われさへや つひに来ざらむ。とし月のいやさかりゆく おくつきどころ
ことしは寂しい春であった。目のせいか、桜の花が殊にうるんで見えた。ひき続いては出遅れた若葉が長い事かじけ色をしていた。畏友いゆう島木赤彦を、湖に臨む山墓に葬ったのは、そうした木々におおわれた山際の空の、あかるく澄んだ日である。私は、それから「しもの諏訪」へ下るみちすがら、ふさぎの虫のかかって来るのを、しりぞけかねて居た。一段落だ。はなやかであった万葉復興の時勢が、ここに来て向きを換えるのではないか。赤彦の死は、次の気運の促しになるのではあるまいか。いやむしろ、それの暗示の、しずかな姿を示したものと見るべきなのだろう。
私は歩きながら、瞬間歌の行きついた涅槃那ねはんなの姿を見た。永い未来を、遥かにねて言おうとするのは、知れきった必滅を説く事である。唯近い将来に、歌がどうなって行こうとして居るか、其が言うて見たい。まず歌壇の人たちの中で、はばかりなく言うてよいことは、歌はこの上伸びようがないと言うことである。更に、も少し臆面ない私見を申し上げれば、歌は既に滅びかけて居ると言う事である。

   批評のない歌壇

歌を望みない方へ誘う力は、私だけの考えでも、すくなくとも三つはある。一つは、歌のけた命数に限りがあること。二つには、歌よみ――私自身も恥しながら其一人であり、こうした考えを有力に導いた反省の対象でもある――が、人間の出来て居な過ぎる点。三つには、真の意味の批評の一向出て来ないことである。まず三番目の理由から、話の小口こぐちをほぐしてゆく。
歌壇に唯今、専ら行われて居る、あの分解的な微に入り、細に入り、作者の内的な動揺を洞察――時としては邪推さえしてまで、丁寧心切を極めて居る批評は、批評と認めないのかといきまく人があろう。私は誠意から申しあげる。「そうです。そんな批評はおよしなさい。宗匠の添刪てんさんの態度から幾らも進まないそんな処に※(「彳+詆のつくり」、第3水準1-84-31)ていかいして、寂しいではありませんか。勿論私も、さびしくて為方がないのです。」居たけ高なと思われれば恥しいが、此だけは私に言う権利がある。実はああした最初の流行のようを作ったのは、私自身であったのである、と言う自覚がどうしても、今一度正しい批評を発生させねば申しわけのない気にならせるのである。海上胤平翁うなかみたねひらおうのした論難の態度が、はじめて「アララギ」に、私の書いた物を載せて貰う様になった時分の、いきんだ、思いあがった心持ちの上に、極めて適当に現れて居たことを、今になって反省する。歌は感傷家程度で挫折ざせつしたが、批評の方ではさすがと思わせた故中山雅吉君が、当時唯一人、私の態度の誤りを指摘して居る。なんの、そんな事言うのが、既に概念論だ。これほど、実証的なやり口があるものか、と其頃もっとわからずやであった私は、かまわず、そうした啓蒙けいもう批評をいい気になって続けて居た。今世間に行われて居る批評の径路を考えて見ると、申し訣ないが、私のやった行きなり次第の分解批評が、大分煩いして居るのに思いいたって、冷汗を覚える。此が歌壇の進歩の助勢になった事だったら、どんなに自慢の出来る事かと思うと残念だ。其私自身が言うのだから、尠くとも、此方面に関してだけは、間違いは言わない筈である。
難後拾遺集・難千載集以後歌集の論評は、既に師範家意識が出て居て、対踵地たいしょうちに在る作者や、団体に向けての排斥運動だったのである。私にも、そうした師範家に似た気持ちが、全然なかったとは言えないのが恥しい。その如何にも批評らしい批評がいけないとすれば、どんな態度を採るのが正しいのであろう。
批評の本義を述べ立てるのは、ことごとしい様で、気おくれを感じるが、他の文学にそうした種類の「月毎評判記」めいたものが行われて居るから、少しは言ってもさしつかえのない気がする。批評は作物の従属でないと言う事は、議論ではきまって居る様でいて、実際はなかなか、昔ながらである。作家が批評家を見くだし無視しようとする気位は、まずありうちの正しくない態度であるが、前に言った「月毎評判記」の類では、評家自身は、作物の一附属としての批評を綴っているに過ぎないことになる。ほんとうの批評は、作物の中から作家の個性をとおしてにじみ出した主題を見つける処にある。この主題も、近代劇によく扱われている――而も菊池寛氏が、其を極めてむき出しな方法で示している――様なのを言うとする人々に同じたくない。主題を意識の上の事とするから、そう言った作物となって現れもし、読者たちにも極めて単純にして、聡明そうめいなるに似た印象を与えるのである。けれども主題と言うものは、人生及び個々の生命の事に絡んで、主として作家の気分にのしかかって来た問題――と見る事すら作家の意識にはない事が多い――なのである。其をとり出して具体化する事が、批評家のほんとうの為事しごとである。さすれば主題と言うものは、作物の上にたなびいていて、読者をしてむせっぽく、息苦しく、時としては、故知らぬ浮れ心をさえ誘う雲気うんきの様なものにたとえる事も出来る。そうした揺曳ようえいに気のつく事も、批評家でなくては出来ぬ事が多い。更にその雲気が胸をおさえるのは、どう言う暗示を受けたからであるかを洞察する事になると、作家及び読者の為事でない。そうした人々の出来る事は、たかだか近代劇の主題程度のものである。批評家は此点で、やはり哲学者でなければならぬ。当来の人生に対する暗示や、生命に絡んだ兆しが、作家の気分に融け込んで、出て来るものが主題である。其を又、意識の上の事に移し、其主題を解説して、人間及び世界の次の「動き」を促すのが、ほんとうの文芸批評なのである。
だから狭い意味では、その将来の方角を見出して、作家の個性を充して行ける様に導いて行くのが批評家の為事であり、も少し広くすると、人間生命の裏打ちになっている性格の発生を、更に自由に、速やかならしめるものでなくてはならぬ。外的に言えば人間生活の上の事情を、違った方角へ導いて、新しい世の中を現じようとする目的を持ったものであることである。
小説・戯曲の類が、人生の新主題をもたらして来る様な向きには、詩歌は本質の上から行けない様である。だから、どうしても、多くは個々の生命の問題に絡んだ暗示を示す方角へ行く様である。狭くして深い生命の新しい兆しは、最鋭いまなざしで、自分の生命を見つめている詩人の感得を述べてる処にすまって来る。どの家のいどでも深ければ深い程、竜宮の水を吊り上げる事の出来る様なものである。此水こそは、普遍化の期待に湧きたぎっている新しい人間の生命なのである。叙事の匂いのつきまとった長詩形から見れば、短詩形の作物は、生命に迫る事には、一層の得手を持っているわけである。

