文字と画はこうも違うものかね。ヤブニラミ、オカメ、無愛想、唇厚く、ニキビ面などと目撃者の表現が散々だから(築地の中華料亭四人殺害事件の犯人)この事件を漫画にとり入れた人々も大そうな不美人をかいていましたね。
 ところが、モンタージュ写真を見ると、凄味のある不美人ではなくて、農村でタクサン見かけることができそうな、あたり前の顔だ。女中の顔の型としては代表的な一ツかも知れん。疑られて迷惑する娘さんが方々に現れそうだ。しかし帝銀の場合とちがって、目撃者が多いし、相対していた時間も長いから、この写真は当人によく似ているのだろう。太田成子嬢はそう長く地下にもぐっていられないに相違ない。
 ラーメンをたべたお客さんの印象、スシ屋さんの印象、洋品店のお婆さんの印象、みなさんそれぞれ個性的な特徴をつかんでいて、我々がそれを読んでもなんとなく印象的である。ラーメンのお客さんの言葉によると、今日から来たの? ときいても無言で、ドンブリの内側へ指をかけてラーメンを持ってきたそうだし、スシ屋では三四十分もかかって、まずそうにスシ一皿くい、四回も時間をきき、四合も水をのみ、もっと長く居たいような様子だったが店が忙しいので仕方なしに立ち去ったらしいという。洋品屋では、オーバーのポケットから札をつかみだして、百円札で四枚、十円札で六十二枚、それを算えるのに十分もかゝったが、多すぎるので百円札一枚返すと、それをポケットへねじこんだそうだ。ラジオがウタのオバサンをやってましたから八時五十分ごろですよ、そこのお婆さんの証言は探偵小説的である。
 最もよく見たはずの人物、同じ店の出前持で、二階にねていて唯一人難をのがれた山口さんの証言、いや、手記(毎日新聞二月二十五日)が、あべこべに甚しく印象的なところがないな。太田成子という個性を捉えたところがない。「別に怪しい素ぶりもなく普通に働いていましたが、ただお客が飲み食いした後は必ず店内を掃き、ゴミを裏まで捨てに行ったので、一々裏まで行かなくともいいと言いましたが、それから寝るまで三四回は裏木戸から外に出たようです」というのがこの手記中で成子嬢の示した唯一の異様な行動であるが、これ以外にも特徴のある行動がなかった筈はなかろう。彼はただ、彼女をおそく訪れた男があった、という事実を後刻に至って知ったから、それにてらして思い当った観察であろう。思い当る節がないと見逃している観察眼だ。店をしめてから彼が前掛けのセンタクしているとき、彼女は女中部屋で旦那が売上を計算しているのを見ていた、という。これも泥棒という事実があって、よみがえった観察にすぎない。
「一時半ごろ便所へ行くために階段を下りかけると、下の方から声を殺したような男女の話声がきこえるから、女中部屋をのぞくと、いつのまに来たのか女の敷いた布団の上に男が膝をかかえた姿勢でカベの方を向いてすわっていました。そのとき二人は浅草とか云ったと思います。男の服装はネズミ色のオーバー、ギャバジンの白いズボン、ノーネクタイだった。後姿なので人相ははっきり見きわめませんでしたが、ガッシリした体格で顔は青ぐろ、ほお骨が高く頭の髪の前の方はパーマネントでちぢらしどうも日本人ばなれがして三国人のように思われました」
 チラとのぞき見しただけで、男の服装人相だけはよく見たものですなア。自信満々たる断定。恐れ入った眼力である。多分に創作癖があるようだ。自分の眼で観察していたのではなく、後刻、必要にてらし合せて思いだしたり、創作したり、当人はそれを真実と思いこんでいるのかも知れないな。彼は翌朝九時ごろ起きたが、女中部屋に女中も男も姿はなく、フトンはキレイに四ツにたたんであったそうだ。
 前夜、女中部屋に男がいるのを見て二階へ上ろうとしたとき、女が声をかけて、親戚の者ですが泊めてもよいか、というから、女中が男をひきこむことは今までも大目に見られていたことで、奥さんが承知ならよろしいでしょうと答え、別に怪しまなかった、という。
 女中が男をひき入れたりお客をとるのが大目に見られていたというが、女中に住みこんだ当夜から男をひき入れるのは、いささか図太すぎるフルマイであろう。別におかしく思わないのは、山口さんだけではないかな。
 しかし、共犯者は問題ではない。太田成子嬢を捕えれば足りるのだ。さすれば何者が共犯者かは自然に判る事だから。

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 私の知っている女をいくら物色しても、太田成子嬢のようなフシギな女は見当らない。旦那が二十数ヶ所、妻女が十七ヶ所、長男(一一)が三ヶ所、長女(一〇)が十六ヶ所も薪割りで傷をうけていたという。探偵小説の常識では、こういう手口は女が犯人、ということになっている。生き返る不安におびえるのか、逆上するのか、メチャ/\に斬ったり突いたりするものだそうだ。しかし、男が必ずそうしないと断定はできない。しかし、女の子が十七ヶ所、男の子が三ヶ所というのは、女の手口のような気配がしないでもない。
