市電をおりた一人の男が、時計を出してちょっと機械的に眺めると、はげしい太陽に照りつけられながら越中島から枝川町のほうへ歩いて行った。左手にはどす黒い溝渠ほりわりをへだてて、川口改良工事第六号埋立地の荒漠たる地表がひろがっていて、そのうえを無数の鴎が舞っていた。
 その男は製粉会社の古軌条レール置場の前で立ちどまると、ゴミゴミした左右の低い家並を見まわしながら、急にヒクヒクと鼻をうごかしはじめた。なにか微妙な前兆をかぎつけたのである。
 斜向いの空地のまんなかに、バラック建ての、重箱のような形の二階家があって、大きな柳の木が、その側面をいっぱいに蔽うようにのたりと生気のない枝を垂れていた……
 男はひどく熱心にその家を眺める。それから、入口のガラス扉のそばへ近づいて行って、ほとんど消えかけているペンキ文字のうえへかがみこんだ。
10銭スタンド、那覇〉と書いてある。
 しばらく躊躇ためらったのち、その男は思い切ったようにドアをおして、酒場のなかへはいって行った。
 うす暗い酒場のなかにはまだ電灯がついていて、土間のうえの水溜りが光っていた。ぷんと、それがくさかった。番台では汚れ腐った白上衣を着た角刈の中僧が無精なしぐさでコップをゆすいでい、二人の先客がひっそりとその前のテーブルに坐っていた。
 一人は縮みあがった綿セルの服を着た五十歳位の、ひどく小柄な小官吏風の男。まるで顎というものがなく、そのうえ真赤に充血した眼をしているので、ちょうど二十日鼠がそこに坐っているように見える。もう一人は四十歳位で、黒いソフトをあみだに冠った、すこしじだらくな風態だが一見して高等教育を受けた男だということがわかる。酒のみだと見えて、鼻のあたまが赤く熟しかけている。
 たった今はいって来たほうは、夏帽を窮屈そうに膝に抱えたまま、見るからに落ちつかないようすで街路のほうを眺めている。なるほど、こういう場末町の不潔な酒場にはそぐわない男である。凄いほどひき緊った、端麗な顔をした三十四五歳の青年で、すっきりとした薄鼠の背広に、朱の交った黄色いネクタイをかけ流していた。銀座でもあまり見かけないような美しい青年である。
 青年も二人の先客も、互いの眼をはばかるように背中合せに坐ったまま、さっきから身動きしようともしない……。こんな風にして時間がたつ。

 それから二十分ほどすると、急にドアがあいて、二人の男が前後になってはいってきた。
 一人は小鳥のようにうるさく頭を動かし、キョトキョトと酒場のなかを見まわしながら、なにかしばらく躊躇ためらっていたが、やがて、逃げるように出てゆくと、たちまち街路のむこうへ見えなくなってしまった。
 もう一人は菜葉服を着た赧ら顔の頑丈な男で、番台に凭れかかると、そこからじろじろとしつっこく三人を眺め、それから、
「オイ、鶴さん、米酒ピーチュ
 と、酒棚のほうへ顎をしゃくった。
 このほうは、どうやらここの常連らしい。発動機船の機関士か造船所の旋盤工というところ。チャップリン髭をはやしているのが異彩をはなつ。
 手の甲で唇を拭うと、妙にきこえよがしに、
「おう、今朝だれか俺をたずねて来なかったかよ、鶴さん……」
 と、ボーイにきいた。男は頭をふった。(この問答をきくと、三人の客は一斉にちょっと身動きしたようであった)
 菜葉服は、ふうん、といくども首をかしげてから、こんどは低い声で、
「……じゃなあ、俺はまたちょっと機械場へ行ってくるからよ、古田……古田子之作ふるたねのさくってたずねて来たやつがあったら、子之はじきまたここへ戻ってくると言ってくんなヨ。……おい、頼んだぜ、鶴さん。すぐ戻ってくるってナ、いいか」
 くどく念をおすと、バットに火をつけながら出ていった。
 酒鼻はそのあとを見送りながら、思い出したように時計をひきだして眺め、おや、十一時か……と、つぶやく。すると二十日鼠はつぶっていた眼を急にパッチリとあけて、
「失礼ですが、いま何時でございましょう。正確なところは……」
 と鹿爪らしい声でたずねた。
「十一時十分。……正確にいえば、十一時九分というところですかな」
 二十日鼠は頭をさげると、また壁に凭れて眼をとじてしまった。酒鼻は時計をしまいながら、青年に、
「あなたもここは始めてでしょう。……私はひとを待っているんですが、どうもたいへんなところ……」
「始めてです」
 にべもない返事だった。酒鼻はいまいましそうに、ボーイのほうへ向きなおると、
「オイ、ときに、ここのマダムはどうした」
 と声をかけた。ボーイはせせら笑って、
「マダム? ……大将ならまだ二階で寝てまさ。……昨夜すこしウタイすぎたんでねえ」
「喧嘩か」
「なあに、……昨夜妙な女がひとり飛びこんできてねえ……なにしろ大将はスキだから、いきなりそいつとツルんでだいぶんひっかぶったらしいんでさ。……もっとも、あっしゃ昨日は昼番、その時はいなかったが、いっしょう浴びたテアイのはなしでは、なにしろテキあ大した豪傑で、……お相手しましょう、てな調子で割りこんでくると、あとはもう、奴、酌げ酌げ、さ。……さすがの大将も、しまいにはオッペケペになって、とうとう兜をぬいじまったんだそうだ。……あっしゃ、すらっとした後ろ姿を拝見しただけだったが、連中の話じゃ、二十三四のモダン・ガールで、こいつがどうもやけにいい女だったそうでさア。……なんでも洲崎のバアの女給だってえこったが、いってえどういうんだろうねえ、その女……」
 この時、また扉があいて、すらりと背の高い、二十二三の娘がはいってきた。
 蓮色の服に、黒いフェルトの帽子をかぶった、明るい顔つきの、いかにも美しい娘だった。酒場のなかを見まわすと、青年のとなりの椅子にぎこちなく掛けて、ものおじしたようにうつむいてしまった。
 ポート・ワインを酌いで、また番台へ戻って来ると、ボーイは新聞をとりあげて、
「おや、また人殺しだ」と、とってつけたように言った。
「……えー、薪割りようのものにて、……滅多打ちにしたものらしく、六畳の血の海の中で、……よく流行はやるねえ、このごろは。……こないだも野銭場の砂利仲仕が、小名木川の富士紡の前で、どてっぱらを割られて倒れていたが、……どうもひでえもんだねえ、大腸ひゃくひろをすっかりひろげちゃって、……苦しいのか、せつねえのか、そいつを自分の両手で、手繰りだすようにして死んでいるんでさ。いやになっちゃったア、あっしあ」
 あちらこちらの工場のサイレンが鳴り出す。すると、それが合図のように、さっきの菜葉服が戻って来た。つかつかと番台の前へ行って、
「なに、だれも来ねえ? ……そんな筈はねえのだが。……(首をかしげながら)じゃ、おやじが知ってるかも知れねえな。……おい、鶴さん。おやじはまだ寝てるのか。……ふうん。……じゃ、すまねえが、ちょっと起してきてくんな。子之がききてえことがあるってヨ。大至急な用なんだからよウ」
「大将はまだ夜中だぜえ、子之さん。それに、ゆんべは……(と、いいかけて、急に二階のほうへきき耳をたてると)おう、だれか二階をあるいてら……。へ、へ、大将が正午まえに起きたためしはありゃしまいし、して見ると、……(酒鼻のほうへにやりと下素げすっぽく笑って見せ、子之に)起すのはよしなよ、殺生だぜ、テキがきている」
 と、小指をだしてみせた。
 二十日鼠がついと立ち上った。が、それは帰るのではなくて、
「甚だつかぬことをお訊ねするのですが、みなさん、ひょっとしたらあなたがたも、わたくしと同様、未知の男から手紙をもらって、それで、……その、誰れかわからん人間をここで待っておられるのではないのですかな。たいへん失礼ですが……」
 二十日鼠がこういうと、ほかの四人の顔にさっと血の色がさして、たがいに狼狽したように眼を見あわせた。
「……じつは昨日、わたくしは未知のひとから、遺産相続の件で、内密にくわしい相談をしたいという手紙をもらいまして、それでここへやって来たのです。……わたくしには、南米のサン・パウロで働いておる年齢をとった叔父があるにはあるのですが、しかし、どうもありそうもないことでね。……はじめは冗談か詐欺かと思った、だが、人間、慾にかけるとたわいのないもので、そう思いつつ、結局、まあこうしてやって来たというわけです。……どうです、みなさんもそういうわけではなかったのですか」
 そういって、四人の顔を見まわすと、ずいぶんひとを喰った笑いかたをした。たれも否定するものはなかった。途方に暮れたような色がみなの顔にあった。二十日鼠は、
「……はは、(と、苦笑しながら)やっぱりそうでしたか。その手紙をここに持っておりますが、……ひとつ念のために読んで見ましょうかしらん」
 と、言いながら、もぞもぞとポケットを探して、邦文タイプライタアでうった紙きれをとり出すと、ひどく朗詠風に読みはじめた。

一、火急に就き小生の身分は申上げず、御面晤の折万々御披露可致候
二、小生は貴殿が相続の資格を有せらるる未知の遺産につき、至急御通知申上ぐる義務を有し候
三、右は不動産、有価証券並に銀行預金にて、財産目録は御面晤の折御一覧に可供候
四、右は貴殿に於て当に失格せんとするものにて、至急資格申請並に諸般の手続を了する必要あり、猶々以上の外公表を憚る錯雑せる事情之有、御面晤の上篤と御説明申上ぐる外無之に付、左記場所まで日時相違なく御来駕給り度願上候
敬具
    六月四日
 一、六月五日、午前十時。
 一、深川区枝川町二二五番地。
  「那覇」、絲満南風太郎いとまんはえたろう方。

 二十日鼠は椅子にかけると、不機嫌な顔をしてだまりこんでしまった。青年はすこし顔を赧らめながら、
「……僕も幼稚なんですねえ……その手紙はここに持っていますが、……でも、僕にも多少そういうこころあたりがあるので。……もっとも、半分は好奇心ですが。……(そして、微笑しながら娘に)あなたもそうですか」
 と、優しくたずねた。
 娘はやっと顔をあげると、もの悲しげにつぶやいた。……美しい声であった。
「あたし、半月ほどまえに、はじめて東京へ出てきまして、いま新宿の〈シネラリヤ〉ではたらいておりますの。……きのうの朝、十時頃、あたしのアパートへ女のひとから電話がかかってきて、いまの手紙とおなじことを言って、あたしにぜひきてほし言うのやし。……男の声のようなところもあるし、あたし、店のお客さんがいたずらしてるのだと思うて、いやや、ゆうて、笑いながら電話をきりましてんの。(すこし笑って)でも、ゆうべは、いろいろ空想をたくましゅうしてとうとう朝までよう寝られんのでした。……子供のとき生別れした父が、まだどこかに生きているはずなんですの。……今朝、そんな馬鹿なことないといくども思いかえしましてんけど……」
 菜葉服は辛抱しきれない風で、横あいからひったくった。
「俺のほうもそうなんだヨ。……富岡町の支那チャン屋で雲呑ワンタンを喰ってると、そこへ電話がかかってきたんだ。上品な女の声でねえ……、こいつあ、たしかですぜ。(じろりと娘の顔を見ながら)嘘もまぎれもねえ女の声だったんで。……それで、なにしろそういううめえ話だから、あっしゃ喜んで、承知した、きっとお伺いしましょう、って返事をしたんだ。……もちろん、初めは……、あっしだっていろいろ気をまわして見たさ。だがねえ、あっしの考えじゃ、どうも冗談たあ思われなかったんだ。ちゃんとすじが通っているからね」
 二十日鼠が、ふふ、と苦笑した。菜葉服はむっとしたようすで立ちあがった。
「おい、妙な笑いかたをするじゃねえか」
 二十日鼠が言いかえす。菜葉服がいきり立つ。ボーイまでそれに加わって、おい追い手のつけられないようすになって行った。
 娘は眼にみえないほど、すこしずつ青年のほうへ寄っていった。初対面の男たちが下素っぽく罵りあっている。この不潔な酒場のなかでは、青年の端正な美しさは、たしかにひとつの救いであった。
 娘は青年の耳元でささやいた。
「……ここがわからんで、あたし、ずいぶん探し廻りましてんの。……しょむない……あたし、やっぱり慾ばり女なんですわ」
 彼女のいいかたは、いかにもあどけなかったので、青年は微笑せずにいられなかった。
「でも、今のところまだ、担がれたんだときまったわけでもありませんし……」
 腕組みをしながら、隅のほうで超然と三人の論争をきき流していた酒鼻が、急に口をきりだした。
「小生もこれを冗談だときめてかかる必要はないと思う。要するに、手紙の差出人がまだやってこないと言うだけのことなんだからねえ。……一年もたってからなら、やっぱり担がれたんだろうと思うがいいさ。しかるに、約束の時間よりまだ二時間しか経っていないんだ。どういう余儀ない事情で遅刻しているのか知れやしない。それに、小生ひそかに、これは冗談ではない。なにか重大なわけがあるとにらんでいるんだ。……そもそも、われわれ五人をこんな酒場によびだしてなんの利益がある。たいして面白い観物でもありやしないからねえ。……また、ことによれば、あの手紙の差出人は、実はここのおやじ、すなわち、絲満南風太郎君それ自身かも知れないということだ。……あるいは、そうでないかも知れん。……しかし、たぶん、……多分、彼はこれについてなにか知っている。すくなくとも、彼はわれわれを釈然とさせるに足る説明の材料を、持っている筈だと小生は思う」
 菜葉服がうなるように言った。
「だから、俺あさっきからそう言ってるじゃねえか。ここのおやじにきけあ話がわかるってヨ。……それをこの先生が、(と、露骨に二十日鼠を指して)おっひゃらかすようなことを言うから、俺あ腹をたてるんだ。(こんどは酒鼻に)どうです、こんなことをしてるより、ひとつ、おやじを起してきいて見ようじゃありませんか(また、二十日鼠にむかって)おめえ、冗談だと思うなら、こんなところにまごまごしていることはなかろう。さっさと帰んなヨ」
「さよう。そろそろ失敬しよう。……なあに、どうせ話はわかってるんだ」
 そのくせ、腰をあげるようすもなかった。
 酒鼻はボーイにむかって、
「オイ、若い衆、ハエ太郎君を起して、ここまでつれてきてくれ。……おやじがなにか知ってるなら、われわれに説明する義務があるんだ。……反対に、もしなにも知らないてえなら、せっかくのご休息をお妨げしたについて、われわれ一同は、謝罪のために、大いにここで飲むことにする。……すくなくとも、小生は大いに飲む。……もう正午もすぎてるんだ。とっとと行って起してこい……」
 ボーイは頭をかきながら、
「大将を起すんですかい。……いやだなア。またがみつかれらア」
「だからヨ、みなであやまってやらあナ」
 すると、酒鼻は大きな声で叫んだ。
「わかったぞ! ……やい、ボーイ。そういう風にぐずつくところを見ると、貴様も同類だな。あの手紙は、酒場の人せにやった仕事だろう……。どうだ、白状しろ」
「じょ、冗談いうねえ。うちの大将はそんなんじゃねえや。……おめえらのような貧乏人をせたって、切手代のほうがたかくつかあ、馬鹿にするな。……うちの大将ぐれえ寝起きのわるいのはねえんだからよ。それさ、あっしがいやなのは。……だがまあ、それほどいうんなら起してきまさ」
 男は板裏を鳴らしながら、酒場の奥の狭い階段を、バタリ、バタリと、のろくさくのぼっていった。やがて足音は五人の真上へくる。
 男はそっと扉を叩いている。階下では五人が、音のする方へ耳をすます。男はこんどはやや強く叩きながら、どなっている。
「大将……大将……もう正午ひるすぎですぜ」
 みな返事をまっている。……が、返事がない。
 割れるように扉をたたく音が、酒場じゅうをゆすぶる。
「大将……大将、工合でも悪いんですか」
 返事がない……
 男がころがるように階段を駆けおりてきた。酒鼻がボーイを抱きとめる。
「返事をしない……(顔をしかめながら、うわずったような声で、)ああ、こいつあ妙だ。……こんなことははじめてなんで……どうしたってんだろう……あっしゃ、もう」
 酒鼻がいった。
「よし! 一緒に行ってやろう。……とにかく見てみなくては……」
 そこで、硬ばった顔をしながら、二人が階段をのぼってゆく。絲満の部屋の前へくると、酒鼻は鍵口からなかをのぞいた。
「……雨戸がしまってるんだ。……真っ暗でなにも見えやしない」
 二人で力一杯に扉を叩く。……依然として返事がない。なにかひどく臭う。
「……オイ、いやな臭いがするじゃないか……(なにか考えていたが、急に顔色をかえると、おしつけるような声で)俺は知ってるぞ、この臭いを……。おい、若い衆! 早く交番へいって巡査をよんでこい! 早く!」
 ボーイが駆けだす。酒鼻は男のあとからのっそりとおりて来た。すこし震える声で、
「巡査をよびにやった。……扉がしまっていて、……それに妙な臭いがするんだ」
「どんな臭いですか」
 と、二十日鼠がたまげたような顔できいた。
「……行って、かいでごらんなさい。すぐわかるから……」
 二十日鼠は動かなかった。

「いつもこんなによく寝こむのか」力一杯扉を叩いてから、巡査がボーイにたずねた。「そうじゃない? ……じゃ、ひとつ開けて見よう。……鉄槓杆かなてこがあるかね? ……なかったらどこかへ行って借りて来い」

 男が鉄槓杆を担いできた。巡査は槓杆をうけとると、扉の下へそれを差込んで、ぐいともちあげた。蝶番ちょうつがいがはずれた。錠の閂下したがまだ邪魔をしている。うん、と肩でひと押し。扉は内側へまくれこんだ。
 むっとするような重い臭いが鼻をつく。手さぐりで壁の点滅器スイッチをおす。……照明がはいって、そこで虐殺の舞台装置が、飛びつくように、一ペンに眼の前に展開された……。
 敷布のくぼみの血だまり、籐椅子の上の金盥かなだらいには、赤い水が縁まで、なみなみとたたえられている。血飛沫ちしぶきが壁紙と天井になまなましい花模様をかいている。……そのすべてから、むせっかえるような屠殺場の匂いがたちのぼっている。寝台と壁の間の床の上に、裸の人間の足……乾いて小さくしなびた老人のあしのうらがつきだされていた。
「おや! あそこにいた。……ひどいことをしやがったな」
 巡査はハンカチで首のまわりを拭いた。
 気抜けしたようなボーイのうしろには、五人の客が、明るい電灯の光の下で、ねっとりとかがやく血だまりを見ていた。藁蒲団をしみ通した血が、ポトリ、ポトリ、と床のうえにしたたるのがはっきりときこえる。
 二十日鼠は背中を丸くして、歯の間から荒い呼吸をしていた。草笛のように甲高くヒュウヒュウ鳴る音は、血の滴る陰気な音と交りあって、ひとの気持ちをいらいらさせた。
 娘は青年の方をふりかえると、溺れかかるような眼つきをした。青年は急いで娘の傍へよると、腕のなかへ抱えた。娘は蒼ざめた額をおさえながら、夢のさめきらないひとのような声で、どうぞ……階下へ……と、いった。
 その声で巡査がふりかえる。五人を見ると、はじめて気がついたように、ボーイにきいた。
「この連中はなんだね」
「店のお客です。始めてのひとばかりなんで……」
「ふうん。……さ、みんな、おりた、おりた。帰らずに階下で待っていろ。……もうここへあがって来ることはならんぞ」
 巡査はみなを階下へ追いおろすと、あたふたと街路へ出て行った。
 自動車がとまり、警部の一行がはいって来て二階へあがって行った。一人の巡査は、こらこら、と言って店先の弥次馬を追いはじめる。
 検証は四十分近くもかかった。警部は低い声で二人の部長とささやきながら降りて来た。酒場の卓の前へ坐ると、じろじろと五人の顔を見廻した。手帖を出しながら、
「そこで、……(二十日鼠を指して)ちょっと、……君から始めよう。なんだい君は。ここへなにしに来たんだね、今朝?」
「わたくしども五人は、ある不明な人物から、今日の十時までにここへくるように指定されまして、それでやってまいったのでございますが、……しかるに、当の告知人は、とうとう姿をあらわさなかったというわけで。……手紙とは、すなわちこれでございます」
 二十日鼠はポケットから、さきほどの手紙をとりだすと、うやうやしく叩頭して警部に渡した。
「姓名は?」
乾峯人いぬいみねと。……高等官七等。元逓信省官吏。只今は恩給で生活いたし、傍ら西洋古家具骨董商を営んでおるのでございまして、住居は、淀橋区角筈二丁目二十七番地。……五十二歳。はい、まったくの独身でございます」
「それから、そちらの婦人……」
「雨……雨田葵あめだあおい……只今、新宿の〈シネラリヤ〉で働いております。……四……四谷区大木戸二ノ一文園アパート。二十三歳。独身でございます」
「よろしい。……つぎ」
西貝計三にしがいけいぞう(酒鼻が無造作にこたえる)東都新聞の演芸記者。四谷区新宿二丁目五十八。当年三十七歳」
 警部は菜葉服のほうへ顎をしゃくった。
「古田子之作。深川区富岡町二一七。〈都タクシー〉で働いております」
「運転手か」
「へえ、運転もいたしますが、いまはおもに古自動車をなおす方をやってるんで。……住居は、そこの二階で寝泊りしております。(頭をかきながら)まだかかあはございません。へえ、三十三でございます」
 警部は手帖をしまいながら、もう自由にひきとってよろしい、といった。青年が警部の前へすすみでた。
「私はまだすんでおりません」
 警部は、すこしてれながら、
「ああ、……君は?」
「私は四日前に台北から上京いたしまして只今は麹町〈南平ホテル〉に泊っております。もとは青島チンタオの貿易商会につとめておりました。現在は無職……失業中なのです。……久我千秋くがちあき。明治三十五年生れ」
 そういって、上品なおじぎをした。
 五人はわいわいいう弥次馬をおしわけながら街路へでた。
 久我が片手をあげる。久我と葵をのせて、自動車は走り去った。

 御苑裏の暗い街路に、〈シネラリヤ〉が夜の花のようにほの明く咲いていた。
 階下は喫茶店になっていて、白い紗のカアテンをすかして、椰子の葉と常連の顔を見ることが出来る。しかし、二階のダンシング=バアの方は、さように開放的ではない。肉色のカアテンが、薄い下着シュミイズのようにその肉体を蔽いかくしている。
 ここに集まるひとびとは、いわゆる、大東京の通人ラフイネたちである。この都会の最も装飾的な要素であり、東京の「遊楽街リユ・ド・プレエジール」の伝説口碑に通暁しているすぐれた土俗学者たちだ。多少は互いの身分を知り合い、いくらかずつは、互いに肉親的なものを感じている連中である。
 バアの広間の中央は、「踊り場」になっていて通人ラフイネたちは、そこで非合法的に踊る。この愛すべき秘密は、ある素朴プリミチフな方法によって保たれていた。
「常連」以外の男がはいってくる。(これは風紀巡査かも知れないのだ)すると、信号の蝉鳴器ブザが低くうなりだす。階下からの合図だ。二階のタンゴは、そこで、片足をあげたままで停まらなくてはならない。……この冒険が〈シネラリヤ〉の魅力になっているのであった。

