客の名札なふだ

 勝色定紋かちいろじょうもんつきの羽二重の小袖に、茶棒縞の仙台平せんだいひらの袴を折目高につけ、金無垢の縁頭ふちがしらに秋草を毛彫りした見事な脇差を手挾たばさんでいる。どう安くふんでも、大身の家老かお側役といったところ。
 五十五六の篤実な顔立ち。なにか心配ごとがあると見えて白い鬢のあたりをそそけさせ、いやな色に顔を沈ませている。重厚に、膝に手をおいて、
「実は……」
 と、口をきると、深く面をうつむけ、
「なんとも、たいへん非常なことで、なにから申しあげてよろしいやら……」
 肩で大息をつきながら、また、がっくりと首をたれてしまう。なんともどうも、はかばかしくない。むきあって坐っているのが、北町奉行所のけちな帳面繰り。例の、顎十郎こと、仙波阿古十郎。
 一枚看板の黒羽二重の古袷の裾前から、ニュッと膝小僧をのぞかせ、長生ながなり冬瓜とうがんのようなボッテリとした馬鹿べらぼうな大きな顎のさきを撫でながら、ははあ、とかなんとか、のんびりと合槌をうっている。
 気の長いことにかけたら、誰にもひけはとらない。まして、顎十郎を動じさせるものなどは、なにひとつこの世に存在しない。相手の溜息も沈んだ顔色も、てんで目に入らないように、天井を眺めながら、茫々乎ぼうぼうことしてひかえている。相手がきりだすまで、十年でも二十年でもゆっくり待つ気と見える。
 客は、沈思逡巡ちんししゅんじゅん、思いきり悪くしぶっていたが、いよいよ、のっぴきならなくなったのか、あらためて慇懃に一礼すると、
「今日、突然に推参いたしましたのは、実は折入ってお願い申しあげたい儀がございまして……」
 顎十郎は、ほほう、と曖昧な音響を発してから、
「それは、いったい、どのようなことで……。と言ったって、別にお急かせ申すわけではありません。次第によっては、明日、明後日。……あるいは、ことしの大晦日の夕方まででもおつきあいいたしますが、なにしろ手前は奉行所の例繰方。古い判例をひっくり返すよりほか、いっこうに能のない男。おまけに剣術のほうはからっきしいけませんから、仇討ちの助太刀なんぞは、とてもつとまらない」
「いや、さような次第では……」
 顎十郎は、ひとり合点して、
「おお、そうですか。すると、つまり、あなたにお娘御が大勢あって、どうにもやり場に困るから、こんな大べらぼうな奴だが、ひとりくれてやろうなんてえおつもりなのだと思いますが、なにしろ、ひとりの口だけでもかッつかッつ。頂戴しても食べさせることが出来ません。思召しは千万かたじけのうございますが、平に御辞退……」
 客は、へどもどして、
「いや、いや、決してそういう次第ではございません。つづめて申そうなら、主家の浮沈にもかかわる一大事……」
 顎十郎は頭をかかえて、
「そりゃア大変だ。そんな大事では、とても手前などの手にはあいかねましょう。なにしろ……」
 と、またぺらぺらと来そうなので、客はあわてて、しばらくしばらくと喰いとめ、
「それでは御謙遜にすぎましょう。……このほどの丹頂のお鶴の件、また堺屋の騒動。隠微夢中いんびむちゅうのなかから真相を摘抉てきけつして、さながら掌のなかをさすごとき明察御理解。……実は、そのお力によって主家一期の危難をおすくいねがいたいと存じ……」
 というと、田舎くさく真四角になり、
「手前姓名の儀は、さきほど名札をもって申しあげました通り、岩田平兵衛……。関東のさる藩の禄をはむものでございますが、……卒爾ながら、手前主人の名の儀は……」
「ははあ」
「なにとぞ、御容赦くださるよう」
 きっと顔をあげ、必死な目つきで、
「お聞きすみ願われましょうか」
 顎十郎は、あっさりとうなずいて、
「いや、いかにも承知しました。……そういうことなら、関東とさえおっしゃることはいりませんでした。なあにおっしゃられなくともわかっています。……うかがうところどうやら下総しもおさなまり。それに名札の紙が、古河こがで出来る粘土ねんどのはいった間似合紙まにあいがみということになると、あらためて武鑑をひっくりかえすまでのことはない。……下総の古河で実高十二万五千石。かり伺候しこう……」
 はッ、と見ぐるしいほどに顔色を変えるのに目もくれず、
「いわずと知れた、土井大炊頭どいおおいのかみさまの御家中、なんてことはどうでもいい。いかにも御主家の名はうけたまわりますまい。おっしゃってくださらなくても結構。……それはともかく、下総の古河といえば、江戸の東のかため、そこのお国家老くにがろうということになれば、なにかと御用多なこッてしょう。いや、お察しいたします」
 客はむやみに手をふって、
「滅相もない。手前は決して……」
