今日私のお話し致しますることは印度の聖人と云ふ題でありまして、印度人の所謂聖人とは、如何なる人であるか、又何う云ふ事を爲すものであるかと云ふことを、少しお話して置きたいと思ふのであります。
世の人は總て西藏の國を世界の祕密國と云うて居る、成程西藏は外人の入ることを容易に許さない所でありますから、土地を開放しないと云ふ點から見ると如何にも祕密國のやうに考へられます、又祕密國に相違ありませぬ、併しながら祕密國と云ひますと、何だかソコに判らぬが結構なものでもあるやうに聯想して考へられるのでありますが、ドウも世の中に祕密々々と稱して居る物には、餘り祕密とすべき大切な物が無く却て平々凡々のものが多い、西藏も祕密國であると云ふと、如何にも結構な寳物でもあるか或は又未知の眞理でも包藏せられて居るやうに考へられますが、西藏國には左程面白い不思議な現象があるとも考へられない、近頃は西洋人も段々入込んで來ましたし、印度人は古から西藏に於ては非常に尊敬されて居る、印度は佛教國であり幾多聖人の生れ出た國であると云ふので、西藏人は非常に彼等を歡迎して居る、で是等の人々が西藏に入り其の事情を調べた書物も隨分出版になつて居る、之によつて見ると、他の範圍の事は知らぬが、兎に角宗教や文學と云ふやうな方面に於ては左程結構なものも無いやうに考へられる、開けて悔しき玉手箱で、西藏は今や既に半分以上も開けて居るのであるが、開けぬ方が尊い、所が印度の國は外人も容易に入ることが出來る、亞剌比亞からも西藏からも支那からも、四方八面這入口があつて、總て公開されて居るのであります、殊に近頃印度が英領になりましてからは、何處の隅でも容易に外人の近づくことを許すのでありまして、何等の祕密とする所もない、處が印度には中々不思議な事がある、吾々今日の學問をしたものでも容易に解釋の出來ぬことを印度人は極の昔からやつて居る、實に不思議なことがあるのである、で此の數年前に死にました英吉利の東洋學者マツクフエラーと云ふ人は、印度は實に世界の寳庫であつて、如何なる學問を研究するものも、此に新しい材料を發見する、西洋では判らない不思議な事實が印度には多々存在すると云うて居る、殊に印度と云ふ國は昔は開けた國でありまして、今は亡國の民とも云ふべき、如何にも憐れな國と成つて居りますが、古代に於ては文學に於ても技術に於ても宗教に於ても哲學に於ても中々豪い者を輩出した處である、而して英領に成つてからは大きな都は悉く西洋に化し、例へば孟買であるとか、マドラスであるとか、又はカルカツタであるとか、大きな開港塲は先づ西洋と大體違はない位である、が一歩踏込んで内地に這入つて行きますとマルで樣子が變つて仕舞ふ、印度は元來非常に保守的の國である、支那よりもモー一層保守的の樣に考へらる、で少しばかり田舍へ這入りますと殆ど太古の状態其儘で、我々も二千年以前は斯の如くであつたらうと想像される位である、土人は木か竹に泥を塗り上げ、丁度日本の土藏造りのやうで粗末なもの、或は小屋掛と云ふやうな種類の土間の小さな建物の中に這入つて、牛や羊と雜居して居る極めて簡單な生活である、家具などは無い、唯毎日必要な鍋、釜、小さな茶碗と云ふやうな種類のもの僅ばかりを有するのみである、夜具も着換への着物も何にもいらぬ、唯風呂敷のやうなもの一枚あれば宜し、誠に單簡なもので、何處へ行くにも夫れだけさへ持つて行けば差支ないのである、衣食住の單簡なことは實に驚くばかりである、西洋人が這入りましてからは鐵道も四通八達し、學校も色々な程度のものが到る處に設けられた、然るに土人は殆んど此等文明の利器を利用しない、彼等は皆一種の宗教心を持つて居つて、旅をするにも容易に乘物には乘らぬ、跣足で以て如何なる處へでも自分の身代の鍋釜を携へて歩いて往く、又子供を學校へ出すなんぞと云ふこともしない、外人は印度人の最も輕蔑する所で、日本で言へば穢多同樣に見做して居る、然う云ふものの教育する所が彼等に喜ばれなく却て擯斥せらるヽに至るのは寧ろ當然である、誠に文明の餘澤