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「課長さんは居ますか」
「いま鳥渡座席にいませんが――私は秘書です。何か御用ですか」
「ヴァン・ドュ・マアクと云う者です。南太平洋鉄道会社の専属探査員プライヴェイト・インヴェステゲエタアですが――今、駅にちょっと変なトランクが二つ来て居るんですが、一応お届けして置き度いと思いまして。何か動物の死骸が這入って居るらしい匂いがするんです。誰か人を寄越して呉れませんか」
 この、一九三一年十月十九日、午後四時半、加州羅府ロスアンゼルス警察署、捜査課長ジョセフ・F・テイラア氏の机で、この時、私の受取った此の電話の伝言が、後から思えば、あの、電閃のように全米大陸を震撼せしめた事件の発端となったのである。
 話しを進める前に、ここで私は、私という人間の説明の必要を感ずる。私、マデリン・ケリイ―― Miss Medeline Kelley ――は、いま言ったこのテイラア課長の秘書で、四百五十人の刑事探偵の活躍を日夜目撃しながら、いま現に、この、ロスアンゼルスという世界のメッカの犯罪脚下燈の中心に立ち働いているものだ。
 これだけ言って置いて、先へ――。


 廊下の向側に殺人強力犯係D・A・ダヴィッドスン氏の部屋がある。私――マデリン・ケリイ秘書――は、電話を書き取った残片を掴んで、そこへ駈け込んだ。
 ダヴィッドスン警部は「羅府の禿鷹」と言われる警察界の古卒である。三十何年間、血腥い[#「血腥い」は底本では「血醒い」]事件の数々を潜って来て居る。
 伝言書を読み下すや否や、その、広い部屋のあちこちに事務を執っている刑事達を見廻わして、
「ライアン! トレス!」大声に二人を呼び寄せた。「こいつは一寸当って見ようじゃないか。直ぐ、南太平洋鉄道の事務所へ二人で行くんだ。ヴァン・ドュ・マアクに会うんだぞ。臭いトランクとかが二つあるんで、そいつを見て呉れと言うんだ」
 全く、臭いトランクに相違ないので。
 刑事フランク・ライアンとO・P・トレスは、其の足で、市役所の隣りの警察を飛び出して、大至急S・P―― Southern Pacific 南太平洋鉄道会社――の駅へ駈けつける。この間、約五分。
 会社の探査員、C・D・ヴァン・ドュ・マアクが、ちゃんと待ち構えている。ところで、其の変なトランクというのは、狩猟の獲物の鹿でも這入って居るのじゃないかと言うはなし――丁度狩りの期節シイズンでもあった。
「然し、色んな事情から見て、何うも可怪しいと思われる節があるのです。で、そちらへお願いした方がと、お呼びしたわけですが」
 トレスが事務的に、
「品物は何処にあるんだね?」
「貨物室に置いてあるんですが、その中の一つは、あんまり猛烈な悪臭がするんで、今日一日、プラットフォウムに投げ出してありました。アンダスンという係を呼びます。くわしい事はこの男からお聴き取り下さい」[#「下さい」」は底本では「下さい。」]
 この、着荷係A・V・アンダスンの話しに依ると、問題の二個のトランクというのは、其の朝、午前七時四十五分着の、S・P・ライン、アリゾナ州フォニックス市発、列車番号第三号の客貨物列車で到着したもので、丁度自分の監督で荷下ろしに当ったのだという。
「貨車乗務員が私に注意したのです」アンダスンの陳述だ。
「で私は、チッキ主任ジョウジ・ブルッカアに、特に其のトランクの保留を命じました。そして、誰か受取りに来たら、それとなく私へ知らせるようにと言って置きました。ところが、そうですね、丁度正午頃のことです」
 一人の青年を連れた若い女が、手荷物受取所へ現れて、チッキを提出し、そのトランク二個の交附方を求めたのだ。チッキの番号は、一つは「663165」、もう一つは、「406749」。ともに控え番号で「1」で前に言ったように、アリゾナ州フォニックス駅発。料金は、二個で四弗四十五仙とある。
「ブルッカアがそっと報らせて寄越しましたので、私は二人に会って、一寸変なところがあるから、直ぐ渡す訳には往かない。こっちへ来て見て呉れと言いますと、妙な顔をしてくっ付いて来るんです。三十呎離れて、もう堪らない臭いがするんですからねえ。何うです、と私が女に言いますと、女はけろりとして、何もにおいなんかしないという。私は呆れましてね。そいつ等を引っ張ってトランクの傍へ寄って行くと、女も到頭、そう言えば何だか臭気がするようでもあると言います。するようでもあるどころじゃない!――私は言ってやりました。大きい方のトランクだけでも、私の眼の前で開けて見せなければ、渡す訳にはいかないとね。ええ、大きいほうのやつが、最も臭いが激しくって、扱った駅員なんか、みんな鼻を摘んだような有様です」
 すると、鍵を忘れて来たと女が言う。そこで、アンダスンは、駅に合鍵があるかも知れないというと、同伴の青年が、狼狽てて口を挟んで、
「それは不可ません。婦人の私用物を他人の前に公開するという法はない。無礼です。恥かしい思いをさせるかも知れないじゃありませんか」
 と、いきまくのだ。
 女は徹頭徹尾、胡瓜きゅうりのように冷静だったが、青年の言葉に勢いを得て、
「じゃあ、あたし主人へ電話をかけて、トランクの鍵を急いで持って来て呉れるように言いますわ」
 で、電話のあるアンダスンの事務室へ這入って行ったが、本当に電話を掛けたのか、或いはかけた振りをしたのか、兎に角、一、二分して貨物室へ帰って来て、良人が不在で、使用人には鍵の在所ありかが判らないから、では、今日のうちに鍵を持って、後からもう一度出直して来るというのだ。
「ところが、四時迄待ちましたがね、女も青年も、それっきり姿を見せませんし、臭気は愈いよ堪らなくなりますので、探査員マアクさんと、駅長のマッカアセイさんの意見で、これは警察を煩わしたほうが好いというので、御足労を願った訳です」


 ライアンとトレスの二刑事は、案内されて荷物部屋へ這入って行く。アンダスンの指さすところに、成程大きなトランクが二つ転がっている。一つは、角型の黒のパッカア式で、他は汽船用スチイマア・スタイルといわれる平べったいやつ、前のよりは少し小さく、灰色を帯びた緑に塗ってある。
 ライアンが、鼻をひこつかせて、
「鹿はこんな臭いはしやしねえ」
「鹿にはあらで――」
 洒落気のあるやつで、トレスが応じた。
 まだしかとは判らないが、何うも益ます怪しいのである。
 立って凝視みつめている二人が、この時気の付いたことは、赤みがかった茶色の液体が、大きな方のトランクの合せ目から、滲むように流れ出て、床を這って居ることだ。
 斯ういう場合の調査のために、鉄道会社には、何千何百という鍵が備えつけてある。それらを片っ端から合わせて見ているうちに、ライアンが最後に、此の二個のトランクに合う鍵を発見した。最初それで、大きい方の鍵前を辷らして、逡巡ためらい勝ちに蓋を持上げると、思わず彼等は、一歩蹣跚き退った。瞬時の恐怖は、この、凡ゆる異常時に慣れ切っている老刑事の神経をすら、強打したのだ。


 はじめ眼に映ったのは、急ぎ出鱈目に掻き集めて、抛り込んだとしか思われない雑多な品物――手紙、書類ようの物、リボン、写真、ドレスや靴下や、コルセット等の女の身廻品――刑事が静かにそれらを分け退けると、その下に、怖るべき光景が待っていたのである。毛布に包まれて、不自然な形に折り曲げられた裸体の女の死骸だ。
「うむ!」
 と呻いて、ライアンは反射的に、持上げていたトランクの蓋を放す。蓋は、どさっと音を立てて落ちて、この戦慄すべき眺めを遮断した。同時に、トレスが電話へ駈け付けて、捜査課殺人係主任フイリップ・パアジェスを夢中で呼び出して居た。
「おい! また忙しいことになったよ。やり切れやしねえ、指紋課員を早速S・Pの停車場へ寄越して呉れ」