 その日の夜十時頃、久我千秋は〈シネラリヤ〉の扉をおす。入口の勘定台には柔和な顔をした老人がいて、久我を見ると丁重に頭をさげた。久我は気おくれがして、ちょっと階段の下でためらっていたが、やがて、決心したように狭い階段をのぼって行った。
 久我はホールの端口に立って、しずかにその内部を見まわした。やや広い四角な部屋の壁にそって、チュウブ製の小卓テーブルが十五六置かれ、三十人ほどの男と女が、飲物を前にして、そこにかけていた。久我がはいってゆくと、ホールのひとびとは、検べるような眼つきで、一斉に久我のほうへふりかえった。ひとびとの見たものは、すこし贅沢すぎる服をスマートに着こなした、二十五六の、ちょっと例のないような美しい青年であった。
 久我は入口の近くの小卓テーブルにつくと、もう一度念をいれて広間のなかを見廻した。しかし、そこには葵の顔は見あたらなかった。
 一人の女が立っていって蓄音機をかける。ささやくようなルムバのメロディがそこから流れだした。四五人の男が立って行って踊りはじめた。踊り場の中央には大きな磨硝子すりガラスが嵌めこまれてあって、下からの照明が、フット・ライトのように、その上で踊る男と女の裾を淡く照らしあげた。
 鮭色のソワレを着た十七八の若い娘が久我の傍へきて坐ると、びっくりしたような眼つきをしていつまでも久我の横顔を眺めていた。
 酒棚の上の蝉鳴器ブザが、むしろ、愛想よくジイ、ジイ……と、鳴りだす。
 踊りは急に止み、男と女は急いでおのおのの小卓に駆けもどると、へんに空々しい顔をした。一人の女が蓄音機をとめる。床の照明が消されると、たちまちその上に小卓と椅子が押し出されて、そこで一組の男女がジンジャア・エールを飲みだした。このすべての動作は、めざましくも一瞬のうちに行われた。まるで、芝居の「急転換どんでんがえし」のようであった。
 はいって来たのは、四十歳位の、医者のような風態の男で、入口の傍に坐っている久我を見ると、急に顔をそむけるようにして、奥まった小卓の方へ行ってしまった。
 鮭色の娘は、右手を彼の腕に巻きつけながら、踊ってちょうだい、といった。久我は優しくその肩に手を置きながら、葵というひとに、友達からのことづてがあってきたのだが、もしここにいるなら逢いたいものだ、といった。
 娘は、まじめな顔をつくりながら、
「あら、そんな方、ここにおりませんわ。(すぐ自分で笑いだして)うそよ。……葵さん、いま階下にいるのよ。よんで来たげましょうね。……そのかわり、あとで、あたしと踊ってちょうだい」
 気軽に立ちあがると、階下へ駆けおりていった。
 葵があがって来た。ホールの入口に立って、奥のほうを見まわしている。酒場台コントワールのほうからくる琥珀こはく色の光が、ほとんど子供じみた彼女の横顔を浮きあがらせていた。脆そうな首筋、白い芥子のようなうすい皮膚。二十三でいて、そのくせ子供のようにも見える、あの不思議な典型的な「東京の女」の顔であった。
 久我を見つけると、葵は瞬間立ち竦んだようになって、それから、あまり劇しく身動きすると幻が消えてしまうとでも思っているように、そろそろと用心深い足どりで近づいてきた。
「……まあ、……でも、よく……あたし……」
 顔をかがやかせ、感動のために口もろくにきけない風であった。久我は、言葉をさがしながら、けっきょく、
「今晩は……」
 と、それだけいった。いかにもまずい挨拶であった。
 葵をアパートまでおくり届けると、久我はこころがときめいて、とてもこのまま眠られそうもなかったので、自分も自動車からおりると上衣をぬいで腕にかけ、快い初夏の夜風に胸を吹かせながら、あてもなく、またぶらぶらと新宿の方へ戻りはじめた。
 久我はこの東京にひとりの知人もなかった。都会の孤独は、久我にとっては、じつにやりきれないものだったので、今晩の葵のやさしさは、こころの底まで沁みとおるようであった。
〈……葵も東京でひとりぽっちだと言っていたようだった、と彼はかんがえる。……あんな美しい娘が、どうしてひとりぽっちなのだろう。そういえば、病身らしいところはある。……あまり子供っぽい顔をしているからかしら。すこし、明るすぎる。……あの種類の顔は、見るひとに、いつも郷愁を感じさせる顔だ。二年前なら、このテエマでおれは詩をつくっていたろう。……しかし、いまは、すくなくともおれは詩人じゃない。……おっと、これは失礼〉
 久我がこんなことを考えながら歩いていると、そこの路地から出て来た男に突きあたった。
「や、これは失礼」
 と、その男も帽子をとりながら、久我の顔を見ると、急に剽軽ひょうきんな調子で、
「これはこれは、なんたる奇遇!」
 酒鼻……西貝計三だった。
 久我も驚いて、
「おう、これは意外でした」
「こんなところで出っくわそうとは思わなかった。……どうです、もしよかったら、そのへんでビールでも……。ついそこに、腹を減らしたわれわれ同業がやってくる、夜明しのおでん屋があるんだ。社会部の若い連中も大勢やってくるから、今朝の事件のニュースがきけますぜ。……どうです、よかったら……」
 久我は高い笑い声を立てながら、
「勿論ですとも。結構です、お伴します」
「すぐそこ。……二丁目の鉄砲屋の裏。……〈柳〉というんだ。……われわれ称して〈連合通信社〉。それはそうと、今日の夕刊を見たかい」
「ええ。……でも、われわれが知っている以上のことは載っていなかったようですね」
「そう。……那須なすってやつがいまやってくるから、そいつにきくと、もうすこしくわしいことがわかるだろう。……さあ、ここだ」
 西貝は久我の腕をとって、小粋な表がまえのおでん屋へつれこんだ。
 卓はほとんどみなふさがっていて、湯気と煙草のけむりがもやもやしているなかで、真っ赤な顔が盛んに飲食のみくいしていた。蜻蛉玉の首飾をいくつも腕にかけた中国人が、通りみちに立ちはだかって、女給たちのひと組にしつっこく押売りしている。
 西貝はそれを押しのけるようにして奥まった卓にすすんで行った。押しだされた中国人は、入口のところで久我にすれちがうと、急に彼の顔を指さしながら、甲高い声で、
「ロオマ! ロオマ!」
 と、二声ばかり叫んで出ていった。
 客は一斉に不審そうに久我の顔を見あげた。
 久我が卓につくと、西貝がたずねた。
「あいつ、いま、なんていったんだね」
「僕がおしのけたと思って悪口をいったんです。老鰻ロオマってのは、台湾語で鰻のことですが、悪党、とか、人殺し、とかっていう意味でもあるんです」
「ヘイ、君は台湾語をやるのかね。(と、いってから、大きな声で)オイ、日本盛にほんざかり
 と、叫んだ。
「僕は台湾で生れたんです。……でも、両親は日本人ですよ。……大阪外語の支那語科を出ると、青島チンタオの大同洋行へはいったんですが、どうもサラリーマンてのは僕の性にあわないんですね。また台湾へ舞い戻って、コカの取引ですこし金をこしらえたので、思いきりよくサラリーマンの足を洗って、新聞記者になるつもりで東京へやって来たんです。……僕は上海語も北京語も台湾語も話せるんですが、どこかの新聞社へもぐりこめないものでしょうか」
 西貝はコップで盛んにあおりながら、無責任な調子で、
「いいだろう、なんとかなるだろうさ。ま、飲みたまえ。……(そう言って、久我のコップに、またなみなみと酌ぎながら)それでなにか書いたことがあるの、君は」
「これでも、むかしは詩をつくったことがあるんです。おちかづきのしるしに一冊献上して、大いに悩ませるつもりです。覚悟していて下さい」
 西貝は酒と暑気で真っ赤になった顔を、ぶるん、と、なでながら、上機嫌に笑いだした。
「愉快なやつだな、君は。……小生のほうは、これで坊主の子さ、本来は坊主になるはずだったんだが、小生のような、俗気のない高潔な人間は、あの商売に向かないんだよ。そこで……、大学を出ると、志を立てて新劇俳優になった。そもそもの最初は……(と、いいかけて入口のほうを見ると、急に椅子の上で腰を浮かせて)お、那須がきた! ……あいつ、またなにか掴んできたぞ。……すこし想像力イマジネーションを要する事件になると、警察なんてものは手も足も出ないんだからな。新聞社の若い連中のほうがずっとましなんだ。(そして、手を高くさしあげると)オイ、那須……」
 と叫んだ。
 那須というのは、頭髪をべったりと頭蓋骨にはりつけた、背の高い痩せた青年で、西貝を見るとうれしそうな微笑をうかべながら、急いで近づいてきて、掛けるやいなや、オイ、菊正きくまさ! と、怒鳴った。
 西貝は久我のほうへ顎をしゃくって、
「こちらは、久我君。……このひとも怪人から手紙をもらったひとりなんだ。ときになにかニュースがあるか」
 那須は頭をかかえこんで、
「駄目、駄目。……(それから、顔をあげると、身体をゆすぶりながら)昼からいままで、僕は永代橋と荒川の放水路の間を駈け廻っていたんだ。それから、〈那覇〉の常連とあのへんの地廻りを、ひとりずつ虱っ潰しにして見たんだ。……ちょっと面白いことがあるんだね。富岡町の〈金城〉ってバアの女給に、朱砂しゅすなハナ、ってのがいてね。これが、殺された南風太郎と同じく、琉球の絲満人なんだ。東京へそれを連れてきたのも南風太郎だし、一時は夫婦のように暮していたこともあるんだ。こいつは、琉球で小学校の先生までしたことがあるんだが、いまはもうさんざんでね。バアの二階で大っぴらに客をとるんだ。チョイト小綺麗でね、モダン・ガールみたいな風をしているんだ……こいつをききこんだときはうれしかったね。……ほら、前の晩に〈那覇〉へ酒をのみにきたモダン・ガールがあったろう。……てっきり、これだ、と百パーセントに見込みをつけて、おしかけて行っていきなり一本槍につっこんで見たんだ。……ところがねえ、(と、また頭をかかえこんで)こん、こんな馬鹿なはなしはないです。……密淫売で洲崎署に十八日くらいこんでいて、今朝の十時にようやく出てきたばかりだったんだからねえ、話にもなにもなりやしないさ。……しかし、南風太郎の身元だけは調あらってきたよ。調べてみると、絲満南風太郎ってのはエライやつなんだねえ。いままでのうちに、二度も三度も万という字のつく金をもうけたらしいんだが、こいつをしっかり抱えこんで、爪に火をともすような暮しをしていたんだねえ。だから、この殺人は金が目的だってことは確かなんだ。ともかく加害者は空手で帰りゃしなかった。いや、それどころか、しこたま掴んで引あげたんだ。……この絲満南風太郎ってのは懐疑的なやつで、その何万って金をみな自分の部屋にしまいこんであったんだねえ。……部屋の隅に、紫檀で作った、重い頑丈な支那長持サマアチユウがあるんだが、金はこのなかにあったんだと見えて、このなかが、いちばんひどく引っかきまわされているんだ。……金はそのほかに賁鼓フンコというのかな……、台湾人がつかう太鼓の胴の中にも、文字通りザクザク隠してあったんだが、さすがに、これには気がつかなかったと見えて、そいつだけは助かったんだが、太鼓の中に隠してあった金だけでも、紙幣で八千円からあったんだ。……犯人は十二時から三時までの間に、……つまり、南風太郎が部屋へ寝に来るすこし以前に、家の傍の柳の木をつたって二階の窓からはいりこみ、衣裳戸棚の中に隠れて待っていたんだな。……二時、……或いは三時近くに、南風太郎がぐでんぐでんになってあがってきて寝台へ寝る。そいつをおさえつけて、ものもいわずに、肉切庖丁のようなものを、三度ばかり心臓のあたりへ突っ通す。……苦しがって、寝台から転がり落ちたやつを、こんどは呼吸の根をとめるつもりで、ずっぷりと頸動脈へ斬りこんだ、というわけだ」
「それは、ひどい」
 と、美しい眉をしかめながら、久我がいった。西貝は、那須に酒を酌いでやりながら、せっこむような調子で、
「それで、どうなんだ。犯人の足どりは判らないのか。まだ見当もないのか」
 那須は、酌がれたのをひと息でのみほすと、ますます大きな声で、
「その方は署からのききこみがすこしあるんだ。……はじめはなかなかシラを切ってね。ところがどうして、なかなか、本庁と洲崎署が車懸りになってやってるんです。昨夜は十時から、小松川の川っぷちと洲崎のバア、カフエ、円宿ホテルを一斉に非常臨検をやったんです。……その例のモダン・ガールってのを狩りたてているんだね。もっともその女が直接の加害者だと思っているわけではない。本庁では琉球か朝鮮の人間の犯行だと見当みこんでいるし、洲崎署では区内の前科者の仕業だとにらんでいる。いまのところ意見は二た手に分れているんだがなにしろ、女が一枚のってるんで、非常に事件をややこしくしている。とにかく、その女をつかまえると、もうすこし輪廓がはっきりするはずなんで、警察でもいまのところ、こいつを追及するのに躍気となってるんだね。〈那覇〉のボーイのほうは、いかんせん、すこし低能でね、自分が見た女の印象を申立てることが出来ない。ちょっと上品なすらりと背の高い女だっていうんだが、これだけじゃなんの足しにもなりやしない。……そこで、その晩のいきさつてえのは、次のあさ九時頃、和倉町二丁目の自分の下宿から、店へ出掛ける途中、一二度〈那覇〉へ顔をみせたことのある、山瀬組の小頭ってのに逢って、……昨夜はどうも偉えことだったぜ、という調子で、はじめて女の一件をきいたんだが、その小頭ってのも、ボーイが自分でそう承知しているだけで、ほんとうに山瀬組の一家だかどうだか判ったもんじゃない。このほうも、しきりに追っかけているんだが、いまのところ、まだ消息不明なんだ。……なんでも、ボーイの話では、そのモダン・ガールがふらっとはいってきたのは、ちょうど十時頃で、そのすこし以前から、南風太郎と小頭と二人で、もう始めていたということだった。……(といって、額をなでながら)ああ、酔った、酔った。……空腹へ早駕さんまいでのんだら……眼がくらんで来た」
 となりの卓で、空になったビール瓶を前にして、さっきからもじもじしていた、二十四五の若い男が、このとき三人の方へ声をかけた。
「ねえ、那須さん。……僕ああの絲満南風太郎ってのを知ってるんです。(と、愛想笑いをしながら)……僕が深川の浜園町に住んでいた頃、よくあそこへ飲みに行ったことがあるんです。……あいつはね、もと毎年カムサッカや択捉エトロフへ出稼ぎに行っていたんですよ。なにしろ、もとは、絲満の漁師ですからね。……それで、そんなことをやってるうちに、北海道の北端の、例の留萠るもえ築港の大難工事が始まった。すると、南風太郎は自分の郷里から、二百人あまりの琉球の人間をだまして連れだしてきて、これを道庁の請負の大林組へ、一人八十円パで売り飛ばしたんだそうです。それで南風太郎は、かれこれ二万円ばかりの金を懐中にいれたわけなんですが、一方、売り飛ばされた方は、なにしろ気候が違うのと仕事が荒いので、第二期の突堤工事が出来たときには、二百人のうち生き残ったのは、わずか五七人だけだったそうです。……南風太郎は、そのほか西貢サイゴンやシンガポールあたりへ、ひどい女の沈めかたをしているそうだし、……あいつには、ひとのうらみもずいぶんかかっているわけで、僕の想像じゃ、こんどの事件は、必ずしも金だけの目的じゃなかったんじゃないかと思うんですよ。なにしろ、めぐる因果の小車で……」
 那須は、ドスンと卓を叩いて、
「お、この餓鬼のいうことは気にいった。……サンキュウ、サンキュウ! ……こいつあ、いいツルだ。……感謝する……君、君。まったく感謝する。(立って行って、若い男の首を抱きながら)オイ、……ときに、何か飲め……」
 若い男は、待ちかねていたように喉をならしながら、
「え。……じゃ、ビールと貝巻き、を」
「よしきた。……オーイ、ビールと貝巻きだ。束にして持って来いよ」
「こっちは日本盛だ。(と、もうだいぶろれつが廻らなくなった西貝が、だみ声をはりあげた)……オイ、久我千秋……久我千! おめえは高粱酒なんて、藁からとった酒ばかり飲んでいたんだろうが、わが日本の米の酒をのんで見ろ。……ぐっと一杯のんでみろ。……やい、那須一……那須一……、ここにいるこの若いのは、こんな風に化けているが、もとをただせば、タイヤール族なんだぞ。霧社の頭目だぞ。わかったか。那須、飲め……やい、駆出しの名探偵……」
 店のなかは、がんがんするような、やかましさだった。だれも相手のいうことなんかきいていない。めいめい自分勝手に、出放題なことを、大声でわめきちらしていた。

 二人連れの男が、戸をあけはなしたまま出ていった。そこから、黎明のほの白いひかりと、すずしい朝風がはいってきた。三人はもうものを言わなかった。ひどい眠気が襲ってきた。西貝は財布をだして、いった。
「もう帰ろう……」
「……僕、……僕にやらしてくれ、……いくら……」
 がくがく、と卓のほうへのめりながら、久我はポケットへ手をつっこんで、裸の紙幣をつかみだした。

 丁度その頃、雨田葵は、文園アパートの貧しい寝床のなかで眼をさます。
 葵は苦しい夢を見ていた。どんな夢であったか、思いだすことは出来なかったが、多分それは、自分の過去の、酸苦なある一日の出来ごとらしかった。……彼女の過去には、ここではふれぬことにしよう。
 ……彼女の過去は陰鬱な雲にとざされ、嗟嘆の声にみちみちてはいたが、しかし、彼女がはじめて久我千秋に逢ったときは、東京でのある悪夢のような一日を除くほかは、やや幸福であった(と思える)十二三歳の頃の彼女と、すこしも変ってはいなかった。
 彼女は横顔には、いまもなおその頃の、童女のおもかげをのこし、こころも肉体も、そのころのままに無垢であった。葵の愛嬌のいい、明るい顔つきは、ほとんどすべての男性に好かれた。〈シネラリヤ〉で働くようになってからも、すでに五六人の男友が出来た。そのうちの三人は結婚を申込んだ。(その中にはひとりの公使さえいたのである)しかし、彼女はそのいずれをも愛してはいなかった。(彼女の二十三年を通じて、彼女は、嘗つてなにびとも愛しはしなかった)
 葵が〈那覇〉で、はじめて久我のとなりに坐ったとき、彼女はまず、端正な久我の美しさに狼狽せずにはいられなかった。つづいて久我に話しかけられたとき、とりのぼせた彼女の耳は、なにを語られているのか、ほとんど理解することが出来なかった。
 彼女の知覚がようやく恢復したとき、こんどは、彼女は阿呆のようになっていた。……正確に言えば、彼女は臆病になり、粗野になり、相手の気にいりそうなことすらひとつ言えない、もの悲しい、不器用な娘になり切っていた。
 久我がはじめて〈シネラリヤ〉を訪れたとき、はじめ、葵には現実だとはどうしても信じられなかった。それほど思いがけなかったのであった。この喜びは彼女を溺らせて、狂人のようにしてしまうほどであった。
 久我がアパートまで葵をおくり届けたいと申出でたとき、彼女は不覚にも涙を流したのだった。
 葵は自分の部屋へはいると、いそいで着物をぬいで、スキーヤーのように白い寝床のスロープへ辷りこんだ。そして(あたしは、もうひとりではない)と、うかされたようにいくどもつぶやいた。いま、葵の部屋の薄いカアテンを通して、朝の光がしずかにほおえみかける。
 彼女はまだ四時位しか眠っていなかったが、もう充分に寝足りたような気持ちだった。身体のうちが爽やかで、頭のなかを風が吹きとおるように思われた。
 葵は、右の腕を頭の下に敷いて、夕方までの時間をどこで暮らそうかと考えた。空には一片の雲もない。青い初夏の朝空。葵は幸福にたえかねて眼をとじた。
 だれかが扉をたたく。多分、アパートの差配の娘だろう。それにしても、こんなに早くどうしたというのか……
 はいってきたのは、差配の娘ではなかった。
 揃いのように、灰色のセルの背広を着た二人の紳士であった。もう一人のほうは厳めしい口髭を貯えていた。
 慇懃にスマートに、出来るだけ気軽に話そうとしながら、
「……お手間はとらせませんから、ちょっと、洲崎署までいっしょに行ってください。たいしたこっちゃないんですよ。……ちょっとね。あなたも、とんだかかりあいで、ほんとにお気の毒です」
 葵は両手で顔を蔽うと、後へぐったりからだを倒してしまった。

 人影のない長い廊下には、警察署特有の甘い尿の臭が漂っていた。喰い荒した丼や箱弁の殻がいくつも投げだされていて、そのうえを蠅が飛びまわっていた。遠くで、劇しく撃ちあう竹刀の音がしていた。〈司法主任〉という標札のかかった扉があいて、分厚な書類の綴込をかかえた丸腰の巡査のあとから、葵がそろそろと出てきて、窓ぎわのベンチへ腰をおろした。
 おもやつれがして、まるで違うひとのように見えた。服は寝皺でよれよれになり、背中に大きな汗の汚点をつくっていた。首すじや手の甲はいちめんに、南京虫にやられた、ぞっとするような赤い斑点で蔽われていた。
 巡査がつぎの扉へきえると、葵はぼんやりした眼つきで窓のそとを眺めながら、無意識のようにぽりぽりと手の甲を掻きはじめた。
 窓のそとは空地になっていて、烈しい陽ざしの下で、砂利が白くきらめいていた。
 葵は急に眼をとじた。瞼のあいだから涙が流れだしてきた。泣いているのではない。烈しい光が睡眠不足の眼を刺激したのだ。
 葵は三日目にようやく留置をとかれた。極度の疲労と緊張のあとの麻痺状態が頭を無感覚にして、なにも考えることが出来なかった。なんのためにここへ坐りこんだか、それさえもあまり明白ではなかった。ただ、むやみに痒かった。
 葵は辛辣な取調をうけた。参考人としてではなく、殺人嫌疑で訊問されていたのだった。警察では殺人の前夜に〈那覇〉へ現れた女も、古田子之作へ遺産相続通知の電話をかけた女も葵だときめてかかっているのだった。
〈那覇〉の男が、どうもこの女ではありません、と証言し、葵にもたしかな不在証明があったのでこのほうの嫌疑だけはまぬかれたが、電話のほうは、古田が、こんなによく響く声ではなかった、と、明瞭に申し立てているのに、どうしても納得しないのだった。最後には、二人で共謀してやったんだろうなどと言い出した。こうなれば、弁明するだけ無駄のようなものだった。
 殊に、葵には、過去の経歴のうちに、明白にしたくない部分があったので、いきおい、答弁は曖昧にならざるを得なかった。係官は、そこへのしかかってきた。
 葵は、電話をかけたのは私ではない、というほか、どう言う術も知らなかった。しまいには、言うことがなくなって黙ってしまう。すると、いままで温顔をもって接していた司法主任は、急に眼をいからせ、顔じゅうを口にして、なめるな、このあまと、大喝するのだった。
 二日目の昼には、強制的に検黴された。もし病毒でももっていたら、その点で有無をいわせないつもりらしかった。警察医が指にゴムのサックをはめて、葵の肉体を調べた。
 結果は思いのほかよかった。警察医は妙な笑いかたをしながら、君、あいつは処女ユングフラウだぜ、といった。これが係官の心証をよくした。
 できるなら、葵はなにもかも告白して、ここから逃げだしたいと思った。こころがなげやりで、この世の幸福などは、すっかりあきらめていた今迄の葵ならば、たぶん、そうしたであろう。しかしいまは違う。久我の優しいまなざしを透して、その奥に、おぼろげながら、幸福な自分の未来を見いだしているのだった。二十三年の半生を通じて、いま、ようやく葵は幸福になろうとしている。この夢だけは失いたくないのだった。
 検黴室の鉄の寝台にねかされたとき、葵は憤りと悲しみで心がさし貫かれるような気がした。このときばかりは、さすがになにもかも告白しようと思った。それさえすれば、この恥辱は受けないですむのだ。だが、それをいえば、葵はもう終生久我に逢うことが出来ないであろう。久我への劇しい愛情が、この屈辱に甘んじさせた。涙があふれてきて、止めようがなかった。
 乏しい木立の梢をわたって、涼しい風がふきこんできた。葵はうとうとしかけた……
 廊下のはしに久我があらわれた。大股で近づいてくると、おしだすような声で、
「やあ……」
 と、いった。唇がぴくぴくと動いた。咄嗟に、なにもいえない風だった。
 葵は、とろんとした眼を半分ひらいて久我を見る。いっぺんに眼がさめた。
「ひどかったでしょう」
「なんでもなかった。……もうきょうは帰ってもいいんですって」
 わざと投げやりな調子で、いった。こんな風にでも言わなければ、わっ、と泣きだしてしまいそうだった。
 久我は、撫でさするような眼つきで葵を眺めていたが、急に葵の手の甲を指すと、驚いたような顔で、たずねた。
「どうしたんです、これは」
「……虫づくし、よ。……蚤、蚊、虱、南京虫。……辛かってんわ」
 そして、微笑してみせた。……うまく笑えなかった。
 久我は、すこし険しい顔になって、
「それは、ひどい。……それで、どうだっていうんです、警察じゃ」
「虫も殺さないような顔で大それたことをしやがって……」
「ひどいことをいう!」
「慾ばりのむくいよ」
 久我は、葵のそばへ並んで坐りながら、
「……もっともあなたばかりじゃありません。あの朝、〈那覇〉に集った連中は、みんなよばれているんですよ、新聞記者の西貝君まで。……あっちの部屋には、警視庁の連中ががんばっていて、いま、〈那覇〉の男と、乾と、古田を調べています」
「あなたも」
「ええ、もちろん、僕も。……だが、あなたが案外元気なんで安心しました。……心配してたんですよ、本当に、ひどいことをされやしないかと思って。……それに、この暑さだし……。せめて、なにか冷たいものでもと思って、いろいろ奔走してみたんです。でも、警察では、迂散くさそうな顔をするばかりで、なんといっても受けつけてくれないんです。かんべんしてください、ほっておいたわけじゃないんだから」
 葵は、もうひとたまりもなかった。掌で顔を蔽うと、身体をふるわして泣きだした。
 久我も、うるんだような眼になって、
「疲れてるんだ。はやく帰っておやすみなさい。……送っていってあげたいけど、僕ももうすぐ呼び込まれるでしょうし……」
 そういって、葵にハンカチを渡した。すぐ泣きやんだ。きれいに眼を拭うと、
「ごめんなさい。……いいえ、いいのよ。……それより、うち、ここで待ってます、あなたがすむまで……」
「いや、そんなことをしないで、もういらっしゃい。疲れてないわけはないんだから。……でももしよかったら、今晩……、(すこし調子づいて)じつはね、さっき向うで相談したんですが、今晩、〈絲満南風太郎の参考人の会〉をやろうってことになったんです。……新聞記者の西貝君、乾老人、古田君、それから、僕……。あなたは疲れてるでしょうから、お誘いはしないけど……」
 このまま、ここへ倒れてしまうのではないのか。……葵は気が遠くなりかけている。しかし、今晩久我に逢えるなら……。葵は、しずかに、いった。
「こんなの……三十分も眠ったら……なおるでしょう……。今晩……どこで?」
「七時。新宿の〈モン・ナムウル〉」
 葵が立ちあがる。
「お伺いします。じゃ、さよなら」
「じゃ、七時に」
 廊下のはしで、いちどふりかえると、夢の醒めきらないひとのような足どりで、そろそろと右のほうへ曲っていってしまった。
 久我は、そのほうへ手を振った。時計を出して眺め、それから、落ち着かなそうに、コツコツと廊下を歩きはじめた。
 間もなく、下の扉があいて、乾が出てきた。紗の羽織の裾をくるりとまくって、久我のまえに立ちはだかると、
「やっとすみましたよ。……馬鹿な念のいれようだ、下らん。……それはそうと、せっかくの会合だが、古田は来られんでしょう。上衣に血がついてるのが見つかった。……さもあるべきはずさ。見るからに悪相だからねえ、あいつは」
 そういうと、唇を歪めて、能面の悪尉のような顔をした。久我の背すじがぞっとした。
 返事も出来ないでいると、乾はゆっくり煙草に火をつけながら空嘯そらうそぶくようにして、
「この事件もこれで一段落か、おや、おや。……さりとは呆気なかったね。……あたしは公判がすきで、よく傍聴にゆきますが、刑事事件は面白いですな。……ちょいと関りあって見たいようなのもありますからねえ。……今度のなんざ、いささか関係が濃厚で、大いに楽しんでいたんですが、こう呆気なく幕になっちゃ、仕様がない。……それにつけても、いったい、日本の警察は迂濶ですよ。市民にもっと協力を求めなくちゃいけない。……密告制度を設けて、大いに投書を奨励するようにすれば、現在よりはかならず能率があがるようになりましょう。……
(にやりと笑って)もっとも、最近は、すこしよくなったが……。(と、いって、急に声をひそめると)実はね、古田子之作を密告したのはあたしなんです。……ふ、ふ、ひとに言っちゃいけませんよ。……うらまれますからな。警察に協力するのは市民の義務でさ。……生意気に! ひとを馬鹿にしやがるから。……ざまあ見ろ、人殺しめ。……では、今晩定刻に……」吸いさしの煙草を、火のついたままポイと廊下に投げだすと、踊るような足どりで、歩いていった。
 久我があっけにとられて、そのあとを見おくっていると、また扉があいて、こんどは、西貝が出てきた。ひどくはしゃいだ声で、
「おつぎの番だよ」
 と、いった。荒い息づかいをしていた。
 巡査が扉から首だけ出して、思いのほか丁寧な声で、久我さん、と呼んだ。
 久我がベンチから立ちあがろうとする拍子に、膝から麦稈むぎわら帽子が落ちた。どこまでもコロコロと転げていって、はるか向うの壁にぶつかると、乾いた音をたてて、そこでとまった。
 久我は、なぜかひどくうろたえて、帽子をとりあげると、よろめくような足どりで戻ってきた。
「おい、久我君、待ってるぞ。記者溜で」
 久我は、ちょっとふりかえると、妙に印象に残るような微笑をうかべて肯いた。扉がしまった。