「などとあわてられることはない。間違いなら、間違いでもよろしい。ただいまも申しあげましたように、そのへんのことはちゃあんと図星ずぼし。いや、ちゃんと呑みこんでおります。あなたが土井さまのお家老だなんてことは、手前はなにも知らない。いわんや、岩田というのは偽名で、実は石口十兵衛といわれるなんてことも、まるっきり知っちゃあいない」
「お、どうして、それを!」

   すさきの浜

 顎十郎は、エヘラエヘラ笑って、
「どうしてとは、水くさい。それに、しょうしょう往生ぎわが悪いですな。ここまできわめをつけられると、たいていの人間なら兜をぬぐにきまっているんだが、どうでもシラを切ろうというところには感服いたしました」
 長い顎をツン出して、冷かすように相手の顔を見る。とぼけた面相のせいか、どことなくおかし味があって、こんな毒のあることを言っても、いっこう憎体にくていにならないのが不思議。うつむいて、石仏のように黙念としているのを、しり目にかけながら、
「キザなことを言うようですが、このへんはまだほんの前芸まえげい。どうしてもシラを切られるなら、いよいよ本芸ほんげいにとりかかる。……あなたが屋敷を出られて、ここへ来られるまで、いったい、どんなことをなさったか、いわゆる、たなごころをさすように解きあかしてお目にかけましょう」
 オホンと乙な咳ばらいをして、
「あなたが芝田村町の上屋敷かみやしきを出られたのが、けさの五つ半。屋敷の乗物には乗らず、すぐ二丁目の辻にあんぽつの辻駕籠があるのにそれもさけ、わざわざ流しの汚ない四つ手が通るのを待って、それに乗っていったん日本橋まで行き、本石町ほんこくちょうの土佐屋で鰹節かつおぶしの切手を買い、それからこの本郷真砂町までやって来た。……なぜそんな手間のかかることをなすったかと言えば、屋敷のものに自分の行くさきを知られたくないから、もうひとつは、手前に屋敷のありかをさとらせまいため……」
「………」
「なにもそんなに、びっくりしたような顔を、なさらなくてもよろしい。種をあかせばわけのないことなんです。……拝見いたしますところ、あなたのお羽織の背中に、俗にアンダ皺という、背もたせのぶっちがい竹の跡がついている。お屋敷の乗物ならいうまでもない。町駕籠にも、しょうしょうましなあんぽつのほうならば、背がかりに小蒲団をかけてあるから、羽織に竹の跡などがつくわけがない。……また土佐屋の切手にしろ、ただそれを買うだけのためなら、なにもわざわざ日本橋までおいでになるこたアない。土佐屋は田村町にもあれば、この本郷にもたくさんあります。つまり、自分の行くさきと屋敷のある方角をくらますのが、その目的」
「………」
「さて、真砂町一丁目までくると、更科さらしなの前で駕籠をかえし、二階へあがってすずりと筆をかり、名札にちょっと細工をした」
「………」
「石口十兵衛とあるところへ、山と十とちょんを書きたして、岩田平兵衛となおした。……ここらがあなたの有難いところ。名札紙なふだがみを買わせて、新しく書けばいいものを、たとえ紙一枚でも無駄になさらぬ節倹なお心がけ。一国をあずかる御家老とは、実にかくありたいもの。いや、冷かしてるんじゃありません。ほんとうの話。……ところが、どうして更科というかというと、失礼ながらあなたのお顎に、お蕎麦そばのくずが……」
 あわてて顎を撫でるので、さすがの顎十郎、たまりかねてヘラヘラと笑いだし、
「ついているとは申しておりません。もっと確かな証拠は、あなたの襟にさした爪楊子つまようじ。そのひらに、真砂町更科と刷ってある。いけませんね、これじゃアわざわざ日本橋を大まわりして来たかいがない。いわばまるであけすけ。いくら突っぱってもこう尻ぬけじゃなんにもならない」
 石口十兵衛は、膝に拳をおいて、凝りかたまったようになっていたが、突然、畳の上に両手をすべらすと頭をさげ、
「御眼力、……御明察。かくほどまでとは、思いもかけませんことで……なんともはや……」
 顎十郎は、またとぼけた顔つきになって、
「いや、そうまでおっしゃることはいりません。あなたのように細心緻密な方が、ひとにものをたのむときは、どういう礼をとらねばならぬかご存じないわけはない。それを知りつつ、主家の名前だけは、骨が舎利しゃりになっても口外しまいという忠義一徹。なりもふりもかまわず、礼儀も捨てて押しとおそうとなさるお心ざしには、まことに感服いたしました。手前といたしましては、あなたのひし隠しにしていらっしゃることを知りながら、洒落や冗談でつつきだしたわけじゃない。……そうまで覚悟をきめて主家の名をひし隠しにしようとなさるからは、こりゃあよくよくの大変。たぶん十二万五千石がフイになるかどうかというきわどい瀬戸ぎわなんだと思います。……お先くぐりをするようですが、つまり、私にその難場なんばをなんとかしてくれといわれる」
「はい、いかにもその通り」
