凡そ世に同じ人間は有り得ないゆえ、平凡な人間でもその種差に観点を置いて眺める時は、往々、自分は異常な人格を具へた麒麟児であると思ひ込んだりするものである。殊に異常を偏重しがちな芸術の領域では、多少の趣味多少の魅力に眩惑されてウカウカと深入りするうちに、遂には性格上の種差を過信して、自分は一個の鬼才であると牢固たる診断を下してしまふことが多い。夢は覚めない方が(勿論――)いい。分別は、いやらしいものである。やがて自分の才能や感覚に判然はっきりした見極めがついて何の特異さも認め難い時がくるとこれくらゐ興ざめた、落莫とした人生も類ひ稀なやうである。一つぺんに周囲の気配が青ざめて、舌触りまで砂を噛むやうにザラッぽいものだ。今さら何をする気分もないのでひたすらにボンヤリしてゐると、ただ重く、ただ暗闇が詰まつてゐて、溜息の洩らしやうもないのである。いつもながら、気を失つてしまふやうな心持ここちがしてゐる。ところで、私の場合なぞは、丁度このやうなものであつた。
 私は音楽家を志望して――私は、少年時代から何といふこともなく音楽に興を覚え、※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)オロンを弾き鳴らすことに多少の嗜みを持つやうになつてゐたが、中学を卒へる頃からピアノにより高いものを感ずるやうになり、そのまま全く反省するところなく或る私立の音楽学校へ入学したわけであるが、指先に熟練を要するピアノには已に晩い年齢であり、当然さらに心を変へて作曲を志望するやうになつた。そして、兎も角学校を卒業して――(もはや二年半)、無為な毎日をただ送るうちに、殆んど辷るやうにして、たわいもなく斯様な憂鬱に潰されてしまつた。全く、興ざめた! 興ざめたといふ感じである。手の施しやうもないのだ。ただ、日毎に身の周囲まわりが白つぽく色あせて、漂白されたなまぐさい視野が、日と共に広々と遠く延びて行くやうである。茫漠として――みつくやうな、どうも、遣り切れない虚しさである。
 私の場合では、私は別に、私の性格に就てさへ異常さを誇らうとした事もなかつた。一個の、ありきたりの凡人に過ぎないことを充分に知つてゐたのだ。友人達のやうに、私は神経質でさへなかつた。昔は、健康も人に勝れ、旺盛な食慾もあつたし、睡むい時には落ちて行くやうに寝付いたまま、グッスリ半日の余も睡むることが出来たのである。無論敏感ではないが、さりとて並以下に鈍感といふこともなく――さて、今となつては、音の感受性に就てさへ、何等の特異さを認めることも出来ないのだ。日常に於て、私は、音楽のことを語るよりも遊び興ずることが好きであつた。
 私は、今、何をする根気も持つことが出来ないのだ。否応なしに――全く、否応なしに、私は――いはば自我といふ意識が、何かしら中心となるべき勘所が、私の中に見当らないのだ。何もせずにボンヤリ毎日を暮してゐると、食慾だけは衰へもせず、むしろ存分に喰ふこともでき、食べたあとでは幾時間でも睡むることが出来るのである。昼夜の分ちなく、私は、宿の二階にウトウトと、又、グッスリと、寝倒れてゐるのだ。勿論、考へることは、何一つとして無いやうである。
 斯うしてボンヤリしてゐると――私の下宿は坂の真下に当るうへに、深々とした欅の木立に取り囲まれてゐるので、夏の盛りであるといふのに終日陽射しを受けることなく、ジインと静まり返つてゐる。気がつくと、坂下の街一杯に蝉のが澱んでゐるのだ。日盛りにも、高い場所には綺麗な風が吹き渡るものとみえて、欅の頭に颯々と葉の鳴る音が聴えたりする。黄昏のこと、夕立の来る気配がして、頻りに冷いものが流れ、何かしら緊張した冷気の中に、重苦しげな灌木の葉摩れや、又、高い空には欅の繁みが葉先を立てて、不気味にそよいだりしてゐることがあつた。さういふ夕辺も、あつたのである。時々、我に返ると――(私は嗤はれることを厭はないが――)私は泪を流してゐるのであつた。如何とも仕方がないと言ふほかはない。別に意識のあるわけでなし、心を鎮めて伏してゐると、果ての知れない遠い処に澎湃ほうはいと溢れ、静かにこぼれるものがあつた。
 ところが、私の下宿では、(これは素人下宿であるが――)、ボンヤリと寝てゐることも容易な業ではなかつた。別段に盛夏の暑気が堪え難いといふわけではなく、私は、汗にまみれて寝てゐることにさしたる苦痛を感じないのだが――この一家では、凡そ扉といふものが一部屋に一人を守る砦とは解せられずに、専ら人々を運び込んでくるのであつた。第一に、この家の主婦が舞ひ込んでくる――
