て一人の男が浜で死んだ。ところで同じ時刻には一人の男が街角を曲つてゐた」――
 といふ、これに似通つた流行唄の文句があるのだが、韮山にらやま痴川は、白昼現にあの街角この街角を曲つてゐるに相違ない薄気味の悪い奴を時々考へてみると厭な気がした。自分も街角を曲る奴にならねばならんと思つた。
 韮山痴川は一種のディレッタントであつた。顔も胴体ももくもく脹らんでゐて、一見土左衛門を彷彿させた。近頃は相変らず丸々とむくんだなりに、生臭い疲労の翳がどことなく射しはじめたが、いはば疲れた土左衛門となつたのである。
「私に避け難い知り難い歎きがある。そのために私はお前に溺れてゐるが、お前に由つて救はれるとは思ひもよらぬ。苦痛を苦痛で紛らすやうに私はお前に縋るのだが、それも結局、お前と私の造り出す地獄の騒音によつて、古沼のやうな沈澱の底を探りたい念願に他ならぬ」――
 痴川はいつたい愚痴つぽいたちの男である。性来憂鬱を好み、日頃煩悶を口癖にしてむことを知らない。前記の言葉はその一例であるが、これは浅間麻油の聞き飽いた(莫迦の)一つ文句であつた。この言葉によれば、痴川はまるで麻油にとつて厳たる支配者の形に見えるのだが、事実は麻油に軽蔑されきつてゐた。麻油は痴川の情人でない。情人でないこともないが、麻油は出鱈目な女詩人で、痴川のほかに、その友人の伊豆ならびに小笠原とも公然関係を結んでゐた。
 痴川に麻油を独専する意欲はなかつた。しかし女に軽蔑されることを嫌つた。惚れられてゐたかつたのだ。かういふ所に女に軽蔑された根拠もあつたのだし、それを避けやうとして殊更に泣き言めいて悩み悩みと言ひ慣はした理由もある。地獄の騒音の底で古沼の沈澱を探りたいなぞと勿体ぶつた言ひ草もくだらない独りよがりで、見掛倒しの痴川は始終古沼の底で足掻きのとれない憂鬱を舐めてゐた。探りたい段でなく、探りすぎて悩まされ通してゐた。
 痴川は憂鬱な内攻に堪へ難くなると、病身で鼠のやうに気の弱い伊豆のもとへ驀地まっしぐらに躍り込み、おつ被せるやうにして、「むむ、ああ、もう俺はあのけつたいな女詩人を見るのも厭になつた」痴川は顔を大形おおぎょうに顰めて、いきなり大がかりに胡坐あぐらを組み、さも苦しげに吐息を落すのであつた。「お前はあの女と結婚するのが丁度いいぜ。俺が一肌ぬぐが、お前はあの女に惚れ込んでゐるし……」
「俺は惚れてなんかゐないよ」と、伊豆は不興げに病弱な蒼白い顔を伏せた。痴川は急にわなわなと顫へだして頬の贅肉をひきつらせ、ちんちくりんな拳で伊豆の胸倉をこづいて、「お前といふ奴は、まるで、こん畜生め! 友達の心のこれつぱかしも分らねえ奴で……」それから後は唐突な慟哭になる。慣れてはゐるし呆気にとられるわけでもないが、どうすることも出来ないので、伊豆は薄い唇を兎も角微笑めく顫ひに紛らして、ねちねちした愚痴を一々頷くよりほかに仕方もなかつた。
 麻油は女詩人だといふが、詩の才能と縁のない呑気な女であつた。深刻な顔付をしたがらないたちで、時々放心に耽ると肉付のいい丸顔が白痴のものに見えた。内省とか羞恥とか、いはば道徳的観念とでも呼ばれるものに余程標準の狂つたところがあつて、突拍子もない表出には莫迦だか悧口だか一見見当もつかなかつた。ある時、これも内攻に草臥くたびれた痴川が孤独からの野獣の狂躁で脱出してきて、麻油を誘ひ伊豆を誘ひ小笠原を誘ひ、とある山底の湯宿へ遁走した。男達は複雑な心理錯綜と宿酔ふつかよいに腐蝕して日増に暗澹たる憂鬱を深めたのに、麻油一人は微塵も同化せずに至極のんびりしてゐた。男は連日早朝に目を覚ました。男は重苦しい宿酔に圧し潰される思ひで一時いっときも早く部屋を脱けると冷酷な山間を葬列のやうに黙りこくつて彷徨ふのであるが、所在がなくてほろ苦くて、先登が不意に枯枝を殴り落すと、後の二人も真青な顔で無心に枯枝を叩き折つてゐた。ひろびろと見晴らしのいい曲路へ出ると急に自分の心を拾ひ上げたやうになるものだが、余りの広さに極度に視線を狼狽させた男達は、慌ただしく渺々びょうびょうたる山波を仰いで大いなる壮快を繕ひ乍ら、何ものとも知らぬものへちらめく呪ひを感じたり、谷底へ奇怪な戦慄を覚えたり、喚きたくなつたりした。
 漸く此の刻限となり男が山へ出払つてのち、毎朝麻油は誰よりも遅れて目を覚ました。部屋に陰鬱な乱雑がねくたれてゐて悪どい空気がじつとり湧いてゐる中だのに、麻油は悠々と煙草をつけ、厚ぼつたい空気の澱みへ耳朶を押しつけるやうにしてうつらうつらと頬杖を突いてゐるのだが、まるで蒼空の下の壮快を味ふてゐる快適な姿であつた。男が山を降りてくると、麻油は急に唱ふやうな楽しさで秘密つぽく一人々々を掴まへ、「あたし、あんたが好き……」男は一人づつ怒つたやうな顔付をした。それには全然とりあはずに、ふいと麻油は顔の表情を失ふと横へそらして重たげな冬空を眺め、「あたしはあの空が好きだ」といふやうなポカンとした白痴の相に変つてしまふ。麻油は長々と湯につかり、まるでまるまると張りきつてゆく快い発育の音を感じるやうに、独りぽつちの広い湯槽に凭れて口をあんぐりあけ、鼻へ快適な小皺を寄せて動かずにゐる。
