天正十八年真夏のひざかりであつた。小田原は北条征伐の最中で、秀吉二十六万の大軍が箱根足柄の山、相模の平野、海上一面に包囲陣をしいてゐる。その徳川陣屋で、家康と黒田如水が会談した。この二人が顔を合せたのはこの日が始まり。いはゞ豊臣家滅亡の楔が一本打たれたのだが、石垣山で淀君と遊んでゐた秀吉はそんなことは知らなかつた。
 秀吉が最も怖れた人物は言ふまでもなく家康だ。その貫禄は天下万人の認めるところ、天下万人以上に秀吉自身が認めてゐたが、その次に黒田如水を怖れてゐた。黒田のカサ頭(如水の頭一面に白雲のやうな頑疾があつた)は気が許せぬと秀吉は日頃放言したが、あのチンバ(如水は片足も悪かつた)何を企むか油断のならぬ奴だと思つてゐる。
 如水はひどく義理堅く、主に対しては忠、臣節のためには強いて死地に赴くやうなことをやる。カサ頭ビッコになつたのもそのせゐで、彼がまだ小寺政職といふ中国の小豪族の家老のとき、小寺氏は織田と毛利の両雄にはさまれて去就に迷つてゐた。そのとき逸早いちはやく信長の天下を見抜いたのが官兵衛(如水)で、小寺家の大勢は毛利に就くことを自然としてゐたが、官兵衛は主人を説いて屈服させる。即坐に自ら岐阜に赴き、木下藤吉郎を通して信長に謁見、中国征伐を要請して、小寺家がその先鋒たるべしと買つてでた。このとき官兵衛は二十を越して幾つでもない若さであつたが、一生の浮沈をこの日に賭け、いはゞ有金全部を信長にかけて賭博をはつた。持つて生れた雄弁で、中国の情勢、地理風俗にまでわたつて数万言、信長の大軍に出陣を乞ひ自ら手引して中国に攻め入るなら平定容易であると言つて快弁を弄する。頗る信長の御意にかなつた。
 ところが秀吉が兵を率ゐて中国に来てみると、小寺政職は俄に変心して、毛利に就いてしまつた。官兵衛は自分の見透しに頼りすぎ、一身の賭博に思ひつめて、主家の思惑といふものを軽く見すぎたのだ。世の中は己れを心棒に廻転すると安易に思ひこんでゐるのが野心的な青年の常であるが、世間は左様に甘くない。この自信は必ず崩れ、又いくたびか崩れる性質のものであるが、崩れる自信と共に老いたる駄馬の如くに衰へるのは落第生で、自信の崩れるところから新らたに生ひ立ち独自の針路を築く者が優等生。官兵衛も足もとが崩れてきたから驚いたが、独特の方法によつて難関に対処した。
 官兵衛にはまだ父親が健在であつた。そこで一族郎党を父につけて、之を秀吉の陣に送り約をまもる。自分は単身小寺の城へ登城して、強いて臣節を全うした。殺されるかも知れぬ。それを覚悟で、敢へて主人の城へ戻つた。いはゞ之もまた一身をはつた賭博であるが、かゝる賭博は野心児の特権であり、又、生命だ。そして賭博の勝者だけが、人生の勝者にもなる。
 官兵衛は単身主家の籠城に加入して臣節をつくした。世は青年の夢の如くに甘々と廻転してくれぬから、此奴裏切り者であると土牢の中にこめられる。一刀両断を免がれたのが彼の開運の元であつた。この開運は一命をはつで得たもの、生命をはる時ほど美しい人の姿はない。当然天の恩寵を受くべくして受けたけれども、悲しい哉、この賭博美を再び敢て行ふことが無かつたのだ。こゝに彼の悲劇があつた。
 この暗黒の入牢じゅろう中にカサ頭になり、ビッコになつた。滑稽なる姿を終生負はねばならなかつたが、又、雄渾なる記念碑を負ふ栄光をもつたのだ。かういふ義理堅いことをやる。
 主に対しては忠、命をすてゝ義をまもる。そのくせ、どうも油断がならぬ。戦争の巧いこと、戦略の狡猾なこと、外交かけひきの妙なこと、臨機応変、奇策縦横、行動の速力的なこと、見透しの的確なこと、話の外である。
 中国征伐の最中に本能寺の変が起つた。牢の中から助けだされた官兵衛は秀吉の帷幕に加はり軍議に献策してゐたが、京から来た使者は先づ官兵衛の門を叩いて本能寺の変をつげ、取次をたのんだ。六月三日深夜のことで、使者はたつた一日半で七十里の道を飛んできた。官兵衛は使者に酒食を与へ、堅く口止めしておいて、直ちに秀吉にこの由を告げる。
 秀吉は茫然自失、うなだれたと思ふと、ギャッといふ声を立てゝ泣きだした。五分間ぐらゐ、天地を忘れて悲嘆にくれてゐる。いくらか涙のおさまつた頃を見はからひ、官兵衛は膝すりよせて、さゝやいた。天下はあなたの物です。使者が一日半で駈けつけたのは、正に天の使者。
