その娘の父は独力相当の地位と富を築きあげた実業家でありました。外見は豪放磊落にみえるが実際は至つて気の小さな善人だつたのです。一見豪放の裏側では細かいことに気がつきすぎたり拘泥しすぎたりして結局大きいことができないたちの、相当のところまでは漕ぎつけるが一流の大立物にはなれないやうな人でありました。
 娘に結婚の話がきまり相手の青年も選ばれてみると、この善良な父親は娘の許嫁いいなずけにあまり試験官でありすぎた嫌ひがあつたやうです。もともと自分が選定し、自分からまつさき気に入つた青年であつたのに、さうして結婚の日取も定まつた後であるのに、青年を試す眼はいつかな休もうとしないのであります。さうして色々と青年の隠された心に気がつきました。
 青年も外見は豪放磊落な男でありました。若者の心には仕事も終りに近づいた老人にくらべて多くの生々しい複雑が隠されてゐることは仕方がないが、この青年は見掛けが磊落なだけ包まれるものは余計に大きくもあり醜くもあり、そのうへ人を見抜く眼光も娘の父親以上に辛辣な神経ではたらく男でありました。
 青年は自分の裏側の本心を看抜かれるたびに、それを隠しだてやうとはしないで却つてさらけだすやうにしました。時々は内心さうすることをてれながらも、看抜かれたものをわざと誇張して振舞ふのであります。かういふ青年のふてぶてしさは此の人の余儀ない傾向でほかに他意はなかつたのですが、これが娘の父親を苦しめる種になるのでした。
 内心人の思惑を気に病むたちの娘の父は己れの秘密の眼力が風のやうにたあいもなく青年の勘に伝はつてしまふことも心外であつたが、看破られた心を隠さうとしない青年の態度が己れの弱身への挑戦に思はれ、この年寄はたかが人間の裏の複雑な心さへ容れることのできない小人物にすぎないのかと、暗に斯様かような嘲弄をほのめかしてゐるやうに思はれて逆上を覚えずにゐられなくなるのです。そこで老人は自分もそれほど小心者でないことを暗示するため色々の方策を考へるのであつたが、考へてはみるものの行ふ機会を逃がしたり、行つてはみるものの頗る下手糞な表現であつたりして、要するにさういふ重苦しい心の負債が対談する青年の心にも深い溝をつくらせるやうになりました。
 ある夜のこと、老人はすこし酔ひすぎてゐましたが、たうとう青年をカフェへ連れていつたのです。それも老人の住居近くの最も場末の怪しげな店でした。老人はいきなり女を抱きよせました。日頃そんなことを平気にやりつけてゐる人のやうに、呆気にとられた青年の目の前でやにはに女の股間に手をさし入れやうとするのであつたが、次々と女に逃げられてしまふうちに、この人は全く逆上しきつた様子でした。彼は二三百円の札束を掴みだしました。さうして、それを許す女ごとに十円づつ与へ、同様の遊蕩を娘の許嫁にやらせやうとするのです。青年は平気な顔をして笑つてゐたのですが、翌朝老人の宿酔ふつかよいの頭には恰も子供を赦すがやうな青年の笑ひ顔が世にも最も苛立たしいものに絡みついてくるのでした。
 さういふことが度重つて青年と年寄は互にすつかり疲れきつてしまつたが、それとこれでは全く別物の筈であるのに、なぜか青年の心は来るべき結婚にさへ疲れきつたやうでした。結婚に就て全く気乗りが失せたのです。とはいへほかに恋人ができたわけではなかつたし、元来が思ひつめた女ではなかつたにせよ決して厭な許嫁ではなかつたのに、なぜか全くいはれなく気乗りが失せたといふほかに仕方がない状態でありました。