   短詩形の持つ主題

俳句と短歌とで見ると、俳句は遠心的であり、表現は撒叙式である。作家の態度としては叙事的であって、其が読者の気分による調和を、目的としているのが普通である。短歌の方は、求心的であり、集注式の表現を採って居る。だから作物に出て来る拍子は、しなやかでいて弾力がある。読者が、自分の気持ちを自由に持ち出す事は、正しい鑑賞態度ではない。ところが芭蕉の句はまだ、様式的には短歌から分離しきって居ない。それは、きれ字の効果の、まだ後の俳句程に行って居ない点からも観察せられる。芭蕉の句に、しおりの多いのも、此から出て居る。併しながら元々、不離不即を理想にした連俳出の俳句が、本質の上に求心的な動きを欠いて居る事は、確かである。此点に於て、短歌は俳句よりも、一層生命に迫って行く適応性を持って居ることはわかるであろう。唯、明治・大正の新短歌以前は、その発生の因縁からして、かけあい頓才とんさい問答・あげ足とり・感情誇張・劇的表出を採る癖が離れきらないで居た。其為に、万葉集以後は、平安末・鎌倉初期に二三人、玉葉・風雅に二三人、江戸に入って亦四五人、此位のわずかな人数が、求心努力を短歌の上に試みたきりである。だから此点から見れば、短歌の匂いをいで、而も釈教歌から展開して来たさびを、凡人生活の上に移して基調とした芭蕉の出た所以ゆえんも、納得がゆく。同時に長い年月を空費した短歌から見ると、江戸の俳句の行きあしは遥かに進んで居る。
而も俳句がさびを芸の醍醐味だいごみとし、人生に「ほっとした」味を寂しく哄笑こうしょうして居る外なかった間に、短歌は自覚して来て、値うちの多い作物を多く出した。が、批評家は思うたようには現れなかった。個性の内の拍子に乗ってあらわれる生命も、此を見出してくれる人がない間は、一種の技工として、意識せられ、当人のしばしば同一手法に安住することは勿論、追随者によって摸倣もほうせられるのである。島木赤彦が苦しんで引き出した内律、そうして更に其に伴って出た生命は、一片の技工に化して了った様な場合の多かった事を思う。茂吉さんの見出した新生命は、其知識を愛する――と言うより、知識化しようとねがう――性癖からして、『赤光』時代には概念となり、谷崎潤一郎の前型と現れた。
正岡子規に戻って見る。この野心に充ちた気分からは、意識的に動きそうに見えながら、態度はその反対に、極めて関心のないものであった。その平明な日常語を標準とした表現と、内容としての若干の「とぼけ」趣味が、彼の歌を新詩社一流の、あつい息ざしを思わせるものとは懸け離れた、淡い境地をひらかしたのである。
芭蕉には「さび」の意識があり過ぎて、概念に過ぎないものや、自分の心に動いた暗示を具体化し損じて、とんでもない見当違いの発想をしたものさえ多い。「くたぶれて、宿かる頃や 藤の花」などの「しおり」は、俳句にはじまったのではなく、短歌の引き継ぎに過ぎない。でも「さび」にとらわれないで、ある生命――実は、既に拓かれた境地だが――を見ようとして居る。「山路来て 何やら、ゆかし。すみれぐさ」。これなどは確かに新しい開拓であった。「何やら」と概念的に言う外に、表し方の発見せられなかった処に、ほのかな生命に動きが見える。これも「しおり」の領分である。歌は早くから「しおり」にはけて居た。「さび」は芭蕉が完成者でもあり、批評家でもあったのだ。