 丁度その日の昼のこと、毛利と和睦ができてゐた。その翌日には毛利の人質がくる筈になつてゐたから、本能寺の変が伝はらぬうちと官兵衛は夜明けを待たず人質を受取りに行き、理窟をこねて手品の如くにまきあげやうとしたけれども、もう遅い。金井坊といふ山伏が之も亦風の如く駈けつけて敵に報告をもたらしてゐる。官兵衛はそこで度胸をきめた。敵方随一の智将、小早川隆景を訪ね、楽屋をぶちまけて談判に及んだ。
「あなたは毛利輝元と秀吉を比べて、どういふ風に判断しますか。輝元は可もなく不可もない平凡な旧家の坊ちやんで、せゐぜゐ親ゆづりの領地を守り、それもあなたのやうな智者のおかげで大過なしといふ人物です。天下を握る人物ではない。然るに秀吉は当代の風雲児です。戦略家としても、政治家としても、外交家としても、信長公なき後は天下の唯一人者で、之に比肩し得る人物は先づゐない。たま/\本能寺の飛報が二日のうちにとゞいたのも秀吉の為には天の使者で、直ちに踵をめぐらせて馳せ戻るなら光秀は虚をつかれ、天下は自ら秀吉の物です。柴田あり徳川ありとは云へ、秀吉を選び得る者のみが又選ばれたる者でせう。信長との和睦を秀吉との和睦にかへることです。損の賭のやうですが、この賭をやりうる人物はあなたの外には先づゐない。あなたにも之が賭博に見えますか。否々。これは自然天然の理といふものです。よろしいか。秀吉の出陣が早ければ、天下は秀吉の物になる。この幸運を秀吉に与へる力はあなたの掌中にあるのです。だが、あなた自身の幸運も、この中にある。毛利家の幸運も、天下の平和も挙げてこの中にありですな」
 隆景は温厚、然し、明敏果断な政治家だから、官兵衛の説くところは真実だと思つた。輝元では天下は取れぬ。所詮人の天下に生きることが毛利家の宿命だから、秀吉にはつてサイコロをふる。外れても、元金の損はない。そこで秀吉に人質をだして、赤心を示した。
 けれども官兵衛は邪推深い。和睦もできた。いざ光秀征伐に廻れ右といふ時に、堤の水を切り落し、満目一面の湖水、毛利の追撃を不可能にして出発した。人は後悔するものだ。然して、特に、去る者の姿を見ると逃したことを悔ゆる心が騒ぎだす。
 官兵衛は堤を切り、満目の湖を見てふりむいた。それから馬を急がせて秀吉の馬に追ひつき、さゝやいた。毛利の人質を返してやりなさい。なぜ? 官兵衛はドングリ眼をギロリとむいて秀吉を見つめてゐる。なぜだ! 秀吉は癇癪を起して怒鳴つたが、官兵衛は知らぬ顔の官兵衛で、ハイ、ドウ/\馬を走らせてゐるばかり。もとより秀吉は万人の心理を見ぬく天才だ。逃げる者の姿を見れば人は追ふ。光秀と苦戦をすれば、毛利の悔いはかきたてられ、燃えあがる。人質が燃えた火を消しとめる力になるか。燃えた火はもはや消されぬ。燃えぬ先、水をまけ。まだしも、いくらか脈はある。之も賭博だ。否々。光秀との一戦。天下浮沈の大賭博が今彼らの宿命そのものではないか。
 アッハッハ。人質か。よからう。返してやれ。秀吉は高らかに笑つた。だが、カサ頭は食へない奴だ。頭から爪先まで策略で出来た奴だ、と、要心の心が生れた。官兵衛は馬を並べて走り、高らかな哄笑、ヒヤリと妖気を覚えて、シマッタと思つた。
 山崎の合戦には秀吉も死を賭した。俺が死んだら、と言つて、楽天家も死後の指図を残したほど、思ひつめてもゐたし、張りきつてもゐたのだ。
 ところが兵庫へ到着し、愈々決戦近しといふので、山上へ馬を走らせ山下の軍容を一望に眺めてみると、奇妙である。先頭の陣に、毛利と浮田の旗が数十りゅう、風に吹き流れてゐるではないか。毛利と浮田はたつた今和睦してきたばかり、援兵を頼んだ覚えはないから、驚いて官兵衛をよんだ。
「お前か。援兵をつれてきたのは」
