サンフランシスコから渡船フェリーでオークランドに渡り、更にエス・ビーの電車で五哩程行くと、セミナリー・アヴェニュに出る。ここで下車して山手の方へ十町ばかり行くと、そこにユーカリプタスの森がある。その森の中には太平洋沿岸最古の女子大学ミルスカレッジがある。遠慮なくカレッジの庭を通りぬけて、三哩ばかり自動車を走らすと、ハイツに着く。
 ハイツとは詩人ウオーキン・ミラー翁の住んでいた旧邸である。ウオーキン・ミラーといえば直ぐヨネ・ノグチを想い起すのが在米日本人であり、ヨネ・ノグチといえば直ぐウオーキン・ミラーを想い出すのは日本の詩人たちであろう。
 ハイツは詩人ミラー翁を記念する為に、ミラーの死後千九百十九年に、オークランド市が買取って永久保存の公園としたミラー翁の旧邸なのである。
 長い曲りくねった路をドライヴしているうちに思うことは、こんな偏僻へんぴな所に、自動車も何にもない頃どうして住んでいたろうという事である。ヨネ・ノグチ氏が、がた馬車に乗って町へ買物に出た光景が想像される。
 東海散史の佳人の奇遇に出ているというミルキン湖も、ここも同じ公園ではあるが、ミルキン湖の美しさにくらべて何とまあ田舎びた公園だろう。
 その公園の中に見すぼらしい家がしょんぼり建っている。ペンキは剥げ、羽目板は曲み、窓ガラスは破れている、近よってみると間口五間奥行三間という木造平屋だ。家の周囲にはサイプラスとユーカリプタスが、ぎっしり生えている。これがアペイという邸宅で、ウオーキン・ミラーが晩年詩作に耽った所なのだ。
『なる程……』とこの家から詩翁の心も想像される。
『シエラの詩人と呼ばれしウオーキン・ミラーの住みし所、彼の名づけて高嶺こうれいといいける所。妻の名にちなみてアペイと呼びしこの家は、彼が「コロムバス」その他の詩を物せし所。周囲の樹木は彼の植えにしものにて、北方の高地には荼毘だび塔あり。また、モーセ、ジョン・シー・フレメント将軍、ロバアト・ブラウニングに捧げし記念塔あり。この高嶺は千九百十九年オークランド市の所有となる。』
 それは青銅のタブレットにきざまれた文字であった。
 破れた窓から中をのぞいてみると、薄暗い室に素朴頑丈な椅子やテエブルが無造作におかれてある。この椅子に掛けて、このテエブルにもたれて、詩翁しおうは、ヨネ・ノグチの若い顔に何を話しかけたことであろうなどと思っていると、見ぬ詩翁の顔は浮んで来ないが、ヨネ・ノグチのあの顔が眼底に見えて来る。
 近づいて来た老人にきくと、ミラー翁がここに来た頃は、まだ狼が夜な夜なさまよい出て物すごくほえたそうで、夫人も娘も恐ろしがってここへは来なかったそうである。
『詩人ミラーはひとりでいたんですか。』
 当然なすべき質問であった。
『名前は知らないが、日本人がいて炊事を助けたという話しです。』と、老人は答えた。
『その日本人の名はヨネ・ノグチといいませんでしたか。』
『知りませんね。』
 老人は、とことこ歩み去った。老人の行った方を見ると、半町ほど隔った所に小さい木造の家がある。
 ユーカリプタスの落葉を踏みながら、だらだら坂を登って、その家に近づいて入口からのぞくと、裏口のドアの蔭に、つぶれそうな古い籐椅子に腰をおろした婆あさんがいる。
 婆あさんは、こちらをむいて何だかいう。耳をそばだてると
『オーキン、ウオーキン、ウオークイン。』と聞こえる。
 呼びかける老婦人こそ、詩人ウオーキン・ミラーの未亡人で、夫の名を呼ぶつもりで『おはいりなさい(Walk in)』といっているのである。
 近よると如何にもうれしそうな顔で『ウオーキン』とも一度いって、ウオーキンの意味を説明する。
