私は文章を書いてゐて、断定的な言ひ方をするのが甚だ気がかりの場合が多い。心理の説明なぞの場合が殊に然うで、断定的に言ひきつてしまふと、忽ち真実を掴み損ねたやうな疑ひに落ちこんでしまふ。そこで私は、彼はかう考へた、と書くかはりに、かう考へたやうであつた、とか、かう考へたらしいと言ふ風に書くのである。つまり読者と協力して、共々言外のところに新らたな意味を感じ当てたいといふ考へであるが、これは未熟を弥縫びほうする卑怯な手段のやうにも見えるが、私としては自分の文学に課せられた避くべからざる問題をそこに見出さずにゐられない気持である。
 芥川龍之介の自殺の原因に十ほど心当りがあるといふ話を宇野浩二氏からおききしたことがあつたが、当然ありさうなことで、また文学者のやうな複雑な精神生活を持たない人々でも、これ一つといふ剰余なしのハッキリした理由だけで自殺することの方が却つて稀なことではないだらうか。
 自殺なぞといふ特異な場合を持ちだすまでもなく、日常我々が怒るとか喜ぶとか悲しむといふ平凡な場合に就て考へてみても、単に怒つた、悲しんだ、喜んだ、と書いただけでは片付けきれない複雑な奥行きと広がりがあるやうである。それにも拘らず多くの文学が極めて軽く単に、喜んだ、悲しんだ、叫んだ、と書いただけで済ましてきたのは、その複雑さに気付かなかつたわけではなく、その複雑さは分つてゐても、それに一々拘泥こだはるほどの重大さを認めなかつたからと見るのが至当であらう。実際のところ、特殊な場合を除いて、これらの一々に拘泥しては大文章が書けないに極つてゐる。
 私は文章の「真実らしさ」といふことに就て、内容の問題も無論あるが、形の上の真実らしさが確立すれば、むしろ内容はそれに応じて配分さるべきものであり、それに応じて組織さるべきものでもあり、かうして形式と結びついて配分されたところから、全然新らたな意味とか、いはば内容の真実らしさも生れてくるのではないかと考へてゐる。如上の私の言ふ形式といふことが、文章上の遊戯とは思へないのである。
 これを先づ小さなところから言へば、先程も述べたやうな、断定的な言ひ方が気になつて仕方がないといふことであるが、これは必ずしも私の神経が断定を下すにも堪えがたいほど病的な衰弱をきたしてゐるから、とばかりは言へないやうである。
 意識内容の歪み、襞、からみ、さういふものは断定の数をどれほど重ねても言ひきれないやうに思はれる。又、私の目指す文学は、それを言ひきることが直接の目的でもないのである。小説の部分々々の文章は、それ自らが停止点、飽和点であるべきでなく、接続点であり、常に止揚の一過程であり、小説の最後に至るまで燃焼をつづけてゐなければならないと思ふ。燃焼しうるものは寧ろ方便的なものであつて、真に言ひたいところのものは不燃性の「あるもの」である。斯様かようなものは我々の知能が意味を利用して暗示しうるにとどまるもので、正確に指摘しやうとすると却つて正体を失ふばかりでなく、真実らしさをも失つてしまふ。
 文章の真実らしさは絶対的なものではなく、時の神経(ほかに適当な言葉が見当らない)に応じて多分に流動的である。この神経を無視して、強ひてする正確さは、その真実の姿を伝へる代りに、却つて神経の反撃を受けて、真実らしさを失ひがちなものである。然しながら近頃文章を批評するに、この文章には真実(実感)がある、真実がない、といふ言ひ方が流行し、この実感を嗅ぎ出す神経が極度に発達してゐるやうに見受けられるが、私はこの傾向を余り歓迎しない。実感は芸術以前の素朴なもので、文章で言へば手紙や日記に寧ろ最も多く見出されるものであり、それ自体としての真実は持つにしろ、だいたいあんまり本当のことを言はれても挨拶のしやうがないことと同じやうに、御尤もですといふ以外の幅も広さもないのである。むしろ一々の文章にかういふひねこびた真実を強ひられると、飛躍した高処に何物の姿をもとらへることができなくなつてしまふばかりだ。そのうへ、それ自らとして独立した実感を持つにしても、部分と部分との連絡の際に、曲芸を行はない限り自由に進行もできないやうな自縄自縛におちいる危険はありはしまいか。私の経験によると、内容的な真実(実感)を先に立てると、概ね予定通りの展開もできないやうな卑屈な渋滞状態をひきおこし、却つて真実を逸しがちであるばかりか、渋滞状態の悪あがきの中では、真実を強調するための一種自己催眠的な虚偽すら犯してしまふのである。これらの危険を避け、書きたいことを自由に書きのばすために、私に考へられる唯一の手段は、新らたな形式をもとめ、形式の真実らしさによつて逆に内容の発展を自由ならしめやうといふことである。