 官兵衛はニヤリともしない。ドングリ眼をむいて、大さうもなく愛嬌のない声ムニャ/\とかう返事をした。小早川隆景と和睦のとき、ついでに毛利の旗を二十旒だけ借用に及んだのである。隆景は意中を察して笑ひだして、私の手兵もそつくりお借しゝますから御遠慮なく、と言つたが、イエ、旗だけで結構です、軍兵の方は断つた。浮田の旗は十旒で、之も浮田の家老から借用に及んで来たものだ。光秀は沿道に間者を出してゐるに相違ない。間者地帯へはいつてきたから、先頭の目につくところへ毛利と浮田の旗をだし、中国軍の反乱を待望してゐる光秀をガッカリさせるのだ、と言つた。
 秀吉は呆れ返つて、左右の侍臣をふりかへり、オイ、きいたか、戦争といふものは、第一が謀略だ。このチンバの奴、楠正成の次に戦争の上手な奴だ、と、唸つてしまつた。けれども唸り終つて官兵衛をジロリと見た秀吉の目に敵意があつた。又、官兵衛はシマッタと思つた。

 中国征伐、山崎合戦、四国征伐、抜群の偉功があつた如水だが、貰つた恩賞はたつた三万石。小早川隆景が三十五万石、仙石権兵衛といふ無類のドングリが十二万石の大名に取りたてられたのに、割が合はぬ。秀吉は如水の策略を憎んだので故意に冷遇したが、如水の親友で、秀吉の智恵袋であつた竹中半兵衛に対しても同断であつた。半兵衛は秀吉の敵意を怖れて引退し、如水にも忠告して、秀吉に狎れるな、出すぎると、身を亡す、と言つた。如水は自らを称して賭博師と言つたが、機至る時は天下を的に一命をはる天来の性根が終生カサ頭にうづまいてゐる。尤も、この性根は戦国の諸豪に共通の肚の底だが、如水には薄気味の悪い実力がある。家康は実力第一の人ではあるが温和である。ところが黒田のカサ頭は常に心の許しがたい奴だ、と秀吉は人に洩した。如水は半兵衛の忠告を思ひだして、ウッカリすると、命が危い、といふことを忘れる日がなくなつた。
 九州征伐の時、如水と仙石権兵衛は軍監で、今日の参謀総長といふところ、戦後には九州一ヶ国の大名になる約束で数多あまたの武功をたてた。如水は城攻めの名人で、櫓をつくり、高所へ大砲をあげて城中へ落す、その頃の大砲は打つといふほど飛ばないのだから仕方がない。かういふ珍手もあみだした。事に当つて策略縦横、戦へば常に勝つたが、一方の仙石権兵衛は単純な腕力主義で、猪突一方、石川五右衛門をねぢふせるには向くけれども、参謀長は荷が重い。大敗北を蒙り、領地を召しあげられる始末であつた。けれども秀吉は毒気のない権兵衛づれが好きなので、後日再び然るべき大名に復活した。如水は大いに武功があつたが、一国を与へる約束が、豊前のうち六郡、たつた十二万石。小早川隆景が七十万石、佐々成政が五十万石、いさゝか相違が甚しい。
 見透しは如水の特技であるから、之は引退の時だと決断した。伊達につけたるかカサ頭、宿昔青雲の志、小寺の城中へ乗りこんだ青年官兵衛は今いづこ。
 秀吉自身、智略にまかせて随分出すぎたことをやり、再三信長を怒らせたものだ。如水も一緒に怒られて、二人並べて首が飛びさうな時もあつた。中国征伐の時、秀吉と如水の一存で浮田と和平停戦した。之が信長の気に入らぬ。信長は浮田を亡して、領地を部将に与へるつもりでゐたのである。二人は危く首の飛ぶところであつたが、猿面冠者さるめんかじゃは悪びれぬ。シャア/\と再三やらかして平気なものだ。それだけ信長を頼りもし信じてもゐたのであるが、如水は後悔、警戒した。傾倒の度も不足であるが、自恃の念も弱いのだ。
 如水は律儀であるけれども、天衣無縫の律儀でなかつた。律儀といふ天然の砦がなければ支へることの不可能な身に余る野望の化け者だ。彼も亦一個の英雄であり、すぐれた策師であるけれども、不相応な野望ほど偉くないのが悲劇であり、それゆゑ滑稽笑止である。秀吉は如水の肚を怖れたが、同時に彼を軽蔑した。
 ある日、近臣を集めて四方山話の果に、どうだな、俺の死後に天下をとる奴は誰だと思ふ、遠慮はいらぬ、腹蔵なく言ふがよい、と秀吉が言つた。徳川、前田、蒲生、上杉、各人各説、色々と説のでるのを秀吉は笑つてきいてゐたが、よろし、先づそのへんが当つてもをる、当つてもをらぬ。然し、乃公だいこうの見るところは又違ふ。誰も名前をあげなかつたが、黒田のビッコが爆弾小僧といふ奴だ。俺の戦功はビッコの智略によるところが随分とあつて、俺が寝もやらず思案にくれて編みだした戦略をビッコの奴にそれとなく問ひかけてみると、言下にピタリと同じことを答へをる。分別の良いこと話の外だ。狡智無類、行動は天下一品速力的で、心の許されぬ曲者だ、と言つた。