 宿の主婦は芸妓あがりで、四十五六の年配であらうか、昔はさる人に囲はれてゐたが、その人に死別してのち、今は長唄の師匠であつた。面長の美人であるが、蒼白で、痩せ衰へて、この年齢まで持ちこたへてきた花やかさがあわただしげに失せやうとし、日毎に老ひ込むやうであつた。陰鬱な日は、※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみに大きな膏薬を貼つてゐた。
 日に数回のことさへあつた――お稽古に手すきの度に私の部屋へ現れてくる此の人は、そのとき、自分でも自分のことが分らぬやうに朦朧とした風であつた。「戸張さん……」噛みわけるやうに、幽かな声で私の名前を呟き乍ら――本来は神経質な、聡明な顔付をした人だのに、全く空虚な、意識の欠けた顔をして私の部屋へ現れてくると、目、鼻、口がバラバラに見えて不思議にあどけない土人形のやうであつた。
「戸張さん……」そして、又――
「戸張さん……」
 私の名前を呟くことによつて自分の心を空虚の中から探し出さうとするやうに、そして又、おどおどと怯えきつた様をして、私の気勢を怖れるやうに躊躇ためらひ乍ら、長く佇むのであつた。何故と言へば、私は、私の安息を乱されることに由つて決して愉快ではなかつたので――兎も角も起き上りはして、坐り直しはするが、磐石のやうに苦りきつて忌々しげに畳を睨み、或ひは窓外へ眼をそらして、晴れた日の、又薄曇りの坂下から、坂の上へ流れて行く静かな風景を拾ふのである。すると、もんもんと鳴きしづもる一万の蝉が、静かに、深く遠くシンシンとして、私の部屋に籠つてゐるのが分り初めるのであつた。――
 然し私は、已に凡ゆる寛容さを打ち忘れて、斯る幽邃ゆうすいな大自然にも私の怒りを慰め得ない狭小な人間と化してゐたので、まだ臆病に躊躇ひ乍ら佇んでゐる主婦の姿に、バリ/\と歯を噛むやうな苛立たしさを覚えずにはゐられなかつた。
おひまでせうか? 戸張さん……」
「ああ、騒がしい。ああ、私は私は――」私は全く逆上して、
「ああ私は、私は何時も、一日中、毎日毎日毎日毎日、静かに、ヂッと、考へてゐるのですよ。私を静かにしておいて下さいと言ふのに……」
「戸張さん、戸張さん……」
「ああ、騒がしい。ああ、騒がしい。私は、私は――ああ、もう間もなく死んで行く人間ですから……」
「ああ、戸張さん、戸張さん、私は……」
 私の逆上と彼女の混乱とをゴッチャにして、これも全く逆上してしまつた主婦は、崩れるやうに私の真向ひへ坐つて――
「戸張さん、戸張さん、本当に、おお、私はどうしませう。もう、もう生きてゐるのも容易ではありませんよ――」
 そして溢れる泪と一緒に流れるやうに喋り出すが、間もなく次第に生き生きとして――しかし、話それ自身は、聞き手の私から全く独立して、私の返答や私の存在は話の中へ交通する余地が、もはや全く無かつた。私は話の始終といふもの、決して愉快な顔付はせず、唯むやみに苦い憂鬱な顔付をして、首を左右に揺さぶつてみたり、冷笑に似た自棄な笑ひを唐突に、横向きさまに浴せかけたりするのみである。そしてその話といふのが、ああ、ああ、ああ、毎日毎日同じ同じ話なのだ。一人息子の悪口である。当節の暮しにくい世相の話と、旦那様の生きてゐた頃の追憶と、そして、それから金光教の信心話だ。今朝は倅に何処をひつぱたかれたとか、本郷の金光教会までは電車賃でも拾四銭は必要だし、御供物もあげねばならず、教会の親切な書生さん方へお茶菓子も買つてあげたいから、どうしても一円五拾銭はかかるのに、茶箪笥へ仕舞つておいたら倅の奴が浚つて逃げた――。すると急に、私の苦りきつた真つ暗な顔をうかがつて、団子坂の菊は豪勢なものであつたとか、昔の吉原の道中は、又新橋はと、遂に徳川家康の話へまで移るうちに、先年亡くなつた娘の思ひ出を語りはぢめて――本当に利発な、そして母親思ひの愛らしい子であつたのに、もし今も尚健在であつたなら、この温和しい戸張さんと、どんなに似合の夫婦であらうか――臨終に紅葉のやうな(――彼女は必ず執拗に此の形容を忘れなかつた)可愛いい手を合せて、あたしの魂はお母さんに乗移つて何時までも何時までもお護りしておりますよ、お母さんを幸福に導いてあげますよ……と、声もしなも幼い少女のものを真似て、果てはオロオロと泣き伏してしまふのである。