 これほどメチャ/\に斬りつけたのは、よほど生き返る不安を怖れたのであろうが、そのくせ二階の山口さんをなぜ訪問しなかったのだろう。四人殺して、モウ人殺しはタクサンという気持になり、オジ気づいたと見るのは当らない。これほどメチャ/\な斬り方をしながら、土足の足跡も、血のついた足跡も残していないそうである。つまり、テイネイに跡の始末をするだけの甚しく冷静な行動が次に長時間行われていたことが知り得られる。彼らは金品を探して血の海の室内をずいぶんうろついた筈なのだ。しかも足跡がなく、血のついた着物もきておらず、盗んだ預金帳にも血がついていないらしい。よほど冷静に行動して後の始末をしたのであろう。彼女、もしくは彼が残しているのは、薪割りの指紋だけだそうである。
 フトンをキレイに四つにたたんで去ったというのも、証拠品を落していないか、という不安のせいによるのであろう。そして犯行前にたたんだのかも知れないが、こんなところも冷静だな。惨殺した四人の枕元で冷静に証拠を消し、しかも完璧に消しおわせているほどの不敵な沈勇をもちながら、なぜ二階の山口さんを訪問しなかったか、どうにも判断に苦しむのである。
 全員を殺してなら、あるいは冷静に証拠を消してもいられよう。二階にもう一人いるのである。犯罪というものは、それを行う前よりも、行って後の恐怖や、逃げたい気持が激しいのが普通であろう。
 彼女の場合も、あるいは再び二階で人を殺す勇気がなかったのかも知れない。その気持は理解できるが、しかし、殺した四人を目の前に、ユックリ足跡を消したり、盗んだり、さらにそれ以上に長時間を費して、からだの血を洗い衣服も多少は洗ったりしたであろう。この太い泥縄のような神経は恐ろしいね。たぶん夜が明け放れて人に怪しまれなくなるまで、殺した家に閉じこもっていたのだろう。
 スシ屋へ現れて三四十分かかってスシを食い水を四合のみ、このへんは、さもあらん。いかに大胆不敵でも、ノドがかわく筈だよ。四人を殺すのは大変な仕事だからな。
 それにしても、彼女が最も心を用いているのは時間なのだ。信用組合の時間である。ほかに心配はないらしい。衣服や手足毛髪などのどこかしらに血がついていないか、又は、すでに現場が発見されて大騒ぎになり諸方に手がまわっていないか、それが何より気がかりになる性質のものだが、彼女の神経は海底電線ぐらいの太さがあるなア。無神経、バカ、白痴、と見るのは当りませんや。彼女の伝票に残した文字をごらんなさい。
 ラーメン弐、[#ここから横組み]100[#ここで横組み終わり]他の一枚は、ラーメン弐、[#ここから横組み]200[#ここで横組み終わり]と、書きまちがえて、訂正しているが、その訂正の仕方も小器用で、いかにも馴れた感じである。字も達筆で、金釘流ではなく、¥の横文字もなれたもの。それに面白いのは、弐の字である。どうして簡単な二の字を書かないのだろう。弐の字をふだん用いる職業は何ですかね。もっとも、この家の流儀が弐参という字を用いる家風なのかも知れないが、それにしては、弐の字を馴れた手で書きこなしているのがアッパレである。バカにはこんな字は書けますまい。
 洋品屋で買い物する。人に顔を見せて歩く不利よりも、ここでも時間が問題だ。十分もかかってお札を算える。この女の心理は畸型で、豪放である。現場の証拠を消すために、沈着大胆な処置を完了していながら、もっとハッキリした証拠、近所の人に顔を見せて歩き、しかも人々に特別注目され記憶されるような風変りな行動を残して歩き、信用組合で預金をひきだす女と当然結びつけて判断される怖れが甚大であることを意としないのであろうか。現場の足跡を消したって、たいしたことにならないじゃないか。第一、それほど冷静に証拠を消しながら、犯罪者なら何より先に気になる筈の兇器に指紋を残しているとは、何というウカツな話であろうか。
 すると、冷静、沈着、大胆なのは、女じゃなくて、男一人なのかも知れないな。男は自分の証拠を消した。薪割りの指紋に注意を払わなかったのは、その凶器をふるったのが、自分ではなくて、女だからではないのかな。だが、それほど冷静な男なら、自分を見た唯一の人物、二階の山口さんをなぜ訪問しなかったのだろう。要するに、下手人は彼ではないせいか。たまたま護身用に薪割を持っていた女が、何かに怯えて逆上的に四人を叩き斬ったのであろうか。男が下手人なら、二階の人物をそのままに生き残しはしないだろう。なぜなら、女は多くの人に見られているが、男を見たのは山口さんが一人なのだから。
 信用組合へ十四万円おろしに行った女は、三文判だからダメですと云われて、では出直して参ります、と引さがったそうだ。兇行の室内から三文判を探しだして満足したのか、実印をさがしたが見つからなかったのか不明であるが、あれほど信用組合の時間を気にしていたところをみると、三文判で用が足りるものと満足していたのかも知れないね。
 とにかく、時間は気にしても、すでに現場が発見されて手がまわっているかも知れぬことや、人に疑われそうな挙動を残して歩くことが不利であることなどをてんで気にかけない様子は、牛の如くに鈍重な、しかし金を握ることに対してのみは地底の火の如くにまッしぐらな逞しい意志力を感じさせるじゃないか。それとも、時間ということに、秘密な重大な意味があるのかも知れん。この怪牛のような女にくらべれば、左文嬢などはなんと人間らしく可憐であるか、その比ではないのである。
 帝銀の犯人だって、一同がバッタバッタと倒れるや、ことごとく慌てふためき、開け放しの金庫の中に見えている大金に注意する精神力もなく、目前に有り合せの金を握って逃げたのである。この犯人は、行員を殺すことを意志してはいても、眼前に死ぬ人を見て、空想とちがった現実に慌てたところがあったのだろう。