 四人称を設けることは甚だうまい方法で、この方法によつて確かに前述の自縄自縛がかなりにまぬかれるに違ひない。然しながら私は、日本語に於ける四人称に一つの疑ひを持つものである。
 元来この目的のための四人称は記号の如きもので、肉体を持つとそれは又別の意味のものになる。多少の肉体を具えた四人称は、これは又特別のニュアンスをもつもので、私のここでふれたい問題は完全に肉体を持たない四人称に限られてゐる。
 英語や仏蘭西語や独逸語は主格なしに句をつくることができない。そこで作中の人物でもなく、作家自らでもなく、いはば作品の足をおろした大地からは遊離した不即不離の一点に於て純理的存在をなすところの一談話者兼一批判者(形の上では、つまり narrateur と penseur が一致したやうな体裁である)、一でも多でも全でもあり、同時に形態としては無であるところの第四人称が、外国語では文法的に必ず設立を余儀なくされるわけである。この種の「私」は不完全ながらも外国文学には時々用ひられてきたやうである。
 日本語は幸か不幸か必ずしも主格の設置を必要としない。彼は斯々かくかくに考へたらしい、とか、斯々に考へた様子にも見えた、といふ風に言葉を用ひて第四人称をはぶくことも出来ない相談ではないやうである。「らしい」といふ主体が作者の主観に間違はれる心配は、その前後の語法に多少の心を用ひればまづ絶対にないとみていい。それに私といふ第四人称が顔を出さないだけに、この無形の説話者はいささかの文章上の混乱をまねくことなく作品のあらゆる細部に説をなすことができ、最も秘密な場所に闖入してつぶさに観察する時にも文章上の不都合をまねかない。同時に、第四人称の私が文法的な制約から必ず第四人称に限定されるに比べれば、この無形の説話者は第五人称にも第六人称にもなりえて、益々複雑多岐な働きをすることもできやうと思ふのである。とまれ然ういふ文章の構成法を様々に研究してみたら、極めて軽妙に文章の真実らしさを調へることもでき、従而したがって言はうとする内容を極めて暢達に述べとほすこともでき、色々とひつかかる左右の問題にも軽く踵をめぐらして応接することができはしないかと思ふのである。
 別な見方からすれば、内容を萎縮せしめる形式が最もいけないのであつて、その逆の形式をもとめるべきであり、私自身はその形式の必要を痛感しつつもはや長く悩まされ通してゐるばかりである。
 第四人称の問題は別として、らしい、とか、何々のやうであつた、やうに見えた、といふ言ひ方は、却々なかなか面白い手段ではあるまいか。とかく今日の神経は、断定的であつたり、あくまで組織的であらうとすると直ちに反撥を感じ易く、いはば今日の神経はそれ自らが解決のない無限の錯雑と共にあがきまはつてゐるやうなもので、むしろ曖昧な形に於て示された物に対しては能動的な感受力を起してきて、神経自らが作品の方を真実らしく受けとつてくる、さういふことも考へられると思ふのである。過去に於ては作者も読者も陶酔的であつたらしいが、今日では作者は同時に自らの批評家であることが免れがたい状態で、さういふ作者は作品の制作に当つて、自分と同じ批評家としての読者しか予想できないものである。つまりは今も昔も変りなく、自分の意に充つるやうにしか書けないわけのものであらうが、そこで私は自分の状態をのべると、あくまで断定的ならざる又組織的ならざる形態で示したものが、それ自体としては真実を掴んでゐないにせよ、真実を掴みそこねてはゐないので、真実らしく見えるのである。且又斯様に分裂的な曖妹な言ひ方を曖昧なままディアレクティクマンに累積することによつて、ともかく複雑な襞をはらんだ何物かを言ひ得たやうに思はれる場合が多いやうにみられるのだ。