「おお、どうでした、西貝さん」
 西貝が記者溜へはいってゆくと、ひどい煙のなかから、いきなり那須がこう声をかけた。三人ばかり立ちあがって、どやどやと西貝のそばによってきた。
 西貝はテエブルの上へ腰をかけると、怒ったような口調で、いった。
「小生なんざ、どうでもいいのさ。小生がいろいろと有益な進言をするんだが、まるで聴いちゃいないんだ。……ひとに喋らせて置いて夢中になって古田の聴取書を読んでいるんだ。……そら、あのチャップリン髭の……。なにかまた新しい証拠があがったんだな。……きいたか、那須」
 那須は書きかけの原稿を、鞄のなかへ突っこみながら、
「そう。……いろいろやってみると、あいつの行動シンジョウに曖昧なところが出てきたんだ。……〈那覇〉の奴がようやく今日になって言いだした。……そういえば、人殺しのあった前の晩の八時頃、古田が若い女をつれて酒をのみにきた。このほうは、はっきり見たから顔は覚えている。二十二三のいい女だった。……声にきき覚えはないか、と、係がきくと、あまり口数をきかずにつんとすましていたから、どうも、声はよく覚えていないと、いうんだがね。それで……」
「それで、その女は古田のなんだ?」
「それが、窮してるんだよ、古田のいうことは、……小柳橋の袂でその女に逢って、姐さん、一杯いこう、と声をかけたら、イエス、といってついて来た、てんだ。……だが、おおよその捜索方針スンポウはきまったらしい。本庁の意見も一致した。現場の証拠はウスいが部屋の手のつけかたから見て、初犯の手口だということになった。犯人ホシは、いまのところ女だという予想ミコミなんで、懸命ガセイにその女の行衛アシドリヒロってるんだね。……結局」西貝が、ひったくった。
「結局さ、そんなものを追いまわす必要がないんだ。……葵をもっとひっぱたけば、いやでもその女が出てくる。……つまりAはBなり、さ。……しかし、こういう方法論を、あの男がわかるはずはない。……もっとも、あんなうす馬鹿に看破されるような、幼稚な証明の仕方はしなかったろうが、……要するに、生物変化の過程を、あの低能児は、個々の現象としか眺め得なかった。西貝計三は、白髪になっても西貝計三だ、という理窟がわからんのだ。……そんなウンテレガンの証言を捜索の基礎にしてるんだから、こりゃ、いつまでたったって解決する筈がない。……電話の声にしたってそうだ。声の音色なんざ問題じゃない。古田と葵の二人だけが、特別の方法で通知を受けたという点が重大なんだ。……これだけで、二人の間に、なにか共通の劣性因子があることが、充分察しられるじゃないか。うっかり口をすべらしたばっかりに、これがいま、あいつらの弱点になっている。……現にその点で、さかんに共同製作をやってるじゃないか。……片っぽうで、こんな声じゃなかった、といえば、片っぽうじゃ、こんな正直な方はありません、なんて、ぬかす。……おい、那須。……なにしろ、あの女は馬鹿じゃないんだ。しっかりしろよ。よ、名探偵」
「さようそこがトウシローと名探偵のちがいさ。(那須が笑いながら、やりかえす)……葵はね、西貝さん。その、九時って時間には、ちゃンと〈シネラリヤ〉で働いていたんですぜ。しかもひと晩じゅう、葵のそばにへばりついていたのは……、(と、いいながら、となりのモダン・ボーイ風の記者を指して、)なにを隠そう、こいつなんだから話はたしかだ。……こいつはね、一名、ダニ忠といって、女のそばにへばりついたら、雷が鳴ったって離れやしないんだから……それに、あの晩はこいつが……」
 べつの一人が、あとをひきとって言った。
「アパートまでお送り申しの、ていよく戸口で断わられの、赤電を追っかけてスッテンコロリンの……やだナ」
 みなが、どっと笑う、西貝がいった。
ひとごろしは午前三時だ」
「でもね、葵は朝まで部屋にいたんですよ。……葵が帰ると、かならず差配の娘が起きて玄関をしめることになっている。……あの晩も、玄関をしめてから、五分ばかり立ち話をして、それから二人が寝にいった」
「窓に非常梯子がついている」
 那須は、やりきれない、という風に苦笑しながら、
「そいつあ下らない。……若い女が、夜半に非常梯子をおりて、新宿から深川までゆき、人を殺してきて、またそこから部屋へはいる。……これを、だれの眼にもかからずに、始めからしまいまでやってのける。……やってやれないことはなさそうだ……が、まず、ほとんど絶対に不可能だ……。可能内に於ける不可能の部分……。日常生活内における虚数イマジナル・ナンバーだ。……安全率が微小すぎて、実用に耐えんのですな。嘘だと思ったら実験してごらんなさい。あなたの窓にも非常梯子がついてるでしょう」
「できる」
「午前二時頃……」
「そうだ」
「おやおや、実験ずみとは知らなかった」
「実験したとは言ってやしない。しかし、実験して見せてもいい。これはね、一人の人間を二つに割って使えばわけなくできる。……不可能内に於ける可能の部分さ……たとえば……」
 横あいから、一人が、頓狂な声で口をはさんだ。
「それはそうと、西貝さん。……あんたこそ、あの晩どこにいたんです」
 きっ、とそっちへふりかえると、厳しく眉をひそめながら、
「なんで、そんなことをきく」
「なんで、ということはないが、あの晩、僕あ〈柳〉で金を足らなくして、二時頃あんたんとこを起したんです。……あんたがいないんで僕あ弱っちゃった。……あそこはあんまり馴染じゃ……」
「銀座にいた」
 斬りつけるような返事だった。
 壁の大時計が、三時をうつ。
 那須が立ちあがって、欠伸をしながら、
「お茶を飲みに出ませんか、西貝さん。そこで、つづきをやりましょう」
「もう、やめだ。かまわず行ってくれ。俺はここで久我を待ってる」
 すると、ダニ忠が、いった。
「久我、ってあの若い男、……ありゃあ、特高の第二係じゃないか。……僕あたしかに本庁で見かけたことがある」
 狼狽したような眼つきで、相手を見つめながら、西貝がいった。
「第二係? ……そ、そんな馬鹿なことはないだろう」
 西貝をのこして、みなが、がやがや言いながら出ていった。

 久我が、まず先にやってきた。みなの来るまえに、すこしでも葵と二人きりで、話したかったのだ。広間のまんなかの卓について水を貰った。なま温い水だった。
 広間には、むやみに人がつまっていて、みな申し合せたようにジョッキをひかえていた。大きな扇風器が、いらだたしく天井で羽搏いていた。
 葵がやってきた。富士絹のブルウゼに薄羅紗うすラシャのスカートをつけ……まじめな百貨店の売子のように、さっぱりと地味ないでたちだった。駆けつけるように寄ってきて、久我のとなりへ坐ると、苦しそうに息をきった。
「はあ、はあ、いってますね、どうしたの」
 ふ、ふ、と笑うばかりで、返事しなかった。
「お腹は明けてあるでしょうね」
 子供のように、いくどもうなずいた。
 広間の入口のところで、西貝と乾がうろうろしている。葵がそのほうへ両手をあげて、それを手旗のように振った。
 二人は、遠くから、やあ、やあ、いいながら近づいてきた。乾は黒い上衣を着、その下へ固苦しく白チョッキをつけていた。扇子で手首へ風を入れながら、
「苛酷なる司直の手より脱免し、四士ここに無事再会。こうして一杯のめるというのは、まずまず祝着のいたり。(と、べらべら喋ってから、葵のほうへ短かい顎をつきだし)……ねえ、葵嬢。なにかと、ずいぶんうるさかったでしょう。いや、お察ししますよ。こんどは、どうもあなたがいちばん分が悪かった。美しく生れると、とかく損をするて……」
 西貝は、露骨にいやな顔をして、
「警察のはなしはよしましょう。なにはともかく、とりあえず喉を湿めそうじゃないか。ちぇっ、誰も寄って来やがらない。(劇しく卓を叩きながら)おい、給仕! 給仕はみな、死に絶えたのか」
 と、叫んだ。乾は三人の顔を見まわしながら、
「……ときに、今夕の散財は、どなたのお受持でございますか。……いや、それとも? ……こういうことは、予めはっきりして置くほうがいいので……」
 久我が、こたえた。微笑しながら、
「失礼ですが、今日は私にやらせていただきます。……東京に馴れぬので、こんな殺風景なところを選びましたが……」
 乾は、それは、それは、と、卑しい笑いをうかべながら、
「このたびは、じっさい不思議なご縁でした。……しかしながら、こういう結着になりますなら、不幸、かならずしも不幸ではない。なにとぞ、今後ともご別懇に願いましょう。……殊に、こういうお催しは将来もたびたびやって頂きたいもんで……。では、ひとつ、寛ぎますかな」
 と、いうと、上衣をぬいで、ワイシャツの袖をまくりあげた。葵はうつむいて、くっくっ、と笑いだした。笑いがとまらない風だった。
 乾は、いっこう意に介せぬようで、うるさく、ピチャ、ピチャと舌鼓をうちながら、
「……諸氏の顔を見るにつけ、思いだされるのは、遺産相続の件ですて。……あたしはね、最近、あれこれと考えあわせて絲満氏さえ殺されなければ、かならず、いくばくかの遺産を手にいれていたろう、と思って、絲満氏の下手人が憎くて憎くてならんのです」
「面白いですね。それはどういうんですか」
 と、まじめに、久我が、たずねた。西貝も葵も、フォークを休めて顔をあげた。
「あの遺産相続の通知は、洒落でも冗談でもない。正真正銘のことだったのです。……告知人は、すなわち絲満南風太郎そのひとだったんで。……あの朝、五人を自分の店へ招んで、それぞれ財産を分与するつもりだった。……思うに、そのひとは、癌かなにか病んで、みずから余命いくばくもないことを知っていた。しかも、手紙の文面から察すると、病態はすこぶる険悪だったのですな」
 西貝がふきだした。
「……乾老。あんたも新聞を読んだろうが、絲満って男は、古今未曽有のあかにしだったんですぜ。……その男が、どこの馬の骨かわからないやつに、自分の財産を……」
 しずかに、乾がこたえる。
「たぶん、そう言われるだろうと思っていました。……あたしも新聞を読みました。新聞で絲満氏の性行を知るにおよんで、いよいよ、あたしの想像がまちがっていないことがわかったのです。……西貝氏、あなたがそういわれるのは、吝嗇漢というものの心情を解していないからです。(ひと口のむと、またコップをおいて)正直なところ、かくいうあたしも吝嗇漢です。されば、あたしには、絲満氏の気持がじつによくわかる。いったい、吝嗇漢というものは、そういう絶対境に追いこまれると、得てして非常に飛びはなれたことをやりだす。……絶体絶命だ、どうしても天命には勝てん、なんていうことになると、いままで、圧しつけに圧しつけていたものが、一ぺんに爆発する。……唯物凝固の世界から、一躍にして、虚にして無なる境地に直入する。あかにしであればあるほど、反動も大きければ爆発も異常だ。……ご承知の通り、あの前夜、絲満氏は見知らぬ女に大盤振舞をし、自分もしたたかに飲んだといいますが、絲満氏を知っている連中の話では、そんなことは何十年来なかったことだそうです。……これなどはじつに、その辺の消息を雄弁に物語っているじゃありませんか。……どうです。それでもまだご異存がありますか。……(急に調子をかえて)だからさ、どの位あったか知らないが、当然手にはいっていたものを、むざむざ横あいからひっ攫われたかと思うと、あたしあそれが残念で、いても立ってもいられないんだ。……(卓の上へ両手をついて、三人のほうへ身体をのりだすと)あたしあ、巳年生れでね。これで、嫉妬心もつよければ、また、ずいぶん執念も深い性なんだから、こんな目に逢わされてだまって引っこんでるわけはない。……あたしの手で、いまにきっと、そいつをとっちめてやるつもりなんだ。……なアに、どうせ長いあとのこっちゃアありゃしない。……いまに見てろい、どんな目を見るか! ぬすっとめ!」
 そういうと、急にぐったりと、卓の上へ頬杖をついて、うわごとのように、なにかぶつぶつつぶやきはじめた。酔態としても、これはかなり異様なものだった。
 西貝が、久我に、ささやいた。
「恐ろしい精神状態だ」
 久我は、ささやきかえす。
「むしろ、奇抜ですね」
 西貝がいった。
「……乾老。……性格のちがいというのはえらいものだね。……小生は寅年生れだが、遺産のことなんか、とうに忘れていたよ」
「忘れるのは、あんたの勝手だ」
 乾が、うなるように言いかえした。
「ま、立腹したもうな。……しかしながら、絲満の加害者が、あんたの血相を見たら、たいていすくみあがるだろう。なにしろ、凄かったぜ」
 乾は、ふふん、とせせら笑っただけで相手にならなかった。
 久我がにやにや笑いながら、
「同感ですね。……私はついさっき取調室から出てきたばかりですが、帰りがけに、司法主任がこういってました。……だいぶご機嫌でね、……君、加害者はやっぱり、あの朝〈那覇〉へきた五人のうちの一人なんだ。見てたまえ、誰れだか明日になればわかるから、って……。(いかにも面白そうに、三人の顔をながめながら)……して見ると、加害者はこの一座のなかに、いるのかも知れないですね。……私かも知れない。いや、殊によったら、乾老それ自身かも……」
 久我が、まだ言い終らないうちに、乾が、すっくと立ちあがった。いまにも投げつけるように、ジョッキの把手を握りしめ、眼をくゎっと見ひらいて、久我を睨みつけながら、
「なんだと! ……もう一ぺんいってみろ、畜生!」
 と叫んだ。洲崎署の廊下で見た、あの悪尉の面になっていた。
 西貝は、これさ、これさと芝居がかりに手をふりながら、乾に、
「大きな声はよしたまえ。……みなきいてるじゃないか」
 乾は、久我を睨みすえて、もう一度、
「畜生!」と叫ぶと、急に、崩れるように椅子の中へ落ちこみ、両手で顔を蔽って、啜り泣きはじめた。しゃくりあげて泣くのだった。
 西貝は、手がつけられない、という風に、頭を掻きながら、
「ちぇっ、泣き出しちゃいかんなあ。……(卓ごしに手をのばして、乾の肩を叩きながら)乾老……。これさ、乾老。君の酒もあまりよくないねえ。……泣くほどのことあ、ありゃしない、冗談じゃないか。……(そして、久我のほうへ片眼をつぶって見せた)久我氏、貴殿もすこし慎しまっせえ。老人にからかうなんざ、よくないよ」
 久我は、てれくさそうに笑いながら、乾に、
「かんべんしてください。冗談なんですから」
 乾は、ようやく顔をあげると、涙で濡れた眼で、うらめしそうに久我を見ながら、
「いけないよ。冗談にしても、あんなことをいうのは。……とうとうあたしを、泣かせてしまって……」
 そして、掌で眼を拭った。もう泣いていなかった。
 久我が、いった。
「つい、なんでもなく言ったんですが……。かんべんしてください。……いまのは、私の冗談ですが、……でも、司法主任がそういったというのは嘘じゃありません。……こんなことを言ったら、また気を悪くなさるかも知れませんが、……現に、あそこに、……(そう言いながら、卓の上へ低く顔を伏せると、ささやくような声で、葵にいった)葵さん、そのまま、しずかに顔をあげてください。(葵は顔をあげて怯えるような眼つきをした)……いや、なにも恐いことじゃありません。……奥から三番目の柱の横の……椰子の鉢植のそばの卓に、男が一人坐ってるでしょう。……見えましたか? ……(葵がうなずいた)そう。……あれは警察の人間です」
 葵は眉をひそめながら、ほとんどききとれぬような声で、いった。
「……もう、すんだと思ってたのに。……いややわ」
 久我が、つづけた。
「あの男を、私は洲崎署の刑事室で見たんです、二度ばかり。……(西貝と乾に)さっきお二人が、あの男の傍をとおりぬけようとすると、あの男は、お二人のほうを顎でしゃくって、誰れかに合図してました」
 西貝が、高っ調子でいった。
「じゃ、たぶん小生の知っとるやつだろう。……小便しながら面を見てくる。大きなことをいったら、とっちめてやる」
 虚勢を張っているようなところもあった。乾は、子供のように手をうち合わせながら、叫んだ。
「そう、そう、……おやんなさい、おやんなさい!」
 西貝は、立ちあがると、どすん、どすんと足を踏みしめながら、そのほうへ歩いていった。乾は眼をキラキラ輝やかせながら、熱心にそっちを眺めていた。西貝は、皿のなかへうつむいている男のそばへ近づく。そこで歩調をゆるめて、じろじろと、しつこくその顔を眺め、それから、広間の奥の手洗所へはいって行った。

 食事がすむと、西貝と乾は、ひと足さきに帰る、と、いいだした。もう、大ぶいい機嫌で仲よく肩をならべながら出て行った。
 しばらくの後、葵は、臆病そうに口をきった。
「送ってちょうだい。……ひとりでは、うち、恐ろし……」
 久我は、それに返事せずに、笑いながら、
「さっきの司法主任の話、あれ、出まかせです。乾老が、つまらないことをいつまでも喋言ってるから、ちょっと黙らして見たんです。……これで、なかなかひとが悪いところもあるでしょう。……(すこし真面目な顔になって)葵さん、あなたはもう喚びだされることはありませんから、心配しなくても大丈夫です」
 と、いうと、上衣の内ポケットから、金色の紋章のはいった警察手帳をとりだすと、はじめの頁をめくって見せた。〈久我千秋〉と、彼の名が書いてあった。
「安心してください。……私がこう言うんだから……」
 そして、やさしく葵の手をとった。
 どうしたというのか。……葵は急に蒼ざめて、低く首をたれてしまった。久我の掌のなかで、葵の小さな手が、ぴくぴくと動いた。早くそこから逃げだしたいという風に。

 事実は小説よりも奇なり、ということは、たしかに有り得る。しかし、それが奇にすぎ、すこし通常の域をこえていると、もう一般からは信じられなくなってしまう。小説の場合と全く同じである。
 絲満南風太郎の殺人事件も、〈謎の女〉とか、〈未知の財産遺贈者〉とかいう工合に、偶々過剰な架空的要素を含んでいたので、小説嫌いの、実直な世間からは、いささか小馬鹿にされているかたちだった。
 しかし、一方には好奇的傾向の強烈な連中もいて、(これは、いつも案外に大勢なのだが……)その方面で、一週間以来、この事件はさまざまに論議されていた。
 加害者が若い女で、しかも、初心者の手口だというところから、いうまでもなく、これは情痴の犯罪だ、などと、うがった批評をするものもいた。……早合点をしてはいけない。では、遺産相続通知のほうはどうだというのか。情痴説は、そこで、ぐっ、と、つまってしまう。〈その女〉については、新聞もいろいろと奇抜な想像を加えて書きたてたが、一般が最も知りたがっている、〈謎の遺産相続通知〉の真相については、たぶん、警察の捜査方針を混乱させるための犯罪者のトリックであろう、という以外に、満足な説明をすることが出来ないのであった。
 犯罪の前夜、〈那覇〉に現れたという、二十二三のすらりとした断髪の〈その女〉はその後杳として行衛が知れないのだった。しかしその存在は肯定されていた。智能不全な〈那覇〉のボーイの幻視ではなかったのである。〈その女〉を認めた人間が、ほかにもう一人いた……。
 ある警官が、その夜、越中島の帝大航空試験場の前を右へ折れて、古石場町四丁目のほうへ歩いてゆく女を見た。もう、間もなく午前三時という時刻だった。非常に急いで歩いておりました。店を仕舞ってきた女給のような風態か。いや、そういう種類の女ではありません。上品な身なりの……どこかの令嬢といった風態だったのであります。時間も時間でありますので、私は訊問しようと思い、おい、おい、と、声をかけようとする途端に、四丁目一番地の角を曲ってしまいました。丁度その時、私は、その道と丁字形に交わる路地の奥を巡回して居りましたので、急いでそこを飛びだし、その角を曲って見ましたが、その時はもう姿が見えなかったのであります。……ご承知の通り、あの辺は小さな路地が錯綜している場所でありまして、いかんとも手の下しようがなかったとはいえ、完全に職務を遂行し得なかったことに対し、甚だ自責の念を、感じているのでありまして……
 その警官は、夕刊で南風太郎の殺害事件を読むと、報道された〈その女〉の風態が、前夜見た女のそれと、まさしく一致しているので、恐惶して、早速そのよしを上官に報告した。捜査の重点は直ちにこの部分へ移され、警視庁捜査第一課と、洲崎署の全力は、古石場町を出発点にして、全市域に亙って、その足跡を追跡しはじめた。
〈その女〉は、牡丹町三丁目から右折して平久町へはいり、曲辰かねたつ材木置場の附近まで行ったことが判ったが、足跡は、そこでバッタりととだえてしまった。突然、大地へとけこんでしまったのである。
 なんの手がかりもないままで、それから一週間たった。今朝のある新聞は、警視庁が女尊主義フェミニズムの傾向におちいるのは、捜査のために、あまり有益なことはあるまいと、揶揄していた。

 葵は寝床のなかで、それを読んでいた。
 久我が予知したように、その後、葵は召喚されることもなかったので、毎朝、ゆったりした気持で、新聞に読みふけることが出来るようになった。
 葵は、この事件の記事が眼にふれるたびに、はじめて久我と逢った朝のことを、いつも、こころ楽しく思いだす。いろいろな記憶の細片デブリ……。とりわけて、特高刑事だと明されたときの、強烈な印象を思いかえす。
 あのとき、葵が蒼ざめて首をたれたのは、これほどまでに真率な久我にたいし、あくまでも偽りとおさねばならぬ、いまわしい自分の経歴を悲しんだからだった。
 葵が久我に、一ヵ月ほどまえに、はじめて東京へ来たといったのは嘘である。彼女は東京で生れ、そして、そこで育った。
 葵はある大名華族の長女に生れた。西国の和泉いずみ高虎の一門で、葵の家はその分家だった。代々、木賀に豊饒な封地をもち、瓦壊前は鳳凰の間伺候の家柄だった。
 旧幕時代の分家というものは、親戚であっても、だいたい、家臣同様の格に置かれたものだが、和泉藩に於ける分家とは、あたかも、主人にたいする奴僕ぬぼくの関係にひとしかった。葵の家の家憲には、つぎのような一章があったのである。
〈……ひたすら、ご本家さまに恭順し、いかなるご無能のおん申しいでにても、これに違背せざるを、家憲の第一といたすべく、子々孫々……〉。この家憲は、現代もなお、違背なく固く遵守されているのだった。
 葵の父は、生来羸弱るいじゃくな、無意志な人物だった。母は美しいひとだったが、劇しい憂鬱症ヒポコンデリーで、葵のものごころがついた頃には、もう、ひとり離れた数寄屋のなかで起居し、いかなる人間にたいしても口をきかなかった。
 和泉家のさまざまな慣例のうち、本家の二男三男は、分家の女子と縁組するのが、代々の規定になっていたので、葵もその例に洩れることは出来なかった。実情を明かせば、本家の家系は、いわゆる劣性家系であって、屡※(二の字点、1-2-22)手のつけられぬ不適者をだした。こんな家に嫁の来手はないのだから、強制的に分家の女子を、それらの※[#「やまいだれ+発」、U+3FB1、36-上-16]疾にめあわす必要があったのである。
 このようなわけで、葵は先天的に夫をもっていた。葵の夫とさだめられていたのは、正明という本腹の四男であった。これは純粋の痴呆で、のみならず、眼球震盪症といって、眼球が間断なく動いている、無気味な病気を持っていた。
 葵の十五の春に、父が喉頭癌で死ぬと、分家を立てるという名目で、二十一歳の正明が、急遽、葵の家へおくだりになることになり、葵はその夜から、この阿呆と同室で、夫婦のように起居することを強いられるのだった。本家から正明に附属してきた老女が、(これは、言いようない愚昧な女だったが)初心な娼婦をなやす遣手婆やりてばばのように、心得顔に万事をとりしきって、分家のなにびとにも有無をいわせなかった。
 つぎの夜、正明は猛然と葵の前に立った。彼は異常な Satyriasis の傾向をもっているのだが、実際のことは知らなかった。老女が教えても、それを了解することが出来ない風だった。しまいにれてくると、爪をのばして、ところ嫌わず老女を掻きむしるのだった。
 忠義一途なこころから、老女が力いっぱいに葵をつかまえる。その近くで、白痴面が、れいの眼玉をたえずギョロギョロと動かし、鼻翼をふくらませながら、夢中になって無益な身動きをつづけているさまは、なんといっても、この世のすがたと思われなかった。
 しかし、結局は、いつも葵のほうが勝つ。力いっぱいにはねのけると、母のいる数寄屋まで逃げてゆくのだった。すると、老女は、この家には、たれ一人自分に手を貸すものはない、言語道断な不忠ものばかりだ、といって、さんざんに猛りたち、あげくは、大声で泣き出すのだった。この格闘は、ひと月に五六度は、きまってくりかえされるのだった。
 葵はこの環境から逃げだすことばかり考えていた。もとより母は※[#「やまいだれ+発」、U+3FB1、37-上-1]人でたのみにならない。ここから逃げだして、世の中で生きてゆくには、自ら営々とその力を養うほかはないことを覚った。ただひとり、彼女に力をあわしてくれたのは、一週に三度ずつやってくる、若い女の家庭教師だった。葵は、あらゆる方法を、感情を、手芸を、世間を孜々としてこの婦人から学びとった。葵は十八歳の秋に家をすてた。五島列島の福江島へゆき、そこの、加特力カトリック信者の漁師の家に隠れた。(これは家庭教師の生家だった)二十一の春までそこで暮らし、神戸のダンス・ホールで二年ちかく働き、二た月ほど前に東京へ帰ってきて〈シネラリヤ〉へ通いはじめた。
 葵が警察で自分の過去をうちあけなかったのは、こんどひき戻されると、もう、久我に逢うすべがなくなるからであった。(正明は健全で、しきりに彼女の帰宅を待ちわびている)こういう場合警察が彼女の味方をするべきいわれはない。六年前の捜査願を適用して、完全にその職能をはたすであろう。
 久我を偽っているのは、ひとえに、彼女の劣性家系を知られたくないからだった。たぶん久我は彼女の血のなかにも、不適者の因子を想像して、たちまち、面を蔽って逃げだすであろう。真実を言うために久我を失うのは、耐えられないことだった。……それに、すでに嘘をいいすぎている。もう、とりかえしがつかないのだった。葵は告白しないことに決心している。
 それにしても、久我は美しかった。恋人として見るときは、不安を感ぜずにいられないほど、端麗な顔をしていた。こんな青年が警視庁にいるとは信じ難いほど、優雅な挙止をもっていた。〈シネラリヤ〉へ集ってくる最も貴族的な青年たちですら、久我ほどの典雅さエレガンスはもっていないのであった。
 いまでは、葵は久我の真実と、愛情にいささかの疑も持っていなかった。彼は葵を警察から〈釈放〉さえしてくれたのである。これが愛されている証拠ではなくてなんであろう。たぶん、そう信じていいのに違いない。
 その美しい容貌にかかわらず、久我の性情は堅実だった。そのうえ、彼はすぐれた詩人だった。もう五年……、すくなくとも、四十になるまでには、彼は、なにかひとかどの仕事を成しとげるであろう。家庭にいて、自分もそれに協力するのは、楽しいことに違いなかった。一日もはやく、ダンサーなどはよさなくてはならない。彼のために、そうするのが至当である。……
 葵は、アパートの差配の娘や、〈シネラリヤ〉の仲間に久我のことを話すときは、彼を(許婚者フィアンセ)とよんでいた。彼女に好意をもつほどのものは、一日もはやく、その披露式を見たいと望むのだった。だれよりもそれを望んでいるのは葵自身であるが……
 葵は、ほとんど毎晩(許婚者)に逢っていた。久我が〈シネラリヤ〉へ葵を迎いに来、それから角筈の界隈で、なにかしら、二人で夜食をたべるのだった。西貝もときどき仲間をつれて、二人の夜食に加わった。乾老人の骨董店も、すぐその近くにあったので、迎えにやれば一議に及ばず駆けつけてきた。
 葵は、久我と二人きりでいるときも、大勢で卓についているときも同じように楽しそうだった。殊に、そういう時は、久我のそばによりそっていて、初心の主婦のように、いろいろと細かい心づかいをするのだった。西貝が、酔って猥談をしても腹を立てなかった。乾がコップから酒をこぼして胸をぬらすと、そのたびに立って行って、やさしく拭ってやるのだった。すると、乾は、葵嬢よ、あんたを最初に警察に密告したのは、このあたしなんだが、なんとも、かんとも申しわけのない次第で……、と、顔じゅうを涙びたしにして、繰りかえし巻きかえし詫びるのだった。
「……つまり、ひがんでるんだねえ。……これが、あたしの悪い病さ。……ひねくれた書記根性ってのは、一朝一夕ではなかなかぬけきらない。……そこへもってきて、五十二年の鰥寡孤独さ。意地悪をするのが楽しみになるのも無理はなかろう。……しかし、まあ、かんべんしてくださいよ。あなたにゃ、まったく、すまないと思ってるんだから……」
 二時ごろまで、……時には、こんな風にして、たのしく夜をあかすのだった。

 暗い空で稲光りがしていた。久我は、いつものように葵をアパートまで送ってきた。なかへはいろうとする葵を、ちょっと、と、いって呼びもどすと、聴きぐるしいほどどもりながら、いった。
「……葵さん、どうか、僕と結婚してください。(そういうと、逃げるように、すこし身体をひいて)じゃ、おやすみ。……いや、いますぐ返事しないで……、一晩よく考えて、あすのひる、僕のところへやってきて下さい、一緒に食事をしましょう。……(そして、つぶやくような声で)……もし、承知してくれるなら、……手袋をはめてきてくれたまえ。……あの、レースのついたほうを……」

