――大評判の怪窟――探檢の勢揃――失敗の第一日――二日目――迷信家の大氣
――大發見?――探檢の本舞臺――最初の入窟者――怪窟の構造――其結果――
大評判の怪窟※[#感嘆符三つ、262-10]それは、東京と横濱との中間で、川崎からも鶴見からも一里足らずの處である。神奈川縣橘樹郡旭村大字駒岡村瓢簟山の東面部に其怪窟はある。
發見したのは、明治四十年四月の四日で、それは埋立工事に用ゐる爲に、山の土を土方が掘取らうとして、偶然に其怪窟を掘當てたのであるが、窟の中から人骨や武器や玉類や土器等が出たので以て、圖らず迷信家の信仰心を喚起し、或は又山師輩の乘ずる處となつて、忽ちの間に評判大評判『お穴樣』と呼び『岩窟神社』と唱へ、參詣人引きも切らず。日に何千人、時としては何萬人と數へられ、お賽錢だけでも日に何百圓といふ揚り高で、それに連れて今までは寂しかつた田舍道[#ルビの「ゐなかみち」は底本では「ゐなかみつ」]に、軒を並べる茶店やら賣店やら、これも新築三百餘軒に達したとは、實に驚くべき迷信の魔力※[#感嘆符三つ、263-9]
面喰つたのは神奈川縣の警察部で、斯くの如き迷信を、成すが儘に増長[#ルビの「ぞうちやう」は底本では「ぢうちやう」]さしては、保安上容易ならぬ問題であるといふので(それに濫りに神社呼はりを爲る事は法律の許さぬ處でもあるので)奉納の旗幟、繪馬等を撤せしめ、窟から流出する汚水[#ルビの「をすい」は底本では「をす」]を酌取るを禁じ、警官を出張さして嚴に取締を付けたのであるが、それでも參詣人は一向※[#「冫+咸」、U+51CF、263-13]じ無い。晝夜の差別なく、遠近から參集する愚男愚女は、一里の道を引きも切らず。
其所で、其岩窟なる物が、抑も何んであるかを調べる必用を生じ、坪井理學博士の第一の探檢調査となつた。それは九月十二日であつた。
實は博士をわざ/\勞するまでも無かつたので、これは古代の葬坑で、横穴と通稱するもの。能く調べたら全國到る處に有るかも知れぬ。現在に於ては、九州、四國から、陸前、陸奧、出羽の方まで掛けて三十五ヶ國に亘り發見されて居るので、加之横穴は一ヶ所に群在する例が多いのだから、穴の數を算したら、どの位有るか知れぬのである。中で最も名高いのは、埼玉縣の吉見村の百穴(實數二百四十餘)である。
それから、今度發見された駒岡附近にも、既に已に澤山横穴[#ルビの「よこあな」は底本では「よつあな」]が開發されてあるのだが、扨て、果報なのは今回のお穴樣で、意外の人氣を一個で背負つて、眞に希代の好運兒、否、好運穴といふべきである。
横穴は何處までも横穴であるが、内部の構造に多少注意すべき點もあり。それから瓢簟山の頂上に於て、埴輪土偶を二個發見した關係から、四ヶ處の隆起せる山頂を以て、古墳では無いかといふ疑問を生じ、若し其隆起せる山頂が、瓢簟形か或は前方後圓の古墳であるとすれば、其山頂の古墳と山麓の横穴と、如何なる關係を有するであらうか。山頂のが主墳で、山麓のが殉死者を葬つたのでは有るまいかといふ、斯うした疑問をも生ぜられるのである。
多くの例に於ては古墳(高塚)と横穴とは、別種に考へられて居る。よしや同所に有らうとも、同時代とは考へられて居らぬ。高塚よりも横穴の方が、時代に於て若いと考へられ居るので、高塚は高塚で或時代に築かれ、横穴は横穴で其後に造られると、斯う大概考へられて居たのであるが、それを坪井博士は、同時代に解釋を下されたのである、少しく考古趣味を有する者は、變だなと思はざるを得ないのであるが、それには又それだけの理由が有る。
それは瓢簟山の地形である。此地形が主墳の周圍に陪塚を造るをゆるさぬ。即ち主人を葬つた塚の近くに、殉死者の塚を造るだけの餘地が無いので、已むを得ず山麓に横穴を造つたといふの説である。果して然らば學術上の大發見である[#「大發見である」は底本では「犬發見である」]。
それで、兎も角も、山頂の凸起する地點に調査を試み、果して古墳であるか否かを確める必用[#ルビの「ひつよう」は底本では「ひつえう」]を生じたので、地主側の請願もあり、博士はいよいよ十月七日より數日間此所に大發掘を擧行せらるゝ事となつた。
此豫報が一たび各新聞に由つて傳へられると、迷信非迷信に關らず、江湖は大いなる注意を之に向けて拂つた。
何が出るだらう?
