夢のような終戦、疎開先から帰る荷馬車のほこりっぽい街、内海の潮の香のただよう尾道市の図書館の暗い部屋で、私は、何となく「暗澹」という文字を胸に書いてみた。
 何処から、このごみごみした尾道市に、文化運動として、手をつけてよいのか。
 十月四日治安維持法が断ち切られて最初の日曜日、十月七日、私はやむにやまれぬ心持でまず講演会を開いたのであった。日曜日の毎週朝九時からは学生を対象として、水曜日の午後二時からは一般婦人を対象として、二つの講演会と、金曜日の午後一時からは座談会を計画した。日曜日のテーマは「微笑」、金曜日のテーマは「東方の美」であった。
 昭和十二年に反戦論者の疑いで弾圧をうけてより、同じく十六年に自由の身となってより、二十一年までは、予防拘禁におびやかされ通したこの十年の後に、はじめて、あたりまえのことを自由に語れることは、瞳孔がしまるほどの眩めくような明るい軽いおもいであった。たまりにたまった思いは、せきあえぬほどに口にあふれて出て来た。恐らく、独りで勝手にしゃべっていたに違いない。二時間位ずつぶっつづけてやっていた。初めの聴衆は二十人位いた。しかし、だんだん減りはじめた。十人になり、五人になってゆく。テーマも面白く変えてみた。益々内容を充実してみた。勿論決死の努力をこめての熱演である。しかし滑稽なことには、いよいよ淋れる一方である。
 その頃七十七歳であった母親は、いつでも歩いて聴きにゆける私の講演会には、判ってもわからなくても聴きにくるのであったが、私はこれには弱ってしまった。だんだん減ってゆく聴衆の中に、どんなにかくしても、チャンとモンペをはいてやって来る母親が、いかにも可哀想だといった顔付きで、三人位の聴衆にまじって話をきいている。このことは、だんだん私には耐えがたいこととなってきた。館は映画館「太陽館」のすぐ近所である。私が一番聴かしたい聴衆のマフラをつけた戦争帰りの若い青年達は、図書館の門までカギになって行列をし、私の待っている講演会場の窓からその横姿が見えているのである。
 誰も来ない講演会を、しかも母親と二人で一時間ばかり待って、ついに放棄するハメに二度も陥ったのであった。いかにも気の毒そうに眼のやり場のない私を、なんにもいわずにじっと見ていた母が、私には夢の中で突然、物が巨大になる瞬間のような異常な存在のように、たとえがたいものとなって胸にしみてならなかった。

