目次

一月一日

(土曜)
〔書信〕大久保明子
〔読書〕私は今日一日何も読まなかった事を恥じる。
 之から新らしい一年が始まると云う事については又新らしい幸福な勇気が自分に湧き上って来るのを感じる。
 久米さんが来てこの間から私の頭をなやまして居た人類の愛と云う事について話が出た。母としての人の云う事、一人の男として思う事をのべる人との間には異った点があんまり大きい。
 自分は何か自分の考えを得なければならないと思う事が苦しい位明かに思われて来る。考える事は私にとって今は労力の消費をはげしくするにすぎないと云う人もあるけれ共、私は考えはあくまでもねられなければならないと云う考えから出来るだけ考える。思索を以て始められた此の一年は私にとって意味深い事である。

一月二日

(日曜)
〔書信〕(来)高嶺
    (返)同右 大久保 小田切
〔読書〕「宇宙の謎」を四十一頁、「戦争とパリー」を少し、四十三頁
「宇宙の謎」を読みながら思った。私共は考えずには居られない人間に生れついて居る。考えるのはいくらでもよい、親と云うものにつき自分と云うものにつきどんな学理的な解釈をしてもかまわないので有る。けれ共学理的に解剖した事は実生活に不都合かと云うに必ずそうではない。却ってたしかに親なら親を知り宇宙なら宇宙を知り得るので快いのである。今まで極くおぼろげなものであった宇宙と云うものをこの本を読んで恐ろしく学理的に書いてあってよく分って宇宙と云うものが確かに自分の見る宇宙になった。世のすべての事を神秘説で被うには及ばない。有りのままを静かに見るべきである。その結果として世の中はつまらなくなるものではない、又そうならない解釈でなければ正しくないのである。私はすべてを学理的に理解して確な踏み台に立って世の中を見るべきである。

一月三日

(月曜)
〔書信〕坂本千枝子へ出
    巨勢春野返
〔読書〕「宇宙の謎」三十頁
    「戦争トパリー」一一三頁
 書き掛けの物をいつまでも持って居るのは辛いものだ。
(八)十六枚を書きあげる。
 今日は去年最後の産物だった「二十三番地」と「追憶」を父が箱根の次手ついでに熱海に居られる坪内さんの所へ持って行って下さる筈になった。
 相当に物も読んだし書きもしたので満足である。
 彼の大きく出来すぎた袖模様の羽織が又母との感情の不和の原因に今日もなった。女の生活に着物と云うものの占めて居る位置のつよさにおどろく。寿江子[#中條寿江、中條家三女]が大変私に機嫌がよかった。嬉しい事である。

一月四日

(火曜)
久米正雄氏より『帝国文学』、手紙
 久米さんの所から「金井博士とその子」と云う劇を送って呉れる。一番音彦と云う息子と、巴子が一番よく出て居る。一番力を入れて書いた人物だからでも有ろうけれ共恋心の芽生のある巴子と、メフィステックな音彦と、おっかけっこのおとぎ話はいかにも印象的な面白いものである。兎に角「牛乳屋の兄弟」より一番何となし劇的効果のある作である。
 それにつけてよこして呉れた手紙は又私共の感情をかき乱すものになった。無同情な年長者の心に悲しくさせられる。夜父からの贈物の花瓶を見つける。

一月五日

(水曜)
〔書信〕坂本千枝来
 大風が木枯しの空を吹き荒れる。黄枯れた梢が淋しく晴れた空の下に揺れて居るのを見ると、一種異様な感に打たれる。種々な分らない事を抱えて、毎日、毎日思うより幾分の一外仕事の出来ない日を送って居る事は辛い。
 今日から三日掛って、「お久美さん」を書き上げなければならないと思うので、九のすっかりと十だけをまとめた。百三十八枚ある。自己反省の多い人間は悲しみが多い。考えなければならない様に生れついて居る人々は淋しい。多勢の人間が集まって居ながら一人一人異った考えを持って居るのを思うと、真に一人一人の人間の集合だと云う事は明かに思われて来る。確かな自己をとり守って、やがて大きな自己拡張を行いたいと思う。苦難に堪える自分を作る事は必要だろうかと云う事は思われて居る。

一月六日

(木曜)
 日記を付けると云う事は一日を尊重する気持を起させる。寝る前にその日一日の記録を残そうとするときに余りする事が少なかったとき、考える事の貧しかったときは恥を感じるだけでもどの位私をすすめて行く事か知れない。私は確かに自分を大切に育てて居るだろうかと云う事は疑問になって来る、私は人より勉強して居ると思って居る、考えると思って居る。けれ共それが毎日どれだけ私の実質を作って行くかと思うと情なくなる。私は無自覚ではない。少くとも自分の力を或る程度までは頼って居る。それが有るばっかりで私は自分の生きて居る歓びを感じて居るのである。どこまでも育てなければならない。明日は早く起きてさっさと仕様とその事はつくづく思わずには居られない。

一月七日

(金曜)
〔読書〕「人類の過去現在及び未来」、「宗教心理学」、Fantoms
 夜になってから非常に気が滅入ってたまらなくなった。借りてきた五冊の中、満足によめたもののない事、今日一日何にも書かなかった事が私を非常にせめた。明日から又学校が始まる。却って規則正しい一日が送れて私にはよい。
 三月になると入学試験になるから今から勉強しなければならない。一番はっきりして居ない文法が不安の様にもあるけれ共、仕て出来ない事はあるまいと思う。兎に角出来ると思ってやるに限る。そうすればきっと成就するものである。
 明日半日掛ってあさってにかけて、書きかけを出来さなければならない。
 不満だらけになって来るので辛くもある。
「貧しき人々の群」はかなり醸されて居る。

一月八日

(土曜)植物園に英男と行く。非常におだやかな寒とは思われない。
〔読書〕「宇宙の謎」四十四頁 文法、リーダー
 始業式出席、又努力の事について話が有った。私は又深く考えさせられる。今年は私にも確かに変った事が起って来るに違いない。植物園へ行って、珍らしく好い気持になった。「小さい子供」十枚を書く。「宇宙の謎」を読んで「神は宇宙と一体なり」と云う言葉ではっきり神に対する考えを得た何よりうれしい。今日はつくづく思って居た事だが私共は好い事にも悪い事にも臆病である。私等は思って居てそうしたがりながら出来ないで居る事が多い。もう少し勇気があらなければならない。ほんとに力が足らない。好い事もはきはきと出来ずまして悪事もせいぜい小悪戯をする位の所では情なくなって仕舞う。勇ましくどうぞ此の気の毒な私の育ちます様にその事を、無限の空間を充たして居る不変のエネルギーに祈る。

一月九日

(日曜)
〔読書〕文法、「十八史略」、「人及芸術家としてのトルストイ並にドストイェフスキー」
 今日は実に私は自分の力の足りない事を感じた。きらいな事は出来ないと云うせまい今までの自分であった事を恥じる。小さい事でもそれは何物かを私に教えるものである事を思えばいやな事はないはずである。自分の身の囲りに起って来た事すべてを引きうけてやれる丈余裕のある人間でならねばならなかった。私は学校のだけの事にはすべてよろこんで仕様、寡言にドシドシ進んで行こう。私の集られ(ママ)て居る多くの女達に私はかかわって居ずと好いのである。確な自分を作るために何事をも辞すまい。切実な自己反省のたらなかった事をはじる。私は今日非常に平和である。心に余裕がある。私は人を大切にされる気持になって居る。今日思って居た事は大勢来た客のために大方は拒えぎられたけれ共、私の心は「これからはだまってどしどし進んで行こう」と云うよろこびでときめいて居るのである。

一月十日

(月曜)
〔読書〕「人及芸術家としてのトルストイ並にドストイェフスキー」、テニソンのソネット四、Fantoms
 大変に強い風が吹いて行く。雪にでもなりそうな引きしまった不安が満ちた夜である。非常に私の心は落ついて居る。しなければならない事は沢山あるがゆったりして居られる。
「お久美さん」のつづきを書いて仕舞いたいが出来ないで居る。「追憶」の中の宗教に対する自分の意志を発表するにあれではあまり浅薄すぎて恥かしいなおさなければならない。彼れを去年の九月だかに書いてそれから三月の日の進みの中に少しずつなり自分が進んで居るのが分ればうれしい。今日は下らない用事のために私の思って居たことは出来ないで居る。けれ共どうせ仕なければならないんだからよろこんでするのである。明日は千葉先生へ手紙を書こう。この頃の内心の動揺を云わずには居られない。私の愛して居る先生へ心の声を聞いていただこう。今日一日はかなり今までよりはよい一日を送ったことであった。明日は又今日よりよくあります様に。

一月十一日

(火曜)
〔読書〕「人及芸術家としてのトルストイ並びにドストイェフスキー」、Fantoms
 小此木先生に行く。文法の動詞の変化をさらって行く事になった。今日反省録が返って来た。あれ丈の素直さをもって書いたものが何にも気をつけられずに月日を記入なさいとだけである。千葉先生に云って上げたいと思わずには居られない。作文「三十日の町中 自由題」を書いた。私の内心には或る力が満ちて居る。静かにじりじりと努力して行ける。私は千葉先生に対しての愛情がはげしくはげしく動いて居る。明日は書きかけのものを仕あげなければならない。夜はじきにねた。今日まで不寝がつづきすぎた。

一月十二日

(水曜)
〔書信〕千葉先生へ出す
〔読書〕「人及芸術家としてのトルストイ並にドストイェフスキー」
 歯が痛むので何にも仕たくない。舌でさわって見ると、歯と歯の間に何かがはさまった様に肉が飛び出て居る。
 気がふさいで、仕なければならない事が山程あってもするのがいやである。明日帰りに又榎本さんへ行かずばなるまい。
 いそがしいのに気分を悪くさせては置けない。
 今日も亦何も書かずに仕舞うのかと思うとたまらなくなる。
 もう二三ヵ月ほかないのにどうするのかと云う様な気になって来る。
 四月の一日に発行できる様に仕たいと思いは思ってもなかなかむずかしい。
 ああ歯がいたい。何も考える事も何も出来やしない。
 ほんとにいやになる。

一月十三日

(木曜)
〔読書〕「人及芸術家としてのトルストイ並にドストイェフスキー」
 今日は朝から歯が非常に痛んで殆ど堪えられなかった。
 体の一部に故障のあると云う事はまるで私の生活を真面目さから奪って仕舞って、半夢中に暮して仕舞った。
 帰りに榎本へ行ったけれ共歯ぐきを切られたり電気をかけられたりして辛い思いをした甲斐もなく痛みは止まらなかったので、家へ来るとすぐ床に就いて仕舞った。
 ろくに物もよまず書きもしずに一日を送った事が非常にくやまれた。
 けれ共肉体的の苦痛には堪えられなかった。

一月十四日

(金曜)
〔読書〕「西洋哲学史」、「人及芸術家としてのトルストイ並にドストイェフスキー」
 久米氏来訪。先達っての手紙の事から種々の議論が百出した。
 私の頭は非常に掻き乱された。
 又新らしい苦痛が湧いた。
 人間の集団としての世の中に生きて居る私共は箇こを確かにして行くと云う事を益※(二の字点、1-2-22)感じた。
 ドストイェフスキーに対しての新たなる愛情と追憶は、今の興奮した心と一つになって益※(二の字点、1-2-22)自己の書いたものに著われて来るすべての点を不満に思わざるを得ない。
 勇気に満ちてありたい。生き抜く力を欲しい。私は私の作品が力強くドシドシと進んで行きたいのである。大足に勇ましく我心よ進みてあれ。

一月十五日

○(土曜)
 夜、例の続きを五六枚書いた。ズーッと読んで見ると、思った程悪くはない様ではあるけれど、実にあやぶまれる節々が沢山ある。どうしても三百枚にしなければならない。
 貧しき人々の群   百枚 ┐
 お久美さんと其周囲 二百枚│
 鈍色の夢      百枚 │920頁

 追憶、二十三番地  六十枚┘
「追憶」と「二十三番地」をのぞいた外は皆この三月の中に作って仕舞わなければならない。私は実にうっかりしてのらのらしては居られない。

一月十六日

(日曜)
〔書信〕小田切秀子
 寒く冷たい夜に座して、私はどんなに相容れざる魂の歎きに沈む事だろう。
 私の周囲はあくまで二元論者である。文学を人間以上神に近づいたものとして要求されて居る私は苦しい。私は人間である。あくまで人間である。
 所謂いわゆる新らしいと同一視されて居る事を私は悲しまずには居られない。
 これからどの位の苦痛が私を困らせ様と来る事だろう。
 私は辛い。静かに涙をたれて自分の行き道をながめやる。
 我心よ勇ましく育ちてあれ、我思いよ高まりて行け。
 私のたよりになるものは只私ばかりである。
 私は私のみを力に一日一日を送って行くばかりである。
 私は静かに自分の心に祈るのである。

一月十七日

(月曜)
 大変強い風が吹いた。歯はまださっぱりしない。続きなおすのをすっかり仕てしまいたいと思ったが出来そうにもない。二十日までには今のと、「二十三番地」、「追憶」をちゃんとして坪内先生に持って行っていただかなければならない。もう二十日になれば一月はどの位短くすぎて仕舞うのだろう。
 二月と三月の中に私はもう二つか三つを書かなければならない。
 どうしても出来せる。私の踏み出の第一歩としてまとめたものを出す事は無駄ではないのである。少し位無理をしたってしなければならない。
 割合にたゆみなく行く足どりを有難く思う。
 私は沈黙し、同情者を得、そしてどしどし進んで行けばよいのである。

一月十八日

(火曜)
 千葉先生がこの間の手紙の返事として、「帰りにでもいらっしゃい」とおっしゃったので行って見ると、紙に書いたものを下さる。私の困って居る事、希って居る事をはっきり理解されて居ると云う事は真にうれしい事である。千葉先生丈は私の始終の同情者であると云う事を信じるのである。
 帰りに榎本に行き電車の中で四年の名は知らない人に会うと、くすぐったい賛辞を盛に呈せられる。薄すべったい頭で人を賞めたり何かされるといやになってしまう。
 夜は又歯ぐきが非常に腫れて何もしずに早く寝て仕舞った。
 一般感覚と云うものが如何ほど我々の心に影響を与るかと云うことをはっきりと感じる。

一月十九日

(水曜)
学校欠席
「お久美さんと其周囲」脱稿
 非常な満足を以て寝る事が出来る。
 去年の暮から仕かけて居た事の出来上った喜びは実に非常なものである。(ママ)して満足の出来る作ではないけれ共まず私の一つの試みである。「貧しき人々の群」の中に「鈍色の夢」を入れて仕舞った方がよかろうと思う。お米の事を書きたい気がして居る。この分で行けば三月までにはどうかこうかまとめる事が出来そうである。

一月二十日

(木曜)
学校欠席
 歯医者に行くと、根に膿がたまって居るから抜かなければならないと云う。
 非常な不安を感じる。その時の痛みが今はっきりと感じられる。これを思うと十一、二の時平気で一年に一度ずつはきっと指をはらして居たのに何とも思わないで切ってもらった事をふしぎに思う。病気だとか怪我だとか云う事に非常に臆病になって来て居る。今日大学の前から高等学校まで歩いて見た。天気もあったかだったしするので非常に気持がよかった。大変おだやかな気持で一生懸命明日の会の準備をする事が出来たのを嬉しく思う。肉親の愛の快に調和の一時を感じる事が出来た。軽い興奮が体中に流れて恐ろしく精力が満ちて居る。一日でも意味ある日を送れたと云う事は喜ぶべき事である。言葉に表わせない感激が眠りを欲しない程の興奮を与えて居る。

一月二十一日

(金曜)
欠席
〔書信〕久米氏より来信
 呼吸の苦しい様な感情が胸一杯になって居る。何のためか分らない。私は「貧しき人々の群」を非常によく書きたいと云うのぞみもあるし日曜には坪内さんにつれて行ってもらいたいと云う事もあるし歯を抜かなければならないと云う不安もある。二十四日位から書き出して今月中か或は二月に少しかかってから書きあげなければならないと思う。
 三月になれば入学試験もある事を考えるとうっかりしては居られない。
 明日は文法と読書を、よほどしなければならない。

一月二十二日

(土曜)
出席
久米氏に会う
 出て行きたくなかったのを遂に出かけて行った。「三十日の町中」を返してもらう。
 音楽の時間が休みだったので蜷川さんと、この頃の心の様子を話し合う。
 今日は種々な感情が私を苦しめたのである。本田の道っちゃんの顔を見てはげしいにくしみを感じた。私がする事に一々口を出して何かと干渉して居られるのも辛いし無自覚な顔をしてオドオドと何かして居るのを見るのも歯がゆい。一日も早く広い世の中に飛び出したい。私に遠慮しながら種々な影弁慶をして居るのを見るとよけいにくらしくなる、それは私にも欠点は有ろう、明らかな欠陥を自分も知っては居るけれ共それで私のすべてが評価されるべきものではあるまい。私の心を苦しめて居る様々の苦困を私のみが噛みこなしてあわれんで行くのみである。

一月二十三日

(日曜)
 漢文の先生。私の心の中には種々な争闘が起って居る。
 二つの心と心の衝突、何と云う可哀そうな事であろう。
 私は自分の心の産む沢山の悩みにいじめられて自分を失って居るのである。
 私は非常に考えなければならない。
 気が重くて何も出来ない。
「貧しき人々の群れ」を書き出したのだけれ共一寸も考えがまとまらない。すべてものの考え方の一変転期にある事を予想するのである。貧者に対してもって居た気持の偽である事、偽りの多い生活をして居る事をはずかしく思う。

一月二十四日

(月曜)
 父上山形出発
 何一つまとまった仕事の出来ない心持である。
 今日明日の内に私のこの気持をきまりをつけなければならない。
 非常な不安と、淋しさに迫られて、一時も静かな時のない事は実に苦しい。
 私は生き方をかえなければならない必要に迫られて居る。

一月二十五日

(火曜)
欠席
 昨夜四時まで道っちゃんと種々な問題に付て話し大変心が安まった。
 明日からは勉強が出来る。もう一月もすぎて仕舞うのだから実際うっかりしては居られない。先週の土曜から何だか落付かないで仕様がない。確な心持にならなければならない。上杉博士の憲法の講義を読んで見たい。私はすべての事に明かになって居なければならないのである。今日は実に落着いた気持である。
 明日は早く起きて学校へ行って勇ましくやりましょうと偽でなく思う。
 Every morning, every night and every-where I must exact myself to the utmost. である。

一月二十六日

(水曜)
〔読書〕「宇宙の謎」読了、「現代思想十六講」
「宇宙の謎」を読み終った。宗教、宇宙、道徳その他すべての事に持って居た自分の考えをはっきりさせられた事を非常に愉快に思う。「現代思想十六講」は非常に面白そうである。「貧しき人々の群れ」を書き出したけれ共この二三日の睡眠不足から頭の工合が何だかはっきりしないのですっかり書けない。一頁にも足りないでやめて仕舞う。部屋は暖かで出るのにどの位おしいか分らないけれ共、これからのいそがしい日に若し一日でも二三日でも頭のはっきりしない日などはまことに無駄だから今日はもうねるのである。

一月二十七日

(木曜)
〔読書〕「近代思想十六講」
「近代思想十六講」は有益なものである、少くとも私にとっては。
 レオナルド・ダブィンチの「愛は智の娘なり」と云う言葉は今の私を非常によろこばせる。序の中の霊と肉の調和、自愛と他愛の最もよき折合、イブセンの第三帝国を建設すべく□□(二字不明)努力して居ると云う事を明かに知り得た。
 頭が疲れて居る様ではあるけれ共私は快い。
 漸々「貧しき人々の群」を書き出せた。
 一生懸命に書けばよくなると云う(ママ)がある。

一月二十八日

(金曜)
「貧しき人々の群」第一を終った。
 先に書いて置いた「農村」を失った事を非常に悔ゆる。どうしてもさがし出さなければならないと云う願望を押える事は出来ない。
 あれさえあればきっと楽になるとその事を思って仕様がない。
 今日学校で黒田さんが自分の嫁入姿を持って来て皆に見せて居る。見せてくれと云うと「いやーよ」と云って逃げて居ながら待って居る気があんまりはっきり分って不快になる。
 傍のものもあんまりさわぐからいい気になるのだ。
 娘達のする芝居を非常に面白い様な浅ましい様な気持で見る。私の愛すべきものは、只一人の人間でも動物でもないと云う様な気がして居る。

一月二十九日

(土曜)
 今日は同級会の日で千葉先生のお話だと云う。私は伺って来たかったけれ共あの無智な人達の目を思うとその前にお立ちなさる先生を見るに忍びないのでやめてかえる。「農村」を到々とうとう見出した。非常に嬉しい。第二を終る。
 女子大学の入学試験は四月の七八日頃だと云う。余裕を与えられた様な気がする。そうすればそんなにせわしい思いはしずにすむ、書きたいものも書けるのである。四月頃にはどんな苦痛があっても『小さきもの』として出版する。私の一歩のたしかなふみ出しは実に必要である。ルッソーの自然ニ帰ル説には同意出来ない節々があるけれ共、「エミール」の教育論に関しては幾分そうであった方がよいと思う事がある。すべてを□□□(三字不明)自分のたしかな直観の観念を持つと云う事は私共にも大切な事ではあるまいか。

一月三十日

(日曜)
 美音会に行く。可愛いと思った人は一人も居なかった。青柳有美、岡田信一郎氏などに会う。青柳と云う人は思ったよりいやでない様子の人であった。三つほどきいてじきに帰った。
 沢山仕なければならない事があったにも介わらず何も出来なかった。
「貧しき人々の群」も出来なかったし、さほどのものもよめなかった。
 朝寝をした一日のはかどりの早いのがいやになる。
 もう二月になるとそろそろ試験と云うものがやって来る、たまらない。
 この一月を非常に複雑に送って私の実質となったものも亦少くないのである。
 来月から私は専心に書こう。三月にならないうちに「鈍色の夢」も書けなければならないのである。精々丹精して書きあげたら又どうにかしてもらえる事を信じて居るより仕様がないのである。私は馬鹿である。

一月三十一日

(月曜)
 今月も終に終ったのである。私は先ず日記をつけ通せそうな事を謝するのである。「貧しき人々の群」第三を書く。ルッソーの女性観にはあれ丈自由平等を称えた人の説としてはむしろ滑稽を感じる程である。
 けれ共ルッソーの主唱して居る自然に帰れの言葉は私にも今尚一つの教訓をしめすものである。ニイチェがショペンハウエルの厭世哲学のすべてを死に安らぐ外はないと云う説から抜けてよりつよく生きると云う事に進んだのをどれ位感激してよむかしれないのである。「神よりも真理である」私には真の研究に日夜究々として居るのではないか。私は罪の償として死ぬのより尚生きる方が辛い事であり同情すべき事であると云う事を明かに思ったのである。
 実際おてんとうさまは生きる様にお作りなさったのである。

 実に変化の多い一月であった。私の周囲には種々の事が起っては消えて行って居るのである。私の改革期の来た事を切実に感じた月である。私は思想的に種々の変化をした。
 私の愛人は真である。
 私の貧者に対して持って居た感じははたして真実な一点の虚栄心もなかったものであったろうか。この心は私に「貧しき人々の群」をかかせるのである。「お久美さんと其周囲」に於ける不平を私はとり返さなければならないのである。
 この一月は私の第十八年の最初の月として充実して居た。それ丈は自分でも信じられるのである。
 これよりも短かい二月は更に緊張して居なければならない。そして私のたてて居る予定を着々とはかどらせて行かなければならないのである。我心、只専に努力めよ!