 夫人は黒い僧服のようなものを着て、白い首飾りをかけている。それが何だか物すごい感じを与える。今のアメリカにもこんな女がいるかと疑われる。北欧の森林からでもぬけ出して来た婆あさんらしく、今にぶつぶつと呪文でも唱え出しそうである。けれども夫人の顔には一種独特の艶があり、その眉宇にはある物を威圧する力がある。
『あなたは日本人ですね。』
『そうです。』
 この短い会話は老婦人を俄かに興奮させた。
『ヨネ・ノグチは、あれは天才です。本当に天才です、今に達者でボーイ達を教えているそうだが、あんな詩人の教育を受けるボーイ達は幸福です。それからミスター・カンノはえらい男です。どんな苦労にでも堪え得る忍耐力があります。すべての日本人は勇敢で、そして親切です。日本人は立派な品性と力量とをもっています……私達はミラーに死なれてからアメリカ人に随分いじめられました。ミラーの遺稿から上った原稿料など、みんなまき上げられました……』
 夫人の言葉は少々乱脈になって来た。のべつ幕なしに話している処へ五十近い、しかも、まだミスらしい婦人が出て来た。ミラー翁の娘さんらしい。
 挨拶をすると、直ぐ手の筋を見てやろうといった。で、セエキスピアが気味悪そうに右の手を出すと、彼女はいった。
『私はあなたの未来の事はちっとも申しません。あなたの過去のすべてが、私の判断でわかりますから、それを語って批判します。あなたはその批判から御自分の将来を御判断なさい。あなたは由緒ある家に生まれ、生活の苦闘を続け、今は成功している。感情的で他人の世話をする。その世話はことごとく裏切られる。それでも信念は一々それを気持よく整理した。文学を好む。それが半ば熟達の道を歩んでいる。あなたは要するに善人で……』
『異存なし!』といいたい所である。そこを出て山の方へ行ってみたかったが、近頃の山火事に追われたカヨテ(狼)やライオンが出るといううわさをきいていたので、行くことは見合せた。ここらで獣の餌食になっては私は兎も角若いセエキスピアのために泣く人があるので。
 ハイツの森を出た者は、誰でも後を振り向いて考えるであろう。
『こんな所に、たったひとりいたというだけで、ウオーキン・ミラーという人は詩人でもあったろうがまた奇人でもあったろう?』
 それから一週間の後であった。私はひとりで、どこへ行くというあてどもなく、町をぶらついていると、向うから夫婦者らしい二人が歩いて来る。男は日本人で女はアメリカ人らしい。男は黒の結びネクタイで、竹久夢二氏を十年ほど老人にしたような風采である……と思っていると、
『日本人教会はどこですか。』と其の男はやさしい声できいた。
『あすこです。』
 指をあげて教えてあげた私は、別に気にもとめなかったが、あとできけば、その男こそウオーキン・ミラー未亡人が口を極めてほめたたえた詩人の菅野かんの[#「菅野」は底本では「管野」]衣川氏だったのだ。つれていた婦人は彫刻家で菅野[#「菅野」は底本では「管野」]氏のミセスだときいた。其のミセスの事は佐々木指月君から度々聞かされていたのである。それだったら、会って話してみたかったと思ったが、どうせ会った所で詩人でなく美術家でない、散文的な私のことだ、先方に迷惑をかけるだけと思って、訪問にも出かけなかった。
      *
 カリフォルニヤ大学のカムパスの中央に聳え立つ高塔カンパニールは花崗石を三百七呎の高さに積み上げたルネッサンス式の建築である。ヴェニスの聖マークの高塔よりも僅か二十一尺の低さで、大学のカムパニールとしては、凡そ全世界にこれほど高いものはないと云う話である。
 此の高塔がカリフォルニヤ大学に建てられたについては、こんな話がある。