 青年の父は彼がまだ少年のころ病歿しました。即ち彼は母の手に育てあげられたわけですが、その母親は至つて大まかな女であります。けれども細事に気のつかない人ではありません。子供の心も普通以上に看破りはするが、それを余り気にかけず労はりもせず全く黙過する性質でした。子供の遊蕩にさへ我関せずの顔付で、むしろ一人前の若者は当然みだらな世間にも顔をだしておくべきものと考へてゐる様子さへ見受けられたのです。
 どういふ原因か知らないが息子の気持が次第に許嫁の娘から遠のきはじめたことに母はめざとく感づいたが、この母はそれすら黙過しやうとしたのです。それは恰も世間には恋人同志厭気のさす例も沢山あるといふ一般的な現象を肯定するのあまり、現在自分の息子がその許嫁から遠のきはじめてゐることに対してもこれを人一般の宿命のやうに黙過しやうといふ有様でありました。さうして、世間には気にいらない女と不幸な結婚をしなければならない人が沢山あるやうに、息子の結婚も斯様に進行しなければならないとすればそれも仕方がないと考へたもののやうであります。男がその妻をいやだといふなら遊蕩といふこともある、さうして女は悲しさに堪えなければならない、堪えられない女もあるだらう、男も女も世の中は万事幸福にいかないのだとこの母親は思ひこんでゐるやうでありました。母親の胸をさういふ思ひがそれとなく去来した一日、彼女は息子に向つてふとこんなことを洩らしました。
「結婚は若い者が思ふほど人生の一大事ぢやないよ。男は一人の妻が女ときまつてゐないもの」
 けれどもこんな母親ほど息子の幸福を祈つてゐる者もないかもしれない、さうしてその母親がこんなことを言ふのも勿論それを願つてゐるからではなく、この人の悲しい五十何年かの生活がその悲しさの記念碑のやうに之を言はしめてゐるのかと、息子はその時さういふことだけを考へて、ふだんはめつたに二人の心の結びあはない母子ですから、その時はとくに侘びしい切なさを感じたのでした。こんなことがキッカケになつたわけではありませんが、母の暗い忍従の思想が意志極めて固い息子の半面の心へもやがてそれとなく忍び寄る気配もあつたのです。
 娘は日に日に青年をただ一人の男として恋ひつのる傾きがありました。それゆゑ熱のさめはじめた青年の心を読みとらない筈はありません。けれども世馴れないためか、勝気のためか、特にそこから男の心を断定しやうとはせず、男の全てをあるがまま受け容れ、さうして男が悲しんでゐるゆゑ自分の心も悲しいのだとまるで別な風に考へたりしました。それほど青年を愛すやうになつてゐたのです。けれども彼女の本能が次第にその人を陰性にし、沈ませたり笑ひださせたり妙に鋭くさせたり、そのやうなヒステリックな表出を植えはじめてゐました。
 そのころ青年は従来の心最も空虚なときよりも激しく、繁々と遊びはじめてゐました。さういふ悪所通ひに必ず同伴する一人の友人は、善なるものを探しあぐねたあげく、人の心の弱点に最大の愛をそそぎはじめた男でした。
「君は大きな野心がありすぎるのだよ。自分をたのみすぎてゐるのだよ」
 友人は批判の鬼のやうな冷静な眼を光らして青年に言ふのでした。
「結婚に熱が失せたといふのも、原因は娘の中にあるのでもなく娘の父にあるのでもなく、実は結婚とまるで別な、いはば君の夢のやうな希望の中に、自分を恃みすぎる心の中に、とんでもない距離をおいて隠されてゐると思ふがどうだらう?」
 言葉をつづけて又言ふのです。
「君は結局他人を愛すことのできない人だ。なぜなら自分を愛しすぎてゐるからだよ。みたまへ、時々あんな猛烈に自分に絶望してしまふ君の心は、あんまり自分を愛しすぎる証拠なんだよ」
 そこで彼は斯う結論を下して言ふのでした。