 わが太田成子嬢ははからずも四人をメッタ斬りにして、それほど慌て、おののいている様子はないらしいや。多くの人に顔を知られているのに、すぐ現場の近所をうろつきまわって、時間だけは気にしても、捕われる不安の様子がないのだから。ただ時間だけ念頭にかかるという妙な一途な思いつめ方の奇怪さは論外だ。犯罪者は犯罪の現場へ何食わぬ顔で立ち寄りたがるというが、そんな一般的な人間なみなところは感じられないね。そんなところへ立ち寄りたいような子供じみた、オモチャを弄ぶような心理はないらしく見えらア。オスシだって、十のうち一ツのこして平らげているのも大したものだ。非凡というか、むしろ、超凡とでも云うのかね。
 小平だって、強姦の現場の近くへ人の近づく声をきくと、慌てて女をしめ殺してしまうような、殺人鬼的とはいえ、とにかく人間らしい怯えはアリアリ分るのだが、この女の神経のふとさは、人間として扱いようがないぐらい、同族の弱さがないようだ。
 そうかと云って、小平ほど憎たらしく、イヤらしい気も起らないのは、人間的なところがないせいだろうね。つまり、小平のやったことは、とにかく人間の魂の奥をさがせば覚えのあることだから、憎しみもありうるが、太田嬢は微々たる人間の如きものではないのである。怖るべきメスの怪牛だと思えば、憎むどころか、堂々たる武者ぶりに敬服するね。とても勝てんわ。我らの相手ではない。人間の中でこのお嬢さんと対等につきあえるのは、戦争という怪物だけさ。
 とにかく我ら微々たる人間は、微々たる人間同士で交りを結びましょうや。

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 私は一ツごとに蛇足を加えるのは好まないのだが、先月の「フシギな女」について、東京新聞の小原壮助先生があんまり低能な批評を下しているから、補足することにします。
 この小原壮助という人は批評家の中でも特別頭の悪い人だとは思いますが、作家の作品に対して軽率きわまる読みちがいをして、読みちがいを論拠に批評するのは壮助先生に限りません。「フシギな女」の場合はそのバカバカしい読みちがいを指摘することができますが、小説などの場合には、それができないのです。小説家はどんなにバカげた読みちがいを論拠に悪評されても、それを反駁したところで水カケ論で、ただ自己弁護だと思われるだけがオチですね。ですから小説家は別に反駁もせずに見送っているわけですが、批評家がいかにバカであるかということは、その機会あるときには云っておく必要があると思います。「フシギな女」は論理的にそれをなしうるチャンスですから、蛇足を加えることにいたします。
 小原壮助先生の批評によると、
「安吾探偵は山口や検察当局やジャーナリズムの示唆にひッかかって、太田成子や陰の男にこだわり、山口を疑らずに、山口を殺さなかった犯人をフシギがるという俗眼をもって事件を見ている」
 というのです。
 先月号をお読みの皆さんはお分りでしょうが、あの文章を最も表面的に受けとれば、たとえば、小学校五六年生ぐらいに読ませれば、字面通りにそう受けとるのは当然だろうと思います。字面はたしかにそうですから。
 しかし、多少とも文学にたずさわる人間が表面の字面だけしか読めないということが、考えられるでしょうか。しかも、とにかく、批評を書いて、それがお金になるという人間が文章の字面だけしか読めないというバカげたことが現実にありうるとは思いもよらなかった。
 だいたいこの人は文学者どころか常識家としても平凡な市井人としても失格して、ナンセンスにちかい愚人だろうと思います。山口が捕われてからの事情と、そうでない時の事情を混同させているのである。山口が捕われて後に山口を犯人だと云えるのは当り前のことだけれども、彼が誰にも疑られていない時にも彼が犯人だとハッキリ云わなければ疑ったことにならないと彼は考えているのですね。また、そういう断言をしていいものだと考えているらしい。こんなバカな人間がそうザラにいるとは思われないが、よりによって、そういうバカな人が文学の批評家で日本に通用するとは、とんでもないことになったものだ。
 私がフシギな女、フシギな女、と云いふらしているのは、ちッとも女そのものをフシギがっているのではないのさ。どこに怪牛の化け者のようなフシギな女が実在しうるものですか。
 女は柳ずしで休んでも、信用組合で金をひきだす時間だけを気にしているが、すでに現場が発見されて手が廻っているかも知れないということは全然気にかけていない。
 また、洋品屋でお金を払うにも、十円札を六十二枚かぞえるのに十分間もかかり、なるべく長く時間を費して信用組合で金をひきだす時間まで持たせようとしているが、現場が発見されて手が廻るかも知れないことは全然気にかけていない。
 だからフシギな女だと私は云うのです。しかし、私の言葉の裏を読めば、全然フシギじゃないじゃないか。どこにそんな怪牛のような、フシギな女がいるものか。要するに、彼女が気にしている九時半という時刻までは、決して現場が発見されないことを彼女は知っているのだ。だから、彼女は信用組合で金をひきだす時間以外は全く心配せず、ただ一途に、それのみ気にかけているだけさ。なぜ彼女はそれまで、現場が発見されないことを知っているか。共犯者は山口だからだ。きわめて簡単明瞭な話じゃないか。