 小さい方のトランクには、小児用の桃色の毛布の下に、素晴らしく美しい、若い女の首と胴が、別べつに這入って居た。ほかに、シイツの包みが二つあって、これは開けて見ると、生なましい、其の女の足だった。身体の中央部、胸から膝までは、トランクの中には無かった。此の若いほうの女は、写真で見ると、可成りの美人で、映画女優のルス・チャアタトンにとてもよく似ている。場所がハリウッドを控えた羅府なので、さては、映画関係?――それなら、途法もないジャアナリステック価値だというんで、最初新聞記者がぴくっと興奮して耳を立てたのも、無理ではない。
 羅府警察署から、さっそく停車場目がけてわんさと押し掛けて来る。今様シャロック・ホルムスの名あるポウル・スティヴンス警部、指紋係W・N・ヒルデブラント、刑事E・J・ベクテル等の顔ぶれ、これらは、すべて現在、同地の警察界に活躍している人々である。
 警察医の手に依って、この二人の女の屍体は、市の変死人収容所へ移される。殺人強力犯係ダヴィッドスン警部が駈け付けたのは、この時だった。
 先ず、その日の正午にチッキを持ってトランクを受取りに来た、若い二名の男女の容貌、服装、言語の特徴などを、応対した駅係員に就いて詳細に聴取するところから、このセンセイショナルな捜査の第一幕は切って落される。
「トランクが着くと直ぐ、警察へ言って呉れりゃあ宜かったのになあ」ライアン刑事が口惜しそうに、「今頃はもう犯人は立派に押さえていたよ」
 然し、アンダスン着荷係が言うには、変な臭いのする荷物が着いたからといって、一いち警察へ報らせていては遣り切れない。世の中には、変った人も多いから、思いもかけない奇抜な品物を思いも掛けない奇抜な包装で送るやつがあるというのだ。魚を鞄へ入れたり、鳥や、そうかと思えば愛犬の死骸などを、大事そうに見事なトランクへ詰めて出したり、――臭い荷物は、日に幾つとなく停車場を通過する。特に今のような狩猟のシイズンには、これは有り勝ちなことで、それにアリゾナ州は狩猟地でもある。勿論、そんな物を簡単な方法で汽車便で送ることは、規則違反ではあるけれど、実際はよくあることなのだった。
 秋の半ばだが、十月といえば、丁度亜米利加の詩ごころをそそる「土人の夏インディアン・サンマア」――所謂日本の小春日で、ぽかぽかと暖い日が続き、陽気を違えて花が咲き出したりする。妙に生暖いのである。閉め切った汽車の温気で、肉類は腐り易い。で、悪臭のする荷物が着くと、必ず駅員が立ち会って、その面前で受取人に開かせた上、異状無しと見て引き取らせることになっているのだ。で、今日もそこまでは進んだのだが、すねに傷つ二人は、鍵を忘れたと称して逃げ去ったわけで、それに、警察への届出の比較的遅れた理由の一つは、駅のほうでは、二人は後刻必ず再び受取りに来るものと、信じて疑わなかったからでもあった。
 それに、チッキ主任ブルッカアは、何うもあの青年の顔に見覚えがあるようだと言う。去年の降誕祭の前後に、何処だったか、この羅府の店で働いていたのを見掛けたことがあるような気がする――。
「ジョウジ・ブルッカアは、もう退けて家へ帰っていますが、何でしたら、そちらへ御案内致しましょう」
 というアンダスンの言葉に、S・Pの探査員ヴァン・ドュ・マアクとトレス刑事が、其の場から直ぐブルッカアの家を訪れた。が、ブルッカアの言は、要するにそれ丈けの事で、いま顔を見れば、無論覚えているが、名前などは知らないというのだ。ところが、このブルッカアが鳥渡した機みで、その青年が停車場へ乗って来た、古いフォウドのロウドスタアの番号を記憶していたのは、この際、刑事連を雀躍せしめるに充分だった。
 捜査の手口は、実に此の自動車番号からぐれて行く――。
 泥だらけのがたがたフォウドで例の男女二人は、男の運転で、これを駆って逃げるようにS停車場を[#「S停車場を」はママ]離れたと言う。
 其の夕刻ダヴィッドスン警部とライアン刑事は、変死人収容所で、郡警察医A・F・ワグナアの執刀した二人の女の屍体解剖に立ち会った。


 大理石の解剖台の上に、沙漠の国アリゾナから、この灯きらめくロスアンゼルスまで、屍骸の途伴れだったふたりの女の身体が横たわっている。じつに残虐を極めた殺し方だった。若いほうの屍骸は、殊に非道く、不器用に切りさいなんであって、医師でさえ正視に耐えないものがあった。頭部と右の乳房と、左手の中指と三箇処に、拳銃ピストルの貫通傷を受けている。多分、最初太腿部の[#「太腿部の」はママ]附根からでも切り離そうとしたものだろうが、その困難なのを発見して諦め、比較的柔かな胸の下から、切断したのだろうと言われた。血液がすっかり流出して、肢体には、まだ腐敗や、崩壊の兆候は認められなかった。
 もう一人の犠牲者は、でっぷり肥った、三十がらみの大柄な女で、このほうの死骸はそっくり完全だった。只一発で殺られたものらしい。弾丸は、左耳下から這入っている。この死体の納まっていたトランクは、貨車に逆さまに積まれて来たものらしく、頭部の弾孔から自由に血が溢れ出て、トランクの底に夥しく溜まり、途中ずっと顔全体血液に漬かって来たので、その為めに、ちょっと人相が判らない程崩れかけていた。

      2

 トランクの中の品物は、長さ十吋程の緑色の柄の附いたナイフと鋸と、両方折畳み式になっている物が一個、血だらけの絨毯の隅を切り取ったもの、コダックの写真、書物が数冊などで有名なオマア・カヤムのルバイヤットも出て来た。手紙のうち数通は、「ヘドウィッグ・サミュエルスン嬢」へ宛てたもので、他の数本は、「アグネス・アン・ルロイ夫人」の宛名になっている。この二人とも、住所はアリゾナ州フォニックス市北二丁目二九二九番地と封筒にあるのだ。
 其のコダックのスナップシャットと照らし合わせて、若いほうの女は、手紙の主「ヘドウィッグ・サミュエルスン」に相違ないと断定された。年取った肥ったほうは、血で顔がうるけていて相貌は判然しないけれど、写真の姿体やなどから判断して、これも手紙の宛名にある其の「アグネス・アン・ルロイ夫人」だろうという事になった。コダックの写真の裏に一いち「サミイとアン」と親し気な文句が書いてあって、そして、その写真の凡べては、此の二人の女友達の如何にも仲の好さそうなポウズを示しているもの許りだ。
「サミイ―― Sammy」というのは、言うまでもなく、友達仲間の与えた、サミュエルスン嬢の愛称と思われる。