 この話を山名禅高が如水に伝へたから、如水は引退の時だと思つた。家督をせがれ長政に譲りたい、と請願に及んだが秀吉は許さぬ。アッハッハ、ビッコ奴、要心深い奴だ、困らしてやれ。然し、又、実際秀吉は如水の智恵がまだ必要でもあつたのだ。四十の隠居は奇ッ怪千万、秀吉はかうあしらひ、人を介して何回となく頼んでみたが、秀吉は許してくれぬ。ところが、如水も執拗だ。倅の長政が人質の時、政所まんどころの愛顧を蒙つた。石田三成が淀君党で、之に対する政所派といふ大名があり、長政などは政所派の重鎮、さういふ深い縁があるから、政所の手を通して執念深く願ひでる。執念の根比べでは如水に勝つ者はめつたにゐない。秀吉も折れて、四十そこ/\の若さなのだから、隠居して楽をするつもりなら許してやらぬ。返事はどうぢや。申すまでもありませぬ。私が隠居致しますのは子を思ふ一念からで、隠居して身軽になれば日夜伺候し、益々御奉公の考へです。厭になるほど律儀であるから、秀吉も苦笑して、その言葉を忘れるな、よし、許してやる。そこで黒田如水といふ初老の隠居が出来上つた。天正十七年、小田原攻めの前年で、如水は四十四であつた。
 ある日のこと、秀吉から茶の湯の招待を受けた。如水は野人気質であるから、茶の湯を甚だ嫌つてゐた。狭い席に無刀で坐るのは武人の心得でないなどゝ堅苦しいことを言つて軽蔑し、持つて廻つた礼式作法の阿呆らしさ、嘲笑して茶席に現れたことがない。
 秀吉の招待にウンザリした。又、いやがらせかな、と出掛けてみると、茶席の中には相客がをらぬ。秀吉がたつた一人。侍臣の影すらもない。差向ひだが、秀吉は茶をたてる様子もなかつた。
 秀吉のきりだした話は小田原征伐の軍略だ。小田原は早雲苦心の名城で、謙信、信玄両名の大戦術家が各一度は小田原城下へ攻めてみながら、結局失敗、敗戦してゐる。けれども、秀吉は自信満々、城攻めなどは苦にしてをらぬ。微募の兵力、物資の輸送、数時間にわたつて軍議をとげたが、秀吉の心信事は別のところにある。小田原へ攻め入るためには尾張、三河、駿河を通つて行かねばならぬ。尾張は織田信雄のぶかつ、三河駿河遠江は家康の所領で、この両名は秀吉と干戈かんかを交へた敵手であり、現在は秀吉の麾下きかに属してゐるが、いつ異心を現すか、天下万人の風説であり、関心だ。家康の娘は北条氏直の奥方で、秀吉と対峙の時代、家康は保身のために北条の歓心をもとめて与国の如くに頭を下げた。両家の関係はかく密接であるから、同盟して反旗をひるがへすといふ怖れがあり、家康が立てば信雄がつく、信雄は信長の子供であるから、大義名分が敵方にあり諸将の動向分裂も必至だ。
 さて、チンバ。尾張と三河、この三河に古狸が住んでゐるて。お主は巧者だが、この古狸めを化かしおはして小田原へ行きつく手だてを訊きたいものだ。古狸の妖力を封じる手だてが小田原退治の勝負どころといふものだ。ワッハッハ。さうですな、と如水はアッサリ言下に答へた。先づ家康と信雄を先発させて、小田原へ先着させることですな。之といふ奇策も外にはありますまい。先発の仲間に前田、上杉などゝいふ古狸の煙たいところを御指名なさるのが一策でござらう。殿下はゆる/\と御出発、途中、駿府の城などで数日のお泊りも一興でござらう。しくじる時はどう石橋を叩いてみてもしくじるものでござらうて。
 このチンバめ! と、秀吉は叫んだ。彼が寝もやらず思案にくれて編みだした策を、言下に如水が答へたからだ。お主は腹黒い奴ぢやのう。骨の髄まで策略だ。その手で天下がとりたからう。ワッハッハ。秀吉は頗るの御機嫌だ。
 ニヤリと如水の顔を見て、どうだな、チンバ、茶の湯の効能といふものが分らぬかな。お主はきつい茶の湯ぎらひといふことだが、ワッハッハ。お主も存外窮屈な男だ。俺とお主が他の席で密談する。人にも知れ、憶測がうるさからう。こゝが茶の湯の一徳といふものだ。なるほど、と、如水は思つた。茶の湯の一徳は屁理窟かも知れないが、自在奔放な生活をみんな自我流に組みたてゝゐる秀吉に比べると、なるほど俺は窮屈だ、と悟るところがあつた。
