くわんこくけたが、かれれにたいしてはいたつて平氣へいきであつた。くてまた週間しうかんぎ、つひにミハイル、アウエリヤヌヰチととも郵便いうびん旅馬車たびばしや打乘うちのり、ちか鐵道てつだうのステーシヨンをして、旅行りよかうにと出掛でかけたのである。
 そらさはやかれて、とほ木立こだちそらせつするあたり見渡みわたされるすゞしい日和ひより。ステーシヨンまでの二百ヴエルスタのみちを二晝夜ちうやぎたが、其間そのあひだうま繼場々々つぎば/\で、ミハイル、アウエリヤヌヰチは、やれ、ちやこつぷあらひやうが奈何どうだとか、うまけるのに手間てまれるとかとりきんで、上句あげくには、いつだまれとか、ふな、とかと眞赤まつかになつてさわぎかへす。道々みち/\も一ぷん絶間たえまもなくしやべつゞけて、カフカズ、ポーランドを旅行りよかうしたことなどをはなす。さうして大聲おほごゑ剥出むきだし、夢中むちゆうになつてドクトルのかほへはふツ/\といき吐掛ふつかける、耳許みゝもと高笑たかわらひする。ドクトルはれがためかんがへふけることもならず、おもひしづこと出來できぬ。
 汽車きしや經濟けいざいために三とうで、喫烟きつえん客車かくしやつた。車室しやしつうちはさのみ不潔ふけつ人間計にんげんばかりではなかつたが、ミハイル、アウエリヤヌヰチはすぐ人々ひと/″\懇意こんいになつてたれにでもはなし仕掛しかけ、腰掛こしかけから腰掛こしかけまはあるいて、大聲おほごゑで、這麼不都合こんなふつがふきはま汽車きしやいとか、みな盜人ぬすびとのやうな奴等計やつらばかりだとか、乘馬じようばけば一にちに百ヴエルスタもばせて、其上そのうへ愉快ゆくわいかんじられるとか、我々われ/\地方ちはう不作ふさくなのはピンぬまなどをからしてしまつたからだ、非常ひじやう亂暴らんばうをしたものだとか、などとつて、ほとんひとにはくちかせぬ、さうして其相間そのあひまには高笑たかわらひと、仰山ぎやうさん身振みぶり
私等わたしら二人ふたりうちいづれが瘋癲者ふうてんしやだらうか。』と、ドクトルは腹立はらだゝしくなつておもふた。『すこしも乘客じようきやくわづらはさんやうにつとめてゐるおれか、れとも這麼こんな一人ひとり大騷おほさわぎをしてゐた、たれにも休息きうそくせぬ利己主義男りこしゆぎをとこか?』
 モスクワへつてから、ミハイル、アウエリヤヌヰチは肩章けんしやう軍服ぐんぷくに、赤線あかすぢはひつたヅボンを穿いてまちあるくにも、軍帽ぐんばうかぶり、軍人ぐんじん外套ぐわいたうた。兵卒へいそつかれ敬禮けいれいをする。アンドレイ、エヒミチはいまはじめていたが、ミハイル、アウエリヤヌヰチはさき大地主おほぢぬしつたときの、あま感心かんしんせぬ風計ふうばかりがいまのこつてゐるとふことを。つくゑまへにマツチはつて、かれれをてゐながら、其癖そのくせ大聲おほごゑげて小使こづかひんでマツチをつていなどとひ、女中ぢよちゆうのゐるまへでも平氣へいき下着したぎ一つであるいてゐる、下僕しもべや、小使こづかひつかまへては、としつたものでもなんでもかまはず、貴樣々々きさま/\頭碎あたまごなし其上そのうへはらつとぐに、野郎やらう大馬鹿おほばか惡體あくたいはじまるので、是等これら大地主おほぢぬしくせであるが、あま感心かんしんしたふうではい、とドクトルもおもふたのであつた。
 モスクワ見物けんぶつだいちやくに、ミハイル、アウエリヤヌヰチは其友そのともづイウエルスカヤ小聖堂せうせいだうき、其處そこかれ熱心ねつしん伏拜ふくはいしてなみだながして祈祷きたうする、さうして立上たちあがり、ふか溜息ためいきしてふには。
縱令たとひしんじなくとも、祈祷きたうをすると、なんともはれんくらゐこゝろやすまる、きみ接吻せつぷん爲給したまへ。』
 アンドレイ、エヒミチは體裁惡きまりわるおもひながら、聖像せいざう接吻せつぷんした。ミハイル、アウエリヤヌヰチはくちびる突出つきだして、あたまりながら、また小聲こゞゑ祈祷きたうしてなみだながしてゐる。れから二人ふたり其處そこて、クレムリにき、大砲王たいはうわう巨大な砲)と大鐘王たいしようわう巨大な鐘、モスクワの二大名物)とを見物けんぶつし、ゆびさはつてたりした。れよりモスクワ川向かはむかふまち景色けしきなどを見渡みわたしながら、救世主きうせいしゆ聖堂せいだうや、ルミヤンツセフの美術館びじゆつくわんなんどをまはつてた。
 中食ちゆうじきはテストフてい料理店れうりてんはひつたが、こゝでもミハイル、アウエリヤヌヰチは、頬鬚ほゝひげでながら、やゝ少時しばらく品書しながき拈轉ひねくつて、料理店れうりやのやうに擧動ふるま愛食家風あいしよくかふう調子てうしで。
今日けふ甚麼御馳走どんなごちそう我々われ/\はしてれるか。』と、無暗むやみはゞかせたがる。