 大きな方のトランクから、財布が二つ出た。その他、二十五口径の弾薬筒三つと、鋼装の拳銃ピストル弾丸も一発、発見された。ワグナア博士の検証では、二人とも、この弾丸で撃たれたものらしいとある。
 もうこの時分には、羅府警察は全力を傾けて、この煽情的な「女詰めトランク」の犯人捜索に狂奔している。
 捜査課ががら空きで、署内の動きの只ならないのを見て取って、新聞記者は直ぐニュウスを嗅ぎつけて集まって来る。ダヴィッドスン警部とライアン刑事が、差閊えのない程度に発表して、新聞記者の協力を求めた、犯人の高飛びを懼れて、重大な手懸りは無論伏せてあるが――。
「何うもこれは、女の仕事らしく思われる」
 捜査課員の意見は、この点に一致したのだった。
 今や捜査は、全機構を挙げて、車輪のように廻わり始めた。フォニックス市のS・P会社へ宛てて、チッキ番号NO・406749と663165と、この二個のトランクを発送した人物に関する調査依頼の電報が飛ぶ。
 日曜日だった、この、事件の起った十月十九日は。
 長距離電話が、フォニックス市と羅府との間に交わされて、この殺されたふたりの女は、同市北二丁目二九二九番地―― No. 2929 North Second Street Phoenix, Arizona ――に住む Miss Hedvig Samuelson と Mrs. Agnes Anne Le Roi の二人に間違いないとなった。そこで今度は、この羅府の停車場で、トランクを受取ろうとして失敗した、あの二人の男女の人相書をフォニックスの警察へ電話で言い送ると、
「その人相に該当する者を当市に於て急遽捜査して、早速お知らせしましょう」
 フォニックス警察の答え。
 すると、である。一時間も経たないうちに、直ぐフォニックスから線が継がれて、北二丁目二九二九番地の家は目下無人で近所の者の話しでは、ルロイ夫人もサミュエルスン嬢も、去る十月十六日金曜日の夕方から、少しも影を見せないということ。
「其の地でチッキをさし出した婦人の人相に当て填まるものは」フォニックスの係員は続けて、
「当署の調査に依れば、ルウス・ジュッド夫人ではないかと思われる。ルウス・ジュッド。Mrs. Ruth Judd そうです。J・U・D・D――ちょっと変った綴りです。この女は、お話にある通り、年齢約二十六、七歳、金髪で相当の美人です。いや、非常に美人だと言ってもいいでしょう。良人というのは、ウイリアム・C・ジュッドという医者で、目下御地羅府か、さもなければ加州のサンタ・モニカに出張している筈です。時どきジュッド夫人は、サンタ・モニカ町十七丁目八二三番地のアドレスで、良人と文通していることも判明しました。何うも疑問の女は、このジュッド夫人に相違ない。尚、夫人は、土曜日の晩当地発S・P第三号列車で、ロスアンゼルスへ向け、出発しています。家主の親爺が夫人に頼まれて、大きなトランクと少し小さなのと二つ、停車場まで運んだとも証言している。もう、断然間違いありません」
「O・K――それでは、相互に聯絡を保って、今後の進展を報告し合うことに――」
 これで、電話が切れた。
 間もなくフォニックス市のS・P鉄道会社から電報が来て、それによると、トランク発送人は、同市駅の台帳に、マッキンネル夫人と署名したという。この「マッキンネル夫人」は、ロスアンゼルス行きの切符を求めて、トランクと一緒に、その西部廻りの汽車に乗り込んだとある。これがルウス・ジュッド夫人であることは最早疑いの余地はない。
 その間に羅府の捜査は着々進行して、交通課の調査に依り、あの、金髪の女と青年の乗っていたフォウドの自動車が突き留められた。羅府から十五哩程離れている小都会、ホウソン町に住んでいる一婦人の所有車なのだ。
 が、刑事の訪問を受けて、その女は、
「あれはもう使い古した車なので、羅府の若い男の人に売って終いましたよ」
 と言う。
「その買手の住所姓名は、判っているか」
「名前は――ちょっと忘れましたが、家は何でも、羅府ニュウ・ハンプシャア街八二六番地とか言っていたようですよ」


 これに勇躍したライアン刑事は、同僚トレス・マックリィディの二人とともに、早速其のニュウ・ハンプシャア街へ駈け付ける。もう真夜中のことで、ぐっすり眠っていた青年を叩き起して訊いてみると、それがまたその車を売り払った後だというので、
「二、三週間前に、バアトン・マッキンネルっていう若い男へ譲ってやりました。そいつの住所ですか。ビヴァリイグレンの二一一一番地だったと思いますが――」
 で、その足でビヴァリイ谷の家へ出掛けてみると、つい数刻前まで人の居たらしい気配が残っていて、台所の卓子テエブルの上にサンドウィッチと、レモン・パイの半分這入った紙袋などが置いてある。急の客のために慌しく食事を出す必要があって、こんな物を買って来たらしく思われるのだ。ドュヴァル巡査という人が、見張りに、その留守の家に残されることになる。誰でもやって来た者は、直ぐ捕まえるようにという命令で。
 十時頃、あの、フォニックス市警察から供給された材料で、刑事の一隊が、サンタ・モニカのジュッド医師のアドレスを検べに行くと、ここには思い掛けない非常な効果が一行を待っていた。ジュッド医師の実妹ケリイ・ジュッドというのが玄関に現れて、何ら隠すところなく兄のジュッド医師と、その義弟――ルウス・ジュッド夫人の実弟――バアトン・マッキンネル青年とが、丁度家に居るというのだ。早速この二人とケリイ・ジュッドを連行して、一同は羅府へ引き上げて来る。バアトン・マッキンネルは正直に、姉を自動車へ乗せてS・P停車場へトランクを受取りに行ったと告白した。
 が、バアトンの正直なのは其処までで、後は、知らぬ存ぜぬの一点張りである。身長せいの高い、ラグビイ選手タイプの好青年で、勿論、姉の怖るべき犯罪を識り、懸命に匿っているものに相違ない。
「いま姉が何処にいるか、僕は知らないんです。知っていればお話ししますけれど」
「じゃあ兎に角、停車場へ一緒に行った時のことを詳しく話してみるがいい」
 ダヴィッドスン警部が訊問に当る。此の人が、このルウス・ジュッド――「アリゾナの女虎」――事件の捜査係長だったのだ。
「詳しくと言ったって、今日のことは簡単です。別に申上げることはありません。今朝、私の通っている南加大学の教会へ行って出て来ますと、姉が戸外に立って待っていたのです。何だか非常に興奮しているようでした。そして、言うには、急用があって、今アリゾナから着いた許りだが、停車場にトランクが二つ預けてあるから、僕に、自動車を持って一緒に受取りに行って呉れと言うんです」
 何うも様子が変なので、よく問い質してみると、其のトランクを一刻も早く処分しなければならないという姉の言葉である。バアトンは可怪しいと思ったが、兎に角、言われる儘に自動車を引き出し、姉を乗せて停車場へ向った。途中ルウスが、その二個のトランクを海へ持出して沈め度いのだが――と言い出したので、これにはバアトンも吃驚して、色いろ理由を訊ねたけれど、ルウス・ジュッド夫人は、肝心の事は弟にも打ち明けなかった。
 これは何か訳があるとは思ったが、何も訊かずに姉のために働く気になったバアトン・マッキンネルは、駅の手前でちょっと車を停めて、ロウプを買った。トランクを沈めにかける時に、こいつで縛ろうというのだ。が、停車場へ行って荷物を見ると、バアトンも仰天したという。トランクの廻りに、蠅がぶんぶん唸って飛んでいた。
「後は御承知の通りです。駅の荷物部屋で開けられそうになったので、鍵を忘れて来たと言って逃げたのでした」
 停車場を離れて小一町も走らせると、金を持っていないかとルウスがバアトンに訊いた。五弗しか持合わせがなかったので、バアトンはそれだけ姉へ渡して、すぐ何処かへ飛んで潜んでいるようにと言うと、ルウスもその気になって、急に狼狽て出した。
「で、僕は、七丁目と広小路ブロウドウエイの角で、自動車を停めて、姉を下ろしたんです。ルウスは直ぐ下町の雑沓に消えて行きました。それっきり会いませんし、ほんとに、何処へ行ったか知らないんです」
「何時お前は、義兄のジュッドさんに会いに、サンタ・モニカへ行ったのか」
「先刻です。九時半頃出掛けました。ことによると、もうあっちへ警官が廻っているかも知れないと思ったのですが、義兄の妹のケリイが台所に食事していて、まだ何も知らない様子でした。ジュッドさんは、風邪を引いて二階に寝ていましたが、すぐ下りて来て、三人で台所で胡桃を割って食べ乍ら話していたんです。そのうちに僕は、兄をそっと別室へ呼んで、今日のルウスの不思議な行動をすっかり話しました。良人ですから、きょうジュッドさんのところへルウスから電話でも来たかと思って訊いてみましたが、何も言って来なかったそうです。もう其の頃は、夕刊に、出て騒ぎになっていたんですが、義兄あには未だ何も聞いていない風でした。そこで僕が戸外の自動車へ引っ返して、その夕刊を持って来て見せますと、義兄は非常に驚きましたが、結局、ルウスから何か言って来るまで静かに待つよりほか仕様があるまいと言うことになったんです。で、そういうことに相談を決めて、ケリイには何も知らせ度くないので、その後は何気なく雑談を交わした丈けです。其処へあなた方がいらしったんです」
「君が最後に別れた時、姉さんは何んな服装をしていたか」
「黒と白のドレスを着ていました。帽子は、多分黒だったと覚えていますが――」
 それからは何んなに訊問しても、バアトンは姉の行動に就いて一言も吐かないし、また事実それ以上は知らないらしくもある。実際、ルウス・ジュッド夫人が自動車を下りて以来、一度も会っていないことは確からしいのだ。正午の羅府の下町である。織るような人通りで、ルウスは忽ち其の人波に呑まれて見えなくなったという。
「若しほんとに姉が、あのトランクの中の女二人を殺したものとすれば、その時発狂していたに決まっています」バアトンは懸命に、姉のジュッド夫人を弁護して、「そして又、姉が悪いにしたところで、僕は姉の弟です。姉に取って不利益になる事は、例い知っていても言う訳にいきません」