 久我と葵は結婚した。
 絲満南風太郎の殺人事件は、はしなくも、とうとう一組の幸福な夫婦をつくることになった。
 二人ながら両親がなく、親戚というものもこの東京に持っていないので、披露式の祝いの席に連なるものは、いきおい、あの朝、〈那覇〉で逢った連中のそれ以外ではなかった。西貝計三、乾老人、……それに、若い新聞記者の那須が一枚それに加わった。新宿の、〈天作〉という小料理店の離れ座敷だった。
 西貝と那須は、大理石の置時計を贈って、大いにきばったところを見せた。
 乾は大きな地球儀を贈った。これで、どうしろというのだ。……その詮議は、どうでもいいとして……
 西貝が、立ちあがって祝辞をのべた。人差指で、鼻の孔をほじりながら、
「……要するに、結婚の功利的方法というのは、一日も早くガキを産んで、自分らの責任を、全部ガキどもになすりつけてしまうことなんだ。七つになったら、どんどん尻をひっぱたいて、小銭を稼がせろ。……いくら出来の悪いガキでも、(歌わせてよ)位はやれるからな。……偶※(二の字点、1-2-22)、出来のいいのをヒリ出したら、じつにその効用計りしるべからず。……すえは芸者かネ、花魁おいらんか、サ、なにも、おやじがあくせくして稼ぐものはねえ、功利的結果が、よってたかって、飯を喰わしてくれらアね。……さればさ、無数のガキを産んで、老後、ますます安泰に暮らされんことを、謹んでいのります」
 そして、両手をあげて、万歳! と叫んだ。那須が、キンキラ声でそれに和した。みな、もうだいぶ酔っているのだった。そんな祝辞があるものか、真面目にやれ、真面目に! 乾老が、泳ぎだしてきて、抗議した。
「……ちょっと伺うがね、そいで、喰わせるほうはどうするのかね」
「わけアないさ。ガキ同志で、相互扶養をやらせるのだ。……兄はすぐのその下の弟を養う義務がある。その弟は、すぐまた下の弟を……。こんな工合に順ぐりにやって行く。……一番ビリのガキは一番上の兄を養う。……要するに、久我夫妻は、手を束ねて見ていれあいいのさ」
 乾が、憎々しい口調で、つぶやいた。
「ふん、新聞記者の頭なんて、たわいのないもんだ」
 これがキッカケになって、二人は口論をはじめた。那須までそれに加わって、追々手のつけられないようになって行った。
 葵は、そんな騒ぎも、ほとんど耳にはいらないようすで、うっとりと眼をほおえませていた。……暗澹たる過去の残像も、記憶も、夢野の朝霧のようによろめきはじめる。霧がはれて、野のうえに、いま、朝日がのぼりかけようとしている。快活な、新しい生活の寝床では、むかしの夢さえ見ないであろう。……なにより、自分はもうひとりではない。赫耀たる詩人の魂をもった、このアドニスは、自分をひいて人生の愉楽の秘所にみちびいてくれるのであろう。……葵は、そっと卓の下をまさぐった。そこに、久我の手があった。それが葵の小さな手を、そのなかに温く巻きこんだ。葵の背すじを、ぞっ、と幸福の戦慄が走った。
 口論がひと句切りになったとみえて、西貝が、亀の子のように首をふりながら、葵のほうへ近づいてきた。
「……人殺しイがア、とりイもつ縁かいな、と。……愉快ですなア、奥さん」
 と、いいながら、いやらしく、葵の肩にしなだれかかった。葵は、微笑しながらうなずいた。
 那須が、むこうのはしから、君、葵君、といいながら立ちあがってきた。
「ねえ、葵君。……ダンサア稼業に訣別の夜だ。記念のためにタンゴを踊ろう。……(久我のほうへ顔をつきだしながら、)ね、いいだろう、久我。……妙な面アするなよ。……亭主なんか、どんな面をしたって、かまうもんか。……葵君、さ、踊ろう、踊ろう……」
 葵の手をつかみ損ねて、卓の上へのめり、勢いあまって、喰べ荒した皿小鉢といっしょに、乾の膝の上へころがって行った。それで、またひと騒動がはじまった。

 纒いつくように、夫に寄りそって、中野の、二人のアパートまで帰りながら、葵は、歌いだしたいほど幸福だった。
 久我が、いった。
「……今週の終りごろ、僕は公用で台湾まで行かなくてはならない。……(葵の肩を抱きよせながら)もちろん、君もゆく。……竜眼と肉色の蘭の花のなかで、結婚するんだ、ね」
 返事をするかわりに、葵は、眼をつぶって唇をさしだした。木立が影をひく、蒼白い路のうえに立って、二人はながい接吻をした。

 十一時零分、東京駅発、下関行急行。
 二人は大雨のなかを、東京を発っていった……。
 乾が、息せききって駆けつけてきて、大阪寿司に一箱のキャラメルを添えて、二人の窓のなかへ押しこんだ。
「すぐ帰って来ますわ」
 葵が、乾にいった。そして、そのほうへ子供のような、小さな、嫋やかな手をさし出した。
 汽車が出て行った。

 乾が帰ってきた。夏羽織の肩も裾もぐっしょりと濡らして、まるで川へはまった犬っころのようなみじめな風態だった。
 ぬれた内懐から気味わるそうに鍵をひきだして、鍵孔にさしこもうとすると、思いがけなく、すうっ、と扉が内側へあいた……
 急に眼つきを鋭くして首をかしげる。しめ忘れたはずはない。……だれか内部にいるのだ。扉のすき間に耳をあてて息をころす。それから、二三歩身をひくと、きっと二階の窓を見あげた。
 西洋美術骨董、と読ませるつもりなのだろう〈FOREIGN ARTOBJECTS〉と書いた看板のうしろで、窓の鎧扉がひっそりと雫をたらしていた。飾窓も硝子扉もない妙に閉めこんだ構えの、苔のはえたような建物だった。
 扉をあけてそっと店のなかへはいり、身体をまげて板土間の奥のほうをすかして見る。
 足のとれた写字机、石版画、セーブル焼の置時計、手風琴、金鍍金メッキの枝燭台、古甕……鎧扉の隙まからさしこむ光線のほそい縞の中で、埃をかぶった古物が雑然とその片鱗を浮きあがらせている。その奥のうす闇のなかで、ちらと人影らしいものが動いた。
 入口の扉に鍵をかけると乾はずかずかと、そのほうへ進んでいった。
「誰だ、そこにいるのは!」
 闇のなかの人物は身動きしたのであろう。かすかに靴底の軋む音がした。どうやら長椅子のうしろにいるらしい。
「出てこい、こっちへ!」
 古物のなかから三稜剣をぬきだして右手に握ると、スイッチをひねる。長椅子にむかって身構えをしながら、乾が鋭い声で叫んだ。
「出てこないと、これで突っ殺すぞ!」
 十八九の、小柄な娘がひょっくりと顔をだした。眼だまをくるくるさせながら、おどけた調子でいった。
泥棒だゾヌストドーイ」眼の窪んだ、つんと鼻の高い、すこし比島人フィリッピンじんじみているが、愛くるしい健康そうな娘だった。伸びすぎた断髪をゆさゆさとゆすぶり、小粋な蘇格蘭土縞エコッセエのワンピースを着ていた。力の抜けたような声で、乾がいった。
「……お前イヤー、……チル……」娘は背凭せを跨いでどすんと椅子のなかへ落ちこむと、おかしな節をつけて唄った。
「……天から落たる絲満小人イチウマングワー幾人イクタイ揃うて落たがや!」
 そして、嗄れた声で、は、は、と笑った。
 突っ立ったまま、乾はひどく険しい顔で、
チル! どんな風にしてはいってきた」と、怒鳴った。
 鶴が口を尖らして、こたえる。
開いてたよエーテタンド
嘘言だろうユクジデンアラノ錠がおりてた筈だジョウナウチトタフアズド。(そういうと、つかつかとそばへ寄っていって、ギュッと鶴の耳をひっぱった)おい! ここへやって来てはならんと言っておいたろう、どんなことがあっても!」鶴は平気な顔で、うん、とうなずいた。
「それから、琉球オチナワ言葉をつかってならんと言っといた。……そういう約束だったな、鶴」
 鶴はそっぽをむいて、西洋人がするように、ぴくん、と肩を聳やかした。乾はまじまじとその横顔を見つめながら、
「よしよし、いつまでもそんな風にふくれていろ。お前達ウイダにはもう加勢せんからヤサビランドイ……」
 くるりと向き直ると、急に鶴は大人びた顔つきになって、
「いつもの伝だ。……いちいちそんな風に言わなくたっていいじゃないか。来ちゃいけないことは言われなくたって知ってるよ。……来る用があるから来たんだ。この雨にさ、薄馬鹿みたいに戸口に突っ立ってたら、かえって可笑しかろうと思って入ったまでなんだ。悪かったらごめんなさい」
「きいたことに返事をしろ」
「野暮なことをきくなよ。……だから、いってるじゃないの、天から降ってきたって……」
 横をむいて髪の毛をいじりはじめた。すると、なぜか乾は急にやさしくなって、
「……お前がここへ出はいりするのを見られると、じつにやりにくくなるのだ。それもこれも、お前たちのために……」
 鶴が、ぴょこん、と頭をさげた。
「……悪かった。……だって、いきなり怒鳴りつけたりするから……」
「それですんだら結構だと思え! ……それで、ここへ来たとき通りにどんなやつがいた」
「……第五府立のほうから、風呂敷包フチコビツツみ……、風呂敷包みを抱えた女学校の先生がひとり……。紙芝居のチョンチョン……。子供が三人……。それだけ」
「路地の入口には?」
「だれもいなかった」
 乾は、ふむ、ふむ、とうるさく鼻を鳴らしながら、
「……ま、いなかったとしておこう……」
 と、いって入口のほうへ歩いてゆき、ほそ目にあけた扉のすきから頭だけだして、あちらこちらと通りをながめると、また鶴のそばへ戻ってきた。
「それで、どんな用事だ」
 鶴がむっつりと、こたえる。
「電報がきたんだ」
 キラリと眼を光らせて、
「なんといって」
「シャンハイニユクモヨウ。コウベ、トア・ホテル」
 乾は膝の上へ頬杖をついて、しばらく黙っていたのち、藪から棒にたずねた。
「いま、何時だ」
 腕時計に眼を走らせて、鶴がこたえる。
「七時十分」
 乾が急にたちあがる。鶴の手首を握りしめながら、
「いいか、これからすぐ神戸へ発つのだ。七時三十分の汽車。あと二十分。金は?」
「五十円ばかし」
「よかろう。……(じっと、鶴の眼を見つめながら)……それから?」
 ハンド・バッグを顎でさしながら、
「あの中にはいっている」
「よし!」
 そういうと、机へはしり寄って、ペンの先を軋ませながら、せかせかと手紙のようなものを書きだした。間もなく、二つの封筒を持って鶴のほうへもどってくると、それを渡しながら、
「この茶色のほうを神戸まで持って行くのだ。渡したらすぐ帰ってこい。こっちの白いほうは、行きがけに西貝のアパートへおいて行け。手紙受へ投げこんでおけばいい」
 無言のままで立ちあがると、鶴は手早くゴム引のマントを着、頭巾をま深く顔のうえにひきおろした。こうすると、まるで小学生のように見えるのだった。
 乾は先にたって戸口までゆくと、また念いりに通りをながめ、それから鶴の肩へ両手をかけて前へ押しだすようにした。
「行ってこい」
 ふりかえりもせずに、鶴は雨のなかへ出て行った。
 路地の角をまがって見えなくなると、乾は扉をしめて奥の階段の下までゆき、そこで立ちどまったまま、なにかしばらく考えているようすだったが、やがて踊るような足どりで二階へあがって行った。
 二十畳ほどの広さの部屋で、その奥のほうにこれもどこかの払下品なのだろう、天蓋のついた物々しい寝台がどっしりとすわっていた。窓のそばに桃花心木マホガニの書机がひとつ、椅子がひとつ、床の上には古新聞や尿瓶しびんや缶詰の空缶や金盥……その他、雑多なものが、足の踏みばもないほど、でまかせに投げちらされている。
 それを飛びこえたり、足の先で押しのけたりしながら、机のそばまでゆくと、乾は思いだしたように懐から夕刊をとりだして、拾い読みをはじめた。
 絲満事件の五日ほど前に起った銀行ギャングの犯人の一人が、けさ名古屋で捕ったというので、全市の夕刊の三面はこの事件の報道で痙攣を起していた。犯人の自供によって、事件の全貌が明らかになろうとしている。警視庁高等課の予想通り、思想関係者の仕業だったのである。
 さすがの絲満事件も、この激発のためにはねだされて、甚だ影のうすい存在になってしまった。夕刊には古田子之作が証拠不充分で今朝釈放された、という記事が、申訳のように十行ばかり載っているだけだった。
 乾は眉をよせてしばらく考えこむ。それから、いまいましそうに舌打ちすると、夕刊を小さく折りひしいで、濡れた羽織といっしょに寝台の上に投げだした。
 風が強くなって、鎧扉のすきまから雨がふきこんできた。乾は、ガラス窓をしめ、重そうなカーテンをひくと、どっかりと椅子の上へあぐらをかいた。机の抽斗から大きな紙挾みを出す。夥だしい新聞の切抜きのなかから四五枚の写真をえらびだすと、一枚ずつ丁寧に机の上に並べ、頬杖をつきながら一種冷酷な眼つきでそれを睨めまわしはじめた。西貝、古田、久我、葵、〈那覇〉のボーイ……、絲満事件の参考人や容疑者たちの写真である。
 いったい、人間がひとりでいるときは、だれでもふだんとすこし人相が変るものだが、いまの乾の顔は、いつもの卑しい眼尻の皺も、人を喰ったような冷笑もなくして、まるで、ちがうひとのようにみえる。いささか崇高にさえ見えるのである。なにか考えあぐねているらしく、ときどき呻き声のようなものをもらす。ながいあいだそんな風にしていたのち、
「……けっきょく、このなかにはいない、のかも知れん……」
 と、呟きながら、古田の写真をとりあげた。古田は軍服を着て、二十人ばかりの輜重自動車隊のまん中で得意そうに腕組みをしていた。
 つくづくと眺めたのち、急に顔を顰めると、ずたずたにひき裂いてそれを床の上へ撒きちらした。
 階下のどこかで、なにか軽く軋るような音がした……。乾は気がつかぬらしい。こんどは久我の写真をとりあげる。写真の面をていねいに掌で拭うと、その端に書かれた横文字を妙なアクセントで読みあげた。
「ウイズ・ベスト・レスペクト……、最上なる敬意を以て、か……。ふふん、肚のなかじゃひとを小馬鹿にしてるくせに。顔も辞令もすこし美しすぎるよ、こいつのは……。要するに得体の知れない人物さ。……だが、いまに化の皮がはげる。……こんな風にすましてると、いかにも愚直らしいが、この眼だけは胡魔化せない。そういえば、なるほど岡っ引の眼のようにも見える。……が、しかし……」
 階段がミシリと鳴る。乾は腰を浮かせて、キッとそのほうへふりかえる。鼠がひどい音をたてて天井裏を駈けていった。
「ふん、鼠か……」
 安心したように机へ向きなおろうとすると、また、ゴトリと鳴った。かすかに靴底の擦れる音がきこえる。……そっと誰れか階段をあがってくるのだ。抽斗のなかへ手早く写真をさらえこむと、ふりかえりざま、
「どなた」
 と、叫んだ。……返事がない。
(そうそう、さっき西貝を迎いにやったっけ。……畜生め、なんだって黙ってあがって来やがるんだ)
 立ちあがりながら、乾が声をかける。
「西貝君かね」
 扉がしずかに開いた。
 はいってきたのは古田子之作だった。蒼ざめて、ひどく兇悪な顔をしていた。唇がピクピクとひきつり、その間から白い歯が見えたり隠れたりしていた。後ろ手で扉をしめると、くゎっと見ひらいた眼で乾を見すえたまま、のっそりと近づいてきた。帽子を[#「帽子を」は底本では「帽子をを」]ぬいで雫をきりながら、
「よう、今晩は」
 と低い声で、いった。
 乾は眼に見えないほど、すこしずつ寝台のほうへ後しざりをする。古田は椅子をひきよせて掛けると、ニヤリと凄く笑った。
「今日は、お礼にやってきた」
 乾はわざと驚いた顔で、
「……お礼……、何ですか、そりゃ……、あたしはべつにあんたから……」
「やかましい!」
 ピタリ、と口を封じられてしまった。
「その前にすこしききてえことがある。突っ立ってねえで、そこへ掛けろ」
 乾は用心深く寝台にかける。
 古田はがっちりと腕組みをして、
「ときに、お前の商売はなんだ」
「……ごらんの通り、古家具をやっておりますが……」
「そうか。……じゃ、お前はべつに警察の人間というわけでもねえのだな」
「飛んでもない……」
「じゃア、なんのためにおれを密告サシた。……洒落か。……それとも、酔狂か」
 古田の歯が、カチカチと鳴った。
 乾は扉のほうへチラリと眼を走らせる。
(こりゃ、助からないことになった。……本当のことをいったら、なにをしでかすかわかったもんじゃない。……ひとつ、なんとか胡魔化して切り抜けるか……)
 古田は叱咤した。
「なんとか吐かせ!」
 乾はどういう工合に切り抜けたものかと考えながら、
「……サス? ……なんのことだか、一向どうも……、あたしは、ひとさまに迷惑をかけるようなことは、ついぞ……」
「野郎! しらばっくれやがって!」
 古田が立ちあがった。乾は腰をかがめてバタバタと扉のほうへ逃げる。壁のところですぐ追いつめられてしまった。
 古田は乾の襟がみをつかみ、ずるずると寝台のところまで引きずってきて、あおのけにその上へ圧えつけると、左手で乾の喉をしめながら、右手を上衣の衣嚢に突っこんで匕首をひきぬいた。乾の鼻の先でドキドキとそれが光った。いまにもグサリと喉元へきそうだった。
「助けてくれ」
「ぬかせ!」
 首すじにヒヤリと冷たいものがさわった。
「それあ……無理だ……あたしはなにも……」
るぞ!」
 力まかせに喉をしめる。
「く、……くるしい……」
「てめえが密告サシたと教えてくれたやつがある。……言え!」
〈こんな気狂いとやりあったって仕様がない。まあ、する通りさせておけ。……まさか殺すまでのことはしやすまい。……それにしても、どいつが言やがったんだ〉
 わざと怒ったような調子で、
「だれだ、それあ。そんな、余計なことを……言いやがった奴は!」
「久我だ」
 乾は歯がみをした。
〈ちくしょう〉それから、まるで唄でもうたっているような憐れっぽい口調ではじめた。
「……ああ、それで、わかった。……あいつ、あんたを煽てて、……あたしを、殺さすつもりなんだ。……あたしを殺し、それから、あんたをのっぴきならぬところへ、追いこもうという、これあ一石二鳥の詐略なんだ……。ここの理窟を……よく考えて見て、ください。……して見ると、絲満をやったのは、……やっぱり、久我だったんだ。……いまにして、思えば、あたしも、やっぱり煽てられていたんです。……まったく、あいつに教唆シャクられ、やったことなんです……」
〈われながら巧いことを言った、と思った〉果して、喉がすこし楽になった。
 古田の顔が、ぐっと近くなる。
「てめえ、それあ本当か」
 そう言えば、すこし思いあたることもある、といった風だった。
「けして、嘘などは申しません。……いい齢をして、あんな青二才に教唆シャクられたかと思うと、……あたしあ……」
 なんだか泣けそうになってきた。
〈よし、泣いてやれ〉……工合よく涙が流れだしてきた。しゃくりあげて泣いた。
 古田は乾をぐっと引き起すと、
「嘘か本当か、いまにわかる。……嘘だったら、その時あ……」
 そういって、じろりと睨みをくれた。
〈糞でもくらえ。貴様こそ用心しろ。いまに思い知らせてくれるから……〉
 乾はていねいにおじぎをした。
「どうか、ひらにごかんべん願います」
 古田はパチリと鞘音をさせて匕首をしまうと、乾をこづきまわしながら、
「やい! おかげでおれあクビになったんだ。……妹は離縁しくじるしさ、おっ母アは揮発をのむ……まるで、地獄だ。……それもこれも、みなてめえのした業だぞ。……やい、あやまれ! 土下座してすみませんでしたと言え!」
 乾は前をはだけたまま、みじめな恰好で床の上に坐ると、ペコペコと頭をさげた。
「なんともどうも、お詫のしようも……」
 ようやく顔をあげたとおもうと、顎の下へ猛烈な勢いで古田の靴の先が飛んできた。乾は、ぎゃっ、といって、あおのけにひっくりかえった。這いずりながら扉のほうへ逃げようとすると、また脇腹へ眼の眩むようなやつがきた。思わず、うむ、と呻き声をあげた。古田は乾を床へねじ倒す、こんどは胸の上へ馬乗りになって、力まかせに、止めどもなく撲りつづけるのだった……

 戸口に西貝の姿があらわれた。
 呆っ気にとられて、突っ立ったまま、ぼんやりとこの光景を眺めていた。
 最後にひとつ、猛烈なやつを横っ面へくれておいて立ちあがると、古田は西貝を手荒くおしのけ肩をふりながら出ていった。
 長く伸びている乾のそばへよると、西貝はその顔のうえへしゃがみながら、
「おい、どうした」
 と、ふざけた調子でいった。
 上唇から顎へかけて、夥しい鼻血が流れ、暗がりで見ると、急に髯がはえたようにみえるのだった。むくんだように顔は腫れあがり、熱をもってテラテラと光っていた。
 西貝の声をききつけると、乾は腫れあがった瞼をおしつけながら、
「やられましたよ。(と、案外に元気な声でいいながら、そばにころがっている金盥を指さし)すまないが、階下へ行ってそれに水を汲んできてくださいな。……それから、台所に手拭いがあるから……」

 西貝が水を汲んで二階へあがってみると、乾は寝台に腰をかけ、新聞紙をひき裂いては、しきりに鼻孔につめをかっていた。
「おい、乾老。……いったい、どうしたってんだ」
 乾は手拭いをしぼって鼻梁にあてながら、
「……あたしが密告したのをききこんでやってきたんです。……どうも、ひどい目にあわせやがった」
 すると、西貝はせせら笑って、
「……ふん、そうか。それなら、ま、仕様がなかろう。……いずれ一度はやられるんだ。因果応報だと思ってあきらめるさ。……しかし、妙なつらになったねえ、歪んでるぜ」
 乾は大げさに額をおさえながら、
「……どうも頭の芯が痛んでならない。顔なんぞどうでもいいが、一時はだいぶ物騒でしたよ。匕首あいくちなんかひけらかしゃがってねえ。(と、いって、あとは独語のように)ふ、ふ、ああいう風に向っ腹をたてるところを見ると、やはりあいつが殺ったのじゃなかったかも知れん」
 西貝は、どたりと机の上へ両足をのせながら、
「……あの勢いなら絲満ぐらいりかねないじゃないか。……しかし、案外あれで堅気なのかな。……いや、そんなことはあるまい。この二三年、絲満などと悪く仲間になってたそうだから、なんだかわかったもんじゃないさ。……それに五人のなかじゃ、なんといっても、あいつだけが絲満の地理に明るかったのだからな。……すると、今日は貴公の口をひったたきにきたのかな」
 乾はうるさく肯きながら、
「そうそう、あたしもそう思ってるんです。……だがねえ、脅かしてあたしの口を塞ごうたって、そううまくゆきやしない。……してみると、どうせあいつも、何か弱い尻をもっているのにちがいないのさ。……いまに見てろい。ひどい目にさかねじを喰わしてくれるから……。それに、あいつは……」
 遮ぎりながら、西貝が、いった。
「それはそうと、新婚旅行の久我夫婦は、昨夜無事に発っていったかね」
「ふん、一等になんか乗りこんでね、溌剌たる威勢でしたよ。(急に声をひそめると)それについてね、あたしあ、ちょっと感じたことがあるんだ」
「どう感じた? ……羨ましくでもなったか」
 チラリと上眼をつかって、「……ねえ、西貝さん。まさか久我は逃げたんじゃないんだろうねえ。……もし、そうだとすると……」
ったのは久我だというのかね」
 乾が空嘯いて、いった。
「あんたは知ってるさ」
 西貝がはねかえす。
「そんなことおれが知るもんかい。……へへえ、古田と葵で足らずに、こんどは久我を密告サスつもりなんだな。……まるで縁日の詰将棋だ。あの手でいけなきゃこの手か。……おいおい、頼んどくが小生だけは助けてくれよ」
 乾はニヤリと笑うと、
「……いつぞやもいいましたが、遺産をひっ攫ったやつをこの手でとっちめるまでは、死んだってあたしゃあきらめないんだ。……用心なさいよ、おいおいそっちへもお鉢がまわるかも知れないからねえ。……ま、これは冗談だが。……(いつものねちねちした調子で)ねえ、西貝さん、あんたいったいどう思います。あたしあ、もう久我は帰ってこないと思うんだが……。たぶん、上海あたりへ逃げちまったのさ。……若造のくせにいやに舞台ずれがしてやがるから、どうせ只もんじゃないと睨んでいたんだ。……それにね、あたしのことを古田にいいつけたのは久我の野郎なんですぜ。だから……、あたしにあこうも思われるんです。古田はただ張扇を叩いただけで、きょうの修羅場を書下したのは、じつは久我なんじゃないか、ってねえ。……古田を煽てて、あたしを殺……」
 西貝はうるさそうに舌打ちをすると、
「はやく殺されちまったらいいじゃないか。(と、つけつけと言って立ちあがると)さっき手紙で呼びよせたのは、こんな用だったのか。……なら、俺あもう帰るぜ」
 乾は慌てて、泳ぐような手つきをしながら、
「いや、そうじゃない。こないだ、あんたが言ったものを用達てようと思って、今日用意しておいたんです。……いま出しますから、まあ、もうすこし坐っててくださいよ」
「そうか、それはサンキュウ。……証文は書くが、しかし、利息をとるとは言うまいな」
「その心配はいりませんよ。なにしろ、あたしとあんたの仲だからね。(そういうと、身体をのりだすようにして)ねえ西貝氏。それで、久我の正体はいったい何です。……青島にながくいたというだけで、一向なにもわかっていないんだが……」
 西貝は、呆れかえったという風に、まじまじと乾の顔を眺めながら、
「……どうも根強いもんだねえ。じつに恐れいっちまうよ。……だから、言ってるじゃないか、なにも知らないって」
「いや、それは嘘だ。……あんたはなにか知ってるくせにあたしに隠してる。(急に憐れっぽい声をだして)ねえ、そう言わずに教えてくださいよ。あたしあ、……あかにしだが、これで、いちめん純情なところもある男さ。……盗るわけがあって盗ったのなら、密告の返せのといいやしない。ただねえ、白ばっくれていられると我慢がならないんです。ご覧のとおり、無利子無担保で金を貸そうって位の心意気はもってるんだ。……また、きいたからって、決してあんたには迷惑をかけませんよ。……(薄笑いをして)ねえ、ったのは久我でしょう?」
「そうならそうと勝手にきめとけばいいじゃないか。なにも俺に念をおすことはなかろう。……(大きな声で)執拗すぎるよ、君は」
「ま、そう腹をたてずにおしえてくださいよ。(脅かすような眼つきをして)さもないと……」
 キッとして、
「さもないと、なんだ」
「へ、へ、あたしは手も足も出ないんです。……それはそうとねえ、西貝さん。久我が刑事だという噂もあるんだが、あんた知ってますか」
「警視庁の高等課で会ったことがあるって、だれか言ってたが……」
「やっぱり知ってたのか。……ひとが悪いねえ、あんたも。……しかし、それは本当ですか」
「大阪府警察部の思想係だというんだが、本当かどうか俺は知らん」
 乾はわざとらしく首をひねりながら、
「……すると、台湾へは絲満の身元調査に行ったのかな。……それとも犯人でも追いこんで……」
「ばかな。思想係だといってるじゃないか。……そうだとすれば、ちょっと思いあたることがある。……あいつ、あの朝〈那覇〉で、なにげなく四日前に東京へきたと口をすべらしたろう。……大阪で銀行襲撃があったのは、絲満事件のちょうど五日前だ。……事件が起きるとすぐ足どりをたどって東京へやってきたんだよ。……こんども台湾なんぞじゃない、関西へ飛んで行ったんだ。……ひとりは今朝捕まったが、共犯の中村はまだ関西周辺を逃げまわっているというから……」
「……なるほど、そう聞けば尤もらしいところもあるが、しかし……ワイフをつれて捕物にむかうなんてえのは前代未聞だね」
「このごろは警察も開化ひらけてらあね。そんなこともあると思えばいいじゃないか。……だがな、乾老……久我はともかく、あの葵ってやつこそ曲者なんだぜ。……那須にだけは話したが、あいつは絲満が殺られた晩の午前一時ごろ、非常梯子をつたって、そっと戸外へ抜けだしてるんだ。……ちょうど葵の下の部屋におれの大学時代の友達がいる。そいつが見つけて、妙なこともあるもんだと、おれに話してくれたんだ。……ふふん、刑事の嬶が人殺しじゃ、こりゃ、すこし行きすぎてると思ってねえ……」
 乾は、へえ、と顎をひいて、
「そりゃ、……ほ、ほんとうに葵だったのかね?」
「ほんとう、たあなんだ。……葵がひとりしかいない部屋から女が出てくれあ、それあ葵にきまってるだろうじゃないか」
「あんたそれを警察でもいったのかね」
「だれがそんなお節介をするもんか。おれの知ったこっちゃありゃしまいし。……おれが云わなくたって時がくればわかる。……いわゆる、……天網恢々、さ」
 乾はなにかしばらく考えこんでいたが、やがて、勢いこんで、
「しかし、こんな風にも考えられるねえ。……あの晩、葵の部屋にもひとり女がいて、出て行ったのは葵でなくて、そいつ……」
 西貝がふきだした。
「おい、乾老……評判どおり君は葵に惚れてるんだな。……なるほど、君のブラック・リストから葵の名が消えてるわけだ。……するてえと、あとに残ったのはだれだれだね? (妙に探ぐるような眼つきをして)久我、……古田……」
 乾がぽつりと口をはさんだ。
「それから、あなた」
 西貝の膝がピクリと動いた。急に顔色を変えると怒鳴るようにいった。
「おれ? 冗談いうな」
 乾はおちつきはらって、
「いや、大いに理由があるんですよ。(西貝の眼を見つめながら)西貝さん、あの晩の午前二時頃あんたどこにいました?」
 ……返事がなかった。
「午前二時ごろ〈那覇〉の、……いやさ越中島であんたを見かけたってやつがあるんだがねえ。……いったい、あの辺にどんな用があったんです」