「して見りゃア、どうせそこへふれなきゃ筋がとおらない話。と、そう思いましたから、手っとり早く行くように、私のほうから切りだして見たまでのこと。……私はお目付でもなければ、老中でもない。……入りくんだ内幕うちまくを聞いたって、ひとに洩らす気づかいはない。また、それほどの酔狂でもありません。あなたの朴訥ぼくとつさに惚れましたから、どんなことか知りませんが、私のおよぶことなら、根かぎりお力ぞえいたしますから、どうか、肩のしこりをとって、ありったけのことをすっかりぶちまけてください」
 このそっけない男が、いったいどうしたというのか、きょうに限って、いやに親身なことをいう。ふだんを知っているひとが聞いたら、さぞおかしかろう。石口十兵衛は、まっとうに受け、この日ごろの労苦のせいか、ひどく落ちくぼんだ老いの目に、にわかに涙をみなぎらせながら、
「これが始めての御面識。唐突に推参いたしましたのみならず、重ねがさねの御無礼。年がいもなく、さまざまと狼狽うろたえたさまをお目にかけましたにもかかわらず、お笑いもなく、お咎めもなく、およぶかぎり御加勢くださるとのお言葉、ありがたいとも、かたじけないとも、申そうにも早や……」
 あとは涙声になって、そのままさしうつむく。さすがに大藩の家老たるだけあって、はた目にもそれと察しられる見識、器量。それが、あさましいまでに取りみだし、露地奥の貧乏長屋の古畳の上に両手をついて、肩をふるわせながらむせび泣いているさまは、いかにも哀れぶかい。
 石口十兵衛は、やがて顔をあげ、
「仔細は次の通り。……先君、利与としよしさまにはただひとりの御嫡子があって、源次郎さまと申しあげますが、御三歳の春、利与さまがみまかられましたので、直ちに相続を願いいで、翌年春、喪があけますと同時に、相続祈願のため、さきの家老相馬志津之助そうましづのすけ伝役もりやく桑原萩之進くわばらはぎのしん、医者菊川露斎きくかわろさいの三人がつきそい、矢田北口やたきたぐちというところにある産土うぶすなさまへ御参詣になりましたが、お神楽の太鼓におおどろきになったものか、かえりの駕籠の中で二度三度と失気しっきなされるので、やむなく途中の百姓家に駕籠をとめ、離れ家におともない申し、いろいろご介抱もうしあげましたところ、ようやくのことで御正気。軽い驚風きょうふうということで、その後はつつがなく御成育になり、元服と同時に、相違なく家督相続さしゆるされるむね、お達しがあり、家中一同恐悦に存じておりました。その後、家老相馬志津之助と医者露斎があいついで死亡いたし、よって不肖ふしょうわたくしが家老の職につき、御養育に専念いたしておりましたところ、この春ごろから慮外りょがいな風説を耳にいたすようになりました」
「ほほう、それは」
「……と申しますのは、御嫡子源次郎さまは二年前の春、産土さまの帰途、百姓家の離れで、失気したままご死亡になり、古河十二万五千石の廃絶をおそれるまま、先の家老志津之助が、伝役もりやく萩之進らとかたらって、たまたま通りあわした野伏乞食のぶせりこつじきの子が源次郎さまに生写いきうつしなのをさいわい、金をあたえて買いとり、偽の主君をつくりあげ、なにくわぬ顔で帰城したのだという取沙汰とりざた。……もとより根もない風説ではございますが、捨ておきかねることにてございますによって、さまざま手をつくして噂の出所をとりしらべましたところ、矢田の百姓で仁左衛門にざえもんと申すものの口から出たということ。……ところで、この仁左衛門も、先年すでに死亡いたしたという埓もない話」
「なるほど」
「ところが、先君利与さまの外戚がいせき御内室ごないしつの甥御にあたられる北条数馬ほうじょうかずまどの、源次郎さまを廃して、おのれが十二万五千石の家督をとりたき下ごころがあり、伯父上土井美濃守どいみののかみと結托して、御老中などへの運動もさまざまなさるおもむきでありましたが、この噂をえたりかしこしと、もってのほかのおとりつめよう。萩之進を窮命きゅうめいどうように押しこめて詮議せんぎをなさいましたが、もとより根もないことでございますから、陳弁ちんべんいたしようもない。手ごわいと見てとってか、今度は、高野山から雪曽せつそという人相見の法印ほういんを呼びよせ、端午の節句の当日、家中列座のなかで、源次郎さまの相は野伏乞食の相であると憚りもなくのべさせるという乱暴。このまま捨ておいては、ゆくすえ源次郎さまの御一命にもかかわるような事態になるやに存じたものか、今からふた廻りほど前の夜、萩之進は御寝所に忍び入って、源次郎さまを盗みだし、そのまま逐電してしまいました」
「そりゃあ、どうも乱暴ですなア。どういうせっぱつまった事情になっていたか知れないが、そんなことをしたら、源次郎さまとやらア野伏乞食の子だということを証拠だてるようなもので、のっぴきならぬ羽目になりましょう」
 石口十兵衛は、実直にうなずいて、
