もうやがて二昔ふたむかしに近いまえのことでした。わたしは竹柏園ちくはくえん御弟子おでし一人ひとりに、ほんの数えられるばかりに、和歌をまなぶというよりは、『万葉集』『湖月抄』の御講義を聴講にいっておりました。すくなくても十人、多いときは二、三十人の人たちが、みんな熱心に書籍の中へ書入れたり、手帖ノートへうつされたりしていました。男子も交る時もありましたが、集りは多く女子おんなばかりで、それも年若い美しい方たちがおもでした。
 美しい方たちの寄合うなかでも、何時いつまでも忘れぬ印象をとめているという方は、さてすくないものと、今更にさびしい思出のなかに、くっきりと鮮かに初対面の姿の目に残っているのは、大塚楠緒子おおつかなおこ女史の面影おもかげでした。
 やや面長おもながなお顔だち、ぱっちりと見張った張りのある一重瞼ひとえまぶち。涼しいのも、さわやかなのも、りんとしておいでなのもお目ばかりではありませんでした。明晰めいせき声音こわねやものいいにも御気質があらわれていたのでしょうと思います。思うこともなげな、才のある若い美しい方のほおの色、生々いきいきとして、はっきりと先生におはなしをなさってでした。濃いおぐしを前髪を大きめにとって、桃割れには四分ばかりの白のリボンを膝折り結びにかたく結んでかけておいででした。二尺のそでかと思うほどの長い袖に、淡紅色ときいろの袖を重ねた右のたもとを膝の上にのせて、左の手で振りをしごきながら、目を先生の方を正しくむいてすこし笑ったりなさいました。
 帯は高く結んでおいででしたが、どんな色合であったか覚えておりません。忘れたのか、それともその時は、ずっとふすまの側に並んですわっていましたから、其処そこから見えなかったのかも知れません。召物めしものは白い上布かたびらあらいがすりがありました。
 その方がその当時、一葉女史を退けては花圃かほ女史と並び、薄氷うすらい女史より名高く認められていた、楠緒くすお女史とは思いもよりませんでした。自分たちと同じほどの年頃のお方かと思っていましたが、女史は二十一か二の頃でありましたろう。お連合つれあいの博士は海外へ留学なさってお出のころでした。
 四年ばかりたちました。春三月に竹柏ちくはく会の大会が、はじめて日本橋倶楽部くらぶで催されたおりにはっきりと楠緒女史はあの方だと思ってお目にかかりました。もうその頃はずっと地味づくりになって、意気なおつくりで黒ちりめんの五ツもんのお羽織を着てお出でした。女のお子のおありのこともその時に知りました。
 そののちも何かの会のおり、写真を写すおり、御一緒になって一言ひとこと二言ふたことおはなししたこともありましたが、私の思出は何時いつも一番お若いときの、袖をなでておはなしをなさっていた面影が先立ちます。
 容姿かたち才智ざえも世にすぐれてめでたき人、面影は誰にも美しい思出を残している女史は、数えれば六年むとせ前、明治四十三年に三十六歳を年の終りにして、霜月しもつき九日の夕暮に大磯の別荘にてやまいのためにみまかられてしまいました。
 女史には老たる両親ふたおやがおありでした。三人の女のお子と、その折に二歳ふたつになる男のお子とをお残しでした。今は、二人の女のお子は母君ははぎみのあとをしたって、次々に世をさられました。
 女史の遺著は小説、歌文、詩、脚本など沢山にあるなかに、『晴小袖はれこそで』は短篇小説をあつめ、『露』は『万朝報よろずちょうほう』に連載したのが単行本になりました。『朝日新聞』にて『そらだき』をお書きなすってから、作風も筆つきも殊更ことさらに調ってきて、『空だき』の続稿の出るのがまたれました。が、それは女史の胸に描かれただけで、『空だき』が私の読んだものではお別れになってしまいました。
 晩年に女史が私淑ししゅくなさったのは、夏目漱石先生であったということをのちに聞きました。その夏目先生が楠緒さんをお思出しになったことが最近先生のおかきになった『硝子戸がらすどうち』の一節にありました。無断でそのことを此処ここへ抜くのは悪いと思いながら、楠緒女史がいきて見えますので、ほんの影だけでもうつさせていただきたいと、私は大胆にもその事まで此処へ取りいれました。
 夏目先生が千駄木せんだぎにお住居すまいであったころ、ある日夕立の降るなかを、鉄御納戸てつおなんど八間はちけん深張ふかはりかさをさして、人通りのない、土の上のものは洗いながされたような小路を、ぼんやりと歩いていらっしゃると、日蔭町というところの寄席よせの前で一台の幌車ほろぐるまにお出合なされました。セルロイドの窓が出来ない時分であったので、先生は遠目にも乗っているのは女だという事にお気がおつきでした。車の上の人は無心にその白い顔を先生に見せているのが、先生の眼に大変美しく映ったので、じっ見惚みとれていらっしゃるうちに、芸者だろうというようなお心が働きかけたそうでした。くるまが一間ばかりの前へ来たときに、俥の上の美しい人が鄭寧ていねい会釈えしゃくをして通りすぎたので、楠緒さんだったということに気がおつきなされたのでした。
 その次に先生が楠緒さんにおいなされたときに、ありのままをお話しなさる気になって、「実は何処どこの美しい方かと思って見ていました。芸者ではないかしらとも考えたのです」とおっしゃられたら、楠緒さんはちっとも顔をあからめず、不愉快な表情も見せず、先生のお言葉をただそのままにうけとられたらしかったと、なつかしいお話しがありました。