 すると、さうこうする中に、お弟子さんが詰めかけて来て、彼女はツと階下の気配へ耳をそばだてたかと思ふと――決して挨拶の言葉すら返すまいとするかのやうな苦りきつた私に向つて、彼女も亦決して聞き取れる言葉では別れの挨拶を述べやうとせずに、再びあの、立ち現れた時の、朦朧として夢のやうな顔、形をして、戸口の向ふへ消えて行つてしまふのである。すると忽ち階下から、お嬢さん、大変姿勢が悪うござんすよ、もつとお嬢さんらしく、グッと斯う気取つて……と、まるで違つた音声で言つてゐるのが聴えてゐる。
 そこで私は、そのとき何物かの気配に由つて已に全く孤独であることを納得せしめられて、――然し、もはや、その静穏な孤独も悦ぶ気力のない私は、やがて甚だ沈鬱な動作と共に、ガッカリとただ寝倒れてしまふのである。するとそれらの一点に於て、殆んど信じ難い唐突な一瞬間に、盛夏の鮮やかな風物が、耀やく屋根が、懶うい径が、鳴きしぐれる蝉の音が、頭上に近くさやさやと鳴る微かな風が――忽ち展かれた窓のやうに、そして忽ち閉ぢられて行く窓のやうに、爽やかに滲み溢れて――そして又、闇のさ中へ還へるのである。
 騒音の第二――私は、(当然私と呼ばるべき断乎たる一聯の感情は)、断乎として――私は、ここの倅を好まないのだ。私は、(私は、私は――)、金属性の物音が嫌ひである、私は、(私は私は――)全て金属的な存在が、金属的な神経が、嫌ひである。ところで、ここの倅は、真鍮喇叭しんちゅうらっぱであつた。
 この不愉快な金属は、最近まで経済科の大学生であつたが、今は止して、専ら何事もしてゐなかつた。何事もすることがないので、気違ひの真似や、自殺の真似をするのであつた。決して人の神経を顧慮することのない、野性的な、ベルトのやうな神経をもつて、十グラムほどのカルモチン錠剤を嚥み下してみたり、遺書を残して行方を晦ましたり、常に何事かの騒音を惹起することに由つて、其の存在を認識せしめやうと企むかに見えた。
 麗かな朝、陰鬱な朝、――朝は概ねヒッソリとして階下の一室に閉ぢ籠つてゐる男は、午過ぎ頃になると突然 wachchchchch と張り裂けるやうな悲鳴をあげて、「俺はつらい、拙者は悲惨だ!ジュ・シュイ・トリスト オー・ミゼラブル!」と嘆き乍ら手足をバタバタ力一杯に畳や壁へ打付けてゐるが、軈てやにわに自分の部屋を飛び出たかと思ふと、家中の戸をひとわたり(勿論私の戸も――)蹴倒してしまひ、「ああ、不潔だ、ああ不潔だ、この濁つた空気は堪え難い、めまひがする、窒息しさうだ、w―w―w―w―w…………苛々する、ああ、苛々する、wachchchchch……」――坂道の一角を指して(其処には広い睡むたいやうな静かな緑が展けてゐるが――)走り去つてしまふのである。又例へば、真夏の宵の、厚みの深い薄明がジットリと流れかかる時分に、殆んど言ふべくもない静寂に同化し乍ら、私が、夕食の膳に向つてゐると、突然この不愉快な金属は、決して私を問題にしない無関心な顔付をして私の部屋へ這入つて来たかと思ふうちに、不意に食膳の上へ屈み、焼魚の尾鰭を二本指先でつまみあげて、汚ならしさうに窓の外へ投げ出してしまひ、「ああ、この悪臭には実に悩まされた――」と呟き乍ら清々して立ち去らうとするのである。事実といふものを決して即座には呑み込むことの出来ない私は、彼が已に後姿になつてのち初めて劇しい憎悪に襲はれるのであつたが、すると彼は、(内心私の激昂を決して無視してはゐなかつたので)、忽ち後姿にも生真面目な恐怖を表はして、しかも尚無関心を装ほひ乍ら、面白さうな足どりで階段を降るのであつた。私は覚えず逆上して――その時已に彼の閉ぢ籠つた階下の一室を荒々しく開け放ち、
「ああ、騒がしい奴だ。貴様は実に、鼻持のならない奴だ、ああ、貴様は……」
「ア、ア、ア、不潔だ、不潔だ――」
 彼は怯えて――狼狽と反抗とで蒼白な頬に痙攣を起し乍ら、熱狂して、見えない敵と闘ふやうに打ち騒ぎはじめるのであつた。
「出て行け! お前は出て行つてくれ! お前を見ると胸がむかむかしてしまふ。苛々する。ア、ア、お前は俺を殺すのか――」
「ああ、騒がしい。ああ、騒がしい……」
「ア、ア、俺は自殺する。俺は自殺してしまふ……」
「うるさい、ああ、うるさい。実に、騒がしい奴だ、ああ、俺は間もなく死んで行く人間なんだぞ――ああ、俺は……」
「ああ、堪えられない。実に不愉快だ。俺は生きてゐられない。アア、全く暗闇だ……」
 彼はやにわに座布団を取り、劇しく私に叩きつけると、その隙にいち早く私の横を擦り抜けて、wachchchchch――坂道の一方へまつしぐらに走り去つてしまふのである。
