敗戦後の日本に現れたニューフェースの筆頭は公認された日本共産党であったろう。しかし、これぐらい内容拙劣なニューフェースは他に例がなかった。完全なる無内容、それに加うるにいたずらなる喧嘩ずき、まるで人間の文化以前の欠点だけを集成して見せつけられているようであった。
 彼らのやった仕事の総量は、事毎に牙をむいて吠えたがる野犬の行跡に酷似しているが、人間のなすべき事には全く似たところがない。「なすべき」というのは、知識と責任を背景にしたところの、という意で、政党と政党員には当然必要とすべき条件をさすのである。
 彼らのやった仕事の主なるものはと云えば、ナホトカからスクラムをくんで祖国へ敵前上陸の筋金入りの人達をたきつけて益々ダダをこねさせたり、坐りこませたりすることである。尤もこれに対しては、かくの如くに教育して敵前上陸せしめた海の彼方の本店を咎めることが先でなければならないが、本店の押しつける無法な仕打を修正して受け入れるだけの識見がない無能な三太夫さんだゆうぶりというものは、どこの国の共産党にくらべてもこれ以下のものは見当らない。この三太夫は本店の殿様の手打になるのをビクビクしているだけである。
 彼らが行った政策の唯一のことは、他に対する不協力ということである。反対のための反対。漸進的なるものに対する拒否。同じことでも自分が主導してやるのでなければイヤだという全体主義であるが、それも単に否定し反対するだけの破壊的な方策によって全体主義の性格を誇示したにすぎないのである。
 占領軍の指図による農地解放などは、古今東西の歴史に照しても大革命の一種である。これを利用したならば、農村の新秩序をたて、生活を改善し、共同的な作業法や、相互扶助の方法を与え、農村に文明の恩沢や文化生活を導入することもできたろうと思う。そんなことは何一つやってやしない。やる能力がないのだ。事に当って利用し善用すべき研究も素養も持ち合せていなかったのだ。彼らは空想的な革命家、もしくは英雄好みの冒険愛好家であるにすぎなくて、祖国の農村の歴史や現実に就て着実な考察や設計などは所有していなかった。そして彼らが同じころ政策のスローガンにかかげたことはと云えば、隠退蔵物資のテキハツだの遊休大邸宅の解放などと、スパイの中でも三下奴さんしたやっこがやるようなことしかやれなかったのである。
 現在もなお追放文士の一人である武者小路実篤は何十年前にともかく新しい村という空想的ではあっても彼の精一杯の設計を現実にやったが、共産党ときては、大きな図体をして、その理想のモデルたる部落も工場も設計して真価を世に問うてみるだけの内容も実力もなかった。前進座という党員を座員に組織された相当に有能な劇団も、その敬服すべき努力も忍耐も組織も座員の個人的なもので、党による文化運動の見るべきものなどは一つもない。ただ文化指導者同士の血で血を洗う内紛をさらけだしただけである。建設的な施策に於て、公平な第三者を納得させるような成果は、まったく一つも行うことができなかったのである。
 三鷹事件の真相がどうあろうとも、惨事の起った直後、血まみれの現場に立ってアジ演説に利用した党員の品性の低さはやりきれないではないか。そんな時に主義も主張もあるものか。万人相ともに、傷者を助け、死者を搬出するために精魂傾けるのが当然の人道ではないか。私は党が、三鷹事件を法廷戦術に利用した事実は何ヵ月間イヤというほど見せつけられたが、党員の品性の低さを悲しみ、その品性を高めるように指令し、努力したという事実については知るところがない。
 共産党の全てが、共産主義というものが、みんなこのように無内容で、品性下劣なわけではないだろう。日本共産党というものの悲しむべき特性であるらしい。しかし、ナホトカで特殊教育をうけ筋金を入れてもらって祖国へ敵前上陸する新特攻隊を見ると、共産党の本家も、その品性の低さ貧しさに於て日本支店の本店たるにふさわしく、人間の良識が求めているものには逆行的であるようだ。
 だが、新聞の報道から推察するに、中共などは、よほどマシなようである。朝鮮戦線からのニュースでも、彼らの軍規は見るべきものがあり、捕虜に対する取扱いなどは紳士的ですらあるように見える。それも政略ではあるが、本家や日本支店の舞鶴上陸やテキハツ隊や法廷戦術の品性の低さも政略なのだから、その差は甚しい。
