今日から考えて見ると、徳川様のあの大身代が揺ぎ出して、とうとう傾いてしまった時であった。その時、何もかも一緒にいろいろなことが湧いて来る。先ほど話した通り、四時の循環なども、ずっと変調で、天候も不順、米も不作、春早々より雨降り続き、三、四月頃もまるで梅雨の如く、びしょびしょと毎日の雨で、江戸の市中は到る処、溝渠が開き、特に、下谷からかけ、根岸、上野界隈の低地は水が附いて脛を没し、往来も容易でないという有様であったが、その五月十五日もやっぱりびしょびしょやっている。たまに霽れたかと思えば曇り、むらにぱらぱらと降って来ては暗くなり、陰鬱なことであった。
当時、師匠東雲の家は駒形町にありまして、私は相更らず修業中……その十五日の前の晩(十四日の夜中)に森下にいる下職の塗師屋が戸を叩いてやって来ました。私が起きて、潜りを開けると、下職の男は這入って来て、師匠と話をしている。
「師匠、どうも、飛んでもない世の中になって来ましたぜ。明日上野に戦争があるそうですよ。いくさが始まるんだそうで」
「何んだって、いくさが始まる。何処でね」
「上野ですよ。上野へ彰義隊が立て籠っていましょう。それが官軍と手合わせを始めるんだそうで。どうも、そうと聞いては安閑とはしていられないんで、夜夜中だが、こちらへも知らせて上げようと思って、やって来たんです。どうも大変なことになったもんだが、一体、どうすれば好いのか、まあ、そのつもりで皆で注意するだけは注意しなくちゃなりませんね」
など、いかにも不安そうに話している。
やがて、下職は帰ったが、さて警戒のしようもない。夜が明けたら、また何んとかなろうなぞ師匠は私たちにも話しておられたが、ふと、上野で戦争ということで気が附いて困ったことは、ちょうど、そのいくさのあるという上野の山下の雁鍋の真後ろの処(今の上野町)に裏屋住まいをしている師匠の知人のことに思い当ったのであります。
その人は師匠の弟弟子で杉山半次郎という人、鳳雲の家にて定規通り勤め上げはしたけれども、業がいささか鈍いため、一戸を構える所まで行かず、兄弟子東雲の手伝いとなって仕事をさせてもらっていたのでありました。師匠は、この半次郎のことを心配しだしたのであった。
「幸吉、半さんが山下にいるんだが、困るなあ」
「そうですねえ。半さんは、いくさの始まるってことを知ってるでしょうか」
「さればさ。あの人のことだから、どうか分らないよ。こっちが先に聞いた上は、一つ、こりゃ半さんに報告せて上げなくちゃなるまい。夜が明けたら、幸吉、お前は松を伴れて行って知らしてやってくれ、ついでに夜具蒲団のようなものでも持って来てやってくれ」
こんな話でその夜は寝に就きましたが、戦争と聞いては何んとなく気味悪く、また威勢の好いことのようにも思われて心は躍る。
夜は明け、弟弟子の松どんを伴れ、大きな風呂敷を背負い、私は師匠にいわれた通り、半次郎さんの宅へ行くべく家を出ました。
道は駒形町より森下へ出て、今の楽山堂病院の所から下谷御徒町にきれ、雁鍋の背後へ出ようというのですから、七軒町の酒井大学様の前を通り西町の立花様の屋敷――片側は旗本と御家人の屋敷が並んでいる。堀を前にした立花の屋敷の所へ差し掛かると、この辺一帯は溝渠が開いて水が深く、私と松どんとは、じゃぶじゃぶと川の中でも歩くように、探り足をしては進んで行くと、何んだか、頭の頂天の方で、シュッシュッという音がする。まるで頭の側を何かが掠って行くような音である。何んだろうと、私は松と話しながら、練塀へ突き当って、上野町の方へ曲がって行こうとすると、其所に異様な風体をした武士の一団を見たのであった。
その武士たちは袴の股立ちを高く取り、抜き身の槍を立て、畳をガンギに食い違えに積み、往来を厳重に警衛しているのである。
私は風呂敷を背負って、気味が悪いが他の人も行くから其所へ進むと、
「小僧、何処へ行くんだ」