 まだ犯人がつかまりもしないのに、犯人は山口と成子だと云えると思っているお前さんが大バカなのさ。文学者は素人タンテイではないのだから、ただ文学者の職分として心理分析によって山口と成子の犯行を確認しうる理由をもったがゆえに、文学的に表明してみただけの話であって、素人タンテイたるの功を誇ることとは意味がちがう。
 私は先ず山口の手記に、成子の個性がないこと、アベコベに男の個性がありすぎることを指摘し、成子がしばしばゴミをすてに裏へでたこと、深夜に男が来ていたこと、成子が旦那の売上げを数えるのを見ていたこと等、彼の観察が男女共犯物盗り説の一点にのみ集中していることを指摘した。しかもこれらの目撃者は彼一人であって、他の誰も同じものを見ることができない底のものなのである。その他のことについては、彼の手記にはなんらの個性もないのである。そこで私は結論したのだ。
「しかし男であるかは探す必要がない。太田成子を追えばタクサンだ。彼女を捕えれば、男が誰であったかは自然に分るであろう」
 云うまでもなく男は山口だと云う意味だ。そして、その次にフシギな女について詳説したのは、なぜ男が山口であるかということを、補足説明するためのことである。
 即ち、前述の如くに、女が信用組合の時間だけ気にかけて、現場の発見を気にかけないのは、男が山口であること。また、四人殺害後、冷静に現場の証拠を消しながら男を目撃した唯一の人物山口を殺さないのは有りうべからざることであり、要するに男と山口は同一人であることを暗示したのである。
 しかし、犯人があがらぬうちに、そうハッキリ云えるもんじゃありませんよ。暗示するにしたって、すぐ分るようなハッキリした暗示の仕方ができるものじゃアない。
 私は今度の事件は数名の目撃者の観察がシッカリしているから、モンタージュ写真によって遠からず成子嬢がつかまると信じていた。しかし、ただ一ツ不安なのは、山口が女を殺してしまう場合がありうることで、こうなると後日に至って山口がどんなにカサにかかって私の文章にインネンをつけてきても、法律上、物的証拠によって彼の犯行を断定することができないと同様に、私も彼のインネンに抵抗するだけの物的証拠をもたないのである。山口の犯行を暗示するたって、そう明々白々に暗示しうるものではない。彼にインネンをつけられてもゴマカせるような伏線をつくっておかなければならないのです。
 幸いに私の想像通りに太田成子を追うことによって、自然に男もつかまった。別に私の誇るべきところでもなんでもない。当り前の話ですよ。
 だいたい、実際の殺人事件の犯人を当てるなどということは、決して文学者のやるべきことではない。むろん、人間には趣味というものがあるから、犯人はあれだ、いや、これだと世間話に興じるのは当り前だが、文学者がその表芸として犯人を当てるなどということは、笑止千万、バカな話であろう。
 第一、私に犯人が、当るような事件は万に一ツぐらいのもので、今回がつまり万に一ツの場合であったのである。
 だいたい普通の犯罪は流しの犯罪で、犯人は日本人八千何百万人の中の一人というバクゼンたるものである。探偵小説のように、登場人物二三十人の中に必ず犯人がいるという重宝なものではないし、おまけに、殺人の現場だって当局にだけしか分っておらず、新聞社すら、臆測によっているにすぎない程度である。そういうバクゼンたる材料をモトにして、素人タンテイが犯人を当てるなどということはありうべからざることに類する。
 今回は珍しく犯人が犯人でない顔をして手記などを書いたから、私は気がつくことができたのであるが、しかし、別に私だけのことではなかろう。
 だいたい、専門家というものは、みんなそれぞれ大したものと心得てマチガイはないものだ。タンテイはタンテイ。素人タンテイとちがって本物のタンテイは素人のはかりがたい経験があるものである。恐らく刑事の多くは山口を疑っていたに相違ない。しかし冷静に兇行後の後始末を完了した山口に恐らく物的証拠はないだろうから、あの場合、女の行方を追求するのが当然であろう。女さえ捕えれば、自然に男を知ることができるからである。衆議院で山口を追求しなかった警察庁を詰問しているのは筋ちがいで、この場合、全力をあげて太田成子を追求するのが当然の本筋だったのである。モチはモチ屋。本職にまかしておけばたいがいマチガイないものである。だいたい、素人タンテイ式に、疑わしい奴を片ッぱしからショッぴくようなやり方は、最も好ましくない。どんなに長時間要してもかまわないから、礼儀正しく、つまり理づめに犯人をあげてもらいたいものである。

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 ウソ発見器というものは、たぶん利用価値は殆どゼロであろう。脈搏だか心臓だか知らないが、何か電流で通じて鼓動かなんかの変化によってウソを見破ろうというものらしいな。聯想の反応実験などとまア似たようなものだ。その人間の個性を究めていないと、とんだ狂いを生じるし、その実験から証拠をハッキリつかみだすことは、まず不可能であろう。
 瞬間的な反応というものは、一見人間は本能を偽れないように見えるから確実らしく思われるが、実は犯罪者という老練冷静な実行家にとって、とッさの本能を偽るぐらいは易々たるものかも知れない。