「結婚したまへ。要するに女は誰でも君にとつては同じいことだ、君にとつて必要なのは、君の眼を瞞着しがちな、いはれのない愛他心人情を捨てさる機会を掴むことだよ。つまり結婚することも、その一つの機会を掴むことに他ならないのだ。さうして君は君の自恃心を強めていかなければならない。君が最も他人に冷酷になれたとき、即ち最も自らを愛すことのできたとき、そのとき結局君は最も愛他的になつてゐるのだ」
 青年はそれに対して逆らはなかつた。彼はただ斯う呟いたばかりでした。
「まだ/\言ひ足りやしない。言葉では言ひきれないものがあるやうだよ。しかし言葉に言ひきれないものがあるやうでは、これは結局俺がいけないといふ理由になりさうだ」
 併しこんな悪所通ひのうちに、まづ青年に気付いたことは、なるほど自分は時々自責自卑を感じはするが、結局それをおしつめてみると、ただに自らの何物かに対してそれを感じてゐるのであつて、他の誰人に対して感じたわけでもなかつたといふ一事でした。それを言ひ換へれば、彼はただ世の中のしきたりから、単に空虚な自卑のまねごとをしてゐることに他なりません。
 さて話はかくて此の物語の中に於て作者が最も語りたかつたところのものに近づいてきた、それは青年の心に根をすえた一見錯倒した姦淫の心に就てであります。
 青年の心は余りに若々しく走りすぎたといふことができます、走りすぎたといふことは罪を求めすぎたといふことでありました。さうして罪を求めすぎたとは贖罪を探しすぎたことであつて、彼の余りにも強い自意識は贖罪の強烈な意識によらなければ救ひを感じ得ないかの極端な考へを生じたものであるらしい。
 結果だけを言つてしまへば、彼は結婚の前に許嫁の娘を強姦しやうと考へたのです。
 青年は娘に特殊な愛情の失はれた自らを知りましたが、併し色情は失はれてゐないことも知らなければなりませんでした。結婚をするとすれば単に色情のためであらう、あはせて将来の利益のためであらう、けれどもこの結婚を棄権せしめるに足るほどの意中の女もなく利益ある条件もないとすると、結婚といふ事柄はもはやまぬかれない宿命のやうにこの青年は観念しました。そのくせ、この安手な観念が先づ第一に彼を責めつける一矢を放つことになりました。即ち彼は自ら省みて内心の醜悪さに観念せざるを得なかつたのです。
 そこで彼は自分の醜を救ふものは、これをまがひ物の人情によつて掩ひ隠すことではなく、まがひ物の人情を思ひきつて捨てきることだと思ひました。自分の醜を飾りなく露出し、強ひて罪を求めやうと考へました。
 併し彼は自分ながら走りすぎたと考へたことも事実です。といふのは、人の心にあらゆる醜さの隠されてゐることは全ての醜さが一にかかつて汝の心によつてのみ見出されるものである限り当然の話であるが、かたはら醜さをおさへつけてゐる何程かの作用が、形は単に消極的なものとはいへ、とにかく之も否定しがたい何物かであることは疑へない、ここにも問題にすべきものがあると彼は一応考へたのでした。併し彼の血気な心は好んで醜の露出を強ひる傾きがありました。勇者のやうに贖罪へ急ぎすぎた過ちを犯さうとしました。
 青年は娘を強姦することによつて自らの宿命を試みやうと考へたのです。自らの悪徳を露出することのみがその悪徳を救ふ道だと言ひきかせました。さうして全ては行はれたのちに於て、悔ゆべきは悔ひ、悔ひなきときは尚恬然てんぜんと先へ進もうと考へたのです。
 併し以上の説明は作者の凝りすぎたこぢつけもあつたかもしれない。併し説明に手違ひはあるにしても、許嫁を強姦しやうといふ青年の考へは忽ち火の狂暴な劇しさをもつて彼の胸に焼けついてしまつたことは事実です。青年はその情慾のために睡れない夜をもつことがありました。さうして、不思議な情慾の鬼と化してしまつたのです。