 男達が何かしらの一座の気配で遣り切れない憂鬱にはまり込んだとき、麻油も血の気ない興ざめた顔でゐるので、矢張り此女でもさうかと思ふてゐると、それは一座とまるで違つた軌道でさうなつてゐるのであつて、急に顔をもたげて気がついて男の顔を一つづつ新発見のやうに見廻しはじめたりするので、男達は愕然として咄嗟にめくるめく狼狽のさなかで故里を思ひ出したりするのであつた。
 麻油は二十二歳まで(男達は三十がらまりであつた)女王の気持でゐることが出来た。或日一行に伴はれて孤踏夫人なる女人のもとへ行つた。これは痴川の女であつて閨秀画家であるが、三十五で二十四五に受取れる神経質な美貌であつた。男達の憂鬱と同量の狂躁を帯びた華やかさで孤踏夫人は上品に話したり笑つたりした。その部屋の空気には霧雨のやうな花粉が流れてゐて、麻油にはそれが眼や足の裏にみて仕様がなかつた。麻油はむつつりして黙り込んでゐたのである。
 それから数日して痴川が麻油に会ふと、麻油は変な顔をして俯向き乍ら、「孤踏夫人て、あんた好き?……」又沈黙して今度は一層際立つた顔をしながら、「あんた、あの人と一緒に死ぬ気?……」痴川が呆れてゐると麻油は照れ隠しに青白く笑つたが又真面目になつて、「ああいふお上品な悧口な人が好き? なら仕方がないけど、でも、あんた、あたし嫌ひ? あたしを可愛がつて下さる? あたしだけ可愛がつて、ね……」さうしてしおらしく首をあげたが、やがて痴川の眼を見入つて実に嫣然と笑つた。痴川は確かに呆れた。確かに見当がつかなくなつたのである。
 伊豆が痴川を殺す気持になつたのは今に初まつたことでない。痴川は伊豆にとつては毒に満ちた靄であつた。いつたい痴川といふ人は見掛倒しの人ではあるが、見掛けは甚だ仰山な、その現れるや陰惨な翳によつて四囲を忽ち黄昏の中へ暗まし、その毒々しい体臭によつて相手の気持を仮借なく圧倒するていの我無者羅な人物であつた。身心共に疲れ果てた伊豆にとつては是程神経に絡みつく負担はないのであつて、初めは一種の畏怖と親しみであつたものが、逆に嵩じて、茫漠と眼界に拡ごり満ちる痴川の生存そのものを忌み呪ふ気持が伊豆の憔悴した孤独を饒舌なものにした。
 伊豆はうつかり痴川に手紙を書きだしてしまつたのである。初めは何の気もなく近況を書き送るつもりで、「私は君の生活力に圧倒されて、斯うして独りでゐると尚のこと君を怖れ、怖れと共に限りなく憎みたくなるのであるが」――といふやうな書出しのものであつたが、書きだしてみると次第に鬱積したものが昂ぶつてきて混乱に陥り、結論だけが妙に歴々と一面にはびこつてきてもはや激情を抑へる術もなくなつたので、改めて次の意味を率直に、いきみ立つ胸を殺して書きだした。
「私は君を殺す。君が私に殺される幻想を恍惚として飽くなく貪るのがここ数年の私の生き甲斐であつた。君は地上の誰よりも狼狽して※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがくであらう。現に私の幻想の中で君は最も醜い姿で七転八倒してゐる。私はそれをやがて実際に見ることにならう。呵々」
 其れをぶらぶらと懐手ふところでに抱へ乍ら、変に落ちついた蒼白い足どりで投函に行つた。末枯れた冬ではあつたが、慌ただしいどんよりした薄明の街であつた。その時彼は痴川殺害の事実に就ては実は殆んど考へてゐなかつた。ただ彼は此の手紙を受取つた痴川の狂暴な混乱を思ひ泛べるだけで満悦を感じてゐた。数日が流れた。無論返書は来なかつた。すると伊豆はふいに不安になりだした。手紙の効果に就てひどく疑ぐりだしたのである。若しや、あれを読んだ痴川が忽ち伊豆の内幕を見すかしたやうな憫笑を刻み例の毒々しい物腰で苦もなく黙殺し去つた場合を想像するに、体内に激烈な顛倒を感じるやうな苛立ちを覚えた。一週間ばかり劇しい不安と争つてゐたが、或る暮方何気ない足取でぶらりと出ると小笠原を訪れた。例の懐手をぶらぶらさせて、なんだか奇妙に落付き払つた風をし乍らもつそり突立つてゐて、小笠原の出てくるのを見ると、まづ真青な顔を出来るだけ豁達かったつげに笑はせやうとしたのだが、「僕はこんど痴川を殺すよ」と言つた。
「うん、その話は痴川からきいてゐたが――」