 ドクトルは見物けんぶつもし、あるいてもつてもんでもたのであるが、たゞもう毎日まいにちミハイル、アウエリヤヌヰチの擧動きよどうよわらされ、れがはないて、いやで、いやでならぬので、如何どうかして一にちでも、一ときでも、かれからはなれてたくおもふのでつたが、とも自分じぶんよりかれを一でもはなことはなく、なんでもかれ氣晴きばらしをするが義務ぎむと、見物けんぶつとき饒舌しやべつゞけてなぐさめやうと、附纒つきまとどほしの有樣ありさま。二ふものアンドレイ、エヒミチはこらこらへて、我慢がまんをしてゐたのであるが、三日目かめにはもう如何どうにもこられず。すこ身體からだ工合ぐあひわるいから、今日丈けふだ宿やどのこつてゐると、つひ思切おもひきつてともふたのでつた、しかるにミハイル、アウエリヤヌヰチは、れぢや自分じぶんいへにゐることやう、すこしは休息きうそくなければあしつゞかぬからと挨拶あいさつ。アンドレイ、エヒミチはうんざりして、長椅子ながいすうへよこになり、倚掛よりかゝりはうついかほけたまゝくひしばつて、とも喋喋べら/\しやべるのを詮方せんかたなくいてゐる。りともらぬミハイル、アウエリヤヌヰチは、大得意だいとくいで、佛蘭西フランス早晩さうばん獨逸ドイツやぶつてしまふだらうとか、モスクワには攫客すりおほいとか、うま見掛計みかけばかりでは、其眞價そのしんかわからぬものであるとか。と、れかられへとはなしつゞけていきひまい、ドクトルはみゝ[#「みゝが」は底本では「みゝを」]ガンとして、心臟しんざう鼓動こどうさへはげしくなつてる。とつて、つてれ、だまつてゐてれとはかれにははれぬので、じつ辛抱しんばうしてゐるつらさは一ばいである。ところ仕合しあはせにもミハイル、アウエリヤヌヰチのはうが、此度こんど宿やど引込ひつこんでゐるのが、とうとう退屈たいくつになつてて、中食後ちゆうじきごには散歩さんぽにと出掛でかけてつた。
 アンドレイ、エヒミチはやつと一人ひとりになつて、長椅子ながいすうへのろ/\と落着おちついてよこになる。室内しつない自分じぶん唯一人たゞひとり、と意識いしきするのは如何いか愉快ゆくわいつたらう。眞實しんじつ幸福かうふくじつ一人ひとりでなければべからざるものでると、つく/″\おもふた。さうしてかれ此頃このごろたり、いたりしたことかんがへやうとおもふたが、如何どうしたものか猶且やはり、ミハイル、アウエリヤヌヰチがあたまからはなれぬのでつた。
 のちかれすこしも外出ぐわいしゆつせず、宿やどばか引込ひつこんでゐた。
 とも態々わざ/\休暇きうかつて、自分じぶんとも出發しゆつぱつしたのではいか。ふか友情いうじやうによつてゞはいか、親切しんせつなのではいか。しかじつ是程これほど有難迷惑ありがためいわくことまたらうか。降參かうさんだ、眞平まつぴらだ。とはへ、かれ惡意あくいるのではい。と、ドクトルはさらまた沁々しみ/″\おもふたのでつた。
 ペテルブルグにつてからもドクトルは猶且やはり同樣どうやう宿やどにのみ引籠ひきこもつてそとへはず、一にち長椅子ながいすうへよこになり、麥酒ビールときおきる。
 ミハイル、アウエリヤヌヰチは、始終しゞゆうワルシヤワへはやかうとばかふてゐる。
しかきみわたしなにもワルシヤワへ必要ひつえういのだから、きみ一人ひとりたまへ、さうしてわたし何卒どうぞさき故郷こきやうかへしてください。』アンドレイ、エヒミチは哀願あいぐわんするやうにふた。
とんことさ。』と、ミハイル、アウエリヤヌヰチは聽入きゝいれぬ。『ワルシヤワこそきみせにやならん、ぼくが五ねん幸福かうふく生涯しやうがいおくつたところだ。』
 アンドレイ、エヒミチはれい氣質きしつで、れでもとはね、つひまた嫌々いや/\ながらワルシヤワにもつた。其處そこでもかれ宿やどからずに、終日しゆうじつ相變あひかはらず長椅子ながいすうへころがり、相變あひかはらずとも擧動きよどう愛想あいさうかしてゐる。ミハイル、アウエリヤヌヰチは一人ひとりして元氣可げんきよく、あさから晩迄ばんまでまちあそあるき、舊友きういうたづまはり、宿やどには數度すうどかへらぬつたくらゐ。と、或朝あるあさはや非常ひじやう興奮こうふんした樣子やうすで、眞赤まつかかほをし、かみ茫々ばう/\として宿やどかへつてた。さうしてなに獨語ひとりごとしながら、室内しつないすみからすみへといそいであるく。
名譽めいよ大事だいじだ。』
うだ名譽めいよ大切たいせつだ。全體ぜんたい這麼町こんなまちあし踏込ふみこんだのが間違まちがひだつた。』と、かれさらにドクトルにむかつてふた。『じつわたしけたのです。で、奈何どうでせう、ぜにを五百ゑんしてはくださらんか?』
 アンドレイ、エヒミチはぜに勘定かんぢやうして、五百ゑん無言むごんともわたしたのである。ミハイル、アウエリヤヌヰチは眞赤まつかになつて、面目無めんぼくないやうな、おこつたやうなふうで。『屹度きつと返却かへします、屹度きつと。』などとちかひながら、またばうるなりつた。が、大約おほよそ時間じかんつてからかへつてた。
『おかげ名譽めいよたすかつた。もう出發しゆつぱつしませう。這麼不徳義こんなふとくぎきはまところに一ぷんだつてとゞまつてゐられるものか。掏摸すりども墺探あうたんども。』
 二人ふたり旅行りよかうへてかへつてたのは十一ぐわつまちにはもう深雪みゆき眞白まつしろつもつてゐた。アンドレイ、エヒミチはかへつてれば自分じぶん位置ゐちいまはドクトル、ハヾトフのわたつて、病院びやうゐん官宅くわんたくはや明渡あけわたすのをハヾトフはつてゐるといふとのことまた下女げぢよづけてゐた醜婦しうふは、あひだから、別室べつしつうちところ移轉いてんした。まちには、病院びやうゐん新院長しんゐんちやういての種々いろ/\うはさてられてゐた。下女げぢよ醜婦しうふ會計くわいけい喧嘩けんくわをしたとか、會計くわいけい其女そのをんなまへひざつて謝罪しやざいしたとか、と。
 アンドレイ、エヒミチは歸來かへり早々さう/\其住居そのすまひたづねねばならぬ。