   子規の歌の暗示

子規は月並風の排除に努めて来た習わしから、ともすれば、脚をとる泥沼なる「さび」に囚われまいと努め努めして、とどのつまりは安らかな言語情調の上に、「しおり」を持ち来しそうになって居た。而もあれほど、「口まめ」であったにかかわらず、其が「何やらゆかし」の程度に止って、説明を遂げるまでに、批評家職能を伸べないうちに亡くなって行った。
ていぶるの 脚高づくゑとりかくみ、緑の陰に 茶をすする夏
平明な表現や、とぼけた顔のうちに、何かを見つけようとしている。空虚な笑いをねらったばかりと見ることは出来ないが、尻きれとんぼうの「しおり」の欠けた姿が、久良岐くらきらの「へなぶり」の出発点をつくったことをうなずかせる。
霜ふせぐ 菜畠の葉竹 早立てぬ。筑波嶺おろし がんを吹くころ
「しおり」は、若干あるが、俳句うつしの配合と季題趣味とがありあまって居る。殊に岡麓氏の伝えられた子規自負の「がん」と言うみ方なども、平明主義と共に、俳句式の修辞である。(又思う、かりと訓むと、一味の哀愁が漂うような処のあるのを、気にしたのかも知れない。)何にしても、此歌は字義どおりの写生の出発点を見せているので、生命の暗示などは、問題にもなって居ないのだ。
若松の芽だちの葉黄みどり ながき日を 夕かたまけて、熱いでにけり
本質的に見た短歌としては、ある点まで完成に近づいたものと言えよう。平明派であり、日常語感を重んじる作家としての子規である。古語の使用は、一種の変った味いの為の加薬に過ぎなかった。用語の上の享楽態度が、はっきり見えて居るのだ。弟子の左千夫の使うた古語ほども、内的には生きて居ない。人生の「むせっぽさ」をまぎらす為の「ほっとした」趣味なのである。此歌の如きは、主観融合の境に入って居ながら、序歌は調和以上に利いて居る。頓才さえ頭を出して居るではないか。「夕かたまけて……」も内律と調和せぬほどの朗らかさと張りとがある。没理想から受けた弊であろう。
瓶にさす藤の花ぶさ 短かければ、畳のうへに とどかざりけり
この歌まで来ると、新生命の兆しは、完全に紙の上に移されて居る。根岸派では、子規はじめ門流一同進むべき方向を見つけた気のしたこと、正風に於ける「古池や」と一つ事情にあるものである。が、さて其を具体化することは出来ないで了った。その引き続きとして、此歌は漠然たる鑽仰さんこうめどに立って居る。此歌とは比較にもならぬ、とぼけ歌や英雄主義――子規の外生活に著しく見えた――をおもかげにしたたかくくりの歌などの「はてなの茶碗」式な信仰をつないで居る類と、一つことにたたえられて居る。私にもまだよくは此歌の含むきざしは説明出来そうもないが、一つ言うてみよう。畳と藤の花ぶさの距離に注意が集って、そこに瞬間の驚異に似て、もっと安らかな気分に誘う発見感があったのである。これを淡い哀愁など言う語で表す事は出来ない。常臥とこぶしの身の、臥しながら見るかすかな境地である。主観排除せられて、虚心坦懐きょしんたんかいの気分にぽっかり浮き出た「非人情」なのではなかろうか。漱石の非人情論は、主旨はよくて説明のあくどい為に、論理がはぐれて了ったようである。結局藤の花の歌は、こうした高士の幽情とは違った、凡人の感得出来る「かそけさ」の味いを詠んだものなのであろう。
最近の茂吉さんの歌に、良寛でもないある一つの境地があらわれかけたのは、これの具象せられて来たのではないかと心愉こころたのしんで見て居る。氏は用語に於いて、子規よりも内律を重んじた先師左千夫の気質をいで、更に古語によらなければ表されない程の気魄きはくを持って居る。赤彦のはじめた『切火』の歌風は、創作家の新感覚派に八九年先んじて出て、おなじ手法で進もうとする技工本位の運動であった。其が、赤彦のたしむ古典のがっしり調子と行きあって、方向を転じて了うたが、『氷魚』の末から『太※(「虍/丘」、第3水準1-91-45)集』へわたる歌口なのだ。そのかみ「切火評論」を書いた私などは、此方角を赤彦の為に示すだけの力のない、微々たるあげ脚とりに過ぎなかったことを思うと、義理にも、批評のない歌壇を慨嘆する様な顔も出来る所ではないのだったが。
文芸の批評は単に作家の為に方角を示すのみならず、我々の生命に深さと新しさとをき出して来ねばならぬ。その上、我々の生活の上に、進んだ型と、普通の様式とを示さねば、意義がない。短詩形が、人生にあずかることの少いことは言うたが、社会的には、そう言うても確かな様である。併しその影響が深く個性にみ入って、変った内生活をひらくことはある。芭蕉の為事しごとの大きいのは、正風に触れると触れぬとの論なく、ほうっとした笑いと、人から離れて人を懐しむゆとりとを、凡人生活の上に寄与したことにある。
私は、歌壇の批評が、実はあまりに原始の状態に止って居るのを恥じる。もっと人間としてのひろさと、祈りと、そうして美しい好しみがあってよいと思うのである。