は未だ印度の國に行渡つて居らないのであります、昔は色々な技術も進歩し、宗教、文學も盛に研究されたものであつたが、今も彼等は依然として其の形骸を守り、少しも他のものを入れやうとはしない、で今でも印度では織物であるとか、金物細工であるとか立派なものが出來る、併し器械を用ひて製造すると云ふやうなことは少しもない、皆手細工で、小さい小屋に在つて手で以て遣つて居る、祖先傳來の技術である、祖先傳來で職を嗣いで居る技術と云ふものは、總て新しい意匠とか新奇な工夫をするといふことはない、併ながら昔から傳へて居る職を其儘に受繼いでやつて居るだけに、中々宜いものを作り出すことが出來る、然う云ふやうな譯で印度人は總ての方面に於て非常に昔を貴ぶ慣習が盛なのであります、茲に御話します印度の聖人と云ふことも唯それが宗教的方面に顯はれ出たに過ぎないのであります。
宗教的方面に於て印度人は昔から一種の不思議なる行をやる、而して其の行によつて一種不思議なる働を爲す、斯の如き行を爲し、又其不思議な働きを爲すものをば印度人は聖人と名づけ、非常に尊重して居るのであります、其の行と申しまするのは、日本では隨分昔から言傳もありますから、聞いただけでは左程珍らしいとも思はれませぬが、定即ち禪定に入ると云ふことであります、印度では何れの宗派に屬するものでも入定と云ふことは非常に大切な事と成つて居る、我が肉體が其の儘に神となり、若しくは神以上のものもとなり[#「ものもとなり」はママ]、神祕不可思議なる力を得ることが出來るといふ信仰によつて、彼等は皆禪定に入らんと努めるのであります、而して此の定に入ると云ふことに就て、茲に一の不思議なるお話があるのである。
是れは餘り遠い古の話ではありません、曾てハリダースと云ふ印度人が居りました、此の人は近代に於て印度の聖人と言はれ非常に一代の人に尊敬された人であります、其故は此人が他の人間より勝つて長く定に入ることが出來たからであります、是に就ては英吉利人を始め各國人も度々試驗をしたのでありますけれども、實際想像も及ばぬ不思議な行をやつた、といふのは彼は一週間、二週間、三週間、四週間の間も定に入る、然うするとマルで死人同樣に成つてしまふ、が一定の時期が來ると再び生返つて來る、定に入つて居る間はマルで死人同樣だが、一定の時期の後には段々復活し、暫くにして元の人間に返つて仕舞ふ、で英吉利人も餘りに不思議なることであると云ふので、非常な嚴重な監督を附けて試驗をした事が何回もある、又印度には多くの回教徒が入込んで居りますが、是れは印度教の敵であり、何かと云ふと惡樣に言ひ觸らさんとするのである、で回教徒も是れを疑ひまして試驗したことがある。
扨此のハリダースが定に入らんとするに當つては先づ自ら幾日間定に入ると云ふことを極める、而して其の間棺桶の中へ入つて地面の下へ埋まれ、マルで空氣も何も通はぬやうにしてしまふ、それから豫定の三週間なり四週間なりの時日が經つと之を掘上げる、其時はマルで死人同樣であるが、一定の手段方法によつて段々生返つて來るのである、彼のハリダースと云ふ人間は一番長く此の定に入ることが出來たのであります、で尚詳しく定に入る時の状態をお話申しまするですが、先づ定に入る前の豫備からして話しませう、ハリダースが定に入る最初の手段は、先づ自分で呼吸を止めると云ふことであります、是れは印度人の定に入るものヽ皆やる所であつて、是をするには中々長い間の修業を要する、先づ舌を延ばして上の方へ卷上げて喉頭を押へて呼吸を自分で止めるのであるが、初少しばかり押へる間は尚ほ微に呼吸が通ずるが終りには死人同樣に全然息が止つて而も何等の苦痛を感じないやうになる、が此の息を止める前には尚色々の豫備が要る、で愈定に入ると云ふことになりますと、其の二三日前からして此のハリダースは下劑を飮みまして而して腹の中の物を下し、其の間は牛乳を少しばかりづヽ飮むが他のものは一切取らない、何でも腹の中に物があると工合が惡いと見えて、今日入定するといふ日になると一寸より少し