改めて余は茲に言ふ。或る意味に於ての大怪窟が、學術の光に如何照らされるであらうか。深き興味を以て此大發掘を迎へざるを得ない。
其所で余は、一方に於ては、新聞記者の職務を以て、一方に於ては、太古遺跡研究會幹事の本分を以て、坪井博士監督の下に行はれる所謂お穴樣大發掘の參觀[#ルビの「さんくわん」は底本では「さんくわい」]に出張する事とはなつた。
東京朝日新聞の記者にして考古家中に嶄然頭角を露はせる水谷幻花氏と同行して、余は四十一年十月七日午前九時(曇)鶴見の電車停留場に到着すると、間もなく都新聞の吉見氏、中央新聞の郡司氏が來た。
其所へ坪井博士は、石田理學士、大野助手、野中事務員を同行して、電車で來られた。續いて帝室博物館員、高橋、平子、和田、紀の諸氏が來る。新聞記者としては、國民の松崎、平福、郡司の三氏、時事の左氏、東京毎日の井上氏、毎日電報の近藤氏、やまとの倉光氏、日本の中村氏、萬朝の曾我部山岡二氏、報知の山村氏、城南の高橋氏、其他讀賣、二六、東京日日等、悉く揃つた。
これに出迎への村長、地主、有志家等、大變な人數である。それが瓢形に駒岡と記入したる銀鍍金の徽章を一樣に着け、同じ表の小旗を立てた俥に乘揃つて、瓢簟山へと進軍?したのは、なか/\のお祭り騷ぎ※[#感嘆符三つ、267-11]
一先づ一同は、地主の一人たる秋山廣吉氏の宅に着き、其所から徒歩で、瓢簟山へ行つて見ると、山の周圍に鐵條網を張り、警官十餘名、嚴重に警戒して、徽章なき者は出入を禁じてある。
山麓には、紅白だんだらの幕を張り、天幕を吊り、高等官休憩所、新聞記者席、參觀人席など區別してある。別に喫茶所を設けてある。宛然園遊會場だ。
其所へ、周布神奈川縣知事が來る。橋本警務長が來る。田中代議士、樋口郡長、曰く何、曰く何、斯ういふ時には肩書が必用[#ルビの「ひつよう」は底本では「ひつえう」]と見える。高等野次馬の數、無慮百餘名と註せられた。
其所で、第一の探檢が所謂お穴樣の内部である。前には此横穴の前まで、參詣人を寄せたのであるが、それでは線香で燻べたり、賽錢を投付けたりするので、横穴の原形の毀損する虞れが有る爲に、博士は取調上の必用から、先日警察に交渉し、入口から三間許り隔て、棒杭を打ち、鐵條を張り、人を入らしめぬ樣に警戒を依頼されたのだ。
今日は併し、其博士が先導であるから、我々は自由に内部まで入るを得た。但し、五六人宛交代[#ルビの「かはりがは」は底本では「はかりがは」]りである。
穴は間口七尺五寸に、奧行八尺の、高さ四尺、長方形の岩室で、それに柄を附けた樣に入口の道がある。突當りに一段高い處があつて、それから周圍と中央とに淺い溝が掘つてある。之は水の流出を謀つたのであらう。
右の如く純然たる古代の葬坑で、住居跡なんどいふのは愚説の甚しいのである。横穴の中でも格別珍らしい構造では無いが、床と溝とが稍形式に於て異なつて居る位で、之を信仰するに至つては、抱腹絶倒せざるを得ない。
扨て坪井博士は、石田學士大野助手等と共に、豫て集合さしてある赤鉢卷の人夫三十餘名を督して、いよ/\山頂の大發掘に取掛り、又一分隊を派して、瓢箪山西面に、半埋もれたる横穴、三箇の發掘を開始されたが、間の惡い時には何處までも惡いもので、東面の地主と西面の地主とは、感情の衝突か何[#ルビの「なに」は底本では「なか」]か有つて、西面の方へ無斷で手を附けるとは怪しからんとか何とか、少しの手違ひに突入つて喰つて掛り、山上で大激論が始まり、警務長や郡長や代議士などが仲に入つて、兎も角も歪なりの圓滿?に局を結び、一時中止して居た發掘を續ける事となつたが、西面北部の横穴は、乞食が曾て住んで居た事があり、西面南部の二箇には、子供が入つて遊んだ事もある。然うして二箇は内部で連絡して居るといふ事が分つたので、何んだか張合は拔けて來る。小雨は降り出す。新聞記者連はそろ/\惡口を始める。地主連はまご/\して居る。惰氣滿々たる此時に、南部の横穴の方で、坪井博士は、一聲高く。