 小笠原はまるで欠伸あくびでもするやうな物憂い様子でぶつぶつ呟くやうに言ひすてたが、暫く無心に余所見よそみに耽つてから漸くのこと首をめぐらして、今度は一層遣り切れない物憂さで、「ゆふべも痴川と呑んだんだが、あいつは君を実に気の毒な心神消耗者だとさう言つてゐたつけな……」それから丈の高い腰から上をぐんなり椅子へ凭せ、頭をがくんと反り返らせて、それつきり固着したやうに天井を視凝めてゐる。伊豆は自分の決意を全然黙殺しきつたやうな小笠原の態度にちらくらする反抗を覚えた。
「俺はあいつの※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)く様子が手にとるやうに見える。俺はあいつの首を絞めるつもりだが、あいつは血を吹いて醜くじたばたして……」
 伊豆はそこまで言ひかけると咄嗟に自分もじたばた格巧をつくつたが、希代な興奮に堪へ難くなつて迸しるやうに笑ひだした。その笑ひは徒らにげたげたいふ地響に似た空虚な音だけで、伊豆はその一々の響毎に鳩尾みぞおちを圧しつけられる痛みを覚えたが、併しなほ恰も已に復讐し終へたやうな愉悦に陶酔したのである。笑ひ止んでふと気がつくと、小笠原は相も変らず頭をがくんと椅子へ凭せて天井を視凝めたまま、凡そ退屈しきつた苦々しい顔付で人もなげに放心してゐた。
「どれ……」急に小笠原は甚だ無関心に立ち上り、伊豆なぞ眼中にない態度で長々と背延びをしたが、「どれ、ぽつぽつ痴川のところへ出掛けやうかな……」さう呟いて洋服に着代へて出てきた。「今夜も呑む約束なんだ」さう言ひすてて自分はさつさと沓脱くつぬぎへ降りて行つた。伊豆は実に物足りない暗い惨めな気持で小笠原の後につづいたが、戸外へ出ると急にもやもやした胸苦しさを覚え、溝へ蹲んで白い苦い液体を吐き出した。数分間苦悶した。小笠原は無論介抱もしなかつた。第一振向きもせずに、憂鬱至極な顔付で茫漠と暮れかかる冬空を眺め耽つてゐた。やがて伊豆が漸くに立ち上る気配を察しると、なほ振向いて確かめやうともせずに長足を延して悠然と歩きだしたが、青ざめきつた顰面しかめつらで伊豆がやうやう追ひつくと、急にぽつんとこぼすやうな冷淡さで、「君も行くかね?」「いや」伊豆はがくんと首を振つた。「今日は胸が苦しくてとても呑めない」「さう」小笠原は蔑むやうに頷いたが、「さう、かね。ぢや、さよなら」。其処はまだ別れる場所ではなかつたが、伊豆は斯う言はれたので咄嗟に歩速を緩めた。遣る瀬ない空虚を感じた。伊豆は力の尽き果てた様子で小笠原の後姿をぼんやり見送つてゐたが、軈てのことに我に返つて、不思議に自分はあの冷酷な小笠原を寧ろ一種の親しみをもつて見送らうとしてゐるのに気付いた。いはば小笠原を親愛な一味徒党のやうに思ひ込まうとするのである。その理由に就てはなぜか伊豆自身深く追求することを避けたがる様子であつたが、つまりは小笠原も痴川の死を欲しており、且又自分に痴川の殺害を実行させやうと企らんでゐる、といふ風に考へたかつたのであらう。だが、伊豆の推量は勿論当にならない。誰しも二人の敵を打つよりは一人味方に思ひ込む方が気が楽でゐられる。そして伊豆も現在自分の心底にこの傾向のあることを感じ、あまり諸事を掘り下げすぎて自分の馬脚を発見したくなかつたので、故意に全てを漠然の中に据ゑたまま、とにかく小笠原は自分の親愛な同志であるやうに感じた。伊豆は小笠原の暗示したところのものを万事深く呑み込んだといふ形に、ふむふむと大袈裟に頷き、快心の小皺を鼻に刻んで上機嫌に帰宅した。
 小笠原は其の持ち前の物静かな足取で黄昏に泌り乍ら歩いてゐたが、やがて、伊豆の心に起つた全ての心理を隈なく想像することができた。彼は自分が殆んど悪魔の底意地の悪るさで痴川伊豆の葛藤を血みどろの終局へ追ひやらうとしてゐる冷酷な潜在意識を読んだ。併し驚きも周章あわてもしなかつた。永遠に塗りつぶされた唯一色の暗夜を独り行くやうな劇しい屈託を感じたのである。全て波瀾曲折も無限の薄明にとざされて見え、止み難い退屈を驚かす何物も予想することができなかつた。彼は冷静な心で、恐らく自分は悪魔であるかも知れないと肯定し、そして洋々たる倦怠を覚えずにゐられなかつた。
 麻油は伊豆をかなり厭がつてゐた。その伊豆がとある白昼麻油の家へ上り込んできて、懐手をして無表情な顔付で突立つてゐたが急に手を抜き出して其れをふらふら振り乍ら麻油にねちねちと抱きついて来たので、何をするかと思ふてゐると、先づ麻油の頸から胸のあたりへ手をやりもそもそ手探りしてのち、漸く其の襟を握つて首を絞めはじめたのである。麻油は驚いた。が、非力な伊豆をいつぺんに跳ね返すと、あべこべに伊豆の首筋をとらへて有無を言はさず絞めつけた。伊豆はばたばた※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)いて危く悶絶するところまでいつた。麻油が余りの呆気なさに呆れ乍ら手を離しても、暫くのうちは仰向けに倒れたまま尚も絞められてゐるやうに自分一人で※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)いてゐたが、やうやう立ち上り、のろのろと向きを変へて、座敷の真ん中で四這ひになると、やがて白つぽい嘔吐へどを吐き下した。余程苦しいものと見え、数分の間犬の格巧をしたなりに身動きも出来ず、顔一面に泪を溢らせてゐた。