不遠慮ぶゑんりよ御質問おたづねですがなあきみ。』と郵便局長いうびんきよくちやうはアンドレイ、エヒミチにむかつてふた。
貴方あなた何位どのくらゐ財産ざいさんをお所有ちですか?』
 はれて、アンドレイ、エヒミチはもくしたまゝ財嚢さいふぜにかぞて。『八十六ゑん。』
いえうぢやないのです。』ミハイル、アウエリヤヌヰチはさら云直いひなほす。『の、きみ財産ざいさん總計そうけい何位どのくらゐふのをうかゞうのさ。』
『だから總計そうけい八十六ゑんまをしてゐるのです。其切それぎわたしは一もん所有つちやらんので。』
 ミハイル、アウエリヤヌヰチはドクトルの廉潔れんけつで、正直しやうぢきるのはかねてもつてゐたが、しかれにしても、二萬ゑんぐらゐたしか所有もつてゐることゝのみおもふてゐたのに、くといては、ドクトルがまる乞食こじきにもひとしき境遇きやうぐうと、おもはずなみだおとして、ドクトルをいだめ、こゑげてくのでつた。

 ドクトル、アンドレイ、エヒミチはベローワとをんな小汚こぎたないいへの一りることになつた。かれまへのやうに八きて、ちやのちすぐ書物しよもつたのしんでんでゐたが、ごろあたらしい書物しよもつへぬので、古本計ふるほんばかんでゐるせゐか、以前程いぜんほどには興味きようみかんぜぬ。或時あるとき徒然つれ/″\なるにまかせて、書物しよもつ明細めいさい目録もくろく編成へんせいし、書物しよもつにはふだを一々貼付はりつけたが、這麼機械的こんなきかいてき單調たんてう仕事しごとが、かへつて何故なにゆゑ奇妙きめうかれ思想しさうろうして、興味きようみをさへへしめてゐた。
 かれ其後そのご病院びやうゐんに二イワン、デミトリチをたづねたのでるがイワン、デミトリチは二ながら非常ひじやう興奮こうふんして、激昂げきかうしてゐた樣子やうすで、饒舌しやべことはもうきたとつてかれ拒絶きよぜつする。かれ詮方せんかたなくおやすみなさい、とか、左樣さやうなら、とかつてやうとすれば、『勝手かつてにしやがれ。』と怒鳴どなける權幕けんまく。ドクトルもれからはくのを見合みあはせてはゐるものゝ、猶且やはりおもふてゐた。
 さきにはかれ中食後ちうじきごは、屹度きつとへやすみからすみへとあるいてかんがへにしづんでゐるのがつねつたが、ごろ中食ちうじきからばんちや時迄ときまでは、長椅子ながいすうへよこになる。と、いつめうな一つ思想しさうむねうかぶ。れは自分じぶんが二十年以上ねんいじやう勤務つとめてゐたのに、れにたいして養老金やうらうきんも、一時金じきんれぬことで、かれれをおもふと殘念ざんねんつた。勿論もちろんあま正直しやうぢきにはつとめなかつたが、年金ねんきんなどふものは、縱令たとひ正直しやうぢきらうが、からうが、すべつとめたものけべきでる。勳章くんしやうだとか、養老金やうらうきんだとかふものは、徳義上とくぎじやう資格しかくや、才能さいのうなどに報酬はうしうされるのではなく、一ぱん勤務つとめ其物そのものたいして報酬はうしうされるのでる。しからばなん自分計じぶんばか報酬はうしうをされぬのでらう。また今更いまさらかんがへれば旅行りよかうりて、無慘々々むざ/\あたら千ゑんつかてたのは奈何いかにも殘念ざんねん酒店さかやには麥酒ビールはらひが三十二ゑんとゞこほる、家賃やちんとても其通そのとほり、ダリユシカはひそか古服ふるふくやら、書物しよもつなどをつてゐる。此際このさいの千ゑんでもつたなら、甚麼どんなやくことかと。
 かれまたかゝ位置ゐちになつてからも、ひと自分じぶん抛棄うつちやつてはいてれぬのが、かへつて迷惑めいわく殘念ざんねんつた。ハヾトフは折々をり/\病氣びやうき同僚どうれう訪問はうもんするのは、自分じぶん義務ぎむるかのやうに、かれところ蒼蠅うるさる。かれはハヾトフがいやでならぬ。其滿足そのまんぞくかほひと見下みさげるやうな樣子やうすかれんで同僚どうれうことばふか長靴ながぐつ此等これらみな氣障きざでならなかつたが、ことしやくさはるのは、かれ治療ちれうすること自分じぶんつとめとして、眞面目まじめ治療ちれうをしてゐるつもりなのが。で、ハヾトフは訪問はうもんをするたびに、屹度きつとブローミウム加里カリはひつたびんと、大黄だいおう丸藥ぐわんやくとをつてる。
 ミハイル、アウエリヤヌヰチも猶且やはり初中終しよつちゆう、アンドレイ、エヒミチを訪問たづねてて、氣晴きばらしせることが自分じぶん義務ぎむ心得こゝろえてゐる。で、ると、宛然まるで空々そら/″\しい無理むり元氣げんきして、ひて高笑たかわらひをしてたり、今日けふ非常ひじやう顏色かほいろいとか、なんとか、ワルシヤワの借金しやくきんはらはぬので、内心ないしんくるしくるのと、はづかしくところから、餘計よけいひてつて、大聲おほごゑわらひ、高調子たかてうし饒舌しやべるのでるが、かれはなしにはもう倦厭うんざりしてゐるアンドレイ、エヒミチは、くのもなか/\に大儀たいぎで、かれると何時いつもくるりとかほかべけて、長椅子ながいすうへよこになつたり、さうしてくひしばつてゐるのであるが、れが段々だん/\度重たびかさなればかさなほどたまらなく、つひには咽喉のどあたりまでがむづ/\してるやうなかんじがしてた。