 十九日 「お久美さんと其周囲」脱稿
 二十八日 「貧しき人々の群」起稿

二月一日

(火曜)
 母父上池田家晩餐、何だか気が重くて少しも仕事が出来なかった。
 夜文法を一寸見たなりたまらなくなって十時すぎに床に入った。
 日記もつけず書きもせず、僅ばかりニイチェの哲学を知ったばかりの一日を顧みるのはたまらない事である。

二月二日

(水曜)
英語ディクテーション
 英男が四十度の熱を出したので家中ごった返して仕舞った。何も出来ない。明日小此木先生へ行かなければならないのに作文は出来ても居ず文法はさらってなしいやになって仕舞う。
 夜は四時まで暗い灯の下に起きて居た。
 頭が疲れて来て居たので作文も思う様には出来なかった。僅ばかりニイチェを読んだけれ共あんまり明かには分らなかった。
 二時すぎて来ると妙に四辺あたりが寒くなって羽根布団にくるまって居てもぞくぞくしたほどである。

二月三日

(木曜)
欠席
 十一時まで寝てしまった。学校には行かれない。小此木先生も同様。
 何だか頭が重いのでそわそわして何も出来ない。
 頭を使うわりに私は食物を多くとりすぎる傾向か。少し考えなければならない。
 夜は赤ちゃん[#寿江]が大変泣いて二時半まで掛ってしまった。
 英男の熱が高い、皆心配して居る。
 どうかして早くなおしたいものである。
 本を読むでもなく一日ごたごたくらして仕舞う。
 どこか馬鹿になった様で気が気でない。
「貧しき人々の群」も早く書きあげなければならないのになかなかそれどころではないのにこまる。

二月四日

(金曜)
早退。教育試験。看護婦来る。
 風が大変強い。風邪がよくないので、喉が痛むやら鼻汁がつまるやらして気が重い。英男さんはよくないらしい。松岡、細井氏が来る。母上は非常に不安だと見えて涙ぐんだ様にして居らっしゃる。看護婦はクリスチャンで利口らしくはないが静かな人である。よい□□(二字不明)れない。
「貧しき人々の群」第四をかく。久し振りで安心してねられる。夜英男七度一分に熱が下る。胸をひやしたためであろうとの事だ。先ず何より結構。
 ニイチェの哲学を読み終ったが何だかすっかり捧げつくす所まで共鳴されない。これ等の思想を元として私は私の哲学を産み出さなければならないのである。「汽車に石炭の必要な如く我々には日に三四〔約二字分空白〕立方の新思想が必要である」と云う〔約四字分空白〕の言葉は非常に面白い。同人の書いた、愛した、生きたと云う墓銘。

二月五日

(土曜)
欠席
 学校に演習会がある筈だけれ共行かれない。英男もあまりよくないので、家中はごった返しに返して居る。日が曇って陰気なので、私は到底堪えられないほど憂鬱な気持になって仕舞って、焦々しながら種々な事を考えて涙をこぼして居た。「生き抜こうとする努力」徹底した底力のある生活を出来得ない事をつくづく悲しく思ったり、思い出される毎に胸の痛くなる様な思い出に苦しめられた。自分自身に対して絶えず自分が不安を持って居ると云う事は私に実につらい。自分の安心のために私は愛して居て呉れるものもふりすてたのである。
 思い出を私は恐れる。胸のかき乱される様な衝動的な悲しさを恐れるのである。

二月六日

(日曜)
 非常に働いた。朝から晩まで私は台所でせっせと働いて居たのである。夜は四時近くまで起きて居た。このいそがしい中で、私は読み出したのである。時間がまとまってなく、部屋に居られないので書く事の出来ないの丈はいやである。昨夜も五を書こうとして畳の上に腹這いになったがどうしても書けなかった。
 私は自分が家のものの中心になって動いて居る事を思うと愉快である。私は、人間の中の人間であらねばならない事をつくづく思ったのである。
 私は只文章が書けるではいけない。飯のたき様も知り、台所の世話も出来なければならないのである。

二月七日

(月曜)雪が少し積る
「二月七日」を書く。書いて居るうちに英男の事をどうかして書きたいと思って来たが、あの子の教育上どうかとこの事は疑問である。
 若し相談して好い様だったら去年あたりの事から書いて見たいどうぞしてよいのが出来る様に、
 只記録として残す丈でもよいのである。
 英男の名も出さずに書いたら大丈夫だろう。
 英男の熱が一日下って居た嬉しい。何かにつれて佐渡の金山と、大島、八丈島へ行き巣鴨の気違い病院について見たく思う。
 狂人の心理を研究して書きたいものである。二重人格も面白いと思う。

二月八日

(火曜)
 英男が又少し工合が悪い家中の心配を集めて居る。
 いそがしい一日を送って仕舞った。

二月九日

(水曜)
 英男少しよろし。
 家中も少しずつくつろいで来た。
 今夜は、「貧しき人々の群」を書きたいと思ったのだけれ共頭が疲れて居て出来ない。
 夜十時頃に床に入ってしまった。

二月十日

(木曜)
〔書信〕安藤千枝子
 激しい風が吹く、「鈍色の夢」を書いたら英男の事を一つ書きたいと思う。
 母上に相談して許しを得た。夜は珍らしく筆が進んで十九枚書く。
(四)を大抵なおし(五)を書く、四十幾枚かになって居る。百枚はじきである。私は「お久美さんと其周囲」で得た失望をとり返さなければならないのである。どうしても。
 一時頃まで起きて居たのだが不思議な興奮が私のすべてを領した。グースベリーの熟れる頃を書いて見たいと思って居る。一つの可愛いい小さいエピソードであろう。あの東京をしたって居た若い子供の事を思い出す。「徳馬鹿」の事も思い出した。

二月十一日

(金曜)
「お久美さんと其周囲」はもう駄目である。彼那あんな下らない一貫しないものを書いてどうなるものかと思って仕舞う。紙とインクと時間の無駄であった等とさえ思うのであった。
 道っちゃんと二時頃まで話し合った。先の頃の思い出が私の心を非常にやわらげて涙ぐまれるのであった。あの松原の中――に百合が咲いて居ましたっけね、あの湿地に好い香の花が一杯咲いて居ましたっけね。
 お月様がようございました。I remember, I remember that night, that moon-light and……. My heart leaped up when I thought my young day's dreams.

二月十二日

(土曜)
明日午後一―三時千葉先生へ
 It was very cold today. At the morning the wind blew hardly but at the afternoon it settled, and the sunshine was bright. I heard a very sorrowful news, that Miss Rikiko Suzuki was die at the 10th. How I was surprised with this news! My mother went to visit for her unhappiness. This evening Ishida (nurse for Hideo) was returned to her home, but she would not do so, and submitted to my mother. At night I wrote my 6th part.

二月十三日

(日曜)
 It was fine to-day but colder than yesterday. In the afternoon my mother must go to temple for Miss Suzuki, so I could not go to Chiba. At night Mr. Takamatsu comes, and told many tales about Mr. Furuhashi, and I said to him:“I can not love him, for I know his bad nature and matters. It was all my old day's dreames, and I do not like remember it and I forget all of them.” “Young father is very lovely and same his wife.”

二月十四日

(月曜)
地理試験、千葉先生出席、女子大学入学の事を甫守に話す。
〔読書〕「我生活より十六講」
 千葉先生がズーッと欠席していらっしゃった事を知ってびっくりした。でも今日は出ていらっしゃって、入口の所でお目にかかる。昨日は上らないで却ってよかった。
 又近い内にいらっしゃいと云って下さる。夜は書かずに明晩の分までよむ。イブセンの第三帝国の所で、キアルケガアルドが真理は主観であると云う事を云って居たとあるがそれには同意しかねるのである。
 若し主観が真理であるとすれば万人に真理は万変なものであるべきであると云う事を許さなければならない。「無か しからずんばすべて」と云った言葉には動かされる。第三帝国に於てイブセンも亦超人を持ったのではないか。
 生きんとする努力、人間として苦悩と歓喜を深く味ったものは得がたい心意の動を持つものである。生きぬく! 動きぬく! 書きぬく!

二月十五日

(火曜)
 This morning I got up too late, because last night my youngest sister did not sleep till past 1. So I am very tired to keep her care.
 At school in English lesson, we turned words into Japanese, and heard and wrote one sentence but I missed. At night I wrote my Vth. 10p.

二月十六日

(水曜)
 It was extremely cold today.
 At school I met Miss Okonogi and promised next week I would ask her times. At night I read the Decameron and recieved some spiteful thoughts. Every man, and every word was filled with such spites and such sorrows. I am sorry I have not hour to write my Vth.

二月十七日

(木曜)
 To-day I heard English teacher Miss Boide's father died and she could not come to-day.
 I am very sorry for her. I think of my sorrow that will come sometimes next. I read the children's maid of Takashima because I must write the matter of my youngest brother Hideo. At night I wrote my 7th. corrected the Vth and it became 15p, and I think it better than.

二月十八日

(金曜)
 I thought many things about our life, birth, death, sadness and laugh, light and dark. All my world has two sides. So〔約1語不明〕fact only seems a sad side with tears, and many of people seem a thoughtless side to forget a dark sides. And so I am very melancholy sometimes and very joyful sometimes. If I could be a brave woman I must full heavy sorrow and bright joy more than anyone.

二月十九日

(土曜)
 Very bright day. The brilliant sunshine is in flames upon our heads.
 It was examination of music.

二月二十日

(日曜)
 It was very warm day, and my father went to Yokohama, and got some beautiful things, so he was very very glad of his gifts. In the afternoon I went to Sakamoto, to read her my “Mazushiki hitobito no mure” and learnd the Kika. She told many stories about Miss Takamine, and said with doing her cold heart and unkind thought. I do not love and do not beleive her. Our world is not near her. When I thought it I felt delight to myself.

二月二十一日

(月曜)
 It was very cold and at night the snow came from the heaven. In silence, stillness and bright white our world was covered with.
 How I felt sorrow that I couldn't write my 8th! Realy I have no time to settle my thought. My heart was filled with a wonderful memory, sad, delight, light, dark, I could not say but some of them made me heavy.

二月二十二日

(火曜)
 五寸程雪が積った。めずらしい様子だったけれ共、そう大して美しかったとも思わない。英男の Dictation があった。好く出来た。坂本さんが、私の「貧しき人々の群」を従弟がほめたと話して呉れる。それにしてもよく書きたいと思わないでは居られない。明日歴史がすむと、あとは少しは暇になるだろうからさっさと書かないと仕様がない。
 明日学校の帰りに図書によらずに来て夕方までに千葉先生のを幾分なりとも書き、夜は文法と作文を書いて小此木先生に都合を御伺いしなければならない。今週の二晩位はひまであってもよさそうなものであると思う。八には、国分の豆腐の子と気狂いと、首吊りと私の見たあの生々しい松の切り株と□□(二字不明)の先生のおじぎを書く筈である。

二月二十三日

(水曜)
 It rains to-night. I wrote my 8th with sorrow and gladness. Among this month I must write this sentence.
 私は、「小さき憂悶者」として小学校の五六年時代の事を書こうかと思い立った。
 二月中に「貧しき人々の群れ」を書きあげなければ「鈍色の夢」を書いて居る暇がないであろう。
 文典をもしらべなければならないかと思うと、たまらなくなる。
 けれ共私はだまってこつこつやる丈の事だ。

二月二十四日

(木曜)
「貧しき人々の群」の八をなおす。「追憶」もなおしたいしするので私は非常にせわしい思をして居る。何だか落つかなくて、こまる。
 明日の昼と朝は少し早く行って文法をさらって置かなければならない。
 もう明日が二十五日だと思うと気が気でなくなる。
 母上も非常に気のりがして居られるので幸福に感じないわけには行かない。

二月二十五日

(金曜)
 小此木先生へ行く。“Tanglewood tales”by Hawthorne の“The Dragon's teeth.”をする事になる。
 原稿紙が二十二銭になったと云う事は実に私にとっては大打撃である。本と原稿紙の代一円十六銭をいただく。
 明日は千葉先生のへかき、夜から夕方は創作を進めなければならない。夜は学校の手紙を書いたら一杯になってしまった。何だかつかれて居て何をするのもいやだ。

二月二十六日

(土曜)
“Tanglwood tales”を買った。
 原稿紙三百枚
 ペン 五銭

二月二十七日

(日曜)
 漢文
 英語にかかってしまった。

二月二十八日

(月曜)
 夜は非常に興奮して沢山書く事が出来た。
 小此木先生へ行く。Tanglewood tales を訳して見ようかなんとも思って見る。
 Dragon's teeth は大抵よんでしまった。

二月二十九日

(火曜)
 南風で大暴風雨であった。十二時半まで寝てしまう。
「貧しき人々の群」を書く、十二まで、百三十一枚になった。来月の始めには出来る予定である。

 短い月ではあったけれ共私としてはかなり有効に送れた事を感謝するのである。
「貧しき人々の群」を書きながら、実に私は人々の愛すべき事、彼等が如何に尊むべき心の芽を持って居るかを感じてやまないのである。
 私はニイチェの哲学に非常に動かされて居る事を自白する。それは私に嬉しい事であると共に、一種の恐怖である。
 足元の強い一日を送る事はやがて、輝きのある一生を送る事であるべきである。
 愛すべき我よ、尊むべき数多なる人々の群よ。
 私はどんなに芽ぐむこの春を歓び迎る事であろう。

 二日 英男今日より発病重症インフルエンザにかかる。

三月一日

(水曜)
 夜下島さん[#下島孝吉、百合子の大叔父]が来る、あの年をして貧しい淋しい様子をして居るのを見ると同情しずには居られなくなる。
 書斎で種々話しをする。あの人の天地の如何に可愛らしい事よである。あれ丈の中に甘んじて居られるのを思うと実際内的事件はその人がまねかなければ必ず起るものでないと云う事を感じてしまった。
「貧しき人々の群」と「農村」を出して見る。まるで比較にならない。彼那ものをとくとくとして書いて居たのかと思うとなさけなくなる。
 二月が英男のためにごちゃごちゃになった事を惜しくも思うが、三月を有効に用えばよいとも思われる。

三月二日

(木曜)
「貧しき人々」十三を書く。明日海辺へ旅行だけれ共金曜で海がこわいから行かない事にして十四と十五を書けたら書きたいことである。
 今月中はどんなにいそがしい思いをしても「追憶」とこれと「小さき憂悶者」をまとめなければならない。
 そして四月の十日頃にはどうしても出さなければならないのを思うとゆっくりはして居られない。「お久美さん」を残念に思わない訳には行かないがそれに刺戟されたのを思えば有難い。

三月三日

(金曜)
欠席
 国民美術協会の展覧会へ行く。
 石井柏亭さんの扇面はりまぜの屏風と、青楓さんの二折屏風が図案としてはよかった。
 T女史の肖像、パンドラ、が彫刻では目立ってよかった。光風会の方などをいそいだのでよく見て居られない。三越へ廻り、半襟と、白粉入を買う。半襟の特別陳列などはあってもなくってもよい様にさほど心も引かれなかった。道っちゃんに会った。青ざめた顔をして居ていかにも疲労して居るらしい様子であった。

三月四日

(土曜)
 大変寒い風の吹く日であった。
 夜は疲れて居たので何にも書けなかった。午後中掛って千葉先生のを書いてしまったので少し安心になった。本田の道っちゃんが来ておはじきをして遊ぶ。
 何となし子供の時分が思い出される様で淡い気持になった。
○小雨する春の夜なれば何となく
  静かなる心おはじきをする。
○音もなく降りしきりたる春雨に
  土の(ママ)ぞ美くしからん。
 夜なれば春の夜なれば何事も
  只うるほひて我目にぞ見ゆなる。
 静かな夜が――静かな夜が
 音もなく迫り来る。
 柔かき香をたてゝ……
 我心いかにおどるよ
 春の夜なるかな。

三月五日

(日曜)
 お茶の水の入学試験があったので春江ちゃん[#倉知春江、百合子の従妹、父精一郎の妹テイの娘]のために朝早くから、三時頃まで行った。作文の文字と云う題に対してあまりよくない文を書いたし算術も二つ違ったからあやしいものである。
 西尾先生(小学校の)に会った。
 種々昔の話が出てあの先生も年も取った事をつくづく感じてしまった。私が十八になったのは決して無理ではない。
 夜は三四人の食事客
 かなりいそがしい思いをして、一日少しばかりの本を見ただけで過ぎてしまった。

三月六日

(月曜)
 千葉先生のを出した。夜十四をかきかけて右の目の工合が悪いし疲れたりして終りまで出来なかった。
 どうしても三月の十日までに出来して仕舞わなければ、間に合わない。四月の十五六日に発行してもよい。又そうでなければ出来ないだろう。
 ほんとに日が短かいにはやり切れない。
 どうぞして、よく出来上ります様に。
 若しこれが悪かったら実に私は失望して仕舞うであろう。

三月七日

(火曜)
 春が如何に私にとって毒悪(ママ)いものであるかと云う事を感じ始めた。
 私の精神は或る圧迫に堪えられない様になって来て居る。
 すべての平衡が破れた様で頭の工合が大変悪い。
 早退をして帰ってから働いた方がよかろうと部屋を片づける。
 夜十四を書きあげ十五の少しまで進む。
 妙に過敏になって昨夜うなされてばかり居たのですっかり疲れてしまったのである。

三月八日

(水曜)
 父上から電報が度々来たのでとうとう英男をつれて七時の汽車で京都へ出発なさった。
 お送りに行く。途中雑誌を買い新橋の博品館で手袋を買って行ってあげる。
 午後から行くつもりであったのにとうとう欠席してしまった。
 明日からは是非行く。夜数学をさらいながらこの恐ろしい学課とももう一二週間で別れるのだと思うとたまらなく嬉しい気持になった。小此木先生のが出来ないので気が気でない。金曜に行くのを止め様か等と思って見る。主婦の居ない家は妙にがらんとして底淋しいものである。火事だの泥棒だのに過敏になる。

三月九日

(木曜)
 夜は英語と、絵の下絵のさがしとで大抵つぶれてしまった。
 この頃はいそがしくて実にこまる。来週中はせわしいであろう。
 ねる前にコーヒーを飲んだので少し興奮して床に入ってから目がさえてこまった。
 自分の書いて居るもののことなどを思うと妙に感情的になって、祈りたい様な気持になってしまった。
 手を胸に組んでしずかにして居る内にねてしまった。
 幾何試験があったが、こまりもしなかった。

三月十日

(金曜)
英男へ葉書をかく。
 頭の裡が不透明でイライラしてたまらなかった。絵なんか少し風の変ったのを書くとすぐ何とかかんとか変な目をして見るものの顔を見るとおだやかな感じなどはどうしても持てない様な気持になって来る。陰鬱になって淋しくて仕様がなかった。
 夜英語を少しさらうとじきおそくなってしまった。謝辞がなかなかかけないでたまらなくなってしまった。月曜に小此木先生は随分辛いけれ共しかたがない。

三月十一日

(土曜)
 雪が降った。春になったと云う事などは思われない程すべての様子が荒々しくなって吹雪と呼んでよい程ひどい有様であった。
 音楽、体操の試験があった。来週中せわしい思いをしなければならない事を思うといやになる。国語の時、「適当な自殺が許されない限り生きなければならないために(一字不明)をするのである」と云う事を仰っしゃった。適当な自殺を許されない限りは――実にそうである。
 自殺者をたすけ様とする事はよいことかもしれないけれ共実際に於て生存に堪えないものを一度一時的に救助したからと云って終生の幸福を計ってやることは出来ないのだから救わない方がよいのである。

三月十二日

(日曜)
 八時三十分英男お父母様御帰り、間宮、本田、自分迎に行く。
 帰りには自動車で来たけれ共自分自身の恥かしめから逃れる事も出来なかった。あのやっちゃ場のわきの狭い道で多勢の貧民にとりまかれて巡査に電話をかけさせて居る自分等を見てくれ。
 自制と、自己を偽ることを話し合う。本田の道ちゃんは、自分を詐る事と自制とを等しく見て居る。エレンケイの、子は親を選ぶ権利があると云う言葉は今まで、人種改良で疾病にばかり限られて居た様であるがそれは貧者の繁殖と云う事にも考え及ぼされることであると思う。同情と、あわれみは区別されるものであると云う事をよく考えて見なければならない。

三月十三日

(月曜)
 小此木先生へ行く。
 はっきりしない天気で困ってしまった。
 修身と家事の試験。
 修身はかなりよく書けたけれ共家事は滅茶滅茶であった。
 何だか頭の工合が悪くて困ってしまう。

三月十四日

(火曜)
 教育の試験、「人生観を問う」と云う問題に興奮してしまって手が震える様であった。
 いよいよ頭の工合が悪い。
 春の妙にムカムカした天気と、衝動的な空気が頭の平静を破って実に苦しい気持がする。
 家計簿記がベリーグードなのは滑稽。
 三月中にどうしても「貧しき人々の群」を書きあげてしまわなければならないのである。
 四月中には出版しなければならない。
 今日は学校へ行くまいと思う。夜、父上『建築世界』への原稿訂正。

三月十五日

(水曜)

三月十六日

(木曜)

三月十七日

(金曜)
早退
 国語試験。
 千葉先生の教育の答案が返って来る。
 人生観と感想に実に嬉しい評をして下さった。
「これ丈の反響を生じ得る素質を備った方に私が此の学科をお話しする事の出来た機会に私は心から感謝しました。」
「真剣な態度で、貴女の歩んで行かれる人生を何時までも理解して行ける様に、私自身も発達させたいものである、と云うのが私がこれを見終っての感じです。
  君が行く路は一すぢ ひとすぢを
    行かるゝかぎりゆけよとぞ思ふ
と云う尾上柴舟先生の御歌を以て前途を祝福致します。」

三月十八日

(土曜)
 とうとう「貧しき人々の群」脱稿二百二十一枚。私は最後の一節を泣きながら書いた。如何に深い喜びと悲しみが私の心を領した事であろう。
 厚く重なった結果を見ながら一月の努力の結果を深く感謝したのである。
 今までのどれよりもよく出来た事は信じるけれ共はたしてよいかどうかと云う事はうたがわしい。夜の一時半風呂に入りながらどの位私は泣いた事であろう。

三月十九日

(日曜)
 私は喜びと不安にせめられて居なければならなかった。
 坪内先生の御帰京をきいたが分らないと云う。
 どうかして早く見ていただきたい。
 どうかして出版したい。
 種々の希望と気味悪さがまじって一杯になる。
 一日字句の訂正でつぶして仕舞う。

三月二十日

(月曜)
独歩の『運命』をかりて来る。
 今日で学校もおしまいになった。
 境先生の御話には涙がこぼれそうになった。
 夜六時半頃から坂本さんの所へ稿を持ってたずねて行った。
 行きがけに屋並みの黒いかげから大きな月が上りかけて居るのを見た。大変に気持がよかった。終りの方をきいてもらう。苦しい位によいと云われたけれ共、只嬉しい丈ではない。
 帰りに九時すぎ好い月を浴びながら帰った。
 佐藤さんの子供が「お父さん死んじゃえばいいそんなもの皆夜店にたたき売っちゃう」と云い一人が「ほんとに早くしんじゃえば好いあのおもちゃ皆ぼくのにしてやる」と云ったと云う。一つの暗示を得た。劇にして見ようかとも思う。

三月二十一日

(火曜)
 独歩の運命説がよく分った。
 彼の時代の文芸家の中で彼が如何に苦悩多く苦しかったかと云う事を思いやる。
「空知川の岸辺」は、巧な叙事と旅情の表れである。
 夜女子大学の願書を書く。

三月二十二日

(水曜)
 女子大学願書呈出
 銀行へ行き。夜弘道会の名人会へ行く。
 永田錦心の薩摩琵琶はよかった。
 低い声の時は声楽にきく丸味と落つきがあってよかったが甲声が悪い。
 義太夫の綾花の語り口は呂昇などから見ると如何にも下びて居る。
 筑前琵琶はあまり繊細な女性的なものすぎる。
 旋律の三味線的な、精神のない声がまことに気味が悪い。
 伊十郎の声はいつもよい。
 倉知の連中に会って、食堂に行った。

三月二十三日

(木曜)
 送別会へは行かなかった。「知慧と運命」と、上杉博士の「国家論」を少し見る。
 あまり感服は出来ない。
 進化論の適者存続の論などに対する反対がかなり単純なものである。種々の疑問が起った。
 人道主義は今の有様では空想であると云うのは感心出来ない。
 夜、文法とリーダーをすっかりよんでだけ仕舞った。
「貧しき人々の群」少し訂正。
 坪内先生のはつまりお帰りまで待つと云う事になったのである。

三月二十四日

(金曜)
 上杉博士の憲法を少し見る。
 どうも合点が行かない。
 氏は進化論で国家は、適者として生存せんとする必要上から最もそうするに都合のよい国家と云う形式をとったのだと云うが、そうではなくて、国家をなすべき本質を有するのであると云うのであるが、凡そ本質があると云えば何か必要があって本質が起るのであるから適者として生存せんとする本能のさせる所であると云ってよいのである。
 権力は優越なる意思の力なり
と云う事があるが、単純に権力は優越な意志の力と云う事は出来ないのである。下劣な意志を我々は優越な意志と云うのか?