 むしろ考える時間を与えて、手記でも書かせた方が、理ヅメにごまかす手段を考えるからシッポをだす率が多く、だし方がハッキリしてしまうだろう。しかし、山口のように、事件を発見した当人が犯人であったという場合ならとにかく、他の容疑者の場合は、自分は事件に関係せぬ、しかじかのアリバイがあると云えばそれまでのこと。事件と交るところのない手記を書かせたって、糸口はつかめない。たとえば平沢氏の手記の如くに、富士山や如来様かなんか三十一文字によみこんで心境をのべたてられても、タンテイたるもの手のほどこしようはないね。
 山口の犯人と確定した今となっては、山口の手記はいろいろ考うべき材料を提供しているようだ。
 今となってはバカバカしいようだが、山口は女の住所をくらますために、新宿の反対側の浅草と云ってるのだね。今となっては、浅草の反対の新宿だと判断するのはカンタンだが、当時としてはできやしない。渋谷だか品川だか池袋だか上野だか、ほかのとんでもないどこかだか、とても見当はつけられない。
 しかし、この手記中の浅草の語は山口の生前、聯想試験の材料にはなったであろう。しかし、この場合にも、この種のテストには個性差というものがあって一定の公式で判定ができない。のみならず解明さるべき問題はその個性差の中に含まれているのであるから、断定的な答えは絶対に出てこないと見てさしつかえない。彼が浅草と云っているのは新宿をごまかすためだということは、心理試験によって知りうる如くでありながら、実はまず絶望的に不可能だろうと思う。探偵小説などでそれが可能なのは、試験がうまく出来すぎているばかりでなく「断定が可能」であるからだが、実際問題としては、彼が他の理由で犯人と定まるまでは、決して断定はできない。試験者の心理の方に断定しがたい弱点が存しているからである。
 大学の心理教室の実験の場合とも違うのです。なんしろ一人の人間が殺人犯であるか否か、ということを、日本人八千万の耳目の前で決するのだから、責任がちがう。実験者の方にかかっているその責任の負担が、あらゆる断定を疑う弱点となって現れるのである。いかんともしがたいことだ。
 それにしても、毎日新聞が「山口は犯人にあらず」ときめてかかったり、朝日新聞がはじめのうちは「山口は犯人らしい」ときめてかかったことは、内々はよろしいとして、それを紙上に明記するのは、いろんな意味で危険ですね。まず第一にその軽率さを責めらるべきである。
 新聞は単に事実を報道すべきものであるか、もしくは一人の彼を犯人と見たり犯人に非ずと見てそれを公表してよろしいものであるかどうか、昔からの問題であるが、とにかくそれによって益するよりも害毒を流すことが多いだけは確かであろう。新聞がそれを行うのは功名心、他紙との勝敗を争うという功名心が主であろうが、その結果は一方が下山総裁自殺説をとれば、一方は他殺説をとる、まア時には御愛嬌でよろしいけれども、その推論の根拠がいかにも薄弱で軽薄きわまるものがある。この軽薄さをさして、あるいはジャーナリズムと云うのかも知れない。風の中の羽のように軽いのは、男でも女でもなくて、ジャーナリストの心かも知れませんね。
 あらゆる事件には、その限界があるのである。たとえば下山事件の場合には、動物実験の結果自殺か他殺か明確にしうるか否か、ということが第一の限界である。文明開化も幾久しい現代であるが、科学万能というわけにはいきますまい。動物をレキ殺させてみる。その血痕の飛び方をしらべる。レキ断され方をしらべる。同じ条件で行うことは絶対に不可能な筈であるが、しかも絶対に確実な答えをだしうるか否か。
 私はその実験の方法についても、方法の結果、また結論についても知らないのだから何ともいえないが、想像してみて、半信半疑ですね。現代の科学的方法によっては、自殺とも他殺とも断定できない、という結論が、あるいは出てくるのではなかろうか。しかし、確実に、自殺也、他殺也、と断定できるなら、結構この上もないことだ。以上が第一の限界である。しかし、下山事件はまだ第一の限界すらも明にはされていない。
 すべてタンテイというものは、こういう限界をハッキリと見究めてかからなければならないものだ。その限界を明確にするに時間がかかるとすれば、問題はカンタンさ。自殺、他殺、両方の線で追求するのだね。どちらとも即断すべきではない。
 八宝亭の場合にも、限界はいくつもあった。犯人は男女共犯也、というのが第一の限界です。太田成子は万人の認めうる犯人だ。なぜなら、盗まれた通帳をもって信用組合の金をおろしにきているのだから。そして彼女がその日から八宝亭へ住みこんだことについては多くの証人がいるのだから。しかし、太田成子に情夫がいて、二人共同の犯行であるということは、山口以外の証人がいないのである。しかしながら、山口がかく認める以上は男女共犯説には絶対にマチガイがない。なぜなら、もしも山口の供述する男が架空である場合には山口自身が犯人なのだから。以上が第一の限界です。
 第二の限界は、太田成子が八時半ごろ柳ずしに現れ、九時前後に洋品店へ現れ、九時半ごろ信用組合へ現れているという事実です。そして信用組合から金をひきだす時間をまつために、現場にすぐ近いところでできるだけブラブラ時間を費そうと努力してる非人間的なムジュンです。