 ジュッド医師は、四十八歳の温厚な小市民タイプである。気の毒な程取り乱していた。それでも、訊かれることは包みなく話したが、これも事実、何事も知らない様子で、この、良人のジュッド医師は余り捜査の手助けにはならなかった。
 が、ジュッド氏は、この際、警察を助けようという誠意から、妻の平常など、問われる儘に包まず隠さず話すのだった。
 興奮の極、かすれた低声で、
「信じられません! とても信じられません!」と、ジュッドは叫ぶように、「ルウスがそんな大それたことをしたなんて、私は考えることも出来ません。あれは、決してそんな惨虐なことの出来る女ではないのです。何時もしとやかな落着いた妻でした。よく私の面倒を見て呉れて、家事の好きな、自分の口から言うのは可笑しいが、しかし、事実です。フォニックスの町では、誰でも知っています。実に立派な家内です。若し彼女あれがこんな怖ろしい犯罪に関係したとすれば、決して一人ではなく、いや、ルウスが主犯ではないので、ただ、手を藉したに過ぎないという程度に相違ありません。それにしたって、私には、とても信じられません! ああ、ルウスが!――信じられない! 信じられません!」


 ジュッド医師は、前後もなく混乱して、続けた。
「サミュエルスンさんや、ルロイ夫人と喧嘩したなどという事も、私はちっとも知りませんでした。サミイとルウスと、ルロイ夫人と、この三人は、極く仲の好い友達だったんです。私のところへ来るルウスの手紙には始終『サミイとアン』と二人のことが書いてあって、何時も親しそうな筆振りでした。只、十日程前に受取った手紙に、何ですか余り感心出来ない男が、この頃盛んに二人の家に出入りして、酒を持って来たり、サミイとアンを遊びに連れ出したりしているが、自分はどうも心配でならない、何とかして二人の為めに其の男を遠ざけ度いものだが――というような事が書いてありましたが、私は別に気に留めませんでした。サミイもアンも、決して、別に酒飲みというわけではなく、ただ時どき薬用の意味でジン酒を舐める位いのもので、これは、まあ婦人でもよくやることですから――兎に角、何んな形ででも、妻とサミイとルロイ夫人と、三人を取り巻いて、真剣な問題が起っていようとは、私は夢にも思わなかったのです」
 しかし、此のジュッド医師の話しを聴いていると、何となく、追いおい事件の輪廓が判然はっきりして来るのである。

      3

「奥さんがその二人の女に会ったのは何時のことで、一体何ういう関係なんです」
 ダヴィッドスン係長が訊くと、ジュッド医師は、熱心に椅子を進めて、
「この二月頃だったと思います。家内がグルノウ療養院に、ちょっと手助けに行っていて、其処に働いていたアン・ルロイ夫人に逢ったわけなんです。アンはX光線専門の助手で、家内は頼まれて、私と親交のある同療養院の院長ルイス・ボウルドウイン博士と、副院長ヘルトン・マッコウエン博士と二人の秘書格として、勤めていたのです。このアン・ルロイ夫人を通して、家内はサミュエルスン――サミイという通り名で呼ばれて一同の人気者でしたが――に逢ったのでした。少し肺が悪るくて、グルノウ療養院に入院していたのですが、もう其の頃は大分快くなりかけて、陽気な性質なので、盛んに廊下を跳び歩いては、病院内の愛嬌者だったといいます。このサミイとアン・ルロイ夫人は、まあ、看護婦と患者の関係から這入って、非常に仲よくなり、サミイが退院すると、二人で一軒の家を借りて住み始めました。私も家内と一緒にその家へ遊びに行って、夜四人でブリッジなどしたこともあります。それはこの四月頃のことで、二人は、フォニックス市北二丁目の小さなバンガロウにいました。ちょっとアパアトメントのようになっている建物で、二家族住めるように出来ているのです。サミイの肺はまだほんとでなく、時どき悲観的な口調を洩らすというので、ルロイ夫人もルウスも非常に心配して、医者の私に慰めて、力づけて呉れるようにと、始終頼んだものでした。それから一と月程して、その家のほかの部屋にいた、もう一組の家族が何処かへ移ったので、ルウスがあまり熱心に言うものですから、私達夫婦は、其処へ移ったのでした。で、四人一軒の家に住むことになったわけで、自然、朝夕よく顔が合いましたが、ルウスはほんとにこの二人の女に夢中で、あんな好い人達はないなどと、始終口癖のように言っていました」
 このジュッド医師は、ずっと会社の嘱託医を専門にして来た関係上、関係している保険会社の依頼などで、よく長い間、家を明けて、他の地方へ出張しなければならないことがあった。丁度その頃、アリゾナ州ビスビイ町に新しい鉱山事業が起って、その従業員の身体検査やなどを依頼されたために、ジュッド氏はまた長期に亙って、家を留守にしなければならなくなった。それが、この八月八日のことで、それ以来、各地を転々して、ジュッドは、その八月初旬から妻に会わずにいるのだ。現在はビスビイの方の仕事は済んで、半ば休養を兼ねて、サンタ・モニカの妹の処へ来ているというのである。が、今日明日にもフォニックス市へ帰る積りであった。
「私は大戦に出征して負傷したのです」
 ジュッド医師は言う。
「それから身体が弱くなって、時どき休まなければなりません。そのために開業することは出来ず、生活もあまり楽でないので、そのために家内も前に言ったようにグルノウ療養院に勤めたりしたのでした。そこで伝染したのではないかと思うんですが、家内も肺結核の気味があるんです。私がアリゾナを出て来る頃は、病勢はちょっと進みかけて、次第に依っては、この加州パサデナの肺療養院へ呼び寄せようかと思ったことがあった位いです。が、その後快くなって、元気にやっているようでした。アリゾナは空気が好いので、彼女の健康のためにも、私はずっとあの町に住んでいたのです」
 このルウス・ジュッド夫人も、看護婦上りなのだ。ジュッド医師が、インディアナ州エヴァンスヴィルの州立精神病院に勤務中、そこで逢ったのだということだった。
「十七の時私と結婚したのです。何うも身体が弱くて、あちこち南部の州を連れ歩きました。生れは、インディアナのラフィエット町ですが、私達は墨西哥メキシコへも行きましたし、一度実家へ帰っていたこともあります。フォニックスに住むようになったのも、家内が私を助ける意味から、保養に来ていた市俄古の富豪の家庭看護婦として、そっちへ行くようになったからでした。私が思う通り活動出来ないので、こうして結婚後もよく病院勤めをして、生活を助けて呉れたのです」
「ピストルをお持ちですね、奥さんは」
「たしかコルトの自働式を一挺持っているようです。メキシコにいた時、物騒なので、護身用に携帯させたのでした。が、怖がって、触ったこともありません。弾丸も何時の間にか失くしたとか言って、家にないようでしたが、そう言えば去年の秋、新らしい弾丸を一箱買い入れていました」
「奥さんはこのロスアンゼルスに、頼って行くお友達でもおありですか。潜伏の便宜を得るという程親しくなくても、文通や交際のある――」
「存じません。が、あれば私も知っていると思います。快活なお饒舌り好きな女ですから、何でも言う筈ですが、羅府に知人のあることは聞いたことがありません」
「奥さんの行方を突き止めるために、警察に力を貸して下さるでしょうね?」
「無論です。逃げ隠れたりなどしないで、立派に身の証しを立てて貰い度いと思います。若し家内が事実こんなことをしたのなら、何かそこに止むを得なかった事情があるものと思いますから、それを説明すべきです。お手数を掛けて申訳ありません。だが、私としては、家内から何とも言って来ない以上、何処に居るかは全然判りませんし、手のつけようがありません。若し何か言って来れば、即刻自首するように申聞けます。必ず責任を以て警察へ突き出します」
 長時間の鋭い訊問に疲れ果てて、ジュッド医師は、すっかり神経質になっていた。女のように、ハンケチを眼へやって、
「こんなことが起ろうとは――ショックです。何うしたのでしょう! 私には解らない。あんなに優しい、好い妻なのですが――まだ二十六です。今朝アリゾナから出した、こんな手紙が妻から届きました」
 と、上着のポケットから取り出した手紙は、十月十七日発のもので、スタンプの時間から判断すると、ルウスは女二人を殺した直後、この手紙を書いたものらしいのである。