 第三の騒音――
 て、私はさきに、恰も私は、終日終夜堅く外出もしないやうに述べたのであるが、然し私は、一定の時間には必ず一度、外出しなければならなかつた。勿論それは、気分の上に於て、いはば全く区劃の不鮮明な茫漠さを、内より外へ運び出すに過ぎぬのであるが――一日のうちに一度づつ、その事があつたのである。
 そこで、私は、最も簡単に言ふのであるが、私はもはや死ぬのであつた。私はもはや、長くないのである。――私は、朝の洗面に、血痰に悩まされるのであつた。そして私は、私の吐き出した物に対して、その幾分か不気味な、丁度栓を抜くやうに空虚な喉ざわりのほかには、決して特別の愛情も、扨て又特別の美意識も懐くわけではなかつたが、私は、一応洗面器を持ち上げて、吐き出した赤いチラチラするものを、流しの上に探し出さねばならなかつた。そして又、私は、狼狽を隠すためではあるまいけれど、様々な別なことを考へやうとして、結局何事も思ひつかずに、ボンヤリと赤いものに眺め入つてゐるのであつた。
 私は毎日、病院へ通ふのである。灰色な、あのいかつい石門を潜つて、大きな建築の中に生命の見窄らしさを威嚇されたくない私は、そして、白い着物を着た、決して親愛を顔に出さうとしない人々から、邪魔者の(殆んど世の中にさへ――)のやうに眺められたくない私は、そして又、何物かの追求のために全く目まぐるしい活気に満ちた廊下を、あのベタベタと鳴るスリッパの世界を、脇見をしない白い人々の往来を、眺めたくない私は、(私はそれをそんなに強く怖れたわけではないだらう。然し私は些少の嫌悪にも堪え難いから――)、斯うして私は、腕の確かな、しかし非常に平凡な、そして相当に貧乏な、(決して石の家には住まつてゐないところの――)、更に又、時々私がわけの分らぬ独語ひとりごとを思ひ余つて呟く時にも、きつと其の人はビックリして私の顔を凝視めながら、ぼやけた声で「何ですか――」と訊いてみて、自分の方で赤面してしまふやうな――私は、斯様に好人物なドクトルを、探し出すことが出来たのであつた。
 その人は私の症状に就て、全く漠然としか語ることを好まなかつた。そして、白い漆喰の方を向いて手を洗ふ時にのみ極つて、もう殆んど全快に近いこと、本来非常に軽微な症状でしかなかつたことを、その時だけは語気を強めて、然し次第に語勢の落ちた小さな呟きのやうにして、遂には結局手垢と手と共に洗ひ流してしまふやうに、呟き終はるのであつた。そして今度は私の方を振り向いて、もし私の気さへ進むなら、転地してみるのも悪い試みではないことを、早口に、ごく簡単に述べるのであつた。しかし、私は、殆んど旅の経験を持たない人間であつたので、汽車に乗ること、見知らない土地へ向つて一人走り去ることの心細さや、旅先での様々な煩瑣な心遣ひのことなぞが、私を重たくして、私はそれを考へることも寧ろ好まないやうであつた。
 そして私は、この単純な白漆喰に取り囲まれて、簡潔な、直線的リネエルな医療機械に護られてゐると、凡有あらゆわだかまりを発散して、白痴のやうにだらしなく安心したい気持になつた。時々、私の顔はだらしなく夏のさ中へ溶け込もうとし、私は、睡むたげな空気となつて、蝉のやうなヂンヂンを唸り出したい幻覚に襲はれるのであつた。何故ならば、この真白な診察室にも矢張り、夏は訪れてゐて、細長い南の窓から、翳りの深い、脂ぎつた夏の樹と、泌みつくやうな濃厚な空が、その葉を越えて展らけてゐた。不図した些細なハヅミに由つて、私の凭れる廻転椅子は、睡りのやうにユラユラと滑り出しさうになり、そして、白い空虚な部屋の中には、此処にも矢張りもんもんとたぎる蝉のが木魂してゐた。
 扨て、一定の時間が来て、(朝の十時がその時である――)、愈々私は出発しなければならない時がくると、私は、出掛けるにはまだ少し早すぎる時間であると考へてみたり、何かしら満ち足りない気持がして、又暫くは窓に凭つて外の風景を眺めたり、懐を探つてみたり、そして静かに倒れ伏したりするのであつた。すると、さういふ何かしら物騒がしい気配に由つて私の出発を感知した隣室では――
(其処には田代君夫婦が間借をしてゐたが、朝早く、已に夫君を会社へ送りだした其の夫人は――)
 その妻君は、私の気配を知つて、矢張り外出の仕度をしはじめたのであつた。ある理由によつて、私が不在にするときには、必ずこの人もその部屋を立ち出でる必要に迫られてゐるからであつた。