 事件はいつ発覚するか分らない。彼女はいろんな客にも顔を見られているし、何よりも山口には顔を熟知せられている。路上で山口に会えばそれまでだが、それを怖れるソブリが全く見られないのはナゼか、しかも山口が生きていることを彼女は知っている筈なのだ。答えは二ツしかない。一ツは、彼女の共犯は、山口が目をさまして起きてきたら殺すために八宝亭のどこかに隠れているから。一ツは、共犯が山口自身であるから。
 山口以外の男がいて、太田成子が金をひきだす前に山口が起きてきたら殺すつもりで八宝亭に居残っているとすれば、山口を殺してひきあげるのが当然です。なぜなら、十四万円ひきだすのを成就するために山口が起きたら殺そうと九時ごろまで待ちぶせる危険を冒すほど冷静大胆な犯人なら、山口を確実に殺す方が安全だという当然な結論を忘れる筈もないし、実行しない筈もない。彼の顔を見ているのは山口一人だ。太田成子についても最も多くの不利な供述をなしうるのは山口だ。十四万円ひきだすまで山口を見張る以上は、殺すために見張ったであろう。私が先月号に、男はなぜ山口を殺さなかったろう、と何回も云っているのは、このことである。
 太田成子が信用組合へ現れたのは九時半、山口が築地署へ現れたのは九時半。この時間の暗合を考えても、第三の男が山口を見張っていたということは、時間的に考えられなくなるのである。
 以上の推理に確実な裏づけを得たのは、毎日新聞へのった山口の手記である。新聞記者は自ら渦中にいて、直接山口と会ったりして却って明白に露出している真相を逸していたようだ。
 私が「フシギな女」を書いたのは、単に人間の心理を解析するだけで、確実に犯人を推定しうる稀有な場合であったから。
 こんなことはメッタにあるものではない。現場も見ずに素人が犯人を当てるなどということは、万に一ツぐらいの珍しいことだ。
 事件直後に朝日新聞が犯人は誰だと思う、と聞きに来たが、ことわった。その時はこう明白に推定できた時ではなかった。現場がどんなになっているのか、足跡があるのか、台所で身体を洗ったり、血の始末をした跡があるか、何も分らない。そういうことが分らなくて推理はできないものである。ただ、新聞に報じられている状況から判ずると、朝日の疑っている人物が疑わしいことは確かだ、とだけ、つけ加えて答えただけだ。だいたい事件直後に素人タンテイが犯人を推理するなどとは滑稽なことだ。すべて事件のカギは現場にあるのだ。それを見ずに、まして素人が、きいた風なことを云ってみたって仕様がない。今後もあることだから言っておきますが、事件直後に安吾タンテイの推理をききにきたってムダです。私は答えません。否、答えられません。答える力量がないのだから。
 とてもホンモノのタンテイにはかてませんが、素人の多くの方々にくらべれば捕物帖の作家たるだけのタンテイ眼はあるでしょう。その相違がどういうところに一番ハッキリしているかというと、その事件の個性と限界というものだけはいつもほぼ正確に見究めているという事です。たとえば、太田成子がつかまり、山口が犯人と分ったときに、なぜ山口を疑らなかったか、と世間は怒りました。これが素人の素人たるところでしょう。この事件は太田成子を追う一手ですよ。さすれば男は自然に分るのだ。変に山口を突つかずに、太田成子専一に追えばよかった。さすがに警視庁はそれをやっております。新聞記者だけが山口にいつまでもからみついていました。しかも犯人でないと信じつつ。彼らのタンテイ眼はよほどダメのようです。事件の個性と限界を知らないのだから。
 五年前、初めてタンテイ小説を書く時に、浅田一博士を研究室にお訪ねして法医学の知識を若干御伝授ねがったことがありました。先生は非常に公正な判断力をお持ちの方で、思考の傾斜が少い方です。法医学者とかタンテイにはそういう性格的な素質が必要だということを実物で教えていただいた次第で、何よりそれが印象に残っています。
 科学者はみなそうあるべきだとお考えかも知れませんが、否、否、科学の独創的な仕事は、むしろ傾斜する思考から生れるのが自然ではありませんかね。タンテイはそうじゃないね。限界がハッキリ与えられている。独創はないのだ。タンテイに独創はありません。臨床医と同じようなものだ。ただ傾斜の少い正確な眼が必要なだけだ。新聞の報道という任務にも、この眼が基本でなければならないと思うのだが、およそ日本の新聞には、この眼がありませんね。太田成子さんと同じようにヤブニラミであるか、甚しく傾斜したがる眼ですね。いつも事実を自分の方から逃している眼ですよ。眼グスリだけでは治らない病気だね。報道に独創なんてことはあるべきじゃアないから、傾斜してはいけません。

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 タンテイの推理と科学の独創は違うといったが、科学もある点まではタンテイと類似した推理ですね。私はそれをこの三月、常磐線の汽車の中でイヤというほど思い知らされました。
 文藝春秋へ連載している安吾日本地理というものの夏のシーズンに「只見川ダム」という予定をたてておいたのである。予定をたてたときは威勢がよかったが、少くとも一週間は人なき山中を彷徨しなければならないのだからね。小生もすでに年老いたよ。先月その日本地理で仙台へ行き、青葉城という城跡の山へ登っただけでノビたのさ。