三月二十五日

(土曜)
 朝花屋へ行って花を買って来て写生する。
 なかなかよく出来ないで困って居ると銀地へ図案の様に置くがいいと云うのでそうするつもりで玉川堂に緑青と銀を買いに行く。
 銀、金は須田町の箔屋で買った。
 夜おそくまでかかって書いたがよく出来ない。
 あまり単調で立派でもなければ美術的でもないのを見るといやになってしまった。
 夜は妙に陰鬱な気持になってしまった。

三月二十六日

(日曜)
 午後一時から練習があると云うから行く。
 支那留学生に対して侮蔑的な様々な微笑の加えられるのを見ると汗が出る様だ。故皇太后陛下の御歌のうつしと御親署勅語を拝覧、貴族的な好い御字であった。御色紙のすりものを分けてもらったがつまり持ち(ママ)つくものだ。
 夜美音会へ行く。小島氏に会う。妙に私のどうしてもすきになれない態度を持って居る。
 真水に会う。醜悪な人達だ。昨日神保町の停留場で腹がたつまで私を見て居た人が保育会の会員だとかで挨拶をする。
 帰りの電車に或る病的な欲情に支配されて居る男を見た。

三月二十七日

(月曜)
 卒業式、証書を持つと流石さすがに好い心持になる。感謝の言葉や何かを余り繰返すので両方ともにあきが来て下らない事になってしまう。帰りがけに同級会があった。例の通り音楽ばかりであったが高嶺さんのピアノはいつもよりもよかった。何だかけったるくなって夜は早く寝てしまう。
「爛」を読んだが私には批評出来ない。
 あ云う生活に入って居る女の心持なんかもよくは分って居ないのだから……。千葉先生がお目出とうと云って下さったのはうれしかった。

三月二十八日

(火曜)
 作楽さくら[#お茶の水附属高等女学校同窓会]へ行く。所謂いわゆる婦人連に会ったが何だかこそばゆい様な気持にばかりなって来た。説教節を聞く。筑前琵琶と義太夫をまぜた様なものであまりよくはないけれ共少しは面白かった。
 三曲合奏で胡弓を引いた婆さんの超然とした姿がよかった。
 夜文法を二六頁さらう。
 日を数えて見ると実にぐずぐずしては居られないのである。
 久し振りで部屋に落付いて見ると気持がまことによかったけれ共何だか身内がムズムズする様でたまらなかった。
 会のときくじを引いて伊藤先生のところへ安藤さんと行く事になった。

三月二十九日

(水曜)
 関根先生千葉先生へ行く。御留守、帰りに文房堂に万年筆を持って行って見せたがとうてい悪くする丈だと云うので原稿紙とインクを買って帰る。
 左のびんの所がだブだブして居るのがきになってたまらなかった。
 大瀧から丸善の五円切符をもらう。
 夜は文法、習字、もう明日三十日だと五日外ない。
 実際懸命にやらなけりゃあならない。
 明日三越へ行くのだそうだけれ共実に考えものだ。
 一日つぶさせてはやり切れぬとも思う。
 家督相続のことで書きたい事があるが当分は駄目だろう。

三月三十日

(木曜)
 大瀧に行く。
 いつもと同じ感じを得てかえる。
 非常に平和な夜の中を車で走ってかえる気持はよかった。
 水道橋の通りから見ると春日町からズーット掃除町のあたりに一かたまりになって灯の沢山の輝きが色々な色にまたたいて居るのが子供らしいよろこびを与えた。
 春と云ってもどことなく薄ら寒いので風を切って運ばれて行くとたまらなく気持がよかった。行きに中村屋によったら黒光女史らしい白い丸顔の目のきれいな人が居た。広子がませて何だか可愛気がうすくなった様に思える。

 三月が過ぎて仕舞った。
 私は如何程の感じを持ってこの一句を書く事であろう。日が暖く頸元をてらす様になった。
 花が咲き出した。
 けれ共この一月の間にどれ程のものが出来たかと云う事はその事を考えた丈で苦しくなる。
 けれ共「貧しき人々の群」を出来した事だけはよろこべる。精神上肉体上に春の圧迫が強くて堪らない様である。頭の中が始終とがとがして居る様でいやである。
 早く秋がまたれる。
 けれ共秋が来ると又一つ年をとるのが近いと思うのもいやである。二十になるまでに少しの事はして置かれなければたまらない。
 まだ三年の先がある事はうれしい。春は御身の能う限り美しくあれ。

 八日 英男母上京都出発
 十二日 父上母上英男帰京(英男にとりては最初の旅行なりき)
 十八日 「貧しき人々の群」脱稿
 二十二日 女子大学願書呈出
 二十六日 御親署勅語拝覧
 二十七日 卒業式同級会
 二十八日 第一回作楽会 女子大学に証書を見せる。
 二十九日 大瀧より祝として丸善の五円切符をもらう。

四月一日

(土曜)
四日午前八時ヨリ試験
 雨が降って居る。静かな好い日であった。
 丸善に本を買いに行った。
『後に来るものに』、『人及芸術家としてのトルストイ並にドストイェフスキー』、ドストイェフスキー著『叔父の夢』、『貧民心理の研究』を買って来る。
 夜はそれ等を大抵一通り目を透した。「叔父の夢」の中には又愛すべき沢山の人が居る。「後に来る者に」は彼の人の如何にも純な心持のいい説である。よく読んだら多くの教訓と悦びを得る事と思う。
「貧民心理の研究」で、「貧しき人々の群」の心理に大した誤りのない事をうれしく思った。夜は妙にメランコリーになってやたらに涙をこぼしたくて仕様がなかった。

四月二日

(日曜)
 午後から小此木先生の所へ行く。
 三丁目で花を買って行く積りだったが切らなかったので大曲りまで行って六十銭で花束を作らせて行く。六時すぎまで種々な御話しをして帰る。もう太陽の面と向った光りには堪えられない様になって来た。
 千葉先生と堺先生の御話をして来る。「貧しき人々の群」を見ていただきたいと云って来た。
 本田の道っちゃんと直之[#小田切直行、父精一郎の従弟]さんが来る。
 御父様御母様浅草、午前中さらった丈で夜は英語なんかちっとも見とれなかった。

四月三日

(月曜)
 一日家に居て文法や何かをさらう。
 何と云っても気が引きしまる。
 私の新らしい生活の始まるのである事を思うと よしそれがやさしいものであっても馬鹿にすべきではない事を思う。

四月四日

(火曜)
 入学試験 Conversation と英文和訳と Dictation があった。
 割合にやさしいなと思った。
 同じ日の午後に発表、女学校に入った時ほどうれしくはなかった。ひどい風が吹いてたまらない。夜は早くねる。
 お父様山形御出発。
 非常に混乱した心持であった。

四月八日

(土曜)
 午前学校へ帯どめをとりに行く。何と云う図案なのかとあきれてしまった。
 千葉先生に御目にかかって来る。日曜の午後は居るとおっしゃった。
「おめでとう」と後から声をかけて下さったとき何とも云われないうれしさがこみあげて来た。坂本さんがラセラスの訳を拝借して来たと云う。
 帰りに芝へ行く。お婆さまが一人でぽつねんとして居らっしゃるのを見たら可愛そうになってしまった。
 お祝に十円いただいた。

四月九日

(日曜)
 堺先生の所へ花を持って行く。
 高嶺さんが留守だったので先生に丈御目に掛って来る。
 好いものがあったけれ共マッツや何かがよくないので下品な感じを与えた。 Wallpaper が安っぽい。自分の家の食堂は好いなあと思わない訳には行かなかった。
 堺先生は可愛いと思った。
「後に来るもの」それは好い感化を与える。純一な心持が又心に戻って来る様に感じられた。
「自分を最も自分の望む人間に仕立てて見せる」と云い得るものが幾人かあろう。私もその一人であろう事をのぞむ。

四月十日

(月曜)
 九時から宣誓式があった。
 校長の演説は詠歎的のものであった。けれ共自我が如何に尊ばれて居るかと思うことはうれしかった。
 署名の上に何か句を書かなければならない事になったので、求めよ然らば与えられんと書く。私は私の周囲にどの位失望仕様として居るか。
 私は私一人の道を進むばかりである。
 千住さんと云う人がざらざらして居ていやになる。
 私のほんとを理解し私のほんとを愛してくれる人は居ないであろう。私の道は一人で進むべきである。

四月十一日

(火曜)
 学校授業なし。午前中行って午後から本屋へかいに行った。
『ニイチェの研究』、『我等何をなすべきか』、『社会力』、『結婚の幸福 泥濘』。「泥濘」を少し読む。偉大と云おうより寧ろ私をおそれさせる。
 そして私の持論の裏書きをさせられる様に感じた。実際性慾からはなれて、醒め切った心持で、或る形式の許に結ばせられた二箇の二人が互にとけがたい敵意を持って向かい合って居る姿は何と云う浅間しい胸を悪くさせるものであるか。
「二人きりの時をねがうよりも却って第三者のあった方がどことなしくつろげる」と云うのは事実である。痛ましい事実である。
 世の中の所謂幸福なる幾多の夫婦者よ。

四月十二日

(水曜)
 帰りに千葉先生に門のところで御目にかかって御一緒にかえる。
「生長老成死」と云うのを読めと云って下さる。種々な御話しをしながらあの坂を下りた。この間から申し上げたいと思って居た反省録のことなど又は生徒気質がこんなに浅間しく感じられたかと云うことも御話した。一つ一つ丁寧にきいて下さった。
 いつもの様に紫っぽいお羽織を召していらっしった。
 夜それもまだ夕方妙にメランコリーな心持になって、トルストイの「結婚の幸福」を読んだ。夕闇に浮いて見えるこぶしの伸やかなうす赤い花を見て妙に涙ぐましい心持になってしまった。自分は何と云っても若い。私は彼の中の人物にどの位感動させられた事であろう。

四月十三日

(木曜)
 江戸川辺がすっかり咲きそろった。灰色の空の低く下った薄墨の様な日である。午前中で学校仕舞い本を買いに廻ろうと思ったが風が吹くのでやめてかえる。「我等は何をなすべきか」をほんの少し見る。只の一句さえも私を深く考えさせる調子を持って居る。「何故あの男を拘引するのか」「そうさせるのだから官憲で要求して居るのでしょう」と云う言葉には深い意味がある。学校がいそがしくて自分の本もろくによめないのはつらい。
「貧しき人々」の中に非常に足らなく思われる所が出来た。

四月十四日

(金曜)
 帰りに音楽の練習だと云うので出かける。つまらない。あんな殺風景な椅子でする位なら仕ない方がましだいやになる。小寺さんはやっぱり何と云ってもどこか違ったところがある。菊子さんの噂さなどをする。
 夜は雨になる。岸本先生の発音の教授は一番熱があって面白い。国文の教師は只堺先生をしたわしく思わせる役にたつだけである。桜がここいら中に咲く、桜だらけと云う感じに打たれる。
 五時頃になると桜楓会[#日本女子大学同窓会]の建物が灰色に澱んでその前にかたまって居る白い花の群のために丁度雪のつもった日の様な感じを部分的ながら感じた。今夜の分では明日は学校へ行くまいと思う。

四月十五日

(土曜)
 雨が降ル、学校欠席、十二時までねる。午後から本を買いに出かけ中西屋で Wisdom and Destiny と Longfellow's Poem works ヲ買イ、三省堂で The story of the world と「徒然草」の講義を買い文房堂からノートと鉛筆を買って来る。昨日のかえりにあの何とか云う若い男の子に会った。きまりの悪そうな目つきをして通って行った。あの道のかどでせっかく出した桃色の封筒を笑ってつき戻されたときの心持がいつまでもあの子の胸をいためて居るのだろう。夜「我等なにをなすべきか」を少しよむ。私共のもちたい心を持った偉人が又尊く思われた。

四月十六日

(日曜)
 午前中「我等何をなすべき乎」を読む。心を動かされる事々が沢山見出された。私の母の持って居る道義的理想ト彼の理想と云おうより寧ろ断定して居る思想に一致した所のあるのを見出して少しありがたかった。午後上野のコンサルトに行く。坂本、矢作、おとき、萩野、三好、飯田、小島、真水、そが、千住その他のだれだれに会う。皆同じ様な顔をし、同じ様な事を云って居た。教授のブァイオリン独奏は非常によかった。あの真剣に打ちこんだ態度を見たら自分が、よみ書きをして居るときにあれほどの集中が行われて居るかどうかと云う事がうたがわれた。夜は久し振りで自分の部屋に落ついて勉強する。

四月十七日

(月曜)
 成瀬氏欠席、五時すぎまで学校に居た。私共の周囲が余り単純らしいいかにも子供らしいさわぎで暮して居るのを見る事は辛い。
 私は此処でも私の要求する友達を得る事は出来ない。
 友達に於て私は失望したけれ共学校そのものに於ては何のがっかりも見出し得ない。私は永久に少くとも四年の間はそうであろう事をのぞむのである。江戸川の花見だと云ってあの殺風景な堤の泥水の中をぼろ舟で漕いで廻って居るのを見たら変な気持がした。あの位不具な状態で忘我の快楽を得られるものとすれば人間もかなり単純である。木曜から授業がないだろうと云う話が出た。

四月十八日

(火曜)
 天気があんまりはっきりしなかった。種々な気持にならされた。
 級会がある、皆同じ様な気持になって同じ様な事を繰返して居た。
 研究掛になる、メーテルリンクやトルストイでもせっせとつぎ込んでやりたい様な気持になった。かえりに安達に会う。後姿を見るとフト声をかけたい心持になってあいさつをすると例の顔をしながら私の髪の事を云い出した。その時どの位私は妙な心持がしたか。私は子供だなあと思わないわけには行かなかった。あの様な他人の髪にまで一々気をつかって居なければならない人の心は憐むべきものである。何か一言云いたい心持になってかけよった自分の心を私は祝福する。私はまだ愛すべきあまたを持って居ると思うのはよろこびであった。

四月十九日

(水曜)
 授業なし、明日(ママ)記念日だと云うのでいそがしい目に会った。
 午後から四時頃までの間に千住が何か宗教の事を話して居たがだまってそれをきいて居ると浅薄さに反感を持ってしまった。一種の自己広告だと思うときく気もしなかった。
 単純にあれを感心して聞いて居られる内は人間も幸福である。私は軽い侮蔑を感じながら傍によって、Faerie queen を子供のために抜書いたものを読んで居た。ほんとにどうかして沈黙な重々しい人間でありたいと云う感望がしきりに起った。
 人から軽く見られる人間でありたくないと云う心持がしきりにされる。

四月二十日

(木曜)
 夜三時頃まで「処女地」を読む、どの位涙をこぼしたか知れない。「その前夜」で受けると同様の感激と愛を感じる、「その前夜」の女も「処女地」の女も同様の点を持ちその対照となる男性も同様である。生活の河は如何にもクープリンである。あの宿屋の主婦の情夫となって馬鹿にされつつへばりついて居る人間的の苦悩に伴う悲劇的の滑稽は他の人の許されない所であろう。私は感心した。立派だと思った、そして涙をこぼして目が廻る様に感じながら床に入った。

四月二十一日

(金曜)
 小此木先生へ四時から行く。メーテルリンクの Three Plays を読み出す。面白い。けれ共あの人の傑作ではないらしい。ダヌンチオの話が出た。只参考によむ丈だと云っていらっしゃった。
 夜は部屋を整理。「小さき憂悶者」を書き出す。少し長い事何も書かないで居たので筆が思う様に心を表わしてくれない。恐ろしい気がした。これからどんなにせわしなくても書かずには居られないと思わずには居られなかった。二日程不規則に生活して来たから今夜は早くねて明朝早く起きた方が利益があると思ってねる。買って来た真紅のアネモネが非常に電気の光線で美くしく見えた。

四月二十二日

(土曜)
 夜、浅草へ行く。活動を見る。
 浅草的なすべての刺戟を受けた。

四月二十四日

(月曜)
 欠席西村祖母君来訪、非常に暑くてだるいのでろくに仕事も出来なかった。

四月二十五日

(火曜)
 級会がある。皆同じ様なことを云い思いして居るのかと思うといやになってしまった。
 校長に書いたものを出す。

四月二十七日

(木曜)
 学校の帰りにお茶の水に行く。どの位久し振りで心に種々の想像をして行ったかしれないのに行けば又失望してしまった。
 千葉先生にも御目にかからなかった。
 私の卒業の写真がマクベス夫人の様だ等と蜷川さんと話をする。
 どこに行ってもつまりは失望しなければならないのかと思うといやになってしまった。お茶の水の橋のところにたって学校帰りに御目にかかったとき御話したことを又話してきかせる。
 どうしても割合によみかきが出来ないので(ママ)になる。
 大変楓の新緑が美くしい。

四月二十八日

(金曜)
 父上御帰京 夜松円氏来訪
 坪内先生が御帰京なすったので持って行く筈の「貧しき人々の群」をなおし出した。
 よみ返して見ると如何にも単純な様でいやになって来る、「カラマゾフの兄弟」の結構が思われて書くのなんかあんまり恥かしい様にもなって来た。が私は書かずには居られない。最初の二つが余り説明的になって居てつまらないと思う。
 やめて仕舞おうかしらん、大変興奮して来る。

四月二十九日

(土曜)
「アランディンandパロミダス」を読む。
 メーテルリンク一流のものであるが、「ペリアス、メリサンダ」に見たと同様の人が動いて居るがあの人物とはまるで異った思想である。「智慧と運命」の云うことが非常に多くふくまれて居る。特にアストレーンは悲しみのかげから歓びを見出す人である、ほんとの運命を知った人らしく見える。
 夜、「貧しき人々」を書きなおし始めたけれ共何だか昨日睡眠が不足だったのでねむいからやめてしまう。
 火曜の会には、精神的疲労の事を少し話して見ようと思う。

四月三十日

(日曜)
 昨日六が田舎へ帰った。婆やの金を盗んで行ったとかで、半分狂気した婆やだけあって早速告発してしまった。母様は心配して居らっしったが仕様のない事であろう。非常に興奮して座っても居られない様子を見ると気味が悪かった。
「貧しき人々の群」第二まで書きなおす。
 家から泥棒の出ると云う事はまことに気みが悪い。
 母様などは仕たことは憎いが罪に落すのは堪えられないと云う様な混乱した気持になって居らしったらしい。私も、若し牢に入る様な事にでもなれば、更により悪い人間になるのは分って居るのにそこを思わない被害者や巡査の心持がいやになる。三円たらずの金で人一人を暗くさせ得る人は非常に剛胆な人である。

 青葉が美くしくなった。空の色が生に満ちて来た。四月は美くしいと云うけれ共、此度は種々の境遇に変化があったので四月は非常に長くたって行った。殆ど私が退屈した程、何と云う事はなし、私の周囲の事情から自分が全くたった一人定まった先手の星を持って多勢のものが迷うて居る中をかきわけて行こうとする生活の様に思える。
 それは面白い――嬉しい事でもあるけれ共(ママ)しい事でもある。今年になってから始めてセンチメンタルな〔以下空白〕

 四日 入学試験 合格
 十日 宣誓式

五月三日

(水曜)
欠席
「貧しき人々の群」の書きなおしにかかる。
 When I think about my life, my heart beats quickly with sorrow and joy.

五月四日

(木曜)
 I had a hard work today.

五月八日

(月曜)
 とうとう出来上った。
 私は又興充(ママ)して涙をこぼした。そして百九十枚ほどに書いたけれ共、少しは気に入った所々もあるあれをどうして坪内先生にお見せし様とその事を思うと胸がワクワクした。
 私はうれしかったけれ共苦しくて夜ねむられなかった。
 I am very happy to finish my Writing already but wonderful sad came upon my heart and my eyes covered with tears.
 Why so excited my heart? Be still! My young heart!

五月九日

(火曜)
 坪内先生の所へ行く、母上と。
 出て行らしった方はいいお爺さんであった。私は何だか心が安らかになる様が気がした。
 最初の頁に指を触れられたとき私はひったくりたいほどのよろこびと不安の混乱した心持になっておののいた。
 よく読んで見て批評するといって下さった。最初の頁と中頃を見てとうてい駄目なのはすぐ分ると云う事であった。
 どうぞよくあってほしい。どうぞよめるものであってほしい。
 私はどんなにはりつめた心でこの一月ほどを送ることで有ろう。

五月十日

(水曜)
 Today I went to school, and was tired very much. After school a meeting was called in Kodo and Kikaku complain(ママ) in parts began, many girls up to the higher place told some worlds. But they spent too long time so I was very tired of and couldn't continue well. They say with loud voice and about grand world, but their hearts seem not so great as their speeches.

五月十一日

(木曜)
 Today it was very hard windy, and my soul was restless and unpeaceful.
 At night I studied very much and make ready for Saturday's[#「Saturday's」は底本では「Saturday,s」] lessons.