   歌人の生活態度から来る歌の塞り

短歌の前途を絶望と思わせる第二の理由は、歌人が人間として苦しみをして居な過ぎることである。わば[#「わば」は底本では「はば」]懐子ふところご或は上田秋成の用語例に従えば、「ふところおやじ」である人さえ多すぎる為である。もっと言い換えるのもよいかも知れぬ。生みの苦しみをわりあいに平気で過している人が多いと。もっともおべんちゃらでなしに、私の友人たちは勿論、未知の若い人々の間にも、私の心配とうらはらな立派な生活の生き証拠としての歌を発表する人も、随分とある。併し概して、作物の短い形であると言う事は、安易な態度を誘い易いものと見えて、口から出任せや、小技工に住しながら、あっぱれ辛苦の固りと言った妄覚を持って居る人が多い。口から出任せも、吉井勇さんの様なのは、所謂いわゆる悪人――失礼だが、たとえが――成仏に徹する望みは十分にある。ふところ子・ふところ爺のなま述懐に到っては、しろうと本位である短歌の、昔からの風習がのろわしくさえ思われるのである。
短歌は、成立の最初から、即興詩であった。其が今におき、多くの作家の心を、わるい意味で支配して居る。つまりは、認識の熟せない、反省のゆき届かないものをほうり出すところに、作家の日常の安易な生活態度がのり出して来るのである。この表現に苦しむことが、亡き赤彦の所謂鍛煉道たんれんどうの本義である。そうしてこそ、人間価値も技工過程に於て高められて来るのである。併しながらそこまでのこらえじょうのないのが、今の世の歌人たちの心いきである。それは鼻唄もどきの歌ばかり作って居た私自身の姿を解剖しても、わかることである。
この表現の苦悩を積むほかに、唯一つの違った方法が、技工の障壁を突破させるであろう。古代詩に著しく現れた情熱である。その激しい律動が、表現の段階を一挙に飛躍せしめたのである。ところで、澆季ぎょうき芸術の上に、情熱の古代的迸出へいしゅつを望むことは出来ない。我々の内生活を咄嗟とっさに整理統一して、単純化してくれる感激を待ち望むことが出来ないとすれば、もっと深い反省、静かな観照から、ひそかな内律をひき出す様にする事が、更に歌をよくし、人間としての深みを加えることになる。けれどもここに、一つ考えねばならぬ事は、我々の祖先の残した多くの歌謡が、果して真の抒情詩かどうか、と言う事になると、すくなくとも私だけは、二の足を踏まないでは居られない。古典としての匂いが光被して、あくや、脂気を変じて、人に迫る力としていることも、否まれない。
巌門いはと力もがも。たわやをみなにしあれば、すべの知らなく
手持女王
(万葉集巻三、四一九)
これは挽歌ばんかとして、死霊をなごめる為の誇張した愛情である。
稲つけば、かゝる我が手を 今宵もか 殿の若子わくごがとりてなげかむ
(同巻十四、三四五九)
これが婢奴めやっこの独語とすれば、果して誰が聞き伝えたのであろう。これは必、劇的誇張を以て、共通のやるせなさをそそろうとする叙事詩脈の物の断篇に違いない。こうした古代の歌から、我々が正しく見ることの出来るは、結局生活力の根強さだけと言うことになる。