 だいたい人間の良識というものは相互の打算的なもの、政略的なもの、その作用を利用して、中正や相互的な幸福安定の度を高める働きと見てもよかろう。政略といってもバカにはならぬ。指導者の理想設計図の心棒がしっかりして、日常の行き届いた教育や指導がなければ、事に当って多少とも紳士的な兵隊などを作ることはできない筈だ。日本を見よ。相当に年季を入れて兵隊を仕込んでいながら、決して紳士的な兵隊を作ることはできなかったではないか。中共はシナに生れ、シナへ攻めこんだ兵隊の中で、最も優秀な品格をそなえているようだ。
 だから本家ソビエットの共産主義政府が壊滅しても、中共だけは栄えるかも知れない。なぜなら、中国の国民がそれを求め、それを選ぶかも知れないから。
 日本共産党の如きは、公平な第三者に支持されるに足る内容や品性は何一ツ示すことができなかった。彼らの性能の見るべきものは、スパイ性や地下のもぐり方の組織的なこと位で、新しきものの必須条件たる古きものよりも秀でた実質上の高さというものは、全面的に見かけられない。
 思いがけず牢屋から出され公認された当座の一年二年は戸惑いしても、三年四年とたつうちには相当なことができなければならないはずだ。ヤミ屋のチッポケな親分でも、一年のうちに繁華な中心街を建設し、葬式の無料奉仕だのリンタク奉仕を開業している有様だ。彼らは思想も設計も持たず、ただ敗戦後の焼跡と混乱に対処してドサクサまぎれの出たとこ勝負をやったお方にすぎないのである。共産党はそうではない。過去現在への幾多の検討は常時なされていなければならない筈で、何事に処しても確乎たる設計が施されるだけの充分な素養が当然なければならない筈である。しかし彼らは空想的な理想家革命好きであることをバクロしたにすぎず、内容も品性もゼロであった。マーケットのアンチャンは右であり、共産党は左であり、その中間の大多数は何でも真に良きものならば喜んでそれを選びとる人たちであるが、右も左も、中間の大多数に選ばれるために真に良き仕事や品性を高めようと努力するところはミジンもなく、事あらば暴力によって大多数を征服し、有無を云わさず号令をかける絶対君主におさまる片リンを示し、威脅しているにすぎない。その隣人たる中共は呪うべき内戦の辛苦を克服しつつ、品性の高さによって、万人にかなう正義によって、自然に民衆に選ばれ推される本当の内容を生み育てつつあるが、日本共産党は恵まれた平和な建設時代に処して、品性を高め仕事を推進することもできず、ただ牙をむき、刀をといで、武力による征服だけを当にしているのである。全くアベコベではないか。
 日本共産党は云うかも知れない。オレは武力征服などという暴力はとらない。ただ「愛される兵隊」になって、真に民衆のカッサイを博し選ばれるのだ、と。この笑うべきバカバカしい論理を実際彼らは信奉しているとしか思われない。つまり彼らは平和失格者なのである。恵まれた平和時代に、良き品性と良き仕事によって真に民衆の友となり選ばれる実力は全くないが、戦争して人を殺したり物をこわしたりしながら、かねてのヤミ屋の手腕によって、東条や吉田よりもマシな公平な最低生活を配給してカッサイされる自信だけはある、と思っているようだ。
 つまり彼らの政治は「最低生活」の配給へひき下って、そこで競争する以外に手を知らず、品性や秩序も「最低生活」なみのもの、つまり自分のレベルまでひき下げないと統率ができない仕組みであるらしい。他により高く恵まれた生活のモデルや、より高い品性のモデルや、より高い秩序のモデルがあっては、都合がわるいのである。
 公平な最低生活を配給するぐらいカンタンなことはありやしない。それはすでに東条がやった。もしも日本共産党が、東条がやったよりも、もうちょッとマシな方法でやれる手際を見せて、共産党の真価を発揮しようというなら、それ以上に無能な政治はないと知るべきである。
 自給自足の不可能なこの資源貧困な国土で、しかし、共産党の天下になれば、よその共産党がタダで物資をくれるとでも思っているのか。そんな虫のよいサモシイ料簡ではまさかないと思うが、しかし日本共産党の品性の低さを見ると、実際それぐらいサモシイ料簡のように思われて仕方がないのである。