「なんだい、意気地なし。痴川が殺せないもんであたしを殺すことにしたの? 青瓢箪!」
 麻油はさう叫んで冷笑した。
 伊豆は返事をしなかつた。返事も出来ないほど苦しいらしく、尚も四這ひのまま首だけを擡げ、しよんぼりして※(「口+穢のつくり」、第3水準1-15-21)しやっくりしてゐた。
「今にみんな殺してしまふ」
 伊豆は斯う言ひ残すと歩くにも困難の様子で戸口の方へふらついて行つたが、今度は下駄が探せないらしく、数分間ごそごそして漸く帰つて行つた。翌朝気付いてみると、麻油の草履や靴を正確に片方づつ溝へ投げ棄てて帰つたことが分つた。
 すると翌日の真昼間又伊豆がふらふらやつて来た。黙つて這入つてきてきよとんと麻油を視凝めてゐたが、今度は余所見を繕ひまるで何処かへ行つてしまふやうな風をし乍らふらふら近づいてきて、麻油の頸を手探りし、やうやつと襟を握つて絞めはじめた。さうして麻油の頬つぺたを舐めたのである。麻油は劇しく跳ね返した。麻油は怒つた。非力の伊豆を仰向けに返すと、又しても悶絶に近づくまで絞めつけた。伊豆は手足をじたばたさせて口中から白い泡を吹いてゐたが、麻油が手を離してからも暫くあつぷあつぷしてゐて、おもむろに四這ひになると、部屋の中央へ白い嘔吐へどを吐き下した。
 その日は直ぐ帰らうとはしなかつた。彼は愈々蒼白となつて、空気を舐めるやうな格巧をしながら胸苦しさを押へてゐるやうであつたが、やをら立ち上つて麻油の腰に縋りつくと、自分の方でずどんとぶつ倒れて、自分で麻油の下敷きになつた。そのくせ殆んど失心して身体全体を痙攣させ、今にも死ぬ人のやうにただ縋りついてゐたのであるが、それでも時々拳でもつて麻油の鳩尾のあたりを夢心持でこづいた。麻油は振り離して起き上つた。伊豆の奇妙な変態性欲が頷けたのである。麻油は失心したやうに目を閉ぢて動かない伊豆の姿を見下して、暫くの間ぢつと息を窺つてゐたが、やがて真白い肉付のいい二本の腕を忍ばすやうに静かに延すと、伊豆の頸を抑へて力強く絞めつけた。白い泡を吹いて、手足を殆んど力なげにじたばたさせて、併し懸命に※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)いてゐる伊豆の醜状に息を殺して見入り乍ら、麻油はふくよかな胸一杯にぴちぴちする緊張を覚え、春のやうに上気した軽快な満足を感じた。
 或日孤踏夫人は小笠原から伊豆と痴川の曲折をきき、たわいもなく談笑してゐたが、小笠原が帰るのを見送つてしまふと、急に肩の落ちるやうな、ほつとした眩暈めまいがした。夫人はむづかしい顔付をして、小波さざなみのやうにちらめきはじめた混乱にぼんやりしながら部屋へ戻り、肘掛椅子に深く身を埋めたが、自分はいつたい今迄何事をそんなに緊張してゐたのかしらと思つた。さう言へば、自分は痴川の死を希つてゐるのだと、分りすぎるほど分りきつたことをふと思ひ付いたやうな気がした。本当に、分りすぎるほど分りきつたといふ気がしたのである。成程、少くとも痴川との手切れを欲してゐる以上は死ほど決定的な解決はない筈だから痴川の死を希つてゐるのに相違ない。……そして、この恐ろしい考へがはつきり分つてきても、我ながら可笑しいほど夫人は狼狽しなかつた。寧ろ不思議な落付と安らかな憩ひを感じた。そして、まるで蒼空でも仰ぐやうに、小笠原の顔を眼蓋一杯に泛べたのである。夫人はその顔へ向つて、さう、あたしもさうよ、貴方と同じだわ、といふ風に媚るやうに微笑してみせたいやうだつた。あの人はあんなに落付いた風をして、何の表情も感情も表はさずに淡々と談笑して帰つたけれど、あたしには分る、やはり痴川の死を希つてゐるのだと、夫人は頭がくらくらした。さうとすれば、もしさうだとすると、あの方もあたしを愛してゐるに違ひない。――そして、なんだか寒いほど引き緊つた気持の中で、一斉に開かうとする花束のやうな、夥しい微笑がふくらみ、やがて静かな泪となつて溢れ出すのを感じた。