「一九三一年十月十七日」
 アリゾナ州フォニックス市にて。
 親愛なウイリアム、
 毎日のように手紙を書きかけては、途中で破いたり、用事が出来て書きつづけられなかったりして、つい御無沙汰に打過ぎました。そちらからは始終お手紙を頂いて、ほんとに感謝して居ります。私この頃とても忙しいんですの。何ていうことなしに夢中で日が経って行きます。
 夕方家へ帰って来ますと、猫を抱いて暫らく寝ますの。眼が覚めると、真っ暗になっています。其の時の寂しさといったら! でも、そんなこと言ってはいられませんから、勇気を出して、一人でお夕飯を食べます。あと片づけをすると、がっかりしてしまいますが、でも毎晩歴史の勉強をしています。それからまた猫を抱いてベッドへ這入りますの。この頃少し肥って参りましたわ。ルロイさんや、サミイと交際しなくなってから、とても気が楽になりました。食慾も随分あります。女中のスウはほんとに好い娘です。それは可愛いんですの。あの頃の私によく似ていると思います。私は自分が可愛かったとは言いませんが、でも、スウのように誰にでも話しかけて、みんなに親切でしたわ。ですけれど私は、何でも自分の思う通りにしなければ承知しない子供でした。今でもそうですが、私は小さい時分から自由を愛していたのです。
 私は寂しいんですの。お帰りになる日をお待ちしています。私はあなたを愛しています。愛の両手であなたをしっかり抱いていますわ。でも私、今夜はすっかり疲れていて、もう愛のことを書く気持ちになれません。一と眠りして身体が休まると、すぐあなたのことを思います。来週の水曜日か木曜日にはお帰りになれませんか。私ほんとにあなたを必要とします。お金もあんまりありませんのよ。或る人に十五弗胡魔化されてしまいました。口惜しくって、くやしくって――でも、この事は考えないことに決めていますの。
 狩りのシイズンで大変です。療養院のお医者さんも、四人で鉄砲をかついで出掛けて行きました。アリゾナの沙漠も、もうすっかり秋景色です。でも鹿は今年とても多いんですって。看護婦達も相談して、医務局の人達に負けずに、狩りに押し出そうかと言っていますの。私も行くとしたら、ちょっとお金が要りますわ。でも、私達のは、ちょっと午後行って、鳩を撃つ位いのものですから、沙漠の強烈な秋陽に照らされて来るばかりです。
 もう晩いのよ。一時ですの。まだ晩御飯を食べていません。二時にもう一度病院へ出掛けて、受持ちの患者を見なければなりません。三時半に帰って来ます。夜の空気を吸うだけで、胸によくないんですけれど、夜勤はいやだなどと言ってはいられませんから――では、これから出掛けます。とても涼しくなりましたわ。早くお帰り下さいまし。でも、お発ちになった時と同じに汚ない家ですのよ。ですけど仕方がありませんわね。お金の詰った樽の二つ三つあるといいんですけど。ほんとに私達はぼろぼろの着物を着て、うす汚れていて、人が見たら吹き出したいように可笑しいでしょうけど、でも、二人で何時までも快活に、歌を歌ってこの人生を進みましょうね。
 あの陽気な節の「あなたと私と二人で肩を並べて」の歌を!
 二人は愛し合っているんですもの。
ルウスより
加州サンタ・モニカ十七丁目八二三番地
ウイリアム・C・ジュッド様
 これが兇行後間もなく良人へ書き送った「沙漠の女虎」ルウス・ジュッドの手紙なのだ。神経が太いというのか、何ていうのか、矢張り少し何うかしているように思う。が、原文には、一脈の哀愁が漂っているようで、変に人を打つものがあるのである。
 ルウスが良人を愛していて、二人の夫婦仲の好いことは、ジュッド氏の言う通りに相違なかった。八月十七日附の彼女の手紙なども、提出されて、この点は明瞭に裏づけられた。
 それは、若い女が恋人へ送るような手紙で、あなたの居ない生活は空虚だの、今はこの通り貧乏だが、いずれ私の力でよくして見せるだのと、書いてある。
「どうぞ本当に長く生きて下すって、いつものように私をからかって、一寸怒らしたり、馬に乗って野原に出たり、それから夜はお互いに読んだ小説を話しっこしましょう。あなたは私の生命の一部です。私に一番近いもの、というよりも、あなたは私自身なのです。
 静かにあなたの腕の中にいる――私にとってそれ以上の幸福はありません。あなたはお話しが上手で、そして、歌がお得意ですわね。あの、青い鳥の歌。そして一緒にドライヴに出ますの。それらはみんな私にとって大事なもので、その一つでも失うことを考えると、私は気が違いそうです。今この手紙を書いている私は、眼が涙で一杯で、タイプライタアが見えません。私は何も食べられませんし、ちっとも眠れませんし、何をすることも出来ません」
 ジュッド医師の言に依ると、ルウスはコカイン中毒者だったようでもある。それに悩んで、この悪癖から逃れるために、かなり苦しんで来たとのことだった。
「彼女をこの習慣から救うために、私は一生懸命でした。その点でも、彼女は私に感謝して、純真な愛を傾けて呉れたのです」暗然としてジュッド氏は口を結んだ。