 長い惨めな生活に踏みしだかれ、痛められ通してきた此の婦人は、そして又、深い教養を持つ此の婦人は、なまじひに教養のあればあるだけ、自らを省みて臆病にしか振舞ふことが出来なかつたので、私に救ひを求めるやうな――それでゐて、決して然し自分の要求を露骨には表はすことが出来ずに、寧ろ自らを嘆くやうな、自らを卑しむやうな、遣り切れない心細さを漂はして、私の後を歩いてくるのであつた。しかし私は、全く反省もなく唯軽率に、人のうるささのみをひたすらに忌み嫌ふ私は、露骨に苦りきつた嫌悪の表情を表はして、寧ろ軽蔑を、――或ひは、「私は貴女と一緒には一秒といへども歩きたくない」といふ意地わるな示威を、忌々しげに表現してみせるのであつた。すると此の婦人は、更に一層の自卑を感じて――しかしその強い怒りを隠しきれずに、弱々しい反抗を、無言のうちに反撥しやうとするのであつた。
 そして私は――ひたすらに人のうるささを忌み嫌ふ私は、まして、私にまつわりかかる人の感情のうるささに対しては怒りの絶叫さへ張りあげたい私は、私に加へられた此の婦人の反抗を、更らに激しい立腹をもつて叩き返さずにはゐられなかつた。私の性質として、決してまともに整然たる理論を扱ひ得ない私は、たちの良くない皮肉によつて、それは寧ろ殆んど一種の致命的な侮辱でさへあるところの悪意を籠めて、例へば、「私は貴女の夫ではありませんからネ」とか、「貴女を護衛するナイトはもう一人ある筈だから――」なぞ言ふのであつた。すると彼女は、どんなにも努力を費して、しかし余りに激しすぎた憎悪のために、結局遂に何も言ふことが出来なかつたり、或ひは又、辛うじて、「無意味なことを仰有おっしゃいますな」と呟くのであつた、其の言葉に胸を突かれる私は、突嗟に激しい自卑を覚え――しかし自卑を、自卑として感じる前に忽ち其れを怒りに変へて、わけもなく逆上してしまひ、全く混乱して、
「私はもう直き死ぬのだ……」
「来年の此の季節は、もう決して二度と見られない私なのだ……」
「死んで行く人間の気持が、貴女なぞに分つて堪るものでない……」
 そして私は――
 斯様な言葉を殆んど噴出する火かのやうに吐き出す時に、怒りと嘆きと――それは全く際涯もない永遠のものを対象にして、私は、もし涙が迸しらなければ、この細長い身体自身を迸しるやうに、まつしぐらに駈け出させたい激情に襲はれずにはゐられなかつた。
 私の逆上した混乱に、当然同化し得べくもない此の婦人は、白けた気持に押し流されて、結局私を医院の門前へまで送るやうなことになつた。そして彼女は、茫然として門の内へ這入らうとする私へ、慎しみ深い会釈を与へて、
「さようなら。では御大事に、ね。近いうちに、きつと全快なさいますわ」
「あ、あなたも、あなたも――」
 私は全く狼狽して、
「あなたも、幸福になります――」
「ええ、ありがとう……」――
 空の模様といふものを、街の色彩といふものを、私は斯様なハヅミによつて、漸く意識に入れがちである。
 扨て、私は、この不思議な道連れに就て、その理由を語る前に、更に第四の騒音として、暫く田代君夫妻のことを述べなければならない。
 田代笛六、――この勤勉な会社員は、矢張り私を甚しく悩ますところの、一個の算盤であつた。夢にさへ――私は時々、不思議な夢を見るのであるが、例へば――尨大な一個のピラミッドが、しつきりなしに微細な多くの三角形に分解しながら、どうしても其の原型を失はない焦燥に満ちた夢なぞと一緒に、疑ひもなく私は、田代笛六の平凡な顔を、焦燥をもつて夢の中に仰ぐのである。その顔は、私が切に消え去ることを祈るにも拘らず、頑固に消え去らうとはしないのであつた。そしてそれは、平凡な、かつ勤勉な彼自身に何の咎があるわけでなく、それの存在それ自身が甚だうるさい点に於て、全く現実に酷似してゐた。何故ならば、私は、田代笛六の訪問によつて、毎夜の静かさを掻き乱されるからであつた。
 田代笛六の生活――