   万葉集による文芸復興

赤彦が教職を棄てて上京して以来の辛苦は、誠に『十年』である。而も其間に、むくいられ過ぎるほどに、世間は響応した。かえって、世間が文芸復興に似た気運に向いていた処だから、「アララギ」の働きが、有力にとりこまれたもの、と見る方が正しいのかも知れぬ。子規以来の努力は、万葉びとの気魄きはくを、今の心に生かそうとすることにあった。そうした「アララギ」歌風が――新詩社盛時には、我ひと共に思いもかけなかった程に――世間にとり容れられ、もてはやされた。時勢が古代人の純な生命をとりこもうとし、又多少、そうした生活様式に近づいて来ていたから、とも言うことが出来よう。而も此を直に分解して、個々の人の上にも、同じ事情を見ようとすると、案外な事だらけである。なる程世間は張って居る。可なり太く強く動いて居る。併しその影響から、万葉の気魄や律動を、適当に感じ、受け入れることが出来る様になったとしても、短歌の作者が、必しも皆強く生きて居るものとは、きめられない。事実、流行化した文芸復興熱にひきずられた盲動に過ぎなかったことは、悲観する外はない。だから、一両年此方、段々ある落ちつき場処を求めた様子を見ると、万葉の外殻をかぶって、叙景詩に行き止ったものは、まだしも、多少の生きた気魄を感じることは出来るが、外々の者は、皆一列になまぬるい拍子を喜ぶ様になって、甚しいのは、前にも言った新古今あたりになずみ寄ろうとして居る。而も「アララギ」自身すら、ようやく其拍子を替えて来たのに心づかない人はないだろうと思う。が、世間には存外、『十年』一冊の初めとしまいとに見える韻律の変化に気づかない人もある様である。此変化は、主として茂吉が主動になって居る様である。その洋行前、従来なるべく避けた、所謂「捨てや」なる助辞を、子規・左千夫の歌に対する親しみから、極めてすなおにとりこんでいた。アララギ派ではすべての人が、新しい発想法を見出して貰った程の喜びで、なぞって行った。茂吉帰朝後、作る歌にも作る歌にも、すべての人が不満の意を示した。が、私は茂吉自身の心にひらめく暗示を、具体化しようとしてあせっているのだと思い、時としては、其が大分明らかに姿を見せかけて来るのを喜び眺めた。此が的をはずれて(?)、従来の持ち味及び、子規流の「とぼけ」からする、変態趣味の外皮を破って「家をいでてわが来し時に、渋谷川(?)卵の殻が流れ居にけり」の代表する一類の歌となって現れた。其後、茂吉は長い万葉調の論を書いた。畢竟ひっきょう其主張は、以前の、気魄強さに力点を置いたのから、転化して来たことを明らかにしている。恐らく内容の単純化から、更に進んで気分の斉正という処まで出て来たと言われよう。良寛から「才」をとりのけた様な物を、築き上げる過程にあるらしい。此を以て茂吉は尚、万葉調と称して居るが、実は既に茂吉調であって、万葉の八・十、或は十七・十八・十九・二十などとも違ったよい意味の後世風おとつよぶりであることは、疑うことの出来ぬ事実である。私は世間の万葉調なるものが、こうした新しい調子に出て、陣痛期を脱しようとするのかと考えている。
尚他の「アララギ」の人々で見ると、文明の、あの歌を鴎外で行ったような態度から、更に違った方角に向おうとして居るのに注意したい。「アララギ」同人中、最形の論理的に整うて居た文明の作風が、『ふゆくさ』以後、自ら語の正確さを疑い出したものか、此までどおり明確・端正を保って居ながら、ある点に達すると手を抜く、と言う様な手法を発見した様である。よい計画だと思うが、私の疑念を抱く所は、初期新傾向の俳句の流行句法であった「……しが」と言う近頃はじめた表現法は、万葉の「……しかば」を逆に行った様でもあり、又堅固な言語情調を喜び過ぎて居る様にも感ぜられる。ともかくも、この手を抜く手法から来る散文に近い印象を、或は一種の兆しと誤認して居るのではあるまいか、と案じている。茂吉風・文明風が、今後「アララギ」の上で、著しい違い目を見せて来るであろうと思う。こうして懐しい万葉ぶりの歌風は過ぎ去って、ついにおさまるべき処におさまる事になるのであろう。そうして、万葉調に追随して来た人々は、又更に新しい調子の跡を追おうとして居る。
この以外にも、「日光」その他について述べたいが、今は流行の歌風について論じるのであるから、まだその中心たる地位を保って居る「アララギ」ばかりを、めどに据えたのである。思えば世間は、おおよそは旗ふる人の手さばきのままである。歌の上に於て、我々を喜ばした文芸復興は、これでしばらくは、中入りになるのであろう。