 ジュッド氏の実妹のケリイ・ジュッドは、あによめの犯罪を聞いて、顛倒せんばかりに驚いて、「あり得べからざることだと思います。姉さん程、気持ちの平らな、感じの好い人は、この世の中に二人といない位いですのに――」
 このケリイに依れば、ルウスは又とない程美しい、青みがかった灰色の眼をして、睫毛と眉毛が長く、一種特徴のある魅力を備えているという、九年前にジュッド医師と結婚して、貧しいながら、実に仲の好い夫婦だったというのだ。


 このジュッド医師とケリイが訊問されている最中である。
 もう一つの恐ろしい発見が、矢張りロスアンゼルスの南太平洋鉄道停車場に於てなされた。
 ビュウラ・ベリイマンという掃除婦がある。
 夜行列車の発着も、ちょっと途絶えた深夜、帰宅の前に、婦人待合室を掃除していると、腰掛の蔭の床にスウツケイスと帽子函の遺留されてあるのが眼についた。確かではないが、その朝若い女が其処へ置いて、後から取りに来るからと言って出て行ったのだった。名札も附いていないし、頭文字イニシャルもないので、誰の荷物とも判定の下しようもないが、其処へ置き放しにする訳にもいかないので、掃除婦ベリイマンは、何心なく、そのスウツケイスの掛金に指を当ててみた。と、鍵が掛っていないで、ぱちんと、鍵が辷ったのである。いささかの好奇心も手伝って、ベリイマンがスウツケイスの蓋を開けて見ると――。

      4

 真っ赤なタオルに包んだ品物が押し込んである。怖ごわ開いた其のタオルの中から、ヘドウィッグ[#「ヘドウィッグ」は底本では「ヘッドウィッグ」]・サミュエルスンの身体の中央部が現れたのだ。二十五口径のコルトの自働拳銃ピストルも緒にスウツケイスの底に発見された。
 翌早朝から捜査課長ジョセフ・F・テイラア氏が、自身ルウス・ジュッドの行方捜査に当ることになる。羅府ロスアンゼルス市内、若しくは同市を中心に十四、五哩の円を描いたその中に、ルウスはじっと息を潜めているものと捜査課は睨んだ。前日停車場の帰りに、弟のバアトン・マッキンネルの渡した五弗のほか、金を持っていないらしいという見込みは外れないところだが、万一をおもんぱかって、凡ゆる停車場、桟橋、飛行機発着場、バスの停車場、タクシの溜り、それらに厳重に見張りが立って、完全に飛ぶ機会を押えている。
 墨西哥国境へも手配が飛んで、徒歩で国境を破る警戒に備える。加州の犯罪者は、よく山伝いにメキシコへ逃げ込むからだ。殊にこのルウス・ジュッドは、かなり流暢に西班牙語を話すという。米墨の国境が臭いとは、捜査課員の頭にぴんと来た。同時に、ありとあらゆる発表機関を挙げて、この「女虎」の逮捕に協力せんことを一般民衆に依頼する。新聞紙は勿論、目抜きの通りのスカイサイン、ラジオ、それらはルウス・ジュッドの名で充満している。国道伝いに羅府に出入する自動車の凡べてに厳命が下って、途中歩いている女を認めたり、また、女で、乗車を乞うたりする者があったら、すぐ最寄の警察へ届出るようにというのだ。十七人の若い女が、南加州の各地で、ルウス・ジュッドに似ていると言うので逮捕され、身許保証がはっきりするまで留置されるという騒ぎ――何時ものことながら、亜米利加式にじゃんじゃん騒いだ光景が思いやられる。
 例によって警察は、悪戯いたずらや善意の投書で、まるで洪水のように悩まされたものだ。市内到るところから「好意ある市民」の電話が掛って来て、いま、ルウス・ジュッドと思われる婦人が家の前を歩いているだの、停留所で電車を待っているとのこと――まるで一個のルウス・ジュッドが同時に何箇処にも現れている有様で、警察は少からず困らせられた。が、出鱈目の中に一つの真実が混っていないとも限らない。間違いと知りつつ、その一つ一つを究極まで手繰って行く努力など、警察も斯うなると大抵ではない。
 その夜七時、アリゾナ州フォニックス市から、地方検事ロイド・アンドリウス、捜査課長ジョン・L・ブリンカホフ、刑事ハアレイ・ジョンスンの一行が、飛行機で来着した。すぐテイラア課長、ダヴィッドスン捜査係長とともに、署楼上の捜査会議に参加する。
 フォニックス市でも大騒ぎをしていると言うのだ。二人の犠牲者も、加害者のルウス・ジュッドも、人口四万五千のフォニックス市で、仲なか顔の売れている連中なのだ。医師の妻が友達の女を二人も殺して、そのうち一箇の屍体は、滅茶滅茶に暴虐を加え、二つともトランクへ詰めてロスアンゼルスへ送った――街上で、家庭で、事務所で、話しはこれで持切りだという。北二丁目二九二九番地の家の周囲には、田舎のことだが、物見高い。地方民で暇も多いのだろう、アリゾナ名物のカウボウイやなどが、わんわん詰めかけて来て、恐怖に口を開けて、小さなバンガロウを取り巻いている騒ぎ。焼大福や、稲荷ずしの屋台店が出て――そんなことはないが――サミイとアンは死ぬ日まで、その家に幸福に笑いさざめて暮していたのだった。
 ヘドウィッグ・サミュエルスンと、アグネス・アン・ルロイ夫人と――この二人の犠牲者の女のあいだには、異常な特殊関係があったというフォニックス警察側の報告である。サミイは約一年前に、アラスカのジュノウで、アン・ルロイに逢ったもので、当時サミイは、同地の小学校で教鞭を執っていたのだが、肺病が進んで悲観しているところへ、アン・ルロイの同情が、二人の仲を友情から同性愛にまで進めたのだった。よくあるやつで、ルロイは、年三十の健康な、自尊心の強い、男性的な女である。良人はあるが、良人とそりが合わなくて別居しているのだった。看護婦として、サミイに尽した親切が、五ツ年下の美しい女への愛と変って、相互に普通の男女間以上の切っても切れない気持ちへまで進展したことは、想像に難くない。このアンの薦めで、サミイは寒帯地方のアラスカを捨てて、沙漠を渡る風の涼しい、四季いつも秋のような、空気の好いアリゾナ州へ移ったのである。
 X光線係看護婦として、ロア・グルノウ記念療養院に働いているアン・ルロイは、仕事が済むと直ぐ、矢のように北二丁目の家へ帰って、まるで愛妻家の良人が、病める妻の世話をするように、料理から家事のすべては勿論、まめまめしくサミイの面倒を見る。サミイはアンの命令で、一日一杯寝床に就いているのだった。この、アンの献心的な愛には、サミイも深く感動して、アンのことを少しでも悪く言う者があると、狂気のように食って掛る有様だった。
 病院では、アンも男の識合いが少からずある。それらが頻繁に二人を訪れるのを、アンはすこしでもサミイの気が紛れるようにと、喜んで迎えていた。
 この話しを終った後、フォニックスの警察官一行は、ジュッド医師と、バアトン・マッキンネルを呼び出して貰って、別の立場から訊問を開始する。ジュッド医師は、すっかり打ちひしがれたようになっていて、その言うことは、前の陳述から一歩も出ず、
「私はあなた方以上に、家内を見つけ出し度いと一生懸命なんです」
 と繰り返す許りだった。
 バアトン・マッキンネルも、もう気が違ったようになっていて、矢鱈に部屋中を歩き廻るばかりで、何を訊かれても、返事も出来ない程だった。
 その夜晩く、ダヴィッドスン警部は、フォニックスの一行を案内し、ジュッド医師を連れて死体収容所を訪れた。ジュッド氏は一と眼見て、二つの屍体を識別した。
「サミイはいつも頬紅と口紅を濃くつけていましたので、ちょっと変って見えますが、これに相違ありません」
 羅府とフォニックスと両市の警官が力を合わせて、「アリゾナの女虎狩り」は、今や高潮に達している。
 美人で独身のヘドウィッグ[#「ヘドウィッグ」は底本では「ヘッドウィッグ」]・サミュエルスンは、北ダコタ州、ホワイト・アウスの農夫の娘で、一九二五年に州立マイノット女子師範学校を出たのち、同州ランダ市の小学校に奉職し、そこからモンタナ州、ホワイトホウル小学校へ移って二年後にアラスカのジュノウへ転職したのだった。其処で、このアン・ルロイに逢って、こうして凄惨な死を緒にするようになったのである。小柄な、色白の愛嬌のある顔立ちで、友達仲間に評判もよく、自宅に発見された手紙は、凡べてそれを証拠立てていた。言い寄る男なども、少からずあったようで、その中に、或る上院議員からの猛烈なラヴ・レタアのあったことは、ちょっと人々を驚かしたりした。
 斯ういう殺人事件の犠牲者は、よく刻明に日記をつけているものだと言われている。こんな事をいうと、日記をつける人がなくなるかも知れないが、サミイもその一人で、実に死の二日前まで、日記が続いているのだ。青い小さな日記帳――最後の日附は十月十五日で、こんなことが書いてある。
「人間は何うしてこう争ってばかりいるのだろう。それが嫌さに、私はこの沙漠の荒地に隠れたのだった」
 その年の六月六日の分には、
「修身甲の生徒。私はほんとにそれだ。子供の時分の肉体的影響と遺伝――メンデルの法則通りに私も動くのだ。快楽主義――これだけが人間の最後の目的なのだろうか」
 九月二十五日のペイジを見ると、ただ一行、
「今日で丁度、病床生活一年間」
 アグネス・アン・ルロイは、オレゴン州テラムウクの生れで、本名は、アグネス・イムラア。同州ポウトランド市、グッド・サマリタン病院で看護婦の訓練を受けたのだ。サミイとは正反対の、男性的な強い性格で、だから二人は、まるで夫婦のように気が合ったのだろう。実際ルロイは、良人が妻を愛するようにサミイを愛して、第三者には滑稽な位いだったと言う。
 この、同性愛の第三者として、ルウス・ジュッドが割り込もうとしたに相違ない。ここに悲劇の発端が生じたのだが、長く良人と別れていた彼女も、性的な淋しさや何かから、病的にサミイへ近づいて行って、そこに、アン・ルロイとの間に恋の鞘当てが始まったのだ。