「いかにもその通り、手前の心痛もひとえにその点にかかわりますので、なんとかして一日も早く探しだしたいと存じ、なにか手がかりでもと、萩之進の屋敷にまいりまして、文庫、手筥などを探しましたところ、江戸洲崎へ行くという意味の書きおきがござりましたので、間をおかず出府しゅっぷいたしまして、とるものもとりあえず深川へまいり、洲崎一帯を手をつくして探しましたが、いっこうそれらしい手がかりもなく、すでに今日で十二日、むなしくかかとをへらして駈けまわるばかり。いまだになんの吉左右もございません。ところがいっぽう、数馬どののほうも、どこから洩れきいたか、萩之進が江戸へ落ちたということを探りだし、江戸一といわれる南町奉行所の控同心、藤波友衛に意を通じてしきりにこれも行方をさがさせているという噂。……御承知のとおり藤波というのはいかにも辛辣果敢しんらつかかんな人物。手前のほうは老人のよぼけ足でとぼとぼと探しまわっているのに、むこうは二百三百という下っ引を追いまわし網の目をくように洗い立てております。これでは、とうてい勝負にはなりませぬ話。せっぱつまったその末、失礼もかえりみず突然、推参いたしたような次第、なにとぞ御諒察」
 といって、息をつき、
「万一こちらが後手ごてになりますれば、源次郎さまの御一命にもかかわる場合、いわんやさまざまに作りごとされ、風評どおり源次郎さまが野伏乞食の児であったなどということになりましたら、いつわりの相続ねがいをさしあげたというかどにより、軽くて半地はんち、重ければ源頼光みなもとのよりみつ以来の名家古河十二万五千石も嫡子ないゆえをもって、そのまま廃絶というきわどい場合、なにとぞ手前の辛苦をあわれと思召され、一日も早く源次郎さまの在所ありかをば……」
 顎十郎はさすがに驚いたような顔つきで、石口十兵衛の顔を見かえしながら、
「なるほど、こりゃアえらいことになっている。あなたが骨が舎利しゃりになっても御主家の名を口外しまいと、突っぱったのも無理はない。源次郎とやらが乞食の児であったかないか、その真実はともかくとして、こんなことが老中にでも知れたら、古河の家領かりょうはどっちみち無事じゃアすみません。こいつはどうも、驚いた」
 と、顎を撫でなで舌を巻いていたが、なにを思いだしたか頓狂な声で、
「それはそうと、ちょっとおうかがいしたいことがあります。そのお伝役の萩之進とやらが残して行ったという書きおきの文句は、いったいどんなことだったのです」
「はい、それが、埓もないと申せば埓もない。ただ五文字、『すさきの浜』とだけ書いてあったのでございます」
 顎十郎は、へへえといって嚥みこめぬような顔をしていたが、どうしたというのかにわかに喜色満面のていで、つづけさまに古袷の膝をたたきながら、
「わかった、わかった、なんのわけはない、そんなことなら、もうこっちのもんだ。いかに藤波が眼はしがきいたって、こういう故事こじは知るまいから、とてもそこまでは探索はとどくまい」
 と、奇声を発してから、
「石口さん、はばったい口をきくようだが、源次郎さんの行方はもうこの阿古十郎が見とおしましたから、大舟に乗った気で屋敷へかえって骨やすめをしながら待っていてください。おそくとも明日の昼ごろまでには、しょっぴいて、いやさおつれ申して帰りますから」
 といって、またひとりでえへらえへら笑いながら、
「念のために申しあげておきますがね、江戸の洲崎は洲崎の浜などとは言わないんです。昔からただの洲崎、江戸の風土記ふどきには浜などと名のつくところはそうざらにはないんです。なんと、ご存じでしたろうか」

   首実験くびじっけん

 浅草田圃あさくさたんぼに夕陽が照り、鳥越とりこえの土手のむこうにならんだ蒲鉾かまぼこ小屋のあたりで、わいわいいうひと声。
 見ると、小高いところに立って、ああでもない、こうでもない、といって指図しているのが例の権柄面けんぺいづらの藤波友衛とせんぶりの千太。
 いかに非人ひにん寄場よせばといいながら、よくもまあこうまで集めたと思われるほど、五つから七つぐらいまでの乞食の子供をかずにしておよそ五十人ばかり。こいつを一列にずらりとならべて松王丸まつおうまるもどきに片っぱしから首実験をして行く。鼻たらしや、疥癬しつ頭、指をくわえてぼんやり見あげていたのを、せんぶりの千太が顎の下へ手をかけて、まじまじと覗きこむ。『菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ』の三段目じゃないが、いずれを見ても山家育やまがそだち、どうにもとり立てていうほどの面相はない。
 せんぶりの千太は、すっかり厭気いやけがさしたと見えて、
