馬の尻尾しっぽ

「はて、いい天気だの」
 紙魚しみくいだらけの古帳面を、部屋いっぱいにとりちらしたなかで、乾割ひわれた、蠅のくそだらけの床柱に凭れ、ふところから手の先だけを出し、馬鹿長い顎の先をつまみながら、のんびりと空を見あげている。
 ぼろ畳の上に、もったいないような陽ざしがいっぱいにさしこみ、物干のおしめに陽炎かげろうがたっている。
 あすは雛の節句で、十軒店じっけんだな人形町にんぎょうちょうの雛市はさぞたいへんな人出だろうが、本郷弓町の、ここら、めくら長屋では節句だとて一向にかわりもない。
 露路奥の浪人ものは、縁へ出て、片襷かただすきで傘の下張りにせいを出し、となりの隠居は歯ぬけうたい。井戸端では、摺鉢のしじみッ貝をゆする音がざくざく。
「……どうやら、今日の昼食も蜆汁になりそうだの。……いくら蜆が春の季題でも、こう、たてつづけではふせぎがつかねえ……ひとつ、また叔父のところへ出かけて、小遣にありついてくべえか。……中洲なかすの四季庵にごぶさたしてから、もう、久しくなる」
 と、ぼやきながら、煙管きせるで煙草盆をひきよせ、五匁玉の粉ばかりになったのを雁首ですくいあげて、悠長に煙をふきはじめる。
 北番所の例繰方れいくりかたで、奉行の下にいて刑律や判例をしらべる役だが、ろくろく出勤もせず、番所から持ち出した例帳や捕物控などを読みちらしたり、うっそりと顎を撫でたりして日をくらしている。
 時々、金助町の叔父の邸へ出かけて行って、なんだかんだとおだてあげて小遣をせしめると、襟垢のついた羽二重の素袷で、柳橋の梅川や中洲の四季庵なんていう豪勢な料理茶屋へ、懐手をしたまま臆面もなくのっそりと入ってゆき、かくやの漬物で茶漬を喰い、小判一両なげ出してスタスタ帰ってくる。このへんは、なかなかふるっている。
 すくうほどの煙草もなくなったと見え、畳の上へ煙管を投げ出してつまらなそうな顔をしているところへ、
「おいでですか」
 と、声をかけながら、梯子段から首を出したのが、れいの神田の御用聞、ひょろりの松五郎。
「相変らず、つまらなそうな顔をしていますね。……くすぶってばかりいねえで、ちとお出かけなさいませ。身体の毒ですぜ」
 顎十郎は、気のなさそうな声で、
「すき好んで逼塞ひっそくしているわけじゃないが、先立つものは金でな、やむを得ず、苔を生している」
「そんなら、金助町へお出かけになりゃあいいのに」
「再々でな、その手もきかん。……どうだ、ひょろ松、近頃、叔父に売りつけるような変ったことはないか」
 ひょろ松は、かんがえていたが、すぐ膝をって、
「ありました、ありました。……でもね、惜しいことに、もう、すっかりかたがついてしまったんで。……ちょっと変った出来事だったんですが……」
「それは怪しからん。……おれに断りもなく、なぜ、かたをつけた」
「へへへ、こりゃどうも……。はなはちょいと入り組んだ事件だったんですが、なにしろ、下手人が出て、腹を切って死に、一切合財いっさいがっさい、結末がついてしまいました。……これじゃ、いかなあなたでも、どうしようもない……」
 ちょっと、言葉を切って、
「……あなたも、お聞きになったことがあるでしょう……ほら、馬の尻尾しっぽ……」
 顎十郎は、うなずいて、
「誰かしら、むやみに馬の尻尾を切って歩くという話か」
「へえ、そうなんで。……切りも切った、五十七匹。……手初めが、上野広小路の小笠原左京の廐で、『初雪』という御乗馬の尻尾を、根元からブッツリ。……一日おいて、その翌日には、山下門内の鍋島さまの廐。ここでは白馬だけえらんで四匹。……譜代大名の廐でやられなかったところは一つもないと言ってもいいくらい。……なにしろ、馬の尻尾てえやつは如露じょうろで水を撒いて芽を出させるというわけにはゆかない。江戸中のお屋敷じゃおお迷惑。……尻尾のない馬なんぞ曳出すわけにはゆかないから、この月初つきはな、日比谷ガ原で催すことになっていた馬揃調練うまぞろえちょうれんの御上覧も、それでお取止めになったというわけで……」
 顎十郎は、噴き出して、
「いや、どうも、おかしな盗人もあればあるものだ。……そりゃあ、いったい、どんなやつの仕業だったんだ」
西丸にしのまる御召馬預おめしうまあずかり配下、馬乗役で、五十俵三人扶持。……渡辺利右衛門というやつがやったことだったんで……」