 資源貧困、自給自足でロクな生活のできない日本は、工業を起し、貿易によって生活水準を高める以外に仕方がない。いつ、いかなる時でもそうにきまったものである。
 日本共産党は率先して近隣の共産党国家と友好的な貿易を促進し、日本人を、又隣人をうるおして、その真に仕事の良さによって、日本人に愛され選ばれるように努力すべきであった。
 中共は現に戦争しつつあるから、やむなく掠奪暴行強姦をしないというような最低の善行に於て国民党軍と真価を争っているのであろうが、現に戦争しているから、そうせざるを得ないだけのことである。戦争中に掠奪暴行しないというのは、人間の最も不幸な状態に於ける最低の善行にすぎない。わざわざ人間を最も不幸な状態において、最低の善行を押しつけて、真価を誇示されてはやりきれるものではない。
 恵まれた平和な時に於て、外交に貿易に工場経営に農地経営に医療施設に文化施設に、良き実際の仕事を行って真価を問い、大多数の中間人を納得させることこそ、本当にやらねばならぬことではないか。共産党が政権をとらなくともできるのだ。一介のヤミ屋のボスすらマーケットをたて、土木を起し、工場を経営し、慈善事業をやったりすることができるではないか。建設的な仕事の面で真価を争い、他の政党にまさる実力を示して世の信用を博すのが、ひいては政党そのものの本当の実力の示し方でもある。しかし、日本共産党はその本当の内容に欠けているのである。そして国民を最も不幸な状態にひき下げて、最低の善行を施す程度の最も無能な内容だけしか持たないのである。
 政治というものは共産主義の理論でもないし、陰謀でもない。本店から金を貰うことでもない。そういうことは当てにすべきことではないし、そんなことを予定に入れて政治をやられては堪ったものではない。
 日本の資源はこれこれというハッキリした限界が政治の基礎である。日本共産党の場合にしても、政治の本当の基礎は、共産主義ではなくて、日本の資源という限界なのである。又、それに伴う他との協力協定でもある。自分の都合だけではいかない。人の都合もある。共産主義だろうと何主義だろうと、政治というものは主義や理論ではなくて、こういう限定の上に立つものだ。アナーキズムの理想社会というものは、空想や理想の上には有り得ても、実際としては先ず実現の見込みはない。又、万人が過不足なく公平に幸福だということも決して有りうべきことではない。
 私は共産主義や共産党に本質的な敵意をもつものではないが、ソビエット本店と日本支店は品性の低さ、下の下である。私は日本共産党というニューフェースの出現には、すくなくともマーケットや土建の何々組の出現よりはよほど期待をかけたのであるが、まったくマーケットの右に相応する左でしかなかったのである。その品性に於て同列であり、三十名も代議士を送りだした図体の大きさから云えば、施策や内容の貧困は何々組以下であったと云わなければならない。いたずらに吠えただけである。
 戦後ニューフェース筆頭の大物でありながら、同時に最大の落第生失格者たるものは日本共産党であったが、この反対に、ニューフェースの及第生は何ものであろうか。
 いろいろのことが云えるであろうが、私の意見では、芸術がわりあいに一般の人々の身近かなものになり、多少とも生活の伴侶に近づきつつあることが最大の収穫ではなかったかと思う。青年たちに於てそうである。
 山際青年は手記の中で若きヴェルテルの清純な恋を欲しても大人のゲルの世界に負けてしまうという手記を書いて世間の物笑いの種になったようだが、アンチャンの手記の内容が空虚なのは今も昔も変りのないことで、変っているのは、マーケットのアンチャンまで、若きヴェルテルだのジイドだのというものを読んでいることは、昔はなかったことであろう。
 たとえば左文嬢のような大学教授の娘が自動車運転手のアンチャンと友人として交際するというようなことが、昔は殆ど有りうべからざることであったが今ではフシギなことではない。つまり、昔の上流階級や中産階級の教養が、おのずから下達する情勢となり、アンチャンの生活に芸術への理解という必要を加えたりしている向きもあるようだ。