 私はこの敗衄を三カ月つづけた。そして一度は、大衆が愚かであって、啓蒙の困難は何れの時代でも経験するところの、ヒロイックな悲劇性を帯びるものであると、いわゆる深刻型のセンチ性でもって片づける誘惑に惹かれた。しかしたとえ二人でも、母ともう一人の青年に語るこの苦痛の中に、私は一つ一つものを憶えていった。実験もしていった。
 つまり、私は、大衆、殊に封建性そのものの中に沈澱している農村の子弟に対しては、いろいろの表現すべき秘密があったことを知っていったのである。彼等が、一番反発するのは、自分達のわからない英語、ドイツ語のカタカナが出てくることである。それに出遇うと実に不快な表情を示すことを私はだんだん気がついた。更に語らんとする大切なことを一度だけいって次に進むと、ハッと面白いと思っていても、それを握りしめないうちに取落してしまうらしいことである。必ず大切なことは、他のことばでいいなおして、二度ずついってやると、はじめてうなずいてついて来るのである。そしてそれに、必ず具体的な例を、実例をあげてやると、更にうなずくのである。この「例」は、彼等の身辺のものでなければならない。熟知した、しかも荒い構造の簡単な仕組みのものでなければならない。そして大切なことは、この「例」がどんなに例そのものが勝手に独り歩きして、頭の中で発展していっても、その本論の筋をでんぐり返して、とんでもない反対のところにまで連想しないように、考えに考えぬいて仕組まれなければならないことである。
 講演がすんで彼等が、野畑でそのテーマを反スウする時、うかんで来るのはまず具体的な例なのである。だから「例」が勝手な反対な連想にまで導くと、議論はメチャクチャなところまで勝手に発展して、後で講演者は二、三カ月後で、痛烈な見事な反対の質問を浴びることとなるのである。そして、更にこの語らんとするテーマに、一つの憶えやすい「標語化された言語」をしめくくりとしてあたえることである。人口にカイシャする流行語となるようなユーモアに富んだことばを創造すべきである。そして更に注意すべきは、持って帰らすべきテーマは四つ以上もあっては、その重量とカサで、ついでに全部取落してしまうのである。記憶というものは、たくさんの中から二、三を取上げるものではない。ある量以上になると、全部落すことが学問上でも実験ずみであるが、私もそれを再び確認した。三つ位のテーマをくりかえしいって、それに具体的な例をつけて、それを身振りをつけて面白可笑しくブッつけて、更に、それを数語の標語に緊めあげて、しっかり手にもたせて、手でその上を握ってやるのである。
 例えば、封建制イデオロギーなどといったら彼等は、そんなハイカラなものは、またはそんなムツカシイものは自分にはないとソッポをむいてしまうのである。「見てくれ根性」「抜駆け根性」と類型化すると、「それなら私の中にありますわあ」と笑いだすのである。しからば「何故それが悪いのか?」「みんなもっている当り前のことじゃないか」と考えてくる。そこで宇治川の先陣の一席を、「やあやあ我こそは……」と声高らかにやって馬を走らせ、刀をひらめかせて、鮮洌な印象の中にそれが展開されて、彼等の口がポカンとほほえみと共に開けられて来なければ、こちらから投げ込むものは腹の底までは届かない。これが腹の底まで行かなくても、喉の辺りにつっかかっても、それはもうこちらのものである。

 私は、三カ月の敗衄の後に、更に腰をひくめて三カ月ジリジリと勝利への苦闘を一月、二月、三月とたたかった。ついに四月、七十人のカント講座の聴講者をつかんだ。つかんだというより、一人一人拾っていったのである。
「これはほんとだろうか」という、喜びとも驚きともつかぬ、ぼうっとするようなこころもちである。
 三原市にも水曜日の夜はカント講座が開かれ、四月から十一月まで、七十人が一夜もかけなかった。いつでも帰りは夜十一時四十分の復員列車であった。満員の車の扉の外に外向きに両手でつかまって、尾道市まで、深夜の闇の中をゴーゴーと帰って来るとき、自分の中にもまた昂然と沸ぎるものがあった。
 農家の人々の講演に出て、講堂一杯の大衆がキーンと緊まって、少しだまってみてもシーッと全堂寂まりかえってくる。こんな時が、文化運動にたずさわっているものの、何というか、しびれるような喜びとでもいう瞬間である。腹の底を何かヒタヒタと流れる涙のようなものが走って行く。
 何が楽しいといって、何か歴史を継いでいるというか、三百年おくれているビッコになっている歴史のゆがみ、立ちおくれたルネッサンスを、今ここに農民と共に通過しているといったような壮大な時間を経験する。そんな時の農民組合の喜びかたはまた格別である。「先生この村が立上りましたら、あの村も、あの村も」と、広い広い雲雀の鳴いている平原の向うの山並みの一つ一つの集落を指さして昂奮して口ごもっている。
 こんな日に帰る途は、霰でもふってくれないかと思うほど、こちらも弾んでいる。こんなに成功した一席の後は必ず、「先生、あの宇治川の先陣の一席をもう一ぺんやってつかあさい」といってやってくる。同じものでなければ承知しないのである。
 ここに問題があるのである。彼等は、知識を求めているのではないのである。意識革命をしたいのである。一字一句違わない講演を、三度、十里の道を追って聴きにやって来て、三度目にはじめて「腸を出して洗ってもらいましたわあ」とよろこんでいる。一たん意識が革命を通過すると、同じ講演内容を一字一句違わず二時間かかって、他の皆にいつでも語って聴かすことの出来る連中でもある。