『出た※出[#感嘆符三つ、270-6]た※[#感嘆符三つ、270-6]』
忽ち全山の高等野次馬は、我おくれじと馳付けて見ると、博士は笑ひながら、古靴の片足を、洋杖の先に懸けて示された。塵と一處に穴の中へ落ちて居たのを、博士が戯れに取出されたので、之は一抔[#ルビの「ぱい」は底本では「ぱく」]頂戴したと、一同クツ/\笑ひ。
這んな事で一向に要領を得ず、山頂の方では、僅かに埴輪の破片(雲珠、鞆等)を見出したのみ、それで大發掘の第一回を終つた。
余は折角着込んで行つた探檢服に、少しも泥を附けずして宅へと引揚げた。大學連中は皆泊り込みである。
八日(曇後晴)余は午前十時頃に瓢箪山へ到着して見ると、發掘は既に進行して赤鉢卷隊は活動して居るが、一向に變つた事は無い。
それでも、西面南部の二箇の横穴は、大概發掘を終り、其岩壁が欠壞して、奧で貫通して居る事が判明し、又石灰分が岩面の龜裂の部分から漏出して、小鐘乳石を垂下して居るのを發見した。
一時は天井から骨がぶら下つて居るの、セメントで内部が塗[#ルビの「ぬ」は底本では「ね」]つて有るのと、高等野次馬の騷ぎと云つたら無かつた。
それから一方の小なる横穴のシキからは、人の大腿骨[#ルビの「だいたいこつ」は底本では「だいたいこく」]と指骨の一小部分とが出で[#「出で」は底本では「出て」]、直刀の折片、鍔(鐵製、寶珠形、透し)脛巾金、及び朱塗の土器(彌生式土器に類似す)等が出でた[#「出でた」は底本では「出てた」]。これとても一向珍らしくは無い。
それで西面の横穴には斷念して、山頂の主墳探しに全力を盡す事となつたが、相變らず埴輪圓筒の破片や、埴輪土馬の破片等が出る位で、更に石槨に突當らぬ。如何も古墳は無いらしい。有つたかも知れぬが、今は無いのが本統らしい。
大野助手の顏色は、朱塗に成つたり祝部色に成つたりして居る。
余は其間に、最一度『お穴樣』を探檢する必用を感じて、東面の彼の參詣者[#ルビの「さんけいしや」は底本では「さんけんしや」]の前から横穴の中に入り、調査を終つて外へ出ると、鐵條網に隔てられた[#「隔てられた」は底本では「隔てちれた」]參詣人[#ルビの「さんけいにん」は底本では「さんけんにん」]の中[#ルビの「なか」は底本では「なら」]から。
『野郎、俺が今投げたお賽錢を踏めアがツて、太え奴だ。ぶン毆るから[#「ぶン毆るから」は底本では「ぷン毆るから」]然う思へツ』と呼はる。
なる程、彼等が[#「彼等が」は底本では「彼等か」]信仰心を以て、遠く此所まで來りながら、肝腎のお穴には接近する事を得ず。漸く鐵條網の外からお賽錢を投げたのを、變な男子がノコ/\來て、敬禮も爲ず、無遠慮に、穴に入つて加之お賽錢を踏んだのだから、先方の身になると腹の立つのも最も千萬。此奴毆られては大變だと余はコソ/\と逃げ出した。
此日は鐵條網に就て博士對警官の小衝突が有つたが、勿論警官側の誤解に出でたので、程なく落着した。
這んな事で第二日目も失敗。
余は、毎電、東京毎日、やまと、日本[#ルビの「にほん」は底本では「にはん」]の記者と共に、山越をして、駒岡貝塚、末吉貝塚[#ルビの「すゑよしかひづか」は底本では「すよしかひづか」]の遺跡を過ぎ、鶴見に出て歸宅した。
九日(晴)昨の如く到着して見ると、新聞連[#ルビの「しんぶんれん」は底本では「しんぶつれん」]も今日は少ない。坪井博士[#ルビの「つぼゐはかせ」は底本では「つほゐはかせ」]も歸京の準備をして居られる。博物館からは、和田氏一人だけだ。併し、高等野次馬は非常に多い。
東面山麓の山土の崩壞して堆積[#ルビの「たゐせき」は底本では「すゐせき」]したる一部に、祝部高坏土器を[#「祝部高坏土器を」は底本では「祝部高抔土器を」]を發見したので、如何も此所が怪しいと、人類學者ならぬ土方の船町倉次郎といふのが、一生懸命に掘り進んで居る他、赤鉢卷隊は全力を山頂に向つて注ぎ、山全體を取くづすといふ勢ひで遣つて居る間に、鍬の先にガチリと音して何か當つた。