五月十二日

(金曜)
absent.
 It was very unpeaceful to-day. Many feelings and thoughts came up to my heart. It〔以下空白〕

五月十三日

(土曜)
 心理学講話をききに行く。
 音楽の発達は分り易くもありあまり人をあきさせない講話であった。
 長井博士の副腎分泌物と精神作用との講話は興味を持たなかった人も多くあったらしい。
 体の工合で気分が悪くて仕様がなかった。
 小此木先生へ手紙を出す。『作楽会報』へ十頁ほどのものを書こうかと思う。

五月十四日

(日曜)
 午前中、文房堂に行って原稿紙、インク、ペン、ノートを買って来る。
 風がひどくていやになる。裾がペカペカして歩くのをさまたげる丈でも、日本服はよくないなあと思わずにはいられない。
 何だかやたらにいらいらして夜はなにも出来ない様な心持になって居た。
 人を君臣と云う名で自由にして居った時代の夢をさませないで、家をかき廻される華族等の事を「殿様御めさまされましょう」という題で皮肉に書いてみたい。追憶の書き出しが頭に浮んで居る。書きなおしてよいものにしたい。会報へ十頁は何か軽いさらりとしたものにして見たい気持で居る。気持がこんなにいらいらする事は苦しい。
 しめった闇の中に蛙が鳴いて居る。

五月十五日

(月曜)
 欠席。
 一日中いらいらしい気持になって何も出来ずに心持悪く暮した。
 四時から学校に行ってノートをとって来る。
 電車の中で岡田さんに会う。相変らず鋭い調子をして居なすったが疲れたらしい様子であった。
 風が強く吹いて居る。『会報』へは、「育ち行く彼」を書こうと思う。昨夜は妙にヒステリックになって泣いたり笑ったりしてしまったので朝になるとつかれてどうしても起きられなかった。

五月十六日

(火曜)
 学校へ行く。別に変った事もなし。
 教科書のネロの最後を読む。
 私が若しあの場合になったら必ず左様であろうと思う様な心持がうかがわれた。
 ネロの死に様は、死に持った考えは、只単に臆病なものであろうか。私はそれを只一口に云う事は出来ない。
 彼は所謂悪い事はして来た。
 けれ共愛すべき所々を持って居たのではあるまいか。
 私はたしかに左様であると思える、そして彼の心をどうかして何かに表わして見たいと云う気持になって居る。

五月十七日

(水曜)
 出席、実践論理があった。
 この日に私は、久米氏が先に本能の尊重と云う事を云った意味がよく分らなかったのがある程度まで明かになったのを感じて非常にうれしかったとともに、私がごく表面的なと云おうより本能と云う事につれて一般的に第一に頭に浮ぶ習慣をつけられて居る限られた小部分のみに目をつけたことを非常に耻かしく思った。けれ共天才と云う論の意味にはすべてを同感する事は出来なかった。すべては天才である、人間のすべては天才であると云う事には私は合点出来なかった。若しすべての人が今まで云われて来た天才であるなら――それはおそろしい事である。

五月十八日

(木曜)
 欠席、雨が降る。しとしとと秋雨の様な雨が絶え間なく降って居るので足の裏の筋がつれて不愉快である。
 過敏になった頭が妙にイライラして殆ど苦しい位かんしゃくが起り情なくなった。
 武者さんの「後に来るものに」を少し見る、ほんとに彼の人の言葉は香り高いものだと思う。大様などことなく上品な言葉を持って居る人である事をつくづく思わされた。
「悪霊」をかなり読む。いつもの涙ぐましい位の感激を持つ。
 こんな偉大な人の前に自分は何の光りを持つのか。哀れなものよ、けれ共私はその光りを持たなければならない。

五月十九日

(金曜)
「追憶」を書きなおし出す。読んで見ると、我ながら満足出来ない所がある。

五月二十日

(土曜)
「追憶」を書きつづける。もう大抵出来る。
 夜になってあの死に顔の所を書き出そうとすると、妙にこわくなってどうしても書けなかった。実感は恐ろしいものである。
 いつまでかかってもいいから、変質他愛病患者を中心にした貧民窟のことを描いて見たい。
 非常にのぞんで居るが、まだ一度も左様云う所へ行ったこともないし、見たこともないので、まだ一年二年はかかる事であろう。けれ共どうか好く立派なものを書きたい。
 若し正直な観察を以て見てかけば必ずよく出来る事はたしかである。

五月二十一日

(日曜)
 漢文。「追憶」をかきあげてとじる。
 母様によんでいただく。かなりすなおにかけて居るそうだ。
 それにつけても坪内先生の方が案じられる。この二三日は夜床に入るときっとあの事を思い出して、若しよかったらこうし様若し悪かったらどうし様などと云う考えがチラチラ湧いて来る。
「貧民心理の研究」を読む。
 斯様に彼等の世界があって、彼等の真理のある中に今まで持って来て居た道徳律は何の価値もないものになってしまって居る。彼等――(ママ)よりも退化した者共が尚私共の仲間であることはまことに恐ろしい。

五月二十二日

(月曜)
 坂本さんの所へ行って種々話す。
 人を殺した事が悪い事だと云うので、政府が殺したものを殺すのはどういうわけかということがほんとうに考えられる。
 又、自分は単純によい、わるいで人間のすべての行為を判断して行きたくはない。と云いながら何か起ると、自分自身それを裏切って居るのはまことに悲しいことである。
 社会的感情に支配される様に子供の時から癖づけられて居るのはいやである。
 どうかして何事もしずかな理解のある気持ですごしたいと思う。どうかして左様ありたい。父上北海道出発。母上歌舞伎。

五月二十三日

(火曜)
 小池先生から電話がかかって来る。
 一日何をすると云う事なしに暮してしまった。
 毎日雨が降ってうっとうしい。
 夜千葉先生へ手紙を書く。
 種々思って居る事
 感じて居る事を

五月二十四日

(水曜)
 千葉先生へ手紙のつづきを書き出す。
 小田切の秀子氏へ返事。あの人が行ってしまったので、彼那してとりとめのない様な悲しさに迫られて居るのかと思うと、可哀そうになって来たが何とも云ってやり様もなかった。
 夜なんかして、「ドリアン・グレー」を読んで見る。
 いつもながら驚く。Longfellow's Poem を一つ二つ見る。Day is done と云うのはしずかな、やわらかみのある快いものであった。明日から学校へ行く様にきめる。

五月二十五日

(木曜)
出席
 今日は種々な事があった。学校へ行って見ると、内藤が、電話の行き違いを妙にかんたぐって先生に云ったと云う事を知らしてくれたので、どうでも好い様なものだけれ共、昼に行ってちゃんと云い立ててきた。何でも他人のことまで立ち入ろうとする半目醒の女はやり切れない。
 今まで持って居た好意が一時に消えた様に感じた。千住氏が妙にチヤほやする。人の心は妙なものだ。級会の「美」の事について一寸喋る。西岡が「読書をなさったでしょう分ります」と云う。二十を越したものの口のききかたは違うと思った。夜久しぶりで関先生の所へ行って、かなり緊張して話して来た。『水の上』を貸し De. Profund を借りて来る。夜はつかれたが愉快だった。

五月二十六日

(金曜)
 今学期のモットーをきめるために種々帰りに相談したけれ共なかなか定まらないので、いやになった。妙に投げやりな、超然としてしまった様な口調がいやである。研究すべきことはどこまでも素直になって考えなければならない。千住さんはどうしても浅っぽい人である。
 昼の時間に昇夢さんのツルゲーネフの伝を読んで、急に「獵人日記」がなつかしく感じられる。
 どんな人でも偉かった人々の一生を読むと種々の感激を起させられる。人の一生、それは様々の形式と色彩を持って居ようけれどもいずれも尊いものである。
 自分の生涯も何物か人に与えるものでなければならない、同時に最も多く吸収したものでなければならない。

五月二十七日

(土曜)
 一時間おそく行く。帰りに町田さんと一緒に来る。二十近くもなって居て彼那単純な心なのかとおどろかれもする。電車の中なので自分丈になれないで困ると云って居た。
 夜、「獵人日記」を読んで見る。もう三年ほど前に一寸見た限りなので新しい発見も多いが又訳の悪いところも気になった。
 夜は、作物に感激させられたのと夜がしずかにしめって居るので、妙にセンチメンタルになって悲しくて仕様がなかった。

五月二十八日

(日曜)
 漢文。ワイルドの「獄中記」の関先生から拝借して来たのを少し読んだが原本の方が省略してあるところが多かった。
 少しむずかしすぎると思った。夜錦輝館へ行く。いつもながらよくするものだと思って見て来たが疲れた。
 いつでも見たいものである。趣味は低級であろうが何であろうが目先のたのしみに丈はなる。
 夜久しぶりでよくねた。

五月二十九日

(月曜)
 昼までにして帰って来てねた。
 外の明るい様な時に部屋の中丈くらくしてさっぱりした布団にねて居ると、妙に淋しく気持が沈んで来る。
 此頃は頭の工合があまりよくないので感じがするどくなって来て困る。種々な思い出だの悲しみだのが一杯に湧いて来る。
 夜は久しぶりで本田の道っちゃんが来た。

五月三十日

(火曜)
 級会がある。校長の信念の涵養と教育とか云うのを読んでうつす。終りの少しを私が読んで解釈をしたが皆さほど分りもしない様子であった。八時頃からねる。十時頃に起き出して、果物をたべたりなんかしながら種々の事を喋る。
 ラムの沙翁を読んだが、あまり抜いてあって面白くない。
 昨夜道っちゃんが云った事が非常に頭に残って居る。
 I can not love so long as anyone can――yes, I know it clearly. So please love me till I will die.
 何と云う悲痛な言葉なのか。私の可哀そうな人よ。

五月三十一日

(水曜)
 夕立の様に夜になってから雷がなったり雨が降ったりして、如何にも夏になった様な心持を与えた。
 昼間は苦しくあつかった。
 実践論理、非常に感激させられた。私は多くのものを吸収する事が出来た。

 種々な点で私には記憶すべき月であった。
 第一私の生涯に第一の経験として、あの「貧しき人々の群」を坪内先生に御目にかけに出した。
 それからこの想が醗酵したら非常に立派なものになるべき変質他愛病者とその周囲に対する思いつきを得た事もよろこぶべきことである。
 かなり思想的に生育の出来た月ではあったけれ共、頭の工合を悪くしたのであまりはかどりもしなかった。
 私はこの月に本能の尊重を知り、宇宙の真の運命と云うものはどう云うものであるかと云う事が朧気おぼろげながら分ったことを有がたく思う。新緑の色は圧迫が強くて、肉体的にも精神的にも私のバランスが破れて仕舞うので一年中一番なやましい月であった。いつもの様に。

 八日 「貧しき人々の群」脱稿
 九日 坪内先生に御目にかけに持って行った。
 二十一日 「追憶」
 二十四日 千葉先生へ手紙
 二十五日 関先生、久しぶりで御目にかかる。
 二十二日 父上北海道御出発
 二十七日 「雨が降る」三枚
 二十八日 「動かされないと云う事」

六月一日

(木曜)
 午前中で帰って来る。久米氏の「牛乳屋の兄弟」が問題になって居る。石井さんがどうしても復讐をすると云って居ると云うので母上が心配して居らっしゃる。若し二人が決闘でもする様な事があれば何と云う事になるか。劇作家は決して自分が主人公となって血を出さずともよいのだ。そうさせるKは(ママ)しい。斯様な事は私もよく心得て置くべき事であると思う。石井も又、心にそうまでも思って居ないのに彼ああまで云うのはいやみである。凡人は天才の犠牲となるべきが至当である。

六月二日

(金曜)
 父上御帰京。学校から帰って見ると、お母様も御留守。
 夜どこかで一緒に食事をして帰っていらっしゃった。
 もう一年の半分に来たのかと思うとおどろく。
 今月の十五日は今年の丁度まんなかにあたる、何と云う早く立ったのか。
 私は情なくなってしまう。これだけの中に自分は何をして来たか。彼那いやな、「お久美さんと其周囲」と、「貧しき人々の群」と、「追憶」と、その他の一寸したものが僅か許りではないか。
 今までこの様なら又これから先もこの様に過ぎ様と思う事は恐ろしい事である。

六月三日

(土曜)
蜷川氏より。
小此木氏より電話。
 今日学校でふとこの間書いた「追憶」を三部作の一部と仕様と云う事に思い付いた。あれが第一になって次の「小さき憂悶者」が第二になりもう一つ安積へ行って居た間のことでも書いて見たら面白そうであると思う。そしてすべてを「記憶の断片」と云う名にまとめる。
 今月中には出来るであろう。よいものにしたい。夏休みにはツルゲーネフの Clara Milltch をどうせ読むんだから訳して見たいと思う。部屋をすっかりかたづけて北をあける。風通しがよくなった。
 夜蜷川さんから手紙が来る。子守唄を送って(ママ)れる。
 静かな声で「しいばのおりどの、しずがあやーに」とゆるく歌って居ると、昔の種々な心持がしみじみと戻って来る。

六月四日

(日曜)
 暑い。如何にも夏らしくなって来た。風がかなりひどく吹いて居る。夕方から山の手を一廻りして竹葉で食事をしてかえる。銀座を一寸のぞいて来たが、あまり軽すぎる空気で幾分不愉快な様であった。電車の中で、玉突きのキューを持ちながらふざけちらして居る二人の若い男を見た。やがて御前方も死ななけりゃあならないのを知って居るのか? 二人の土方が大変無邪気な愛すべきものの様な様子をして居た。なまじいの紳士より彼等の方がいかほど人間らしくあり尊ぶべきであるか。「無題」三枚を書く。「後に来るものに」を読み動かされた。佐藤さんから電話のときに坪内先生の事や何かの話が出た。夜は美くしい月を輝かせながら涼しく更けて行った。
 今日の様に暑いと又五色の霧を思い出した。

六月五日

(月曜)
 欠席、随分暑く風が強かった。午後から小此木先生へ行く。『アラディンとパロミダス』を御返ししメーテルリンクの批評を読んで来る。帰りに Little Women. 55 を買って来た。一昨日から青山でスミスが人民の心を熱狂させて居る。ああなると単に飛行機のりと云う以上の感激を与える。立派なものである。今日も国、道男が行ったが塵と音響がさぞひどそうなのでやめにした。夜は花火を散らすとかで父母英男出かける。小此木先生の所で、Longfellow の詩のよいのにしるしをつけていただく。この夏休みには「ペリアスとメリサンダ」と「アラディンとパロミダス」の比較をして見ようと思う。
 まだあつさにもなれないので、一寸日が強いとたまらなくあつい。

六月六日

(火曜)
 坪内先生の所から御葉書で、午後から母上が(ママ)らっしゃる。どんなにこわごわ批評をきいたことであろう。けれ共苦労は無駄で、大変にほめて下さったそうである。明日また一緒に行く事になった。
 これで漸々私の出発点が定まった様なものである。
 これから私のほんとうの生活がはじまる。
 私の周囲に沢山満ちて居る敵に対してどの位自信のある事だろう。『中央公論』の秋季増刊に出させる様に口をきくと云って下さった。それから単行本にするのだそうだ。
 私の今までの努力は決して無駄ではなかった。
 私の生活は真に力づけられたのである。

六月七日

(水曜)
 坪内先生の御批評をいただく。
 一、思想の健全なる事
 二、文体の短かく女らしい欠点の少ない事
 三、観察のこまかなる事
 種々力をつけて下さった。安心していそがず迫らず書けばきっと立派なものが出来るとまで云って下さった。終りの方を少し書きなおした方が好い所があると云うので原稿をいただいてかえる。
 かえりに妙な田舎田舎したすしやに行き、大味氏(一字不明)に行き、錦輝館に行ったら夜の六時からでだめ。
 中西屋へ行ったけれ共買い度いものなし。

六月八日

(木曜)
 一日かく。一字の間違いまでちゃんとしるしをつけて下さってあるのには感謝しずには居られない。

六月九日

(金曜)
 一日書き、夜錦輝館へ行く。

六月十日

(土曜)
 明日出来上るつもりなので坪内先生が若しまだ東京に被居いらしったらあしたの午後に自分で上ろうと御たくにききにあげたらきのういらっしゃったそうだ。

六月十一日

(日曜)
 今日午後出来上ってとじる。夜紀伊の国家へ電話でうかがってから、文丹と手紙と原稿をかきとめでお送りした。
 朝葦の湯からわざわざ御葉書をいただく。
 石井の婿だと云う人が来て久米氏の例のことを云って帰ったが、私共もあの人達については或ることを知って居るので久米さんばかりどうのこうのと云うことは出来ない。とにかくあの男もなかなか裏のある生活をして居るのだから……。夜道三氏[#徳岡道三、父精一郎の従弟]が来て種々はなしの末今度結婚するのに母がむずかしいと云う事を話した。どこでもある事だ。
 結婚の幸福などと云うのもさめ、……。

六月十二日

(月曜)
明晩小此木先生

六月十三日

(火曜)
 夜東京堂へ行き、『犯罪の研究』、『セバストポール』、『トルストイ』(ロマン・ローラン)を買って来る。文房堂から原稿紙三百枚。「追憶」をかえしていただく。叔父の面かげがよく出て居ると云うはなしをいただく。親類の事だの、嫁姑の事などを話して来る。学校の方は選科がよかろうと云う事である。タゴール氏の演説の声は何とも云えずよかったとおっしゃる。
 父上母上外出。タゴール氏は声だけでも人を動かすに足ると云うほど立派な声を持って居ると云うことであり又その容貌もすべて世のことを超越した様な輝きを持って居られるそうである。

六月十四日

(水曜)
 一日むしむしと暑い日である。銀行に行く。今度新らしく来た人で神経質な形をした人が誰かの歌集らしいものを持って居た。私が始めて彼の銀行で見たことである。帰りに吸とり紙を買て来る。あの大観音のわきの店で南洋の槍があった。一寸面白いものである。行きに物集さんのわきの小さい家で何だか伯母とその世話になって居る娘が喧嘩して大きな声でどなって居た。夜父上御出立。午後坪内先生から「ゲンコーウケトッタツボウチ」として電報を下さった。有難いと思う。「セバストポール」と、「トルストイ」を少しよむ。「セバストポール」の訳が少しわるい様なので残念である。母上がもうすっかり私を洋行させる覚悟をなさって、百合子はどうしてもイギリスだとおっしゃる。その時の様子などを思い浮べる。
 もう梅雨に入って居るそうで雨が夕方から降り出して少し涼しくなったが頭の工合はよくない。月見草とダリアが草畑に咲いた。

六月十五日

(木曜)
「我等何をなすべきか」を一寸読んで見る。彼が、どんなに自分が農民を支配し得る地主であると云う事をなさけなく思って居たか、引いてはあの金を持たない心持になったことも分る。
 石井が来て久米氏のことを母にたのんだと云うので夕方久米氏を呼ぶ。石井も男らしくない人だとつくづく思う様な節々がある。ああ云う顔の人はフランクな生活は出来ないものだ。久米氏はすべての要求を出来る丈は受け入れると云って居たそうだ。
 とうとう卒業されるのはお目出度いがそんなにすぐやわらかものの着物をきないでもいいだろうのに。坪内先生から熱海にうつったと云う御葉書を下さった。

六月十六日

(金曜)
 Little Women を読む。日本の娘達の様な生活をして居る女の子がみじめな様な気のするところがある。まるで教育方針が違うのが明かに分る。
 一日中はれたり降ったりしていやな天気である。足駄の歯をなおさせて置く。夜、近所まで帯揚げのしんとピンを買いに行く。ほこりがたたなかったので強い風も割合に心持がよかった。
 漢文の先生に例の事を一寸申しあげて置く。

六月十七日

(土曜)
 Little Women を読む、今日は妙にセンチメンタルになって、夕方にはたまらない心持になって仕舞った。
 クープリンの「決闘」をよむ、主人公、ロマショーフ少尉は実に可愛らしい。彼のすぐ自分の事を三人称にして考えて見る癖は私の持って居るのと同じである、左様な心持になって、自分の事を「彼は……」と云うときの心持は私によく分る、先にもう三四年前に一寸読んだことがあったがまるではじめてのものの様な興味と感激を覚えた。
 実に立派な作である、クープリンの主人公には……もとより沢山はよんで居ないけれ共「生活の河」の主人公のどれにも愛すべき泣かずに居られない様なところがある。ああ云う風に人を見なければならない。
 又ああ云う心持がどこか心の隅になければ人間は情ないものになる。

六月十八日

(日曜)
 一日雨が降って居る。周囲の緑の中に紫陽花の花が美くしく見えた。
 青雨らしい響で降って居る、心がしずまる様である。石川先生が貧児のことを書いたのを持って来て見せて下さる。非常に単純なのに喫驚びっくりさせられた。Little Women Chapter III までをすっかり見る。大瀧氏来訪、彼のおばあさんが脳溢血で半身不随になって居ると云う。可哀そうなのは奥さんである。又一苦労ふえるのだろう。夫の奥さんなのか姑の奥さんなのか一寸は分らない今の日本の有様である。夜山尾[#山尾市次郎、中條家小作人]来る、頭を三角刈りにして居るので人相が悪く、よく下等なものの様な感じを与えた。母上一時間ほどで寿江子の単衣を縫いあげて仕舞われた。心持がよさそうである。何でも手早い腕を持って居る人は幸福である。夜になって雨が上って仕舞った。
 お雪が一寸ばかりのはこべを持って来た。心持が見えすいていやであった。道男のことを馬鹿にしたらしく種々云うのが気にさわった。

六月十九日

(月曜)
出席
 十一時から学校に行く。松が少しまるくしてあるのでよっぽど心持がよくなった。
 書棚に氷店のカーテンの様なレースのかけてあるのはいやである。あんな趣味がとはなさけなくなる。昼の時間に小寺と話をする。小倉末子さんの子供時代の事や人の批評はなかなか出来ないものだなどと云う事をいつもよりたしかな口調で話した。そして音楽などもどうせ弾く人にはなれないからせめてきける人になるのだと云って居た事は女として尊ぶべき心持である。
 自分をきく人、見る人として完全なものに仕様とする心持には若い娘はなり難いものである。若しそれが本心だとすれば尊ぶべきことである。私にはそう云う気にはなり得ない。冨山房へ『沙翁傑作集』をよこす様に云ってやる。

六月二十日

(火曜)
 坪内先生から原稿を送って下さる。夕方御手紙が着いた。前よりもよくなったと云って下さった。終りに自分の感想の様なものを入れるのはどうだと云って下さったが自分では何だか切りつけたものの様になりはしまいかとあやぶまれる。早速御返事を出しておく。
 むしあつくて体中の血がにている様な気がする。帰りに吉原さんと久野先生に会う。久野先生はいつもの様に奇麗な顔をしていらしった。吉原さんはいかにも女学校を出たばかりの娘と云った風をして居た。
 おっかさんと云う人は只娘を守って居る様な人に見える。
 国男が妙にメランコリーになって神経質になって居た。私の先の様な又今でもときどきなる様に落着かない心持になって居るのを見るとかわいそうになった。

六月二十一日

(水曜)
 欠席。雨が降ったり晴れたりきまらない天気でいやな日であった。
 小此木先生から御断りの電話を下さる。今日の様にハッキリてりもせず又ザーザーきもちよく降りもしない天気だとすっかり頭にこたえる。
 この頃少しずつ滋亜※(「隣のつくり」、第4水準2-83-86)をのんで居るがいい。小田切の秀子氏から手紙をくれる。例の通り。湖へ来いと云って来てあるけれ共彼那奥さんの居る所に居るのもたまらないし秀子さんに毎日べたつかれてもたまらない。もう少しどこへ行ってもいい親類がほしいものである。今年はどうしても早くどこかへ行かなければならない。しきりにそう思われて落つかないほどになって居る。この頃はすべて自分の周囲のものが不趣味だったりするとやりきれないからどこへ行くにも相当なものは持って行かなければならない様な心持で居る。

六月二十二日

(木曜)
 暑い日である。脚気の様で体全体の心持がたまらなく悪い。明日国文の試験があると云う事だ。此那心持だと勉強する気にもなれない。
 足や手が熱っぽいのではかって見る。一寸もなかったのに少し安心する。七月の十八日がせまって来ると私はおととしの夏を情なく思い出す。夜中に、氷嚢を押えながら母様のこぼした涙が、自分の顔の上に降りかかったときの心持なんかも、はっきり思い出せる。
 今年はどうぞ病気をせず、いやな事もなくてトントンと進んで行ってほしい。学校で思いがけず、『中央公論』の長田さんの「港の町」だったかを少しよむ。まだすっかりはよんでないから分らないけれ共、長田さんの捕えた材料としては、私には珍らしいものである。

六月二十六日

(月曜)
 坪内先生から『中央公論』の瀧田哲太郎と云う人への紹介を下さったので昼頃すぐ電話をかけて見ると、わきに人の声――瀧田さんと云う声が聞えながら御留守を喰わしてくれた。
 非常に不愉快でたまらなかったけれ共しかたがない。明日なら八時頃に社に来ますと云う事なのでそれなら早速あした出かけ様と云うことにする。
 たのむものの弱味と云おうか、落ち目と云おうか――とにかく妙な心持がしていやであった。

六月二十七日

(火曜)
 午前中なら居ますと云う電話が中公からかかったので雨の中を車で行く。かなり小ぎれいなところであった。瀧田さんと云う人、赤くふとった、赤坊の様な髪の毛の人である。腹の中は毒のなさそうな人ではあるけれ共、どこかああ云う仕事をして居る人共通ないやなところ――口のきき方も妙に事務的だったり、突っこんだ話が出来ない様なところがあったりするのがまことにいやであった。『中公』の方は九月までふさがって居るが、『婦人公論』の方は一つ長いのがあいて居るから若しよかったらその方にもらうと云うことである。来月の一二日に返事をすると云う事であった。
 かえってから丸善に行って、『アンナ・カレニナ』、『生物学ト哲学ノ境』、『ペリアストメリサンダ』、『アラジィン、パロミダス』、『ベラミー』ヲ買ってくる。

六月二十八日

(水曜)
 一日、「アンナ・カレニナ」と、「ベラミー」をよむ。モーパッサンのあの心持がよく分って来た。「ベラミー」の中に現われて来る女の心理状態に刺激されて内省的に自分の女としての心持をよく味って見るとたしかにそう云うところがある。あの中の女の持った心をある程度まで自分自身のものとして見ることも出来る。
 どんな女でも女にかわりはないと云うことはたしかである。
「アンナ・カレニナ」はごくはじめで分らないけれ共、矢張り驚くべきところどころがあり、トルストイの特徴、メレジェコフスキーに云われてることも目立って見える。