 或日あるひ郵便局長いうびんきよくちやうミハイル、アウエリヤヌヰチは、中食後ちゆうじきごにアンドレイ、エヒミチのところ訪問はうもんした。アンドレイ、エヒミチは猶且やはりれい長椅子ながいすうへ。すると丁度ちやうどハヾトフもブローミウム加里カリびんたづさへてつてた。アンドレイ、エヒミチはおもさうに、つらさうにおこしてこしけ、長椅子ながいすうへ兩手りやうて突張つツぱる。
『いや今日こんにちは、おゝきみ今日けふ顏色かほいろ昨日きのふよりもまたずツといですよ。まづ結構けつこうだ。』と、ミハイル、アウエリヤヌヰチは挨拶あいさつする。
『もう全快ぜんくわいしてもいでせう。』とハヾトフはあくびをしながらことばへる、
平癒なほりますとも、さうしてもう百ねんきまさあ。』と、郵便局長いうびんきよくちやう愉快氣ゆくわいげふ。
『百ねんてさうもかんでせうが、二十ねん其邊そこらびますよ。』ハヾトフはなぐさがほ。『なんんでもりませんさ、なあ同僚どうれう悲觀ひくわんももう大抵たいていになさるがいですぞ。』
我々われ/\隱居いんきよするにははやいです。ハヽヽ左樣さうでせうドクトル、隱居いんきよするのには。』郵便局長いうびんきよくちやうふ。
來年らいねんあたりはカフカズへ出掛でかけやうぢやりませんか、乘馬じようばもつてからに彼方此方あちこち驅廻かけまはりませう。さうしてカフカズからかへつたら、此度こんど結婚けつこん祝宴しゆくえんでもげるやうになりませう。』と片眼かためをパチ/\して。『是非ぜひ一つきみ結婚けつこんさせやう……ねえ、結婚けつこんを。』
 アンドレイ、エヒミチはむかツとして立上たちあがつた。
失敬しつけいな!』と、一言ひとことさけ[#「口+斗」、60-上-5]ぶなりドクトルはまどはう退け。『全體ぜんたい貴方々あなたがた這麼失敬こんなしつけいことつてゐて、自分じぶんではかんのですか。』
 やはらかにつもりつたが、はんして荒々あら/\しくこぶしをもかためて頭上かしらのうへ振翳ふりかざした。
餘計よけい世話せわかんでもい。』※(二の字点、1-2-22)ます/\荒々あら/\しくなる。
二人ふたりながらかへつてください、さあ、きなさい。』
 自分じぶんこゑではこゑふるへながらさけ[#「口+斗」、60-上-11]ぶ。
 ミハイル、アウエリヤヌヰチとハヾトフとは呆氣あつけられてみつめてゐた。
二人ふたりとも、さあておでなさい。さあ。』アンドレイ、エヒミチはさけ[#「口+斗」、60-上-15]つゞけてゐる。『鈍痴漢とんちんかんの、薄鈍うすのろ奴等やつらくすり絲瓜へちまるものか、馬鹿ばかな、輕擧かるはずみな!』ハヾトフと郵便局長いうびんきよくちやうとは、權幕けんまく辟易へきえきして戸口とぐちはう狼狽まご/\く。ドクトルは其後そのあとにらめてゐたが、匆卒ゆきなりブローミウム加里カリびんるよりはやく、發矢はつしばか其處そこなげつける、びん微塵みぢん粉碎ふんさいしてしまふ。
畜生ちくしやう! け! さツさとけ!』とかれ玄關迄げんくわんまで駈出かけだして、泣聲なきごゑげて怒鳴どなる。『畜生ちくしやう!』
 客等きやくら立去たちさつてからも、かれ一人ひとり少時しばらく惡體あくたいいてゐる。しか段々だん/\落着おちつくにしたがつて、有繋さすがにミハイル、アウエリヤヌヰチにたいしてはどくで、さだめし恥入はぢいつてゐることだらうとおもへば。あゝ思慮しりよ知識ちしき解悟かいご哲學者てつがくしや自若じゝやくいづくにかると、かれ只管ひたすらおもふて、ぢて、みづか赤面せきめんする。
 其夜そのよ慙恨ざんこんじやうられて、一すゐだもず、翌朝よくてうつひけつして、局長きよくちやうところへとわび出掛でかける。
『いやもう過去くわこわすれませう。』と、ミハイル、アウエリヤヌヰチはかたかれにぎつてふた。『過去くわこことおもすものは、兩眼りやうがんくじつてしまひませう。リユバフキン!』と、かれ大聲おほごゑたれかをぶ。郵便局いうびんきよく役員やくゐんも、來合きあはしてゐた人々ひと/″\も、一せい吃驚びつくりする。『椅子いすつてい。貴樣きさまつてれ。』と、かれ格子越かうしごし書留かきとめ手紙てがみかれ差出さしだしてゐる農婦のうふ怒鳴どなつける。『おれようるのがえんのか。いや過去くわこおもしますまい。』とかれ調子てうしを一だんやさしくしてアンドレイ、エヒミチにむかつてふ。『さあきみたまへ、さあ何卒どうか。』
 一分間ぷんかんもくして兩手りやうてひざこすつてゐた郵便局長いうびんきよくちやうまた云出いひだした。
わたくしけつしてきみたいして立腹りつぷくいたさんので、病氣びやうきなれば據無よんどころないのです、おさつもをすですよ。昨日きのふきみ逆上のぼせられたのちわたしはハヾトフとながいこと、きみのことを相談さうだんしましたがね、いやきみ此度こんど本氣ほんきになつて、病氣びやうき療治れうぢたまはんとかんです。わたし友人いうじんとしてなに打明うちあけます。』と、かれさらつゞけて。『全體ぜんたいきみ不自由ふじいう生活せいくわつをされてゐるので、いへへば清潔せいけつでなし、きみ世話せわをするものし、療治れうぢをするにはぜにし。ねえきみ、で我々われ/\せつきみすゝめるのだ。何卒どうぞ是非ぜひ一ついていたゞきたい、とふのは、じつ然云さういわけであるから、むしろきみ病院びやうゐんはひられたはう得策とくさくであらうとかんがへたのです。ねえきみ病院びやうゐん比較的ひかくてき食物しよくもつし、看護婦かんごふはゐる、エウゲニイ、フエオドロヰチもゐる。れは勿論もちろんこれ我々丈われ/\だけはなしだが、かれあま尊敬そんけいをすべき人格じんかくをとこではいが、じゆつけてはまたなか/\あなどられんとおもふ。でねがはくはだ、きみ何卒どうぞ一つ充分じゆうぶんかれしんじて、療治れうぢせん一にしていたゞきたい。かれわたし屹度きつときみ引受ひきうけるとつてゐたよ。』