『出たぞ/\』
『當つたぞ/\』と山頂は大歡呼である。余等は夢中に成つて、驅上つて見ると、出たのは出たが、古墳には無關係物で、石器時代の遺物たる、石棒頭部(緑泥片岩)源平時代の五輪塔の頭部。足利時代の寶篋印塔の一部等で、主墳には古過ぎたり、新し過ぎたり。好い具合に適合せぬので、又もや大失望。
坪井博士は、正午過ぎ、用事の爲[#ルビの「ため」は底本では「たみ」]、歸京されたので、後を大野助手が主任で監督して居ると、午後二時頃に至[#ルビの「いた」は底本では「いだ」]つて、船町倉次郎受持の山麓から、多數の圓石を發見した。
さア今度は本統だ。いよ/\掘當てた。けれども矢張横穴であらう。主墳では有るまいが、人氣の緩んで居る折柄とて、學者も、記者も、高等野次馬も、警官も、悉く此所へ集まつて、作業の邪魔となる事夥多しい。未だ穴の口が開かぬのに是なのであるから、横穴發見となつたら、どんな混亂を生ずるか分らぬといふので、警戒區域内に更に又一小區を劃し、此所には誰も入れぬ事にして、それから入窟の順序を豫め定めた。
大野――和田――野中――それから新聞記者を代表して、水谷及び余といふ順番である。
大得意の船町倉次郎は、更に勇を皷して圓石を取除くと、最初の地面より一丈三尺餘の前面に於て、ぽかりと大穴へ突拔けた。
一同は大動搖を始めた。早く中が見たいからである。けれども永く密閉せられてある岩窟の内部には、惡瓦斯を發生して居るに相違ない。不用意に入ると窒息して死ぬ恐れがあるので、先づ蝋燭の火をさし入れる必用がある。人足が一人進んで、穴の中に片手の火をさし入れると、火は次第に小く成つて、後には、ふツと消えた。
『危險※[#感嘆符三つ、275-7]危險※[#感嘆符三つ、275-7]』といふので未だ誰も入らうと爲ぬ。
余は此時、探檢服の輕裝で、手に龕燈を携へて居た。中に入るのは危險であらうが、龕燈の光を射し向けて、入口から内部を照らし見るには差支へなからうと考へ、單身横穴の入口まで進んだ。
然うして龕燈を持つ手を横穴に突出して、内部を照らして見やうとしたが、其光の當る部分は、白氣濛々として物凄く、何が何やら少しも分らぬ。
漸く見定めると、龕燈の光が奧壁に突當つて、朧月の如く寫るのである。
未だ併し入るには危險であるから、窟内に酢を散布して、然うして後に入るが好からう。それに、第一番には大野氏が入る筈だからと考へながら、猶今一度窟の底部を照らして見やうとして、龕燈を持直す途端に、余の足は入口のくづれたる岩面を踏んだので、ツル/\と穴の中へ濘り落ちた。
はツと思つたが、最う仕方が無い。余は既に一歩を横穴に踏入れて居るのだ。斯うなると日頃の探檢氣が生じて、危險を思はず、更に奧の方へ進むと、這は如何に、足下に大々蜈がのたくツて居る――と思つたのは束の間で、龕燈の火で照らして見ると、岩の隙間から入つた草の蔓であつた。
更に氣を取直して、暗黒々の岩窟内を照し見ると、奧壁近くに當つて有る、有る、人の骨らしい物が泥土に埋まりながら横はつて見える。然うして其枕元の方に、錆びて木の如くなる直刀が二本置いてある。
此時余は一種言ふ可らざるの凄氣に打たれたのである。此所は是、千數百年前の人を葬つた墳墓である。其内部に余は生きながら入つて立つのである。白骨生けるにあらぬか。余は死せるにあらぬかといふ、夢幻の境にさまよひ、茫然として動かずに居る後から、突然、一箇の黒影が出現した。
吃驚して見るとそれは野中氏だ。
それから余は氣を取直して。
『最う大丈夫だ。諸君、來給へ』と呼はつた。
窟外からは、角燈、蝋燭なんど、點火して、和田、大野、水谷といふ順序で入來つた。
それから五人、手分をして、窟内を隈なく調査して見ると、遺骨、遺物、續々として發見される。それを過まつて踏みさうに爲る。大騷ぎだ。