と問いますので、師匠の用向きにてこれこれと答えますと、早く通れ、という。それから二、三ヶ所も、同じような警護の関を通り抜けて行く間に、早戦争は始まってるという話、今、道でシュッシュッと異様な音の耳を掠めたのは、鉄砲丸の飛び行く音であったことに心附き、驚きながら半さんの家へ駆け込みました。
半さんは長屋の中でも一番奥の方へ住んでいる。至って暢気な人で、夫婦にて、今、朝飯を食べている所であった。
ところが、驚いたことには、この騒ぎを、半さん夫婦は全く知らずにこうして平気な顔で朝飯をやってるということが分った時には、さすがに私も開いた口が塞がりませんでした。半さんは、私から、師匠の報告これこれということを聞き、また途中の様子を聞き、
「ハハア、そうかね。そいつは驚いた。ちっともそんなことは知らなかった。じゃあこうしちゃあいられないな」
と、急に大騒ぎをやり出しました。後で聞くと、半さんの妻君が少しお転婆で、長屋中の憎まれ者になっていたため、当日の騒ぎのあることを知らせずに、近所の人たちは各自に立ち退いたのだそうですが、世にも暢気な人があればあるものです。
私と松どんとは、半さんの家の寝道具を背負い、もう一度出直して来ることをいい置き、元の道を通り抜けて、一旦、師匠の家に帰り、様子を話し、再び取って返して来ましたが、その時は以前よりも武士の数もさらに増し、シュッシュッという音も激しくなり、抜き身の槍の穂先がどんよりした大空に凄く光り、状態甚だ険悪であるから、とても近寄れそうにもありません。ソレ弾丸でも食って怪我をしては大変と松とも話し、一緒に家へ帰って、師匠に市中の光景などを手真似で話をしておりますと、ドドーン/\/\という恐ろしい音響が上野の方で鳴り出しました。それは大砲の音である。すると、また、パチパチ、パチパチとまるで仲店で弾け豆が走っているような音がする。ドドン、ドドン、パチパチパチという。陰気な暗い天気にこの不思議な音響が響き渡る。何んともいえない変な心持であります。私たちは二階へ上がって上野の方を見ている。音響は引っ切りなしに続いて四隣を震動させている。其所にも此所にも家根や火の見へ上がって上野の山の方を見て何かいっている。すると間もなく、十時頃とも思う時分、上野の山の中から真黒な焔が巻き上がって雨気を含んだ風と一緒に渦巻いている中、それが割れると火が見えて来ました。後で、知ったことですが、これは中堂へ火が掛かったのであって、ちょうどその時戦争の酣な時であったのであります。
そして、小銃は雁鍋の二階から、大砲は松坂屋から打ち込んだが、別して湯島切通し、榊原の下屋敷、今の岩崎の別荘の高台から、上野の山の横ッ腹へ、中堂を目標に打ち込んだ大砲が彰義隊の致命傷となったのだといいます。彰義隊は苦戦奮闘したけれども、とうとう勝てず、散々に落ちて行き、昼過ぎには戦が歇みました。
すると、その戦後の状態がまた大変で、三枚橋の辺から黒門あたりに死屍が累々としている。私も戦争がやんだというので早速出掛けて行きましたが、二つ三つ無惨な死骸を見ると、もう嫌な気がして引っ返しました。広小路一帯は今日とは大分違い、袴腰がもっと三枚橋の方へ延び、黒門と袴腰の所が広々としていた。山下の方には、大きな店で雁鍋がある。この屋根の箱棟には雁が五羽漆喰細工で塗り上げてあり、立派なものでした(雁鍋の先代は上総の牛久から出て池の端で紫蘇飯をはじめて仕上げたもの)。隣りに天野という大きな水茶屋がある。甘泉堂(菓子屋)、五条の天神、今の達磨は元岡村(料理店)それから山下は、今の上野停車場と、その隣りの山ノ手線停留場と、その脇の坂本へ行く道が、元は、下寺の通用門で、その脇が一帯に大掃溜であった。その側は折れ曲がって左右とも床見世で、講釈場、芝居小屋などあった。この小屋に粂八なぞが出たものです。娘義太夫、おでんや、稲荷ずし、吹矢、小見世物が今の忠魂碑の建っている辺まで続いておりました。この辺をすべて山王下といったものです。