 アンドレイ、エヒミチはせつなる同情どうじやうことばと、其上そのうへなみだをさへほゝらしてゐる郵便局長いうびんきよくちやうかほとをて、ひど感動かんどうしてしづかくちひらいた。
きみ彼等かれらしんじなさるな。うそなのです。わたし病氣びやうきふのはそも/\うなのです。二十年來ねんらいわたしまちにゐてたゞ一人ひとり智者ちしやつた。ところれは狂人きちがひるとふ、是丈これだけ事實じゝつです。でわたし狂人きちがひにされてしまつたのです。しかしなあにわたし奈何どうでもいので、からして畢竟つまりなんにでも同意どういいたしませう。』
病院びやうゐんへおはひりなさい、ねえきみ。』
左樣さやう奈何どうでもいです、縱令よしんばあななかはひるのでも。』
『で、きみ萬事ばんじエウゲニイ、フエオドロヰチのことばしたがふやうに、ねえきみたのむから。』
よろしい、わたしいまじつもつにつちもさつちもかん輪索わな陷沒はまつてしまつたのです。もう萬事休矣おしまひです覺悟かくごはしてゐます。』
『いや屹度きつと平癒なほるですよ。』
 格子こうしそとには公衆こうしゆう次第しだいむらがつてる。アンドレイ、エヒミチは、ミハイル、アウエリヤヌヰチの公務こうむ邪魔じやまるのをおそれて、はなし其丈それだけにして立上たちあがり、かれわかれて郵便局いうびんきよくた。
 丁度ちやうど其日そのひ夕方ゆうがた、ドクトル、ハヾトフはれい毛皮けがは外套ぐわいたうに、ふか長靴ながぐつ昨日きのふ何事なにごとかつたやうなかほで、アンドレイ、エヒミチを其宿そのやど訪問たづねた。
貴方あなた少々せう/\ねがひつてたのですが、何卒どうぞ貴方あなたわたくしと一つ立合診察たちあひしんさつてはくださらんか、如何いかゞでせう。』と、なくハヾトフはふ。
 アンドレイ、エヒミチはハヾトフが自分じぶん散歩さんぽさそつて氣晴きばらしせやうとふのか、あるひまた自分じぶん那樣仕事そんなしごとさづけやうとつもりなのかとかんがへて、かくふく着換きかへてともとほりたのである。かれはハヾトフが昨日きのふことおくびにもさず、にもけてゐぬやうな樣子やうすて、心中しんちゆう一方ひとかたならず感謝かんしやした。這麼非文明的こんなひぶんめいてき人間にんげんから、かゝ思遣おもひやりをけやうとは、まつた意外いぐわいつたので。
貴方あなた有仰おつしや病人びやうにん何處どこなのです?、』アンドレイ、エヒミチはふた。
病院びやうゐんです、もううから貴方あなたにもいたゞたいおもつてゐましたのですが……めう病人びやうにんなのです。』
 やが病院びやうゐんにはり、本院ほんゐん一周ひとまはりして瘋癲病者ふうてんびやうしやれられたる別室べつしつむかつてつた。ハヾトフは其間そのあひだ何故なにゆゑもくしたまゝさツさと六號室がうしつ這入はひつてつたが、ニキタはれいとほ雜具がらくたつかうへから起上おきあがつて、彼等かれられいをする。
はいはうから病人びやうにんなのですがな。』とハヾトフは小聲こごゑふた。『や、わたし聽診器ちやうしんきわすれてた、つてますから、ちよつ貴方あなた此處こゝでおください。』
かれはアンドレイ、エヒミチをこゝ一人ひとりのこして立去たちさつた。

 すでぼつした。イワン、デミトリチはかほまくらうづめて寐臺ねだいうへよこになつてゐる。中風患者ちゆうぶくわんじやなにかなしさうにしづかきながら、くちびるうごかしてゐる。ふとつた農夫のうふと、郵便局員いうびんきよくゐんとはねむつてゐて、六號室がうしつうち※(「門<貝」、第4水準2-91-57)げきとしてしづかであつた。
 アンドレイ、エヒミチは、イワン、デミトリチの寐臺ねだいうへこしけて、大約おほよそ半時間はんじかんつてゐると、へやいて、はひつてたのはハヾトフならぬ小使こづかひのニキタ。病院服びやうゐんふく下着したぎ上靴抔うはぐつなど小腋こわきかゝへて。
何卒どうぞ閣下かくかこれをおください。』と、ニキタは前院長ぜんゐんちやうまへつて丁寧ていねいふた。『あれ閣下かくかのお寐臺ねだいで。』と、かれさらあたらしくおかれた寐臺ねだいはうして。『なんでもりませんです。かならすぐ御全快ごぜんくわいになられます。』
 アンドレイ、エヒミチはこゝいたつてはじめてめた。一ごんはずにかれはニキタのしめした寐臺ねだいうつり、ニキタがつてつてゐるので、ぐにてゐたふくすツぽりて、病院服びやうゐんふく着換きかへてしまつた。シヤツはながし、ヅボンしたみじかし、上着うはぎさかないたにほひがする。『屹度きつともなくおなほりでせう。』と、ニキタはまたふてアンドレイ、エヒミチの脱捨ぬぎすてふく一纏ひとまとめにして、小腋こわきかかへたまゝてゝく。
奈何どうでもい……。』と、アンドレイ、エヒミチは體裁きまりわるさうに病院服びやうゐんふくまへ掻合かきあはせて、さも囚人しうじんのやうだとおもひながら、『奈何どうでもいわ……燕尾服えんびふくだらうが、軍服ぐんぷくだらうが、病院服びやうゐんふくだらうが、おなことだ。』