廣い位な布の片で、長さは三丈ばかりもある所の細長いものを口からして飮み込む、素人には中々出來さうもないが、練習をすると容易に出來るやうになる、而して彼の布片を一度飮み込んでしまふと又た次第に片端から引上げて來る、是れはツマリ胃の中を掃除して穢い物や何かを取去る爲である、それからして又大きい風呂桶の樣な桶に自分の肩位迄浸るやうに水を灌ぎ、而して細い管を肛門に挿込んで、それから水を容れて吾々の灌膓すると同樣に、穢物を出して膓の掃除をする、夫れが終ると今度は綿に油のやうなものを浸して鼻の孔や耳の孔等を塞いでしまふ、而して地面へは大風呂敷のやうな布を敷いて、其上に所謂結跏趺坐するのであります、それから前に言つた舌を捲き上げ定に入るのである、其の定に入つた人のことを書いたものを讀みますると次のやうなことがある、ズツと坐り込むと初めには先づ何だか身體の内方々に音聲が聞える、是は或は血管中の血の循環と云ふやうなものかも知れぬが、心臟の邊から首の邊、夫れからして眼の中程の處にまで音がする、而して其音が段々色々に變つて來る、初は皷のやうな音がするが、次には海の浪のやうな音、夫れからして雷の響、鐘の聲、貝を吹くやうな音、笛のやうな音となり、終には蜂の鳴くやうな音が聞えると云ひます、夫れから眠るが如く定に入つてしまふのであります、而して此等の事は澤山の人間の見物の眞中でやるのである、愈定に入つて殆ど死人のやうに成つてしまふと、傍の者が下に敷いてある大風呂敷のやうなもので其體を包んで、之を棺桶の中へ入れ地面の下へ埋める、或は又其の儘にして打遣つて置いても宜い、一週間も斯う云ふことをやつて居るのは印度人には決して珍らしくない、がハリダースは四十日間も地中に在つて、何ともないと云ふのであるから、世人からは非常な尊敬を受けたのである、ハリダース自身の話に據れば、彼れは一年間やつても善いと云うて居る、一年間は試みた事はないが四十日間位は確にやつたのであります、一番初めて其の試驗をやりましたのが、西暦千八百二十八年でありまして、ハリダースを知つて居る印度の土人が或地方の裁判所の役人となつて居つた、其の人が非常にハリダースを信仰して居るので、何うか彼の不思議な働きを其地方の兵營の中で試驗して貰ひたいと軍司令官の處へ申出ました、併し英人は今まで實地を知らぬのであるから、若し死んでしまふやうな事があつては迷惑であると思ひ中々許さなかつたが、其の知人は既に實驗して居る事であるから、決して死ぬ氣遣ひはない、何卒嚴重な監督の下で試驗を遣つて貰ひたい、然うすれば世人の信用を博する上に於て非常な利益があるといつて再三願つた、司令官も夫れならば遣つて見たが宜からうと云ふので、終に試驗をやることになりました、其の時は兵營の中庭を擇びまして入定の處となし、無數の見物人の中で其の術を行ふた、ハリダースが定に入つてからは三尺ばかりの深さに掘つた地中に埋めた、のみならず萬一の詐欺を防ぐが爲に、二時間交代の番兵を置き、少しも他人の立寄ることを許さぬことにした、斯の如くにして三日ばかりは無事に經過したが、當時の軍司令官は其時私かに思ふには、自分はハリダースの試驗を許すは許したが、三日までも地下に埋め置き、食物も與へなければ水もやらず、空氣も通はぬ、彼は死ぬに相違ない、兵營の中で斯樣な事をして萬一人を殺しては法律上自分も責任を負はなければならぬ、迷惑であると甚だしく不安の心を生じて、直に掘出しを命じた、併し前の土人は一向差閊ない、當人自分が定から出ると云ふた通り夫れまで打遣つて置いて呉れと頼んだ、けれども何うしても聽かず、遂に三日目に掘り出した、處が其の體は既に冷く成つて死人同樣である、で軍司令官は是れはしまつた、何うしても死んだに相違ないと考へました處へ、ハリダースの弟子が來て色々な術を行つて、不思議にも到頭又生返つた、其の手術といふのは先づ油をハリダースの頭へ灑いで、而して頭を頻りと摩擦した、夫れから眼だの手だの足だの殊に心臟の處を摩擦する、ツマリ熱を發せしむるのであらう、然う云ふやうな工合に遣つて居ると、初め十五分間ばかりは何の異状もなく死人同樣であつたが、夫れから段々と生きて居るやうな兆候が現はれて來て、一時間の後マルで舊の如く生返つて了つた、身體も精神も平常と何等の違ひはなくなつた、印度人は斯う云ふ事をするものがあると、非常に豪い人、聖人であるとして三拜九拜し、神よりも以上のものとして居るのである、兎に角是れが最初の試驗で、夫れから又再三試驗をしたが、最後に前よりは九年ばかりの後、千八百三十七年の歳、最も嚴重な試驗を行ふた。