「仏の顔も日に三度じゃない。乞食の面ばかりこれでものの三日、朝から晩まで見つくしてどうやら気が変になりました。ひどいもんですねえ、家へ帰りますと、せがれの面まで白痴こけ面に見えてうす汚なくてたまらない。いったいいつまでそんなことをやらかそうというんです。お願いできるなら、あっしゃもうこのへんで……」
 藤波は三白眼をキュッと吊るしあげ、
「このへんでどうしたと。……言葉おしみをしねえで、はっきり言って見たらどうだ」
 毎度のことだが、今日はまたいつもよりよっぽど風むきが悪い。噛みつくような口調で、
「つまり、よしてえというんだろう。厭になったというんだろう」
「えへへ、そういうわけでもないんですが……」
「家老の石口十兵衛のほうじゃ、顎十郎のところへ駈けこんだことがわかってる。古河の十二万五千石がどうなろうと、俺にゃ痛くもかゆくもねえが、こんなふうに鍔ぜりあいになった以上、どうして後へひけるものか。寄場はおろか、橋の下、お堂の下をはいくぐっても、その小童こわっぱをさがしだし、あいつに鼻をあかしてやらなけりゃアおさまらねえのだ」
「へい、ごもっとも」
 藤波は険悪にキッと唇のはしを引きしめ、
「ごもっとも。なにがごもっとも。……なア千太、あの顎化けが、けさ俺のところへ送りつけてよこした手紙を、貴様も読まなかったわけじゃなかろう。……あなたのなさっていることは、まるっきりの見当ちがい、いかにもお気の毒に存ずるから、ちょっと御注意もうしあげる。……なにをいやあがる。あしらっておきゃあ好い気になりゃあがって、自分天狗の増上慢ぞうじょうまん。放っておいたら、どこまでつけあがるか知れやしねえ、こんどこそはギュッという目にあわせて、申しわけがございませんの百辺も言わしてやるつもりなんだ。俺にしちゃ大事な瀬戸ぎわ、汚ねえの候なんぞと言っちゃいられねえ。厭なら俺ひとりでやるから、お前はもう帰ってくれ」
 千太は手で泳ぎだして、
「じょ、じょ、じょうだんじゃねえ。ここで追っぱらわれたんじゃ、今までの苦心も水のあわ、あっしの立つ瀬がねえ。あの顎化けを見かえしてやると言うなア、あっしにしたって長いあいだの念願。いままでやらしておいて、帰れはねえでしょう。旦那、そりゃあ殺生せっしょうですよ。なるほど愚痴は言いましたろう、が、いわばそいつはあいの手。ちっとぐらいぼやいたって、なにもそうむきになって、お怒りなさらなくとも」
 藤波はせせら笑って、
「泣くな泣くな、乞食の餓鬼が貴様のつらを見て笑ってる。そういう気なら、無理に帰れたあ言わねえ。もうわずか、あと三十人ばかり、ひとつ精を出してやっつけようじゃないか」
「へえ、ようござんす」
 千太はいまいましそうに舌打ちをしながら、乞食の子のほうへ寄って行き、似顔絵とてらしあわせながら、ためつすがめつまた首実験をはじめる。藤波のほうも、高見になったところに棒立ちになって、これも油断なく、非人の子のそぶりを凄い目つきでめつけている。
 そこへ、土手のむこうから、
「おウ、藤波さん」
 という声。
 振りかえって見ると、のっそりと堤のむこうから出て来たのが顎十郎。しゃくるような薄笑いをしながら、二人のほうへ近づいて来て、
「ほほう、やってますな。さすがお顔がひろいだけあって、だいぶさまざまなのをお集めですな。枯木も山の賑わいじゃあないが、非人の餓鬼もこれだけ集まると、ちょっと見ばえがする。なかんずく、右手から二番目にいるのなんざあ、あなたと生写し。いわゆる御落胤ごらくいんとでもいったようなものなんですかな。ほれほれ御覧なさい。血統ちすじは争われないもので、三白眼でこっちを睨んでいます」
 と、ぬけぬけとひとを小馬鹿にしたことを言っておいて、
「それはそうと、今朝ほどお手紙をさしあげましたが、まだ御落手ごらくしゅにはなりませんでしたか」
 藤波は、苦りきった顔で、
「おう、誰かぼやぼや言っていると思ったら、仙波さんですか。お手紙はいかにも拝見しましたが、なにやらいっこう通じない文意で、途方とほうにくれたこってした。お手紙の趣きでは、なにか私がたいへんな見当ちがいをしているとのことでしたが、間違いだろうとどうだろうと、あまり人のことに口を出さないほうが、おたがいにやりいいと思うんですがねえ。あなたのお節介は今にはじまったこっちゃねえが、親切も度がすぎると、礼にはずれる。つつしんだほうがいいでしょう」
 顎十郎は、意にもかいさない様子で、
「そのお腹立ちは存じておりますが、今度ばかりは、どうでも、御忠告せねばならぬような羽目で、いやがられるとは知りながら、あんなお手紙をさしあげたんでしたが、この様子を見ると、やはり私の忠告をおもちいにならなかったと見える。案外あなたもさっぱりなさらん方ですな」
「さっぱりしないのは生れつきで、いまさらどうにもしようがない。根がしつっこい男なんです」
「そりゃアよく知っていますが、しかし、いつまでこんなことを言っていたってしょうがない。……実のところ、こんどの件には、いろいろあなたのご存じないことがあるんです」