 孤踏夫人の家を辞した小笠原は、彼も亦一時にほつと全身の弛むやうな思ひがしたが、静かな足取で暫く歩いてゐるうちに、孤踏夫人が陥つたに相違ない前記の心理を眼に見るやうに思ひ泛べた。そして精巧な策略を仕遂げた詐欺師のやうな落付いた満足を覚えたが、ふと自分に返ると、苦りきつた気持で、頭の中の映像を大急ぎで一切合切掃除するやうにした。彼は急に自分が厭になつた。自分が邪魔でやりきれなくなつたのである。まるでうるさい他人のやうに其処いらに煩い自分がふさがつてゐて、厭らしくてうんざりした。考へてみると、自分といふ奴は全く行き当りばつたりに思ひも寄らないことばかりして、伊豆に会へばそれとなく自分も痴川を憎んでゐるやうに暗示してしまつたり、孤踏夫人に会へば自分は夫人をさも思ひ込んでゐるやうに暗示したりしてしまふのであるが、現実の自分は、成程その思ひは幾分あるにしても、決してそれを一途に思ひ込んでゐるわけでない。それどころか、一途に思ひ込んだものといへば、実は何一つ無いのであつて、考へてみるに、現在ばかりの話でなく過去の一生に於ても、嘗て自分は一途に思ひ込んだといふことが何一としてない。求むるところにのみ人の生存の生存らしいところもあるとすれば、彼は手もなく無存在といふべきもので――別にさういふ理窟からではないが、とにかく小笠原は自分がないやうな拠りどころない困惑を感じた。そのくせ、靄のやうにとりとめもなく、それでゐて変に頑強な行為がそこにあつて、それが苛立たしいほど饒舌なものに感じられ、煩らはしくてならなかつた。とにかく酒でも呑もうと思つた。
 痴川はなんだか小笠原に悪いやうな気がしだした。をかしな話で、憎む理由はあつても悪るがることはない筈であるが、併し痴川はなんだか小笠原に悪いやうな気がした。若しも小笠原に友情を絶たれてしまふと、このさき生きてゆく世界がないやうな、大袈裟な心配が真に迫つて湧いてきて、始終小笠原の顔を見てゐないと不安で心細くて今にも消滅しさうな思ひがした。そのくせ会ふのも怖いやうであり変なやうでもあり足が進まないのであつた。ある晩のこと小笠原を訪ねるつもりで歩きだしたが、途中で気がひけて、ふいに思ひもよらず、これは一層会ひたくもない孤踏夫人を訪ねてしまふと、これは生憎不在であつた。方々彷徨つたあげくに、このまま帰宅してはどうにも引込みのつかない落漠たる思ひがたかまり、愈々小笠原を訪ねる決心を堅めると、こんどは決心の重圧に苦しめられて無性にやるせない癇癪を覚え、走るやうに夜道を歩いた。小笠原の住居はひつそりした高台のアパートで、もう辺りの寝静まつた時刻であるから、その街角へ現れて街燈の下へ辿りつくと、まるで自分が潤んだ灯に縋りついた守宮やもりででもあるやうな頓狂な淋しさが湧いてきた。其処から仰ぐと三階の小笠原の部屋に明りが射してゐたので在宅と判じられたが、うつかりすると不在の孤踏夫人は此処にゐるかも知れないと思はれたので、ひどく二人に悪いやうな気のひけた思ひが乱れ、ぼんやりして街燈の下に佇んでゐたが、光のあるところでは何かの拍子に顔を見付けられても困るやうな不安もしてきて、今度はとある暗がりの土塀へ近寄つた。闇の中にぼんやりして三階の窓から洩れる薄い光芒を眺めてゐたら、やにはに水のやうな静かなものが流れてきて人を懐しむひたむきな心が油然と溢れてしまひ、なんだかわけが分らなくなつて二足三足するうちに、小つちやい門燈に寒々と照らし出された石の戸口をそつと押して身体が内側へ這入つてしまつた。石の廊下をコツコツ鳴らす跫音あしおとが際立たしく※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみへ飛び込んできて、その静かさがむやみに神経を刺戟したが、時々何処からとも知れない光が階段の途中あたりで顔に流れかかつてきて、だんだん気が遠くなるやうであつた。
 部屋の扉をノックして、「ゐるかい?……」と言ふと、胸がめきめきするほど不安になりだしたくせに、中から返事もない瞬間にもう戸を押してしまつてゐた。間の悪い光が痴川の顔へ鈍く流れてきたが、眼を丸くして奥を見ると、机に向つて何かしてゐた小笠原が唯一人ぼんやりして振向いてゐた。
 急に痴川はぼんやりした。ぼんやりして部屋へ這入つてゆくと、急に泪が溢れだした。それが途方もない塊のやうな泪で、喉がいつぺんに塞がつて、身体も折れ崩れるやうであつた。
「俺はなんて愚かな人間だか、自分でも呆れるばかりだ……」痴川は喉が通じるやうになると、がつかりして歎息した。彼はだんだん落付いてきた。さうすると、泪となつて自分自身が流れ去つてしまつたやうに、透明な肉体を感じてきた。「俺には自分のやることがまるで分つてゐないのだし、時々、これが自分だと思ふものが急に見当らなくなつたりして、本当にたよりなく寂しい思ひがする……」
 小笠原は静かに頷いて、憂鬱な顔をして俯向いてしまつたが、一度心もち眼を上げて痴川の顔をぽかんと見てから、又ぐつたり顔を伏せ、組み合した膝の上で手の指を物憂げに動かせてゐたが、ぶつぶつ呟くやうに、