「もう、只見川はやめた!」
 私は青葉城本丸跡で文春記者にかく断乎として宣言したのである。さらに塩竈神社というところの石段を二百段ほど登ったときにも、
「もう山登りはコンリンザイやらんよ」
 と、かたく念を押したのである。
 ところが妙なもんだね。仙台から帰りの常磐線にのると、中谷宇吉郎先生と同じ箱に乗り合したのである。
 迂遠な話だが、私は中谷先生がダムの権威で、各地のダム建設に最高顧問として実務にたずさわっておられることを知らなかった。只見川もむろんのことである。いま上京するのも、信濃川ダムへ行くためで、それが終って四月はじめに只見川へ行かれるところでもあった。
「四月の只見川は素人のあなたには登山はムリですね」
 と、先生は青葉城で音をあげた私をかるくひやかしたが、
「しかし、只見川はぜひ一見して下さい。いろいろの問題がありますよ。七月にまた行く予定ですから、そのときに一しょに行きましょう。アイソトープを使って、洪水時の岩石の流れ方を調べる実験も行われている筈です。全部見るには、十日かかります」
 十日といえば一ヶ月の三分の一だね。あとで三四日ねこむのも予定しなければならない。しかし、中谷先生という大権威に随伴、御説明をねがえるという又とない幸運を逃すような巷談師ではない。たちまち大勇猛心全身にみなぎり、七月の旅行を堅くお約束したのであった。
 先生は日本中にダムをつくって廻る計画をたてておられる。只見川の次には紀州。それから屋久島というように。私も昔から、どういう因果か、山で遊んでいると、ダムを思いだす習癖があった。湯河原の奥に広河原という温泉場がある。宿屋は三軒しかない。二本の谷川がここで合流して湯河原の方へ下っている。ここのカマタという旅館で私は時々仕事をするが、箱根の山の一端が広河原、湯河原をかこんで海のところで終りになるが、そこんところをチョイと百メートルぐらいの高さでさえぎると、相当な人造湖ができるね。赤ペン青ペンなんか湖水の底に消えてなくなったってかまわないさ。奥湯河原は雨の多いところだね。私は雨を睨みながら、目の下を流れる川を山の出口でチョイとふさぐことを考える。山というものは、痩せ地を営々と人が汗するよりも湖水にした方が清潔だね。資源をつくる所以でもあり、人間を尊重する所以でもある。単に習性的に父祖伝来の痩せ地を耕すことはないね。
 しかし、中谷先生が屋久島にダムをつくるというから、おどろいたね。私は屋久島へ行ったことはないけれども、千七百年代の初頭、例の新井白石が政治をやっていたころ、イタリヤのパレルモの人、ジョヴァンニ・バッチスタ・シドチという宣教師が死を覚悟で密航してきたことがある。白石の「西洋紀聞」につまびらかな話です。シドチが日本の地を、はじめて踏んだのが、屋久島の尾の間というところです。今の地図でみると、温泉のでるらしいシルシがついてますね。当時の記録にはそんなことは記載がない。そこから一里ぐらい山中へはいって松下というところで里人に発見されてつかまっています。私はシドチのことを調べるために、屋久島については、書物や地図について多少の知識があった。
 この島の中央には九州一の高山、宮の浦岳という二千メートルちかい山がそびえ、それを中心にしたほぼ円形の島で平地というものが殆どないのですね。なるほど、この島の雨量は日本一です。その物すごい雨量のおかげで全山神代杉の巨木が密林をなしているそうだ。しかしスリバチを伏せたような島にダムを造るとは、これいかに。そんなうまい方法がありますかね。
 私がビックリ仰天して、こう質問すると、中谷先生の返事はアッサリしたもんだったね。
「カンタンですよ。山にハチマキさせるんです。何段にも。斜面の雨をそっくり集めて下へ落す。上のハチマキから下のハチマキへ順に落して行くのですよ。普通のダムにくらべて、むしろ金がかかりません。ハチマキといっても山をそっくり囲む必要はないでしょう。山のヒダのところにだけ、ハチマキさせればよろしいのですから」
 おどろいたな、この時は。しかし、甚しくガッカリもした。わが身の拙さを嘆いたのである。
 科学もある点まで推理だ、と云ったのは、こういうことさ。これは相対性原理というような独創とは違うね。まさしくタンテイの領域ですよ。もしくは密室殺人の手口を発案するのと似たようなタンテイ眼の所産だね。
 しかし、タンテイに比べて、話が雄大だね。私もふとイタズラにダムの設計など考えた覚えはあるが、屋久島にそッくりハチマキさせるという手は全く思い及ばなかった。
 つらつら思うに、こういう手口こそは、むしろ専門家の盲点で、素人タンテイが一番気付きそうなことなのである。科学は素人にはとッつきにくいが、素人にも手がでるのは、まず、この程度のことさ。ところが、それがてんで思い至らなかったのだから、わが身の拙さを甚しく嘆いたのである。
 しかし、屋久島にハチマキさせて、あの莫大な雨量をそっくり受けとめるとは考えたもんだね。確実に可能であるし、たしかに莫大な費用を要するとも思われない。ダムというものは垂直のカベで水を遮るものだと考えてハチマキに思い至らなかったところに素人の悲しい盲点があったんだね。
 このことは私に大きな教訓を与えてくれましたよ。考え方が、何かに捉らわれていないか。あることを考えるたびに、必ずこう疑ってみる必要があるね。今までも、常に一応疑ることを忘れないツモリであったが、自信がくずれたのさ。もっと突きつめて疑ることが必要だ。
