「ほら、あれがお城だよ。」
 私は振り返つた。私の後ろからは円い麦稈帽に金と黒とのリボンをひらひらさして、白茶の背広は濃い花色のネクタイを結んだ、やつと五歳と四ヶ月の幼年紳士がとても潔よく口をへの字に引き緊めて、しかもゆたりゆたりと歩いてゐた。地蔵眉の眼が大きく、汗がぢりぢりとその両の頬に輝いてゐる。
 名鉄の電車を乗り捨てて、差しかかつた白い白い大鉄橋――犬山橋――の鮮かな近代風景のなかのことである。
 暑い暑い。パナマ帽に黒の上衣は脱いで、かかへて、ワイシャツの、片手には鶏の首のついたマホガニーの農民美術のステッキをついてゆく、その子の父の私であつた。
「うん、さうか。」
 父と子とはその鉄橋の中ほどで立ち停まると、下手向きの白い欄干に寄り添つて行つた。隆太郎は一生懸命に爪立ち爪立ちした。頤が欄干の上に届かないのだ。
 ちやうど八月四日の正午、しんしんと降る両岸の蝉時雨であつた。
 汪洋たる木曾川の水、雨後の、濁つて凄じく増水した日本ライン、噴き騰る乱雲の層は南から西へ、重畳して、何か底光のする、むしむしと紫に曇つた奇怪な一脈の連峰をさへ現出してゐる。その白金の覆輪がまた何よりも強く眼を射つたのである。その下流の右岸には秀麗な角錐形の山、(それは夕暮富士だと後で聞いたが)山の頂辺に細い縦の裂目のある小松色の山が、白い河洲の緩い彎曲線と程よい近景を成して、遙には暗雲の低迷した、それは恐らく驟雨の最中であるであらうところの伊吹山のあたりまでバックに、ひろびろと霞んだ、うち展けた平野の青田も眺められた。
 その左岸の犬山の城である。

 まことに白帝城は老樹蓊欝たる丘陵の上に現れて、粉壁鮮明である。
 小さな白い三層楼、何と典麗な、しかもまた均斉した、美しい天主閣であらう。この城あつて初めてこの景勝の大観は生きる。生きた脳髄であり、レンズの焦点である。まつたくかの城こそは日本ラインの白い兜である。
「お城には誰がゐるの。」
「今は誰もゐないんだ。むかしね、兵隊がゐたんだよ。」
 私はその子の麦稈帽を軽くたたいた。かの小さな美しい城の白光が果していつまでこの幼い童子の記憶に明り得るであらうか。そしてあの蒼空が、雲の輝きが。
 父はまたその子の麦稈帽を二つたたいた。私はひそかに微笑した。「すこし強く叩いて置け。」
 私の長男である彼隆太郎は、神経質だが、意志は強さうである。一緒に行く、汽関車に取り附いてでもついて行くと言つてきかないので、止むなく小さなリュックサックを背負はして連れて出たものだが、下りの特急の展望車で、大きな廻転椅子に絵本をひろげてゐた時にもこの子は一個の独自の存在であつた。食堂のテーブルに対ひ合つた僅な時間のひまにも、この子はおぼつかないながら、ナイフとフオクは確に自分の物として、焼きたてのパンや黄色いバタや塩つぱいオムレツの上にのぞんで、決して自分を取り乱さなかつた。箱根の嶮路にかかつて、後部の大きな硝子戸に、汽関車がぴつたりとくつ附き、そのまま轟々と真つ黒い正面をとどろかして押し登つた時にも、それを見たこの子はそれこそひとりで大喜びであつた。その夕方、名古屋の親戚の家の玄関に立つた時にも、別に鼻白みもしなかつた。彼が生れた日にだけしか彼を見なかつたその伯母さんが。
「ほう、おまへが降坊。まあ大きくなりましたね、おお、よく似てゐるわね、うちの子に。ほほほ。」
 よくまあお父さんについて来られましたね、と驚いて、その式台で微笑された時にも、この子はうんとだけ言つて笑つた。そうして自分で靴をぬぐとすぐに飛び込んで行つた。生みの母に初めて離れて遠い旅に出るこの子の母はよく言つてきかした。「ね、坊や、自分のことはみんな自分でするのですよ。」
 だから、その晩にも、彼はひとりで必死になつて上衣を脱いだり、パンツや、シャツの釦をはづしたり、寝衣に著更へたり、帯を結んだり、寝床にころがつたり、眠つたりした。
 その翌朝の今日のことである。柳橋駅から犬山橋までの電車の沿線には桑が肥え、梨が実り、青い水田のところどころにはほのかな紅い蓮の花が、「朝」の「八月」の香ひを爽やかな空気と日光との中に漂はしてゐた、さうしたすがすがしい眺めと薫りとをこの子はどんなに貪り吸つたことか。父とまた初めて旅するこの子の瞳はどんなに黒く生々と燃えてゐたことか。さうして酒徒としての私にはやや差し障りさうな道連ではあつたが、時とすると侮り難い小さな監督者であらうも知れぬが、だが、私自身にも寧ろ或はそれを望んだ心もちもあつた。
 私はわが子の両手を強く握つた。――よく一緒に遣つて来た。来てほんとによかつたのだ。
 まことに白帝城は日本ラインの白い兜である。
 おお、さうして、白い※(「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1-91-26)たけた昼のかたわれ月が、おお、ちやうどその白い兜の八幡座にある。