「俺達の複雑な生活では、最も人工的なものが本能であつたりしてゐる。斯ういふ吾々のこんぐらがつた生活で、自分を批判するくらゐ貧困なものはないのであつて、百の内省も一行の行為の前では零に等しい。文化の進歩は人間の精神生活に対しては解き難い神秘を与へたに過ぎないのであつて、結局文化それ自らの敗北を教へたに過ぎない。畢竟するに人間なるものは、その生活に於て先づ動物的であることを脱れがたいのだ。だいたい文化に毒された吾々がデリケートな文化生活の中から自分を探し出さうとするのが已に間違つてゐるのであつて、吾々は動物的な野性から文化を批判し、文化を縦横に蹂躙しながら柄に合つたものだけを身につけて育つやうにしなければならなかつたのだ……」
 小笠原は顔を伏せてみたり背けたりしながら、眠むたげな単調な語勢でそんなことをぶつぶつ喋つてゐたが、すると痴川もぼんやり俯向いて、わけもなく一々頷いたりしながら、変に神妙に聞いてゐる風をしてゐた。その実はひどく退屈してゐたのだが、併しとにかく小笠原と対座してゐることだけで平和な心を感じた。
 小笠原は痴川を家まで送つてきて、例の感情を泛べない冷めたい顔付で、「君は今悪い時季なのだ。春がきて、それに健康が良くなると、もつと皆んなうまくゆくやうになるのだ。身体を呉々も大切にしたまへ」と言つて静かに帰つて行つた。痴川は又もやぼんやりして、子供のやうに小笠原の言葉を聞いてゐたが、自分の部屋へ這入つてきて、自分は今小笠原と平和な面会を終へてきたのだといふことが分ると、心安らかな空虚を覚えた。痴川は和やかな感傷に酔ひ乍ら、白々と鈍く光る深夜の部屋に長い間佇んでゐた。
 一日痴川が麻油を訪ねてゆくと、麻油は大変好機嫌で、痴川を大歓迎するやうにしたが、
「小笠原さんて、ひどい人ね――」
「なぜだ……」痴川はどぎまぎした。
 麻油はいきなり哄笑を痴川の頬へ叩きつけて、
「あんた、怒つてゐるの? 口惜しがつてゐるの? あはゝゝゝ。小笠原さんと孤踏夫人て、ずゐ分ひどい人達ね……」
 痴川はみるみる崩れるやうな、くしやくしやな泣き顔をしたが、急に物凄い見幕で怒りだして、
「莫迦野郎! お前なんぞに男の気持がわかるものか。そんなことは男同志の間柄ぢや平気なことなんだ。生意気に水を差すやうなことをして、このお多福めえ、気に入らねえけつたいな女詩人だと言つたら……」
「ごめん/\」
 麻油はいきなり痴川の首つ玉へ噛りついて顔一面に接吻して、
「ごめんなさいね。あたし、悪い気で言つたんぢやないの。かんにんしてね……」
 顔と顔を合せて痴川の眼を覗き込むやうにして、「坊や!……」麻油は嫣然と笑つて、痴川の胸へ顔を埋めた。
 翌日痴川と別れてから、麻油はしかつべらしい顔をして暫く火鉢に手をかざしてゐたが、やがて用箋を持ち出してきて、小笠原宛に次のやうな手紙を書いた。
「こんなに私を淋しがらせておいて、よく知つてゐるくせに、なぜ来て下さらないの。もう私のことなんか、思ひ出して下さらないの。も一度ルネの憂鬱な顔が見たいのだけれど、きつと来て下さるでせうね。こんなに私を苦しめて」
 麻油はにやにやしながら此の手紙を投函して、それからもひどく好機嫌で、日当りのいい街を少々散歩して戻つた。
 痴川は時々伊豆のことを思ひ出して、その都度無性に癇癪を起した。さういふ時には、まるで伊豆が目前にゐるやうな見境のない苛立ちやうで、頭の中で頻りに伊豆を言ひまくり遣込めやうとするのであるが、そのはがゆいことといつては話にならない。その伊豆がある朝突然久方振りに痴川を訪ねて来たので、痴川は吃驚する暇もなくみるみる相好を崩して喜んだ。慌てて飛び出して行つて、とにかく色々なことのあとであり変な具合ににやにやと照れ乍ら「ま、あがれ」と言ふと、伊豆は一向無表情で、まるで人違ひでもされた場合のやうに例の懐手をぶらつかせて黙つて立つてゐたが、急に振向いて、勿論挨拶もせず何一つ変つた表情も見せずに、からの袖を振り乍ら戻りはぢめたのである。痴川は咄嗟に大憤慨して跣足はだしのままで玄関を飛び降りると、伊豆の襟首を掴まへて顔をねぢもどして、
「やい、どういふ料簡でやつてきたのだ。変な気取つた芝居は止せ。友達が懐かしかつたら正直に懐かしいと言ふがよし、友達に存在を認めて貰ひたかつたら、きざな芝居は止すがよからう。てめえくれえ、友達甲斐のねえ冷血動物もねえもんだぞ。スネークめ。俺を殺すといふのは、どうした――」
「今に殺してしまふ……」伊豆は落付きを装はうとして幾らか味気ない顔をしたが、「今は力がないから殺せない。今度友達の医者からストリキニーネを手に入れることが出来るから……」さう言ひかけて伊豆は笑はうとしたのだが、笑ひは掠れて単に空虚な響となり、それにつれて痩せた肩を無気味にゆさぶつた。それから暫くして今度は冷笑を泛べると、