 四十五円の収入から、先づ支出として七円の間代を支払ひ、充分に享楽して(彼の言葉によれば――)、扨て、尚かつ月々拾円の貯金を残すところの彼は、稀に見る勤倹精神の持主であつた。何事にも細かな計算を忘れない彼は、例へば喜怒哀楽にも、歩きぶりにも、さては又、顔にも指にも、その計算を滲ませてゐた。彼は夜毎に一日の支出を計算して、それに就ての精密な応答を取り換はすことを忘れなかつた。その時彼は、その妻君の返答の一寸した渋滞にも、そして又、その返答の活気の無さに対しても忽ちに癇癪を起さうとし、貴重な問題を取扱ふことの真摯さを、決して忘れまいとするやうであつた。そして此の種の応答に由つて多分に激情を刺激された彼は、(そのために、往々、激しい喧嘩なぞも起りがちであつたが――)、一つの敷居を跨ぐことによつて突然その気分を好転せしめるために、ツと立つて私の部屋を訪れるのであつた。廊下を歩く数秒の道程に由つて、已に完全な、社交家としての笑顔に移り得る彼は、しかし不幸にして、(実に不幸にして――)、私の気持を、決して計算の中へ入れやうとはしなかつた。そのために、益々不快の念を加へずにゐられぬ私は、「怒り――敷居――笑ひ」といふ甚だ自分勝手な彼の計算を、それ故彼の存在を、最も強い憎しみを以て遇せずにはゐられなかつた。
「お邪魔ではありませんか――」
 私は苦りきつて、忌々しげに横を向いてゐるのであるが、すると彼は、私の如何なる苦々しい面相に向つても、常に一種の全く目的の不鮮明な薄笑ひを浴せることを怠らずに、(それは全く冷笑とも微笑ともつかないものであつたが――)、その余りの手応への無さに、その余りの不快さと無意味さに、絶望へまで、私を、導かずにはおかなかつた。彼は私の苦りきつた真つ暗な顔付を判断して、今日は気分が悪いのかと尋ね、それから近頃の気候のことや、目新らしいニュースの話、更には又、鼻持ならない音楽の話、政治の話……
 ――不愉快な薄笑ひを私の部屋一杯に満した彼は、その平凡な、四角張つた顔のかさを幾つとなく部屋の空気へぬき残して、一礼し乍ら、(尚薄笑ひを私に浴せて――)立ち去らうとするのであつた。そして、後向きとなつた途端に、(当然私は想像することが出来るのであるが――)、彼は已にその瞬間に、その不愉快な薄笑ひさへ跡形なく取去つてしまひ――したがつて、その一瞬間以前まで私と交流してゐた雰囲気を何一つ跡に残さぬ冷酷な態度で、「社交――敷居――亭主」――彼は亭主に還元しやうとするのである。私はむらむらして――然し一時いっときも早く心の平静を取り戻したいと思ふので、素早く大の字なりに倒れてしまふが、寝てみると沸々と湧く癇癪は弥増いやましにたかぶるやうで――私は騒がしく跳ね起きて、きこえよがしに、音高く、部屋の掃除をしはぢめるのであつた。
 田代笛六は、怒りだすと、怖いのであつた。彼は妻君を殴つたり壁際へ追ひ詰めて蹴倒したり、するのであつた。そして彼はその時にのみ、凡有あらゆる計算を打ち忘れて猛り立つやうであつた。そして其の壁の裏が、直接私の壁である此の部屋では、彼が妻君を蹴倒す度にパラパラと、細かな、そして時々は大きな、土臭い埃が、舞ひ落ちて来るのであつた。
 すると時々――恐らく更に、私以上の癇癪を起してゐるに相違ないあの不愉快な喇叭は、突然血相変えて隣室へ駈け込んできて、
「うるさい! うるさい! よせ! ああ、苛苛々する。他人の迷惑が分らぬか!」
 しかし非力な此の小男は、笛六の襲撃に備えて、充分逃げ腰に身構えてゐるのであるが――突嗟に攻勢の向きを変えた笛六は、決して一声の呻きさへ立てやうとせずに、凄じい響きと共に此の小男に襲ひかかり――これも亦、息を詰めて一散に逃げはぢめた小男と、二人ながら全く無言に、重なるやうな跫音あしおとのみを階段へ残して――私は、間もなく坂道の一方に、彼等の走り去る低い跣足はだしの跫音を耳にするのであつた。
 私は、折にふれて思ふのであるが、斯の様に殴り通しの、斯の様に殴られ通しの夫婦といふものは、極く稀にしかあるまいと思はれるのだ。立派な個性を持つた女が、寧ろその亭主よりも聡明にさへ見える女が、一つの悲鳴さへあげやうとせずにただ殴られてゐることは、同情に価ひするよりも、寧ろ不愉快に価ひするものである。私はせめて、彼等の喧嘩が、何等かの甘さを以て終ることをひそかに期待するものであつたが、その事は全く無くて、妻君は常に殴られ、笛六は常に殴つて一日を終つた。和解といふことさへなしに、彼等は、存分に殴り、存分に殴られ、荒々しい気持のままに睡りに落ちて、――翌日の朝が訪れるのであつた。その事が、又私には、一つの堪え難い不愉快であつた。真昼時まひるどきの、静かな蔭に泌みた部屋に、汚ない服装みなりをした此の婦人が白痴のやうに空洞カラッポな顔をして、グッタリ窓に凭れてゐる様を、私は稀に見ることがあつた。私は、斯様な惨めな様を見るにつけて、同情の気持には全くならずに、反抗の美徳といふことを、屈服の悪徳といふことを思ひ付き、この女を憎む気持になるのであつた。
 扨て、第五に――