「御召馬預役というのは、どんなことをする役目だ」
「……若年寄わかどしより支配で、御城内のお廐一切のことを司る役なんでございます。……御召馬の飼方、調方ととのえかた。……御用馬や諸侯に下さる馬、お馬御囲おかこい場の野馬の追込み。……そのほか、馬具一切の修繕をする。……この渡辺利右衛門というのは、二年前まで、三里塚の御馬囲場の野馬役で、不思議と馬を見ることが上手なので、お囲場からりぬかれて西丸へ呼上げられた。……なんでも、上総で名のある和学者のすえだそうで……」
「……和学と馬の尻尾。……これは、妙な取合せだな。……それで、どういう手ぐりで、そいつの仕業だということがわかった?」
「どうしても、こうしても、ありゃしません。追々、詮議がきびしくなると、もう、逃れられぬところと思ったんでしょう、辞世の和歌を一首残して腹を切ってしまったんです」
「ほほう、辞世とは振るっている。……どんな辞世だ」
「……ええと、……『草枕、旅寝の衣かはかつや、……夢にもつげむ、思ひおこせよ』というんで」
 顎十郎は、また笑って、
「お前に読まれると、馬内侍うまのないしが泣きだす。……その歌は、『続詞花しょくしか』に載っている。……梨壺の五歌仙といって、赤染衛門あかぞめえもん和泉式部いずみしきぶ紫式部むらさきしきぶ伊勢大輔いせのおおすけなんかと五人のうちに数えられる馬内侍という女の読んだ歌だが、すこしばかり文句がちがう。……馬内侍の歌は、『旅寝の衣かはかずば……』というんだ。……下凡の御用聞に読ませるとまったく滅茶をする。……『かはかつや』たあ、なんだ」
 ひょろ松は、口を尖らせて、
「下凡と言われたって腹も立ちませんが、たしかに、そう書いてあったんで。……論より証拠、ここに写しを持っています……」
 懐中からの捕物帳を出して、歌を写し取ったところを指しながら、
「……どうです、ちゃんと、『旅寝の衣、かはかつや』と書いてあるでしょう」
 顎十郎は、捕物帳を手に取って眺め、
「なるほど。……写し違いじゃないんだろうな」
「いくら下凡でも、てにをはぐらいは心得ていますよ」
 顎十郎は、口の中でいくども歌の文句を繰返してから、
「乾かず、というなら、『ず』で、決して『つ』じゃあない。……和学者の裔ともあろう者がこんなつまらぬ間違いをするはずはない。……だいいち、『や』じゃ歌になりはしない」
 腑に落ちぬ顔つきで考えこんでいたが、
「なあ、ひょろ松、この字違いもへんだが、それよりも、この歌そのものがすこぶる妙だ。……『草枕、旅寝の衣かはかつや、夢にもつげむ、思ひおこせよ』……てんで辞世なんてえ歌じゃない。……『夢にもつげむ』となると、一念凝ったというようなところがあるし、『思ひおこせよ』ときては、なにかを察してくれと言わんばかりだ……」
 いつにもなく腕を組んで、
「ひょろ松、これは、なにか、いわくがあるぞ」
「おや、そうでしょうか」
「それで、馬の尻尾のほうはどうなった」
「馬の尻尾、と申しますと」
「渡辺利右衛門という男が、なんのために馬の尻尾なぞ切って歩いたのか、その理由もはっきりわかったのか」
 ひょろ松は、首を振って、
「そのほうは、とうとうわからずじまい。……なにしろ、一人で嚥込のみこんで腹を切ってしまったんですから、どうにも手がつけられない」
 顎十郎は、キョロリとひょろ松の顔を見て、
「お前は、いま、この事件は落着したと言ったな」
「へえ、そう申しました」
「大ちがいの三助だ。落着したどころか、始まったばかりのところだ」
 ニヤリと笑って、
「それで、藤波は、この事件から手を引いたのか」
「……ですから、あなた、引くにもなにも……」
「そいつはいいぐあいだ。……こりゃ、一杯飲めるな」
「え?」
「これで、叔父貴からまた小遣にありつける」
「おや!」
「今日は、桃の節句。……花世の白酒を飲みがてら、ひとつ、叔父貴をあおりに行こう。……馬の尻尾で、白馬しろうまにありつくか」
 ひょろ松は、勇んで、
「阿古十郎さん。ほんとうに、ものになりますか」
「なるなる。……なるどころのだんじゃない、ひょっとすると、近来の大物だ」
「ありがた山の時鳥ほととぎす……。じゃ、お伴します」

   呉絽ごろ