しか時計とけい奈何どうしたらう、れからポツケツトにれていた手帳てちやうも、卷莨まきたばこも、や、ニキタはもう着物きもの悉皆のこらずつてつた。いやらん、もうまで、ヅボンや、チヨツキ、長靴ながぐつにはよういのかもれん。しか奇妙きめう成行なりゆきさ。』と、アンドレイ、エヒミチはいまなほの六號室がうしつと、ベローワのいへなんかはりもいとおもふてゐたが、奈何云どういふものか、手足てあしえて、ふるへてイワン、デミトリチがいまにもきて自分じぶん姿すがたて、なんとかおもふだらうとおそろしいやうなもして、つたり、たり、またつたり、あるいたり、やうやく半時間はんじかん、一時間計じかんばかりすわつてゐてたが、かなしいほど退屈たいくつになつてて、奈何どうして這麼處こんなところに一週間しうかんとゐられやう、して一ねん、二ねんなど到底たうてい辛棒しんぼうをされるものでないとおもいた。さうおもへば※(二の字点、1-2-22)ます/\居堪ゐたまらず、つてすみからすみへとあるいてる。『さうしてから奈何どうする、あゝ到底たうてい居堪ゐたゝまらぬ、這麼風こんなふうで一しやう!』
 かれはどつかりすわつた、よこになつたがまた起直おきなほる。さうしてそでひたひながれる冷汗ひやあせいたが顏中かほぢゆう燒魚やきざかな※(「月+亶」、第3水準1-90-52)なまぐさにほひがしてた。かれまたあるす。『なにかの間違まちがひだらう……話合はなしあつてにやわからん、屹度きつと誤解ごかいるのだ。』
 イワン、デミトリチはふとさまし、脱然ぐつたりとした樣子やうすりやうこぶしほゝく。つばく。はじちよつかれには前院長ぜんゐんちやうかぬやうでつたがやがれとて、其寐惚顏そのねぼけがほにはたちま冷笑れいせううかんだので。
『あゝ貴方あなたこゝれられましたのですか。』とかれしはがれたこゑ片眼かためほそくしてふた。『いや結構けつこう散々さん/″\ひとうしてつたから、此度こんど御自分ごじぶんはれるばんだ、結構々々けつこう/\。』
なにかの多分たぶん間違まちがひです。』とアンドレイ、エヒミチはかたちゞめてふ。『間違まちがひ相違さうゐないです。』
 イワン、デミトリチはまたゆかつばいて、よこになり、さうしてつぶやいた。『えゝ、生甲斐いきがひ生活せいくわつだ、如何いかにも殘念ざんねんことだ、苦痛くつう生活せいくわつがオペラにあるやうな、アポテオズでをはるのではなく、これがあゝをはるのだ。非人ひにんて、死者ししやや、あしとらへてあななか引込ひきこんでしまふのだ、うツふ! だがなんでもない……其換そのかはおれからけてて、此處こゝらの奴等やつら片端かたツぱしからおどしてれる、みんな白髮しらがにしてしまつてる。』
 をりしもモイセイカはそとからかへきたり、其處そこ前院長ぜんゐんちやうのゐるのをて、すぐのばし、
『一せんくんなさい!』

 アンドレイ、エヒミチはまどところつてそとながむれば、はもうとツぷりてゝ、那方むかふ野廣のびろはたくらかつたが、ひだりはう地平線上ちへいせんじやうより、いましもつめたい金色こんじきつきのぼところ病院びやうゐんへいから百歩計ぽばかりのところに、いしかきめぐらされたたかい、しろいへえる。これ監獄かんごくる。
これ現實げんじつふものか。』アンドレイ、エヒミチはおもはず慄然ぞつとした。
 凄然せいぜんたるつきへいうへくぎ監獄かんごく骨燒場ほねやきばとほほのほ、アンドレイ、エヒミチは有繋さすが薄氣味惡うすきみわるかんたれて、しよんぼりつてゐる。と直後すぐうしろに、ほつばか溜息ためいきこゑがする。振返ふりかへればむねひか徽章きしやうやら、勳章くんしやうやらをげたをとこが、ニヤリとばか片眼かためをパチ/\と、自分じぶんわらふ。
 アンドレイ、エヒミチはひてこゝろ落着おちつけて、なんの、つきも、監獄かんごくれが奈何どうなのだ、壯健さうけんもの勳章くんしやうけてゐるではないか。と、思返おもひかへしたものゝ、猶且やはり失望しつばうかれこゝろ※(二の字点、1-2-22)いよ/\つのつて、かれおもはずりやう格子かうしとらへ、力儘ちからまかせに搖動ゆすぶつたが、堅固けんご格子かうしはミチリとのおとぬ。
 荒凉くわうりやうたれたかれは、なにかなしてこゝろまぎらさんと、イワン、デミトリチの寐臺ねだいところつてこしかける。
わたくしはもう落膽がつかりしてしまひましたよ、きみ。』と、かれ顫聲ふるへごゑして、冷汗ひやあせきながら。『まつた落膽がつかりしてしまひました。』
『では一つ哲學てつがく議論ぎろんでもおんなさい。』と、イワン、デミトリチは冷笑れいせうする。
『あゝ絶體絶命ぜつたいぜつめい……うだ。何時いつ貴方あなた露西亞ロシヤには哲學てつがくい、しかたれも、かれも、丁斑魚めだかでさへも哲學てつがくをすると有仰おつしやつたつけ。しか丁斑魚めだか哲學てつがくをすればつて、だれにもがいいのでせう。』アンドレイ、エヒミチは奈何いかにも情無なさけないとふやうなこゑをして。『奈何どうしてきみ那樣そんな氣味きみだとふやうな笑樣わらひやうをされるのです。いく丁斑魚めだかでも滿足まんぞくられんなら、哲學てつがくずにはられんでせう。いやしく智慧ちゑある、教育けういくある、自尊じそんある、自由じいうあいする、すなはかみざうたる人間にんげんが。たゞ醫者いしやとして、邊鄙へんぴなる、蒙昧もうまいなる片田舍かたゐなかに一しやうびんや、ひるや、芥子粉からしこだのをいぢつてゐるよりほかに、なんこといのでせうか、詐欺さぎ愚鈍ぐどん卑劣漢ひれつかん、と一しよになつて、いやもう!』