「お前だつて、小笠原を殺す力がないではないか」と言つた。
「おや!」と痴川は思つた。突然ぼんやりしてしまつた。それから急に河のやうな激怒が流れてくると、同時に泣き喚きたくなつたのであるが、その時伊豆の顔付からふと間の悪いやうな白らけた表情を読んだので、同病相憐れむといふやうな淋しさを受けた。思ひがけない静かな内省が何処からともなく展らけてくるやうな冷めたさを覚えて自分でも呆れるほど妙にしんみりしてしまつた。
「それは君の場合とは幾分違つてゐる。俺達は色々な余計なことを考へすぎるやうだ。俺は無論ある意味で小笠原を殺したいと思つてゐるし、もつと突きつめたところまで進めば今でも人を殺す力はある。併しただ「考へてゐる」といふだけのことは、本当の人間の生活では無と同じことなんだ。人を殺すか、自分で死ぬかするくらゐ本当のことは或ひは無いかも知れんけど、しかし……」
 痴川は如何にも自分は真実を吐露すといはんばかりに、まるで何か怒るやうな突きつめた顔で吃りがちの早口で呟いでゐたが、急に言葉を切つた。ふいに喋るのが面倒臭くなつたのだし、それに簡単な解決法が頭に泛んだからである。そこで、言葉を切つたかと思ふと、痴川はいきなり伊豆に武者振りついた。そのはずみに子供のやうに泣きだしてゐた。痴川は伊豆を捩伏せた。痴川は泣きじやくりながらいしだたみへごしごし伊豆の頭を圧しつけ、口汚く罵つたり殴つたりした。伊豆はねちねち笑ひながら殴られてゐたが、やはり痛いとみえて、時々ふうふう空気を吹くやうなことをした。痴川は今度は伊豆を笑はせまいとして一途に頬つぺたを捻つたりしてゐたが、漸く手を離して立ち上つて、尚厭き足らずに数回蹴飛ばしてから、自分の家へ戻らずに往来の方へ出て、人気ない街へ向つて一散に走り去つた。駈け乍らも頻りに伊豆を罵つてゐたが、街角を曲ると急にほつとして、腰が崩れるほど泪が溢れた。彼は漸く電信柱に縋りついて、「俺はどうしやう。どうしたらいいだらう。もう生きたくもない」と言つて、喉がつまつてきて一生懸命胸を叩いてゐるのであつた。
 伊豆はどうやら起き上つて、暫く嘔吐を催して苦しんでゐたが、それから思ひ出したやうに歪んだ笑ひを泛べて、崩れた着物をつくろひもせずにいきなり懐手をして、ぶらりぶらり帰つていつた。
 あの手紙から三日目の夕暮れに小笠原は麻油を訪ねてきた。翌日別れると、別れぎはにも次の日を約束したのだが、併し麻油は尚も早速用箋をとりあげて前と大同小異の手紙を書き、にやにやしながら投函に行つた。約束の日に小笠原は来た。こんなことを数回繰返した。憂鬱な顔をそれでも仕方なしに笑はせるやうにして近づいてくる小笠原を見ると、麻油はくすぐつたい思ひがしたが、誰にするよりも大袈裟な明るさではしやぎながら彼を迎へた。どういふものか、小笠原の物々しい屈託顔を前にして独りで笑つたりお喋りしてゐる最中に、麻油は急に悪戯つぽい顔をして舌でも出してみたいやうな気持になつてしまふのだが、別にそれを隠す気持にもならないので遂にさうしてしまふと、併し小笠原は別段気にかけずに矢張り憂鬱な顔をして、時々自分の方でも笑はうとしたり喋らうとしたり努力してゐる。そんな時、麻油はふいに孤踏夫人の神経質な顔を思ひ出したりした。小笠原の物々しい深刻面の真正面からぶつかつていつて、ほかに格巧がつかないので是も苛々しながら同じやうな物々しい顔を向け合せてゐるに相違ない孤踏夫人の様子は見ものだらうと思つた。麻油は時々ふきだしたくなつて小笠原に頬ずりした。
 小笠原は急に東京を去つた。小笠原は親しさに倦み疲れた。親しさのもつ複雑な関心に腐敗した。親愛な人々を見暮らす根気が尽きて、限りなく懐しみ乍ら訣別を急がうとする広々とした傷心を抱き、それを慈しんで汽車に乗つた。知る友のない海浜の村落へ来て、海を眺めた時、ほつとした。何物にも慰まなかつた小さな心が、縹渺ひょうびょうとした海の単調へ溶けるやうに同化してしまふのを感じて、爽やかな眩暈を覚えた。長い疲れの底に密封されてきて、もう悪臭を放ちさうな澱み腐れた涙が、やうやくたらたらと頬に伝ふのを感じた。毎日磯に寝て、飽くなく貝殻を玩んだり無心に砂を握つてゐたりして、甘い感傷に安らかな憩ひを覚えてゐた。
 ある雨の昼、孤踏夫人へ海の便りを書いた。静かに雨の降る海のやうなひたすらな懐しさで、もし気が向いたら遊びに来てと書き、それを投函して、無論夫人は来るに違ひないことを知つた。又、長い疲れに似た、光の射し込まない部屋のやうな退屈が、雨の降る海からも洋々と溢れてきた。