 顎十郎が、ひょろ松と二人で従妹の花世の部屋へ入って行くと、花世は綺麗に飾りつけた雛壇の前で、呉服屋の番頭が持って来た呉絽服連ごろふくれんの帯地を選んでいたが、二人を見ると、美しい眼元をほほえませて、
「おや、お揃いで……。いま、じッきお相手してあげますから、ちッと待っていらッしゃい……もうじき、お琴さんも見えましょうから、そうしたら、みんなで一杯のみましょう」
 雛壇の瓶子へいしを指さし、
「あッちのほうには、そのつもりで、そっと辛いのを仕込んでおきましたのさ」
「ほッほ、いつもながら、よく気がつくの。……花世さん、おめえのお婿さんが、うらやましい」
「おやおや、あまり、まごつかせないでくださいまし、番頭さんが、おかしがっているじゃアありませんか」
 と言って、巻物のほうへ向き直り、
「……ねえ、長崎屋さん、畝織うねおりもいいが、そちらの平織ひらおりもおとなしくッていいねえ、ちょいと拝見な」
 番頭は、しきりに揉手をして、
「どちらかと申せば、この平織の方がずんとこうとでござります……もっとも、お値段のほうも、こちらのほうが、しょうしょうお高くなっておりますが、へい」
 呉絽は文政のころに支那から舶載され、天鵞絨びろうど、サヤチリメン綸子りんず鬼羅錦織きらきんおりなどとともに一時流行しかけた。天保十三年の水野忠邦の改革でおさえられ、自然と舶載もとまったが、昨年の秋ごろ、長崎屋という呉服屋が京橋に店をひらき、支那から仕入れた呉絽を一と手に売り出したので、金に糸目をつけぬおおどこの娘や芸者が競って買い求め、年増は小まん結びに、若向きは島原結びというのにするのがこのごろの流行はやり
 しかし、なにしろ、一巻五十両から、ちょっとましになると三百両、四百両というのだから、庶民階級にはとても手がとどかない。しゃっきりとして皺にならず、そのうえ、なんともいえぬ味があるので、呉絽でなければ帯でないようなありさま。仕入れる片っぱしから羽根が生えたように売れるから、長崎屋の利益は莫大。
 はじめは三間間口の、せいぜい担ぎ呉服程度だったのが、両隣りを二軒買いつぶして、またたく間に十二間間口の大店になってしまった。
 ひょろ松は、畳の上にいくつも敷きひろげられた呉絽の帯地を眺めながら、
「なんだか、スバスバして素ッ気のねえもんだが、流行というものはみょうなものだ……番頭さん、これは、ぜんてえなんで織るのだね」
「へえ、これは支那の河西かせいの名産でございまして、経糸たていとには羊の梳毛すきげをつかい、緯糸よこいとには駱駝らくだの毛を使って織りますんでごぜえまして、シャッキリさせるためには、女の髪の毛を梳き込むとかと聞いております。いずれ、口伝のようなものがあるのでございましょう……泉州堺の織場で、いちど真似て作りかけたことがございましたが、やはり、ものにならなんだそうでございます」
 顎十郎も、ひょろ松のわきから手を出して、帯地をひっぱり廻していたが、どうしたのか、ちと妙な顔つきになって、
「お番頭、それで、これはみな支那から直接に来たものなのか」
「へえ、さようでございます。……いま申した通り、日本ではまだ真似られませんのでございますから、舶来だけが、ねうちなんでございます」
「ちょっと見には、いや味だと思ったが、こうして手にとって見ると、やはり、珍重されるだけのものはある、しゃっきりしていい味わいだの。……おれも、ひとつ用いて見てえから、あッちにまだ変った柄があるなら、ちょいと見せてくれめえか」
 ※(「ころもへん+施のつくり」、第3水準1-91-72)のすり切れた一張羅のよごれ袷が、なにを考えたのか、とほうもないことを言い出す。
 番頭が気軽に、へい、へいと立ってゆくと、あっ気にとられたような顔をしている花世とひょろ松に、
「番頭をハカしたのはほかでもない、じつは、ちと妙なことがあるんだ」
 今まで自分がいじっていた帯地の端のほうを示しながら、
「……まともに見てはわからないが、こんなふうに、すこし斜にしててらして見ると、ここに小さな都鳥が一羽見えるだろう、それ、どうだ」
 花世は、帯地の端を持って、てらしてらしすかしていたが、驚いたような顔で、
「ほんに、これは、都鳥」
「ちょっと見には、経すくいの織疵のようにも見えるが、よく見ると、けっしてそうじゃない。……経緯を綾にして念を入れて織り出したものだ」
「そうですよ」