 白帝城に登つたのは、その上の麓の彩雲閣(名鉄経営)の楼上が、隆太郎の所謂「香ひのする魚」を冷いビールの乾杯で、初めて爽快に風味して、ややしばらく飽満した、その後のことであつた。
 その白帝園の裏手から葉桜の土手を歩いて右へ、緩いだらだら坂を少しのぼると、乾山焼の同じ構への店が竝んでゐる。それから廻ると、公園の広場になる。ところで、極彩色の孔雀が燦々きらきらと尾羽を円くひろげた夏の暑熱と光線とは、この旅にある父と子とを少からず喜ばせた。その隣の檻の金網の中には嬉戯する小猿が幾匹となく、頓狂に、その桃色の眼のまはりを動かすのである。
 さうだ、此処だつたなと私は思つた。金と黝朱うるみしゆの羽根の色をした鳶の子がちやうどこの対ひの角の棒杭に止つてゐたのを観た七八年のことを思ひ出したのである。私はあの時木菟みみづくかと思つた。ちかぢかと寄つて見ると、鳶は頭のまるい、ほんとに罪のない童顔の持主であつた。
 さうだつた、これが針綱神社だつたと私はまた微笑した。
 あの冬の名古屋市はまつたく恐怖と寒気とで、その繁華な、心臓の鼓動も停りさうであつた。悪性の流行感冒は日に幾十となくその善良な市民を火葬場に送つた。私もまた同じ戦慄の中に病臥して、きびしい霜と、小さい太陽と、凍つた月の光ばかりを眺むるより外はなかつた。旅で病むのは何と心細かつたことだらう。それに私は貧しいかぎりであつた。島村抱月氏の傷ましい訃報を新聞で知つたのもその時であつた。
 今、私の愛児は、幼年紳士は、急斜面の弧の、白い石の太鼓橋を欄干につかまりつかまり遮二無二匍ひ登らうとしてゐる。一行の誰彼が面白がつて、よいしよ/\と背後から押しあげてゐる。隆太郎は嬉々として声を立てる。やつと上つたところで、半ズボンの両脚を前へつる/\/\である。父の私も前廻りして手をうつて囃し立てる。
 昔と今と、変れば変るものだと、私は思ふ、さうだ、あの頃はまだ日本ラインといふ名すらさして知られてなかつたのだ。
「日本ラインといふ名称は感心しないね。毛唐がライン河を仏蘭西フランスの木曾川とも蘇川峡とも呼ばないかぎりはね。お恥かしいぢやないか」
「さうですとも、日本は日本で、ここは木曾川でいい筈なんで。」
 木曾川橋畔の雀のお宿の主人野田素峰子が直ぐと私に和した。
「みんながよくさう言ひますで。」
 私たちはいつのまにか、城の正面へと向ひつつあつた、軽い足どりで。
 浴衣に袴の、白扇を持つた痩形の老人が謹厳に私たちを迎へた。役場から見えてゐたのである。

 旧記に観ると、この犬山の城は、永享の末に斯波氏の家臣織田氏がこの地を領し、斯波満植が初めて築いたとある。斯波氏が滅びてから織田、徳川の一族が拠つて武威を張つた。小牧山合戦の際には秀吉も入城したことがあつたとかいふ。一時天下が家康に帰してからは、尾州侯の家老成瀬隼人が封ぜられた。それ以来明治維新まで連綿として同家九代の居城として光つた。
 現存の天主閣は慶長四年の秋に、家康が濃州金山の城主森忠政を信州川中島に転封したをり、その天主閣と楼櫓やぐらとを時の犬山城主石川光吉に与へた。それを翌る年の五月に木曾川を下してこの犬山に運び、之を築きあげたものである。斎藤大納言正茂の建築ださうである。