 葵はホテルの窓ぎわに坐って、落着かない心で空を眺めていた。
 神戸へついて六日以来、この空は灰色の雲にとざされ、夕方になるときまって小雨を落した。その雨のなかでときどきゆるく汽笛が鳴る。それが葵のこころを茫漠とした悲しみのなかへひきいれるのだった。
 すこしひろすぎる部屋のなかは、森閑として昼でもうす暗く、大きなダブルベッドもソファも卓も、花瓶の花も……、なにもかもみな乾き、しらじらとしらけわたっていた。
 この二三日、葵はなにか得体の知れない感じにつき纒われ、わけもなく焦だったり憂鬱になったりしていた。時には涙までながれだすのだった。それがなんであるか、葵自身もはっきりと言い解くことが出来なかったが、強いていえば、不吉な予感というようなものだった。
 葵は幸福だった。彼女は思いがけなく愛するひとを獲、しかもこれがその新婚旅行なのだった。久我はいつも優しく、彼女を喜ばすために、なにものも惜しまぬ風だった。
 久我は葵のために露台と浴室のついた広い部屋をえらび、毎朝夥しい花を届けさせ、どこもかしこも花で埋めるのだった。毎朝葵は花のなかで眼をさます、この楽しさはたとえようがなかった。
 二人は外出もせずに一日中部屋のなかで暮していた。食事も部屋へとりよせて長い楽しい時間をかけて喰べた。葵はとりとめのないことを熱心に喋りつづけ、久我は葵のために小説や詩を読んできかせた。葵はこんな小説の題をみたことがある。……「花の中の生活ラ・ヴィ・ダン・レ・フルウル」。そして彼女はかんがえる。〈その小説のなかには自分と同じように幸福な娘が住んでいるのであろう……〉
 ところが、この楽しい生活に、なに気ない風ですこしずつかげがさしかけてきた。
 着いてから三日目の朝、ボーイが久我に手紙をもってきた。差出人の名がない白い贅沢な封筒だった。葵が受取ってなに気なく鼻にあてると、ほのかにヘリオトロープの匂いがした。
 久我は封をきると、チラリと眼を走らせただけで、そそくさとポケットへおしこんでしまった。なにか妙な気がした。葵が、なんの手紙か、とたずねると、久我は顔をすこし赧らめて、
「公用だ」
 と、それだけいうと、ついと立って、露台のほうへ行ってしまった。あわてて逃げだしたとも思われるのだった。
〈ヘリオトロープの匂いのする公用〉……そんなことがあるべきはずはない。しかし、久我のうろたえかたがあまり際だっていたので、おしかえしても訊けなかった。
 もしかしたら……。それだっていいではないか。この美青年を見てどんな女が愛さずにいられるであろう。仮りに彼のうしろにどれほどの女が横たわっていようと、それは自分にとって関係はない。この現在の真実に自分を愛してくれるなら、彼の過去の経歴などはどうでもいい。まして、自分こそ過去を偽っている。久我をとがめ立てする権利は自分にはない。手紙の主をうちあけてくれぬのはすこし情けないが、それなら、それでもいいのだ……
 しかし、この二三日葵につきまとっている不安というものは、そんなたわいのないことではなかった。いささか奇異な、もっと捕捉しがたいものだった。
 久我はいいようなく優しく、のみならず、ときにはすこし度をこえたようなところさえあるのだった。葵にとってこれが嬉しくないわけはない。が、同時にまた、なにか奇妙な感じも起させるのだった。この優しさは夫が妻にたいするそれでなくて、不幸な人間にたいする憐憫の情にちかいように葵には思われるのである。思いあわせると、いろいろとそんなところが気につくのだった。
 このホテルへついてから、葵を慰めいたわるために、久我はさまざまと骨を折っているようすだった。時にはふだんの慎みも忘れて、ひどく軽い調子でふざけてみせたりした。それが身につかず努力して振舞っていることがありありとみえ透いた。当然触れなければならぬはずの葵の過去についても、ただの一度も触れようとせず、それを故意に避けているようすさえ見えるのだった。そして、われわれの文法に必要なのは、現在形と未来形だけだ、といく度もくりかえしていった。一度は葵も尤もだと思い、二度目も肯いた。しかし三度四度となると、へんな気がしてくるのだった。
 久我がなぜこんなことを口にし、なんのためにこんな振舞をするのか、どうしても葵には了解することが出来なかった。最初は葵が劣性家系の出であることを知って、それをそれとなく慰撫するために、こんな態度をとるのかと思った。しかし、葵と偽名しているこの娘が、じつは大名華族の、和泉家の長女であることを東京で知っているのは彼女自身とむかしの家庭教師、志岐よしえだけである。よしえは東京にはいない。いま失踪中なのである。
〈……すると、もしかしたら久我は、あたしが絲満を殺したと信じているのではないだろうか、と彼女はかんがえる。……久我はそう信じ、いやな思い出を忘れさせようと、いろいろに慰めている……〉
 葵の想像がそこに行きつくと、彼女はなぜかひどく感傷的になって悲哀とも感激ともつかぬ涙をながすのだった。
〈……あたしを東京からひき離して、こんなところへ押し隠すようにしておくのは、すると、あたしを検挙の手から逃避させるためなのだ。台湾へ行くといったのも、じつは公用でなく、あたしをそこまで逃がすつもりだったのだ。こうするためには彼は地位さえも抛つ気かもしれない。もしそうなら、……こんな無益な犠牲と努力をやめさせなくてはならない……〉
 しかし、またもうすこし考えすすめると、必ずしも葵のためにやっているとばかし思われない節もあるのである。
 久我の過去についても、葵はなにも知らなかった。高等刑事だということと、その以前は詩人であったということのほか、ほとんどなにも教えられていなかった。しかも、彼が警察官だとするとその行動はまったく腑に落ちないところがあった。
 東京を出発するときは公用で台湾まで行くといい、途中で上海に変更されたといい、神戸へつくと、すこし重大な事件が起きたからここですこし活動しなくてはならない、という。そのくせ、電報をうったり、電話をかけたりするほか、めったに外出もせずに贅沢なホテルで葵と遊びくらしている。なにかしらひとに顔を合わしたくないようすで、このホテルでは山田と偽名さえしているのである。東京以来、ことにここへきてからの金のつかい方は、すこし度をこえている。〈こんなたくさんなお金はいったいどこから出てくるのだろう。……もしかしたら、警察官などというのは嘘なのではなかろうか。……そして、事によったら…絲満の……〉
 ここまで考えてくると、葵の背すじをぞっと寒気に似たものが走るのだった。……ひとつ疑惑をもちだすと、つぎつぎと新しい疑惑がわき起って、葵のこころを責めたてるのである。
〈たぶん、と、葵はかんがえる。……結婚生活による急激な生理的変化が、こんなふうにあたしを神経過敏にしてるのであろう。……あとで考えると、なにもかにも、みなとるにたらない心配だったということになるのかも知れない……〉
 葵はすこし息苦しくなり、掌に雨をうけてそれを額にあてた。
 隣りの部屋で劇しく水の流れる音がし、まもなく生々と血のいろに頬を染めた久我が浴場から出てきた。おどけたような顔をしながら、
「……そんなところでなにを考えてる。……郷愁かね」
 と、いった。葵はつとめて元気な声で、
「反対よ。……汽笛の音をきいてたら、どこか遠いところへ行きたくなってんの」
 久我は葵のそばへ椅子をひいてきて掛けながら、
「……(風には竜眼の香り、雲にはペタコのこえ、酷熱のいいようなき楽しさ)……僕はもういちど亜熱帯で暮したい。僕の感情はあの空気に触れると、どういうものか、溌剌と昂揚してくるんだね。健康にさえなる。……上海はつまらないが、せめてそこまででもよかったのに。……君には気の毒なことをした。期待だけさせて……」
 葵はとりなすような調子で、いった。
「上海も台湾もきらいよ。……この花のなかでじっとしてるほうが、あたし楽しいの」
 久我は葵の顔を眺めながら、
「そんなこともあるまい。……君はこのごろお上手をいうよ。……なぜだろう」
 思わず眼をふせて、
「……でも、これがあたしの自然よ」
「いや、そうじゃない。君が変化を見せだしたのは、この二三日来だよ。……それに葵、君はなぜそんなに眼を伏せる?」
 あわてて顔をあげると、葵は、
「なぜ? あたし、なにしたん?」
「……君はこの二三日なにか考えてるね。……どんなことを考えているか、だいたい僕にはわかってるさ。……(天井をながめながら)たとえば、君はこんな風にかんがえる。……僕の行動が警察官にふさわしくない、なんてね」
 度を失って、葵は口ごもった。
「……そんな」
「うそじゃない。そう考えるほうが至当なんだ。さもなけりゃ薄情さ。……君が疑問に悩まされているのを、だまって見すごしているのは、友人としても亭主としてもあまりほめた態度じゃない。……しかし、われわれの職業にはひとつの倫理的な掟がある。……黙秘すべきものを守る。……責任感とか義務とか、そんな観念的なものでなくて、もっと高い……たとえば良心というような。……だから、これを冒すと非常にこころが痛むんだね。……古風だと思うかも知れないが、僕がそういう掟に誓っている以上、君もやはりそれを認めてくれなくてはいけない。……僕の行動をいちいち君にうち明けなくとも、まさか愛情の点で、どうのこうのと考えやしまい……」
「よくわかってますわ。……いままでだって、お仕事のことをおたずねしたおぼえはなくてよ」
 久我は微笑しながら、
「そうさ。君は質問しない。……だけど、君の眼はいつもききたがっている」
 葵はすこし赧くなって、
「悪い眼ね。……これから気をつけますわ」
「それはそうとして、すこし釈明しておくかな(葵の顔を見ながら)……六月一日に大阪で起った銀行襲撃事件ってのを知ってるかね?」
「えッ、それが?」
「それが、無政府共産党の仕業だったんだね。(それから、眼をつぶりながら)その、共犯の一人がすぐま近にいる」
「ええ、それで?」
「あとは言えないのだから訊かないでくれ。……要するに、そういうわけだ、想像にまかせる」
 ボーイが名刺を持ってはいってきた。葵はほとんど本能的に立ちあがって名刺を受けとると、その名の上へす早い一瞥をくれた。名刺にはいかめしい四号活字で、
〈兵庫県警察部特別高等課 山瀬順太郎〉
 と刷ってあった。
 久我は名刺を見ると、急に顔をひきしめて、そのひとに階下の控室ですこし待っていてくれるように、と、ボーイにいうと、手早く服を着換えはじめた。
 葵のこころに明るい陽のひかりがさしこんできた。しらじらとした部屋の趣も、どんよりとした空のいろも、さっきほどわびしくは思われなくなった。
 久我は葵を絲満の加害者だと信じているわけでも、彼が身分を偽っていたのでもなかった。すこし厳格すぎる警察官のひとりに過ぎなかったのである。葵にはすこし放埓にも見えた彼は、じっと銀行ギャング事件の犯人をつかまえるために、目に見えぬ活動をつづけていたのだった。
 疑惑のない心の状態とはこんなにも快活なものであろうか。……葵は紗のカーテンをいっぱいにおしあけると、晴ればれとした声で唄いだしてしまった。

 雨雲が破れて、そのあいだに新月が黄色く光っていた。久我は、栄町通りでタキシを拾うと、すこしドライブをしたいのだから、どこでもかまわず走ってくれ、と運転手に命じた。自動車はかなり速いスピードで、阪神国道のほうへ走りはじめた。自動車が走りだすと、陽やけした、軍人のような厳い顔をほころばせながら、山瀬が、いった。
「……お目でとう。結婚したそうだね。……それで、お嫁さんはどんなひとか」
「美人だよ。……だが、内面的にすこし暗いところがある。……なにかそういう風にさせるものが過去にあったのだろう。……要するに薄命的な性格なんだね。どうも、そんなものを感じさせる」
「なるほど。……だが、敏腕だったね。逢ってから二十日位で結婚したんだそうじゃないか」
「いや、十五日だよ」
「それはまた素ばやかったな。どんな戦術を用いたんだ」
「逆撃さ」
「それならいつも賛成だ。……われわれの側の戦術だからな。それで、捜査区域はいまどんな風になってるか」
「要するに、……敦賀を頂点にした三角形の内部だ」
「それで、交通哨は?」
「全部に配置している」
「上海への道は?」
「まず、絶対に駄目だ」
「青島は?」
「それも駄目だ。どの通路もみな閉塞している。どんなことをしても逃しっこはない。それで君のほうはどうだった?」
「野外勤務さ。……今日まで白浜温泉にいた」
「それで、これからの作戦は?」
「こんな風に関西へ陣地をしいたら、こんどは東京のほうが手不足だろう。……ひとつ、東京へひきあげるか」
「それがいいだろう。……では、僕も今晩帰還しよう。……それで、東京へ行ってからの行動は?」
「独立射撃さ」
「携帯糧は?」
「いまのところ、大丈夫だ。……(そして、煙草に火をつけると)それはそうと、君は面白い事件に関係したそうだな。絲満事件か。なかなか面白い装飾がついてるじゃないか」
「あの装飾的な部分は面白いのじゃなくて、もっとも危険な部分なんだ。……四人の遺産相続者のなかに乾という老人がいるがね、僕の睨んだところでは、これがいちばん闇黒なんだ。(と、いうと、なんともつかぬ微笑をうかべながら)それから、……その葵という、僕の、……ま、これについてはいずれゆっくり話すが、僕はちょっと手をつけた。だがね、やはり探偵小説は僕の手に合わない。結局得るところはなにもなかった。それで、僕はこれからすぐ……十時二十分で発つが君は?」
「僕はあすの十一時十八分」
 山瀬のほうへ手をさし出しながら、久我がいった。
「それでは、僕はここでおりる。もう時間がないから、この辺からちょっとホテルへ電話をかけて仕度をさせておくつもりなんだ」
 ちょうど尼ヶ崎のちかくだった。
 山瀬は久我の手を握りかえしながら、
「じゃ、また東京で」
「どうか、お大事に」落着いた口調で、山瀬がこたえた。
「大丈夫だ。どんなことでもしてやる。解除の時を待てばいいだけのことだから……じゃ……」
 久我は片手をあげて山瀬のタキシに挨拶すると、停留場前の明るい喫茶店へはいっていった。いりちがいに、なかから若い娘がひとり出てきた。窪んだ眼、高い鼻、……典型的なこの南島人の顔は、たしかにどこかで見たことがある。
 ようやく思いだした。はじめて〈シネラリヤ〉へ葵をたずねていったとき、そばへよってきて、踊ってちょうだい、といった、あの鮭色のソワレを着た娘だ。それにしても、もうこんなとこまで流れてきているのか。
 久我は珈琲を注文すると、すぐ立ちあがって電話室へ入って行った。
 電話がかかってきたときは、葵はちょうど風呂からあがったばかりのところだった。用事はほとんどひと言ですんだ。が、受話器をもとへもどすと、葵の顔は突然蒼ざめてしまった。
 葵がいまきいた声は、まぎれもなく、最初葵に遺産相続の通知をした〈あの女〉の声だった。葵のこころには、また雲のように疑惑がわき起ってきた。しかし……
〈しかし、……そんなことがあろうはずはない。と、かんがえる。……たったいちどだけきいた(あの女)の声を記憶している筈はない。それなのに、どうして久我の声と似ているなどと思うのだろう。たしかにこれは神経衰弱なのにちがいない〉
 それにしても、理窟ではない。久我の声は〈あの女〉の声だ。……葵は立ちあがって、鞄へ入れるために久我の服をそろえはじめる。なに気なくそれを振った拍子に、白い封筒がひとつヒラリと床に落ちた。……差出人の名前がない。手がふるえた。手紙にはこう書いてあった。
〈雨田葵君は、絲満が殺害された夜の一時頃、非常梯子をつたって、ひそかに戸外へ抜けだしているという事実があります。これはどういうことを意味するか知りませんが、こういうことを承知していられるのもお便利と思い、ちょっとご注意までに申上げました。一友人より〉
 葵は床の上へ坐りこむと両手で顔を蔽った。
 あの晩、非常梯子をつたって出て行ったのは葵ではなかった。葵の母とも姉ともいうべきむかしの家庭教師、志岐よしえである。六月一日の銀行ギャング事件のそばづえを恐れて東京へ逃避し、三日のあいだ葵の部屋に潜伏していた。
 葵にはそういう思想運動には同情も興味もない。ただよしえへの愛情のためにしたことだったが、かりにこれを久我に告白したとしても、その通りに信じてもらえるであろうか。また、たとえ、久我からどのように考えられようとも、もうしばらく、これを告白するわけにはゆかない。よしえの信頼だけは裏切りたくないのだ。
 それにしてもこんな陰険な振舞をするのは誰だろう。……ふと、かんがえついた。西貝。そういえば、披露式の夜、葵にたいするそれとない無礼な態度、人殺しといわんばかりのあてこすりも、いまにしてみればその意味がわかるのである。
 葵は床の上へ長く寝て眼をとじた。
 だれか、扉をノックする。

 神戸から帰ってくると、久我と葵は新聞記者の那須の紹介で、淀橋の浄水場裏にある〈フレンド荘〉という安アパートへひき移った。派手すぎる久我のやり方に不安を感じていたので相応にひきしめて暮すことは葵としてはむしろ賛成だったが、それにしても、このアパートはすこしひどすぎた。
 うす暗い路地の奥に、悪く凝った色電気の軒灯などをつけ、まるで安手のチャブ屋のような見かけの家だった。壁には縦横に亀裂がはいり、家具はどれもこれもぞっとするようないやらしい汚点をつけていた。路地の片側はトタン塀で、いち日中そこから劇しい照りかえしがきた。
 このアパートは、いわゆる源氏宿のひとつで、百貨店の売子やダンサーや女給などを、うまく足どめしてあるのはいうまでもないが、猶そのほか、実直な薄給のサラリーマンを驚くほど安い間代で止宿させていた。これは警察の注意や近所の評判をそらすためで、それら真面目な連中も、うすうすはこの事情を知っているが、無料にちかい間代のゆえに、思いきってここを動きかねているのだった。
 アパートの女将の朱砂ハナというのは、琉球の絲満の生れで、ついこの頃まで洲崎のバアで女給をしていた。もと小学校の先生をしていたというのが自慢なのだが、それは嘘ではないらしく、いかにも抜目のない感じのする女だった。額の抜けあがった浅黒い陰険そうな顔つきをし、夕方になると事務室の奥で、生意気なようすでオルガンなどを奏いていた。
 商売のほうの連絡は四通八達らしく、だまって坐っていても電話でまいにち相当の申込があるようすだった。琉球訛のある甲高い声でテキパキと応対し、話がきまるとすぐ女の部屋へあがってゆく。女がいなければそのカフェへ電話をかけて行先を知らせた。
 仲介だけを専門にやり、アパートへ男を連れ込むことを絶対に禁じていたが、体操学校の女学生というのだけはなぜか大目に見ていた。十七八の猫のような顔をした娘で、五人の中学生の共同出資で囲われていた。若い旦那たちは毎朝ここへおち合って娘のつくった朝飯をくい、元気よく揃って学校へ出かけて行くのだった。五日目ごとに順番が廻ってくるのらしく、夕方になると、まいにち違った顔がひとりだけ娘の部屋へやって来た。ちょうど、この隣りが葵たちの部屋になっているので、憚るところのない猥らなもの音が、薄い壁をとおして手にとるように聞えてきた。
 久我がなぜこんなアパートへ引越してきたか葵にはよくわかっていた。なに気ないふうをしているが、久我には金がないのだ。新婚旅行のために月給の前借をしたのらしく、先月の末に持って帰ったのはたった五円だけだった。葵にはもともと貯えなどはなかったので、いきおい身の皮をはいで喰うよりほかはなかった。新聞紙に服を包んでは質屋の暖簾をくぐった。いくらも貸してくれなかった。久我にみすぼらしい思いをさせまいと思って、毎日の生活は豊かすぎるくらいにやっていたので、みるみるうちにゆきづまっていった。葵の持ちものといっては、いま着ている古いアフタヌンだけになってしまった。
 葵は部屋の隅の瓦斯煖炉のまえで新聞を読みながら朝食の仕度をしていた。
 絲満南風太郎の殺人事件がいわゆる迷宮に入ってから、もう三ヵ月の余にもなる。新聞の三面はその後この事件を忘れていたが、昨日の夕刊から新しい展開にしたがって、また活発な報道をはじめていた。警視庁の捜査第一課はとうとう真犯人を袋小路アンパッスへ追いつめてしまったようだ。〈那覇〉の前の空溝のなかから思いがけない手懸りが発見されたのである。浅草馬道の、松村という貸衣裳屋の保証金の受取証で、(金二十円他、薄鼠、クレープドシン、アフタヌン一着、保証金)と書いてあり、その裏に血痕と思われる拇指頭大の丸い褐色の汚点がついていた。クレープドシンか縮緬ちりめんをかぶせたボタンを、血溜りのなかから拾いあげてこの紙に包んだのにちがいない。釦の丸さなりにはっきりと布目がうつっているのである。鑑識課へ持ちこんで験べて見ると、果してそれは絲満の血だということが判った。
 刑事がさっそく馬道へ飛んで行った。松村というのは女給やダンサー専門の貸衣裳屋で、その方面ではかなり有名な店だった。店員の話では、フリのお客で、年齢のころは十八九怒り肩のそばかすだらけなみっともない女で、四寸ぐらいのアフタヌンという註文で、それ位のを二三着出して見せたところ、碌に身体へもあてずに持って行った。なるほどそれ位は着そうな大柄な女でした。バンドつきのワンピースで、背中にとも布の釦が三つついております。衣裳はとうとうかえってまいりませんが、保証金を預ってありますから、手前どもではべつに損害はございませんので……
 もうやまが見えた。世間を騒がせた絲満事件の真犯人も、この数日中にかならず逮捕されるであろう、と書いてあった。
「いよいよ捕まりそうね。……どんな女かしら。いい迷惑をかけてくれたわ」
 久我は本を閉じて、のっそりと机から立ちあがってくると茶碗をひきよせながら、
「衣裳を借りに来たからって、それが犯人だとは限らない。……使いを頼まれるということもあるしね」
 そう言って、チラリと葵の顔を見あげた。それはお前がよく知ってるじゃないか、というような眼つきだった。葵の胸が震えた。
「でも、それだってすぐ判るでしょう。四寸を着る女なんかそうザラにいないし、それに釦のこともあるし……」
 久我はひどく無感動な顔つきで、
「その位の女は沢山いる。だいいち、君だって四寸着るしね。……それに、君のアフタヌンも背中の釦がひとつとれている」
 葵の喉が、ごくりと鳴った。
「これはずっと以前に〈シネラリヤ〉のホールで失くしたのよ。それがどうして?」
「どうしたなんてきいてやしない。これだってひとつの暗合だというんだよ」
 頭に血がのぼって、眼のまえが暗くなった。支離滅裂な考えが、ピラピラといくつも頭のなかを走りすぎた。
〈……久我はあたしを愛していたのではない。……この証拠を握るためにあたしと結婚したのだ。……卑劣な刑事根性……〉
 握りしめていた茶碗が、思いがけなく葵の手を離れて壁のほうへ飛んでゆき、そこで鋭い音をたてて微塵に砕けた。
 卓のむこうに飽気にとられたような久我の顔があった。
 葵はその顔を、キッと睨みつけながら、
「そんなにしてまで、あたしを人殺しにしたいんですか。……罠にかけるようなことをして、それを手柄にするつもりなんですか。……卑怯だわ。あなたがそういうなら……」
〈あたしにも言いたいことがある。あたしこそ、あなたが犯人じゃないかと思っている。でもいちどだってそれを口にだしたことがあるか。それなのに、あなたは……〉
 耐えがたい孤独感が葵のこころをつよく絞めつけた。卓にうち伏すと、声をあげて泣いた。久我が立ってきて葵の肩へ手を置いた。
「……葵君、君は疲れているんだよ。それで、なんでもないことが癇にさわるんだ。すこし休養しなくては駄目だね。……そういう僕も、つくづくこの稼業がいやになった。このごろはやめることばかり考えている。……(それから葵の顔を覗きこむようにして)どうだ、葵君、二人で山奥へ行く気はないか。……僕の友人が上高地のずっと上で、たくさん牛を飼っている。やってこい、やってこいと、この間からしきりに言ってよこすんだ。山にこそ直接な自然がある。牛や巒気と交わりながら、しばらく悠々とやってみようじゃないか。いまの君にはなによりそういう生活が必要なんだ」
 優しそうないい廻しのなかに感じられる冷酷さは、なにか、ぎゅっと胸にこたえた。涙にぬれた顔をあげると思いきって久我の手を払いのけた。
「あたしのためなら、どうぞ放っておいてちょうだい。……いらしたかったら、あなたひとりでいらしていいのよ」
 これで、言いたいことをいった、と思った。久我は暗い眼つきをして、葵のそばから身体をひくと、
「……いまは、いろいろに言うまい。……僕は本庁へ行ってくる。……ひとりで、よく考えておいてくれたまえ」
 つづいて、イライラと立ちあがると、投げつけるように、いった。
「考えることなんか、なにもありやしないわ。警視庁だろうが、検事局だろうがあたしはもう恐わくはないんです。……いつでも行って見せてよ。あたしの過去さえ告白する気なら、びくびくすることはいらないの。……そうしたらもう、あなたともそれで……」
 久我はとりあわずに、ゆっくり扉をしめて出て行った。