 大学の後援者の一人にセイン・ケー・セーサーという婦人があった。彼女の考では人間教育の骨子は、健全に文学を鑑賞させることと正当に歴史を会得させることにあるというのである。そこで彼女は此の加州大学の当局者に対して、二人の教授の俸給を永久に支払い得るだけのプロフェッサーシップファンドの寄付を申し込んだ。そして一人の教授は必ず古典文学を担当し、他の一人は史学を教授することにしてほしいと云った。大学ではその申込を受入れることとした。
 彼女は満足した。けれども彼女の寄付は一万幾千の大学生の中で、単に文学と歴史を学ぶもののみに恩沢を与えるにとどまる。それでは完全なる好意と云えない。そこで考えついたのが、此のカムパニールと、大きな校門とであった。高塔は文学の象徴であり、校門は歴史の標号である。毎日毎日三百七フィートの高塔から美しい鐘の音が音楽となって鳴り響く。夜も昼も無数の老若男女が流れ来り流れ去る此の校門は、正に歴史のペエジペエジに現われ消え去る人々の姿なのである。
 ヨネ野口の師事したウオーキン・ミラーという詩人で名高いバークレーの街を、ずんずん山手に登った所にテレグラフという大通りがある。オークランド方面から此の大学に来るには最も便利な電車通りだ。その北の終点が加州大学であり、そこの入口にある校門が、謂う所のセイサアゲエトで、花崗石の巨大な門柱が中心になって、その外に稍小さい石柱が二本ずつ並んで副門を作っている。柱上には青銅のブリッジが渡されて、セイサアゲエトという文字が浮彫りにされ、礎石には『千九百十五年』という文字が刻まれている。
 此の門を入ってアスファルトの歩道を右に折れ更に左に曲ると、カムパニールの下に出る。近づけば近づく程高く見える。それも其の筈だ。よく晴れた日には海を隔てたサンフランシスコからでも、バークレーの緑の丘を背景に、くっきりと白く見える程の高塔である。オークランドからバークレーに行く者が北に北にと進むにつれて、時々刻々に此の高塔の姿が大きくなって自分に面して来るのを誰でも気づくであろう。だから此のカムパニールは、満州の喇嘛ラマ塔のように迷路の標塔でもある。
 セイサア女史は校門の落成は見たらしいが、此のカムパニールの竣功を見ないで此世を去った。大学当局者達の遺憾の念いは一通りでなかったと見え、夫人の追悼会場に於て博士エドワード・ビー・クラップの演説に、
我がカリフォルニヤの到る所に、此のカムパニールの姿を眼に刻みつけ、その美しい鐘の音に胸を高鳴らせた人々が、やがて多く現われることであろう。間もなく吾々の校庭にはそれが雲とそそり立つであろう。その冲天ちゅうてんの姿こそ、若きカリフォルニヤのシンボルである。これを無用の長物と呟かしめる事は当事者の恥である。
美しき門と高き塔とは世々に其の美と美の価値を人の心に悟らしめるであろう。その存続は此の大学と倶に永久であろう。しかも大学は文化の連鎖に切断の生じない限り人類社会に破滅の来るべき天変地異の生じない限り絶滅しないものである。
と、あるによっても明らかである。
 斯くて、此の三百七呎の高塔から美しい音楽の音の流れ初めたのは千九百十七年十一月二日の正午だったのである。爾来じらい十四年間正午と夕刻の二回、時を違えずグレゴリーチャント以後今日まで世界の名曲の一部がチャイムとなって虚空遙かに流れわたるのである。
 此の塔が竣成して間もなく、専門家が長い間の研究と実験を経て完成されたチャイムの鐘が十二個イギリスから搬送されて来たのである。最大が四千一百十八斤で最小が三百四十九斤である。そして、今このチャイムをバークレーの町々に、日毎夜毎鳴り響かせている男は、全体どんな男であろう。
 一二回あの塔に昇った事のある人だったら、校内を歩いていると、後から元気な声で『ハロー!』と呼びかけられる程彼は物覚えがよい。声はやさしいが雲突くような大男だ。でっくり肥えて、顔は日に焼けて焦茶色である。爛々たる眼光は常に何物かを見つめている習性の持主だという事が誰にも知られる。どうしても年百年中荒潮の中に浪と闘う老船長である。年は五十四五でもあろう。