 このことは又、章句の場合に限らず、小説全体の構成に就ても同断である。小説に首尾一貫を期さうとし、あくまで組織づけやうとすると、その聯絡毎に概して無理がともなひがちで、あくまで真実らしくしやうとすると、ここでも進行不能の渋滞を惹起しがちのものであり、その反対には不当な曲芸を犯してしまふことが多い。人間の動きは数理のやうには行かない。あらゆる可能を孕んでゐて、それのいづれもが同時に可能であることが多々ある。Aの事情からBの事情が継起する必然性は人間の動きに於ては決してないので、それ本来の条件としては寧ろ偶発的、分裂的と見る方が至当であり、これらの動きに一々必然的な聯絡をつけ、組織づけやうとすると、ここでも却つてその真実らしさを失ふことになるであらう。
 ドストイェフスキーの作品では、多くの動きが、その聯絡が甚だ不鮮明不正確で、多分に分裂的であり、それらの雑多な並立的な事情が極めてディアレクティクマンに累積され、或ひはディアレクティクなモンターヂュを重ねて、甚だしく強烈な真実感をだしてゐる。組織的に組み立てやうとするよりも、むしろ意識的に分裂的散乱的に配合せんとすることを狙つてゐて、いはば彼にあつては、分裂的に配合することが、結果に於て組織的綜合的な総和を生みだすことになつてゐる。さうしていたずらに組織立てやうとしないために、無理にする聯絡のカラクリがなく、労せずして(実は労してゐるのであらうが、文章に表はれた表面では――)強烈な迫力をもつ真実らしさを我物としてゐる。この手法は私の大いに学びたいと思ふところのものである。
 脈絡のない人物や事件を持ち来つて棄石のやうに置きすてて行く、さういふことも意識的に分裂的配分を行ふ際に必要な方法であらうし、探したならば、そのための色々都合のいい、効果的な、面白い手法を見付けだすこともできると思ふ。要するに、事件と事件が各々分裂的で、強ひてする組織的脈絡がないといふことは、一章句が断定的でなく強ひて曖昧であることの効果と同じ理由で、それ自体が真実そのものであることを表面の武器としない代りに、真実を掴み損ねた手違ひは犯してゐないといふそれ自らとしては消極的な効能ながら、それによつて読者の神経に素直に受け入れられることができ、つづいて斯様に分裂的な数個の事情を累積することによつて、積極的な真迫力も強め得て、言葉以上に強力な作者の意志を伝へることもできやうと思ふのである。
 蛇足ながら最後に一言つけ加へておくと、私は「真実らしさ」の「らしさ」に最も多くの期待をつなぐものであつて、それ自体として真実である世界は、それがすでに一つの停止であり終りであることからも、興味がもてない。「らしさ」はあらゆる可能であり、かつ又最も便宜的な世界である。芸術としては最も低俗な約束の世界であらうが、然しともかくここまでは芸術として許されうる世界であつて、従つて最も広く、暢達な歩みを運ぶこともできるのである。表面の形は低俗であつても、最も暢達の世界であるために、結果に於て最も低俗ならざる深さ高さ大いさに達することができるのだ。左様な考へから、今日の神経に許されうる最も便宜的な世界に於て、真実らしき文章の形式を考案したいと考へてゐるのである。
(八月一日、信濃山中にて)

底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「作品 第六巻第九号」
   1935(昭和10)年9月1日発行
初出:「作品 第六巻第九号」
   1935(昭和10)年9月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年4月19日作成
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