此時はハリダースが四十日間定に入つたのである、四十日間の入定は是れまで實驗のないことである、此時の塲所は、中央印度のラホールと云ふ都會で、當時此處に回教徒の王マハーラージヤ、ランジツド、シンと云ふ人があつた、此の王に英吉利人の侍醫があつて、王は其の侍醫と共に試驗をしたのである、王は元來回教徒であるから、初めからハリダースを信じない、彼は必ず詐欺を働くに相違ないと考へて居つた、此度實驗致しました處は王の宮殿の内でありまして、王の宮殿には四方に建物があつて中に廣い空地がある、其處へ一の小さな堂のやうな家がある、其中央に四尺ばかりの穴を掘り其の中へ彼れを埋めた、建物の四方には戸があるが、其の三方は悉く漆喰で密閉し、一方だけは入口として開けて置いたが、外から錠を※[#「缶+卩」、167-7]して錠の穴をも漆喰で固め封印を捺した、埋めた棺の上には葢をして、其の葢にも錠を※[#「缶+卩」、167-8]して、前と同じやうに漆喰をし封印を捺した、此如くして堂は四面共に密閉され、堂の中へは光線も空氣も這入らぬやうに成つて居る、夫から初回の時と同じやうに王は二人の番兵をして堂の前後を守衛せしめ、二時間交代で晝夜とも番を爲し、少しも他人の堂に近寄ることの出來ぬやうにして居つたのであります、愈四十日經つた所で、王は宮中の一切のものを連れ、又先の英人侍醫をも連れて堂の處へ來て檢分を爲した、其の時の有樣を記したものに據れば、先づ初めに堂の四方を檢したに、更に異状を認めない、そこで一方の戸口を開いて中へ這入つて見ると、内は眞暗で何となく陰氣である、而して其の内に入つて居る所のフアキル(フアキルとは苦行の人間をいふ、フアキルは亞拉比亞の貧者と云ふ意味の語であるが、後には宗教的生活を爲し苦行に從事するものは皆亦フアキルと稱することとなり、此の言葉が遂に印度に渡り、一般に用ひられたので、印度語ではヨーギ、若しくはヨーギン即ち行者と云ふことであります、其の行者)を埋めてある處の側へ行つて見ますと、棺は依然として元の通り、其處で外面の檢分が滯りなく濟んだから、愈葢を取つた、彼は白い布で包まれてある、其の時弟子が其處へ行つて其の包んだままで、彼を取出して其の上から熱い湯をブツ掛けた、夫れより袋を解いて行者の身體を取り出して試驗して見た所が、其の袋も既に四十日間も地下に埋つて居つたのであるから、處々に黴が生えて實に不快な臭がする、夫れから袋の裡では彼は坐つた儘で、全身皺だらけになつて居る、而して四肢はコワ張つて、其肉に觸れて見ても更に少しの温まりが無い、首は死人同樣に少しく横に肩の上に傾いて居る、胸にも腕にも脈搏と云ふものは一切ない、其の状態は殆ど死人同樣であつた、愈其檢分が濟んで、今度定より戻す時には、弟子が死人同樣になつて居る彼の肩の處へ再び湯を掛けて、能く體を温めた、夫からコワ張つて居る手足を擦り/\少しづつ延ばして行く、次に頭の上へ以て熱き小麥の粉のやうなものを振り掛け、冷ると熱いのと取り換へ、二三回ばかり同じことを繰り返し、今度は耳や其他の孔を埋めた油綿を取出す(耳に空氣を吹入れると鼻に詰つて居る綿が飛出ると云ふ、而して飛出るのが即ち生命の存する證據であると云ふことである)、それから齒は堅く喰ひしばつて居つて中々容易に開けない、其處で小刀の尖の樣なものを齒の間へ挿込んで、無理にコジ開け、左の手では顎を持つて、右の手の指で卷上げた舌を引出す、次には閉いで居る眼の瞼の上へバタの溶けたギーと云ふものを濺ぎ、而して之を摩する、數秒時經つと眼を開けさせるが、其の時は尚眼球も動かず光もない、今度は又例の熱い小麥の粉を額の處へ置く、すると體がピリツと痙攣的に運動を始める、夫れからして段々生活の兆候を表して鼻息をするやうになり、手足が生前の形に返へる、併しながら未だ脈搏は少しもない、夫れから又バタの溶けたギーを舌の上へ乘せて無理に飮込ませる、數分の後には眼が開いて平常のやうな光が出、是れで生返つてしまつた、是に於てハリダースは自分の傍に王の坐すことを始めて知つて、今や大王も亦己れを信ずるを得るであらうと云つたさうである、王も今は秋毫の疑ひを容るべき餘地を有しないので、其の不思議な事蹟に感じ大なる贈物をハリダースに與へて此の地を去らしめた、其の棺を初めて開いてから王に對して言葉を掛けたまでが殆ど三十分、其の後尚三十分ばかりの間は他の人と色々な話をして居たが、宛も病人のやうな有樣で何となく體が勞れて居るといふ状態であつた、併し見る中に次第に力を得、王の所を辭し去る時には、既に身體も精神も平常と少しの變化を認めなくなつたと云ふことであります、是れは何人も不思議とせざるを得ないであらう、或時の試驗には嚴重に守衛する代り、埋めた地面の上へ麥の種を播いた事もある、斯の如く幾度も/\試驗をやつたが、成績は常に同一である、此の如き死んだやうで、而も尚生活のある現象をば、學術上で假死と云ふ、假死と云ふ現象は他に幾らも例のあることである、例へば植物の種子の如きも、去年のものを今年播く、尚何年經つても一定の水分と一定の温度とを與ふれば其の芽を出さしむることが出來る、殆ど死んでしまつて居つたものが再び生返つて來るのである、動物にしても蛙や蚊の如きは寒くなると穴の中に這入つて飮みもせず食ひもせずに居つて、氣候が暖かくなるとそろ/\出て來る、植物だの動物だのに於て、斯う云ふ種類の現象は決して珍しいことではない、けれども印度の行者のやつて居ることは、果して動植物の現象と同じであるか否と云ふ事に就ては色々議論がある、成程一定の時期は身體作用が休止して居り、或時期には再び活動し始めるといふ事だけは兩者とも同じやうに見える、けれども動物のは不隨意的で、冬になると自然に眠るのであつて、行者のやるのは隨意的で何時でも欲する時勝手にやれると云ふのが第一違つて居る所である、又動植物の假死は氣候に關係し氣候の寒暖によつて出來るのであるが、行者のは氣候の變化には何等の關係なく、寒暑何時でも其定に入ることが出來る、是れが第二の違ひである、或人は言ふ、印度は熱帶地方であるから斯の如き事も出來るが、歐羅巴のやうな温帶地方や、寒帶地方では出來ないので、矢張り氣候の關係が然らしむるのであらうと、併し是れは誤つて居る、一定の修業をやると何處でも出來る、必ずしも印度でなければならぬと云ふことはない、日本でも先日淨土宗の人に聞きましたが、新潟縣の某處には定に入る坊樣があつて、一週間ばかり堂塲に籠り、其間は飮まず食はず不動の状態で居る(素より呼吸はして居るであらうが)、斯樣な人が段々修業をすればハリダースのやうな事も出來るのであらう、又西洋人でも短い間ならば現に彼れと同樣なことを爲して居るものもある、であるから動植物の假死と行者の假死とは稍其趣を異にするやうである。
印度では昔からかう云ふ行をやつて居るので、西洋人が印度へ旅行して何よりも先づ以て驚いて居るのは常に入定の事である、誰でも是には驚かない者はない、第十七世紀頃に印度へ入込んだ佛蘭西の宣教師スミノーと云ふ人の旅行記の中にも、印度行者の爲す所(前の假死のこと)は、實に驚くべき現象であると紹介して居る、夫れから後印度へ來た宣教師は非常に澤山あるが、何れも其旅行記の中多少此行者の事を書いて居ないものはない、實に是を不思議な事として居る、斯の如く此入定の奇蹟は極古い時からあるのであるが、但し中には又山師的な者もある、印度では前にも述べた通り斯る行者は非常に尊敬され供養を受くるのであるから、多くの中には山師的に世人を欺き、財貨を得