くだらんこと貴方あなたこぼしてなさる。醫者いしや不好いやなら大臣だいじんにでもなつたらいでせう。』
『いや、何處どこくのも、なにるのものぞまんです。かんがへれば意氣地いくぢいものさ。是迄これまで虚心きよしん平氣へいきで、健全けんぜんろんじてゐたが、一てう生活せいくわつ逆流ぎやくりうるゝや、たゞちくじけて落膽らくたんしづんでしまつた……意氣地いくぢい……人間にんげん意氣地いくぢいものです、貴方あなたとても猶且やはりうでせう、貴方あなたなどは、才智さいちすぐれ、高潔かうけつではあり、はゝちゝとも高尚かうしやう感情かんじやう吸込すひこまれたかたですが、實際じつさい生活せいくわつるやいなやたゞちつかれて病氣びやうきになつてしまはれたです。じつひと微弱びじやくなものだ。』
 かれには悲愴ひさうかんほかに、だ一しゆ心細こゝろぼそかんじが、こと日暮ひぐれよりかけて、しんみりみておぼえた。これ麥酒ビールと、たばことが、しいのでつたとかれつひ心着こゝろづく。
わたし此處こゝからきますよ、きみ。』と、かれはイワン、デミトリチにふた。『こゝあかりつてるやうに言付いひつけますから……奈何どうして這麼眞暗こんなまつくらところにゐられませう……我慢がまん爲切しきれません。』
 アンドレイ、エヒミチは戸口とぐちところすゝんで、けた。するとニキタが躍上をどりあがつて、其前そのまへ立塞たちふさがる。
何方どちらへ! けません、けません!』と、かれさけ[#「口+斗」、63-下-12]ぶ。『もうときですぞ!』
『いやにはあるいてるのだ。』と、アンドレイ、エヒミチは怖々おど/\する。
けません、けません! 那樣事そんなことせてもいとはたれからも言付いひつかりません。御存ごぞんじでせう。』
 ふなりニキタはぱたりさうしてめたてゝ猶且やはり其所そこ仁王立にわうだち
しかおれたつてれがためだれなんふ。』アンドレイ、エヒミチはかたちゞめる。『わけわからん、おいニキタおれなければならんのだ!』かれこゑふるへる。『ようるのだ!』
規律きりつみだこと出來できません、けません!』とニキタはさとすやうな調子てうし
なんだと畜生ちくしやう!』と、此時このときイワン、デミトリチはきふむツくり起上おきあがる。『なん彼奴きやつさんとはふがある、我々われ/\こゝ閉込とぢこめてわけい。法律はふりつてらしても明白あきらかだ、何人なにびといへども裁判さいばんもなくして無暗むやみひと自由じいううばこと出來できるものか! 不埒ふらちだ! 壓制あつせいだ!』
勿論もちろん不埒ふらちですとも。』アンドレイ、エヒミチはイワン、デミトリチの加勢かせいとみちからて、つよくなり。『おれようるのだ! るのだ! 貴樣きさまなん權利けんりる! せとつたらせ!』
わかつたか馬鹿野郎ばかやらう!』と、イワン、デミトリチはさけ[#「口+斗」、64-上-6]んで、こぶしかためてたゝく。『やいけろ! けろ! けんか! 開けんなら打破ぶちこはすぞ! 人非人ひとでなし! 野獸けだもの!』
けろ!』アンドレイ、エヒミチは全身ぜんしんぶる/\ふるはして。『おれめいずるのだツ!』
『もう一つてろ!』那裏むかふでニキタのこゑ。『もう一つてろ!』
『ぢや、エウゲニイ、フエオドロヰチでも此處こゝんでい、ちよつおれれツてつてるとへ……ちよつとでいからツて!』
明日あしたになればおでになります。』
何日いつになつたつて我々われ/\けつしてすものか。』イワン、デミトリチはふ、『我々われ/\こゝくさらしてしま料簡れうけんだらう! 來世らいせい地獄ぢごくがなくてるものか、這麼人非人共こんなひとでなしども如何どうしてゆるされる、那樣事そんなこと正義せいぎ何處どこにある、えい、けろ、畜生ちくしやう!』かれしやがれたこゑしぼつて、投掛なげかけ。『いか、貴樣きさまあたまたゝるぞ! 人殺奴ひとごろしめ!』
 ニキタはぱツとけるより、阿修羅王あしゆらわうれたるごとく、兩手りやうてひざでアンドレイ、エヒミチを突飛つきとばし、ほねくだけよと其鐵拳そのてつけん眞向まつかうに、したゝかれかほたゝゑた。アンドレイ、エヒミチはアツとつたまゝ、緑色みどりいろ大浪おほなみあたまから打被うちかぶさつたやうにかんじて、寐臺ねだいうへいてかれたやうな心地こゝちくちうちには鹽氣しほけおぼえた、大方おほかたからの出血しゆつけつであらう。かれおよがんとるものゝやうに兩手りやうてうごかして、たれやらの寐臺ねだいにやう/\取縋とりすがつた。とまた此時このとき振下ふりおろしたニキタのだい二の鐵拳てつけん背骨せぼねゆがむかともだゆるひまもなく打續うちつゞいて、又々また/\度目どめ鐵拳てつけん
 イワン、デミトリチは此時このときたか※聲さけびごゑ[#「口+斗」、64-下-3]かれたれたのであらう。