 ところが、愈小田原包囲の陣となり、三ヶ月が空しくすぎて、夏のさかり、秀吉の命をうけて如水は家康を訪問した。このとき、はからざる大人物の存在を如水は見た。頭から爪先まで弓矢の金言で出来てゐるやうな男だと思ひ、秀吉が小牧山で敗戦したのも無理がない、あのとき俺がついてゐても戦さは負けたかも知れぬ、之は天下の曲者だ、と、ひそかに驚嘆の心がわいた。丁度小牧山合戦の時、折から毛利と浮田に境界争ひの戦乱が始まりさうになつたから、如水は秀吉の命を受け、紛争和解のため中国に出張して安国寺坊主と折衝中であつた。親父に代つて長政が小牧山に戦つたが、秀吉方無残の敗北、秀吉の一生に唯一の黒星を印した。なるほど、ふとりすぎた蕗みたい、此奴は食へない化け者だ、と家康も亦律義なカサ頭ビッコの怪物を眺めて肚裡とりに呟いた。然し、くみし易いところがある、と判断した。

 温和な家康よりも黒田のカサ頭が心が許されぬ、と言ふのは単なる放言で、秀吉が別格最大の敵手と見たのは言ふまでもなく家康だ。
 名をすてゝ実をとる、といふのが家康の持つて生れた根性で、ドングリ共が名誉だ意地だと騒いでゐるとき、土百姓の精神で悠々実質をかせいでゐた。変な例だが、愛妾に就て之を見ても、生活の全部に徹底した彼の根性はよく分る。秀吉はお嬢さん好き、名流好きで、淀君は信長の妹お市の方の長女であり、加賀局は前田利家の三女、松の丸殿は京極高吉の娘。三条局は蒲生氏郷うじさとの妹、三丸殿は信長の第五女、姫路殿は信長の弟信包のぶかねの娘、主筋の令嬢をズラリト妾に並べてゐる。たま/\千利久といふ町人の娘にふられた。
 ところが家康ときた日には、阿茶局が遠州金谷の鍛冶屋の女房で前夫に二人の子供があり、阿亀の方が石清水八幡宮の修験者の娘、西郷局は戸塚某の女房で一男一女の子持ちの女、その他、神尾某の子持ちの後家だの、甲州武士三井某の女房(之も子持ち)だの、阿松の方がたゞ一人武田信玄の一族で、之だけは素性がよかつた。妾の半数が子持ちの後家で、家康は素性など眼中にない。ジュリヤおたあといふ朝鮮人の侍女にも惚れたが、之は切支丹キリシタンで妾にならぬから、島流しにした。伊豆大島、波浮はぶの近くのオタイネ明神といふのがこの侍女の碑であると云ふ。徹底した実質主義者で、夢想児の甘さが微塵もない人であつた。
 秀吉は夢想家の甘さがあつたが、事に処しては唐突に一大飛躍、家康のお株を奪ふ地味な実質策をとる。家康は小牧山の合戦に勝つた、とたんに秀吉は織田信雄と単独和を結んで家康を孤立させ、結果として、秀吉が一足天下統一に近づいてゐる。降参して実利を占めた。
 和談の席で、秀吉は主人の息子に背かれ疑られ攻められて戦はねばならぬ苦衷を訴へて、手放しでワア/\と泣いた。長い戦乱のために人民は塗炭の苦に喘いでゐる。私闘はいかぬ。一日も早く天下の戦乱を根絶して平和な日本にしなければならぬ。秀吉は滂沱ぼうだたる涙の中で狂ふが如くに叫んだといふが、肚の中では大明遠征を考へてゐた。まんまと秀吉の涙に瞞着された信雄が家康を説いて、天下の平和のためです、秀吉の受売りをして、御子息於義丸を秀吉の養子にくれて和睦しては、と使者をやると、家康は考へもせず、アヽ、よからう、天下の為です。家康は子供の一人や二人、煮られても焼かれても平気であつた。秀吉は光秀を亡してゐるのだから、時世は秀吉のものだ。信雄といふ主人の息子と一緒なら秀吉と争ふことも出来るけれども、大義名分のない私闘を敢て求める家康ではない。あせることはない。人質ぐらゐ、何人でもくれてやる。
 秀吉は関白となり、日に増し盛運に乗じてゐた。諸国の豪族に上洛朝礼をうながし、応ぜぬ者を朝敵として打ち亡して、着々天下は統一に近づいてゐる。一方家康は真田昌幸に背かれて攻めあぐみ、三方ヶ原以来の敗戦をする。重臣石川数正が背いて秀吉に投じ、水野忠重、小笠原貞慶、彼を去り、秀吉についた。家康落目の時で、実質主義の大達人もこの時ばかりは青年の如くふてくされた。