 カーテンをおし開けて事務室へはいってゆくと、薄暗い隅の長椅子に乾と朱砂ハナが並んで、なにかこそこそと話をしていた。
 葵を見ると、乾は、ついと立ち上って、あざとい愛想笑いをしながら、
「お、葵嬢。……いまお部屋へ推参しようと思っていたところです。その後、ますますご濃厚の趣で、まことに大慶至極です」
 ハナも長椅子の上で腰を浮かせながら、
「……すこし話していらっしゃいまし。……それともなにか御用でしたか」と、いった。用事がなかったら早く出てゆけ、といわんばかりであった。
 葵はそれどころではなかった。頁を繰るのももどかしいようにして、ようやく特高課の番号をさがし出すと、久我千秋を出してくれ、とたのんだ。すると、そんな人間はこっちにいない、ほかの課のまちがいではないか。庶務課へかけてきいて見るがいい、という返事だった。庶務課へかけると、本庁にはそんな名のひとはいない。ほかの署へたずねて見なさい、といって、電話を切ってしまった。
 葵は電話室の壁に凭れてぼんやりと立っていた。ほかの署などに聞き合わす必要はない。久我は毎朝、警視庁へゆくといって出てゆくのだ。久我は警官ではない。……いままであたしを欺していたのだ。しかし、いったいなんのために。……頭が麻痺したようになって、なにひとつ満足な答を得られなかった。
 電話室のカーテンをまくって、乾が首をさしいれた。
「……葵嬢、そんなところでなにしてる。……おや、ひどく蒼い顔をしてるが、気分でも悪いんじゃないのかね。……まあ、こっちへ、こちらへ」
 と、いいながら、葵の手をとって長椅子に掛けさせた。ハナは、すっと立ちあがると、ものも言わずに出て行ってしまった。乾はそのほうをチラリと見送ってから、葵のそばへすり寄るようにして、
「ちょっといないたって、そんなにしょげるテはないでしょう。……どうも、濃情極まれりですな。身体に毒ですぜ。……愛妻に気をもませてさ、久我さんもよくないよ。……いったいどこへ行ったんだろう」
 そして、へ、へ、へ、と人を喰った笑いかたをした。なにもかにも、すっかり察してしまったらしい口吻だった。
「……ひとの知らない苦労てえのは、だれにもあるもんだねえ、ここの開業のとき、あたしはだいぶ古家具を周旋したんだがねえ、どうしても金をよこさない。こんな……てあいにかかったら、まったく手も足も出やしない。……じっさい、泣かせますよ」
 慰めるつもりなのか、額を叩きながら、とめ途もなく、べらべらと喋言りつづけた。
 電話室でベルが鳴った。葵は本能的に立ちあがって受話器をとった。果して久我だった。きょうの午後、那須たちと新宿の〈磯なれ〉で逢うことになったから、晩飯にはすこし遅れるかも知れないという電話だった。
 葵は出来るだけ快活な口調で、
「え、わかってよ。ご用はそれだけ? それで、いまどこにいらっしやるの?」
 と、たずねた。思わず声が震えた。久我は、いま本庁の特高課にいると、こたえた。葵は泣きだしたいのをこらえながら、息をつめてとぎれとぎれに、いった。
「……それから、さっきはごめんなさい。あたし、どうかしてたんです。ゆるしてちょうだい。……どうぞ、あたしをいやになったりしないでね。……それから、上高地へ行きましょうね。出来るだけはやく。……こんな神経質では、あなたを困らせるばかりだから……え、そうよ。明日でもいいわ。たくさんお話ししたいことがありますから、なるたけ早く帰ってちょうだい」
 久我は、そうときまったら明日にも発とう。旅費は、不愉快だが乾に借りてもいいのだから。……そういって、電話を切った。
〈この声は、どこかでいちど聴いたことがある。と、葵はかんがえた。……そうだ、葵に遺産遺産相続の通知をした「あの女」の声だ。神戸のトア・ホテルでもそう思った。あの時は気のせいだろうと打ち消したが、こんどはもう紛れもない。おしだすようなこの錆声、すこし訛のあるの音、舌が縺れるようなこの早口な言いかた……。「あの女」の声だ。……すると、絲満を殺したのは、やはり久我だったのだ。すくなくとも、なにかの関係をもっている。……久我がひとごろし……〉
 こう考えながら、不思議にも葵は悲しくも恐ろしくもなかった。反対に、なにか穏やかな感情のなかにひきいれられてゆくのを感じた。
〈……いとしいひとよ、ひとこと打ちあけてくれたら、どんなに嬉しかったでしょう。そうすれば、あたしが逃げだすとでも思っているのですか。……あたしはごく普通な倫理でしかものを考えることが出来ないけれども、あなただけは別です。いまでは、あなたがあたしの倫理なのです。あなたがいまの百倍も悪人だっても、あたしの愛情は濃くこそなれ、けっして薄らぎはしないのです。たとえなんであっても、あたしはもうあなたの血族なのだから、あなたから離れることは出来ないのです。……ただ、たったひとつ情けなく思うのは、あたしたちが過去を偽って結びついていることです。告白し合う機会を、二人ながら、永久に失ってしまいました。互いの胸に秘密を抱きながら、これからいく年も幾年も生活してゆかなければならない。悲しいことだが、しかし耐えてゆくより仕様がないのでしょう。……たぶん、これが二人の宿命なのです……〉
 しかし、そうだとすれば、めそめそしてはいられない。とにかく久我を逃さなくては。……乾にきかれてしまったから、上高地はもう駄目。……むかしあたしがいた五島列島の福江島……、あそこがいい。
 葵は電話室を出て、つかつかと乾のそばまで行くと、藪から棒にいった。
「あたしに、すこしお金を貸してくださらない? すこしばかりでいいんですけど……」
 えっ、といって、急に用心深い顔つきをすると、口を尖らして、いった。
「金? あたしに金なんざありませんや、せっかくだけど……」
 とりつく島もないようすだった。
「ぽっちりでいいんですの。……どうぞ、……五十円ほどあればいいんですから……」
 知らず知らず胸の上で掌を合していた。気がついて顔を赧らめた。
 乾は急に横柄なようすになって、
「……たち入ったことをきくようだが、それで……その金でどうしようてんです。いまきいてると上高地へ行くという話だが、その旅費にでもするつもりなのかね」
 もう羞かしいもなにもなかった。
「……いいえ、そればかりではないの。おはずかしい話ですけど、もう売るものもなにもない有様なんです。……あたし、着のみ着のままなのよ。これをぬいでしまったら、それでおしまいなの。……みなあたしが悪いんですわ。久我が馬鹿な使いかたをするのを、いい気になって手伝っていたようなもんだから……」
 乾は勿体らしく首をふって、
「へえ、それほどまでとは知らなかった。……野放図な亭主に連れ添うばっかりに、あんたも苦労するねえ。(と、いって額を睨むようにしてなにか考えていたが、やがて、突然に)よろしい、用達てましょう。……だが、断っておくが、これは久我さんに貸すんじゃないよ。あんたに貸すのだ。あんまりあんたが気の毒だから……。そのかわり、といっちゃなんだが、じつは、あたしのほうにもすこし頼みがあるんだ。……というのは、近々久我さんのところへ、山瀬順太郎という、軍人のような体格をした男がたずねてくる。……六尺ちかい大男で、陽に焼けたまっ黒な顔をしている。一眼見てそれとわかる男なんだが、あたしあその男に、去年の秋二百円ほど金を貸してある。……そいつは最近おやじの遺産を相続して、このごろはだいぶ羽ぶりをきかして遊んでるという噂なんです。本来なら、角樽つのだるの一挺もさげて、まっさきにお礼にやってこなくちゃならねえところなんだが、逃げ廻るてえその了見が太いから、ひとつとっつかまえて油をしぼってやろうと思うんです。……そういうわけだから、もしそいつが久我さんを訪ねてきたら、そっとあたしんとこへ知らせにきてくださいな。……ねえ、葵嬢、すこしあざといようだが、それを教えてくれたら、お金を渡すということにしようじゃないか。……どうです」
 山瀬順太郎……、きいたことのある名前だ。が、どこで逢ったのか、葵にはどうしても思いだせなかった。それに、うしろめたい気もする。すぐには返事が出来なかった。しかしこの場合、それを断りきる勇気は葵にはなかった。
 乾は満足そうに手をすり合して、
「いや、そうあるべきが当然なのさ。この世は持ちつもたれつだからね。……だが、このことは久我さんにはそっとしておいてくださいよ。なにしろ、あのひとは頑固だからね。横合いからじゃじゃ張られると困るんだ。……それに、こう言っちゃなんだが、久我さんてえのはなるほどいい男だが、なんにしても得態が知れないからねえ。(そう言いながら、すこしずつ葵のほうへすり寄って行って、肩に手をかけると)ねえ、葵嬢、那須ってあの新聞記者がね、職員録を繰って見たが、京大阪はおろか、北海道庁の警察部にも、久我千秋なんて特高刑事はいないそうですぜ。官名詐称を承知でやってるてえのには、そこになにか相当のわけがあるのさ。……葵嬢、逆上をしずめて、すこし考えなくちゃいけないねえ。うっかりしてると泣いても追っつかなことになりますぜ。……なにものか判らないやつにしがみついてるなんてテはないよ。(葵の手を握りながら)そりゃ、もちろん、いざってときには、及ばずながらあたしが加勢する。正直にぶちまけると、あたしああんたが好きだ。あんたのためならなんでもする。だがねえ、あとの騒動を待つまでもなく、いまのうちに別れちまうのがいちばんいいのだ。……あたしあ悪い事あ言わない。別れるならいまなんですぜ。ねえ、葵嬢、思いきって、すっぱりと……」
 カーテンの隙間から、ハナが顔をのぞかせた。急に険しい顔つきになって、裾をひるがえしながらつかつかとはいってくると、懐手のままで葵のまえへ立ちはだかって怒鳴った。
「オイ、ふざけるな」
 葵はあっけにとられてその顔を見あげた。
「なんだ、その面あ。……とぼけると、なぐるぜ。知ってもいようが、ここは源氏宿だ。裾を売るなら割前を出せ。無代で転ばれてたまるものか。てめえのような……」
 辛抱しきれずに口をきった。
「失敬ね。……あたしここでなにをして?」
「しらばっくれると、ひっくりかえしてあらためるぜ。……おい、やって見せようか」
 と、いって、葵の裾に手をかけた。葵は身もだえをしながら、喘ぐように、いった。
「ゆるして、ちょうだい」
 乾はゆっくり立ちあがると、ハナの手を逆手にとって、
「冗談じゃない。ちょっと世帯話をしてたんでさ。……ま、かんべんしてやってくださいよ。(というと、急に顔をそむけて)ぷう、……飲んでるんだね。……弱るなあ」
 なるほど、眼をすえて、抜けあがった蒼黒い額から冷汗を流していた。
 ハナは手をふり解こうともがきながら、
「おう、飲んでるよ。……見ちゃいられねえから、いままで角の桝屋でひっかぶっていたんだ。……あ痛て……、私の前もはばからず、乳くり合っておきながら、ひとの手を……ちくしょう、離しゃがれ、……やい、離せてえのに……、助平……そんならそうと、はっきりいって見ろ。……いつでもツルましてやらア、……なんだ、こそこそと……」
 すると、乾は急にすさまじい顔つきをして、
「狂人! 勝手にしろ!」
 と、いいながら、力一杯に長椅子のほうへハナを突きとばした。ハナは背凭せに強く頭をうちつけて、瞬間、息がとまったような眼つきをしていたが、やがて猛然と起きあがると乾の喉へ飛びついて行った。
「ちくしょう……ちくしょう……」
 もう、人間のような顔をしていなかった。

 ひと束ほどの庭の胡麻竹が、省線が通るたびにサヤサヤと揺れる。新宿劇場の近くで、〈磯なれ〉という小料理屋の、いかにも安手な離れ座敷だった。
 擬物まがいものの大きな紫檀の食卓を挾んで、那須と古田が腕組をしている。すこし離れたところで、西貝は床の間を枕にしてまじまじと天井を眺めていた。妙に白らけたけしきだった。
 しばらくの後、古田は腕組をとると、じれっぽくバットに火をつけながら、
「……野郎、感づいてスカシを喰わしたんじゃねえのか。……やっぱり寝ごみを押えたほうがよかったんだ。(と、いうと、腹巻から大きな懐中時計をだして)もう、一時半だ。……ねえ、那須さん、こりゃ来ねえぜ」
 那須は顔をあげると、落着いた口調で、
「いや、きっと来る。……だがね、古田君、言うだけのことは言ってもいいが、手だしをして貰っちゃ困るよ。僕が迷惑をするから。……いいか、念をおしとくぜ」
 古田は煙のなかで、不承不承にうなずいて、
「ま、よござんす。……わかりましたよ」
 と、いって横をむいた。西貝は煽てるような口調で、
「三つ四つ撲りつけるのはかまわんさ。その位のことがなくちゃおさまらんだろう、なあ、古田氏……」
 那須は眉をしかめて、
「よして貰おう。さっきも言ったように、今日はそういう趣旨じゃないんだから。……それに、(皮肉な眼つきで古田の顔を見ながら)下手なことをすると、古田君、胸板にズドンと風穴があくぜ」
 古田は眼を見はって、
「じゃ、ピストルでも持ってるのかね、野郎……」
 那須がうなずいた。西貝はせせら笑って、
「本当か、おい、那須。……また附拍子ツケを打ってるんじゃねえのか」
 那須ははねかえすように、
「ご承知のように、アナシェビーキの一派は、大抵みな持ってるからね。それで、あいつだって持ってるだろうと思うのさ」
 西貝は、えっ、あいつが……と、いいながらはね起きた。古田は判ったような顔をして、首をふりながら、
「アナヒ……、ふむ、なるほど。……道理で胡散臭うさんくさいと思ったよ」
 と、いった。すると、那須は皮肉な調子で、
「ふん、胡散臭いやつはどこにもいるさ」
 と、いいながら、なに気ない風で、ジロリと西貝を見た。なぜか西貝は急に暗い顔をして、庭のほうを向いてしまった。
 廊下に足音がして、女中のあとから久我がはいってきた。いつものように、すこしとりすましたようなようすで、慇懃に挨拶をした。
「どうも、たいへんお待たせしまして……」
 凄いほどひき緊った端麗な顔を、じっとりと汗でしめらせ、婉然と眼をほおえませて立っていた。すこし、人間ばなれのした美しさだった。
 三人は、やあ、と嗄れたような声でいうと、そのまま、黙りこんでしまった。座につくと、久我は三人の顔を見くらべながら、
「どうしたんです。ひどく改まっているようだが……」
 那須は坐り直すと、ベッタリと髪を貼りつけた木槌さいづち頭を聳やかしながら、単刀直入に、いった。
「久我さん、だしぬけで失敬ですが、二十分ばかり接見インタアビュをさせてください。……ここでいけなかったら、二人だけで別室へ行ってもいいのですが……」
「いや、関いません。……それで、なにをおたずねになるのですか……」
「ご承知のように、僕はこんどの絲満事件を、最初からずっと担当してやっていますが、じつは最近、この解釈についてある理論的な到達をしたのです。多少あなたにも関係があるので、直接その本人に質問しながら、僕の推理が成功しているかどうかを確かめて見たいと思うんです。……ひとことお断りして置きますが、これを職業的に利用しようなどというケチな了見はありません。純粋に実験的な興味からです。またもちろんこの場かぎりのことで、絶対にそとへは洩らしません。……答えたいことだけ答えてくださればいいのです」
 久我はしばらく黙っていたのち、すこし顔をひきしめて、
「どうか、おたずねください。ご満足のいくようなお答えが出来るかどうか知りませんが」
 那須は不敵なようすで口をきった。
「では、さっそくはじめます。……久我さん、あなたは昭和二年の春、漢口ハンカオで開かれた汎太平洋労働会議に派遣されたまま、今日まで行衛不明になっていた岩船重吉いわふねじゅうきちさんでしょう」
 キラリと眼を光らせて、
「そうです。……よく判りましたね」
 淀みのない声だった。那須はあっ気にとられたような顔をした。久我は面白そうに、
「私はもうそろそろ日本に国籍がなくなりかけているのですが、……どうして判りました」
「岩船重吉の古い詩集のなかに、〈自画像〉という詩がありますね。あの中で描写されている風貌は、久我千秋のそれと全然同じです。従って、久我千秋はすなわち岩船重吉なのです」
 久我が、かすかに苦笑した。
「久我さん、あなたはいつ日本へ帰って来たのですか? それまで、支那でなにをしていました? 全国自連に関係がありますか?」
「今年の五月の末です、ちょうど十年ぶりで帰ってきました。支那では、香港ホンコン、漢口、北京ペキンという工合に転々としていたのです。最近の二年は上海シャンハイにいて、そこの賭博場でマネエジャーのようなことをしていました。全国自連には関係がありません。……(そういい終ると、那須の顔を見つめて)しかし、おききになりたいというのはこんなことですか。……さっきは、絲満事件について、と言われたようでしたが……」
 那須はすこしテレたような顔をして、
「いや、そうじゃありません。……あまりあなたの返事っぷりがいいので、つい、いい気になったんです。失敬しました……では……ひとつきいてください。ご承知の通り現場ヤマはさんざんにひっくりかえされていて、ひと眼で初犯の手口だということがわかる。だが、それは非常な綿密な人物で、証拠というほどのものはなにも残していません。手の触れたところは、みないちいちハンカチで、拭ってあるという有様です。ひとつとして忘れたところがない。実にどうも驚嘆に価いしますね。……残っていたものというのが、柳の木の幹のすり傷、衣裳戸棚の中のすこしばかり乾いた泥。それからこんどのボタンの血の紋章です。……これだけです。……この釦は現場の血溜のなかから拾ったものとする。すると、いきおい加害者は女の服を着ていたということになりましょう。……ところで、こんどの犯罪劇グランギニョールの舞台に、四つの女のタイプが登場しています。……第一はその前夜の十一時頃〈那覇〉へ飛びこんで来て絲満と酒をのんだという、ボーイが見た二十二三の、すらりとしたモダン・ガール。第二は、前夜の八時頃古田君が蛤橋の袂で出逢って、十時すこし前まで〈那覇〉でいっしょに飲んだという十八九の、小柄な美しい娘。……第三は、その夜の午前三時ごろ浜園町の附近で巡視中の巡査が見かけたという、令嬢といった風の、二十二三の美しい上品な女。……第四が、六月四日に松村貸衣裳店へ現れた、怒り肩の、すこし不恰好な背の高い女です。……ところで、これらの特徴を拾いながら、だんだん整理して見ると、この四人の女は三つの類型ジャンルに分類されるのです。くどく説明するまでもなく、第二の女は小柄だという点で、これは独立したAというジャンルにはいる。第四の女は、不恰好でみっともなかったというので、また別のBという属にはいる。第一と第三は、どちらも二十二三で、上品で、すらりとして美しいというから、これは同一の人物と仮定してCという属にいれる。……そこで、この三つの属の内容を調べて見ると古田君が逢ったというAは、キモノを着ていて、しかも十時すこし前に古田君と連れ立って〈那覇〉を出て門前仲町まで行って、そこで別れている。加害者がクレープドシンの服を着ていたというところからおして、このAを容疑の圏外に置く。それからBのほうは、……巡査とボーイの、この二人の目撃者の陳述を基礎にすれば、そんな板額はんがくは、その夜、深川にも〈那覇〉にも現れていません。すると、必然的に、加害者はCだという仮定が成立つ。……Aは仮りにこの事件に関係がないとするとBとCの関係はこんな風になるのではないか。……つまり、BはCのために衣裳を借りに行った。……碌々身体にもあてずに持って帰ったということが、それを証拠立てています。自分が着る服なら、そんな選び方をするはずがない。それから、Bは保証金の受取証を持って帰っていますね。もしこの服が殺人の変装に使われると知ったら、そんな受取証は持って帰らずに、どこかで引裂いて捨ててしまったでしょう。この事実から、Bはこの殺人に了解がなかったことと、同時に使いをたのまれたのに過ぎないということが、二重に証明されます。……(茶碗の底に残っていた茶をズウと音をたてて啜りこんでから)さて、これだけの材料を順序よく配列して見ると、だいたいこんなことになる。……二十二三の、上品な、すらりとした美人が、ある女に頼んで服を借りて貰い、それを着て十時十分頃〈那覇〉へやってきた、このときボーイがそのうしろ姿だけ見ている。……そして、ボーイは帰る。それから一時ごろまで絲満とフリの客三人で大いに飲み、あるいは大いに飲ませ、絲満が泥酔したのを見すまして、帰るふりをして横手へまわり、柳の木をつたって二階の窓から寝室にはいり、衣裳戸棚の中にかくれて待っていた。絲満が泥酔して階下からあがってくる。寝台に倒れてぐっすり寝こんだところを、のしかかって心臓を三突、頸動脈をひと刺し。それから水差の水を金盥にとって手を洗い金をさがして発見する。綿密に部屋の中を拭いてまわる。釦をひろって受取書につつむ。もうなにも手落ちはない。そこで、扉をしめて鍵をかけ、階下の入口から悠々と出て行った。この時はもう三時近い。蛤橋を渡って浜園町へ行こうとすると、むこうから巡査がやってきた。あわてて一丁目の角を右に曲って、一直線に深川塵芥処理工場の方へゆく。そこの近くにある曲辰の材木置場のところまで行って、そこで、突然に大地へとけこんでしまったのです。(久我の顔を見つめながら)ここまではどうでしょう?」
 久我は微笑しながら、いった。
「面白いですね。よく判ります。それから?」
 那須はますます能弁になって、
「……ところで、この犯罪の最も短い半径内に、容疑者の権利をもつ二人の女性がいます。ひとりは、絲満の以前の情婦で……いま〈フレンド荘〉をやっている朱砂ハナ。もうひとりは、久我夫人すなわち葵嬢。……だが朱砂ハナのほうは、事件のあった十八日以前に、密淫売のかどで検挙アゲられて、事件の当夜は洲崎署の留置場にいたんです。……まずこれ以上の完全な不在証明はありません。そこで、久我夫人のほうですが、これは二十二三で、上品、すらりとした美人です。本来ならば、なんとしてもまぬかれないところです。つまり美人なるがゆえに、こういう災難を蒙ることになった。美人になりたくないもんです。が、このほうも幸いなるかな、完全に近い不在証明があった。その夜は、夜の八時から十二時まで〈シネラリヤ〉に働いており、十二時半からつぎの朝まで、ちゃんと自分のアパートにいた。のみならず、〈那覇〉のボーイが、この女ではない、と断言した。うしろ姿だけ見ていて、当否の断定を下した。……なかなか秀才ですよ、こいつあ。冗談はともかくとして、こういう工合だから、Cという女の値は依然としてXのままで残ることになった。のみならず、忽然として深川の一角で消滅してしまったというんだから、なかなかただもんじゃない……人間がとけてなくなる。そんなことがあり得る筈はない。いずれどこかにチャンと切穴が明いてるんです。……そこで、ひとつ実地に魔術の舞台を験めて見る必要がある。……(そう言いながら、ポケットから手帳をとりだすと、精細に書きいれた地図を示して)ご覧の通り、殺人のあった枝川町一丁目は四方を海と掘割で囲まれた四角形の島です。この島を出て深川の電車路へゆくには、この蛤橋を渡って浜園町へ出るか、この白鷺橋を渡って塩崎町へぬけるか、それ以外には道がない。……いったい深川というところは、まるでヴェニスのように、孤立した島々が橋だけでつながっているようなものですが、ここ位い不便なところも少いのです。……ところで蛤橋のほうから巡査がきた。あわてて白鷺橋を渡ろうとすると、その橋詰に交番がある。……この×の印がそうです。島から出ようとすると、どんな事をしてもその前を通らなければならない。止むを得ず後しざりをして、いったん島の奥に逃げこんだ。……やがて、間もなく戻って来て、交番の前を通って、市電の木橋のほうへ行ってしまった……としか考えられません。……なぜなれば、人間一匹が消えてしまう筈はない。のみならず、若い女がそんなところでまごまごしていたら、……危険は一刻毎に増大する。……あの辺は海風が吹いて涼しいものだから巡査が涼みがてらにむやみに巡視をするんです。この辺はなにしろ一目で見渡せる広っ場なんだから、どう隠れたってすぐめっかってしまう。……どうしたって、やはり交番の前を通って出ていったと思うより仕様がない。……ところが、その夜白鷺橋の交番には、しかも二人の巡査がいて、非常に暑い晩だったので、十二時から朝の四時まで交番の前へ椅子を持ち出して涼んでいたのです。ところが、その間女などは一人も通らない……もちろん、ひとは通ったが女は通らない、と言うのです。……僕はハタと行きづまった。苦しまぎれに、いわゆる習得的方法というのをやって見た。現場のまっ只中へ自分をおいてみたのです。……昨日曲辰材木置場の丸太の上へ腰をかけて、僕がもし犯人なら、こういう条件と地理に於て、いったいこの次にどういう行動を起すだろう……昨日、曲辰材木置場の丸太の上へ腰をかけて、つくづくと考えて見たんです。……(ニヤリとうれしそうに笑うと)……間もなく到達しましたよ。なんでもなかったです。……つまり、こうなんです。まず、血のついた服をぬいで猿股ひとつになる。服は錘をつけて木場の溜りへ沈める。それから頭と身体をすこし水に濡らして、シャツを小脇に抱えてスタスタと交番の前を通って行ったんです。……この辺の住人はひどく無造作で、暑くて寝られないと、夜でも夜中でも海へ泳ぎに出かけるんですね。もちろん裸の道中です。巡査も馴れっこなので、べつになにも言いやしない。……こういうわけで、犯人はなんのおとがめもなく関所を通りぬけたのです」
 西貝が、くっくっ、と笑いだして、
「女が猿股ひとつになって、交番の前を通ったって、それで無事だったのかい」
 那須はニコリともせずに、
「そうさ、女ならそんな芸当が出来るはずはないから、それでその人物は男だったという結論を得たのだ。この推理には間違いがない。嘘だと思ったら曲辰の溜堀の底を浚って見たまえ、必ずその服が出てくるから。……(そして、久我のほうをむくと)どうでしょう……?」
 と、いった、久我は那須の眼を見かえしながら、
「適切ですね、敬服しました」
 と、いった。那須は急に顔をひき緊めると、低い声で、
「久我さん、殺したのはあなたでしょう?」
 座敷のなかは急にひっそりとしてしまった。古田が、ごくりと喉を鳴らした。
 久我が、しずかに口をきった。
「それはお答え出来ません」
 両手を膝に置き、自若たる面もちだった。那須はうなずいて、
「勿論ですとも。あなたにその意志がなかったら、答えてくださる必要はありません。……では、最後にひとこと……。僕の推理はだいたい成功しているのでしょうか」
「私の感じたままを申しますと、だいいちあなたのは推理ではなくて奇説ドグマだと思うのです。……仮りに、あの夜私が女装して〈那覇〉にいたとしても、それだけでは私が殺したという証明にはならないからです。ここでは、女装殺人という二つの状態が、関係なくばらばらに置かれているにすぎません。この二つの名詞を結びつけて、意味のある文章にするには、どうしても繋辞カップルが必要なのですが、どこにもそういうものが見あたらない。私が殺したという。が、それに対する論理的な証明を全然欠いているからです。……警察ならば、臆説であろうと、仮定であろうとかまわない。あとは訊問でひっかけて、自白させるだけのことですが、あなたの場合は論理的に到達しようというのだから、こんなことではいけないのでしょう。……それから、女装のほうですが、それが私だというのは、どういう根拠によって判断されたのですか?」
「五人の遺産相続者のなかで、その資格を持っているのは、あなたの外にないからです」
「犯人が五人のなかにいなければならぬというのは、どういう理由によるのですか?」
「……あの〈遺産相続の通知〉は捜査の方針を混乱させる目的で計画されたトリックだということは、いうまでもありません。あの通知で何人かの人間を殺人の現場へよびよせ、否応なしに殺人事件の渦中へひきずりこんでしまう。それで情況を複雑にし、自分の犯跡を曖昧化し、うまくいったら、自分の罪を未知の人間に転嫁させようという目的のトリックなのですね。……いうまでもなく、〈通知〉を出した告知人がすなわち絲満を殺した犯人なのですが、そういう場合、その人物は、かならず、その現場へやって来てるものなのです。効果の程度を知っておくことが絶対に必要だからです。……だから、犯人はあの朝〈那覇〉へ集った五人のうちのだれかだと言えるのです」
「犯人が必ずそこに来合しているという……それは当為ソルレンです。必ずそうあるべきことでしょう。しかしそれはそれとして、事件を複雑にして捜査の方針を混乱させる目的だと言われましたが、私に言わせれば、このトリックは、反対の効をあげるためにしか役立たぬように思われるのです。混乱させるどころか、犯人はここにいると、自分で知らしてるようなものです。……なぜといえば、そういう場合、犯人がそこへ来合しているだろうということは、だれにしたってすぐ考えられることですからね。……知能的な初犯者ほど、いろいろ手のこんだ方法を考え出すものですが、しかし、どういう場合でも、あらかじめ考案された方法というものは、柔軟性を欠くか、なにかしら過剰なものを持つか、この二つの欠点をまぬかれることが出来ないようです。……細工をしすぎたコップほど脆い、というのとよく似ています。……そのうえ、あまり鋭い頭で考えられたものではない。……那須さん、私はこんな方法を考えだすほど幼稚ではないつもりです。のみならず、私はそんな方法にたよらなくとも、もっと無造作にやってのける有利な条件をもっています。私はつい最近十年ぶりで日本へ帰ってきた。東京には私を見知っている人間は一人もいません。どのようにも大胆に、どんなにも無造作にやってのけることが出来るのです。……こういう便宜をもっている私が、自分がアマチュアであることを知らせ、自分を自ら窮地に追いこむような、そんなうるさい方法を選ぶわけがありません。〈通知〉を出したのが、すなわち犯人だ、という直証法は私も賛成です。そうとすれば、いま言った理由で、私は犯人ではありません」
 古田は、あぐらを組みなおすと、那須に、
「じゃ、いよいよあっしがやりますぜ。いいね。(と、念をおすと、久我のほうへ向き直って、叱咤した)うるせえ、もうやめろ。……理窟でごまかそうたって、そういかねえ証拠があるんだぞ。……おい、久我! 巡査に追ったくられて二階から降りるとき、てめえ、ヒョイとかがんで、血溜りのなかからなにか丸いものを拾いあげたな。……たしか釦のようなものだったが、……おい! このほうはどうだ」
 ……こんどはいくら待っても返事がなかった。久我の眼に苦渋なものがあらわれ、額がうす黒く翳ってきた。
 西貝は食卓に頬杖をつきながら、騒々しい声で、
「こりゃ、いよいよドタン場だね。おい、バザロフ君、もう、観念して白状しろよ。それとも格率が違うから、自白なんて形式は認めないのかね」
 古田は眼をいからせて、
「野郎、なんとかぬかせ! やい、罪もねえおれをブチこんでおいて、よくもぬけぬけとしていやがったな。……待ってろ! こんどは、おれがしょっ引いて行ってやるから」
 顔をあげると、久我が、いった。
「いかにも僕は釦を拾いました。僕をひとごろしと思おうとなんと思おうと、それは諸君の勝手です。……だいたい、話もすんだようだから、僕はこれで失敬します」
 上衣を持って立ちあがると、襖をあけて出て行った。
「野郎、逃げるか!」
 古田は大声で叫びながら立ちあがった。那須は、待て、待て、おい待て、といいながら古田の肩に躍りかかった。