 又、アベコベに、横浜の魚屋からヒバリ嬢が現れた如くに、農民や漁師や商人の生活が裕福になって、私の住む伊東では、漁師の家から小学校の娘のピアノの音をもれきくことができるようなことになった。八百屋の娘がバレーを習ったり、あべこべに斜陽階級の娘がタップを覚えたり、子供たちの話題も、芸術方面に於てグッと幅がひろくなったようだ。昔の中産階級の子女がお茶やお花を習ったのと同じように、ちかごろの小金のある庶民の子女はピアノやバレーや声楽などを習うような風潮になったのだ。お茶やお花の修業が儀礼的であったのに比べて、ピアノやバレーは自発的であり、研究熱心でもあるし、芸論を闘わすほど子供たちの本当の生活にもなっている。ラジオの「ノド自慢」なども、一部には悪評であっても、庶民生活へ芸術を近づける一助になっていることは確かである。
 日本の庶民生活には芸術を友とするようなものがなかったから、いきおい大人になってから、専門の一芸を身につけても、作家、画家、音楽家、俳優、みんな芸が孤立している。そこで、これ一とまとめに教養化しなければ、すぐれた芸術は生れないというような枯渇感や願望が起って「雲の会」などもおのずから出来たのであろう。
 しかし芸術の横のレンラクということだけではまだ不足で、たとえば「文学座」の演技を見ても痛感されることは、子供の時から芸術になれ芸術を友だちにして育った生活がないというところからくるギゴチなさである。つまり頭は進んでいても眼高手低をまぬがれない。これを子供の時からその世界で叩きあげている「歌舞伎」にくらべると、新劇の眼高手低の甚しさがハッキリする。
 そのような意味でも、戦後、庶民生活に、特にその子供たちの生活の中に、芸術が生活の一部に、又はそれに近い親しいものになりつつあるということは、慶賀すべきことだ。それは芸術界のためにのみ慶賀すべきことではなくて、日本の永遠の平和な生活のためにも。
 だいたい日本人はいろいろの人種の中で最も温和を好む人種の一ツではないかと私は思う。現在、切符売場の行列、乗降の混乱など団体生活の秩序が乱れているのは、負けた兵隊や難民のドサクサまぎれの根性が露骨に現れているだけのことで、この焼野原の雑居生活でこうなるのは仕方がない。もとはといえば、なりたくもない兵隊にさせられ、あげくに戦争して負けたせいで、本来、大多数の日本人というものは、むしろ困ったことであるほど事なかれ主義で、進歩的なもの、改善をすら好まないほど大保守家なのである。こういう保守的な国民に必要なのは、芸術を生活の友とすることである。しかし、古来の伝統の芸術は、いずれもその国民性によって、型となり、奥義となり、神秘化され、常に現実から離脱して古典化を急ぎたがる傾向であったのである。
 我々の生活の中に西洋の音楽や踊りや劇や映画がはいってきたことは、我々の保守すぎる傾斜を正して、世界の一様の水準においてくれるものでもあり、すくなくとも芸術生活において、国民性として古典化や型化を急ぎ、神秘主義者になりたがることが、防がれることにもなるのだ。我々の生活は、世界の芸術を友とすることによって、自然にその進歩にもついて行き、コチコチの島国根性にいつも一つの通風孔をあけていることにもなるであろう。さすれば神がかりになる率もよほど少くなるだろう。
 日本共産党は、殆ど理知が基盤となっていないのだ。そして、スパイ的、陰謀的、好戦的である。しかしその根本にあるものは、正義感でもなければ人間愛でもない。神がかりなのだ。そして、通風孔がないのである。
 漁師や魚屋の娘がピアノやバレーを習いだしたように、共産党のテキハツ隊やヤミ屋諸氏も、娘にピアノやバレーを習わせたまえ。

底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
   1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四八巻第三号」
   1951(昭和26)年2月1日発行
初出:「新潮 第四八巻第三号」
   1951(昭和26)年2月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年3月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。