 れよりは室内しつないまたおともなく、ひツそりしづまかへつた。をりから淡々あは/\しいつきひかり鐵窓てつさうれて、ゆかうへあみたるごと墨畫すみゑゆめのやうに浮出うきだしたのは、[#ルビの「い」は底本では「いは」]ふやうなく、凄絶せいぜつまた慘絶さんぜつきはみつた、アンドレイ、エヒミチはよこたはつたまゝいきころして、ちゞめて、もう一たれはせぬかとまちかまへてゐる。と、たちまおぼゆるむね苦痛くつうちやう疼痛とうつうたれするどかまもつて、ゑぐるにはあらぬかとおもはるゝほどかれまくら強攫しがき、きりゝをばくひしばる。いまはじめてかれる。其有耶無耶そのうやむやになつた腦裏なうりに、なほ朧朦氣おぼろげた、つきひかりてらされたる、くろかげのやうなへや人々ひと/″\こそ、何年なんねんことく、かゝ憂目うきめはされつゝりしかと、がたおそろしさはいなづまごとこゝろうちひらめわたつて、二十有餘年いうよねんあひだ奈何どうして自分じぶんこれらざりしか、らんとはざりしか。とそらおそろしくおもふのでつたが、また剛情がうじやう我慢がまんなる其良心そのりやうしんは、とはみづからはいまかつ疼痛とうつうかんがへにだにもらぬのでつた、しからば自分じぶんわるいのではいのであるとさゝやいて、宛然さながら襟下えりもとから冷水ひやみづびせられたやうにかんじた。かれ起上おきあがつて聲限こゑかぎりにさけ[#「口+斗」、64-下-18]び、さうしてこゝより拔出ぬけいでて、ニキタを眞先まつさきに、ハヾトフ、會計くわいけい代診だいしん鏖殺みなごろしにして、自分じぶんつゞいて自殺じさつしてしまはうとおもふた。が、奈何どうしたのかこゑ咽喉のどからでず、あしまたごとうごかぬ、いきさへつまつてしまひさうにおぼゆる甲斐かひなさ。かれくるしさにむねあたりむしり、病院服びやうゐんふくも、シヤツも、ぴり/\と引裂ひきさくのでつたが、やが其儘そのまゝ氣絶きぜつして寐臺ねだいうへたふれてしまつた。

 翌朝よくてうかれはげしき頭痛づつうおぼえて、兩耳りやうみゝり、全身ぜんしんにはたゞならぬなやみかんじた。さうして昨日きのふけた出來事できごとおもしても、はづかしくもなんともかんぜぬ。昨日きのふ小膽せうたんつたことも、つきさへも氣味きみわることも、以前いぜんにはおもひもしなかつた感情かんじやうや、思想しさうありまゝ吐露とろしたこと、すなは哲學てつがくをしてゐる丁斑魚めだか不滿足ふまんぞくことふたことなども、いまかれつてなんでもなかつた。
 かれはず、まず、うごきもせず、よこになつてもくしてゐた。
『あゝもうなにもない、たれにも返答へんたふなどするものか……もう奈何どうでもい。』と、かれかんがへてゐた。
 中食後ちゆうじきごミハイル、アウエリヤヌヰチはちやを四半斤はんぎんと、マルメラドを一きん持參つて、かれところ見舞みまひた。つゞいてダリユシカもなんともへぬかなしそうなかほをして、一時間じかん旦那だんな寐臺ねだいそばじつたつまゝで、れからハヾトフもブローミウム加里カリびんつて、猶且やはり見舞みまひたのである。さうして室内しつないなにかうゆらすやうにとニキタにめいじて立去たちさつた。
 其夕方そのゆふがた俄然がぜんアンドレイ、エヒミチは腦充血なうじゆうけつおこして死去しきよしてしまつた。はじかれ寒氣さむけおぼえ、吐氣はきけもよほして、異樣いやう心地惡こゝちあしさが指先ゆびさきまで染渡しみわたると、なにからあたま突上つきあげてる、さうしてみゝおほかぶさるやうながする。あをひかり閃付ちらつく。かれいますで其身そのみ死期しきせまつたのをつて、イワン、デミトリチや、ミハイル、アウエリヤヌヰチや、また多數おほくひと靈魂不死れいこんふししんじてゐるのをおもし、那樣事そんなことつたらばとかんがへたが、靈魂れいこん不死ふしは、なにやらかれにはのぞましくなかつた。さうして其考そのかんがへはたゞ瞬間しゆんかんにしてえた。昨日きのふんだ書中しよちゆううつくしい鹿しかむれが、自分じぶんそばとほつてつたやうにかれにはえた。此度こんど農婦ひやくしやうをんな書留かきとめ郵便いうびんつて、れを自分じぶん突出つきだした。なにかミハイル、アウエリヤヌヰチがふたのでるが、すぐみな掻消かききえてしまつた。くてアンドレイ、エヒミチは永刧えいごふめぬねむりにはいた。
 下男共げなんどもて、かれ手足てあしり、小聖堂こせいだうはこつたが、かれいまめいせずして、死骸むくろだいうへ横臥よこたはつてゐる。つてつき影暗かげくらかれてらした。翌朝よくてうセルゲイ、セルゲヰチはこゝて、熱心ねつしんに十字架じかむかつて祈祷きたうさゝげ、自分等じぶんらさき院長ゐんちやうたりしひとはしたのでつた。
 一にちて、アンドレイ、エヒミチは埋葬まいさうされた。祈祷式きたうしきあづかつたのは、たゞミハイル、アウエリヤヌヰチと、ダリユシカとで。

底本:「明治文學全集 82 明治女流文學集(二)」筑摩書房
   1965(昭和40)年12月10日発行
   1989(平成元)年2月20日初版第5刷
底本の親本:「露國文豪 チエホフ傑作集」獅子吼書房
   1908(明治41)年10月
初出:「文藝界」
   1906(明治39)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「匆」と「」、「拔」と「[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」]」、「舞踏」と「舞蹈」、「理窟」と「理屈」の混在、仮名表記と繰り返し記号の使い方の揺れは、底本通りです。
入力:阿部哲也
校正:岩渕祐子
2006年9月11日作成
2010年12月8日修正
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