   歌人の享楽学問

この様に考えて来ると、信頼出来る様に見えた古人の気魄きはく再現の努力も、一般の歌人には、不易性をそなえぬ流行として過ぎ去りそうである。年少不良の徒の歌に、私はしばしば、飛びあがる様に新しくて、強い気息を聴いて、ひそかにうらやみ喜んだ事も、挙げよとなら若干の例を示す事が出来る。不良のともがらも、其生命をぐうするに適した強い拍子に値うて、胸を張っていたのだ。其程感に堪えた万葉風の過ぎ去るのは、返す返すも惜しまれる。歌壇に遊ぶこうした年少不良で、享楽党の人々は、万葉ぶりに依ってこそ、正しい表現法を見出すことが出来たのだ。其が今後、段々気魄の薄い歌風の行われようとする時勢に、どう言う歩みをとることであろう。
私の今一つ思案にあぐねて居るのは、歌人の間における学問ばやりの傾向である。此は一見すこぶる結構な事に似て、実は困った話なのである。文学の絶えざる源泉は古典である。だからどんな方法ででも、古典に近づく事は、文学者としてはわるい態度ではない。けれども、其も、断片知識の衒燿ひけらかしや、随筆的な気位の高い発表ばかりが多いのでは困る。唯の閑人ひまじん為事しごとなら、どうでもよい。文学に携る人々がこれでは、其作物が固定する。白状すれば、私なども僭越せんえつながら其発頭人の一人である。作物の上に長く煩いした学問のとらわれから、やや逃げ道を見出したと思って、私のほっと息つく時に、若い人々の此態度を見るのである。けれども、此方面に於ける私の責任などは、極々軽微なものである。がらが大きいだけに影響も大きかった茂吉の負担すべきものは、実に重い。童馬漫語類の与えた影響は、よい様で居て極めてわるいものである。でも其はなぞる者がわるいので、茂吉のせいでは、ほんとうの処はないのである。
私は、気鋭の若人どもの間に行きわたって居る一種の固定した気持ち、語を換えて言えば、宗匠風な態度に、ぞっとさせられる。こうした人々の試みる短歌の批評が、分解批評や、統一のない啓蒙けいもう知識の誇示以上に出ないのは、もっともである。私はそんな中から、可なりほんきな正しい態度の批評を、近頃聴くことが出来て、久しぶりの喜びを感じた位である。むしろ、素朴な意味の芸術批評でも試みればよい。其感銘を、認識不熟のままに分解した上に、学問の見てくれが伴うからいけないのだ。私は、此等の人々に、ある期間先輩の作風をなぞった後、早く個性の方角を発見して、若きが故のたまものなる鮮やかな感覚を自由にほとばしらそう、となぜ努めないのか、と言いたい。併し、此は無理かも知れない。短歌の天寿は早、涅槃ねはんをそこに控えて居る。私は又、此等の人々から、印象批評でもよい、どうぞ分解しないで、其まま聞かして貰いたいと思う。何にしても、あまりに享楽者が多い。短詩国の日本に特有の、こうした「読者のない文学」と言った、状態から脱せない間は、清く厳かに澄みきった人々の気息までも、寝ぐさい息吹きが濁し勝ちなのである。