 一日遂ひに青年は娘を山へ連れだしました。勿論強姦の目的のためにです。
 武州御嶽にほど近いあたりは、どこまで行つても平凡な山また山の連続です。こういふ平凡な山には樵夫のはいる小径さへ印されてゐないのが普通です。こんな山の一つに木暮山といふのがあり、その山の中腹は深い谷川に囲まれて約八段歩の広さをもつ日当りの良い草原になつてゐました。この草原の中央に形のととのつた丸太小屋があるのです。これは青年の先輩に当る夢に富んだ一哲学者がこの草原に牛を飼ひ、自ら牛の王様となるために設計したものですが、この夢を実現しないうちに山を降り、いはば彼は貧乏に負け、夢に富んだ小屋をのこして片田舎の教壇へ逃げなければならなかつた、その遺跡は今も尚歴然と形を存してゐるのでした。青年は夢に崩れたこの山小屋を強姦の目的の場所に選んだのです。
 この丸太小屋へ行くためには青梅電鉄の一駅に下車し、多摩川を渡つてのちその流れに沿ふて歩くこと一里近く、鬱蒼たる木陰に狸をまつつた祠のあるところから谷川に沿ふて山径を登るのです。登ること六七町、谷川のとある曲り角を目印しにして全く径のない対岸へ谷川を渉らなければならない、渉つたところが木暮山の麓です、草をわけ岩腹をよぢ登つて行くと突然眼の前に日当りの良い緑の草原が現れてくるのです。
 かやうに木暮山へ辿りつくためには谷川の奔流を徒渉しなければなりません。青年の頭に描かれた妖しい強姦の影絵は、奔流を徒渉するために、光もとどかない神秘の谷底に於て軽々と娘の肉体を抱きとり、妖蛇の流れるに似た水の上を渉るところから始まつてゐました。併し実際その地点にさしかかつたとき、青年の精密な影絵は霧散し、あまりにも息苦しい情慾のみ全身をのたうちまはつてゐるばかりでありました。
 まづ谷川を渉るためには、そのまへに遥か谷底へ下るといふ却々なかなか難路の過程を経なければなりません。傾斜とよぶよりも断崖に近いものですから、蔓草にすがり灌木の根に足場を定めて這ひ降りるわけですが、その木暗い谷底の差し交じる枝葉の下には光も乏しい深さまで辿りつくためには男一匹でさへ相当の労力を要します。まして娘を護りながらの道中では、娘よりも当の青年が流石の情慾をさへ忘れがちで、気の遠くなるほど疲れきつたとき谷川の森々たるせせらぎの前へ立つことができました。青年は流れを凝視しながら娘に言ひました。
「この谷川を渉つたところから木暮山です。僕がだいて渉りませう」
 この言葉をこれほど率直に言ひ得たことさへ不思議でしたのに、この言葉を言ふ青年の心は淫慾よりも守護する人の憐愍の念が幽かながら流れてゐることは更に不思議でありました。青年は疲れきつてゐたのです。さうして、娘を護つて降りてきたその行動の続きだけが心の中に最も生きて動いてゐた、そのために見掛けによらない率直な表現ができたのかもしれません。その証拠には、青年は斯う言ひながら、その実は疲れきつてしまつてゐて、言ひは言ひ切つたものの暫くのうちは流れる水を凝視したまま、その行動にとりかかるといふ張りも浮んでこなければ力も浮かびでてこなかつたのでした。
 暫くして漸く青年が娘の方を振向いたとき、娘は訴へるやうに青年の眼をぬすみみました。それは悲しげに見え、消えるが如くに見えたのです。併し青年はその一瞬君主の如く振舞ひました。娘は目をとぢて男の頸にすがりましたが、流れに面して娘の柔らかな肢体を抱きあげたとき青年の皮下に怒濤の如く走るものが溢れたといへ、靴を脱がず静かな一足を奔流の中へ下してからの青年は、対岸へ立ち娘を岩上へ立たしめてからも尚暫くは無我夢中でしかありませんでした。