 私は、さらに忌々しい騒音として、一つの悲鳴を書き洩らしてはならない。私は、その悲鳴を聞くにつけて、苛立ちのあまり激しい身悶えを感ずるにも拘らず、その悲鳴は常に私を対象として、私に救ひを求めるために発せられるがために、否応なく私は、悲鳴に向つて歩いて行かねばならなかつた、然し私は、それは決して悲鳴に応ずるためではなく、その悲鳴を寧ろ厳しくたしなめるために、唇を顫はせ乍ら、ムッとして歩き進んで行くのであつた。その悲鳴は、ある時は階下に、ある時は隣室に、(そして、恰かも私の平和を掻き乱すためにのみ――)湧き起るのであつた。
 隣室では――田代笛六の妻君は、便所へ立つことも不自由であつた。それと言ふのが、真鍮喇叭に襲はれる虞れがあるためであつた。
 私は時々、静かな昼――その懶うさに溶けやうとして、消え入るやうに倒れてゐると、小刻みに階段を登る粘り強い跫音を聴くのであつた。すると私は、続いて起る物音をいち早く予知することが出来たので、苛立たしさにもはや激しい動悸さへ覚え乍ら、硬直した半身を思はず引き起して、其の物音の始まることを待ち構えずにはゐられなかつた。すると果して――呟きのやうな幽かな叫びが、殆んど寧ろ咽び泣くやうにして、私の救ひを求めはぢめるのであつた。その叫びは、私の立腹を虞れるあまり、いたく自ら羞ぢらうあまり、徒らに潰れ掠れて、殆んど幽かな呟きでさへなかつたのに、鼓膜を搏撃されたかにビリビリと感じてしまふ私は、怒りのために涙さへ滲むばかりの思ひ詰めた形相をして、重苦しげに立ち上り、
「ああ、騒がしい。ああ、騒がしい……」
 私は隣室の入口に立ちはだかつて、其処の男女を険しく、睨むのであつた。
 然し私を予期の上の小男は、決して逃げやうとはせずに、蒼白い薄笑ひを浮べて私の顔をうかがひ乍ら、――私の顔を見ることを虞れて崩れるやうに俯伏し項垂れてゐる女の身体へ、意地悪く縋り付こうとするのであつた。
「…………」
 もはや全く言葉の無い私は、ただむやみに、うねうねと動き出して止まらうとしない二本の腕を持て扱ひに悩み乍ら、ヂリヂリと詰め寄るよりほかに仕方がなかつた。彼は初めて次第に恐怖を表はして、鈍い動作でふと立ち上り、私を擦り抜けるやうにして戸口の方へ廻つて行つて、蒼白い薄笑ひを次第に硬直させ乍ら、私の腕を払ひのけるためのやうに無意味に其の手を振り動かして、少しづつ後退あとじさるのであつた。彼は熱心に、喚き立つやうな意気込みにして、そのくせ嗄れた潰れた声で、「あれは俺の女だからいいではないか。あの女はもう俺と関係があるのだから――」さういふ事を懸命に言ひ張り乍ら、どうしても振向くいとまの無いうちに、彼の部屋まで、――階段を下つて、追ひ詰められてしまふのである。「俺は憂鬱なニヒリストだ、俺は全てに絶望した人間なんだ、俺は虚無を抱くやうにして、女を辱しめることが、好きなのだ、俺の気持に、お前が立ち入ることはないではないか――」彼は何かと面倒臭い術語を並べて、この意味の心境を熱狂して説明しながら、
「出て行け! お前は、出て行け! 不愉快だ! 鼻持ならない厭な奴だ!」
「ああ、騒がしい奴だ。ああ、実に、騒がしい奴だ、騒がしい、騒がしい……」
「黙れ! w―w―w―w―w……ああ、俺は堪えられない。貴様は不愉快だ、wachchchchch……」
 小男は金属性の響きをたてて、やにわに私を突き飛ばすやうにし、坂道の一方へ、まつしぐらに走り去つてしまふのである。
 私は、苦々しい憤りに胸が逼塞ひっそくして、廊下に籠めた静かな薄闇を大きな息で吸ひ込み乍ら、部屋へ戻つて来るのであつた。然し尚、私の怒りに堪え切れぬ私は、さらに隣室の戸を厳しく開けて、苦々しげに女を睨まへ乍ら、
「ああ、騒がしい。ああ、騒がしい。ああ、ああ、騒がしい、騒がしい……」
 すると私への反感から、溢れ出やうとする渦をも熱心にき止めてゐる女は、部屋の片隅へ小さく寄つて――しかし言葉にではなしに身体によつて、私への激しい嫌悪と、不躾けに闖入した私への痛烈な憎しみを、ありありと表はして見せるのであつた。私は更に激怒して、全く我を忘れ乍ら、
「ああ、騒がしい。ああ、騒がしいことだ。君は実に騒がしい人だ。僕を静かにしておいて呉れといふのに――」
「貴方こそ、貴方の部屋へ――」女は、掠れ去らうとする声を熱心に集めて、
「貴方こそ、お戻りなさるといい。貴方のお部屋へ――」
「ああ、騒がしい。ああ、騒がしいぞ。ああ、ああ、君なぞに、死んで行く人間の気持が分つて堪まるものでない。ああ、俺は、もう長く生きてゐない人間だから……」