んと欲する者も居るのであるから、決して之を以て眞正の行者と混同してはならぬ、千八百九十六年歐羅巴ハンガリーの都ブタペストと云ふ所に萬國博覽會が開かれました、此時二人の印度人がやつて來て、前に述べた樣な行をやつて觀覽に供すると云ふことを言ひ觸らし、彼等は二週間定に入り其の間飮まず食はぬと揚言した、而して大きな硝子函を作つて二人の印度人は其中に這入込み、何處からでも見えるやうにして實驗をやらした、彼等は果して如何にも殊勝に坐つて少しも動かず物も食はない、之を觀るものは誠に不思議なことであると感じて大評判となつた、爲にブタペスト大學や、維納大學の教授の醫學者或は心理學者が實驗をしたが、只不思議なことであるといふのみで少しも要領を得なかつた、所が是は山師的の見世物であつて、硝子函の葢が内から取外しの出來るやうに作られてあつて、彼等は夜中人の靜まつて後竊に其の葢を押開けて外へ出で、菓子だの牛乳だのを飮食し、人の知らぬ間に又其内へ忍び込み、日中には知らぬ顏をして定に入つた振をして居ると云ふ化の皮が偶然にも現はれて、到頭追拂はれて仕舞つたのである、彼等も毎晩飮食に出掛けたと云ふ譯ではなかつたらうが、折惡しく出た時人に見附られたのであります、兎に角印度では眞に不思議な事をやつて居る、而して現時の學術上では迚も十分な説明は附かぬ、只不思議な現象として殘つて居るのである。
更に一歩を進め、印度人は何の爲に斯の如き行をやるやうになつたかと云ふに、印度人は是を以て修業の第一歩、非常な大切な缺くべからざる勤であると考へたのであります、前にもいつた如く行即ち定に入ると云ふことは、印度に於ては何れの宗派にあつてもやらぬものはないので、行によつて禪定三昧に入ると我即ち自分の意識は無くなつて、其の我が神と同一體になることが出來ると云ふのである、而して我即ち神となることが出來れば天地一切の事理は明瞭透徹知らざることないのである、故に行と云ふことは神と我とを冥合せしむる手段であつて、其の行によつて神と我とが一體になれば神變不可思議力を得ることが出來るといふ強い信仰があるのである、此事は佛教の中にも屡現はれて居るのでありますが、印度では總てのものが斯く信じて疑はない、で例へば現在有りと在らゆる物、現世にある所のものは勿論、過去未來のものでも皆是を知り得て所謂一切智を成就する、何故かといへば總てのものは皆神の力によつて出來て居るものであるから、我既に神たる以上は我は即ち世界一切の物の本體であつて、世界一切のものは我の成す所である、我既に是を成すのであるから現在世界の一切のものを知ることが出來るのみならず、過去に於ては何う云ふものがあつたか、未來に於て何う云ふものが生ずるであらうかと云ふことも知らるるのである、此は一見不思議な事のやうでありますが、理論上からは説明の出來ないこともない、西洋でも例へばライブニッツと云ふ學者は夫れと同じやうなことを説いて居る、一體過去が變つて現在となり、現在が變つて未來となるのであるから、現在が明らかなれば是れから先何う變つて行くべきかと云ふことが判り、又何物から變化し來つたかといふことも知らるる筈である、從つて一切のものの前生が判る、印度では古來輪廻と云ふことを申しまして、生あるものは皆其働きの結果で天人乃至動植物界に迄輪轉して生を受けるのである、是れは佛教以前からして存する所の説で、佛教も亦固より之を唱へて居る、元來此に一の働きがあれば必らず其の結果がなければならぬ、而して前の働きの性質が善なれば後の結果も亦善、前が惡なれば後の結果も惡であると考へたのである、故に今生が判ると其の前生は何う云ふものであつたかと云ふことも推知し得らるる、夫からして生死の時日を前知することも出來る、此は日本の坊樣にも往々あることでありますが、何時何日に自分が死ぬと云ふことを前以て知るのである、夫れから天眼、天耳と云うて何んなものでも見え、何んな音でも聽くことが出來、又一切生物の音聲を聽分ける、蝉が鳴く聲を聽いて蝉は何と云うて鳴いて居るかと云ふことの意味を判ずる、論語に出て居る公冶長と云ふ人も雀の聲を聞分けると云ふことであるが是れも其の通りである、夫れから人も容貌擧動を見ると直に其如何なることを考へ、何を思うて居るかといふことも知り得らるる、アンな顏をして居るからアレは斯う思うて居るに相違ないと、人の考へて居ることを當てるのである、是れは素人にでも少しは判る、聲を聞いたり容貌を見たりすれば多少は其の心中の状態をも察せらるのである、禪宗の坊樣が人の足音を聽いても悟りが開けて居るか居らぬかが判ると同じである、夫れから身體を湮滅し所謂雲隱と云ふことが出來、又水中でも空中でも何處へでも自由自在に行く、尚不思議なのは體内から火焔を發し光明が耀いたり、或は自分の體を輕く毛の如くし、或は非常に重きこと大地の如くしたり、或は其の欲する所を思ひの儘に達しられるとか、總て斯う云ふ不思議なことが出來ると云ふのであります、で彼の聖人行者の目的とする所は全く然う云ふことにある、要するに入定の目的は我と神と一體たらしめ、茲に神變不可思議力を得んと欲するにある、印度人は此等の神通力に就ては、皆其の儘に即ち文字的に實際出來るものと考へて居るのであるから、此の入定者をば非常な聖人とし、吾々人間とは殆ど其の類の違つたものと考へるのであります、此の思想は釋迦の出世以前からありまして、夫から佛教と共に多少支那にも傳はり又日本へも傳はつて來たことであります、尚斯う云ふ行を爲すものは印度では何う云ふ種類階級の人であるかと云ふことを一言して置かう、元來印度にはバラモン(僧)、クシヤツトリア(王)、ヴアイシア(商工)、及びスードラ(奴婢)といふ四姓の階級があつて、其の内のバラモン姓のものが主として此の行をやつたのである、此のバラモンは其の生活を四段に分つ、第一は梵志、梵志は年の若い學問をする時代で、一定の師匠の所へ行きまして所謂バラモンの聖典を習ふ、是を梵志と云ふのは梵は淨業の義、淨業に志すからである、既にバラモン師の處で聖典を學び終ると第二の家長となる、妻を娶つて一家の子孫を斷絶せしめないと云ふことは、印度人に取つては非常に大切な義務である、で此時代には妻を娶り兒を生み其の間己は家長となつて祖先の靈を祀る、其の次が出家の時代、既に一家の相續者が出來、幾らか年が寄りますと其の家は自分の子に讓つて、自分は家を出て山林に入り專心に神に事へる、出家の時は妻と一處に行くこともあり、又獨り行くこともある、第四は隱者と云ふ、年老いて死に近くなると何處ともなく漂泊して歩き、住所不定で往きたい所に行き、哲學的思辨に耽るのである、で彼の行といふことは第三出家と云ふ時代以後にやるので、家で聖書を習つたり或は家長をやつて居る時代は未だ行は出來ない、家を出て仕舞つてから神に誓ひ、色々の苦行に從事することが出來るのである、而して初はバラモンのみが主として苦行に從事したものであるが、後になつては段々諸種の階級のものが誰でもやるやうになつた、苦行さへすれば悟りを開き、不可思議力が得、神と同體、若しくは神以上となり得ると云ふのであるから皆がやり始めるやうになつた、又普通は男ばかりであるが、中には女で以て行をやつて居るものもあるし、又近頃になつては歐羅巴人の混血兒で以て此の苦行に從事して居るものもある位である、ツマリ是れが人生第一の修業であり、修行中の第一の勤めであると考へて居るからであります。

底本:「叡山講演集」大阪朝日新聞社
   1907(明治40)年11月10日初版発行
初出:「叡山講演集」大阪朝日新聞社
   1907(明治40)年11月10日初版発行
※題名の下に「八月二日講演」の表記があります。
※題名の次行に「(京都文科大學教授[#改行]文學博士) 松本文三郎君」と著者名が表記されています。
※変体仮名と仮名の合字は、通常の仮名に書き換えました。
入力:はまなかひとし
校正:小林繁雄
2009年8月13日作成
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