「それは、いったい、どんなことです」
 顎十郎はうなずいて、
「さよう、それをお話しするとわかっていただけると思うんだが、どうにも申しあげるわけにはゆかない」
 藤波はいらだって、
「ねえ、仙波さん、決着けっちゃくのところ、私にどうしろというんです。うるさいいざこざはぬきにして、あっさりそこだけを伺おうじゃないか」
 顎十郎は、トホンとした顔つきで藤波を見かえしながら、
「ザックバランにいうと、この事件から手をひいていただきたいんです」
 藤波は千太のほうへ振りかえって、
「千太、聞いたか。先生が奇抜なことをおっしゃっていられる。……お前らのでる幕じゃないから、引っこみをつけろというんだが、いったいどうしたもんだろうな」
 千太はせせら笑って、
「えへへ、ご冗談、箱根山からこっちにア化物あ出ないという。引っこみをつけるなア、こっちのこっちゃあねえ、そこに突っ立ってる顎化けのほう……」
 顎化け……と、しまいまでは言いおわらなかった。咄嗟に、顎十郎の右手が動いて、チャリンと鍔鳴りがしたと思うと、
「エイッ」
 鞭をふるほどに、空気が動いて、また鍔鳴りの音。それでおしまい。ふたりの眼には、顎十郎の右手が、チラと動いたのが見えたばかり。そのほかには、いっこう、なんの変てつもない。
 藤波も千太も、顎十郎の凄い手練は、じゅうぶん知っている。
 いつか氷川さまの境内で、ドキッとするような目にあっている。が、いっぽう、大した落着きかたで、めったにひとを斬るほど血気にはやらないことも知っている。また例のおどしだと思ったものだから、負けん気の千太、ふふんと鼻で笑って、なにをしゃらくせえ、と言うつもりなのが、ただ、
「ウワ、ウワ」
 としか言えない。と見ているうちに、唇のはしから、紅い棒でもたらしたように、血が顎のほうへ筋をひく。
 いつ、どうして斬ったのか、唇にも歯にもふれず、左頬の内がわから、斜めうえに口蓋こうがいのほうへ、浅く斬れている。切尖きっさきがふれたわけではない。一種の気あい突き。抜刀一伝ばっとういちでん流、丸目主水正まるめもんどのしょう独悟剣どくごけん刀影とうえい三寸動いて肉を斬るというやつ。
 顎十郎は、泰然たいぜんとして懐手。長い顎をしゃくるようにしながら、
「むかし、俺が甲府勤番にいたとき、俺の前で、うっかり顎を撫でたばっかりに、ふたりまで命を落したやつがいる。いつもおどしだと思っちゃあいけない。……が、そんなこたア、まあどうでもいい。藤波さん、さっきの話のつづきをしようじゃあないか」
 といって、言葉の調子をかえて、
「手前はずいぶんお節介だが、それはそれとして、手を引けの、引っこめのと、きいたふうなことを言ったことは、今までただの一度もない。それを、こういうからには、よくよくわけのあることだと思ってください。……あなたはなにもご存じないが、真実のところ、この仕事ではたしかにあなたのが悪い。はっきりいうとあなたは飛んでもない奴の味方をしているんです。といったばかりでは、おわかりないでしょうが、あなただって馬鹿じゃあない。ことの起りは、お家騒動にからまっているということは、あなたも御承知のはず。……夫婦喧嘩は犬も喰わないというが、お家騒動となると、こいつアいっそう手がつけられない。どっちの味方をしたって、どっちみち、良くはいわれない。うっかりすると、ひどい羽目に落ちこんで、抜きさしならないことになるんです。……ことに今度の場合なんざ、あなたはたしかに見当ちがい。そればかりではない、ひょっとして、あなたの出ようによっては、十二万五千石がフイになってしまう。……源次郎というのが乞食の子だろうと、そうでなかろうと、それを突つき出して見たって、それがどうだというんです。かくべつ、なんの手柄にもなりゃあしない」
 てれ臭そうに頭を掻き、
「とんだ御説法ごせっぽうになりましたが、筋をいやアそんなわけ。根本こんぽんのところは、こんなつまらないことで、あなたをしくじらせたくないと思うから。……もっとも、あなたにばかり、手をひかせようと言うのじゃない。こういう手前も、ただいまかぎり、きっぱりと引っこみをつけますから、そこんところを買って、ひとつあなたも、これで段切だんぎれということにしてくださいませんか。……手前の見こみじゃ、別にわれわれが手をださずとも、時期がくりゃあ、源次郎と萩之進は、黙ってたって古河へ帰るはずなんです」
 藤波は、きっぱりした顔になって、
「そうですか、話はよくわかりました。俺も手をひくからお前も手をひけという。なにも役所の仕事じゃあるまいし、いわばほんの頼まれごと。そうまでいわれて、意固地いこじにいやとはいいきれないところだが、それにしちゃア、あなたのしかけが悪い。話だけならともかく、千太が、こんなざまにされた上で、ああそうですかじゃ、いかにもおどされて引っこんだようで、私の顔が立たない。せっかくだが、その件はおことわりします」