今この岩窟を説明するに、最も解し易からしめるには、諸君の腦裡に、洋式の犬小屋を畫いて貰ふのが一番だ。
地中に犬小屋式の横穴が穿つてあつて、其犬小屋の如き岩窟の入口までは、一丈三尺餘の小墜道を通るのだ。扨て、犬小屋の如き横穴の入口は、幅三尺六寸、高さが三尺八寸ある。だから犬が犬小屋に入る時に腹這ふと同じく、人が横穴に入る時も、餘程窮屈だ。
其所で、入口を入ると、其所の横幅が九尺四寸ある。それから突當りの奧壁まで一丈四尺の長さがある。奧壁の處の横幅は、入口より少しく延びて一丈一尺五寸ある。下には小石[#ルビの「こいし」は底本では「こいく」]が一面に敷詰めてある。天井の高さは中央部は五尺四寸あるが。蒲鉾式に圓く張つて居るので、四隅はそれより自然に低い。扨て其他には、彼の第一の穴にもある如く、周圍と中央とに、幅四五寸の溝が穿つてあるが、彼の如く床壇は設けて無い。其代りに奧壁から一尺二寸隔て、一列に石が並べてあり、それから三尺を隔て、又第二列の石が列べてある。其間に、人骨の腐蝕したのが二三體泥の如くなつて横はつて居る。鐵鏃がある。直刀が二本交叉してある。鐵環。轡。槍先。祝部、土器等が、其所此所に置かれてある。
これを調べるには、和田氏が卷尺を持つ、余が一方に其端を持ち、一方に燈器を持つ。大野氏が一々圖を取るといふ役目で、然うして居る間に、頭と尻と衝突する。足を踏む。手[#ルビの「て」は底本では「ゐ」]を突く。遺物[#ルビの「ゐぶつ」は底本では「ゐふつ」]を踏み掛ける。遺骨を踏み掛ける。窮屈千萬だ。
遺骨は三四體、合葬した形跡がある。其所にも此所にも人骨が横はつて居るが、多年泥水に浸されて居たので、手に觸れると宛然泥の如く、形を全く取上げる事は出來ぬ。
以上の如く、大體の調査は濟んだのであるが、猶細かに、小石や、泥を渫へ出して見たら、玉類金環類の發見もあるのだらうが、それは坪井博士[#ルビの「つぼゐはかせ」は底本では「つほゐはかせ」]が來られてからにして、兎も角も既發見の遺物だけ外に持出し、跡は明日まで封鎖するが好からうと、一决し、各新聞記者及び少數の人に窟内を一見さした後、余等五人は穴から出る事にした。
其時、余は、俵形の土器を兩手に持つて、眞先きに穴から飛出すと、高等野次馬は聲を揃へて。
『萬歳※[#感嘆符三つ、279-10]』の叫び。
地下坑道から進んで敵砲臺を陷落せしめた勇士も斯くやと、我ながら大得意であつた。
余は此日限り、既う探檢には行かなかつた。何故ならば、迚も主墳發見の見込が無いからであつた。
大學側でも、其翌日、新發見の横穴に就て調査を續けられたのみで、それ限り、他の發掘を中止され、十一日には坪井博士の講演があつたゞけで、瓢箪山大發掘の一段落は著いた。
余は殘念ながら、博士の講演を拜聽するを得なかつたので、博士が瓢箪山及び新發見の横穴に就て、如何いふ説を發表されたか、余は知らぬが、(新聞には講演の梗概が出て居たが、余は新聞の記事には、信用を拂はぬ一人であるので[#「あるので」は底本では「あるで」]、證とせぬ)余は余として、生意氣ながら左の如き説を持するのである。
(一)瓢箪山の頂上に曾て古墳の有りし事を承認す。
(二)山頂の古墳と山麓の横穴とは時代に於て無關係なる事。
(三)第二の横穴に數人を合葬したるは主人及び殉死者を入れたりと解釋せず。身分に格別の隔絶なき武人の、同日の戰死者を合葬したる者と考證す。
これを一々論ずるのは、探檢記の主意で無いので、之で筆を擱く。
最後に此新横穴からの發見物[#ルビの「はつけんぶつ」は底本では「はつけんぶん」]に就て、最も注意すべき點を附記して置く。それは、供物らしき魚骨の發見と、俵形土器の中から、植物らしき物の出た二事である。他に例の無かつたのを今回見出したのだ。俵形の土器から植物を探し出したのは、實に余である。危く人夫が捨てやうとしたのを、引取つて調べたからである。