 鱗雲の間から夕陽が細い縞になって、腐ったような水の面にさしかけている。
 溜堀のなかには、筏に組んだ材木がいくつも浮かせてあった。三人のルンペンがその上に乗って針金でこしらえた四手網のようなもので堀の底を浚っていた。
 岸には大きな角材が山のように積んであって、その高いてっぺんに乾と西貝が腰をかけていた。西貝は、また新しい煙草に火をつけると、ふてくさったようすで、煙を空へふきあげながら、
「……人間万事金の世の中、さ。義理も人情もあるものか、金につくのが当世なんだ。なあ、そうだろう、乾老……」
 すこし酔っているらしかった。乾はキラキラ眼を光らせて熱心に堀のほうを眺めながら、うるさそうに、こたえた。
「まあ、そうだな」
 西貝は舌なめずりをして、
「気のねえ返事をするなよ。……ときに乾老、この堀から久我のぬいぐるみがあがってきたら、いくら出す。たとえ二十日、ひと月でも、いっしょに飲み分けた友人を売るんだ。無代ただじゃごめんだぜ」
 乾が、むっつりとこたえた。
「もし、あがったら十両やる」
 西貝は下卑っぽく、ポンと手を打って、
「まけた。……三十両と言いてえところだが、もともとウントネタだ。いさぎよくまけっちまえ。ひとの命を十両で売ったと思えば寝ざめがわるいが、大義親を滅す、さ。一旦志をたてて、日金貸しとひっ組んだ以上は、この位の覚悟はいるだろうさ。(乾のほうへふりかえると)おい、おい、そんなに堀のほうばかり見てるな。すこし、こっちを向け。……(あたりを見まわして)まるでこりゃ生世話物きぜわものだな。……上手かみてはおあつらえむきの葦原、下手は土手場で木場につづくこころ、か……。木魚がはいって、合方が禅のつとめとくれあ、こりゃあ本イキだ。四手網にからんであがってくるのは血染の衣裳……。そういえば、だいぶ暮れてきたな。……おい、乾、そんな凄い面をするな。だまっていねえで、なんとか言え。……貴公もようやく念願を達するんだ。すこしはしゃげよ、おい!」
 乾は背中を丸くして煙草を吸いつけながら、
「念願だか、念仏だかわかりゃしませんよ。そんなものがあがってきたらお慰みさ」
「出ねえと知って無駄骨を折るいんちきもないもんだ。出ねえと知って……」
「はじめっから、とんちきを承知でやってる仕事だ。……妄執てなあこのことですよ。こいつが晴れないと浮かばれないんだ。……(ジロリと西貝を見ると)あんたにも多少の怨がかかってるんですぜ」
 と、いった。西貝はピクピクと頬をひきつらせて、うつむいてしまった。しばらくの後、顔をあげると、
「乾老、おれは自白する」
 といって、頭をさげた。乾は、瞬間、西貝をみつめたのち、
「なんです、急に……。どうしたんです、西貝さん……」
 口調にもかかわらず、べつに驚いたようすもなかった。
「僕は絲満が殺された夜の一時ごろ、たしかに〈那覇〉まで出かけた……しかし、天地神明に誓って、殺したのはおれじゃない。これだけは信じてくれ」
 乾は返事をしなかった。西貝は急きこんで、
「……あの晩、演舞場を出たのが十一時ちかく。二三軒はしごをかけて、新橋〈たこ田〉でまたのみなおしているうちに、その朝受取った、れいの〈遺産相続通知〉の手紙を思いだした。……酔っていたせいもあったろうが、いったん考えだすと、とめ途もないんだな。……馬鹿馬鹿しいが、そのときは、何万……という遺産が、小生のふところへころがりこむように思われてきたんだ……。昂奮したね。こんな気持で、とても明日までなんぞ待っていられない。……よし、これからすぐ乗込んでいって埓をあけてやろう……。あわてふためいて、枝川町までタキシを飛ばした。……むこうへ着いたときは、ちょうど一時十分だった。二階の雨戸があいて、ぼんやり電気の光がもれていた。……小生は勢いこんで戸口までいったが……、(悚えるような眼つきをして)戸口まで行ったが、どうしても把手に手をかける気がしない……、どういうわけか、凄くて、怖くて、どうしてもはいる気がしない。……そのうちに、意地にも我慢にもやりきれなくなって、平久町まで駆け戻って、あそこから洲崎ベニスの灯を見ると、ようやく人心地がついた。……今にして思えば、多分あのころは、内部じゃ殺しの真最中だったんだろう。……ありていに申しあげると、こういうわけなんだ。嘘も……偽りもない。……どうか妄執を晴らして……小生だけは、助けてくれ……」
 本気か冗談か、手を合せた。乾はニヤリと笑って、
「知ってるよ。……ひとが悪いようだが、大体は知ってたんです。……でもねえ、あんたの口からきいて見ないことにゃ……」
 と、いいながら、堀のほうへ眼を移した。途端、なにを見たのか、うむ、と息をひいた。
 ひきあげた四手網の目から、ポタポタと滴がたれる。網のなかに、丸く束ねたぼろ布のようなものがはいっていた。
「オーイ、旦那ア、なんか出たぜえ」
 腐ったようなシャツを着た白髪頭のルンペンが、それを両手にかかえて岸のほうへ駆けてきた。
 念いりにくくった針金をといて、地面のうえにひろげる。地色はもうわからないが、支那縮緬クレープ・ド・シンの女の服だった。そのなかに富士絹の白い下着。棒きれの先でひろげて見ると、地図をかいたように血の汚点がべっとりとついていた。
 乾はつくづくと検分すると、妙にとりすまして、いった。
「おい、おやじ、これをもとのようにくくって、いまのところへ沈めてくれ」
「えっ、また沈めるんですか」
「黙っていったとおりにすればいいんだ。……さがしてるのはこんなもんじゃない。……かかり合いになるからよ」
「へえ、ご尤も……」
 もとのように石をつめてくくられると、着物はまた溜堀の水の中へ沈んでいった。急に暮れかけてきて、うす闇のなかで、西貝の煙草の火が赤く光りはじめた。

 秋風がふく。
 狭すぎる新宿の通りを、めっきりくろずんできた人のながれが淀みながら動いていた。ひとすじは角筈の歩道を下り、ひとすじは三越の横から吉本ショウのほうへ曲って、けっきょく駅のなかへ流れこんでしまう。新宿は憂いあるひとの故郷ではない。このなかへ自分をかくすことも、このなかで悲しみを忘れることも出来ない。新宿は、浅草がするようにひとを抱いたりしない。用をすましたら、さっさと出てゆかなくてはならない。新宿は近代的な立て場ルレエにすぎないのだ。
 久我が二幸の横の食傷新道から出てきた。人波に逆いながら〈高野〉の前までくると、急に足をとめてそこの飾窓を覗きこんだ。明るい照明のなかで、いろいろなたべものが忌々しいほど鮮やかな色して並んでいた。
 久我は昨日の昼からなにも喰べていなかった。胃酸が胃壁を喰いはじめている。そのへんが燃えるようだった。いま掌に五十銭銀貨をひとつ握っている。無意識になかへ入って行こうとした。……しかし、葵もやはり昨日から喰べていないのだ。窓から身体をひき剥すと、またのろのろと三丁目のほうへ歩きだした。
 乾のところへ穂高ゆきの旅費を借りに行って、いま、けんもほろろに断わられてきたところだった。あんな得体のしれない女と同棲している男に信用貸など出来るものか。別れてきたら用達てましょう。ま、当座のご用に、といって五十銭玉をひとつ差しだした。乾だけがめあてだったので、眼が眩むような気がした。
 神戸から帰って以来、久我は毎朝警視庁へゆくといって家を出ると、四谷見附まで歩いて行き、夕方までの長い時間をもてあましながら、そこの土手で寝てくらしていた。葵が身の皮を剥ぐようにしてやっていることはよく知っているのだが、職をさがすとしても、はじめての東京にはひとりの知人もなく、そもそものキッカケさえつきかねる。考えあぐねて、けっきょく眠ってしまうのだった。
 十年前は〈トムトム〉の同人として活発な運動をつづけていた。支那へ行って放浪生活をはじめてからは、おいおい何ものにも興味を失って、いつの間にか運動から離れ、仕事らしい仕事はなにひとつせずに暮していた。この十年間に彼が得たものといえば、無為のみが人間の精神を自由にする、というアフォリズムだけだった。日本へ帰って来たのは、勿論望郷の念などによるのではなく、変った土地へ行って見ようと思ったのにすぎない。
 大阪へつくと、その夜、まるで宿命説のように過去の因縁に逢着した。むかしの同志、石原と中村が、合同後の党資金を獲得するために銀行襲撃を計画していた。久我は大阪の事情に通じていたので、勢い企画に参加することになった。が、これとても明確な意志があったわけではない。むしろ、懶惰のゆえである。
 この計画は失敗し、久我は東京へ逃げた。上海で買った偽造の警察手帳が、この逃走に非常な便利をあたえた。東京には思いがけない二つの事件が彼を待ちかまえていた。殺人と恋愛と……。そして、彼は結婚した。
 働くな、それは精神の自由をころす。久我にとっては、無為は強烈な生活意志の対象であった。彼がひとりの間は、なるほどそれは彼の精神を開放し、自在に自由美の園を逍遙させてくれたが、結婚してからは、せっかくのアフォリズムも妻を苦しめるだけにしか役立たなくなってしまった。現に彼女は、彼の身勝手な主張テーゼのおかげで、二人分の労苦を背負って喘いでいるのである。
 ときどきこの自覚が、深いところに昏睡している彼のたましいを揺りうごかす。すると久我は、そのたびにむっくりはね起きて、こうしてもいられないと呟き、あてもなく、セカセカと町を歩きまわるのだった。生活のことばかりではない。どういう事情があったのか、葵は絲満を殺している。なんとかして逃がさなければならないのだ。
 二月まえに葵をつれて神戸へ行ったのは、そこで石原らとおちあって、いっしょに上海へ逃走するつもりだったのである。ところが、久我が神戸へ着く五時間前に、石原が名古屋で捕まり、仲間といっしょに上海へ逃げるつもりだったと自供したので、支那へ行く道は全部閉鎖されてしまった。そのうちに神戸にいることも危険になったので、また東京へ戻ってきた。
 ひところは、警視庁の捜査一課でも全く匙をなげてしまい、絲満事件はこれで永久に迷宮入りするかに見えたが、最近になって情勢はにわかに険悪になってきた。検挙の手はもう葵の襟元にせまっている。一刻も躊躇していられない場合になった。葵を逃がすためには金がいるのだが、まるっきりその方策がつかないのである。
 久我は焦だってきて、夕空を仰いで思わず呻き声をあげた。金を手にいれるためなら、どんな事でもしかねない気持になってきた。
 久我の肩にだれか、そっと手をおいた。
 反射的に衣嚢の拳銃に手をかけて、キッとそのほうへふりむいた。
 日本人ばなれのした、十八九の眼の窪んだ娘が、ラグラン袖のブラウスを秋風にふくらませ、鶴のように片足で立っていた。久我の顔を見ると、小馬鹿にしたように片眼をつぶって、
「あたし、毎日あなたのあとを尾行つけていたのよ。……知ってた?」
 久我はきびしく眉をよせながら娘の顔を見つめた。〈シネラリヤ〉へはじめて葵をたずねて行った晩、しきりに久我にからみついた鮭色のソワレだ。それから、尼ヶ崎でいちど見たことがある。……たしか、チルとかいった娘だ。
 鶴はいかにもうれしくてたまらないという風に笑いだしながら、
「……ほらね、知らなかったんでしょう。うれしいわ。……ふむ、でも、こんなところに突っ立ってないで歩きだしましょうよ。……あたし、すこし話があるのよ。(といって久我の手をとると、勝手なほうへずんずん歩きだした)あたし、あなたのしたことなんでも知っててよ」
「なんで、僕のあとなどついて歩く?」
 鶴はちょっと眼を伏せて、
「それは言えないの」
「じゃ、神戸のときも僕をつけてたの?」
「そうよ。……でも、そんなことどうだっていいじゃないの。……あなた、さっきから三度もたべもの屋の窓をのぞきこんだわね。あなたは、たべものにむずかしいひとなのね」
 あまり見当ちがいなので、笑いださずにはいられなかった。
「僕は金がなくて、昨日からなにも喰べていないんだよ」
 鶴は立ちどまって眼をまるくした。急によろめくほど久我の腕をひっぱると、
「喰べましょう。……あたしお金もってる」
「ありがたいが、……君に喰べさせてもらうわけはないさ」
「いや、借がある。……〈シネラリヤ〉にいたとき、チップくれたわね。そのつぎに来たとき、またくれたわね。……それを返すのよ。……さあ、歩けったら、歩かないと、……蹴っとばすから!」
 むやみに引っぱって、〈北京〉という中華飯店へつれこんだ。
 夕食時にすこし間があるので、店のなかには人影がなく、紫檀の食飯卓チャプントオの上でひっそりと白菊が薫っていた。
 鶴はあれこれと食物の世話をやき、たくさん、たくさん食べてちょうだい、と、まるで祷るように、いくども幾度もくりかえすのだった。久我が食べはじめると、こんどは両手で顎を支えながら、その顔を穴のあくほど見つめていた。やがて、藪から棒にいった。
「東京からどこかへ行ってしまってちょうだい。どこでもいいから、早く逃げてちょうだい。お願いだから」
 箸をやすめると、すこし顔をひきしめて、
「なぜ逃げなきゃならないの?」
「あとでわかるから……穂高はだめ。上海か青島か、なるだけ遠いところへ……」
「穂高? どうしてそんな事を……」
「だから、毎日あとを尾行つけてるって言ってるじゃないの。……(手提のなかから白い分厚な封筒をとりだすと、それを久我のほうへ押しやって)このなかに三百円はいってるんだ。だから、これを……」
 それをおし戻して、
「こんな世話になるわけはない」
「でも、借りるあてがないのでしょう」
「大丈夫……すぐ、手にはいる」
「じゃ、逃げてくれる?」
「逃げるなんてことはしない。少し旅行したくなっただけだ」
「いつ?」
「あす……、はやければ今晩」
 ながい溜息をついて、
「安心したわ。……(そして久我の手を自分の胸へおしつけると)じゃ、どうぞ、いつまでもいつまでもお丈夫でね」
 唇の端をこまかく震わせながら妙な顔をしていたが、突然、久我の指をきつく噛むと、やい、馬鹿やい、といった。
 うるんだような眼をしていた。

「おい!」
 久我が低い声で呼ぶと、草のなかから山瀬が、むっくりと起きあがった。明治製菓の北裏の、この辺で射的場といっている原っぱだった。久我が草の上へ紙づつみをひろげた。そのなかに葡萄パンが五つはいっていた。山瀬はそれをとりあげると、あわてたように口へ押しこんだ。削痩さくそうした頬に夕陽があたって、動くたびにそこが鉛色に光った。
「うまい……」
 久我の顔を見あげて微笑すると、ピクピク肩をふるわせながら、またうつ向いていっしんに喰べつづけた。ときどきグッと喉をつまらせては苦しそうに涙を流した。野良犬がものを喰べているようだった。この容貌魁偉な大男がこんなようすをしているのは、なにか一種のはかなさがあった。
 久我が、いった。
「……ずいぶん、しゃべった。じゃ、これで別れるか。……すこしきいてもらいたい話があるんだが、そんなことをしてる時間もないな」
 山瀬は口を動かしながら、
「かまやせん。もう当分逢えないかも知れないから、お互いに、言いたいことを言おう。心残りのないように。……それはどんな事か」
 久我は苦笑して、
「下らないと思うだろうが、実はあの晩、僕は女装して〈那覇〉へ出かけているんだ」
「つまり応化アタプテーションだな。……どうして、なかなか適切だよ」
「まあ、そう言うな。はじめからそんな気でやったわけじゃないんだ。その晩ホテルに舞踏会パーティがあってね、なるたけ仮装してくれというから、ホテルのマグドに女の服を借りてもらって、それを着て会へ出たんだ。十二時ちかくに部屋へ帰ろうと思って、帳場コントールで久我の部屋の鍵をというと、番頭が、久我さんでしたら夕方からずっとお部屋においでになります。ご用でしたらご都合を伺ってみましょうか、というんだ。……なるほど、鍵は僕が持っていた。妙な気がした。むらむらと冒険心が起きてきた。……さっきも言ったようにもう二時間もすれば〈那覇〉というところで、なにか犯罪がおきる。これを予知しているのは〈通知〉の告知人と僕だけだ。不在証明アリバイはこの通り自然発生的に成立している。会は三時頃までやっているはずだからそれ迄に帰ってくればいい。……よし、行ってやれ。その家の前で待っていれば何が起きるかわかるだろう。ひょっとして金でも持って出てきたら、僕の警察手帳にものを言わせて、横合いからそいつを略奪してやるつもりだったんだ。……いや、もうお寝みだろうから、また明日くる、といってホテルを飛びだした。洲崎のおでん屋で二時すぎまで飲んで、それから〈那覇〉へ出かけた。すじ向いの古軌条置場のかげに隠れて待っていたが、いつまでたっても何事もはじまらない、しびれをきらして、そっと〈那覇〉へはいりこんだ。二階に部屋がある。手さぐりで入ってゆくと、途端になにかにつまずいて転倒した。スイッチをおして見ると、五十位の大男がやられている。……たちまち、僕の状態シチュエシオンは非常に危険なものになった。……女装している。胸から手から血だらけだ。間もなく夜が明ける。……それに、あの辺の地理的条件は僕のような脱走兵にとってはほとんど致命的だ。出口を塞がれた完全な袋小路だ。こんな恰好であの島から脱け出すには、たしかに一種の天才がいる。……あと始末を充分にして戸外へ出る。蛤橋のほうへ行こうとすると、果して向うから巡査がやってきた。もう一方の白鷺橋の橋詰には交番がある。……物蔭へはいって、どっかりとあぐらをかいた。すこし、頭を飛躍させるためだ。……いったい、いま僕を危険にしている条件は何んだ。ひとつは僕が血のついた女の着物をきていることで、ひとつは橋詰に交番のある橋を渡らなければならないことだ。……一見、これらの条件は絶対に避けられないように見える。しかし、すこし頭を転回して見ると、危険はそれらの条件にあるのではなくて、どうしても橋を渡らなければならないという観念から離れられないところにあるのだ。服をぬいでそこの溜堀へ沈めた。そろそろと堀を泳ぎ渡って、弁天町の貸船屋の近所へあがった。そこに腐ったような袢纒がかけ流してある。麻裏もある。そいつを引っかけて突っ立っていたらタキシが寄ってきた。ホテルへ帰って見ると、予期したようにみながまだ騒いでいて……」
 山瀬が、むっつりと口をはさんだ。
「しかし、そんなことを俺がきいても仕様がないな。……いったい、君が話したいということはなんだ」
 ちょっと間をおいて、
「じつは絲満をやったのは僕のフラウなんだ」
 山瀬は、まるで聞いていなかったように、冷然と空を眺めていた。久我はすこし早口になって、
「つぎの朝、巡査といっしょに二階へ上って行った。ふと見ると、血だまりのなかに女の服の釦が落ちている。しまったと思った。隙を見て拾ってポケットへ入れた。しかし、しらべて見ると、僕の服の地色とちがう。……葵の服にそれとよく似た色のものがある。そっとあてがって見たら、まぎれもなくその服から落ちたものだということがわかった。しかも葵はその夜一時頃、非常梯子をつたって自分のアパートから抜けだしているんだ。……現象的に見て、葵がやったと思うほかはないのだ」
「うん、わかった。それで、なにを言うつもりか」
「……衣裳屋へ服を借りに行った女が、いま盛んに追求されている。ホテルのマグドはまだ何も言ってないらしいが、いずれやり切れなくなって自首するだろう。……僕が捕えられるのはもう時間の問題だ。僕は殺っていない。だからこそ、葵のために僕は捕ってはならないのだ。どんなことがあっても二人で逃げとおすつもりだ。……僕の友人が穂高にいる。そこまで行けば、多少まとまった金が手にはいる。それで小樽までゆく。小樽から青島へ行く貨物船の定期航路があるはずだからそれで青島までゆく。あとはなんとかなるつもりだ」
 山瀬は起きあがって草の上にあぐらをかくと、微笑をうかべながら、
「君がなにを言いたいのか、よく判ったよ。……俺に言わせると、危険なのは君の情況シチュエシヨンでなくて君が本気で細君フラウを愛しはじめたことなんだ。君がひとりで逃げようとするなら、それは実に易々たる問題なんだからな。……むかし、虚無ニヒルの向うに何があるかという幼稚な議論をしたことがあったな。……君は虚無の向うに虚無の深淵だけだ、といった。僕は虚無の向うに愛がある、といった覚えがある。……覚えているか」
 久我は山瀬の顔を見つめながら、激したような声で、
「よく覚えている。中村君、僕ははじめ……」
 山瀬は手をあげて遮りながら、
「君の恋愛の告白なんかきいても仕様がない。それは、よせ。……それで、穂高までどうしてゆくか。そんな切迫しているのに東京を抜けだす自信があるか」
 久我が昂然と言いはなった。
「ある。……自信ではない。意志だ。……それに、僕はいま頓悟イリルミナシオンを得た。旅費にこだわっているから動けないのだ。歩くつもりなら融通無碍だ。僕は歩いてゆく。……どこまでも歩いてゆく」
 山瀬は憐れむように、ちらりと久我の顔を見かえすと、うつむいて黙然と煙草を喫いだした。霧がおりてきた。

 葵が憔悴した様子で自分の部屋へ帰ってきた。着物もぬがずに寝床の上へ横になった。壁のうえで夕映えが少しずつ薄れかけていた……
 葵が乾の家へゆくと、乾は二階の部屋で丹念に小刀を使いながら花台の脚を修繕していた。山瀬という軍人のような見かけの男と久我とが逢っているのを知らしてくれたら、旅費の五十円を貸そうという約束だったので、いそいで知らせに行ったのだった。いま、二人で大久保の射的場のほうへ行った、と告げると、乾はいつものように額をにらむようにしてなにか考えていたが、やがてニヤニヤ笑いながら葵のほうへ近よってきた。その笑いに、なにかぞっとするようないやらしさがあった。いつもとすこしようすがちがっていた。
 葵は力のかぎり反抗した。が、突然強く寝台に投げつけられて軽い眩暈めまいをおこしているうちに、もう身動きが出来ないようになっていた。乾の身体を押しのけようともがいたが、手が萎えたようになって、てんで力がはいらないのだった。ゆるしてください、それだけは、ゆるしてください、と譫言うわごとのように喘えぎつづけるばかりだった。