 と、にべもない。

   千人悲願せんにんひがん

 小塚原こづかっぱら天王の祭礼で、千住大橋の上では、南北にわかれて、吉例の大綱おおづなひき。深川村と葛飾村かつしかむら若衆わかいしゅが、おのおの百人ばかりずつ、太竹ほどの大綱にとりつき、エッサエッサとひきあっている。両方の橋のたもとはこの見物で、爪も立たないような大変な人出ひとで
 こういう騒ぎをよそにして、岡埜おかの大福餅だいふくもちの土手下にこもを敷いた親子づれの乞食。親のほうはいざりでてんぼう。子供のほうは五つばかりで、これも目もあてられない白雲しらくもあたま。菰の上へかけ碗をおいて、青っ洟をすすりすすり、親父といっしょに、間がなしにペコペコと頭をさげている。
 いわゆる非人やけというやつで、顔色がどす黒く沈んで、手足がひびだらけ。荒布あらめのようになった古布子をきて、尻さがりに繩の帯をむすんでいる。どう見たって腹っからの乞食の子だが、することがちょっと変っている。通りすがりに一文、二文と、かけ碗のなかへ鳥目ちょうもくを落すひとがあると、妙に鼻にかかった声で、
「おありがとうございます」
 といいながら、指先で鳥目をつまんでは、そっと草むらへ捨てる。かくべつ目立たないしぐさだが、いかにも異様である。
 顎十郎は橋のたもとに突っ立って、ひと波に揉まれながら、ジッとその様子を眺めていたが、ふっとひとり笑いすると、
「なるほど、あれが源次郎さまか。……多分こんなことだろうと、最初はなっから睨んでいた通り、こんなところで乞食の真似をしている。……それにしてもよく化けたものだ。白痴こけづらに青っ洟、これが十二万五千石のお世つぎとは、誰だって気がつくはずはあるまい。『すさきの浜』の故事といい、乞食じたての手ぎわといい、察するところ、萩之進というやつは、年は若いが、よほどの秀才と見える。なるほど大したものだなあ」
 と、つぶやいていたが、急に気をかえて、
「ここにいるとわかったら、これで俺の役目はすんだようなものだが、それにしちゃア場所が悪い。どれほどうまく化けこんでも、いずれ藤波に見やぶられるにきまっている。萩之進のほうじゃ、こうまで大掛りに探されているとは知らないから、それでこんなところでまごまごしているんだろうが、こりゃア実にどうもあぶない話。そばへ行って、それとなく耳打ちをしてやろう」
 といいながら、ひと波をわけて岡埜の前をまわり、土手をおりて、ふたりのほうへ近づこうとするそのとたん、骨に迫るようなするどい気合とともに、右の肩のあたりに截然せつぜんとせまった剣気。思わず、
「オッ」
 と、叫んで咄嗟に左にかわし、一気に土手下まで駈けおりて足場を踏み、つかに手をかけてキッとふりむいて見ると、誰もいない。岡埜ののぼりが風にはためいているばかり。
 ビッショリと背すじを濡らす悪汗わるあせをぬぐいながら、さすがの顎十郎も顔色をかえて、
「実に、どうも凄い剣気だった。うっかりしていたら、まっぷたつになるところ。いまの居合斬いあいぎりは柳生新陰流やぎゅうしんかげりゅう鷲毛落わしげおとし。これほどにつかえるやつは、日本ひろしといえども二人しかいない。ひとりは備中びっちゅう時沢弥平ときざわやへい、もうひとりは、越前大野えちぜんおおの土井能登守どいのとのかみの嫡子土井鉄之助利行てつのすけとしゆき。が、このほうは、もう十年も前からこの世にいないひと。それにしても時沢弥平が、この俺に斬ってかかる因縁いんねんはないはずだが……。奇態きたいなこともあるものだ。……俺のいたところは土手のおり口だったから、岡埜の裏手までは、すくなくとも六間はある。どれほど精妙な使い手でも、俺に斬りかけておいて、あれだけのところを、咄嗟に飛びかえり、建物のかげに身をかくすことなど、いったい出来るものではない。土手下まで駈けおりたのが大幅で三歩、時間にすればほんのまばたきふたつほどする間。そこで振りかえって見れば、もう人影はない。とてもそんなことが出来ようわけがない。とすると、俺の気だけだったのか知らん」
 首をふって、
「いやいや、そんなことはない。たしかにまっぷたつにされたような気持だった」
 といいながら、また額の汗をぬぐい、
「しかしまあ、どうあろうと、それはすんだことだ。いよいよもって物騒な形勢だから、黙っているわけにはゆかない。いかに悪因ばらいとはいいながら、あんなやつにられてしまっちゃなにもならない。どうでもここは立退かせて、もっと別なところへ……」
 といいながら、また一歩ふみだそうとすると、千鳥のくような鋭いそら鳴りがして、どこからともなく飛んできた一本の小柄こづか、うしろざまに裾をつらぬき、ピッタリと前裾のところを縫いつけた。ちょうど足架あしかせをかけられたように、裾にひきしめられて、足がきすることも出来ない。顎十郎はまた、アッと恐悚きょうしょうの叫びをあげ、