「……妙なこともあるもんだ。支那に都鳥がいるなんてことはきいたこともない。水鳥はいようが、こんな光琳こうりん風の図柄などを知っているはずがない」
 ひょろ松は、うなずいて、
「ほんに、そうです」
「どうも、こりゃア、日本人が織ったものとしか思われねえの。……ひょっとすると、長崎屋の呉絽にはなにかいわくがあるぜ……番頭が帰って来ない間に、三人で手分けして、みんなあらためて見ようじゃないか」
 花世は、きっぱりした顔つきになって、
「ようござんす。やって見ましょう」
 さすがに吟味方の娘だけあって、こんなことはのみこみが早い。束にして、ズルズルと縁先へ帯地を引きずってゆき、帯の両側を手早くたぐりかえしながら、あらためていたが、
「……どうも、こっちには見えませんよ」
 ひょろ松のほうにも見当らないので、
「こちらにも、ございませんね」
「……すると、あれ一本きりだったのか。……はて、いよいよもって奇異だの……なんのつもりで、骨を折ってあんなものを織り出したんだろう」
 そこへ番頭が帯地の巻物を抱えて帰ってきた。
 三人は三方から引っぱり合って、さり気なくあらためて見たが、今度のぶんにも、やっぱり都鳥の織出しは見つからない。
 花世は、またいずれといって、長崎屋の番頭をかえすと、気味悪そうに眉をひそめ、
「どんなわけがあるのでしょう……わたしア、なんだか、こわらしくなって来ましたよ」
 といっているところへ、小間使に案内されて、お琴が入って来た。
 春木町の豊田屋という大きな袋物屋の娘で、花世の踊の朋輩。京人形のような顔をした、あどけない娘で、顎十郎とはごくごくの言葉がたきである。
 すぐ、顎十郎のそばへ行って、
「オヤ、阿古十さん、こんにちは。……こないだは、よくもおきらいなすッたね。……ひとが、せっかく緋桜の枝を持って行ってあげたのに、木で鼻をくくったようなあいさつをしてさ。……きょうは、かたきをとッてあげるから、おぼえておいでなさいましよ」
 花世は瓶子と盃を雛壇からとりおろして来て、お琴の前におき、
「さア、しっかりおしな。……わたしがあとおしをしますよ」
 顎十郎は、腕を組んでなにか考えこんだまま返事もしない。
 お琴は瓶子と盃を持って立ち上ると、呉絽の帯をサヤサヤと鳴らして顎十郎のほうに行きながら、
「白酒で酔うようなおひとなら、たのもしいけれど……」
 花世は、気がついて、
「おや、お琴さん、いい帯が出来ましたね、長崎屋ですか」
「ハイ、そうですよ、……綾織のいいのがありましたから帯にとりました」
 といって、顎十郎に盃をさしつけ、
「さア、おあがり……かたきうちですよ」
 顎十郎は、顎をなでながら、ほほ、と笑って、
「お琴さん、俺を酔わすと口説くかもしれねえぜ」
「ハイ、口説くなり、どうなとしてくださいまし。……ここでなら、こわいことなんぞ、ありませんよ」
「本当に、口説いてもいいかの」
「さあ、どうぞ」
「じゃあ、その帯を解いてください」
 あどけなく、スラリと立って、帯をとき、
「はい、解きましたよ……あなたに、わちきが口説けますものか」
 顎十郎は、お琴の帯を手繰りよせてその端をてらして眺めていたが、とつぜん、
「おい、ひょろ松、……花世さん、ここにも、都鳥が!」
 と、いった。

   比久尼びくに

 次の日の朝、いつものように部屋借の二階で寝ころがっていると、階下の塀の外で、おいおい、と権柄けんぺいに呼ぶものがある。
 顎十郎が窓から首を出して見ると、叔父の庄兵衛が、赤銅しゃくどう色の禿頭から湯気を立てながら往来に突っ立っている。
 赭ら顔の三白眼で、お不動様と鬼瓦をこきまぜたような苦虫面。ガミガミいうためにこの世に生れて来たような老人だが、これで内実はひどく人がいい。お天気で、単純でおだてに乗りやすく、顎十郎づれに、いつもうまうましてやられて、そのたびにすくなからぬ小遣をせしめられる。
 叔父を叔父とも思わぬ横着千万な甥が忌々しくて癇にさわってならぬのだが、そのくせ、なんだか無茶苦茶に可愛い。
 どこかとぼけた、悠々迫らぬところがあって、なかなか見どころのあるようだと思っているんだが、例の強情我慢で、そんなこころはけぶりにも見せぬ。顔さえ見れば眼のかたきにして口やかましくがなりつける。