   短歌の宿命

何物も、生れ落ちると同時に、「ことほぎ」を浴びると共に、「のろい」を負って来ないものはない。短歌は、ほぼ飛鳥あすか朝の末に発生した。其が完成せられたのは、藤原の都の事と思われる。一体、日本の歌謡は、出発点は享楽者の手からではなかった。呪言じゅごん片哥かたうた・叙事詩の三系統の神言が、専門家の口頭に伝承せられていたのが、国家以前からの状態である。其が各、寿詞よごと・歌垣の唱和かけあい・新叙事詩などを分化した。かけあい歌が、乞食者ほかいびとの新叙事詩の影響をとり入れて行く中に、しろうとの口にも、類型風の発想がくり返される事になった。そうして其が民謡を生み、抒情詩と醇化じゅんかして行った。而も日本の古代文章の発想法は、囑目しょくもくする物を羅列して語をつけて行く中に、思想に中心が出来て来るといった風のものであった為、外界の事象と内界とが、常に交渉して居た。其結果として、序歌が出来、枕詞まくらことばが出来た。交渉の緊密なものは、象徴的な修辞法になった場合もある。一方外物託言がいぶつたくげんが叙景詩を分化したのであるが、こうした関係から、短歌には叙景・抒情の融合した姿が栄えた。万葉集はもとより、以後益さかんになって、短歌に於ける理想的な形さえ考えられる様になった。(日本に於ける叙景詩の発生は、雑誌「太陽」七月臨時増刊号に書いたから、ここには輪郭だけに止める――全集第一巻――。)
ところが一方、古く、片哥と旋頭歌せどうかを標準の形とした歌垣の唱和が、一変して短歌を尊ぶ様になって、ここに短歌は様式が定まったのである。だから発生的に、性欲恋愛の気分を離れることが出来ない。奈良朝になっても、そうした意味の贈答を主として居た為、兄妹・姉妹・姑姪おばおいの相聞往来にも、恋愛気分の豊かなものを含めた短歌が用いられている。其引き続きとして、平安朝の始めに、律文学の基本形式として用いられる様になり、民謡から段々遠くなって来ても、やはり恋愛気分は持ち続けられた。そう言う長い歴史が、短歌を宿命的に抒情詩とした。だから、抒情詩として作られたものでなくとも、抒情気分を脱却することが出来ないのである。此例からも叙景・抒情融合の姿の説明はつく。性霊を写すと言う処まで進んだ「アララギ」の写生説も、此短歌の本質的な主観纏綿てんめんの事情に基くところが多いのである。

   短歌と近代詩と

短歌は、万葉を見ても、奈良の盛期の大伴旅人・山上憶良あたりにも、既に古典としての待遇を受けている。旅人の子家持の作物になると、一層古典復活の趣きが著しく見える。其点からも、短歌に於ける抒情分子の存在が、必須条件となって居た理由を考えることが出来る。古典としての短歌は、恋愛気分が約束として含まれていなければならなかったのである。
こう言う本質を持った短歌は、叙事詩としては、極めて不都合な条件を具えて居るわけだ。抒情に帰せなければならない短歌を、叙事詩に展開さしょうと試みて、私は非常に醜い作物を作り作りした。そうしてとどのつまり、短歌の宿命に思いいたった。私は自分のあきらめを以て、人にも強いるのではない。石川啄木の改革も叙事の側に進んだのは、ことごとく失敗しているのである。唯啄木のことは、自然主義の唱えた「平凡」に注意をあつめた点にある。彼は平凡として見逃され勝ちの心の微動を捉えて、抒情詩の上に一領域をひらいたのであった。併し其も窮極境になれば、万葉人にも、平安歌人にも既に一致するものがあったのである。唯、新様式の生活をとり入れたものに、やや新鮮味が見えるばかりだ。そうして、全体としての気分に統一が失われている。此才人も、短歌の本質を出ることは出来なかったのである。
古典なるが故に、稍変造せねば、新時代の生活はとり容れ難く、宿命的に纏綿てんめんしている抒情の匂いの為に、叙事詩となることが出来ない。これでは短歌の寿命も知れて居る。戯曲への歩みよりが、恐らく近代の詩の本筋であろう。叙事詩は当来の詩の本流となるべきものである。此点に持つ短所の、長所として現れている短歌が、果して真の意味の生命を持ち続けるであろうか。抒情詩である短歌の今一つの欠陥は、理論を含む事が出来ない事だ。三井甲之は、既に久しく之を試みて、いまだに此点では、為出しでかさないで居る。詩歌として概念を嫌わないものはないが、短歌は、亦病的な程である。概念的叙述のみか、概念をとりこんでも、歌の微妙な脈絡はこわれ勝ちなのである。近代生活も、短歌としての匂いにいぶして後、はじめて完全にとりこまれ、理論の絶対に避けられねばならぬ詩形が、更に幾許いくばくの生命をつぐ事が出来よう。