 この白帝城は美しい。その綜合的美観はその位置と丘陵の高さとが、明らかにして洋々たる河川の大景と相俟つて、よく調和し映照してゐるにある。加へて、蒼古な森林相がその麓からうち騰つてゐる。展望するに、はてしない平野の銀と緑[#「緑」は底本では「縁」]と紫の煙霞がある。山城としてのこのプランは桃山時代の粋を尽した城堡建築の好模型だといふが、さういへばよく肯かれる。
 ただ僅に残つて、今に聳える天主閣の正しい均斉、その高欄をめぐらし、各層に屋根をつけた入母屋作りの甍[#「甍」は底本では「薨」]、その白堊の城。
 外観こそは三層であるが、内部に入ればそれは五層に高まつてゆく。
 その五層の、昔ながらの木の階段をのぼる時、隆太郎は危ふくころびかけた。さうしてその従兄の八高生から引つ擁へてもらつた。
「何でこんなに暗いの、何でこんなに暗いの。」
 と言ひ言ひして上つて来た。

「あ、名古屋城が見える。」と、誰かが叫んだ。
 天主閣の最上層の高欄へ出たところで、私たちはまづ南方の大平野を瞰望した。きのふ電車で駛[#「駛」は底本では「※[#「馬+央」、77-下-14]」]つて来た沿線の曠田の緑と蓮池らしい薄紅の点綴が遙に模糊とした曇天光まで続いて、ただ一つの巒色の濃い小牧山が低く小さく欝屈してゐるその左に、髣髴として立つ紫の幻塔が見える。それが金城だといふのである。さう聞けば何か閃々たる気魄が光つてゐるやうでもある。
 その地平線は白の地に、黄と少量の朱と、藍と黒とを交ぜた雲と霞とであつた。その雲と霞は数条の太い煤煙で掻き乱されてゐる。鮮麗な電光飾の耀く二時間前の名古屋市である。
 東から北へと勾欄へついて眼を移すと、柔かな物悲しい赤と乾酪ヂーズ色の丘陵のうねりがしづかな日光の反射に浮き出してゐる隣に、二つの円い緑の丘陵が大和絵さながらの色調で竝んで、その一つの小高みに閑雅な古典的の堂宇が隠顕する。瑞泉寺山だと人が言つた。
 その山から継鹿尾つがのをからすヶ峰と重畳して、その背後から白い巨大な積雲の層がむくりむくりと噴き出てゐた。そのすばらしい白と金との向うに恵那、駒ヶ嶽、御嶽の諸峰が競つて天を摩してゐるといふのだ。見えざる山岳の気韻は彼方にある。何と籠つた葡萄鼠の曇。
 と、蕭々として、白い鉄橋の方へ流るる蝉のコーラスである。
 爆音がする。左岸の城山に洞門を穿つのである。奇岩突兀として聳つその頂上に近代のホテルを建て、更に岸石層の縦穴をくりぬき、しんしんとエレベーターで旅客を運ぶ計画ださうである。
 と、見ると、遊覧船は屋形、或は白のテントを張つて、日本ラインの上流より矢のやうに走つて来る。その光、光、光。恰も中古伝説レヂエンドの中の王子の小舟のやうにちかりちかりとその光は笑つて来る。「おうい。」と呼びたくなる。
 中仙道は鵜沿うぬま駅を麓とした翠巒の層に続いて西へと連るのは多度の山脈である。鈴鹿は幽かに、伊吹は未だに吹きあげる風雲の猪色にその山頂を吹き乱されてゐる。
 眼の下の大河を隔てた夕暮富士を越えて、鮮かな平蕪の中に点々と格納庫の輝くのは各務かがみヶ原の飛行場である。
 西は渺々たる伊勢の海を眼界の外に霞ませて、河口へ到る石舟の白帆は風を孕んで、壮大な三角洲の白砂と水とに照り明つて、かげつて、通り過ぎる。低く、また、ひろびろと相隔たつた両岸の松とやなぎと竹藪と、さうして走る自転車の輪の光。
 白帝城は絶勝の位置にある。