 今になって山口の手記を読むと、彼の人柄がかなり分るね。下駄を買ってこようと思って四畳半の襖をあけると、常ちゃんとよぶ声がした、ハッとした足元に血まみれの紀子ちゃんが倒れていた、という件りは彼のウソのうちで最大の傑作だ。これは誰でも思いつけるという凡庸なウソではない。ところが、こうウソをつく以上は先ず医者へ走るとか医者へ電話をかけてから警察へ走るのが自然だろうが、そこまでは計算していない。しかし、彼が医者へ走らずにすぐ警察へ走ったとしても、それを必ずしも矛盾と見ることも不可能なのである。人は慌てれば、そう筋の立つようにばかり行動できるものではない。むしろ慌てた行動に筋が立たんということは、彼は犯人でないという心証を与えるかも知れない。
 しかし、それは刑事の側からのことで、ウソをついてる本人は、本来はもっと計画性があり、筋が立つようにやるはずだ。山口にそれだけの筋の正しい計画がないのは、彼は智能犯的な複雑な頭がないせいであろう。単純な頭なんだね。彼に接した記者連は、むしろそこに、ひッかかったのだろう。
「口はうるさかったが気持のよい旦那さん、おかみさん。私を本当によく可愛がってくれた。二三日前まで風邪をひいていました時、わざわざお医者をよんでくれた。その時本当にうれしかった。正月の休みのとき、元さん(殺した長男十一歳)をつれて浅草に行き映画とサーカスを見せた。元さんはサーカスを見るのは始めてであると本当に嬉しいようであった。紀子ちゃん(殺した長女十歳)とはよくコーヒーを飲みに行き私によく甘えていた」
 犯行をごまかすためのウソだとだけ見るのは当らない。こういう表現のできる人間にはタイプがあるようだ。私を大事にしてくれるお父さんお母さん、などと時々涙ぐんで人々には語りながら、父や母をぶったり蹴ったりしている人間のタイプである。単純で、怒りっぽいが、涙もろくて妙に執念深いところもあるという凡庸なタイプ。それ自身は決して犯罪者のタイプではない。いくらでもザラにあるタイプだね。
 私は山口を異常性格とは見ないのである。山口の本質はオールマイティを失うまいとする不安と、自信のなさ、劣等感だという。(週刊朝日)しかし、それは万人にあることだろう。そして社交としての着物をかなぐりすてると、突然ヤケを起してケツをまくって居直る。それも万人にあることだ。山口の場合はそれがドギツクでているから異常性格の所以だというが、これまた事と次第によっては万人がやりかねないものを蔵していると私は思うのである。
 文士である私は、そのようにしか考えられないのである。ザラにあるタイプの人間がいきなりかかることを行うのではないのである。そこに至る特殊な道程があったのだ。小説はそのような道程を書くことでもある。するとそこに現れるものは平凡人が特殊な事情によってそうなっただけで、異常性格というものは、殆どないという結論だ。私は精神病者であったゲーテやニイチェやドストエフスキーの作品ばかり読んだり引用したりしているのが、おかしいと思うのである。一番平凡人を書いた人、健全な平凡人の平凡でまた異常な所業を書いた人、チエホフをなぜ精読しないのだろう。本当の人間を書いた人はチエホフであろう。人間の平凡さをこれぐらい平易に描破した人はないが、見方を変えれば、あらゆる平凡人がみんなキチガイで異常性格だと彼は語っているようなものだ。チエホフは古今最高の人間通であろう。環境をきりはなして人間はあり得ないものだ。精神病医の場合は一見特に環境をきりはなして病人を見てはいけないように思われるが、彼らは環境ぬきに、病気だけを見ているのが普通だ。なぜなら病人や病気のタイプは環境ぬきでも分るものだ。人間が分らなくとも病気は治せるものである。精神病のお医者ではフロイドだけは人間を知っていたね。
 しかし東大の精神科の先生は私に語った。精神分析学は病気を治す学問ではない、と。これは、たしかに、その通りだ。精神病医学という病気を治す方法としては内村先生の方法がたしかにフロイドよりも正しいと私は思うね。その限りに於て、精神病医は人間を知らなくとも病気を知っておればよろしいわけだ。
 だが、八宝亭事件の如き際に、犯人を解説する人として精神病学者は適当ではないように私は思う。精神病学者には病気は分っても人間は分らんようだね。かかる解説はチエホフ的でなければ、そして環境と人間を一体に見究めなければ、正体はつかめない性質のものだろう。
 最後に太田成子嬢がどこまで協力したかという問題は、安吾タンテイには全く見当がつきません。

底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
   1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四八巻第五号」
   1951(昭和26)年4月1日発行
初出:「新潮 第四八巻第五号」
   1951(昭和26)年4月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年3月17日作成
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