 ところで、顎十郎のほうはちゃんとそれを見抜いている。面は渋いが心は甘い、もちゃげてさえ置けばこちらの言いなりと、てんからなめてかかっている。
 窓框に頬杖をついて、夕顔なりの長大な顎を掌でささえ、ひとを小馬鹿にしたようなニヤニヤ笑いをしながら、
「いよウ、これは、ようこそ御入来ごじゅらい
 庄兵衛は、たちまち眼を三角にして、
「ようこそご入来とは緩怠至極。……これ貴様、このおれをなんだと心得ておる。やせても枯れても……」
「……北番所の与力筆頭、ですか。……いつも、きまり文句ですな。まあ、そうご立腹なさるな、あまり怒ると腹形はらなりが悪くなりますぜ。……しかし、なんですな、こうして、真上からあなたのおつむを拝見すると、なかなか奇観ですよ、真鍮の燈明皿にとうすみが一本載っかっているようですぜ」
 言いたい放題なことをぺらぺらまくし立てると、急にケロリとして、
「ときに、わざわざお運びになった御用件はなんです。……とても俺の手におえぬ事件が起きたから、どうか智慧を貸してくれと言われるんでしたら、切っても切れねえ叔父甥の間柄、いつでもお手助けいたしますよ」
 庄兵衛は、膝を掻きむしって立腹し、
「この大馬鹿ものッ!……言わして置けば野放図のほうずもない。……こ、この俺が貴様などの智慧を借りるようで、天下の吟味方がつとまると思うか、不埓ものめ」
 顎十郎は、のんびりと上から見おろしながら、
「ほほう、では、なにかほかに」
「今朝ほど、鎌倉河岸かまくらがしへ風変りな死体が浮き上ったというから、南組が出役せぬうちに、後学のために見せてやろうと思って、それで、こうしてわざわざ迎いに来てやったのだわ、有難く心得ろ。……これ、いつまでもそんなところに頬杖をついていずと、さっさと降りて来ぬか。この、大だわけ」
 内実はそうじゃない。
 最後までとうとう弱味を見せなかったが、この間の印籠の件では顎十郎がきわどいところで自分の窮境を救い、なにもかも自分の手柄にして、この叔父に花を持たせてくれたのだとさとった。
 不得要領な顔をしてニヤニヤ笑ってばかりいるが、あれだけのアヤを逸早く洞察し、あんな沈着な処置をとれる鋭い頭の持主は、見渡すところ自分の組下にはいない。これが血につながる自分の甥だと思うと、ぞくぞくうれしさがこみ上げてくる。
 うまく釣り出して、今度の水死人をモノにさせ、庄兵衛組と北奉行所の名をあげよう魂胆なのである。
 二人が鎌倉河岸につくと、南組のお先手はまだ来ていない。
 死体はまだ水の中に漬けたままにしてあって、二人が河岸っぷちに寄って行くと、非人がグイと水竿みさおで岸へ引寄せる。
 年ごろは二十二三。ひどく面やつれのした中高なかだかな顔で、額にも頬にも皺が寄り、胸は病気のせいか瘠せて薄くなり、腹はどの水死人にもあるように肥満してはいない。
 木蘭色もくらんじき直綴ころもを着ているが、紅い蹴出しなどをしていないところを見ると、ころび比丘尼ではなく、尼寺にいたものらしく思われる。岸に、踵のまくれ上った、玉子ねじの鼻緒のすがった比丘尼草履がきちんとぬいである。
 顎十郎は、うっそりと懐手をして突っ立ったまま草履を眺めていたが、それを手にとって素早く表裏へ眼を走らせると、無造作に地べたに投げ出す。
 ようやく南組の同心がやって来て、あっさりと検視をすませ、手控をとると庄兵衛に目礼して引取って行った。
 入りちがいに、ひょろ松がやって来た。
 庄兵衛は、せっかちに問いかけて、
「どうだった、身許がわかったか」
 ひょろ松は、汗を拭きながら、
「いえ、それが妙なんで、下ッ引を総出にして江戸中の尼寺はもちろん、御旅所おたびしょ弁天や表櫓おもてやぐらの比丘尼宿を洩れなく調べましたが、家出した者も駈落ちした者もおりません。……非人寄場よせば勧化かんげ比丘尼のほうも残らずさらいましたが、このほうにもいなくなったなんてえのは一人もねえんです。……ご承知のように、比丘尼の人別ははっきりしていて、府内には何百何十人と、ちゃんと人数がわかっているものなんですが、それに一人の不足もない。……いってえ、この比丘尼は、どこから来て、どういう筋合で身を投げたものか……」
 顎十郎は、二人のうしろに立って話を聴いていたが、だしぬけに口を挾み、