 私は更に俯瞰して、二層目の入母屋の甍[#「甍」は底本では「薨」]に、ほのかに、それは奥ゆかしく、薄くれなゐの線状の合歓ねむの花の咲いてゐるのを見た。樹木の花を上からこれほど近く親しく観ることは初めてである、いかにも季節は夏だと感じられる。
 絶壁の上の楓の老樹も手に届くばかりに参差と枝を分ち、葉を交へて、鮮明に、澄んで閑かな、ちらちらとした光線である。
 幾百年と経つた大木の樟は樹皮は禿げ、枝[#「枝」は底本では「技」]は裂けていい寂色に古びてゐる。その梢の群青を鴉がはたはたと動かしてまる。かをォかをォである。
 古風な白帝城。

 水道の取入口は河に臨んで、その城の絶壁の下にあつた。
 私たちは城を降りると、再び暑熱と外光の中の点景人物となつた。ひらひらと、しきりに白い扇が羽ばたき出した。
 公園からだらだらの坂を西谷の方へ、日かげを選み選み小急ぎになると、桑畑の中へ折れたところで、しをらしい赤い鳳仙花が眼についた。もう秋だなと思ふ。
 簡素な洋風の家がある。入口は開けつぱなしで、粗末な卓に何か仕事してゐるワイシャツの人がある。役場の老人がそこで何かと挨拶をする。幽かに私の名を言つてゐる。
 私たちは洞門に入る。外へ出ると豁然とひらけて、前は木曾の大河である。
 この大河の水は岩礁を割いた水道のコンクリートの堰と赤錆びた鉄の扉の上を僅に越えて、流れ注いで、外には濁つた白い水沫と塵埃とを平らかに溜めてゐるばかりだ。何の奇も無い閑けさである。
「この水が名古屋全市民の生命をつないでゐるのです。」と詰襟をはだけた制帽の若者が説明する。
 私たちは引返して、洞門をくぐると、二台の計算機の前に出た。幽かに廻つてゐる円筒の方眼紙の上に青いインキが針から滲んで殆ど動くか動かぬかに水量と速度とをぢりぢりと鋸形に印して進む。そこで若者は三和土たたきの間の方五六尺の鉄板の蓋を持ちあげる。暗々たる穴の底から冷気が颯と吹きあげる。水は音なく流れて、地下十八尺の深さを、遙の大都会へ休みなく奔りつつ圧しつつある。しんしんとしたその奔入。
 詩歌の本流といふものもちやうどかうした深処にあつて、幽に、力強く流るるものだ。この本流のまことの生命力を思はねばならない。
 私は隆太郎の首をしつかと後ろから抱いた。

 彩雲閣へ戻ると、小坊主は直ぐと名古屋へ帰ると言ひ出した。名古屋の伯母さんは、昨夜この子の母に長距離の電話をかけてゐた。「病気でもされると申訳がありませんしね。それにお菊さんもまだ一度も里帰りしないのですから丁度いい折ですし、呼びませうか。」といふことであつた。それに従兄弟たちは大勢だし、汽車や電車の玩具はあるし、都会は壮麗だし、何か早く帰りたいらしかつた。
「ぢやあ、さうするか。たのむよ。」と私は甥の八高生にその子を託した。

 空は薄明となる。パッと園内のカンツリーホテルに電燈がつく。白、白、白、給仕とテーブル。
 かへろかへろと、どこまでかへる。
 赤いのつく三丁さきまでかへる。
 かへろが啼くからかァへろ。

 竝木の鈴懸の間を、夏の遊蝶花の咲き盛つた円形花壇と緑の芝生に添つて、たどたどと帰つてゆく幼年紳士の歌声がきこえる。
「おうい。」
 私は二階の欄干へ出て、両手をあげる。
「ほうい。」
 向うでもこちらを見て両手をあげる。
 白いかたわれ月は黄に明るく匂つて来る。さうしてその空の、私からは見えぬほのかに白い白帝城を、私の小さい分身の子どもが、立つて、停つて、仰いでゐる。

ちかぢかと城の狭間さまより見おろしてこずゑの合歓ねむのちりがたのはな(白帝城)
花火過ぎ水にただよふ椀殻わんがらにほの鳥よりなほあはれなり
(犬山より木曾川を下る)
水車船瀬々にもやひて搗く杵のしろくかそけき夏もいぬめり

底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
初出:「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」
   1927(昭和2)年7月
※初出紙に「木曽川」と題して連載したものの一部である旨が、底本の巻末に記載されている。
※疑問箇所の確認にあたっては、「白秋全集 22」岩波書店、1986(昭和61)年7月7日発行を参照しました。
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
ファイル作成:
2004年5月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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