 ここに異様な現象がおこつたのであります。ひとたび娘の肉体に手を触れた以上一層の大胆な冒涜がつづいて可能のやうに思はれるにも拘らず、実際は逆に青年は娘の肉体から手を離した瞬間を境にして勇気とみに沮喪してしまつたのです。単に勇気沮喪したばかりではありません、あだかもタブーを見るごとき畏れと気おくれがいはれなく彼の全身に瀰漫びまんしてきました。さうして唐突にかつて思ひ及ばなかつた強姦に対する激越な自卑の念さへ湧きたつてきたのです。そのほか幻のやうにちらめく色々の断片的な後悔や怒りや悲しみがありました。
 木暮山中腹の八段歩の草原までよぢのぼる難路のあひだ、青年はめくるめく想念の断続のために遂に一言も発することができませんでしたが、初夏の光燦然たる緑の草原へ現れでたとき、彼の胸に発止と突き当つた想念は矢張り強姦を遂行せずに山を降ることは決してできないといふ片意地な決意だつたのでした。
 草原の丸木小屋は屋根の下約八坪の面積があるのですが、その半分即ち四坪は単に柱によつて屋根が支へられてゐるだけの吹き曝しの土間であります。この土間には一ヶ所に穴がうがたれ、この上に自在がかけられてあつて、即ち言ふまでもなく此の家の台所でありました。残りの四坪が四壁を丸木に囲まれた居間兼寝室で、様式は和洋折衷、といふよりも、之がつまり最も自然な手のこまない様式だからに他なりませんが、先住は呑気な人で、蒲団も書物も食器も往時あつたがままの同じ場所へそつくり残してありました。彼は身体一つで片田舎の教壇へ逃れたのです、といふのは、きつと又あの谷川を渉つて帰る時があるといふ妄執があつたからに他なりません。青年が辿りついてまづ驚いたのは、この瞬間まで人が棲んでゐたとしか思はれない生々しい物品の累々たる存在でありましたが、ただ一つ不足のものが遥かの谷川から樋を伝つて導かれてくるところの必要欠くべからざる飲用水が全く一滴も流れることがなく乾あがつてゐることでありました。あとで谷底の水源を探つてみると、水の流れ口に朽葉がつまつてゐるのを見出しました。
 玩具のやうな夢に富んだ丸木小屋も娘の心を幻想の世界へ連れさることができませんでした、なぜといへば、谷川にかかつて以来、緊張と亢奮によつて、娘はまつたくうはの空でしかなかつたからであります。来るべきものに対するあらゆる感情の交錯と緊張によつて、娘は歩きながら又話しながら、そのまま酔ひまた化石したやうでありましたが、すでに青年のものに等しい娘の有様が実は却つて青年の心を最も重苦しい気おくれの中へ、恰も手掛りのない穴の中へ、突き落されたかの感をいだかせるのでありました。青年も全くうはの空になりました。
 彼らが小屋の中へはいつたとき、即ち遂に光の眼から遮断されてしまつたとき、さうして造りつけの板椅子の上へなんとなく腰を下してしまつたとき、横に並んだ肉体と肉体の間には一尺以上の距りがあつたにも拘らず、娘の体温が最も精妙な感官を通して全て吸ひとられてくる如く、青年の官能は燃え狂ひ、激流となり、もしも一つの緊張が破れたなら物凄い息吹きとなつて迸りでるかと思はれました。来る途まで心に強く描かれてゐた精密な淫画の断片が現れるかと見えて消え、一言発すれば全て済むはずの言葉が頭を掠めて流れ去り、娘の身体に手をかけさへすれば万事終るべき筈のわづかに一尺の動きが、その動きを思ひだすときには逆に一尺縮むやうな不可抗力を覚えます。
 それが娘にも伝播してゐました。娘は疲れ、消えるやうに凝縮し、孔のやうな瞳によつて訝しげに空間を探るほかには動作といふものを持ち得ません。ただ一つの動くもの働くものが加りさへすれば、それが娘の全てになるはづでありました。一寸の動き、一分の動き、あるひは一語でもよかつたのです。併しどうしても青年はうすることができないのです。