 秀吉のうながす上洛に応ぜず、攻めるなら来い、蹴ちらしてやる、ヤケを起して、目算も立てぬ、どうともなれ、と命をはつて、自負、血気、壮んなること甚しい。連日野に山に狩りくらして、秀吉の使者を迎へて野原のまんなかで応接、信長公存命のころ上洛して名所旧蹟みんな見たから都見物の慾もないね。於義丸は秀吉にくれた子だから対面したい気持もないヨ。秀吉が改めてくるなら美濃路に待つてゐるぜ、と言つて追ひ返した。
 けれども、金持喧嘩せず、盛運に乗る秀吉は一向に腹を立てない。この古狸が自分につけば天下の統一疑ひなし、大事な鴨で、この古狸が天下をしよつて美濃路にふてくされて、力んでゐる。秀吉は適当に食慾を制し、落付払ふこと、まことに天晴あっぱれな貫禄であつた。天下統一といふ事業のためなら、家康に頭を下げて頼むぐらゐ、お安いことだと考へてゐる。そこで家康の足もとをさらふ実質的な奇策を案出したのであるが、かういふ放れ業ができるのも、一面夢想家ゆゑの特技でもあり、秀吉は外交の天才であつた。
 先づ家康に自分の妹を与へてまげて女房にして貰ひ、その次に、自分の実母を人質に送り、まげて上洛してくれ、と頭を下げた。皆の者、よく聞くがよい、秀吉は群臣の前で又機嫌よく泣いてゐた。俺は今天下のため先例のないことを歴史に残してみようと思ふ。関白の母なる人を殺しても、天下の平和には代へられぬものだ。
 ふてくされてゐた家康も悟るところがあつた。秀吉は時代の寵児である。天の時には、我を通しても始らぬ。だまされて、殺されても、落目の命ならいらない。覚悟をきめて上洛した。
 家康は天の時を知る人だ。然し妥協の人ではない。この人ぐらゐ図太い肚、命をすてゝ乗りだしてくる人はすくない。彼は人生三十一、武田信玄に三方ヶ原で大敗北を喫した。当時の徳川氏は微々たるもの、海内かいだい随一の称を得た甲州の大軍をまともに受けて勝つ自信は鼻柱の強い三河武士にも全くない。家康の好戦的な家臣達に唯一人の主戦論者もなかつたのだ。たつた一人の主戦論者が家康であつた。
 彼は信長の同盟者だ。然し、同盟、必ずしも忠実に守るべき道義性のなかつたのが当時の例で、弱肉強食、一々が必死を賭けた保身だから、同盟もその裏切りも慾得づくと命がけで、生き延びた者が勝者である。信玄の目当の敵は信長で家康ではなかつたから、負けるときまつた戦争を敢て戦ふ必要はなかつたのだが、家康たゞ一人群臣をしりぞけて主戦論を主張、断行した。彼もこのとき賭博者だ。信長との同盟に忠実だつたわけではない。極めて小数の天才達には最後の勝負が彼らの不断の人生である。そこでは、理知の計算をはなれ、自分をつき放したところから、自分自身の運命を、否、自分自身の発見を、自分自身の創造を見出す以外に生存の原理がないといふことを彼らは知つてゐる。自己の発見、創造、戦争も亦芸術で、之のみが天才の道だ。家康は同盟といふボロ縄で敢て己れを縛り、己れの理知を縛り、突き放されたところに自己の発見と創造を賭けた。之は常に天才のみが選び得る火花の道。さうして彼は見事に負けた。生きてゐたのが不思議であつた。
 大敗北、味方はバラ/\に斬りくづされ、入り乱れ前後も分らぬ苦戦であるが、家康は阿修羅であつた。家康が危くなると家来が駈けつけて之を助け、家来の急を見ると、家康が血刀ふりかぶり助けるために一散に駈けた。夏目次郎左衛門が之を見て眼血走り歯がみをした。大将が雑兵を助けてどうなさる、目に涙をため、家康の馬のくつわを浜松の方にグイと向けて、槍の柄で力一杯馬の尻を殴りつけ、追ひせまる敵を突落して討死をとげた。
 逃げる家康は総勢五騎であつた。敵が後にせまるたびに自ら馬上にふりむいて、弓によつて打ち落した。顔も鎧も血で真ッ赤、やうやく浜松の城に辿りつき、門をしめるな、開け放しておけ、庭中にかがりをたけ、言ひすてゝ奥の間に入り、久野といふ女房に給仕をさせて茶漬を三杯、それから枕をもたせて、ゴロリとひつくり返つて前後不覚にねてしまつた。堂々たる敗北振りは日本戦史の圧巻で、家康は石橋を叩いて渡る男ではない。武将でもなければ、政治家でもない。蓋し稀有なる天才の一人であつた。天才とは何ぞや。自己を突き放すところに自己の創造と発見を賭るところの人である。