六月二十九日

(木曜)
 石井、対久米氏の会見、久米さんに一寸会う。『戦争と平和』を返してくれる。
 もう、私の書いたものの出ることを知って居なさる。母様がおっしゃったのだそうだ。四十を越そうとして居る人の心持、とくに母親の心持は私に分らないところが沢山ある。安積へかえりたくないから東京附近に居ると云って居た。
 石井親子で来る。石井が妙に神経的な高笑いをしたりして居るのが妙に響く。息子と云う人も頭はダークな人だ。あの位の年で、あんな口のきき様をするものに、ろくなものは居ない。けれ共とうとうあの脚本――「牛乳屋の兄弟」をすべて滅却して詫び証を書かされた事には同情する。けれ共それは何もあの人の価値を下げる事ではない。此の事件のために、私の両親に彼人の美点の多くが理解されたのはよろこぶべきことである。

六月三十日

(金曜)
 午前中坪内先生の所へ行って、『中央公論』の方の御話をして置く。あまり長いから若しだめだったら単行本にして新潮か春陽堂から出すことにきめて来る。雑誌むきのものではないし、又長すぎることもあるけれ共自分として最初のものがわずか二三十枚のものであろうことはのぞまないのだからしかたがない。かえりに母様は上杉家へ御よりなさる。門まで送って行って渡辺のわきで久米さんに会う。だれか友達二人と一緒であった。中の一人はよく見かける顔の様であった。一寸目礼しただけでお茶の水の方へ行ってしまった。下島さんが例によってもらいに来た。
 あの人の形を見ると、実際かわいそうになって来る。あんなにしょぼしょぼしてどうしたと云うのだろう。一つ発表したらゾクゾク出さなければいけないと云うので、古いものを又御目にかけることにする。

 此の一年の真中の月は私の一生に大いなる意味を持って居る月であった。私の第一歩は漸々かたまろうとして居る。
 今年の正月の一日に久米さん達と集ったとき、今年は何かありそうな年だと云い合って居たことが自分にとっては実現され様として居る。
 私の一生の中最も記憶すべき月なのである。
 これから先の自分の努力の如何によって自分の位置はどれほどにでもなって行くのである。
「あせらずになさい、きっと立派なものがかけます」
とまで云って下さったことはどれ程自分の進む道をたよりあるものに思わせるか?
 どうぞ此の月の事を只に私の日記に――生涯の記録に意味のあると云うばかりでなく、世界の文学史上に記念すべき月とさせたいものである。
 の夏は若しかすると東京で暑い思いをしなければならないかもしれない。
 けれ共、そんなことは何でもない。
 私は自分のする丈のことを一生懸命にしてさえ居ればよいのだ。此の一月は、種々な空想や期待やよろこびやに動かされて自分が何だか非常に動かされて居るのを感じる。

四日 「無題」三枚
六日 坪内先生より葉書母上参上批評を承って来る。
七日 自分母上行く。原稿を返していただき『中央公論』の秋季増大号に出せたら出し、そうでなかったら単行本とする事に決す。
十一日 終りの方をかきなおすのが出来て箱根葦の湯紀伊国屋へ御送りする。
十三日 小此木先生に坪内先生の事を御ききいただき、「追憶」を見ていただく。
十四日 坪内先生から「ゲンコーウケトツタツボウチ」と電報来る。
    父上東北出張
十九日 冨山房へ『沙翁傑作集』を送る様に云ってやる。
二十日 熱海から原稿を送って下さる。
二十六、七日 坪内先生御紹介状を下さり瀧田氏に会い原稿を渡す。
三十日 坪内先生の所へ上って若し『婦人公論』がだめなら単行本にする事にきめ。

七月一日

(土曜)
 雨が降る。青雨らしい日であった。上杉家の披露会への着物を作る作らないで午前中は一杯になる。母上はとうとう作らないことにおきめなさる。偉い、私はかんぷくした。今日になっても冨山房が持って来ないにはおどろく。本屋なんかと云うと此那ことはすまい、彼那ことはあるまいと思って居る方が間違って居る。『婦人公論』を出た次第ついでにかって来る。あんまりゾッとしない。此那のなら単行本で出した方がどれ丈いいか分らない。けれ共まあ、のせて呉れるなら一種の広告で悪くはあるまい、午後になってから、「一條の繩」を書く、十四枚。夜はみみずが鳴いて、夏らしい――どこか淋しい様で力のある感じがみなぎって居た。

七月二日

(日曜)
今日寿江子誕生祝
 余り好い心持の日ではなかった。昼には寿江子のお祝で西川から御馳走をとる。とがしのはつ[#富樫はつ、中條家書生]、木村来る。はつがいつもの様に大きな体をしながら、くそ遠慮ばかりして居るのを見ると、腹が立たざるを得ない。夜錦輝館へ行く。名金会とか云うので、名金をした。いくら金になるからって、彼那土人みたいなものにかつがれたり、何かして居るのは実際いやになるだろうと思う。何でも商売になればつらいものだ。先に来て居たアメリカ人が来て居る。いつもあのあお目玉をギロギロさせてしきりに野心たっぷりな形をして居る。どうしても西洋人は日本人よりも肉感的である。女でも男でもそうだ。女はそれだもんでよけい Charming であるわけだ。うすい着物を透して四肢の見える姿で舞いさわぐ様子は同性でも妙な誘惑を受ける。

七月三日

(月曜)
「盗難」を書く。非常に暑くなった。
 中公からの返事を一日待ちぼうけをして仕舞った。

七月四日

(火曜)
 午前中中公から電話で大変いそがしいから十日頃まで待ってくれと云って来る。母上が早速意向を聞きにかけて下さったけれ共要領を得なかった。午後から坪内先生へ原稿を持って行って、種々の御話しを伺って来る。ほんとに先生らしい落付きのある話しがしいい方である。小川未明さんが先の頃三時間くらいずつ愚痴をこぼして行かれ行かれして居た事や久米さんの話や田村さん、永井荷風さんの事が出る。
「天才は別である、けれ共どうも何か修養すべきことがありそうに思われる。けれ共それはどうすればいいかと云うことは分らない。」との御言葉は非常に私を考えさせたものである。夜母上御木本からブローチのいいのを買っていらっしゃった。dew drop の様でよかった。大変。

七月五日

(水曜)
「戦争と平和」をよむ。ピエールもアンドレー公も、ナタアシャも皆愛すべき人である。何故自分はこの様なものに先は驚ろかされないで居られただろう。「小さき憂悶者」の稿を起しかけたが最初の第一回が浮んで来ぬ、二行目にあたる部分からは声を出してよめる様にまではっきり思い浮ばれて居る。上杉家披露会。池田氏夫人などが妙に貴婦人の品位を誤解してお愛素もなければ笑いもしないと云う様になって居ると云う。可哀そうなことである。

七月六日

(木曜)
 間宮とこうとの事件が進みつつある。ナタアシャが誘惑されて行くところの心理は何と云う立派に描き出されて居ることだろう。私は妙な心持になった。そして、この間中から自分の心に芽して居る久米氏に対しても又誰に対してもどうか、友愛と云うおだやかな愛情で接せられる様になりたいと云う願望がはげしく私を苦しめた。そしてまだ感情としてもどこかに未熟なところのある、それで居て燃え易い心持を自分ながらよろこばれない。
 この二三日 passionate になって仕様がない。今日なども朝起きるとすぐ母様とふざけふざけて頭を痛くして仕舞った。
 そしてそのあとでは重い陰気な感情が胸一杯に湧いて、何をするのもどうするのも痛みなしには出来ない様な心持になって居た。

七月七日

(金曜)
 今日母上午前中不愉快そう。夫婦などになって、何だと云ってはいがみ合い、不機嫌にして、それで居て別れられないのを考えて見ると、実にみじめなものである。結婚をしたことを嫌いながらどうもならないで居ると云う事は――。午後から伊東まつざかへ行く。なかなかこんで僅かあんな提灯一つや二つを只で出すと云うので非常に人が出て居る。ああ云う小店などでは私共を非常に優待して、自分は只の娘一人にすぎないものだと思って居る私にとっては却って気の毒な、いやな心持がした。あれほどの人目の中であれほどの honour をうけるべきものではない様な心持がした。夜「ペレアスとメリサンダ」を少しよむ。降ったり照ったりあんまり好い天気と心持ではなかった。

七月八日

(土曜)
「ペレアスとメリサンダ」を大抵読む、どうしても「アラディンとパロミダス」とは異って居る。けれ共同じものが材料としてあつかわれて居るのはたしかである。今言葉になってどうとは云えないけれ共、もう少しよく考え読んで見たら必ず分るだろうと思う。
 成瀬正一氏が渡欧するそうだ。この頃、まるで変って来た自分の将来に対して、先んじられる人が一人でも多ければ多いほど、自分の力の乏しいことをなさけなく思わずには居られない。
 私の英国行もたしかになって来た。
 この上はただ自分の力がつき次第であると思うと、輝かしさに添うた不安や責任がきびしく自分をせめる。

七月九日

(日曜)
 午後になって本田道っちゃんが来る。仏語の速成をやって居るそうだ。字引きを持って来てくれる。マンドリンの蓋を高井にきいて見たら二円五十銭だと云う。それなら半々にして買おうと云うことになった。夜、食後庭でかくれんぼをやる。見つかったってどうでもないにはきまって居ながら、妙に緊張した、息のはずむ様な心持を感じた。逃げる心理と云うのは一種異って居るものらしい。

七月十日

(月曜)
「アンナ・カレニナ」をよむ。アンナは愛すべき女である。レウィンも尊い所を持って居る。とにかく私の感じた事は、彼の中のどの人間でも各自にその尊うべきところを持って居ることである。そう云う風に、人間を見て行きたいものである。自分も亦そうでありたい。今日は梅雨のあけだそうで、夕方から大雨になった。珍らしく夏らしい、強い激しい降り様であった。大学の卒業式のあった日だ。久米さんも、もう学士になったのにはあまり早い様な気がする。ついこないだ、あの赤っぽい紫のベルトのついた帽子をかぶって居たのにと思う。どうか自分の仕事のうんと出来る職業を見つけるならば御見つけなさる様にと思う。学校の先生なんかはもっての外だ。中央公論は待って居たが何とも云ってよこさない。

七月十一日

(火曜)
「小さき憂悶者」を書き出す。何だか最初の言葉が出にくくていやな心持であった。中公に母上が電話をかけて御覧なさる。まだ見きれて居ないと云うことである。いつまでああやって置くつもりなのか?
 母上は、二百部なり百部なりのものを持ってやると云ってくれるのを待って居るのじゃあないかとおっしゃるがそんなこともあるまい。
 そんなにして出してもらわずとあんな雑誌ならおしくはない。
 夕方高橋夫人が来る。何だかやせて、おっかさんらしくなって来た。
 一人の子供をそだてるために、母親がどれ丈苦労をするのか。
 あんなに睡眠不足で、気苦労をして、それでろくに頭は育たないのだと思うと気の毒になり、女の天職もまた易からずと思わざるを得ない。

七月十二日

(水曜)
 中公の瀧田氏から返事が来た。よく書いてはあっても雑誌には内容がむずかしすぎたりするので営業上から已を得ずことわると云って来た。少しもがっかりしないのみか幾分安心した。――芸術的良心の満足とでもいいそうな心持がした。あの中に出て居る――『婦人公論』に出て居るどれもの様なものは自分は書きたくないしするから、雑誌向きでないからと云うことは、非常に自分の満足するところである。いよいよ新潮あたりから単行本にして出すことにする。却って非常にうれしい心持がして居る。いろいろ表紙のことなども考えられて居る。午後になってから文房堂へ行き帰りに『ドン底』と『春の水』を買って来て、「春の水」の方をすっかりよんでしまう。夜は、漸々「小さき憂悶者」の書き出しが出来た。かなり自分の心持が出せたと思う。久米氏が徴兵検査をうけに行くそうだ。どうぞ当らない様に。

七月十四日

(金曜)
 今日午後、瀧田氏が見えて原稿をかえしながら、『中央公論』へのせるかもしれないから百五十枚ほどにしてくれと云うことだ。
 十日ほどの間をもらう。
 一度ことわって置いてどうしたのかよく分らないが先ずのるとすればうれしい。
 けれどもまだ分らないのはいやである。
 明日法事でいそがしい。
 行くのはやめにする。十日で書かなければならないのは少しいそがしい。あまりこまかく書きすぎて居ると云うのが欠点で、終りの方にもう少し自己を表わし、始めに自分の説明を入れろと云うことである。

七月十五日

(土曜)
 午前中坪内先生へ行って、その御話をして来る。出来る丈して見るのは決して無駄なことではないと云って下さる。きっと中公にとって下さるのだろうとおっしゃる。たのむものの弱みと云おうか、気おくれと云おうかふしぎな心理状態である。けれども苦労しなければいけないとおっしゃる。自分もそうだと思う。私のすべての condition がよすぎるのでだらけはしまいかとたまらない。いろいろな事に、それ専門の良心が出て来ていてはたまらない。もうこの頃は努力である。実際努力である。

七月二十四日

(月曜)
 もう少しで出来る。毎日一生懸命にはやって居ても日がせまらないと何だか気がのらない。今日は非常によく書ける。うれしい。あしたはきっと出来上る。
 午後になってからお茶水の卒業生だと云う『日日新聞』の記者が電話で話をききたいと云って来る。私には分らないので母上が夜に来いと云ておやりなさる。大抵話のすんだころ会って見る。なかなかどうしてしゃべれもするのをだまっておとなしそうに見せて居るらしい様子をして居るのがいやである。
 こっちでも婦人記者と云う目で見るせいかもしれないがたしかに或る臭気を持って居る。中公の瀧田さんから聞いたと云って来た。監見満と云う人である。あの(一字不明)高とどこか似た所がある。いやな感じを与える。

七月二十五日

(火曜)
 原稿が出来上った。今まで毎日毎日書いてばっかり居たので、がっかりした様な心持もするがうれしい。随分苦しんだ。母様と一緒に一通り見なおしてとじるともう五時過ぎて居たけれども、車で一寸坪内先生の所へ御覧いただきに行く。原稿を膝にのせて車を走らせて行く心持はたまらずよかった。
 御玄関に立って居ると、何か読んでいらっしゃる先生の御声が高く聞えて来る。夜九時頃かえる。二葉亭四迷が三年もかかって「浮雲」を書いたときの御話をなさる。それで自分は小説を書くのをやめてしまったとおっしゃる。若いうちは、馬鹿に書くのが早かったが、年をとって段々考えが深くなってくるとおそくなるとおっしゃった。もう立派な作はもうずっと立ってから出来ると思えとしきりにおっしゃった。

七月二十六日

(水曜)
 昨夜書いて置いた手紙を持たせて瀧田さんへ間宮をやる。
 瀧田さん自身出て来られたと云う。二三日立ってから返事をする。八月九日が〆切だと云うことであった。もうどんなに苦しんでも九日までだからと思う。
 新聞の予告でも見てから安積に行くことに仕よう。『日日』に自分の事が出て居る。別にうれしくもなかった。まして父上の学号なんかが違って居るのを見ると、自分のこととは遠いことのように思われる。この頃になって洋行の話がしきりに出て居る。それはもう確定したこととして話されて居る。とにかくもう二三年の間の様子を見てからと云うことになって、学校の方も選科にしなければならない。九月にならないうちに(ママ)をつけて置きたいと思う。九月は十一日からでなく十四五日から学校に行きたいと思う。

七月二十七日

(木曜)
古市氏より
蜷川、古市、高嶺氏へ
 午前中漢文先生、最中に高嶺さんから電話でおまねき、午後から行く。肩上げを下ろしたりしてあるのですっかり大きく見える。久しぶりでピアノをきく。なかなか上手になって居る。けれどもあの部屋がものは好いのに何だか一致してすべてが互に fit して居ないのであまり好い感じがしない。故母君の御書きなすったと云う英語の手紙を見せてもらう。字も達者だしなかなか自由に書いてある。鹿鳴館時代の産物であろう。夜古市氏から御祝を云って下さる。すっかり学校時代と違った字を書いて居るのを見ると、私ばっかり折釘を並べて居るなあと思う。
 夜蜷川、高嶺、古市氏へ手紙を書き少しゴーリキーの「懺悔」をよむ。
 友達の誰彼れを書きたい一句が浮んで居るがもう少し condense を要す。

七月二十八日

(金曜)
 本田の道っちゃんの所へ電話でいらっしゃいと云ておやりなさる。来なかった。断り位云ってよこしそうなものなのにと皆云って居た。夜松岡さんが来る。私のことを祝ってくれた。もうじき奥さんが又子供を生むのだと云う。生めよ殖えよはいいけれどもなかなか生活に追われることであろう。すべては老いて来る。自分も若いと云いながら死に向って一歩ずつ進んで居ることはうたがいない。何かしなければ実際にたまらないと思う。強い嵐で千葉先生へも行かれず、どこにも行かれなくなって仕舞った。妙に気の落着かない dreamy な日を送ってしまった。
 夜客室の庭をながめた。雨にしずかにぬれた苔と、光る木の葉と、ザワめく風とが、よく調和されて美くしい感じを与えた。初代柿右衛門の香炉は私でもいいのが分る。今の一部の人の求めて居る、ある大きなものがふくまれてある縁であることを感じる。

七月二十九日

(土曜)
蜷川氏より、成井氏より 成井先生、千葉先生へ
 午後になってから中西屋と東京堂へ行く。Childhood, Boyhood and Youth by Lev Tolstoi と The House of the dead by Dostoevskii と『蒲団』を買って来る。「蒲団」は立派には相違ないけれども今の同氏の作品を見ると、少なからずおとって見えるのはあやまりか?「一兵卒」はもう少し深くかわるところであろう。ロシヤの作品は、これと同じ材料をとりあつかって居ても、もっと深い。馬車にのせられないところなども、私はもっと書きたいと思う。ひどい嵐の夜、外へ立って見る、種々な心持になってスケッチを一つかく。氏家氏来訪、あの位の年になって妻を失った人の心持を考える。

七月三十日

(日曜)
 今日氏家氏が自分の養女に或る恋愛的事件を起して居る話をきく。あの位の年頃で、あの位の体で、それは決して徒に破倫な行為とばかりは云われない。決してそれを聞いて愉快な感じを与えられはしないけれども、Passion と云うものがいかほど不可(ママ)抗的なものであるかを思う。そのあとにのこされた小さい子供の運命などと云うものも考えて一つ書けそうになって居る。もう少したってからの材料である。Hがあの誘惑を受けて居やしないかなどと云うことも母は云っていらっしゃる。種々なことが世界には働いて居る。私自身のそばにもある多くの誘惑と苦しみが渦巻いて居る。漸々一人の人間としての苦痛が少しずつ私に迫って来るのを覚える。けれども或る自信が幾分自分を変させて世の中のすべてのことにふれさせようとするのは有難いことだと思う。

七月三十一日

(月曜)
 夕方から錦輝館へ行く。いつもよりよっぽど空いていたので楽であった。一寸も美くしくない人でありながら、さも美くしいということを見てもらいたそうにきどった形ですまして居るのを見ると、若い女に対してよく持つ一種の皮肉な心持が湧いて来る。ありのままでよいのだ。そのままに口をきき、そのままに笑えば好いのだ。何もこんなにかたくまでならずと若さの力は私共をよくかざってくれるものなのだ。又そこいら中に水が出たと云う。
 今日『中央公論』を買って来てかざる。最後のところに出て居る自分の名と作品の題とが、すべてよその人のものの様に思われる。さほどうれしくもない様な気がする。けれどもうれしくないのではない。或る一つの力が私のうれしさをどこかで押えつけて居る。

 四月に学校を卒業したと云うことはたしかに一般的に女達――私共位の女にとって意味のある月だったのだろう。けれども私は送り出されるままに学校を出た。さほどのうれしさもよろこばしさも感じはしなかった。けれども今度私の処女作が『中央公論』に出るときまったと云うことは私の生涯のうちで最も意味のあることである。私のほんとの生活はこれから始まろうとして居る。私の光輝ある生活は、私をそしり、あなどり、或意味に於ては自分達の仲間として共にしなかった愚かな者共の前に始められようとして居のだ、私の戦は始まろうとして居る。私は勇気に満たされて居る。私の鼓動よ! たしかにつよくなれ! 私の頭よ! 強く勇ましく、かしこく働いてくれ。私はこの世界に、自分の誕生日が如何に誇るべきものであるかと云うことを示さなければならない。

 一日 「一條の繩」十四枚
 二日 「盗難」、十七枚
十二日 中公から原稿は雑誌向きでないからとことわって来る。
十四日 瀧田氏来訪中公へのせるかもしれないから百五十枚ほどにしてくれと云ってくる。
十五日 祖先の法事にて、午前坪内先生へ行く。中公からいよいよ秋のにのせると云って来る、うれしい。
二十四日 『日日新聞』の人が来て、記事をとって行く。
二十五日 書きあがったので夜坪内先生へお目にかけに行く。
二十六日 原稿を間宮にもたせてやる。
     この日の『日日新聞』に出て居る。
二十七日 高嶺氏へ行き古市氏から祝をたくされる。
三十一日 『中央公論』八月号に、自分の名と題と紙数がのって居た。

八月一日

(火曜)
 そこいら中が洪水で大変だと云うので、午後から英男をつれて出かけて行く。車にのって、ずーっと田端の方から三河島の方まで行く。ずいぶん気の毒なものである。いやな臭いと殺風景な男女がはさまって居るだけ漸々だと云うようにしてウザウザと動いて居る。丁度千住に入ろうとした所で、向うから子供がかけて来て、ハッと思う間もなく車屋の足の間から向うへぬけてしまった。そして火のついたように泣きたてる。額からタラタラ血が出て居るのが、まだ泥水の一杯あるなかに八月の日がムカムカとてる下に、どんなにいやに見えたことか、車屋は一円とられた。
 大橋まで行って見る。大きないかりが下りて鳶のものや巡査が立ち、人も大勢行ったり来たりして場末の特殊などよめきを作って居る。
 夜父上が雑誌が出来たらあげるところを紙にかきつけて被居いらっしゃった。

八月二日

(水曜)
 千葉先生から御返事を下さる。大変に長い尊いものであった。まことにうれしい。喜びなり心遣いなりをほんとうにして下さることを思うと、ほんとうに何と云ってよいか分らない感謝に満ちて来る。母上もよろこび父上も感服して被居しゃった。
 夕餐は皮膚科の医者と一緒に自笑軒でなさった。S家系統の人にはどうしても Flank に行かないところが多いと思わずには居られない。「戦争と平和」を沢山よむ。そして感服し感激し、驚ろかされた。ますますトルストイは偉く思われて来るばかりである。あれ丈にどうして書けたのだろう? 同じ人間とは云え、私のどこかにあれ丈の力がこもって居るだろうか? そう思うと、この間の日曜附録にあった武者小路さんの言葉、――一つかべにぶつかるとそれを通って又次の壁を見出す人間にほんとうに自分がなれるであろうか疑問が苦しく起る、若しそうでないかと思うと、こうやって生きて居る意味が分らなくなって来る。私の生の目標は失われる。故にどうしても私はそう努めてもあらせなければならない。

八月三日

(木曜)
 大変にあつい。層雲が彼方此方に漂って、はげしい日差しがしぼんだ月見草に暑苦しくよどんで居る。「世界の一隅で」を書き出したけれども気がのらない。どうしてもよく書けないので一二枚でやめにする。こんどの洪水で得た材なので、ほどが立ってしまうと弱くなりそうなので「小さき憂悶者」の先へ廻す。学校が始まるまでには、この二つ丈はまとめなければならない。尾島菊子氏が今年の文展へは驚かせるものを出す、文展には一年に一度一生懸命になってやって見る時がないからつまらないと云って居られるがこれは自分で時を作らないので、秋でも、正月でもを美術上の文展と比較すればよいのだ。何もあんなに只手細工にすぎないようなものを出して若し通ったところでどれほどのそこに意味があるのか?