 自分の意識の革命を志す農民の心根、これが、文化の大黒柱なのである。都会の封建制の理論家が「抜駆けの根性」において、果たして、意識の革命を自分自身に敢行しているかどうか、ここに巨大な問題が横たわっている。競輪という近代機械が、国定忠次ばりの繩張りの周囲を走り回わるように、近代知識人がその派閥性で、「やあやあ我こそは……」と声高らかにお互いに仁王立ちに立上っていないとはいえないのである。漫画の取締りをそんなに口はばったくはいえないのである。あちらこちらで、「さらばドロン……」と消えたり出たりしていることを正しく考えてみれば、肌寒くなるような都会の文化の現実であるといえるのである。
 大東京が、全国の農民に向って、実に多くの出版物を投げかけているが、果たして、意識の革命をと望んでいるその人々の喉の穴に飛び込んでいる論理がいくつあるであろう。図書と出版のことが自分の受けもちである部署にいて、そして、かつて農民と共に在ったものとして、私は暗い思いである。
 機械工学では、精密機械を簡単化し堅牢化することも一つの学問である。ラジオロケーターの精密理論を一兵員が知識なしに操作できるように、簡単化、類型化するのも立派な科学である。ところが、文化科学では、理論が精密化したらしっぱなしである。西田哲学が判らなくなったら、「判らなければ、ついて来い」である。精密で、大衆に判らないものほど高度のものとなってゆくのである。名誉なのである。学問は大奥へ大奥へと高く深くゆくにつれて、権威と尊厳を加えるのである。知識人の間には、それに向って羨望と嫉妬と競争が起って来るのである。全く戦国時代の一番乗り気分と少しも違わぬのである。
 これで田畑を乗りまわされるだけでは、農民にとっては、只迷惑が残るのみである。今や、理論の簡単化と堅牢化、誰にも判って、しかも間違いの起らない類型化が必要となって来た。出版界も、それに留意しなければ、威張ったコケ威しはもはやきかなくなって来た。
 文化遺産を万人の手に、雨が降って土を崩しながらしみ透ってゆくようにしみわたってゆかなくてはならない。そして、一度農民達に入って再び盛上って来る理論の再生産が、一九五〇年以後の理論機構とならなくてはならない。
 僅か三年の広島県での文化運動の経験ではあるが、二、三人の聴講者の六カ月、七十人の八カ月の苦闘は、燃料がくすぼって眼をあけられないような期間であったが、このくすぼる間の一年が一番大切な[#「一番大切な」は底本では「一大番切な」]耐えるべき時で、それはある瞬間に「ボーッ」と真っ紅に燃えつく時である。それは七百人の夏期大学となり、ついに広島県十三万人の労働文化協会となった。これは知識の表現の適応化が、機械的に、組織的に、大衆の中で流れ作業をした一つの例だと思っている。新協の『雷雨』を県下の五カ所に取ることの出来た労働者の組織は、意識革命進行の具体的な一つの実験であった。六十人の労働者の真中に立って舞台装置を作った深夜の小学校の講堂の情況など、私には一生忘れえない思い出となった。
 知事選挙戦に彼等は私を推して現知事と一対一の戦を挑ましめて、僅か三万円の運動費で二十九万二千票を集めてくれた。

 聴講者ゼロの講演会場で、母と二人のみ在ったあの日、どうして、三十万の人々の顔を想像できたであろう。
 それは、私にとって現つの奇蹟の連続であったが、しかし辿り辿ってみれば、文化的知識の科学的簡単化と堅牢化が、今正に欠けていること、このことの流れ作業的組織が、飢えに飢えられていることの一つの具体的な実験としてここに記録したいのである。

底本:「論理とその実践――組織論から図書館像へ――」てんびん社
   1972(昭和47)年11月20日第1刷発行
   1976(昭和51)年3月20日第2刷発行
初出:「朝日評論」
   1950(昭和25)年4月
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2006年11月2日作成
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