 生きる気が無くなつたのではないのであるし、それに生きるとか、死ぬとか、差当つて其れを考へてみたわけでもないのに、その夜、催眠薬を多量にのんだ。自殺者は往々最も生きたい奴だと昔彼は考へたのだが、自分のやうな奴は殊に其の一人であつたらしいと思つた。薬をのんでから、彼は一時はひどく逆上してしまつてぼんやりするほど混雑したり、むやみに苦笑したり、時には泣き出したり、それに色々なことをめまぐるしく考へ出したのであるが、自殺者は別に勇気があるわけでさへない、無論、どう考へてみても是を気取れる筋合のものではないが、併し自殺者は必ずしも莫迦だとは結局思へなかつた。どつちみち、無駄な考へごとである。
 小笠原は微笑したいほどの遥かな愛情をもつて、沢山の麻油や孤踏夫人や又その愛撫を思ひ出しもしたのであるが、親愛なるものに訣別したがるかたくなな寂寥は、やはり其の時も有るには有つたらしい。とにかく、小笠原は死んだ。
 翌日、蒲団をはづれて、材木のやうに転がつてゐた。
 それから一月あまり過ぎたが、痴川は伊豆に逢ふことがなかつた。伊豆は死よりも冷酷な厭世家振つて、小笠原の自殺した現場へも告別式へも出なかつたので、誰に逢ふこともなかつたのである。痴川は伊豆を思ひ出す度に立腹したが、或る日急に思ひ立つて伊豆を訪ねた。伊豆に会つて、次のやうに言ふつもりであつた。
「俺達三人は皆んな莫迦者だ。広い生々した世界の中から狭苦しい五味屑のやうな自分の世界を区切つてきて後生大事に縋りついて、ちつぽけな檻の中で変に神経を鋭くして生きたくなつたり死にたくなつたり怒つたりしてみたところで仕様もない。まるで自分を牢獄へ打ち込んでゐるやうなものだ。ほかに世界は広々とひろがつてゐる。案ずるに君と俺は結局認めすぎるほど認め合ひ、頼りすぎるほど力にしあつているのが斯ういふ結果になつてゐるのだから、俺達は無意味に神経を絡ますことを止して単にざつくばらんに頼り合ひ、溌剌とした世界でもつと健全に愉快に生きねばならん」――
 痴川は道々斯う切り出す時の自分の勿体ぶつた様子を様々に想像することが出来たりして、ひどく意気込んでゐた。ところが伊豆の顔を見たとたんから、まるで思ひがけないことばかり思ひつくやうになつて、飛んでもない別のことをまくしたてた挙句に「お前のやうなスネークにはもう二度と会はん」と言つて、遂ひ又散々殴つたり蹴飛ばしたりして泣きほろめいて戻つてきた。
 さてやつれた土左衛門は麻油をさらふやうにして山の湯宿へ走つた。湯へせかせかと飛び込んでみたり、宿の親父と碁を打つかと思ふうちにスキーを担いで雪原へ零れてみたり、とにかく気忙きぜわしく苛々うろつきまはつたすゑには、夜がくるとガッカリして消えさうな様子で縮こまつたりしてゐる。麻油は痴川に一向おかまひなしに、まるで自分の一存で来たやうな落付きやうで、ほかに相客の一人もない静かな廊下を闊歩して行つて湯につかつたり、スキーを習つたりしてゐたが、痴川と顔の会ふときには大概にやにやして煙草をくゆらし乍ら、又その上にも面白さうに笑ひ出したりするのである。さういふ麻油に、痴川は何かといふと愚痴りかけたり怒つたりした。
 ある夜のこと、麻油は鏡を覗き込んで化粧を直したり、それよりも自分の顔を余念もなく眺めたりしてゐたが、急ににやにやしてしよんぼりしてゐる痴川の方を振向いて、
「あたし、もう、小笠原さんの顔を本当に忘れちやつた。どうも思ひ出せない……」
 と、朗らかな声でさう叫んで、とても爽快に大笑ひした。
 痴川は俄にぎよつと顔色を変へて、それから暫くして思ひ出したやうに上体をよろめかせたが、今度はいきみたつて憤慨して、お前くらゐ冷酷で薄情な奴はないと喚いたり愚痴つたりしたあげくには、麻油に縋りついて到頭めそめそ泣き出してしまつて、
「俺だけは忘れないやうにしてくれ。俺はもう自分のれつきとした身体さへ、手で触れてみても実在するやうには呑み込めない頼りない人間だ。この気の毒な可哀さうな俺だけは忘れないやうに、頼む、お願ひだ……」
 と悲しい声を張りあげて、断末魔のやうに身体を顫はせて掻口説かきくどいてゐた。その痴川を麻油は母親のやうに抱いてやつて、けたたましく笑ひ出したが、
「いいの/\。大丈夫よ。貴方の顔は忘れつこないわ。だつて、とても風変りなんだもの……」
 麻油は又一頻り哄笑して、もう文句も言へずに麻油の腕の中でふんふん頷いてばかりゐる痴川を一層強く抱きしめ、優しく頬ずりして、汚い泪を拭いてやつた。

底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第一一年二号」
   1933(昭和8)年2月1日発行
初出:「文藝春秋 第一一年二号」
   1933(昭和8)年2月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年5月19日作成
2011年5月19日修正
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