 夏目先生は、楠緒さんのおなくなりの時に、「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」という手向たむけの句をおみになりました。
『硝子戸の中』そのくだりをお読みなさった大塚保治やすじ博士は、「ようやく忘れようとすることが出来かけたのに、あれを見てからまた一層思いだす。」と仰しゃったそうです。嘘かまことか知りませんが、正宗白鳥まさむねはくちょうさんが角帽生という仮りの名でお書きなされたものの中に、大学の文科においでなさった頃の博士と、前東京控訴院長大塚正男氏の長女の楠緒さんとは、思いあっておむかえなされた仲のように書かれてあったかと覚えております。そうでなくても女史ほどの御配偶をお先立てなされたお心持ちは、思出さぬようにとするのが無理なあきらめだと、お察しすることが出来ます。
 明治の文壇に、才媛さいえんの出身者を多くだしたのは麹町こうじまちの富士見小学だときいております。岡田八千代おかだやちよ女史も、国木田治子くにきだはるこ女史も富士見小学で学ばれました。楠緒女史もお二人よりは、早くの出身でした。一橋ひとつばしの高等女学校を卒業なされて、博士の留学のお留守中にも、明治女学校にかよい、松野フリイダ嬢に学び英語を専習されました。ピアノは和歌と同門の友橘糸重たちばないとえ女史に教えられてお出でした。絵画ははじめ跡見玉枝あとみぎょくし女史に、後には橋本雅邦はしもとがほう翁に学ばれました。いつでしたかずっと前に、天女てんにょが花を降らせているをある展覧会で見うけたことがありました。口の悪い評家はかっぽれ天女なんぞと酷評したことがあってから、公開の席では見ることが出来なくなりました。
 多能な女史は料理についても研究なされて、小集会などもよく催されたようでした。
 名誉ある学者の夫人、幸福な家庭の女王、作者としては充分な学殖がくしょくたっとき未来とをもった、若く美しい楠緒女史は春のころからのわずらいに、夏も越え、秋とすごしても元気よく顔の色もうつくしく、語気も快活にいゆる日を待ちくらして、死ぬ日の五日いつかまえには、
こもは松の風さへ嬉しきに心づくしの人のおとづれ
と竹柏園主佐佐木博士のもとへ葉書をよせられたりなされました。
 墓表ぼひょうを書かれた人は、楠緒さんの御婚礼のときに、結納書をかかれた人と同じ老人だということを聞いて、葬式ほうむりの日にお友達方は墓表をながめては嘆かれました。
 竹柏園先生は、
ゆく秋の悲しき風は美しきざえある人をさそひいにける
うつくしきいてふ大樹おおきの夕づく日うするゝ野辺のべに君をはふりぬ
 橘糸重女史は、
重きの我身にせまる暗きへやに、君がためひくかなしびの曲
胸にそゝぐ涙のひぎきへがたし、やみにうもれて君しのぶ時
心あひの友といふをもはゞかりしかひなき我は世にのこれども
 峰百合子女史は、
ゆきあひし駒込道こまごめみちはちかけれどふたゝび君にふよしのなき
いたづらに窓の日かげをまもりつゝ、帰らぬ友の行方ゆくえをぞおもふ
 片山広子女史は、
うつくしきものゝすべてをあつめたるそのうつそみは隠ろひしはや
さわやかにいと花やかにみましゝ、今年の春ぞ別れなりける
書きながすはかなき歌もきよらなる御目おんめに入るをほこりとぞせし
千人はゆふべに死にて生るとも二たび来ます君ならめやは
豊島としまのや千本ちもとのいてふ落葉する夕日の森に御供みともするかな
なきまで君が心のかゝりけむその幼児をいだきてぞ泣く
掘りかへす新土あらつちも痛ましう夕日にそむき只泣かれける
と嘆きうたわれました。たれの胸にも楠緒女史は、美しい面影と思出を残してゆかれました。まして大塚博士の悲しみはどれ程でありましたろう。御自分でもなおるとばかり信じていた死の床の枕上には、紙の白いままのノートが幾冊か重ねられてあったという事でした。そういう悲しい思出は数ある楽しかったことよりも深く、博士が腕にかかえて帰京なされた、遺骨の重味おもみと共に終世お忘れにならないことでしょう。雑司ぞうし御墓おはかかたわらには、和歌うた友垣ともがきが植えた、八重やえ山茶花さざんかの珍らしいほど大輪たいりん美事みごとな白い花が秋から冬にかけて咲きます。山茶花はすこしゆうにさびしすぎますが、白の大輪で八重なのが、ありしお姿をしのばせるかとも思います。

底本:「新編 近代美人伝(下)」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年12月16日第1刷発行
   1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「婦人画報」
   1915(大正4)年10月
初出:「婦人画報」
   1915(大正4)年10月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年4月10日作成
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