八月四日

(金曜)
 午後から古本屋へ行く。神保町から駿河台までズーッと屋並みに歩いて見るけれどもどうしてもあんまり好いのがなかった。けれども『世紀病』と、『郷愁』を買って来る。中西屋へより、国男は養鶏の本赤坊へはゴムで手足の動く人形を買って来てやる。中西屋と東京堂のまるで違う空気なども気がついた。
 同じ古本屋でも、人の好さそうな主人が居ると、つい買いたい気がするが、買っても買わなくっても手前の勝手だと云う様な風をした主人が居ると、買いたいものがあってもつい買わないで通ってしまう。
 小僧の中でも感じの好いのを使うと使わないとには大した違いがある。

八月五日

(土曜)
 本田のみっちゃんが来る。別に変ったこともないが、旅行をしたいのに出来ないと云う口惜しさ、もどかしさが気をいらいらさせて書くことも出来ない。

八月六日

(日曜)
 午前おそくなってから坪内先生へ行く。芝居の話が出て面白かった。日本の女優は好くならない、何故なら比較的鼻が低いので横がおが美くしくないから。木下八百子の噂、つまり芸者になる女、須磨子は只単に度きょうがあると云えば(一字不明)えるのだったそうだ。無言劇は或程度まで行くものである。秋田雨雀氏は、まだ気分劇で、舞台の実地のことはあまり知らないと云う話、明治初年のことなども、種々話に出た。帰りに父さまが四かどでまって居て下さったので、そのまま大味氏へ行き、竹葉で食事をして三越へ行く。何も買わず、自分も紙白粉を二つ買って来る。信盛堂で歯みがきと、英男の帽子を買って来る。夜、こうの父親と従兄だと云う浪花節かたりの馬鹿の様な男が来て居た。

八月七日

(月曜)
 Hが小遣位の金がないと云うことで三円かりて行った。それは男の一生涯に対して何でもないことではあるけれども、その理由は私に一種の反感をもたせる。何故書生の身分で人の着る薄羽織なんかが入用なのか、はらう金もないのに何故あんな無趣味な俗なものをひっかけたいのか、私は何にか「自分のもの」を持って居たい。又持たずには居られない。たしかな自我のある人は或程度まで人に動かされない、たしかな心持を持ち得るものである。

八月八日

(火曜)
 千葉先生の所へ行く。天気が照ったり曇ったりして居るのでいやであったけれども、お目にかかればすっかりうれしくなる。甥子さんは男らしいブィビッドな方だ。可愛い。先生のお姉さんは、先生に似た顔をしていらっしゃるがどうしても態度が無躾ぶしつけに見える。坂本さん、蜷川さん、安藤さんなどのお話が出る。それから「人間は毎日のリズムを作るべく生存し、又箇体保存、種族保存を□□(二字不明)たい慾望を持って居るのは生れつきだと思うが、何故そうならなければならないかと云うことを考えると、或る大きな悲哀を感じる」とおっしゃった言葉の中には、人類の運命に対しての或る暗示のあることを感じるけれども言葉にはならない。それは非常に考うべきことだと思われる。けれどもまだ私には分らない。先生の御書きなさったものを拝借して来る。

八月十日

(木曜)
 坂本さんの所へ午後から行く。天気がてったりくもったりして居るので雨がさを持って行く。千葉先生へ上った話なんかをして、かえりに『新訳源氏』をかって来る。水道橋で大瀧夫妻に会う。二人子供をつれて、奥さんは体のいい女中のような風をして居る。何となし重みのない人だ。あんなぞんざいないやな□□□(三字不明)ような風でよく外へなんか出かけられる。私に真似が出来ない。
 夜かりて来た風呂敷に『リヤ王』と、『空知川の岸辺』をかえす。『リヤ王』は沙翁全集を買ったので二冊になったから送ってあげる。
 あの先生の訳は矢張り或点に於て意に満たない所が多い。それかと云って、久米氏の訳もなんだかそぐわない気もするが。

八月十二日

(土曜)
 今日午後五時頃から瀧田氏が来られると云うことだったが、急に用事が出来て行かれないと手紙で御よこしなさる。唐紙に夏目さんに少し似た字であった。母上、夜父上とどこかへ御いでなさる。瀧田氏の方は前よりは大変よくなったが、句々の上に不満の点もあるが、それをなおすと特徴がなくなるから、そのままにしてもよいかと思うが、あした八時頃電話をかけると云うこと、毎日毎日のびて居るのであしたの正午頃どうしても行こうと思って急に荷物をつめたりする。独りでせかせかして居ると、吉田(一字不明)子氏から電話で写真を見せて――かしてくれと云ってよこす。封筒に入れてあて名を書いて置く。何だか天気が悪い。あしたは雨になりそうだ。

八月十三日

(日曜)
 雨は降らなかったけれども天気はあつ苦しく工合が悪かった。本田の道ちゃんが送ってくれる。家を出るとき、久米氏来訪「今度貴女の小説が、中央公論へのるってどうもほんとうにありが(ママ)とう」と祝ってくれる。暑いときの三等の長旅はかなり辛い。白河頃になると、上野からつづけてのって居るのは、国、道、私丈になってもう周囲はすべて東北の寒さにいじけた者ばかりである。薄暗い灯かげに影を大きくゆらしながら、運ばれて行くと、旅情と云うもの、旅のはかない情なさが、しみじみと胸にこたえた。右の手がなくて左の手で右の手通りの癖をする男と、法科の学生で讚美歌ばかり歌って居た男の印象があざやかである。

八月十四日

(月曜)
 非常に早く起きた。まだ露のあるなかを一郎を訪ねる。鳥の小屋の裏を廻って行くと、畑でしきりに何かして居る禿頭が見える。草花のかげにかくれて立って居る私共を見つけると、非常によろこんだ。種々話の末天竺ぼたんが一本一銭で今日は九銭小遣があると云う。母上からの二円を遣る。かえりにふり返って見たら包みをあけてうれし笑いをして居た。可哀そうに、あの男もあんなうすれ女房を大切に守って居るばっかりで、息子のところへもかかれず、貧乏な情ない生活をして居る。もう田舎らしいのびのびした心持が体中にあふれて来る。池の周囲に夕方行って見たり、馬を洗うのを見たり、する。夜は、久振りで三人並んで床につく暖いしずかな心持であった。田舎、祖母及びその他の人々が今までと異って見えて来た。

八月十五日

(火曜)
 夜町の活動へ行く。売店に居る女で、非常に私の注意を引いた。大変にうすでな体をして、黒地の着物に白地の帯が大変ここいらにはめずらしく、いかにも妾風な女であった。いやに太った芸者や雛妓が多勢来て、「そーけえ」なんかと云いながら煙草を吸ったりキャラメルをなめたりして居た。もう幾年前のだか分らない川島武夫の後日物語に大変興奮して、泣いたり、「まあー」と歎声をもらしたりして居るのを見ると棧敷十八銭の小屋の気分が遺憾なく味われる。

八月十六日

(水曜)
 坪内先生小此木先生、石川先生へ出す。小此木先生は上州の榛名に行っていらっしゃるとの事、又きっと岡田先生と一緒に行らっしゃったのだろう。坪内先生の所へは、ゆうべ見た女のことを書いてあげる。
 石川先生の所へは、どうしても通り一ぺんの時候見舞ほかかけない。手紙でも何でも、そのあげる人によって書けたりかけなかったりするものだ。祖母や高村の婆[#祖母運の家の隣人]が、『読売』の「天一坊」を一生懸命によんで、ほんとうに悪智恵たけた男だとか何とか真面目な顔で話し合って居る。
 刺戟がなさすぎて、却って不安な様な心持になって来た。

八月十七日

(木曜)
 この頃自分の内部の情熱に圧迫される様な苦痛を感じる。早く、静かな感じですべてを見て行かれる心持になりたい。その意味で私は二十六七の年配を希望するのである。
 久米氏に対してもお互に静かな友愛で交って行きたいともつくづく思う。あれ丈の材のゆたかな人に、いくらかでもつきあえる機会はありながらつき合わないで居ると云うことも辛いけれども、こそっと会ったりしなくなった――出来なくなった自分の心に対して、ある安心も感じる。執拗なH[#本田道之]は、どこまで私について来るつもりなのか、あの人の「弱者の専横」(久米氏の言葉)はどこまで私を苦しめるつもりなのか、あの人の価値は段々下って来る。

八月十八日

(金曜)
 東京に帰って又、すぐHのあの哀願的な目に見られなければならないと云うことは、たしかに私にとっては苦痛である。あの人の弱々しい好意、執着、すべての点に於て conventional な要求願望を持って生活して居る人と、自分の間には、どうしても内面的の隔りがありすぎる。一致するとか云うことは、考えられもしないことでありながら、送り狼のようにひっついて来られるのは、ほんとうに苦痛だ、たまらない。下らないことに嫉妬したり、私を支配しようとしたり、権威のあるようにしようとされると、憎しみを感じる。

八月十九日

(土曜)
 天気が大変暑い。目をさますと、坂本さんと母様が二つよこして下さる。坂本さんは、モーパッサンのよろこびそうな処女の病的心理を遺憾なく現わした手紙をくれた。面白いことである。小雨が降る。小学校へオルガンをかりに行った。留守番の男が大変気味悪い顔をして居た。宿直の教師がまだ二十一二の紫メリンスの帯をした男だった。教室がきたなくよごれて、種々の感じをおこさせた。一つ材料を得たよろこびにうたれた。非常に書きたい気がして居るが、どうしても気がまとまらない。昼頃坂本さんへ、手紙をもらったについて心持を書いてあげる。高嶺さんが、赤倉からよこしてくれた手紙とはまるで違って居る。天気が曇ったり雨が降りそうになったりして居るので、心持が沈んで、静かな裡に居るのが苦しかった。

八月二十日

(日曜)
 こうやって離れた処へ来て居ると、東京がほんとによく思われる。東京が恋しい、どれほど暑くても、さわがしくても、静かな書斎さえあれば、東京よいところである。『文章世界』の増刊をよんで見ると、種々な感に打たれる。今までとまるで違った顔ぶれで、吉屋信子氏丈がもう投書家の域を脱した様な体裁で、「赤き世紀の人々」を出して居た。或る暗示はたしかに与えて居る、技巧もある程度までは行って居る。けれども女性的な繊細さ、空想さはなやかさが幾分きざなと思わせる点もある。渡辺ゆめとが死んだと書いてある。少女讚美者として種々な意味で働いて居た人だったのにと思う。誌上のちっとも知らない人ではあったけれども、私は、まだ成長しきらないまま逝った人の心を深くかなしむ。同情する。

八月二十一日

(月曜)
 いよいよ猪苗代湖へ行くことにする。一重帯や何か買おうと思ったので一足先へ車で行くと、お祖母様の車が、牛肉屋のかどで、自転車とぶつかって引っくり返ったと知らせて来る。びっくりして車をもどして、医者をよばせたりする。人だかりがするなかで、つらい思をした。中止しようとしたが何と云っても御ききなさらずに一汽車おくれた二時半頃ので立つ。大したことはなくってよかったが、宿屋が非常にきたなくて、たまらなかった。貧乏そうな宣教師風の女達が――西洋人――来て居た。夜ランプの下で、買って来た「野の花」をよむ。夜具がきたないので、私は羽根ブトンのかさ(ママ)に入ってねる。湖の景色はかなりよかった。
 夜中に大地震があって喫驚した。宿の女房が裸体で烏路烏路うろうろして居た。
 入日の景色と水浴する馬の群、渚で顔を洗った心持が非常によかった。

八月二十二日

(火曜)
 雨が降る。居てもつまらないので立つことにする。四人で一円六十銭茶代一円やると、礼に西瓜とブドーをよこした。娘が荷を負うて送って来る。停車場わきの茶屋――油屋のおやじの様なのが居た――に休み、坪内、千葉、東京の家へと絵葉書を出す。ステーションで一人久米氏そっくりの大学生で同じような人を見る。夜、久米氏の母上見え、種々話が出、いかにも久米氏を此上ないもののように思って居られる様子がありありと見えて面白いことだと思った。家へ帰って非常に落付いた安心を得て、皆で喋りながら心持よくねた。小西の風呂に行く。小供がすき見をするので気が気でなかった。

八月二十三日

(水曜)
 雨が降って居る。わびしい。東京の町に居てさえ、どことなく力づよい心持がするのを、こう云う山中の淋しい淋しいところに居るとすっかり心持が滅入ってしまう。山の姿も見えず、一体の霧雨に掩われたところに、しょぼしょぼした笠の百姓が歩いて行く。朝母様の所から手紙が来て、国男の夢を見て心配して居るとか鳥の工合が悪いとか云っておよこしなさったので、すっかり帰る決心をしてしまった。あんな理智的な母上でも旅先に居るこどものことは安心出来ないと見える。有難いことだ。立岩の夫人見ゆ。高村の婆西瓜を持って来る。立岩夫人はなかなかの利口もの。久米氏夫人の妹らしき人なり。姉妹ともこの村にない学士の子をもって、鼻がさも(ママ)そうに見える。

八月二十四日

(木曜)
 今日急に東京へ帰る。十一時四十八分の急行だったので、少し空いて居たので行ほど苦しいことはなかった。横須賀の海軍病院の兵が居て、傍のきたならしい子に面白そうにふざけて居るのを見たら妙に、淋しい心持になってしまった。汽車のなかでよむようにと思って、幹彦さんの、『舞扇』を買いに、万嶽堂によると、『女の世界』に自分のことが出て居ると、店の小僧が冷評するように云う。王子あたりに来ると、ほんとうに東京についたと云う愉快な心持になった。ステーションの雑沓も却って、心持がよく、風呂場に被居っしゃる母様の顔を見たときの嬉しい安心した心持は口に云えなかった。私の敷布団が新しく出来て居たのがたまらなく家らしい心持を起させた。

八月二十五日

(金曜)
 今日急に間宮が脚気だと云って暇をとり、九時五十分発の汽車でかえることになると同時に「こう」も亦友達を送って来ると云って出て行った。夜十時になっても彼女はかえって来ぬ。とうとう二人は馳落ちをしたことと分ったのである。夜母上は小田原へ電話を御かけなさると夜十時頃こうは家へ一度かえってから又どこかへ行ってしまったことが分る。私は、あんまり静かに馳落ちと云うことが出来たに喫驚したと共に、互に弄び合って居る心持をしみじみと彼等の上に深めた。結局のところ二人はどうするのか。互にそうしたからそれが彼等一生の幸福であると思って居ないのは明かでありながら……。私の居ない間に『科学文芸』から原稿をもらいに来たそうだ。

八月二十六日

(土曜)
 今日母上日本大学へ電話を御かけなさると、三月から一度も学校へ来ないと云うことだった。どうりで、おそくなろうがどうしようが平気だったと今思いあたる。活動へでも毎晩行って居たのだろう。私が気のどくだと思ってやった電車の切符はどこへ行くようにつかったのか。「人間はだましやすいもんだ」と彼は微笑しただろうが内心の苦痛は、かなり強かったのだろう。今になると、あの女と、四角ばった辞儀をする間宮との間にどこかで操つられて居た運命の皮肉を感じ、自分自身の位置、態度に対するたまらない不愉快な心持も湧いて来た。夜は、「死の勝利」を一寸見た。ジオルジチの心持が、或意味に於て、今までよりはっきり分った。

八月二十七日

(日曜)
 午前中、父上から来た電報為替をとりながら、古本みたいな『あらくれ』を四十八銭で買って来た。暑い、蝉がしきりになく、Hがいかにも会社員めいた風をして芝の法事へ出かけて行く。ゆうべ赤坊があんまり泣きたてたので家中の者の神経がすっかり鋭くなって、起きるとすぐいやな心持を味わなければならなかった。夜は割合に涼しい。家中の手が足りないで、皆がせかせかして居るのを見ると、自分ばかり落付いて居る訳にも行かない。今日はしきりに製作欲が動いて「彼方に遠く」を書き出す。メランコリーに沈んだ様な筆致で書けそうである。今月中には書きあげたい。コレラが段々拡がって来る。昔モッコに入れては川へ流した「ころり」の惨酷な死方は今ものがれられない。

八月二十八日

(月曜)
 今朝、英男がはいた。母様初め皆が、時節柄なので、よけい好い心持がしなかった。随分と暑い。大瀧氏夫人来訪、姉が死んだので、毎夜死んだ姿や声をきいて眠られないとのこと、又その人が非常に信用して居た医者が丁度その悪いころ北海道に居て、或夜非常に淋しい苦しい気がしてどうしても眠られなく、夫人には聞えない寺の鐘の音は、しきりに耳元で響いて一晩中坐ったまんまで明したと云う。乃木大将が愛子の幻を見られたことから見ると、或る霊感が距離の遠近に拘らずエーテルの震動によって、伝えられると云うことを信じられる。坂本さんから Sunflower の大変好い絵葉書を下さる。幽霊は人によって無いと断言出来るものではない。

八月二十九日

(火曜)
 暑い。今日あたり『中公』の予告が出るだろうと思って居たのにまだだった。朝珍らしく早く起きたので午前中にも、書くことが出来た。日はよく照って居るけれどどうやら秋らしい涼しさが立ち迷って居る。
 午後から何だか気分が悪くてたまらない。どうしたのかと思って床に居ると、急にはきけがついて、もどしてしまった。胸の底から出されるような涙にかすんだ目を透して、窓から青い木の葉が妙にキラキラして居る。コレラが盛なのですっかり気になって来る。でもまあ安積に居るときでなくてどの位よかったか分らない。夜細井氏に見てもらう。何でもないそうだが一寸寒気がしたりしたので、又一昨年のようになりはしまいかと思うと、たまらなく不安になる。しなければならないことはうんとある。

八月三十日

(水曜)
 一日ねてしまう。夕刊に『中央公論』の予告が出て居たのを国男が見つけてくれる。

八月三十一日

(木曜)
 今日父上御帰京好い工合に海も平らだったそうで何よりだった。朝、どこの人だか分らない男から手紙をくれた。本のことについてだ。中公に電話をかけて、原稿をかえしてもらうことと三十部送って下さるようにとたのむ。二時一寸すぎて車夫に持たせて下さる。早速手紙をつけなければならないところへ書いて送った。漸々起きたばかりにかなり頭も体もつかったので苦しかったけれども、三十冊の本がつまれたときに、自分の頭と能力に対する感謝と、何とも云えないうれしさがこみあげて来た。ほんとうにうれしかった。ありがたかった。この一日ほど私の一生にとって意味あるときは又とあるまい。
 私の第二の誕生日であり、命名の日である。

 私の第二の誕生の月と私は呼びたい。
 この月のいかに意味深く尊いことであろう。私の希望と、歓喜と、不安、責任の感が、のこりなく盛りあげられたのはこの月なのである。私が死ぬときは八月の中ではあるまいか。私はこの真に私の生活の始まった月が又全生活の幕の閉じられる月たらしめて、何の遺憾も感じないほどこの月は尊いものである。
 太陽の栄ゆる八月。私の生命の燃え立った八月。

二日 千葉先生より大変長く立派なお手紙をいただいた。
六日 坪内先生へ行く。種々のお話を伺い、中央公論から電話で十日までに見て置いて、十一日に会いたいと云って来る。斉藤さんと云う人から電話がかかって来たそうだ。
八日 千葉先生へ行く。坂本氏から手紙。
十二日 瀧田氏から手紙が来る。来られない、明日午前八時から八時半までの間に社に電話をかけてもらい来てもらうかもしれないと云って来る。同じ日小寺氏から電話でお目出とうとひやかし。
十二日 『国民新聞』の吉田(一字不明)子氏から電話、写真を送る。
十三日 あのまま、少し瀧田さんが手を入れてなおして、そのまま出すときまり、正午十五分すぎ安積へ出発。
二十一日 猪苗代行、二十四日帰京 二十五日―二日間宮、こう駆落ちす。
二十七日 「彼方に遠く」起稿、三十日夕刊に予告出、三十一日発行、諸々へ送る。

九月一日

(金曜)
 坂本氏、安藤氏、坪内先生から手紙をいただく中に石井きぬ子と云う大正二年度の卒業生が非常に丁寧に又親切な同情をよせた手紙を下さった。早速手紙で返事をあげて置いた。夜は、大変に久しぶりに涼しく虫の声も落着いた心持できかれる。「彼方に遠く」は少し書いてあるが、どうもうまく出来るかが疑問のようである。けれどもこれから又書きつづけて見よう。「貧しき人々の群」よりはどんなにしても上手に書かなければならないように思われると、幾分気がおくれると云おうか気が張ると云おうか、かるがると書きぱなしが出来ない。それを自分は尊くも亦一方には恐ろしくも思う。体の工合はほぼよい。

九月二日

(土曜)
 小柳八重子と云う女名の男らしい人、古市氏、堺先生、小寺氏から電話。朝、田村松魚氏が来て、大変ほめて居てくれた。夕方から坪内先生、小此木先生へ車で行って来る。中央公論から留守のうち、百五十円持って来てあった。小此木先生は大変よろこんで下さった。榛名は大変好いところだと云う話だからどうかして行って見たい。弟達が大きくでもなれば、一夏行って居られる。古市氏の性格が分らなかったが、今度の手紙で略分ったような心持がする。少し考えることがあったので、長い手紙を出して置く。百五十円もらったところでそう大してうれしくもないけれども長い間欲しい欲しいと思いながら買えないで居たのが少しは自由に買えると思うとそれが一番たのしみだ。

九月三日

(日曜)
 午後になってから母上少し工合が悪いようだなどと云って被居っしったが大したことではあるまいと思って居ると、夜中の二時頃、急に胃痙攣だと云うので、大さわぎをした。それでも大したことでなくてよかった。
 一日何も食べずに被居っしゃる。お雪も工合が悪いと云って来ないので大騒動になる。それでもどうやらこなして三度の御飯も止りなく食べさせたかわりにつかれてしまった。夜になっても日記一つ書けない。働くとどうしても気が落付かない。父上も一日家に被居しゃる。床のわきで退屈まぎれに百五十円の使道を考えて、直に決定した。下らない事だが来年になって見ると、興味あることになる。
 50貯 15御馳走 7人 2, 下の者へ 6円千葉小此木先生 9. brothers 10予備 50本

九月四日

(月曜)
 邦枝完二氏が『時事新報』から来る。感じの好い顔をして居られる。唇が恐ろしく誘惑的な人だ。むっちりと厚みのある、それで居て小さい唇の下唇には、中央に浅いくくりがついてよけい美くしい。モウパッサンやゾラが書くといいものを出来すに相違ない。写真をうつして行かれる。戸田から女中を一人かしてくれたのでよほど楽になる。今居る家の女中より どれ丈いいか分らない。何ぼ女中でも獣のようなのはたまらない心持がする。女の柔味はなくてもべたべたしないなら好いけれど却って。
 夜、『新訳源氏』と、『三人』ゴーリキーを買って来る。英男へ一円五十銭の fountain pen をかい国男へ三円道男へ二円五十銭やる。
 間宮から母上を悪人に仕ようとする手紙を父上によこした。読んで見ると怒るとか怒らないとかの程度をこえて、罪に混乱しそれを掩おうとする人間のあわれな、しどろもどろの姿ばかりを見出せた。人の心理は恐ろしいものである。カメレオンよりも変化し醜くなり得る。
 中央公論から原稿を返して来る。上にケシのカットなどかいてあるのが面白く思われる。

九月五日

(火曜)
 母上まだ床について被居しゃる。目が窪んだので大変凄くなって来た。『時事新報』にのって居る写真はよくとれて居る。瀧田氏来訪、木下杢太郎氏など、内田魯庵氏が大変ほめて下さったそうで、再版を千部すり、第三版になりそうだとのこと、うれしくないでもない。それから正月号にまた百枚か百五十枚のものを書いてくれとのことである。明日坪内先生の所にあがって来ようと思う。これからの努力はうれしい。涼しくはなり、気はしまるし、どうぞしてうんと気張ったものが書いて見たいと思わずには居られない。谷崎氏の亡友で『新小説』発売禁止。