停車場の向う側は山下町、その先の御徒町の電車通りの角に慶雲寺がある。この寺は市川小団次の寺で法華宗です。山の上では今常磐花壇のある所は日吉山王の社で総彫り物総金の立派なお宮が建っていました。その前の崖の上が清水堂、左に鐘楼堂。法華堂、常行堂が左右にあって中央は通路を跨いで橋が掛かり、これを潜って中堂がありました。此所が山中景色第一の所でした。
この辺一帯をかけて、その戦後の惨景は目も当てられず、戦い歇んで昼過ぎ、騒ぎは一段落附いたようなものの、それからまた一騒ぎ起ったというのは、跡見物に出掛けた市民で、各自に刺子袢纏など着込んで押して行き、非常な雑踏。するとたちまち人心は恐ろしいもので慾張り出したのであります。それは官軍が彰義隊から分捕った糧米を、その見物の連中に分配しますと、我も我もと押し迫り、そのゴタゴタ中に一俵二俵と担いで行く……大勢のことで、誰がどうしたのか、五十俵百俵はたちまち消えてなくなる。群集の者は、もう半分分捕りでもする気になり、勝手に振る舞い、果ては上野の山の中へ押し込んで行き、もう取るものがないと見ると、お寺の中へ籠み入って、寺中の坊さんたちの袈裟衣や、本堂の仏像、舎利塔などを担ぎ出して、我がちに得物とする。たちまち境内のお寺は残らず空ッぽとなり、金属のものは勾欄の金具や、擬宝珠の頭などを奪って行くという騒ぎで、実に散々な体たらく……暫くこの騒ぎのまま、日は暮れ、夜に入り、市民は等しく不安な思いで警戒したことであった。
さて、我々の方面はどうかというと、浅草の大通り一帯も、なかなか安閑とはしていられない。吾妻橋は一つの関門で、本所一円の旗本御家人が彰義隊に加勢をする恐れがあるので、此所へ官軍の一隊が固めていたのと、彰義隊の一部が落ちて来たためちょっと小ぜり合いがある。市中警戒という名で新徴組の隊士が十七、八人榧寺に陣取っている。異様の風体をしたものが右往左往しているという有様でした。新徴組は市中取り締りとはいうものの官軍だか、賊軍だか分らず、武士の食い詰めものの集団で、余り評判はよくないということであった。
ですから、何事も無政府状態で、市民一般財産生命の危険夥しく、師匠の家の近辺なども、官軍であるか、彰義隊か分りませんが、所々火を放って行きなどしたもので、しかし雨天続きのため物にならず、燃え上がったのは人々見附け次第消しましたが、不用心極まることでした。師匠の家なども我々は畳を上げ、道具を方附け、いざといえば何処かへ立ち退く算段……天候は悪く、びしょびしょ雨で、春というのに寒さは酷しい。師匠の家では、万一を気遣い、日本橋小舟町の金屋善蔵というのへ、妻君と子供だけは預けようということになり、私が妻君の伴をして立ち退きましたが、浅草見附へ行くと、番兵がいて門は閉まって通ることが出来ない。一々、人調べをしてから、犬潜りから通しているので、私たちも改められて潜り抜けたが、何んだか陰気な不気味なことでありました。
とにかく、上野の戦争といっても、私が目撃したことは右の通り位のもので、戦争の実況などは分りはしませんが、後年知ったことで、当時御成街道を真正面から官兵を指揮して黒門口を攻撃したのは西郷従道さんであったといいます。これは私が先年大西郷の銅像を製作した際、松方侯の晩餐に招かれて行きましたが、その席に大山、樺山、西郷など薩州出身の大官連が出席しておられ、食卓に着きいろいろの話の中、当時のことを語られているのを聞いていると、お国訛りのこととて、能くは聞き取れませんが、おいどんが、どうとか、西郷従道侯の物語りに、御成街道から進撃した由を承りました。
先刻話した群衆の分捕り問題は、後日に到ってやかましくなり厳しい調査があるので、坊さんの袈裟を子供の帯などにくけて使っていたものはその筋へ上げられました。で、いろいろなものがはき出され、往来へ金襴の袈裟、種々の仏具などが棄ててあったのを見ました。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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