 私は今日も此の老船長のような男に三百七呎の上空まで伴れて行ってもらった。彼は此の塔の訪問者の案内役であり、エレベーターのコンダクターであり、正午と六時のチャイムのミュージシャンでもあるのだ。エレベーターが停ると彼は、柔和な声で説明する。
『此の塔は高さ三百七呎、此の観望台は二百尺の位置にある。バークレー全市とサンフランシスコ湾と金門海峽が見える……向うの霞の中に見えるのがタマルパイの嶺、その左に連るのがゴールデンゲートの山々、その手前がエンゼルスアイランド、左に見えるがオークランド市……』
 それから眼下の校庭を指ざしながら、あれが図書館、これが自然科学館、それが物理学教室……と、さも自分の財産ででもあるかの如く愛撫の情を含みながら云う。
 説明が終った時、つめたい鉄柵を撫でながら私は言った。
『あなたは年がら年中、このブリッジに立って果しもない大海を眺め、潮風に吹かれ、雲の変化を見ているんですね、丁度船長のように。』
『全くその通りだ。』と相恰くずして喜んだカムパニールキーパーは続けて言った。『夏でも冬でも、晴天にも曇天にも、風が吹こうが雪が降ろうが、私はいつも此の通りに立っている。或時は寒流から押しよせて来る濃霧のために、眼前咫尺しせきを弁じない事もあるが、今日のように、あの美しいタマルパイの姿をくっきり見せてくれる事もある。なるほど私は船長だ。パイロットだ!』
『ところが此の船はティッピングもローリングもしなくていいですね。』
『揺れないかわりに、動きもしない、大地のような安定な船だ。』
『随分多勢の人が毎日此の船に乗りましょうね?』
『ははは乗客はどんな日でもありますね、しかも世界中から集って来る。偉い人も偉くない人もある。或人は一目見ると直ぐ、ハハア此の人は偉いぞとわかる。だが時としては皆目見当のつかない人もある。とにかく人間というものは此の世の中で一番面白いものだ。』
 話しているうちに、何とも得体の知れないものが欄干の間から見えた。
『あれは?』
『コロシアムだ、大きな丼鉢のようだがあの容量キャパシチイは八万人だ。あの中央の緑の美しいのをごらんなさい。秋になるとあすこでフットボールの競技があるのだ。』
 船長は時計を出してみて『あ、時間だ!』
 エレベーターはまた私たちを運んで下界に降した。降りながら彼は言った。
『近いうちに、あなたは此の高塔から日本の歌がチャイムとなって響くのを聞くだろう!』
 私はその意味がわからなかった。けれども、それから四五日経った或日の夕方であった。三人の日本人がコロシアムの壁上に立って、タマルパイの彼方に沈む紅い夕陽を眺めていると、六時の時報が高塔から響き出した。
『お、もう六時だ!』
 一人が塔の方を見た時、こはも何事ぞ! 高塔の上からバークレーの町々に、オークランドの家々に静かに流れ渡るその歌は。
『みどりもぞ濃き柏葉はくようの、蔭を今宵こよいの宿りにて……』
 一高の寮歌が、カリフォルニヤ大学のカムパニールからチャイムとなって響いているのだ。
 感慨無量の体で涙ぐみながら聞き入っているのは一高出身の向野元生氏。その傍に立っていたのが、南満鉄道の貴島氏と、明治学院教授の鷲山弟三郎氏であった。云うまでもなく、此のチャイムのミュージシャンは、チャールス・ビ・ワイカーと云う誠実な高塔守である。

底本:「世界紀行文学全集 第十七巻 北アメリカ編」修道社
   1959(昭和34)年3月25日
底本の親本:「太平洋を越えて」四条書房
   1932(昭和7)年5月
入力:田中敬三
校正:仙酔ゑびす
2006年11月18日作成
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