「なるほど比丘尼の人別にないわけだ。……叔父上、これは、お化けですぜ。見てみると、草履の裏に泥がついていないが、お化けなら、それくらいのことはやらかしましょう。……こういうのが冥土の好みなのかも知れねえ、いやはや、おっかねえね」
 と、例によって、わけのわからぬことをいう。
 庄兵衛はそしらぬ顔をして顎十郎がつぶやくのをきいていたが、急になにか思い当ったように、うしろに引きそっているひょろ松の耳に口をあててささやく。
 ひょろ松は、蚊とんぼのようにひょろ長い上身をかがめて一礼すると、きびすをかえして一ツ橋のほうへいっさんに駈け出して行った。
 顎十郎は、へへら笑いをし、
「……叔父上、どうしようてえのです。……いくら追いかけたって、相手がお化けじゃ追いつけるはずがねえ。無駄だからおよしなさい。……比丘尼の土左衛門なんざ、おかげがねえでさ。ほったらかして置くにかぎります」
 庄兵衛は、威丈高になって、
「えッ、うるさい! 貴様などになにがわかる。……貴様はよもや気がつかなかったろうが、あれは、死体にわざわざ衣を着せて堀の中に投込んだものだわ。その証拠に、すこしも水を飲んでおらん」
 顎十郎は、横手をうって、
「いよウ、えらい、さすがは吟味方筆頭、そこまでわかれば大したもんだ、と言いたいが、その位のことは子供でもわかる」
 庄兵衛は、道路の真ン中で地団太をふみ、
「これ、口がすぎる。……この俺にたいして、子供とはなんの言い草だ。……ぶ、ぶれいだぞ」
 顎十郎は、苦笑しながら、
「そんなところで足ぶみしていないで、まア、お歩きなさい、人が見て笑ってます」
 庄兵衛老、禿頭から湯気を立てていきり立ち、
「貴様のようなやつとは並んで歩かん、俺はひとりで行く」
「へへへ、じゃア、まア、前後になって歩きましょう、それだって話は出来る。……ときに、叔父上、それはそれとして、じゃア、死体はどうして運んで来たのでしょうな」
 庄兵衛は、ずんずん先に立って歩きながら、
「わかり切ったことを! つづらにでも入れて一ツ橋を渡って来たのだ」
 顎十郎は、懐手をしながら、ぶらぶらうしろからついて行く。
「でも、世の中には、船ッてえものもありやす」
「船なら、なにしにわざわざ鎌倉河岸へなど持ってくるか、たわけが! 沖へ持って行って捨てるわい」
「そこがね、お化けのちんみょうなところでさ。あの草履の裏には泥こそついていないが、そのかわり、魚のうろこがついていましたぜ。釣舟へのせて大川からここまで上って来たにちがいありません、そこにお気がつかれぬとは、吟味方筆頭もおかげがねえ」
「なに! 吟味方筆頭がどうしたと。……なにかゴヤゴヤもうしたな。もう一度はっきり言って見ろ。そのままに捨ておかんぞ」
「まあまあ」
「うるさい!」
「まあ、そう、ご立腹なさらずに、薬罐やかんが煮こぼれます」
「放っとけ、俺の薬罐だ。……貴様のようなやつと一緒には歩かん。おれは、ひとりで帰る」
 真赤にいきり立って、ドンドンと神保町じんぼうちょうの方へ歩いて行ってしまった。

   千鳥ちどりふち

 顎十郎は、駈け戻って来たひょろ松の顔を見て、
「おい、叔父はとうとう怒って行ってしまった。……じつは、ここにいられては都合が悪いでな、わざと怒らせて追ッ払った」
「でも、あまり怒らせてしまうと、せっかくの小遣の口がフイになりますぜ」
「それもあるが、どうせ、また叔父の手柄にするのだから、あまり俺が、見透したようじゃ工合が悪い」
「まったく、あなたのような方はめずらしい。……じゃ、なんですか、いまの比丘尼の件は、もう、見込みがついたんで……」
「ついた、ついた、大つきだ」
「はてね」
「少々、入組んでいるから、歩きながらじゃ、話もできまい」
「へい、心得ています。こんなこともあろうかと思って……」
 ポンと懐中を叩いて、
「軍用金はこの通り」
 顎十郎は、ニヤリと笑って、
「話が早くて、なによりだ」
『神田川』へ押上って鰻酒うなぎざけ鰻山葵うなぎわさびをあつらえ、
「じゃ、うかがいましょうか」
 顎十郎は、いつものトホンとした顔つきになって、
「……『馬の尻尾』に『呉絽帯に織出した都鳥』……それに、『比丘尼の身投げ』で三題噺さんだいばなしにならねえか」
「冗談……、からかっちゃ、いけません」
「からかうどころか、大真面目だ」
「へへえ」