九月六日

(水曜)
 甫守氏蜷川氏より来信、黒田朋信[#黒田鵬心]氏より『趣味の友』への原稿をもとめられるけれども、ことわることにする。午後から坪内先生のところへあがろうとしたが 夕飯の仕たくにさしつかえるのでやめ、小杉と云う書生が目見えに来た。体の大きい、どっちかと云えば正直そうな男である。何か云うたんびに頭を下げ下げするので、私はいやになる。西脇氏へ『中公』を送り高松氏、大瀧氏より電話、婦女新聞社から英婦人の名を教えて来たから小此木先生へ葉書で御ねがいして置く。母上珍らしく食堂で御食事をなさる。ゆうべよなか近くなってから考えた「鈍色の夢」の筋書を母上にお見せする。どうかしてよく書きたい。文章も洗練し、暇があるのだから三度位なおすつもりでやるのだ。アッと云わせるものが書きたい。千葉先生へなかなか上れないから手紙をあげようかとも思う。

九月七日

(木曜)
 鵬心氏へことわりの電話をかけると、それなら十一月の特別号へ出してくれと云って来る。坪内先生の方へあがっておたのみして来ると云うので、坪内先生の方へあがっておことわりをして来ようと云って居る。ほんとうにどうにかして、正月にはなお好いのが書きたい。石井きぬ氏より来信、何とか云う人が Japanese magazine の上にのせるのだから写真をくれと云ってくる。外国に行ったりするにはたのんで置いた方もよかろう、などと思う。向島へ車で行って来る。先の風雅な趣は一寸もない。あの伯父[#西村一彰、母葭江の兄]の性格が遺憾なく表われて居るような庭になった。亡き祖父[#西村茂樹]は、どんな心持がされるだろう。まり子氏はすっかり下女的なすべての風になってしまわれる。教育と周囲の状態はおそろしいものである。夜はかなり涼しい。「鈍色の夢」はこまかいプランをたてて見よう。

九月八日

(金曜)
 婦人雑誌社から本を送ってよこした。「□□□(三字不明)生」と云うすさまじい名の人から、おそろしいかたい手紙をよこした。久米氏に『新思潮』半年分を送り、午前中東京堂へ本を買いに行って来る。あまり暑さがきびしいので、脳の中枢が痛んだような気がする。妙にイライラして苦しんで居た。夜国男が漢字をさらって居るのに邪魔をすると赤坊を叱ったら、ズーッと体をまげて国男の顔をのぞき込んで、様子を見て居る。あんまりみじめなので泣けてしまった。それが却って心持がよくて、夜は「金剛草」をよんで見る。なかなか私共にはかけないものだ。パナマ帽の(一字不明)のことを考えると妙に皮肉な滑稽を感じて笑わずには居られない。心持が大変楽になった。あんまり毎日暑いので体が悪くなって来たことが自覚される。こんな工合では、正月に書けるかなどとも不安になって来た。伊東忠太氏へ『中公』を送った。

九月九日

(土曜)
「鈍色の夢」の参考にもと思って、「処女地」を読んだ。そしてすっかり感服させられた。涙がこぼれそうになった。「その前夜」の中の女性とこの中の女性、ツルゲーネフの書く女性は何と云う尊い強い目覚めた所を持って居るだろう。非常に多くのためになる点を得た。有難いことだ。自分の恋、いつも自分に只苦笑をさせるばかりなあとを残しては消えて行く恋に対して、妙な心持にならずには居られなかった。私自身の又の件と仕様と思う。潔に云わせる言葉の多くが私の頭に一杯になった。「処女地」を読むと、自分の生活ははたしてどこまで真率なものであろうかと云うような疑問や運命とか生・死に対する心持が、一層深い或方向に向って動いて行くようなのを感じる。私は非常に厳粛な心持になって涙がうかんで来た。

九月十日

(日曜)
 午後から三越へ写真をうつしに行く。丸善により『我輩は猫である』を買い、琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)洞による。(一字不明)人の女は、只ものではない。藤井氏の茶托でほしいのがあった。父上と一緒に坪内先生にあげるものを買うのが目的であったがとうとう見つからなかった。成井先生の姉が来る。所謂好い人である。感じはよくない顔をして居る。どっか梟を連想する。古道具屋から、オランダ製の花瓶を買って来た。色と形とよくととのったものだ。三十五銭はやすい。久米氏から手紙が母上に来る。来月の『新思潮』で批評をしてくれるらしい。邦枝完二氏から写真と手紙をくれる。今日とったのとはまるで異って居るのでそのときの気分や何かと云うものは面白いものだと思う。敦子氏より葉書をくれた。
「鈍色の夢」はどうしてもツルゲネフの影響をうけるらしい。とくに潔の形が非常に頭に描かれて居る。どうにかして好いのが書きたいと思う。『美術週報』に好い批評が出て居た。

九月十一日

(月曜)
 今日は華子の三年祭である。考えて見ると早いものだ。いつとはなし、時はすぎ日はたって、三年目になって居ると思うと早いものだ。妙に種々の追憶も湧いて来る。
 神官は余り力がありすぎる。或る意味に於ては相場師の様な人だもんで、位置があやうくなって居る。神官は安積の宮本さんの様な人でなければ神官はつとまらない。あの眼鏡からして神官ではない。「我輩は猫」を読む。どうも今の夏目さんの作品から見るとまるで違う。迷亭の駄語にはあきも来るし、又あんまり皮相すぎるようでもある。すべてのことを皮肉に茶化して居るところにあきを感じさせられる。とにかくまだある拘泥したところがある。今ほど心持よくないものである。お雪は何と云ってもああ云う稼業をして来た丈あって異性に対すると、非常に passionate になって来る。
 山尾がついそこで、間宮に会ったと云う。あれもつまりは馬鹿な男と云うのだ。

九月十二日

(火曜)
 青山へ母上と英男と行く。電車の中に居る女を見ると、皆後姿だけ美人が多いのに驚く。私の様にまっ平な帯のしめようや形つきをして居る者が居ない。かえりに芸者がのり合わせた。ずいぶんおひっぴで、安い香水のにおいが臭かった。朝の内坂本さんのところへ行って、いろいろ話をして来る。あの人もこのごろはほんとうによくなって来た。夜関如来、田村俊子の夫君松魚氏が来る。何だか活気のない、衰えたる何々とか云いたいような言葉や動作をして居られる。如来氏の笑うのは、喉で吹子をふくようで不愉快だ。

九月十三日

(水曜)
 静岡の何とか云う人から手紙で廻覧雑誌に何か出して呉れと云って来る。只一枚の原稿紙にかかれた一寸した手紙ですぐそれに投稿する者があると思う心持は自分には想像出来ないものである。坪内先生へは二十円の丸善の切手をあげることになり母上行って下さる。十円は自分で出す。坪内先生の御話の要点、一、外国へは二年以上居ない方が好い忘られないため、二、浮世絵日本古代の美術を相互に知り歴史の研究、三、漢文は本でよむこと、四、学校より教師について英語を学ぶこと、五、明後日次の原稿の箇条書きを持って来ること、などであったそうだ。
 夜、清野暢一郎氏より来信、あんまり真率に親切に書いて下さったので、すまないような心持になった。ドストイェフスキーをよんで見ろとまで云ってある。千葉先生の経験的人生と、生物学□□(二字分空白)的倫理観をよむ。

九月十四日

(木曜)
明日より無名会
 午後院展を見に行く。七夕は好い胚種を持って居るから一息の所、貧者の一燈は題名にまける。盆おどりは女性的、朝ぎり、砂丘、南島はよかった。樗牛会の賞を得た川端龍子の霊泉由来は分らなかったが西洋画で、今関啓司氏の風景には、日本画の影響をうけたらしい特色を見出せた。乳しぼる家は、うまくはないが、色調に共鳴を感じる。業火と寂光の都は私の心持にはうつらない。彫刻では泣く子の顔を一刀ぼりにして、筋肉の movement を想像させられ、鐘はあんまり技巧的すぎる。ああ云うのはこのまない。眼は非常によかった。あの姿が忘られない。春風駘蕩たいとうには、超然としたところがあっていやみげが少ないらしい。父様の御なかの工合が悪くて、機嫌を悪くして被居っしゃる。夜は「鈍色の夢」を少し考えて見る。

九月十五日

(金曜)
明日午後十二時半までに小此木先生
『日出新聞』の石井幸平と云う人が来たが、会わなかった。すりつけた眉をしきりに指でさわって居るそうだ。千葉、坪内両先生、古市氏より手紙、又雨が上ってあつくなったので何も出来ないような気がする。聖フランシスの「小さき花」を少しよむ。非常に心持のよいものである。その極度の謙譲は、私にはよく分らないけれどもあるなぐさめは得られる。夜は何と云っても涼しくなって来た。「鈍色の夢」に関して少し考える。千葉先生のところへ御返事をあげたいと思ったけれども、十七日午前に坪内先生のところへあがるのに、少しは考えもまとめて置きたいと思うので何だか落付けない、題も「鈍色の夢」は何だか虚無的でいけないから「彼方に遠く」としようかしらんとも思う。

九月十六日

(土曜)明日午前坪内先生
 小此木先生へ母上と一緒に行って、学校のことや、外国行のことを御相談する。皆賛成して下さる。どうとでも早く行くのは大変よい。学校をやめてもその方がどの位好いか分らないとおっしゃる。先生のことや、本のことを御相談して来る。母上は松岡へ行かれ、私は順天堂の藤谷氏に会い薬をもらい中西屋で本を買ってかえる。皮膚科の六〇六の注射日などは、実にたまらない。そんな人達の居るなかに交って待って居る間は実につらかった。一種の恥辱を感じてしまった。青木に会う。如何にも看護婦長らしい物やさしさのかげに病人を手中にあつかうにならされた冷淡さがあらわれて居る。かなり無遠慮にさぐる目をつかうのも彼女の職業のさせることだろう。何だかいやな心持がしないでもなかった。『行人』と『罪と罰』を買って来る。『行人』の装幀はかなり好い。

九月十七日

(日曜)
 坪内先生にあがる。見ていただきこまかい御注意をうかがう。歴史などの話も出てグリース史をかして下さる。「鈍色の夢」の筋に関しての御意見
一、非常にアンビシャスなもので、勇気をもってやって見れば立派に出来れば大したものだ。
二、庸の助を現在的に出すこと、浩の対照として、お咲を働かせ、おらくをいかせる。
三、孝の進の履歴をもっとよくして、浩に遺伝的好い気持のある様にすること。
四、浩の境遇よりうけたる精神上の変化並びに異性に対しての心持を出すこと。
五、主要人物事件以外をなるたけぼかすこと。
 めずらしくHが来る。相変らず dull な顔をして、気力のないこと甚しい。何だか心持がどうしてもしっくりしなかった。あのまんま□□(二字不明)帯でてらされて行う(ママ)だ。

九月十八日

(月曜)
明日午後七時まで小此木先生
『死人の家』と、『死後は如何』を云いつけてやる。あついので買いに行くのも、おっくうである。 Cranford を少しよんで、主な人物をこまかく書いて見る。お咲の容貌がどうしても明かに目に浮んで来ぬので、気になって居る。どこかへ行って見よう。モデルの顔はあんまりみっともなさすぎて、遺伝的に好い家だなどとはどうしても思われないのである。夕方直行さんが来る。大変ふけて見える。体つきが松岡さんに似て居て、口の表情がFに似て居るので非常に不愉快だった。髪の毛は好い。頭もかなり好いらしいけれども、どこかに自我のはっきりしないところがありそうだ。どっしりしたところがないと思われる。夜芝居の話や何かが出る。無名会の「罪と罰」もコレラがこわくて行けそうにもない。又何んぼ芝居が見たくてもコレラ奴にとってころされるのも下(ママ)らない。

九月十九日

(火曜)
 小此木先生へ行き、種々学校の話や、書いたもの、これから書くものについて御話をうかがって来る。ボイド先生にでもきいて見るけれどもいそがしいからどうだか分らないと仰云しゃる。『ユーモア十篇』を持って来る。訳しようが俗なのでさほど興味も持ち得ない。もう少し飄然ひょうぜんとした、あくぬけたところがなければいけない。心から人を笑わせるには、ああでは出来ない。マークトゥエンはあんな訳しようをされて、どんなに恨めしやと思って居るかしれない。直行さんがかえる。「死人の家」を少しよむ。心を動かされることが多い。あの笞うたれることをおそれるあまり、その前夜に、それ以上の罪をおかす者の心が分る。どうしてもロシアには大きいところがある。偉大になるべき分子が非常に多く蔵されて居る。やがて文明の先達者となる北方の民の現在の潜勢力に畏怖せよ。

九月二十日

(水曜)
 夏目さんの「行人」を読む。まだ少しのこって居るけれども二時すぎまで一生懸命になってしまった。頭が疲れた上に興奮したので、床に入ってからも少し長い間眠れなかった。毎日あつい。随分残暑の長いことだ。けれど流石に夜になると好心持になって来る。屋根裏で仕事をして居る大工が真裸体で居る。このむしむしするのに気の毒なことだ。下の座敷へ塵が一杯落ちて来るので、勉強部屋の本箱に入りきれない(一字不明)だけ子供達の部屋わきに持って来て、英男の机をかりる。如来氏大理石にほる字を書いて来られた。

九月二十一日

(木曜)
 昨夜十二時すぎてから長く本を読んで居たので今朝はいつもよりすっかりおそく起きた。そして、北原白秋氏が私にと来られたのを、御帰ししてしまったと云う話をきく。おきのどくだった。 Cranford を読む。なかなかよく書いてある。ツルゲネフの散文詩を読んだときから今までこの位面白いものはよまなかった。なかなか感情がこまかい、ユーモラスで女らしいつつましやかさのある文である。非常に暑い。けれども五時頃になると涼しい風が吹いて来たので、しきりにどこかへ行って見たくなって来た。けれども出てからがいやなのでやめることにする。段々私の頭に大変好いときになって来た。河本さんのところへ手紙を出す。「死人の家」をよむ。どうかして頭が少しつかれて居てさほど感興がのらなかった。『時事新報』の写真部から先とった写真を送って来てくれた。

九月二十二日

(金曜)
 北原氏より書面で「貧しき人々の群」を単行本とすることについて云って来る。奇麗な本として出すのもわるくはないがあまり小さくもあり又雑誌に出したばかりなので気がのらない。けれどもまあ坪内先生にも伺って見てと行く。行きに区役所へ水道のメートル保管証に印をおしによる。自分も気が進まず、必要も感じないなら止めたがよかろうとのこと、マークトゥエンの話など出た。帰りの電車で、まるで呉服屋の云うなりな風をした婦人に会った。自己をまげ従順にならされて居る女は、身のまわりのように、自分が主になってしなければならないときに、出来なくなるらしい。小田切の直行氏夜来訪、種々のことを話す。概して実際的と云うべき人だろう。

九月二十三日

(土曜)
 小雨がして居る。三越の彩壺会へ行った。女房をなくした車屋にのって行ったがよっぽど性質が変って来た。悪くなった。来るのが不愉快なようだ。岡田信一郎氏に先ず会う。大変工合が悪そうだった。読売の下妻つまとか云う人が来て、写真をかりて行った。石井きぬ子氏に会う。おだやかな美をもって居る人だった。堀氏に会う。機械学士だそうだけれども随分皮肉な人らしい。あのあごの山羊髭が皮肉なのだ。柿右衛門鍋島、古伊万里は好い、が九谷はどこと云うことなしに俗なものだ。夜 parents の間に小さい quarrel があった。 Cranford を少しよむ。八時頃からねむくなってしまったので一息ねて、十時頃起きて又訳して十二時ねた。時候のかわり目のどうしたのか、このごろは、よるになると、なやまされてしかたがない。どうかして静かな心持でねつきたいものだ。泣きたい様だ。

九月二十四日

(日曜)
 昨日のつづきの雨がまだ降って居る。 Cranford をよむ。『読売』の日曜附録にヨネ野口氏のジョージ・ムーアに関して或る意味に於て遊蕩文学を讃賞して居られる。若し若さをとりもどし、生活の悲哀倦怠をとりもどすことが出来れば、遊蕩文学もいいではないかと云うのである。一方の真理である。全然肯定することは出来ない。牧水氏の「立秋雑記」は心持よくよまれた。彼方の歌に表現される気分は、散文でもかなりに出て居る。三越へ母上と行く。佐藤氏夫人に会い帰りに小此木氏へ行き、あしたボイド先生のところへ行くことをきめて来る。大変に涼しい、もう秋らしくなって来た。小此木先生のところで富沢先生に会う。話によれば関先生は結婚して家をもたれ出目金だなんかと云って居た久保田先生も副牧師とかになって地方へ行ったそうである。僅かの間にいろんな風になる。夜は涼しく――寒いほどであった。

九月二十五日

(月曜)
 聖マリア館へ行く。ミスボイドは学校で見るより、家で見た方がどれほど好いか分らない。白い着物に黒いリボンのバンドが美くしかった。別にこまりもしなかった。金曜の一時半から独りの会話をしてもらうことになった。ウーレーは、早口な幾分遠慮をして居るらしい可愛い人である。皆感じの好い人ばかりだ。The prisoner of Zenda を読むと云うので買いに行く――中西まで行ったがなくて、ストリンドベルイの『痴人の懺悔』を買って来た。さほど面白くもなかった。訳が悪いのだろう。夜千葉先生へ御手紙をかき文科会雑誌をのぞいたほかのを皆御返しする。御祖母上様が家へいらっしゃるとき門に車がぶつかってひっくり返ったと云うので、家中大さわぎをし、父様は門を早くなおさないから悪いのだと云うことで、母様から小言を云われて被居しゃった。Prisoner of Zenda を少しよむ。かなり面白いものだ。

九月二十六日

(火曜)
明日小此木先生、四時より
 十一時少し前に聖マリア館へ行き一時間して来る。又かなり暑くなった。タッドと云う人の顔の表情は大変千葉先生によく似て居て何となしうれしかった。どっちかと云えば、重苦しいような肉感的だとも云える顔立ちであったが、声と言葉は、ほかのどの人より、若い子供らしさのある調子であった。リネンのよく洗いたてた着物が、あんまりちゃんとしすぎて居るので体がぎこちなかろうと云うような感じを与えられた。電車で幸田さんに会った。かえりに白山のところで、未明さんの『底の社会へ』と、『硝子戸の中より』と、『お光壮吉』(小剣氏)を買って来る。上司氏の皮肉はお光壮吉時代にはまだ、さのみ遊んで居ると云う気を起させない。未明氏はいつよんでも同じ様な色調ではあるが、真率なところがある。「硝子戸の中より」はまだよまない。ほんとうに未明さんのをよむとロマンティック派の一種の気分もみなぎって居るところがわかる。上司氏よりたしかに正直に、あの方の顔の恰好のように世の中を見て行きなさる方だろう。

九月二十七日

(水曜)
 体の工合が悪いので小此木先生はおことわりにして、一日家へ引っこんで居た。母上女子大学と、堺先生のところへ行って下さる。学校では出来るだけの便宜ははからってやろうと云ってくれたそうである。堺先生から夜電話で、わざわざ来てくれてと云っておよこしになった。『冒険世界』の探偵号をよんで見たがなかなか探偵も興味があるらしい仕事だ。一本の手拭、繩から罪人を見出そうとするその推理的な探究が私に興味を感じさせる。罪人をつかまえてからは私にはどうでもよい。夕方になって、河村明子と云う人が会いに来た。私と同年だそうで、頭はなかなか立派に出来て居るらしいが悪く世間を知り、自負して居るところが多い様に見うけた。来月の八日に和彌楽堂で、道徳としての貞操と云う演説をするのだそうだ。私位の年で、貞操問題が実際にふれて論ぜられるかどうかは疑問だ。

九月二十八日

(木曜)
明日一時半より会話
明日美音会
 大変寒くなって私の頭はよほど工合がよくなった。『女の世界』から結婚号を出すについてと云って、いろんなことをきいて来る。千葉先生からお葉書、高嶺氏より手紙来。私が洋行したとてしなくたてあの人にはどうでもあるまいに、やんやと云われてはたまらないと云う感じがする。

九月二十九日

(金曜)
 久し振りで美音会へ行って見る。実に種々な種類の人が居る。何だかそんなに面白くはなかった。常盤津で並んだ女の中に一人目立って美しい女が居たが何だか、その顔の美くしいことにさまたげられて居るようで思い切ってうたえなかった。どうしてもその芸にだけ打ちこめないところが見えた。席の私の目前に、にきびだらけなお嬢さんが気どった様子をしてしゃれこんで居るのを見たら滑稽になった。ボックスに佐藤進氏が居て、私共は、その尊いお人の前に、手をついて、しかも皆がよごれたままの草履でふむところに座っておじぎをしなければならなかった。私共がそうするのをだまって見て居るほど人も人間らしい心持が悪く高められてしまうものかと思うと、自分のことがかえり見られた。頭をかつらの様に結って茶色のリボンをズーッと巻きつけて、古びた着物をつけ、どう見ても大阪あたりの女優のような人が居た。

九月三十日

(土曜)
「アンナ・カレニナ」が今日限りなので、どうにかして見たいと思い急に出かける。原作でよんで居たので、どうせああは行かないことを承知して、久米さんではないが、どのくらいまでこぎつけて居るかと云うのを見に行ったようなものだ。小川未明氏やその他の人々が見えた。寺戸氏に会う。すっかり大人みたいでおかしかった。品川の何とか云う人に会った。大変可愛らしいと云っていい心持の失われずにある人だ。すま子のアンナはままほかの女よりは好いのは勿論だけれども、どうしてもとにかく、ロシアの上流の婦人とは見えずまだしぐさも、音調も平坦だと云うことをまぬがれない。カレニンも、私の解して居たような男ではなかった。そのほかの女と来たらもうお話にも何もなったものではない。私に輪をかけたようなちびで太ったのが、洋装で出て来るのだから、とうてい見られたものではなかった。背景でもなんでもみんな貧弱で、ほんとうに理解して居る人も又少なかったようだった。読むもので、見るものではないとつくづく思った。やはりまだ日本はあれを芝居にするだけの腕のないのは勿論、心の準備がない。我々も。

 種々な意味で私には尊い一月であった。外からの刺戟は勿論生れて始めてな位強い有様ではあったれど、心と体は、三月ほど前からたまって居た疲れを休めにいそがしかったのだ。
 漸々秋らしくなって来たこのごろ残暑がきびしかったので長い暑さに幾分つかれきった心持が快くひきしめられて行く。それにつれて、こないだ中からかるく起って来て居た種々な疑問や何かが一層はっきり具体的になって来たような感じも得て居る。
 正月のものの構想やなにかで、下旬はかなり頭をつかった。けれどもこれから三月の間のことを思うとたまらなくうれしくなる。
 夜は長くなる。火は美くしくなり、頭は透明になって来る。少し寒い位の晩静かに考え、書くことの出来ることを思う。けれども、私の絶えざる恐れ、不安は、自分に真の芸術家たるべき態度心の準備が具わって居るかと云うことである。冷やかな夕風にふかれながら、そう云う種類の内省にふけると、自分は小さい可哀そうな自分を見出すばかりである。勿論失望はしない。努力をしようとする決心はどこまでもあり、相当にみとめられて居ることもよろこびはする。けれども、これがそうであればあるほど私は、自分の真率さの失われないことばかりのぞむ。

二日 中央公論より百五十円持って来た。
四日 時事新報からとして邦枝完二氏来訪写真をとって行く。
五日 今日の『時事』にのって居る。瀧田氏来訪自分のが大変に評判よきよし。
   『中央公論』は、千部再版し、又三版になりそうだとのこと。
   正月号への百―百五十枚をたのまれる。
六日 『趣味の友』の原稿をたのまれるが断ることにした。
十日 三越へ写真をとりに行き Japan magazine へ送る。
十三日 華子の三年祭を(ママ)行す。
十七日 正月号への作品の準備に着手。
二十一日 オランダ書房より単行本にとの話ありことわる。
二十三日 読売の下妻つまと云う記者が来た。
二十五日 Miss Boyd のところへ行きはじめる。
二十九日 美音会
三十日 帝劇へ行き、「アンナ・カレニナ」を見て来る。