「こいつアいけない。あの二人に近づこうとすると、かならずやられる。いわんや、俺の手にたつような相手じゃない。へたにガチ張ったら、たったひとつの命を棒にふる。こういうときは、尻尾を巻いて逃げるにかぎる」
 つくばって小柄をぬきとって、草の上へほうりだすと、頭をかかえて、むさんに川下のほうへ逃げだした。

 それから十日ほどのち、向島むこうじま八百松やおまつの奥座敷。顎十郎と藤波のふたり。
「……御承知の通り、江戸の洲崎は、洲崎の浜なんぞとはいわない。石口十兵衛からその話を聞いたとき、手前はすぐ、こりゃあ『貞丈雑記ていじょうざっき』にある例の故事だと気がついた。むかし、……さる身分の高い方が、通りすがりの法印に、恐れながらあなたのお顔には乞食の相がある、といわれ、国をおさめる前に、悪因をはらっておこうというので、筑前小佐島ちくぜんおさじまのすさきの浜というところへ出かけ、網をひいている漁師から、乞食のていで、魚をもらって歩かれたという話がある。……私の推察では、評判どおり、ほんとうの源次郎は、やはりあのとき百姓家の離れで死に、いまの源次郎は、たぶん、通りすがりの乞食から買いとった子供なのに相違ないと思った。乞食の子供だから乞食の相があるのはあたり前のことで、雪曽という坊主が、それを看破したのはまた無理もない話。萩之進のほうは覚えのあることだから、大いに恐惶きょうこうして、なんとか乞食の相をはらいたいと思い、いまの故事にならって、千人悲願を思い立ち、そこで書きのこした一筆いっぴつが『すさきの浜』……」
 藤波は頭をかき、
「なるほど、そういうわけだったんですか。そんなこととは夢にも知らず、非人の餓鬼のそうざらいをしていたなんぞは、実にどうも迂濶な話。こりゃアどうもお恥ずかしい」
 顎十郎は手でおさえ、
「まあまあ、そう悄気しょげられるにはおよばない。手前にしてからが、ただもうほんの思いつき。偶然そんな話を知っていたというだけの功名。大して自慢にもなりゃアしません。……そりゃアそうと、例の土手の斬りかけの件、あなたもひどい目にあったそうだが……」
「まったくありゃあ凄かった。びっくり敗亡はいぼうして、見得もはりもなく逃げだしました」
「手前もその通り、てんで、地面に足がついたとも思われませんでしたのさ。……ところで、藤波さん、あの物凄い剣気のぬしは、死んだと思われていた土井鉄之助だったのですぜ」
「えッ」
「ところで、まだ驚くことがある。土井鉄之助こそは、乞食の子の実の親。産土まいりの帰りみち、ちょうどそこへ通りあわして、家老の志津之助へ自分の子供を売った当人」
「ほほう」
「本来なら土井鉄之助は、越前大野の四万一千石をつぐはずだったが、継母ままははのために廃嫡はいちゃくされ、いっそ気楽な世わたりをしようと、非人の境涯へ身を落したが、もとを正せばおなじ清和源氏せいわげんじ。土井摂津守せっつのかみ利勝としかつからわかれたおなじ一家。数馬なんかにくらべると、このほうが血筋が近い。いわばこれも因縁ごと、願ってもない決着だというべきでしょうが、残った問題というのは、替玉をして相続をねがいでたという件だ。が、このほうもしらを切って押しとおせば、どうにか無事におさまろうというもの。数馬や数馬の伯父のほうは、土井鉄之助が正面切っておさえつけるはずですから、そういう事実の前には、グウともいえるわけがない」
 藤波は舌を巻いて、
「こりゃアどうも、いよいよいけない。すると私がジャジャ張ったら、せっかくの機縁もフイにしてしまうところでしたな。いや、いい教訓を得ました。……これですっかり話はわかったが、すると土井鉄之助はあのとき……」
 顎十郎はうなずいて、
「そうですよ。千人悲願をとげさせるまで、どんな奴でも一歩も寄せつけまいと、かげながら守っていたというわけ」
「すると、どっちみち、われわれじゃあ寄りつけなかった。あなたは途中で手をぬいたからいいようなものの、私のほうは、まるっきりの無駄骨折り、こいつあ馬鹿を見ました」
 顎十郎はへへら笑って、
「ほら御覧なさい。だからたまにゃあ、ひとのいうことも聞くもんです。あなたはすこし強情だよ」

底本:「久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1-13-24]」三一書房
   1970(昭和45)年3月31日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月11日作成
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