 フォニックスの病院の看護婦で、ルシイル・ムアというのが、兇行の前夜、木曜日の晩飯に二人の家へ呼ばれて行ったのだが、その時、ルウス・ジュッドも来ていて、何となくルウスと犠牲者の女二人とのあいだに険悪な空気があったようだと証言した。ルウスは公然とサミイに興味を示して、食卓の下で手を握ろうとしたりなど、その度にアンは、見ないようにしながら、顔色を変えていた。同性愛の猛烈な闘争が遂に火を発して、この犯罪を生んだものであることは言うまでもないのである。ルウス・ジュッドが良人を愛していたことも、偽りのない気持ちではあろうが、この種の同性間の恋愛は、往々常識を逸したものであると言う。既に病的な域に踏み込んでいたものに相違ないと、ジュッド医師も科学者の立場から認めている。その年、一九三一年の夏、ルロイ夫人は親戚の用で、一寸故郷のオレゴン州ポウトランドへ帰ったことがある。丁度良人のジュッド氏は、ビスビイ鉱山へ出張のあとで、ルウスは此の時、サミイの手を取って駈け落ちをしようとまで騒いだというのだ。出入りの牛乳配達や、氷屋などが証言に現れて来てアンが夜勤の晩などは、ルウスはよくサミイの寝室へ這入り込んで朝まで一緒に寝ていたりするのを、早朝窓の外を通って見たなどと言った。ルウスがサミイに買い与えた花束や菓子などを、アンは恐ろしい形相でルウスへ叩き返したりした。
 表面仲の好かった三人の女友達の間に、こんな軋轢あつれきのあったことは、ジュッド医師は勿論、周囲の人も誰も知らなかったのである。が、良人の不在中、夫婦のような女二人と一緒にいるのは、堪らないと言って、ルウスは、秋になると間もなく、東ブリル街一一三〇番地の家へ移ったのだ。
 三人の共通の友達で、ベテイ・マレイという女薬剤師なども、ルウス・ジュッドは時どきヒステリカルになって、アンへ物を投げつけたりなど、野獣のように暴れることがあったと言った。
 グルノウ療養院の看護婦長エヴェリン・ネエスというのが、サミイとアンを生きて最後に見た人で、金曜日の午後、北二丁目へ訪ねて行くと、アンはサミイのために寝台ベッドの支度をしていたが、三人はそれから茶を飲んで雑談を交わした。サミイは桃色のパジャマを着て、陽気に騒いでいたというのだ。
 その夜晩く、ルウス・ジュッドが、の家へ来たのだろう。
 これが兇行の晩で、翌朝早く療養院の当直医パアシイ・ブラウンのところへ、女の声で電話が掛って来て、
「私アン・ルロイですの。サミュエルスンさんの兄さんが急病で、ちょっと一緒にタクソン町まで行かなければなりませんから、病院のほうは休ませて頂きます」
 が、この電話の欠勤届が行き違いになって、その日の午前十時半頃、アン・ルロイが来ないので、何うしたのかと、院長の命令で看護婦の一人が、彼女の家へ見に行った事実もある。ひっそりして、人気のない様子で――それは人気のない訳で、この時はもう二人はトランクの中に収まっていたのだろうが、そんなことは知らないから、看護婦が窓から覗いて見ると、寝台はきちんとしていて、人の寝たふうは見えなかったという。
 これが土曜日のことで、ルウスはけろりとして病院へ現れて、一日一杯いつものように快活に立ち働いた。が、夕方帰り際に、
「羅府の良人から手紙が来て、鳥渡行かなければなりません。ボウルドウイン博士に、そう申上げて下さい。水曜日には帰れると思います」
 そして、自分の代りに、スピッケルマイヤアという看護婦を、市の看護婦会から臨時に雇って来て、仕事に差閊えないようにしたりした。ひどく落ち付いたものである。
 これらの調査がフォニックス市で進捗しんちょくしている間に、羅府では、ルウス・ジュッドの行方を求めて、未だに大騒動を演じている始末だ。
 何処へ行ったか皆目知れないのである。
 ジュッド医師とバアトン・マッキンネルは、囮として一時釈放されて、昼夜間断なく尾行がついている。サンタ・モニカのケリイ・ジュッドの家には、女巡査が張り込んで、すべての電話をケリイの声色で、応対しているのだ。
 月、火、水、木――日は流れる。
 捜査本部は、新聞記者の大洪水だ。何時ルウスが発見されるか判らないので、誰一人一秒も部屋を離れる者はなく、署員の顔色から捜査の発展を看取しようと、一同眼を光らせているのだ。
 煙草の煙りで、咽返るような室内に、記者連中の意見が、大声に交換される。
「なあに、もう生きてるもんか。二、三日中に何処かの浜へ死骸になって流れ着くよ。まあ俺の言う通りだから、見て居給え」
 と言ったのは、ロスアンゼルス・タイムスの社会部記者、パット・シェパアドだ。
 雑談に花が咲いている。