十月一日

(日曜)
英作文宿題アリ。
 徳岡の道っちゃんが来る。髪を長くしたりしてすっかり旦那ぶって居る。二十日に結婚するのだそうだ。どことはなし幸福らしく見えては居たけれども、あんなにつかれて弱って、結婚したら却って死期を早めるようなものだ。妻になる人は二十で体が丈夫で肥って居るそうだ、そうすれば、ある時期が来るとお互に或る不満を感じはじめて来るのは定である。それに前から恋仲であったらしいから、あとの失望は苦悶はかなり大きなものに違いない。私は又新らしい芝居の開場を待って居るような気がする。今日は一日気が沈んでどうにも出来なかった。月曜の英作文も出来上らず、たまらなくなってしまった。このごろHの来ない心持は私によく分る。気の毒でもあり、又私としては非常に楽な感じがする。私共は人間の弱点をのこりなく持って居ると同時に強味もすっかり持って居る。故に苦痛はいつも私の衷心から去りはしない。

十月二日

(月曜)
まつおかへ三十円かす
 昨夜十一時ごろまで作文にかかって居たが一寸も思ったようには出来なかった。そして漸々床につこうとしたら赤坊が泣き出した。とうとう四時近くまで起きてしまったので、非常に気分が悪かった。鼻の先が赤くうるんで、眼のふちが黒くなって居る。陰気な心持になって一時間だけして来る。かえりに中西へより、和英とフレーズの辞書を買って来る。文房堂によりペンとゴムを買って来る。陰気に雨が降って居る。どうかして「彼方に遠く」を書き出したいが出が生れない。聖マリアへ来る人も皆大抵は大人になったように、一面から云えば、しきりに飾りたてたがって居る人達ばかりなので、私はここでも又異分子めいた感じを人もうけ、自分も与えられる。あんなに円く座って髪をなおしこをする心持になりたいものだと思う。このごろ着て居る紺無地のネルは大変落付いた感じを与えて好い着物だ。

十月三日

(火曜)
 十一時前までに平河町まで行けなかったので、ボイドの作文はやすむ。一寸も雨は小降りにならない。かえりに須田町あたりまで来ると、もうすてきに降って来てまるで暑いさかりの夕立のようである。こう云うときに、女がとくに困ったらしい。その雨になやめる風情を美くしく見せようとするがそれは、強く生活の出来ない弱点だ。ちゃんちゃん、袂をはさむなり何なり甲斐甲斐しくあった方がすべてそのときの情景と調和するものである。母上の様な方でさえ夫に対しては気分の悪いとか、疲れて居るとか云うことを幾分誇張して見せるかたむきがある。そこが女の美のあるところではあろうが、Cranford をよみ、「彼方に遠く」を書き出そうとして居るが、どうも最初の書き出しがうまく行きそうもない。好いのが見つからないので、こまって居る。

十月四日

(水曜)
 十二時頃までねてしまった。四時ごろから小此木先生へ行く。天気がはっきりしないので外へ出るにもあんまり心持がよくなかった。露子氏に会うと、田中さんが学校に来て大変ふとり(ママ)返って居たと云う。かえりには五時頃小雨が弱く降って、つきはじめた灯が美しく見えて居た。外のうす明りと、人工の燈火の輝きが美くしい調和を保って居た。帰って見ると、河村明子氏が八日の演説会の引札のようなものを沢山と入場券と、新真婦人と云うものを持って来て置いてくれたそうである。学校へ行ったら皆にわけてやってくれとか云ったそうだが私はあんな引札くばりみたいなものを出来はしない。だけれどもあの人もずいぶん複雑な性格をもって居る人らしい。時代の児である。夜になってから直行氏が来る。すえ子ちゃんがいつまでも起きて居たので、皆がねたのは二時近くであった。安定でありながら底の方に不安が流れて居る。

十月五日

(木曜)
stage-coach について作文
 赤子さんがいつまでもいつまでもねて居るので、又よるねないだろうと心配した。直行氏は、午後から野本氏を訪ねに行った。漸々雨は上ったけれどもまだ寒く陰気で、頭のためには大変悪い。客間の静かなところに座って居ると、ほんとうに私の年には合わない様々のことを考える。白秋氏の『読売』に出された散文は大変私には好いと思えた。八時すぎまでかかって明日の作文とこの前のをなおしてしまった。頭が大変重くなって不快な心持がする。

十月八日

(日曜)
明日 hay-maker

十月九日

(月曜)
明日母上誕生日
 formal invitation

十月十日

(火曜)
明日四時小此木先生

十月二十九日

(日曜)
明日我ドストイェフスキーの誕生日
十日 母上誕生を生れて始めて自分で祝ってあげる。
十四日 「彼方に遠く」を書き出した。どうぞよく出来てくれますように!
十六日 英男大塚のところにて犬にかみつかれ大騒動をしたが、大した事ではなかった。
十七日 紫色のあの皮のがま口をすりにすられた。三円近く入って居たろう。
二十日 道三氏の結婚
 今日錦輝館に行って見る。活動も矢張り彼のもの特殊な面白味を持って居るものだ。魔海と云うので可憐な老爺が出て来る。非常に心が動かされた。かえりに藪そばによる。二人引の車で来た人がある。今どきらしいと思う。「日は輝けり」がほぼ出来上るので大変に心が安らかになった。終りに近くなって来るに従がって自信が出て来た。明日か明後日坪内先生のところへ持って行きたいと思う。

 久しぶりで呂昇をきく。矢張り美くしい声には違いないが、先とはどこか違ったところがある。よくなったのではないらしい。小此木氏に会う。七日にきまった――千葉先生を中心とした談話会――と云うことである。心の素直なところが見える人だ。佐藤氏に会う。男爵であるが故に私共はああやって土足で踏むボックスのわきに手をついて御辞儀をしなければならないのか、人に頭を下げさせて、平然として見て居られるように、常識が失われてしまって居ると、あとからは気の毒にもなるがそのときはたまらなく不愉快な心持にならずには居られない。真水氏の令嬢は、妙に母親の性をうけて、かたくなな心持のある人である。あんまり美くしくもないのに、傲慢なのはいやである。「日は輝けり」は今日出来なかった。明日にする。

 一日かかり切りになって漸々夕方出来た。くにをつれて坪内先生に行く。天気が少しあやしくなって来たので洋傘を一本持って行く。かえりに銀座でも行って見ようなどと思った。坪内先生はほめて下さった。今月中になさらなければならないものがあって、ゆっくり見ていただけないから、先の方は一人でしたままでよかろうとのことである。大変うれしかった。かえりの電車にのるころから――それより少し前――雨が降って来た番傘を拝借して来た。電車の中で大変可愛いおじいさんを見た。女のように内輪に足を並べて、そのまんなかにかさを一寸はさんで居る。顔中の筋肉が皆下の方に流れて来た形で、小さい小さい二つの目が絶えず私の方を見ては微笑する。ほんとに可愛い。で、私もつい、つりこまれて一寸微笑した。かえりに白山から車夫が二十銭とる。だまってはやったが、車夫だって自分できまりが悪かったろう。

 昨夜からの雨がまだ降って居る。午前中千葉先生のところへあがる。四十位の年頃の女の心持、親心、教育者の苦痛などと云うことからお話がはずんで、とうとうおひるを御馳走になってしまった。大変お気の毒でこまった。かえりに、中西屋で、小さい玩具を一円六銭買って来る。千代紙をも買う。白山の本屋で、『マダム・ボ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)リー』を買って来る。夜は久しぶりで楽な心持になって、人形――首人形――に買って来た千代紙で着物を着せたりする。岩村透氏、田村松魚氏来訪。岩村氏は父の青海波の皿と例のカンドル、スティックをさほどほめないで行かれたそうだ。形から図案があんまり完全すぎると――これの出来たと云われる時代に、これ丈にまとめる思想がなかった――と云われたそうだ。そう云えばもっともにも考えられる。誰にも云わないでこたえるこれ丈の力を作って置きなすったのは如何にも岩村さんらしい。

 一日南風が吹き通した。寒いのにならされた体には、妙にボッテリとした肉感的な風になでられ、むされることがたまらない。頭のしんまで、不愉快になって、妙な焦躁や不安やが湧いて来て機嫌が悪かった。松岡氏が鉱山に立つのを祝って小田切、徳岡夫婦を呼ぶ。松岡氏の夫人は、矢張りどこかあかぬけて、落着いたところがあるが、徳岡氏の妻は、無趣味極まる人なのにおどろいた。一寸も智的なところのない、体ばかり大きい人である。あれで満足出来て、一生をともに出来れば、道三さんも要するに、三越の店員が相当だと思わざるを得ない。まあそれでもいいから、味のよい方がおめでたい。おめでたいと云うことは、夫婦の間には大切なことである。今日、中島英之助氏から自著『町の兄弟』を送り下さる。

 今日は大変時雨しぐれた天気であった。何心なく、日記の前の方を繰返して見ると、一月二十七日のところに、レオナルド・ダブィンチの言葉で、「愛は知の娘なり」と云う言葉を大変よろこびを得たと書いてある。今の私は殆どその反対とも云えるほど心が変って居る。あの頃の心を思うと、自分の苦しんで居たことが、気の毒になって来る。が、今とてもそれは解決された問題ではない。「日は輝けり」の書き始めごろに、充分でないところを思いついた。この頃金のことを考える。今さしあたって、金がどうだと云うのではないが、明年洋行でもするようになれば、一寸の金ではすまないのだから、今出来る丈ためておきたい。だから来年は、金銭の出入帳をつけて見ようかとも思う。こんな気持になると、気の毒でもあり、たのもしくもある。

 陰気な雨が降りつづいて居る。寒い。

十一月三十日

(木曜)
明日十時半松岡氏(一字不明)立鉱山に出発
十五日 正月号のを坪内先生に見ていただき、いよいよのせるときめる。
    「日は輝けり」と云う題
十六日 瀧田氏に返事をする。
十七日 瀧田氏来る。ねて居て会わなかった。
二十五日 「日は輝けり」殆完成
二十六日 千葉先生のところへ行く。
二十七日 『町の兄弟』中島英之助氏(著者)より送り下さる。

十二月六日

(水曜)
明日午後三時より作楽館へ

十二月九日

(土曜)
 起きぬけに文房堂と東京堂とに買物に行く。かえって仕度をしたら、きちきちになって仕舞った。上野へ着いたら、十五分前になって居る。道男が待ちくたびれて居たらしい。かなり汽車はすいては居た。が、郡山へ着いたのがもうすっかり暗くなってからだったので、夜寒の中を車でゆられて行くのが辛かった。随分来たい来たいと思って居ながら、一足家へ足を入れると、もういやな心持がして来る。お風呂が、新しい鉄がまなそうで、赤茶色に澱んで居た。納豆をかけて道男がせっせと御飯をかっこんで居るのを見たら羨しくなった。夜は余りよくねられなかった。翌朝の汽車賃や何かを道男に渡しておく。かなり寒い。

十二月十日

(日曜)
 今日道男帰京。車を呼んだのがいいとか悪いとか、しきりに御祖母さまが仰云る。不愉快でたまらなかった。この頃妙に金の問題にきたなくなって居らっしゃる。金銭を自分の支配下のものとして居る自分は、ああ支配者としてせくせくして居らっしゃる様子はいやだと思えて仕方がない。母さまへ手紙を持たせてやる。自分も一緒に帰りたいような心持になったりした。田辺さんが居られないので、妙にひっそりして居る。近処へ泥棒が入った話などを聞くと、いやな心持がして夜安眠出来なくなった。一寸雨戸ががたりと云っても目がさめるし、すっかり眠るまで、辛い心持がする。所が変った故かもしれないが、妙に不安に迫られてたまらない。自分の家程いいものはないとつくづく思われる。早く何処かへ行きたい。

十二月十一日

(月曜)
 今日は味噌つきだと云うので、朝三時頃から祖母様は起きて被居っしゃる。さほど面白いものでもない。豆を煮て、ついて、塩と麹をまぜる。
 市次郎と、ふくが一生懸命にやって居る。見るよりやって居る当人が景気がよくて、面白いのだろう。夜市次郎に酒をのませてやる。下らないおしゃべりをして夜ふけてから帰って行った。ごみだらけの、むさい娘が一人ころがって居る中に、ボソボソともぐって行く、まだ若い男の心を思うと、可哀そうになって来る。また嫁を貰うのだそうだ。先にとった嫁は、餅を背負わせて、帰してやって仕舞った。そしてもし妊娠して居れば、当人にきいてその覚えがあれば、俺が引きとると云ってやったそうだ。当人にきいて、覚えがあればと云うのが面白い。

十二月十二日

(火曜)
 夜高村の婆さまが来て、炉ばたで、下らないおしゃべり――あさひやの婆が信玄袋をああ振るのは、体の調子をとるためだと、市次郎が云ったとか、婆さんは、日本橋生れだと自称するとか、赤沢さんの奥さんは月七円ずつ貰って居ながら、月末には無一文になるとか云う話しをして居ると、戸のそとで、誰か人が来た。田辺氏の養子であった。山紫水明な京都の風物が、男の体へ女性の一部分を吹き込んで仕舞ったと云うような体つきをし、言葉をして居る。それと察せらるるほどのひげが鼻の下にちょんぼりと止まって居る。京都を引き払うとき、織業仲間でよこしたと云う金時計を見せた。大変それがうれしいと見えて、しきりに三分おき位に出してはながめて居る。五年の間の命がけの努力は、金時計一つでむくいられて、又そのむくいに満足して居る人の心は、どこまでもあのひげの通りである。

十二月十三日

(水曜)
 夕方になってから石井の御みよさんが来る。午前中に味噌をにるとき、釜をかりた礼に行って来た礼のようなつもりだったろう。
 夜とまらせる。久し振りで一時過まで種々なことを話し合う。村役場の事件、「かさぶた」と云う村から提起した訴訟事件、それにともなう村の事件が大変面白いと思われた。大変御みよさんは美くしい、成熟した女になった。胸のあたりや膝を見て居ると、今にもムズムズに動き出して来るようにそう思われた。

十二月十四日

(木曜)
 石井に牛を見に行く。面白いものだ。見て居ると、同じ牛のなかでも、上品にして落付いて居るのと、下等な、あばずれものとが居る。一匹大変気に入ったのが居た。白・黒のぶちで、額の中央にカールがあって角と角との間に、一列になって、切り下げた髪のような毛が渦巻いて居る。目も人並みより大きくて、大変碧い。清く澄んで居る。草をたべるときでも、少し下を向いて、口を静かに動かして居る。美くしく、落付いた牛である。けれども、頭をあげて、ジッと凝視されると、彼等特有の威厳が、自分の方へジリジリと押して来るような心持にされる。立派なものだ。
 夜高村の婆さんが仕事を持って来る。炬燵こたつにあたりながら、振袖火事の話をしてやる。事実と架空的な話をごっちゃにして感心して居た。

十二月十五日

(金曜)
 十二時半頃の汽車で飯坂へ行く。石井のおみよさんも一緒に行くように誘ったけれ共家の都合で行かれなかった。福島まで二等で七十五銭やすいものだ。それから自動車で角屋まで行く。乗り合いで、そんなにきたなくはない。一緒に乗った男は、米沢人で、糸織のもんぺをはいて居た。角屋はかなり大きくてきれいだ。浴場が、心持よいのが嬉しい。部屋づきの女中は、秋田附近の美くしい女特有の、眼尻の上った、いかつい顔立ちである。キイキイした声を出す。番頭は扁平な赤面の男で、何か一言云っては、目をつぶって頭をふる。感じの悪い男だ。前に流れて居る河が大きな音をたててながれて居るので、絶えず雨が降って居るような心持がする。夜、いくの家へ行ったが、留守であった。電気がくらい。

十二月十六日

(土曜)
 天気がかなり好い。少し風がある。風呂から上って来て見ると、おいくが来て居た。年をとって大変顔が醜くくなって居る。鼻の頭が絶えず赤くなって、高村の婆のする通りの癖を出して居る。みじめなようだ。一緒に索道へ行って見る。桑畑つづきの小道を通ったとき、ほんとに山に来たらしい快い心持がした。モーターで鉄索を廻し、それに小さいボックスをつるして、薪炭、米などの類を、三四里向うの村から持って来、持って行きするのである。モーターのそばに、「あぶないからさわるなよ」と云う札が立って居る。田舎らしいなつかしみを感じる言葉である。かえりに雑誌と、油紙、糸、インク、ペンを買って来る。昨夜買った玩具を東京へ送ってやるのである。午後少しあられが降った。

十二月十七日

(日曜)
 昼過てから、いくの息子が来る。私を置いてけぽりにした息子はあんなに大人になって居るので可笑しい心持がした。天王寺の方へ行って見ることにして、おいくさんと娘と五人で出かける。道は心持がいい。千人風呂と云うところは、まだ新開で、あまりよくはない。途中に岩倉公の別邸がある。妾の所有になって居るそうだ。天王寺は、すっかり山かげになって居て、朝の霜がとけずに居る。大変さむい。帰途には、坂道をあがるに、お祖母さまの腰を持って、つりあげるようにしてあげた。すっかりあたたかになった。夜、その人と、神のことについて、キリスト教のことについて種々はなした。自分は理智と感情との衝突は絶対におこさないものだと思って居るのを見たら、庸之助に会ったようで情けなかった。

十二月十八日

(月曜)
 午後どこかへ行こうとして居たら、いくが来る。かりて居た本を宿の息子にかえす。可哀そうな男だ。弱々しい、人々からとりのぞかれることを、自ら許して居る態度が、いじらしい心持がした。二十四五になって、ああ云う生活をして居るのは、思いやられる。若し出来ることなら、いつでも話し相手になって居てやりたい。
 いくと一緒に町を一廻りして来る。到るところにきれいな水が流れて、もうざっと十年程前にとまった和久屋は、今とまれない程きたなく見える。次第に町が栄えるにつれて淘汰が激しくなって来る。だんだん影をかくす宿屋も多かろうと思う。今まで居た部屋は寒いので、三階の日あたりのいいところへ引きこした。

十二月十九日

(火曜)
 天気がすっかり時雨しぐれて、今にも雪が降りそうだ。お祖母さまが急にかえると仰云る。あんなに金のことを云われては、居るのもいやなので、かえることにする。私はまだ居たかったのに……。かえると、ふくが居ない。火を起したりバタバタして居ると、田辺氏の養子が又来る。とまると、自分も思い私共も思って居るのに、時間表を見たりして居る。ああ云うことは、私にはしてくれないでもいい。夜市次郎、高村の婆さまが来る。大変寒い。雪が、丁度家へつくと降って来た。いい時に帰って来たとおっしゃるから、私も、いいときに帰って来ましたと云う。角屋の息子は、耕花さんや大観や未醒[#小杉放庵]の画を持って居る。ああやって一生過す人かと思ったら、真個ほんとに気の毒になって来た。疎髯の生えた顎、震える唇を思うと、あの山の温泉で、一つの命が次第に弱って来て居ることが、まざまざと思い浮べられる。

十二月二十日

(水曜)
 朝起きたときにはまだ雪があったが、午後になって見ると、知らぬ間にとけて居た。お風呂へ入れないのでさむしい。東京へ古雑誌を送る。一郎のところへ行って、そのみじめなことに涙をもよおされた。暮にさしかかって、どんなに困って居るか分らない。女房を思い切れないからって、何故あんなに辛い目に会わせるのだろう。ほんとに可哀そうだ。五円もやりたいと思う。誰かが一人よくない男だと云うと、誰も彼もが、ワイワイ云ってあんな体で働けないものを悪く云う。もうじき死ぬんだもの、それを考えたら、少しはよくしてやったっていいだろうのに。Cranford をよむ。大変面白い。何だかもうかえりたくて仕様がない。東京の家で、赤ちゃんのよちよち歩くのが見たくなって来た。余り陰気で、余りみんながいやなことばっかり云い合って居る。

 今日の夕方五時半に道男が来ることになって居るので、迎に行く。お祖母様は行かずといい、いいと仰云るのを強いて行って、石井のおみよさんにあげる袢衿はんえりと、二葉亭四迷の『片恋外四篇』をかって来る。一寸よむ。が、私は二葉亭が文学をいとったわけが分ったような心持がした。偉い人だった。だから苦しかったのだ。
 夜石井へ行く。有江のことや、何かをしきりに話す。徳馬鹿が色情狂になって、あの交番のわきに監禁してあるのだそうだ。一寸もしらなかったが気味がわるい。提灯の周囲丈ほか見えない灯で、ふけた夜道をあるくことがたまらない心持がした。徳馬鹿なども、時代の犠牲者だ。

 十一時四十一分ので立って来る。二高が休みになって殆ど車室は一杯の有様であった。坂本が迎に来てくれたはいいが、すぐ迷子のようになってしまって大変こまった。家について見ると、英・国の二人がねて居て、食堂では木下家具店でエキステンドィング・テーブルのデザインをして居る。混乱してはいたが大変いい心持になったのは一寸で、神経がつかれたときに起るはきそうな心持がしてたまらなかった。
 お湯のよくわいて居たのが大変うれしい。
 すえ子は大そう大きくなって、いいお嬢ちゃんになって居る。

二日 百一枚丈瀧田氏に渡す。
七日 作楽会へ千葉先生を中心とした会がある、出席。
五日 百四十五枚まで渡す。
五日 全部脱稿、百七十二枚となる。
六日 坂本に持たせてやる。
七日 瀧田氏来訪、庸之助が心機一転のところと、最後をなおす。
八日 すっかり出来上り持たせてやる。
九日 安積へ来る。午後六時五十分夏目漱石先生死去せらる。
十一日 夏目漱石氏逝去、発表。
十五日 御祖母様と飯坂角屋へ来る。十九日安積へ帰って来る。
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〔単位厘〕
月日    摘要             収入      支出
3 29   原稿紙四百枚                  880
 〃   万年筆インク一瓶                300
 〃   半紙一帖                    080

     卒業祝            5 500
     人及芸術家としての   ┐
     ト翁並ドストイェフスキー│
     貧民心理研究      │          5 450
     後ニ来ルモノニ     │
     伯父ノ夢        ┘
     受験料                    1 500
     入学金                    2 000
     Fine stories                   300
     徒然草                     250
     授業校費                   12 000
     The story of the world
     note
     pencil
     grammer
                   150 000
     兄弟へ                    10 000
     本                      15 000
     坪内先生                   10 000
     本                       5 000
                   56 000
     源氏新やく                   210
9 8   春                        60
 〃   ドンキホーテ                 2 500
 〃   心霊学講話                   380
 〃   金剛草                    1 000
 〃   小さき泉                    720
 〃   聖フランシスの小さき花            1 000   
 〃   ベエトウベンとミレエ             1 080
9 10   我輩は猫である       
         1 200
9 16   Cranford                    550
 〃   行人                     1 150
 〃   罪と罰                    1 330
9 19   ユーモア十篇                  720
9 18   死人の家                   1 100
11 11  死後は如何                   1 000
9 25   痴人の懺悔                  1 400
9 26   ガラス戸の内                  300
9 26   お光壮吉                    550
 〃   底の社会へ                   500
9 29   二葉亭四迷                   600
 〃   椿姫                      400
 〃   The prisoner of Zenda              350
                   9 000
      to brother               国 3 000
                          道 2 500
                          英 1 500
                    7 000
                           道 300
     坪内先生へ                  10 000
     おゆき                    1 000
     帝劇                     3 000
10 2  和英字書                    1 200
 〃   フレーズ字書                  680
 〃   ペン ゴム                   260
10 4  吸取紙、赤エンピツ                230
10 6  トルストイ研究(文世)              570

底本:「宮本百合子全集 第二十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年5月20日初版
   1986(昭和61)年3月20日第5刷
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
入力:柴田卓治
校正:青空文庫(校正支援)
2012年11月6日作成
2013年1月19日修正
青空文庫作成ファイル:
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