   口語歌と自由小曲と

青山霞村・鳴海うらはる其他の歌人の長い努力を、私は決して同情と、感謝なくは眺めて居ない。併し其が、唯の同時代人としての好しみからに過ぎない程、此側の人々の努力は、詩の神からむくいられるに値して居ない様である。私のこれまでの評論を読んで下さった人々には、自ら口語歌の試みが、恐らく何時までも試み以上に一歩も進めまい、と言う事に納得がいく事と思う。短歌の本質に逆行した、単に形式が57577の三十一字詩形である、と言う点ばかりの一致を持っただけの口語歌が、これ程すき嫌いの激しい詩形の中に、割りこもうとしているのは、おか目の私共にとっては、あまりに前の見え透いた寂しい努力だと思われる。
短歌が古典であると言う点から出て来る、尚一つの論理は、口語歌の存在を論理的基礎のないものにして了うであろう。其は、口語の音脚並びに其の統合律が、57を基本とする短歌とは調和しなくなっていることだ。どどいつの様な芸謡の形式が、何の為に派生したのであろうか。文学上の形式として固定のまま守られて来た短歌も、し民謡として真に口語律の推移に任せて置いたとしたら、同系統の単詩形なる琉歌りゅうか同様の形になってしまって居たであろう。
友人伊波普猷氏は、「おもろ双紙」の中に、短歌様式から琉歌様式に展開したあとを示すものの見えることを教えてくれた。どどいつの古い形とも見るべき江戸初期のなげぶしや室町時代の閑吟集の小唄類を見ても、口語律の変化が、歌謡の様式を推移させて行く模様が知れる。言語を基礎とする詩歌が、言語・文章の根本的の制約なる韻律を無視してよいわけはない。
口語歌は、一つの刺戟しげきである。けれども、永遠に一つの様式として、存在の価値を主張することは出来ない。私は、口語歌の進むべき道は、もっと外に在ると思う。自由な音律に任せて、小曲の形を採るのがほんとうだと思う。而も短歌の形を基準としておいて、自由に流れる拍子を把握するのが、肝腎かんじんだと考える。将来の小曲が、短歌にのっとるべきだと言うのは、琉歌・なげぶし等の形から見ても見当がつく。日本の歌謡は、古代には、偶数句並列であったものが、飛鳥・藤原に於て、奇数句の排列となり、其が又平安朝に入って、段々偶数句並列になって、後世に及んだ。私は民謡として口誦こうしょうせられた短歌形式は、終に二句並列の四行詩になったのだと思う。それで試みに、音数も短歌に近く、唯自由を旨とした四行詩を作って見た。そうしてそこに、短歌の行くべき道があるのを見出した様に考えている。
石原純は、更に開放的に、一行の語数の極めて不同な句の、四句・五句、時としては六句に及ぶ詩に於て、短歌の次の形を発生させようと試みて居る。私はその点に於て、臆病でもあり、古典に準拠もしている。さて、純ならびに私の作について感じ得たことは、口語律が、真の生きた命のままに用いられる喜びである。其から更に、近代生活をも、論理をも、叙事味の勝った気分に乗せて出すことが出来ることなのである。三十一字形の短歌は、おおよそは円寂えんじゃくの時に達している。祖先以来の久しい生活の伴奏者を失う前に、我々は出来るだけ味い尽して置きたい。或は残るかも知れないと思われるのは、芸術的の生命を失うた、旧派の短歌であろう。私どもにとっては、忌むべき寂しい議論であったけれども、何としよう。是非がない。

底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月4日作成
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