 秀吉の母を人質にとり、秀吉と対等の格で上洛した家康であつたが、太刀、馬、黄金を献じ、主君に対する臣家の礼をもつて畳に平伏、敬礼した。居並ぶ大小名、呆気にとられる。秀吉に至つては、仰天、狂喜して家康を徳としたが、秀吉を怒らせて一服もられては話にならぬ。まだ先に楽しみのある人生だから、家康は頭を畳にすりつけるぐらゐ、屁とも思つてゐなかつた。
 秀吉は別室で家康の手をとり、おしいたゞいて、家康殿、何事も天下の為ぢや。よくぞやつて下された。一生恩にきますぞ、と、感極まつて泣きだしてしまつたが、家康はその手をおしいたゞいて畳におかせて、殿下、御もつたいもない、家康は殿下のため犬馬の労を惜む者でございませぬ。ホロリともせずかう言つた。アッハッハ。たうとう三河の古狸めを退治てやつた、と、秀吉は寝室で二次会の酒宴をひらき、ポルトガルの船から買ひもとめた豪華なベッドの上にひつくり返つて、サア、日本がおさまると、今度は之だ、之だ、と、ベッドを叩いて、酔つ払つて、ねむつてしまつた。

 小田原の北条氏は全開東の統領、東国随一の豪族だが、すでに早雲の遺風なく、君臣共にドングリの背くらべ、家門を知つて天下を知らぬ平々凡々たる旧家であつた。時代に就て見識が欠けてゐたから、秀吉から上洛をうながされても、成上り者の関白などは、と相手にしない。秀吉は又辛抱した。この辛抱が三年間。この頃の秀吉はよく辛抱し、あせらず、怒らず、なるべく干戈を動かさず天下を統一の意向である。北条の旧領、沼田八万石を還してくれゝば朝礼する、と言つてきたので、真田昌幸に因果を含めて沼田城を還させたが、沼田城を貰つておいて、上洛しない。北条の思ひ上ること甚しく、成上りの関白が見事なぐらゐカラカハれた。我慢しかねて北条征伐となつたのだ。
 秀吉は予定の如く、家康、信雄、前田利家、上杉景勝らを先発着陣せしめ、自身は三月一日、参内して節刀を拝受、十七万の大軍を率ゐて出発した。駿府へ着いたのが十九日で、家康は長久保の陣から駈けつけて拝謁、秀吉を駿府城に泊らせて饗応至らざるところがない。本多重次がたまりかねて、秀吉の家臣の居ならぶ前で自分の主人家康を罵つた。これは又、あつぱれ不思議な振舞をなさるものですな。国を保つ者が、城を開け渡して人に貸すとは何事です。この様子では、女房を貸せと言はれても、さだめしお貸しのことでせうな、と青筋をたてゝ地団駄ふんだ。
 小田原へ着いた秀吉は石垣山に陣取り、一夜のうちに白紙を用ひて贋城をつくるといふ小細工を弄したが、ある日家康を山上の楼に招き、関八州の大平野を遥か東方に指して言つた。といふのは昔の本にあるところだが、実際は箱根丹沢にさへぎられてさうは見晴らしがきかないのである。ごらんなさい。関八州は私の掌中にあるが、小田原平定後は之をそつくりあなたに進ぜよう。ところで、あなたは小田原を居城となさるつもりかな。左様、まづ、その考へです。いや/\と秀吉は制して、山々控へた小田原の地はもはや時世の城ではない。二十里東方に江戸といふ城下がある。海と河川を控へ、広大な沃野の中央に位して物資と交通の要地だから、こゝに居られる方がよい、と教へてくれた。さうですか。万事お言葉の通りに致しませう、と答へたが、今は秀吉の御意のまゝ、言ひなり放題に振舞ふ時と考へて、家康はこだはらぬ。秀吉の好機嫌の言葉には悪意がなく、好意と、聡明な判断に富んでゐることを家康は知つてもゐた。
 二十六万の陸軍、加藤、脇坂、九鬼等の水軍、十重二十重に小田原城を包囲したが、小田原は早雲苦心の名城で、この時一人の名将もなしとは言へ、関東の豪族が手兵を率ゐてあらかた参集籠城したから、兵力は強大、簡単に陥す見込みはつかない。小早川隆景の献策を用ひて、持久策をとり、糧道を絶つことにした。
 秀吉自身は淀君をよびよせ、諸将各妻妾をよばせ、館をつくらせ、連日の酒宴、茶の湯、小田原城下は戦場変じて日本一の歓楽地帯だ。四方の往還は物資を運ぶ人馬の往来絶えることなく、商人は雲集して、小屋がけし、市をたて、海運も亦日に/\何百何千艘、物資の豊富なこと、諸国の名物はみんな集る、見世物がかゝる、遊女屋が八方に立ち、絹布を売る店、舶来の品々を売る店、戦争に無縁の品が羽が生えて売れて行く。大名達は豪華な居館をつくつて、書院、数寄屋、庭に草花を植え、招いたり招かれたり、宴会つゞきだ。