「……お前、昨日きいていたろう。呉絽というのは経糸に羊の梳毛をつかい、緯糸に駱駝の毛をつかう。……支那の河西じゃあるめえし、江戸にゃ羊もいなけりゃ駱駝なんていうものもいない」
「でも、あれは支那から仕入れたんだと……」
「支那から仕入れた織物に、光琳風の都鳥などついているものか」
「へえ」
「支那から仕入れたと言って、そのじつ、日本のどこかで織り、支那渡りだと言って高く売りつける。……げんに、以前、泉州堺の織場でいちど真似てつくりかけたと口を辷らせたじゃねえか」
「へえ、そうでした」
「日本で織るとなると、いま言ったように、羊の毛もなけりゃ駱駝の毛もない。……すると、どういうことになる」
「どういう……」
「それ、そこで、馬の尻尾……」
 ひょろ松は、膝を拍って、
「いや、これは!」
「……それから、女の髪の毛……。そこで、毛のない比丘尼」
「冗談どころじゃない。なるほど、こりゃ三題噺、みごとにでかしました」
「でかしたのは俺の手柄じゃない。はなっから、ちゃんと筋が通っていたんだ」
 ひょろ松は、感にたえた面持で、
「阿古十郎さん、おだてるわけじゃありませんよ、決して、煽てるわけじゃありませんが、あなたは凄い」
「いや、それほどでもない、まだあとがあるんだ。ここまでは、ほんの序の口。……それはそうとあの都鳥を、お前、なんと見た」
「ですから、日本で織っているという証拠……」
「それは、今更いうまでもない。……日本も日本、あの呉絽を織ってるのは江戸の内なんだぜ」
「えッ」
「……都鳥に縁のあるところといえば、どこだ」
「……都鳥といえば、隅田川にきまったもんで」
「都鳥は、どういう類の鳥だ」
「……ひと口に、千鳥の類……」
「隅田川の近くで千鳥に縁のある地名といえば」
 ひょろ松は考えていたが、すぐ、
「……千鳥ガ淵……」
 顎十郎は、手を拍って、
「いや、ご名答。……俺のかんがえるところじゃ、隅田べり、千鳥ガ淵の近くで女どもが押しこめられ、髪の毛と馬の尻尾でひどい目に逢いながら呉絽を織らされている。……その中で、智慧のある女が、なんとかして救い出してもらいたいと、自分たちが押しこめられているところを教えるために、あんなものを帯の端に織出した」
「なるほど、そんなことでもありましょうか、こりゃ、いかにも大事おおごとだ。……でも、阿古十郎さん、あなた、あの都鳥を見ただけで、どうして、それだけのことを洞察みぬきました」
 顎十郎は、苦笑して、
「それは、いまわかったんだ」
「えッ、いま?」
「昨日、花世のところで都鳥を見たときは、千鳥ガ淵とまでは察しられなかった。……ところでな、いま、比丘尼の死骸を見たんで、なにもかも、いっぺんに綾が解けた」
「それは、また、どうして?」
「あれは身投げでもなんでもなくて、死骸をあそこまで運んで来て身投げに見せかけたということは、水を飲んでいないことでも、また、草履の裏に土がついていないことでもよくわかる。……土どころじゃねえ、よく調べて見ると、魚の鱗がついている。……こりゃ、大川のほうから舟に積んで鎌倉河岸まで持って来たんだということがわかる。……隅田川で、都鳥で、……そこで、千鳥ガ淵よ」
「でも、千鳥ガ淵で、女たちが呉絽を織らされているだろうというのは?」
「お前、比丘尼の手を見たか」
「手がどうかなっていましたか」
「手に筬胼胝おさだこができている。……比丘尼の手なら撞木擦しゅもくずれか数珠じゅず擦れ、筬胼胝というのはおかしかろう。……どうだ、わかったか」
「わかりました。……つまり、誘拐かどわかされた上、自分の髪で呉絽を織らされる……」
「まず、そのへんのところだ。……娘の服装なりで青坊主では足がつくから、尼に見せかけようというので、あんな木蘭色の衣を着せて投げ込んだ。……よほど狼狽てたと見えて衣が左前……」
「いや、これは驚きました」
「大川端の千鳥ガ淵へ行って、あの辺を捜せば、きっと、女どもが呉絽を織らされている家が見つかる。……言うまでもなく、こりゃ長崎屋の仕業なんだが……」
 ひょろ松は、腰を浮かして、
「そんなら、千鳥ガ淵なんかを調べるより、長崎屋を引挙げるほうが早道です」
 顎十郎は、へへ、と笑って、
「長崎屋は、もういない」
「えッ」
「さっき、通りがかりにチラと見たが、すっかり大戸をおろしていた。……素性を洗えば相当な大ものだったんだろうが、惜しいことをしたな」