 夕食の仕度がはじまったのだろう。ほうぼうの部屋からしきりに水の流れる音がきこえてきた。葵は眼をとじた。
〈世界中の水を使っても、もう自分の穢れを洗い浄めることはできない……〉
 だが、穢れるというのはいったいなんのことだろう。よく考えてみたいと思うのだが、頭のなかが空虚になってなにも考えられなかった。肉体にのこっているすこしばかりの痛みのほうが、なにか切実に感じられるのだった。静かな夕暮れだった。
 部屋のなかに人のけはいがする。はっとして眼をあけて見ると、戸口に朱砂ハナが立っていた。紫紺のうすものに白博多の帯という、ひどく小粋ななりをしていた。戸口に立ったまま葵のほうを眺めていたが、すらすらと寄ってくると、
「おや、どうなすったの。気分でも悪いんですか」
 ひとがちがうような優しい声でいいながらじろじろと葵の身体を見まわした。葵はなにもかも見すかされるような気がして、思わず身体を起した。
「なんでもないの。すこし疲れたから……」
「そう。……でも、たいへんな顔色よ。お冷でもあげましょう」
 といって、立ってゆくと、そこここと仔細らしく流し元をのぞきこんでから、コップに水を汲んで戻ってきた。葵により添うようにしてかけると、しみじみとした調子で、
「ねえ、葵さん、あんた困っているんでしょう。……あたいによく判るのよ。あんたたちこの二三日なにも喰べていないのね」
 どうしてそんなことがわかるのか。葵はおどろいて眼をあげた。ハナは大袈裟なためいきをついて、
「……苦しむのはいいけれど、すこし悲壮パセチックね。どうしようとそれはあんたの勝手でしょうが、なんにしても、感情だけで生活しようというのは、すこし贅沢すぎやしないかしら。……あんたひとりなら、どんな甘えかたをしてもいいでしょうし、生きてる気がないんならそれでも結構。……でも、どうしても生きて行こうというんなら、もっと切実な考え方をなさい。感情だの、道徳だの、習慣だの……そんな甘いことじゃだめ。……悲壮なら悲壮でいいから、もうすこし徹底させて見たらどう? ……(葵の顔をのぞきこむようにして)ねえ葵さん、あんたお客をとって見ない? ……そうよ、もちろんあいつらはけだものよ。ノオ、けだものどころか、現象にすぎないのよ。……俄雨にあってずぶ濡れになったって、それがあたいたちの罪でないように、あいつらが非人間であればあるほど、どんな接触の仕方をしたって罪でも穢れでもない。あたいたちが受ける影響は、要するに、知覚だけのことでしかないのよ。……こんな商売をしているけど、あたいは虚栄や慾ばりの手助けをした覚えはなくてよ。すぐれた才能をもちながら、生活のために落伍してゆく同性に、合理的な道をあけてあげるつもりなんです。そのひとたちは喰べることのために時間をとられたりひどく骨を折ったりしてはいけないのね。一日にひとりだけお客をとってあとの時間は全部勉強のために使うようにするがいいんです。……いやなら無理におすすめしないけど、生きてゆくのに偽善なんか何んの役にも立たない、ってことを、いちど、よく考えて見てちょうだい」
 窓のない写真屋の暗室のような部屋だった。桃色の覆いをかけた枕電灯ベッドランプがなまめかしく寝台を浮きあがらせていた。葵が部屋の真ん中に立っていた。もう、悲しくも恐ろしくもなかった。生きるためには肉体の汚濁ぐらいはもののかずではない。まして、僅かな金のあるなしが、久我の運命を決定しようとしている。それを手にいれるためなら、どんなことでも恐れてはいられないのだ。こういう場合、貞潔をまもるとは、そもそもなんの意味をなすものであろう……
 気どったようすで扉があいて、ニッカーを穿いた面皰にきびだらけの青二才がはいってきた。点火器ライターをだして金口に火をつけると、
「よう、どうしたい、その後」と、いった。

 乾と向きあった眼つきの鋭い男が、ものを言うたびにいちいち顎をしゃくった。
「信州たって広いや。……信州のどこだ」
「存じませんです」
 男は、むっとしたようすで、
「なんだ、存じません、存じません。……下手に庇いだですると、気の毒だが君もひっかけるぜ。……言え、信州のどこだ」
 乾は膝に手をおいてうつむいていたが、やがて、顔をあげると、
「申しあげます。……が、そのまえに、ひとつ伺いたいことがございます。……久我が殺ったというのはたしかなんですか」
「それをきいてどうする」
「それを伺ってからでないと、あたしは寝ざめの悪いことになります。ひと月か二月の浅いつきあいだが、友人は友人。充分な証拠があったというのなら止むを得ませんが、そうでないのなら、たとえこのまま拘引オテアテをうけても、何事も申しあげかねるんでございます。……しかし、久我が殺ったということなら、知っていることは洗いざらい申しあげるつもりです。……ご承知の通りあの絲満の財産というものは、どの位あったか知りませんが、あんなことさえなければ当然あたしの手へはいっていたはずなんだ。それをむざむざと横合いから攫われたと思うと、あたしは残念で無念でそれ以来今日が日まで、いても立ってもいられない位だったんでございます。……警察なんざ頼みにならない。自分の手でそいつをとっちめてやるつもりで、いろいろ金も使い、ない智恵もしぼって、走り廻ったこともございます。……そういうわけだから、念晴しに、ひとつたしかなところをお明しねがいます。そのかわり……」
 男はすこしもてあましたようすで、
「いいいい、わかったよ。……なにもかもみな判明ワレたんだ。トビを借りに行った女というのが南平ホテルの女ボーイだったんで、こいつを訊問タタイて見ると、野郎のために借りたというんだな。……野郎ビクに化けて行きやがったんだ。なかなか味なシブイことをするじゃないか。あのミカケ強盗タタキをしようたあ、ちょっとだれも気がつかねえからな。……どうもナメた野郎だよ。それで、いままでヌケヌケと東京にアンゴしているてえんだから……」
 乾はいかにも口惜しそうな顔をして、
「ちくしょう。……やっぱり、あいつだったのか。あたしも臭いと思っていたが、まさかまさかと思って、うち消すようにしていたんです。……ひとを馬鹿にしやがって……。あいつが殺ったとすると、あんな太いやつはありません。偽せの警察手帳かなんか出しゃがって、逆さにあたしをおどかしたりするんだから……」
「それで、どこへ行くというんだ」
「なんでも、穂高で友達が牛を飼っていて、そこまで行けばどうにかなるから、って、ただいま嬶のほうが、金を借りに来ました」
「貸してやったのか」
「ひとに貸す金なんぞあるもんですか。あたしに断わられると二っちも三っちもいかないてえことを知ってるんですが、なにしろ、無いものはやれない。……だから、あいつらは、ぬすとでもするのでなければ、歩いて行くより仕様がないはずなんです」
「や、有難う。それだけ判ればいいんだ」
 と、いうと、男はがらくたの上から帽子をとりあげた。乾はその顔を見あげながら妙な含み声で、
「それだけ、わかりゃあいいんですか?」
 男はいぶかるような眼つきでふり返った。
「なんだ?」
 乾が、むっつりと言った。
「あたしは、まだ知ってることがあるんです」
 古絨毯の堆積へ、また腰をおろすと、身体をのりだして、
「そうか。……なんだ、それは」
 しばらく間をおいて、
「その着物トビはね、枝川町の溜堀を浚うとあがってくるんです」
「ど、どこの溜堀……、どうしてそんなことを知ってる」
「市の芥焼場の向いに、曲辰の材木置場がありますねえ……そこの溜堀です。尤もあたしもまたぎきなんだから、くわしいことは那須って新聞記者にきいてごらんなさい」
「那須? よく知ってるよ。……そうか、これあ、意外モロかった。や、どうも……」セカセカと立ちかけた。
「おや、もうお帰りですか」
 男はまた中腰になって、「なんか、まだ、あるのか」
 ジロリと見あげると、「久我ってのはね、この間の大阪の銀行ギャングの共犯なんですぜ。正体は岩船重吉という、そのほうの大物なんだそうです。……ご存知なかったんですか」
 ピクッと膝を動かした。さり気ないようすをしながら、
「へえそりゃ、本当かね」
「そのほうは見事に失敗しくじった。それで今度の絲満事件も、ほら、なんていうんだ、れいの……資金獲得のためにやったんだろうというんです。あれだけの大仕事をしておいて、ピイピイしてるてえのも、これでよく筋が通るんです。……しかし、くわしいことは知りませんよ。どうせ、これもまたぎきなんだから……。なんでも那須がとっちめて、ギャングのほうだけは白状させたということですが……。それでね、久我と中村はね、いま大久保の射的場にいるんですぜ。……あたしがこの眼で見たんです」
 男はもういても立ってもいられない風だった。掴みこわしそうに帽子を握りしめて、
「そうときいたら、こうしちゃいられない……いずれ……」
 乾は落ちつきはらって、
「どうするんです。すぐ捕物にかかるんですか。気をおつけなさいよ。二人とも拳銃ハジキを持ってますぜ。下手に生捕にしようなどと思ったら、えらい目に逢うよ。なにしろ、あいつは名人だそうだから……」
 さすがに苦笑して、
「いや有難う。……よく判ってるよ。とにかく、俺あ、急ぐから、お礼はいずれ……」
 その辺の古壺を蹴かえしながら、ひどくあわてたようすで出て行った。乾はチラとそのあとを見送ると、竹箆をとりあげて、ゆっくりと続飯そくいを練りはじめた。
 鶴がはいってきた。乾のそばへ並んで掛けると、
「いま出て行ったのは本庁の刑事ね。……なんの用で来たの。……どんな話をしたの」
「べつに大したことじゃない。おれの身元がどうのこうのって……」
 眉をよせて、
「なにも話さなかったの、久我のことは」
「金を借りに来たといった。それだけだ」
 鶴は乾の袖を掴んでゆすぶりながら、
「なにも言わなかったのね、本当ね?」
「下手なことをいうと係りあいになるからな。だれがそんなたわけたことをするものか。(チラリと鶴の顔を見あげて)だが、なんでそんなことをきく」
 鶴は、急に涙ぐむような眼つきになって、
「なんといったって、ほんとは久我が殺ったんじゃないでしょう。だから、久我を密告サシて苦しめることだけはかんべんしてちょうだい……それを、お願いに来たのよ」
 乾は竹箆の先に飯粒をためたまま、飽っ気にとられたような顔で鶴を見つめていた。
「正直のところあんたが、どうしても久我を送りこもうというのは、そうして葵を手にいれるつもりもあるんでしょう。それならば、ほかにいくらだって方法があるじゃないの。密告サスのだけはゆるしてやってちょうだい、お願いだから」
「どうしたというんだ、藪から棒に。チル
「わけ? わけはかんたんよ。……あたし、久我に惚れちゃったんだ(そう言って椅子のうしろに頭を凭らせると、)もうどうにも手に負えないんだ。この頃は一日に十ぺん位い泣きたくなる」
「驚いたなあ」
 そういって、ふふんと笑った。チルは肩をぴくんとさせて、
「驚いたよ、あたしも。……よく考えて見たら、はじめて逢ったときから惚れてたんだ。……二人の間を割こうと思ってれいの非常梯子の手紙を送りつけたりしたんだから、あたしももろいねえ。こうまでたわけになるものか。……驚いたてのはこのことなんです。……もう、首ったけなんだ。いのちまでも、さ。……このごろは朝から晩まであとをくっついて歩いてるんだよ」
「ほう、なんのために」
 キッと乾の眼を見かえして、
「離れられないのさ。それにはちがいなかろう。が、ありていいえば、じつは保護してるつもりなのさ。一旦緩急があったらなんとかして切りぬけさせるつもりなんだ。……もう、だいぶ危くなってきてるからねえ、ご存じの通り」
 乾はキラリと眼を光らせて、
「おい逃がすつもりか」
 急に唇をへの字に曲げると鶴は子供の様にすすり泣きはじめた。
「……逃がしたい。逃がしたい。……でもあんたをさしおいて勝手なことはしない。あんたにさからっても無駄だってことはよく知ってる。……だから、こうして降参してるんじゃないか。……助けてやってくれとたのんでるんだ。……密告なら密告でいいから、あす一日だけ待ってちょうだい。……お願いよ、お願いよ。そのかわり、あんたのいうことはなんでもきく……」
 乾はいかにも合点がいったという風に、うるさく首をふりながら、いった。
「そうか、よく判った。生かすの助けるのという器用な芸当は出来ないが、それほどにいうなら、密告サスことだけは待ってやる。(手荒く鶴をひきよせると)待ってやったら、ほんとうにいう事をきくか?」
 眼をとじると、鶴がかすかにうなずいた。

 濃い霧がおりていた。
 もう夜中ちかかった。家も街路樹もあいまいな乳色のなかに沈み、風がふくたびに海藻かいそうのようにゆらめくのだった。新宿の裏町を、号外配達が鈴を鳴らしながら泳ぎまわっていた。
 霧のなかから、久我と葵が現れてきた。瓦斯会社の前の街灯の柱に号外がヒラヒラしてるのを見ると、久我がそのほうへ寄って行った。号外の湿った面には、こんな風に刷られてあった。
〈逃走中の黒色ギャング、大阪第八銀行襲撃事件の主犯中村遼一なかむらりょういち(三六)は今夜十時半、新宿三丁目を徘徊中を発見され、正当防衛によって射殺された〉
 久我は首をたれて、ちょっと眼をとじると、しずかにそこを離れ、葵と肩を並べて甲州街道へはいって行った。
 笹塚の車庫の近くまでくると、葵は急に足をとめて、だれかにあとをけられているような気がする、といいだした。久我がふりかえって見ると、半町ほどうしろに四人の酔漢が腕を組み合ってなにか大声でわめきながらよろめき歩いていた。
「あとを尾けられるはずはないじゃないか。心配しなくともいい。あれは酔っぱらいだ」
 二人は代田橋から七軒町を通り下高井戸のそばまでやってきた。もう三時ちかくだった。そこの町角で立ちどまると、葵が弱々しい声で、疲れた、といった。
 久我は道路に立って、いま来たほうへ耳をすました。虫の声のほか人の気はいらしいものは感じられなかった。
「じゃ、あの家のかげで休もう」
 二人は道路から右へ折れこみ、森山牧場の納屋の前を通って中庭のようになった狭い草地へはいって行った。白い花をつけた百日紅さるすべりの木があって、それが霧の中で匂っていた。
 二人はその下へ坐った。
「ひどい露だ」
「でも、いいところだわ。ひとに見られる心配はないし、花の匂いもするし……」
 葵は久我により添うと、その肩に頭を凭らせて、深い息をすった。
〈とうとう逃げだしてきた。助かったんだ。これで、もう大丈夫……〉
 久我は葵の肩を抱いて、
「ため息をついたな? 疲れたか。……でも、もうすこしの我慢だよ。夜があけたら、府中の町でこの万年筆を売ろう。一日喰べる位の金はくれるだろう。……あとは、その都度なんとかすればいい……」
 葵は眼を伏せた。
〈心配しなくともいいのです。あたしお金をもってる。夜が明けたら汽車に乗りましょう〉
 そして、山へゆく、牛や巒気と交わりながら、憂いのない素朴な日をおくる。これが幸福でなくてなんだろう。じっとこうしていると、このまま大気のなかへとけてゆけそうな気がした。……二三度頭をゆり動かすと、やがて、ひくい寝息をたてはじめた。
 久我は微笑しながらその顔をのぞきこんだ。こころがしみじみとして、たとえようもなく愉しかった。ここに自分を愛するためにだけ生きているものがいる。自分の肩に頭を凭らせ、静かな寝息をたてている。
 久我は、はじめ葵を愛していなかった。東京での孤独な生活の娯楽として彼女を求めたのだった。そして、愛もなく結婚した。結婚するのに愛情なんか必要ではないと考えていたのである。しかし、いまは違う。長い間刻苦して鍛えあげた自我的な精神も自由もすてて甘んじて平凡な家庭のひとになり切ろうとしている。彼女のためならどんなことでもやってのけようと身構えている。これが愛情というものなのか。久我にとってはじつに驚くべきことだった。こんな変異が自分のうちに起きようとはただの一度も考えたことはなかった。
 久我は葵の手をとりあげてそっと唇をふれた。葵がぱっちりと眼をあけた。
「あたし、眠ってしまったのね。……もう出かけなくてはならないの? ……もうすこしこうしていたいんだけど……」
「いいとも。……いいころに起してやる。……葵、僕がいまなにを考えていたか知ってるか?」
 葵はうっすらと眼をとじると、夢からさめきらないひとのような声で、こたえた。
「あたしのこと……」
 久我が声をたてて笑った。
 すぐ間近で鋭い呼子の音がした。
 見あげるような五人の大男が、つぎつぎに霧の中から現れて、半円をつくりながらジリジリと二人のほうへつめよった。
 久我の上衣の衣嚢ポケットから一道の火光が迸った。鉄の焦げる臭いがし、鋭い破裂音が林の中へひびきわたった。いくどもいくどもこだまをかえした。
 一人が呻き声をあげて草の上へ膝をついた。四人の男はあとしざりしながら、口々に叫んだ。
「野郎、抵抗するか」
「御用だ、岩船重吉!」
 久我のピストルが、また轟然と火を噴いた。四人の男はいなごのように納屋のうしろへ飛びこんだ。
「さ、早く!」
 久我は葵の手をとると、右手の牛小屋のうしろへ駆けこもうとした……その時、なにか灼熱した鉛状のものが、ひどい勢いで久我の身体をさし貫いた。よろよろとして、その杭のほうへ手を伸ばそうとした……杭は急速に彼の眼のまえから消え失せた……
 頭のうえで、だれか、わけのわからない言葉で叫んでいるのをきいた。こんなところに寝ころんでいられない。……起きあがろうとして二度ほど爪で土をひっかいた。……葵、……葵……
 力のない視線を漂わせると、がっくりとうつ伏せになり、そして、動かなくなってしまった。

 二十燭ほどの、ともしい電灯をつけた、店の板土間にあぐらをかいて、乾と朱砂ハナが酒をのんでいた。つぎの日の夕方のことである。
 二人とも、もうだいぶ酔っているらしく、互いに、飲め、飲め、といってコップをさしつけていた。大部分は床へこぼしてしまうのだった。
 入口を蹴りつける音がし、はげしく扉をおしあけると、ふらりと鶴がはいってきた。靴のままでずかずかと板土間へあがりこむと、陶榻とうとうの上へ腰をかけた。これも酔っているらしく、蒼ざめて眼をすえていた。
 ハナが、ぐらりと首をのめらせて、下からまじまじと鶴の顔を見あげると、
「おや、なまちょこねえ、この餓鬼飲んでるよ。……オイ、どこで飲んできたんだ」
 乾はいい機嫌で、しきりに額を叩きながら、
「掃き溜に鶴、か。……いや、待ってた、待ってた。……ま一杯のめ」
 コップを高くさしあげて鶴の胸へおしつけた。鶴が烈しくはらいのけた。コップは乾の手を離れて遠いところまで飛んでゆき、鋭い音をたてて割れた。乾は額から酒の滴をたらしながら、ニヤニヤ笑った。
「おや、こいつの酒もよくねえ」
「うるせえ!」
 鶴がかんばしった声でさけんだ。血走った眼で乾を睨みつけながら、妙に重石おもしのついた声で、
「おい、やってくれたねえ……うれしがらせておいてハメこむなんて悪趣味だぜ。……こんなケチなガスモク野郎だとは思わなかった。それがあたしの不覚さ。……そうと知ったら、仁義などをケッつけずに、サッサとばしてやるんだった。……一生一代の恋をして、いのちにもかえがたい恋人を、ちょっと油断したばっかりに、みすみす死なせてしまったのか。……もう、この世では逢えないのか。……うらめしい、残念だ。(こらえかねたように声をあげて泣きだした。やがてふっと泣きやんだ眼をぬぐうと)おい、くどいようだが、よくやってくれたねえ。……どうして九両三分二朱だ。きっと祟って見せるよ。……あたしのいのちをカセにして、どうでもバラスはずはあるまいと、多寡をくくってるのかも知れないが、今日只今、もう命なんか惜しくない。これから本庁へ駆けこんで、底をさらって申しあげ、お前らの首へ細引を喰いこましてやるからそう思え。……なんだ、妙な面をするな、こんなトボケタ小娘だから、なにも知るまいと思って、さんざ出汁だしがらにしゃぶりゃがったが、事件コトのありようは元すえまで、なにもかにも知ってるんだぞ。……おい、ひとつ、ここで復習サラって見せようか。……大正七年の六月に、北海道の北の端れで、稚内わっかない築港の名代の大難工事が始まった。すると絲満南風はえ太郎は、自分の郷里の絲満から、二百人あまりの人間をだましてつれてきて、これを道庁の請負の大林組へ一人八十円パで売り飛ばした。売られた方はたまらない。なにしろ名代の監獄部屋だ。気候が悪い仕事が荒い、そいつが出来あがったときに生残った人間は二百人のうちたった十八人。……あたしの父親もだまされてうられて、そこで生命をおとした一人だが……こうして貯めこんだ金が三万円ばかり。怖くてたまらないから、銀行にも預けずに、自分の部屋へ金庫まがいの支那櫃を据えつけ、ひとが見たら蛙になれ、と隠しておいた。これを知ってるのは絲満と、当時の情婦、そこにいるおハナさんの二人っきり。ハナさんもながい間ねらっていたが、用心堅固で手がだせない。そればかりか、碌に小遣いもくれないから、とうとう喧嘩わかれになってしまい、もだもだしながら、洲崎の〈金城〉ってバアで稼いでいるうち、同気相呼ぶで知合ったのが、この乾君。……そこでいろいろ考えたすえ、尼ヶ崎でダンサーをしていたあたしを呼びよせ、お前のおやじの敵は絲満だ、おやじの仇を討ちたくないか。討つ気はないか。その気があるならかならず手助けしてやろうと、裾から火をつけるようにアオリ立てる。おやじの無残な死にざまは、さんざおふくろにきかされて、骨身にしみて口惜しく思っていたのだから考えれば考えるほど、どうしても生かしておけないような気になってそんなら助太刀たのむ。といったんだから、あたしの馬鹿にも恐れ韓信股くぐりさ。……どうせ以前の因縁でまっさきハナが検挙ヤラれることはわかっているから、承知で刑事の袖をひかせ、ハナの身柄は大切に洲崎署へお預け願っておく。……四の日と七の日が〈那覇〉のボーイの昼番だから、いよいよ六月の四日にやろうということになり、〈遺産相続の通知〉なんていうあざとい手紙をほうぼうへ送りつける。ちょうど……その頃シネラリヤへ現れた新参の葵という女に、どうでも身代りをたのむつもりで、〈通知〉の電話にも念をいれ、現場へ落しておくつもりで、そいつの釦をひとつむしりとる。……さて、その晩の八時頃、あたしが桃割れの鬘をかぶり、十六七の小娘に化けて、蛤橋の袂をうろついていると、案の定、古田という馬鹿がひっかかった。それをとりまいて〈那覇〉へ行く。ボーイが帰り仕度をしかけるのを見届けて〈那覇〉を出る。門前仲町で古田とわかれ、〈金城〉の二階へ駆けあがると、乾君が待っていて、こんどは二十二三、断髪、極彩色のモダン・ガールに仕立てあげる。なるたけ葵に似るように、継足をして長いソワレを着、乙にすました顔をしてまたぞろ〈那覇〉へとってかえす。見ると、ボーイがまだいるから、こいつは失敗しまったと思い、なるたけ顔を見られないようにしているうち間もなくボーイが出ていった。絲満が二階からおりてきて番台に坐る。こいつに色っぽくからんでゆくと、たちまち薬がきいておおデレデレの目なし鯛。おさえつけておいて無闇にのませる。そうしてるうちにどこの人足かしらないがひどく哥兄あにい面をしたのがはいって来たからうまい工合だと、あとはそいつにまかせ、帰るふりをして横手へまわり、柳の幹をつたって窓からはいり、戸棚の中にかくれて待っている。まもなく、絲満があがってきて、寝台に倒れるとたちまち前後不覚。……パパ、パパ、見ていてちょうだい。いま、あなたの妄執を晴らしてよ。どうかおうけねがいます。……思い知ったか、と無闇に突いた。……階下へ降りてゆくとお前さんが待っていていうことがいい。天晴れだ、孝女だ、見あげたもんだ、といったねえ。感極まって泣きだした。……泣かしておいてお前さんは二階へあがってゆく。だいぶ経ってから角ばった包を持っておりてきた。なんだ、ときいたら、お前が脱いだ着物じゃないか、という。格別気にもとめなかったが、言わずと知れた、それがめあての三万両さ。……つぎの朝になって、乾君がのこのこと見物に出かける。その場から葵がひったてられると思いのほか、天運測り知るべからず、釦は久我に拾われて、せっかく仕組んだ芝居が丸札をだす始末。なまじっかよけいな手紙なんか出してるばっかりにかえってそれがカセになって、こんどはこっちが危くなる。あわててあることないことハガキに連ねて古田を密告。筋が通らないから、これもいけない。いろいろあせりぬいているうちに、どうやら久我にうしろ暗いところがあると見込んで、神戸くんだりまでおハナさんを尾行つけてやってアラ拾いをさせる。銀行ギャングの一味だとわかったときは、君はよろこんだねえ。これをキッカケにして、あとはトントン拍子に筋が運ぶ。溜堀から服があがる。刑事がとんでくる。万事筋書通りになりました。久我は射たれて死んじゃった。……これでお国は安泰、福禄長寿……と、思ってるんだろうが、そうは問屋じゃおろさない。あたしがこれから暴露バラしにゆく。……ねえ、あたしのような小供を利用して強盗を働くのは間接正犯といってね、よしんばあたしは助かっても、君は絶対に助からないよ。……あたしが手を合せてたのんだとき、そいつをきいてくれてたらこんな羽目にはならなかったんだ。善因善果、悪因悪果、早く絞首台へ追いあげられて、青洟あおばなをたらして往生しろ。……じゃそろそろ出かけようか。言いたいだけを根っきりしゃべったんだから、さぞききにくいこともあったでしょう。かんにんしてちょうだいね。……それではお二人さん、また法廷でお目にかかりましょう……」
 と、いいながら、ストンと榻から飛びおりた。
 乾がチラとハナに眼くばせをすると、ハナはしずかに立ちあがって鶴の横手へ廻った。鶴は油断なく扉のほうへあと退りをしながら、せせら笑った。
「どうするんだい? あたしを殺るつもり? 見そこなうナイ、般若!」
 乾は鶴のほうへは眼もくれずに、奥の棚の上にあるラジオのところへゆくと、それをいっぱいにあけた。東家三楽の浪花節が、耳も痺れるほどがんがんと鳴りだした。
 そうしておいて、乾はのっそりと鶴のほうへ近づいて行った。二人は鶏でも追いこむような恰好に両手をひろげ、左右から鶴をじりじりと壁のほうへ追いつめて行った。

 どこかで虫が鳴いている。
 だいぶ更けたらしく、あたりはしんとしずまりかえっていた。うす暗い電気の下で、乾とハナがせっせと床をこすっていた。蘇芳すおうをまきちらしたようなおびただしい血のあとを、たわしに灰をつけて、ひっそりと洗いつづけるのだった……

 ちょうどその頃、葵は監房の窓から秋の夜空を眺めていた。
 葵はたったいま調室からかえされたところだった。久我はもう死んでしまった。かくすこともおそれることもない。訊問されるままに、あたしに〈遺産相続〉を通知したのは久我の声でした。と自白した。自分が大名華族の和泉家の長女であることも自発的に申したてた。
 久我はもう空にのぼって、あたしを見つめていてくれるのであろう。久我は決して遠いところにいるのではない。永劫のかたちでいまもあたしを抱擁していてくれるのだ。
 思えばはかない縁だった。はじめて久我と逢ってからまだ四月にも足らないのに、ひとりはもう空へかえり、ひとりは汚濁おじょく雑爼ざっそのなかへのこされた。現世につながる諸情諸因縁はみなこのようにも短かく果ないが、空へかえればそこに玲瓏たる永生が自分を待ちうけていてくれるのであろう。久我のいない世界に執着などのあるべきはずはない。
 葵は空に手をのばすと、低い声でいった。
「……待っててちょうだい。いますぐ……」
 翌朝、監房監守が点検にゆくと、東側八号室の女は細紐で固く喉をしめて縊死いしをとげていた。ちょっと胸にさわって、もう絶命しているのを見てとると、靴音高く混凝土コンクリートの廊下を走り去った。
 こんな幸福そうな死顔ってあるものだろうか。唇のはしをすこし曲げ、まるで笑いをこらえているようなあどけない顔つきをしていた。のぼりかけた朝日が、その横顔を桃色に染める……

底本:「久生十蘭全集 」三一書房
   1970(昭和45)年5月31日第1版刷第1刷発行
   1978(昭和53)年1月31日第1版刷第3刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年8月9日作成
2011年10月9日修正
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