 この陣中の徒然に、如水が茶の湯をやりはじめた。ところが如水といふ人は気骨にまかせて茶の湯を嘲笑してゐたが、元来が洒落な男で、文事にもたけ、和歌なども巧みな人だ。彼が茶の湯をやりだしたのは保身のため、秀吉への迎合といふ意味があつたが、やりだしてみると、秀吉などとはケタ違ひに茶の湯が板につく男だ。小田原陣が終つて京都に帰つた頃はいつぱしの茶の湯好きで、利久や紹巴じょうはなどゝ往来し、その晩年は唯一の趣味の如き耽溺ぶりですらあつた。一つには、彼の棲む博多の町に、宗室、宗湛、宗九などといふ朱印船貿易の気宇遠大な豪商がゐて茶の湯の友であつたからで、茶の湯を通じて豪商達と結ぶことが必要だつたせゐもある。
 如水は高山右近のすゝめで洗礼を受け切支丹であつたが、之も秀吉への迎合から、禁教令後は必ずしも切支丹に忠実ではなかつた。カトリックは天主以外の礼拝を禁じ、この掟は最も厳重に守るべきものであつたが、如水は菅公廟を修理したり、箱崎、志賀両神社を再興し、又、春屋和尚について参禅し、その高弟雲英禅師を崇福寺に迎へて尊敬厚く、さりとて切支丹の信教も終生捨てゝはゐなかつた。彼の葬儀は切支丹教会と仏寺との両方で行はれたが、世子長政の意志のみではなく、彼自身の処世の跡の偽らざる表れでもあつた。
 元々切支丹の韜晦とうかいといふ世渡りの手段に始めた参禅だつたが、之が又、如水の性に合つてゐた。忠義に対する冷遇、出る杭は打たれ、一見豪放磊落でも天衣無縫に縁がなく、律義と反骨と、誠意と野心と、虚心と企みと背中合せの如水にとつて、禅のひねくれた虚心坦懐はウマが合つてゐたのである。彼の文事の教養は野性的洒脱といふ性格を彼に与へたが、茶の湯と禅はこの性格に適合し、特に文章をひねくる時には極めてイタについてゐた。青年の如水は何故に茶の湯を軽蔑したか。世紀の流行に対する反感だ。王侯貴人の業であつてもその流行を潔とせぬ彼の反骨の表れである。反骨は尚腐血となつて彼の血管をめぐつてゐるが、稜々たる青春の気骨はすでにない。反骨と野望はすでに彼の老ひ腐つた血で、その悪霊にすぎなかつた。
 ある日、秀吉は石垣山の楼上から小田原包囲の軍兵二十六万の軍容を眺め下して至極好機嫌だつた。自讃は秀吉の天性で、侍臣を顧て大威張りした。どうだ者共。昔の話はいざ知らず、今の世に二十六万の大軍を操る者が俺の外に見当るかな。先づ、なからう、ワッハッハ。その旁に如水が例のドングリ眼をむいてゐる。之を見ると秀吉は俄に奇声を発して叫んだ。ワッハッハ。チンバ、そこにゐたか。なるほど、貴様は二十六万の大軍がさぞ操つてみたからう。チンバなら、さだめし出来るであらう。者共きけ、チンバはこの世に俺を除いて二十六万の大軍を操るたつた一人の人物だ。
 如水はニコリともしない。彼は秀吉に怖れられ、然し、甘く見くびられてゐることを知つてゐた。如水は歯のない番犬だ。主人を噛む歯が抜けてゐると。
 だが、かういふ時に、なぜ、いつも、自分の名前がひきあひにでゝくるのだらう。二十六万の大軍を操る者は俺のみだと壮語して、それだけで済むことではないか。それは如水の名の裏に別の名前が隠されてゐるからである。歯のある番犬の名が隠されて、その不安が常に心中にあるからだ。それを如水は知つてゐた。その犬の名が家康であることも知つてゐた。その犬に会つてみたいといふ思ひが、肚底とていに逞しく育つてゐたのだ。

底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
   1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「現代文学 第七巻第一号」大観堂
   1943(昭和18)年12月28日発行
初出:「現代文学 第七巻第一号」大観堂
   1943(昭和18)年12月28日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年10月15日作成
2011年5月26日修正
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