 私の腕は、激怒のために大きな震幅に顫えはぢめて――若しこのまま、女の顔を劇しく打ちのめすことでもしなかつたなら、私の身体は一瞬にして千切れ去つてしまふやうな身悶えを覚え乍ら、其の場へ全く立ち竦んで、虫のやうにビクビクとする全身の顫えを、どうするわけにも行かなかつた。

 まだ夏の盛りに、この女は、坂下の家を逃げてしまつた。その昼間、私と、病院の門前で立ち別れた女は、夜になつても帰つては来なかつた。私はその事を、女は已に逃げ去つたのだとは思ひ込むことが出来ずに――隣室に物音のない不思議な一夜を明してのち、翌る朝になつて、苦り切つた笛六が、ややともすれば表情の失せた、白々しい苦笑に落ち込みがちな顔付をして、、何も言はずに出勤してしまつてから、その事を思ひ知ることが出来た。翌る日も、心待ちにしてゐたが、女は戻つて来なかつた。
 さういふ事があつてのち、間もなく、此の家の主婦は縊死を遂げ、その倅は、瘋癲院ふうてんいんへ送られてしまつた。私は、そして、坂の上の見晴らしのいい一角へ建てられたあの病院へ、暫時のつもりで入院することにした。
 私は、この私へ襲ひかかつてきた尨大な空虚さを、どうすることも出来はしない。私が何事も思ひ知らずに耽つてゐる静かな物思ひの日に、ふとして、我知らず嵌り込んで遣り切れない此の真つ暗な、底の知れない深い崖は、どうすることも出来ないものだ。一種特別の苛立たしい憤りと、嘆きと、遣る瀬なさとで、私は、狂ほしい気持になるばかりである。
 それでも私は、又会ふ日があるかも知れないといふ希望によつて、甘い安心を、ひととき心に落すことが出来るのである。その安心に唯一の救ひを見出すよりほかに詮方ない私は、その時、いそがわしく手繰り出す古い写真のやうにして、甘い幻を描き出すことによつて、何事をも忘れ去らうとするのである。
 私は、病院の前にゐるのであつた。その径は、坂が降らうとする高台の端れにあつて、一方は下に展らける谷底の街へ、一方は、塀のみ長く続いてゐる木立の深い一廓へ、静かに流れてゐるのであつた。私はその径を、女と二人沈黙を守つて、静かに歩いて来るのであつた。病院の前で私達は別れて、私は、病院の中へ這入つてしまふのであつた。すると私は、真つ白な診察室へ首を突き出す頃までに、次第に色々のことがハッキリ分つてきたやうな思ひがして、突瑳に著るしく逆上してしまふと、何んだか自分の上体を支へきれないやうな、蹌踉とした足取りを慌しく踏みしめて、私は全く息を切らし乍ら――坂道の途中までに、私は、女に追ひ縋ることが出来るのであつた。
「一緒に連れて行つてお呉れ。遠い処へ行つてしまほふ……」
 すると私の追跡を早くから意識してゐて、どうしても振り向くだけの勇気がなしに、殆んど息の止まる思ひで歩いてゐた女は、その時急に、私の胸へ、倒れるやうに転がり落ちてくるのであつた。私達は重なり合つて木暗い坂道を転がりながら――そして、私自身の幻の中でも、そして、幻を見る私自身の感覚までが、私達は重なり乍ら、まるで空気となつたやうに、其処に見えなくなるのであつた。私は知つてゐるが、道幅の狭い、木立の深い此の坂道で、私達が重なり乍ら激しく転落する時には、鬱蒼とした繁みを越えて、点描された星かのやうにポツポツと眺め取られる大空が、泌み渡るやうに蒼く蒼くて、キラキラとうち耀いてゐたのであつた。
 さういふ幻を描くことによつて、然し決して愉快でない私は――なぜなら、忽ち私は羞ぢらう気持を感じてしまひ、忽ち自分が厭になつてしまふので、ややともすれば、苦い怒りの現実へ踏み戻らうとするものだから、
 私は、突瑳に幻を変えて――
 私は、一瞬にして、懶うげな空気の中へ、透明な波紋となつて溶けてしまふと、この坂道に鳴き頻るジンジンとした蝉の音となり、そして、この真つ白な病室へ――私は、もんもんと呟き乍ら木魂して来るのであつた。

底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第一〇年第二号」
   1932(昭和7)年2月1日発行
初出:「文藝春秋 第一〇年第二号」
   1932(昭和7)年2月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年4月8日作成
2010年11月8日修正
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