 青年の全身を怒りが駈け狂ひました。それは直ちに情慾の激流とまぢつて湧きたちました。彼は怒りにまかせて最後の一語を叫ばうとしました。さうして重苦しげに立ち上り、漸く娘の方を向き直つて唇を開いたとき、併しその瞬間に言葉は全く別の言葉に変つてゐたのでありました。
「外へ出ませう。さうして、すこし、山を歩いてみませう」と彼は言つてゐたのでした。いきなり彼は戸を押しひらき、光りの下へ立ち現れて背延びをせずにゐられなかつたのです。
 青年は杖をふつて歩きました。彼は娘に山小屋の由来を語り、山小屋の哲人のひととなりを語り、牛の王様となるべき筈の抱負を語り、さうして彼の最大の苦心を費した水源へ案内し、その口に一杯つまつた朽葉を見出して之を取払ひました。そのために彼等が散歩から戻つたとき、丸太小屋の水道にも再び潺湲せんかんと水が流れてゐたのでした。二人は黒百合山といふ名前に似ない岩肌のゴツ/\した山へ登つてみました。その山がこの平凡な山波の中では一際立ちまさつた見晴らしを持つ絶景の場所であります。そこへ登る途中にも機会は幾度かありました。むしろ二人の同じ心の結び目が自然と機会をつくりだしてゐるのでした。そのために一層何物かに先を越された感じのする奇妙に不可抗的な気おくれが立ちふさがつてくるのです。さうして、遂にどうすることもできませんでした。
 彼等の帰路、彼等は再び谷川を徒渉しなければなりません。青年も憐れみを乞ふやうに娘を見、娘も憐れみを乞ふやうに青年を見て、斯うして娘は力なく青年の肩に縋りました。青年は娘を抱きあげました。娘は死のやうでありました。青年は再び情慾の激流の中にゐましたが、彼の心に泣く人のやうな苦しさ悲しさが入り乱れて走るのでした。奔流を渉る途中、わづかの動揺を利用して娘の頬にその唇を当てさへすればよかつたのです。併し彼の片意地な首はまるで堅い棒のやうに却つて不自然に直立せずにはゐられません。さうして甚だ大股に奔流を渉り終つてしまひました。
 この冒険の蹉跌によつて、併し娘への情慾は青年の心の中に確定しました。彼は娘の肉体を描かずに情慾を行ふことができなくなつたのです。それゆゑ青年は情念のわきたつ度にこの結婚を期待する気持を持つやうになりました。併し青年の心には尚世の中の見知らぬところに必ず清純な恋もありうることを、どうしても否定することができなかつたのは、これも詮方ない事実でありました。けれどもそのころ青年は、娘の肉体を思ひだすとき、清純な恋の存在に気おくれを感じることも少く、またその恋の必要も感じないほど激しい状態の中にありましたので、暫くのうちは万事なめらかに進んだのです。かうして二人は結婚しました。
 それからの二人の生活が幸福であつたか不幸であつたか、それは作者も知りません。作者の知つてゐるわづかのことは、併しこの物語の中に於ても、青年は勿論、娘も決してとりわけ幸福でもなかつたといふことであります。もともと恋と幸福は同じものではありません。

底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「作品 第六巻第一号」
   1935(昭和10)年1月1日発行
初出:「作品 第六巻第一号」
   1935(昭和10)年1月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年5月19日作成
2011年5月20日修正
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