 ひょろ松は、がッかりして、
「もう、逃げましたか」
「なにを言っている、つまらねえ御用聞だ。素人の俺に逃げましたかと聞くやつはねえ」
 ちょうど、そこへ出来てきた誂え物を押しやって、ひょろ松は、そそくさと立ち上り、
「じゃ、これからすぐ行って、千鳥ガ淵のあたりを……」
 顎十郎は、手で押えて、
「まあ、慌てるな、もう一つ、話がある」
「へい」
「……れいの馬内侍の辞世だが、あれには俺もかんがえた。……いや、どうも、だいぶ頭をひねったよ。……ひょろ松、あの辞世には、やはりわけがあったんだ」
「おお、それは、どういう……」
「馬の尻尾を切ったぐらいで、腹を切るにはおよばねえ。裏には、なにか深い仔細があるのだと睨んだ。……その仔細までは、俺にはわからねえが、あの辞世で、なにを覚らせたがったか、すぐわかった。……夢にもつげむ、思ひおこせよ。……歌のこころは、こうだ。……なにか大事なものを隠した衣類が、どこかに置いてある、それを捜し出してくれという謎だ」
「なるほど」
「……渡辺の家は神田の小川町おがわまち。……衣類のある場所は『かはかつや』……。たぶん、質屋か古着屋ででもあるのだろう。『かはかつや』は川勝屋とでも書くのだろうか」
 ひょろ松は、頓狂な声を出して、
「あります、あります、小川町一丁目の川勝屋といったら、大老舗おおしにせの質屋です」
「それだ。……そこへ行って、渡辺が質に入れた着物をしらべて見ると、なぜ馬の尻尾で腹を切ったか、くわしくわかるにちがいない」

 その夜、庄兵衛とひょろ松が、尼寺のその巣を突きとめ、踏みこんで見ると、どこからかはたを織る筬の音と低い機織唄がきこえて来る。
 尼寺の床下が、広い機織場になっていて、牢造りになった暗い穴蔵で、三十人ばかりの青坊主の女が、馬の落毛のより糸を経糸にし、自分らの髪の毛を梳きこんで呉絽を織らされていた。これらはみな長崎屋市兵衛とその一味が近在の機織女を誘拐して来たものだった。
 渡辺利右衛門のほうには、気の毒な話があった。
 ひょろ松が、顎十郎に教えられた通り、神田小川町の川勝屋へ行って、利右衛門が質入れした着物の衿をしらべて見ると、そこから細々としたためた本当の遺書が出てきた。
 事情は、こうだった。
 利右衛門が、まだ上総の御馬囲場でつまらぬ野馬役をしているとき、長崎屋市兵衛に五十両という金を借り、その抵当かたに妹のお小夜を長崎屋へ小間使につかわした。
 なにをするのか知らないが、馬の落毛を集めてくれというので、言われた通り、月に三度ずつ長崎屋へ送っていたが、その後、江戸へ出て来て何気なにげなく探って見たところ、近在から誘拐した女たちに馬の落毛で呉絽を織らせているということがわかった。
 しかし、なんと言っても、いちどは恩になった長崎屋、みすみす自分の妹までが青坊主にされて尼寺の下で呉絽を織らされていることがわかっても、どうすることも出来ない。
 表立って訴人することは心が許さぬので、思い立って、馬の尻尾を切って歩き、江戸中に騒ぎを起させ、お上の手で千鳥ガ淵の織場を捜し出させたいとねがったが、奉行所より先に長崎屋の一味にその魂胆を見抜かれ、出るにも入るにも見張りがつき、その上、密訴でもしたら妹のお小夜の命を奪ってしまうと脅迫され、せっぱ詰まって、命に代えて妹だけを助ける気になり、手紙を衿に縫いこめて、安全な川勝屋に質に入れ、謎の辞世を残して腹を切ってしまったのだった。
 長崎屋は、金助町で、顎十郎たち三人の素振に気がつき、隣で立聴きして露見が近づいたことを覚り、邸を出ると飛んで帰って一味を逃がし、利右衛門への仕返しにお小夜を殺して鎌倉河岸へ投げこんだのだった。
 女どもの話で、あの優雅な『都鳥』で、自分たちの悲しい織場の所在を知らせようとした智慧のある娘は、利右衛門の妹のお小夜だったということがわかった。

底本:「久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1-13-24]」三一書房
   1970(昭和45)年3月31日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月11日作成
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