      5

「例のトランクを海へ捨てる心算つもりだったって言うからね。海ということは、ルウスの頭にある筈だ。だから、俺は思うんだが、あいつ今頃、トランクの代りに海に浮かんでるよ」
 同じ社のアルバアト・ナダンが笑って、
「なあに、そんなことはあるもんか。こういう種類の女は、自分のやったことを、お終いまで見度がるものだよ。何処かにじっとして、毎日新聞を買い集めて読んでるに相違ない」
「何しろ五弗しか持ってねえんだからな。近い内に食えなくなって、のこのこ出て来るにきまってる」
 と言ったのは、ヘラルドのフレッド・パアネス記者だ。
 エギザミナア紙の社会部副部長、ウオルタア・ノウトンは、一同と別の意見で、
「僕は何うもあの弟のバアトンの奴が臭いと思うんだ。あいつ確かに姉の居所を知っていて秘かに金ぐらい廻わしているに相違ない。あいつの口を割らせることが第一だよ」
 犯人逮捕に一千弗の賞金を提出したのは、このエギザミナアが一番早かった。翌日タイムスが、この上を行って、千五百弗の賞金を出す。ロスアンゼルス中、素人探偵がうようよし出す。


 ジュッド医師の広告も各新聞紙に現れて、
「ルウスよ、帰って呉れ。親愛なるルウス、何卒法律の前に降服して呉れ。お前の気持ちは私にはよく解っている。お前一人であんなことをしたとは思われない。誰かを庇っているに相違ないが、どうぞ出て来て、私にだけでも凡べてを告白して呉れ――お前の良人で恋人の、ウイリアム・ジュッド」
 この、ジュッド医師の意見では、妻は最早や生きてはいまいというので、
「身体も心持ちも弱い女なんです。法廷に立つことを思って、それだけでも自殺しているに相違ありません。が、若し生きているなら、五分間私と会いさえすれば、私はよく話してやって、進んで警察へ自首させて見せますが――」
 十月二十三日金曜日は、何となく一種の緊張味が捜査本部に漂って、刑事や記者連中の顔にも蒼白なものが漲っているような気がする。
 今日は何か起る!
 警察と新聞社がタイ・アップして、文字通り歩道の石を起すような捜索なのだ。もう、ルウスの逮捕は時間の問題に相違ない。賞金は二千五百弗、市民は眼の色を変えて、ルウス騒ぎに熱中しているのだから、もし、まだ生きているとすれば、案外公々然と、刑事や記者の眼に触れながら、それとは気が付かれずに静かにしているに相違ない。
 午後四時三十分、このはち切れそうな緊張に、電波のように揺り動かして、閃いたものがある。
 電話のベルだ。
 課長秘書のマデリン・ケリイが、受話機を取り上げると直ぐ、彼女はそれを、タイムス社のアルバアト・ナダン記者へ差出して、
「あなたへ電話ですよ」
 タイムスに其の人在りと知られた、警察係ナダンは、暫く電話で暗合のような言葉を話し合っていたが、
「そうかい。じゃあ、兎に角行って見よう」
 と、静かに言うと、そのまま退屈そうな顔で、ぶらりと捜査本部を出て行く。
 ナダン記者の背後に、揺れ扉が閉まるか閉まらないに――。
 また、電話だ。
 今度は、課長テイラア氏へ。


 と、思うと、課長室で鈴が鳴って、秘書のマデリン・ケリイを呼んでいる。
 這入って行って机の前に立つと、テイラア課長は、きらりと輝く眼を上げた。
「アレキサンダア・ホテルへ電話を掛けて、フォニックス地方検事アンドリウスさんに、直ぐ此処へ来るように言って呉れ。今夜、アリゾナへ帰る予定なんだが、直ぐそれを変更して、本署へ来て待つように――」
 待つ――とは、何を?
 見ると、課長は、帽子を被って部屋を出て行こうとしている。記者連の眼が、一斉に集中する。
「何処へ行くんですか」
 起って来て、口ぐちに訊くのだ。
「うん。ちょっと煙草を買いにね」
 ゆったりとした足取りで出て行く課長の後姿に、記者連は騒ぎ立って、
「煙草だと? 何を言やがる!」
「さあ、来た! こうしちゃあ居られねえ!」
「俺達も煙草を買いに出掛けようじゃねえか」
 一度に帽子を掴んで走り出した。
 所謂第六感が、彼等の足を動かすのだ――「アリゾナの女虎」事件に、眼鼻がつきかけて来た!
 一人あとに残されたマデリン・ケリイ秘書は、何か叫び上げ度いような興奮に駆られて、椅子にじっとしていることは出来なかった。


「おい! 見つかったぞ!」
 という電話が、捜査本部へ鳴り響いたのは、それから半時間の後だった。
 ルウス・ジュッドが、良人の前に現れたということを聞き込んで、ああしてテイラア課長も、タイムスのナダン記者も、狼狽しながら知らん顔して、急いで捜査本部を立ち出でたのだった。S・Pの駅頭にトランクが開かれてから、実に四日目の午後である。


 ルイス・P・ラッセル判事――此の人はいま現に羅府で弁護士を開業している――が、ジュッド医師の身柄を保管していて、この逮捕の時にも、その現場に居合わせた。
 お昼頃、何処からともなく電話が掛って来た。女の声である。秘書のリチャアド・カンテロンが応答すると、
「ジュッドさんはそちらに居ましょうか」細い、かすれたような声で、「私はルウス・ジュッドですけれど」
 その瞬間のカンテロンの驚きは、現しようがない。が、直ぐ彼は、その部屋に居合わせる新聞記者を警戒しなければならないことを思い附いて、
「いいえ」出来るだけ平静な声だ。「ですが、一時間以内にミュウチュアル二三三一番へ電話をお掛けになれば、そちらでお話の出来るように取り計らいましょう」
 これで、電話が切れた。
 この電話番号は、同じビルディング内の弁護士パトリック・クウネイの電話で、カンテロンが突嗟に思い付いて、記者連へのカムフラアジのために、ジュッド夫人へそれを告げたのだ。そしてすぐ、ラッセル判事と相談の上、それとなくジュッド医師をクウネイ弁護士の事務所へ連れ込んで置く。クウネイには事情を明かして、電話と事務所を一時借りることにした。


 地下鉄ビルディングのクウネイ弁護士の事務所である。ジュッド医師を中心に、ラッセル判事と、カンテロン秘書と、三人は黙然と椅子に掛けて、じっと机上の電話を見詰めている。一時半、二時――電話は来るか、来るか――と、来た――ベルが鳴るとジュッド医師は、顔色を変えて椅子に飛び上った。
「もしもし――ジュッドだが」
「あら、あなた?」
 妻のルウスだ。
 ジュッド医師は震え声で、
「ルウス、お前何処に――何処に居るんだ」
 が、ルウスは良人にも居所を明かそうとしない。ジュッドは長いことかかって、自分とラッセル判事だけが、そっと会いに行くからと、悲痛な言葉で説き立てながら、
「ルウス、何も怖がることはないよ。決して直ぐ警察へ突き出したりなんかしないから。バルテモア自動車車庫を知ってるね? 知ってるだろう? お前あすこへ来ないか。僕は先へ行って待ってる。お前がいま俺に電話を掛けていることは誰も知らないんだから、すぐ、バルテモア・ガレイジへお出でよ。あすこで会おう」
 受話機を掛けたジュッドの額には、大粒の汗が列のように流れて、判事も秘書も、余りの気の毒さに、正面に顔を見ることは出来なかった。
 ガレイジへ来ると言ったという――。
 勇躍したラッセル判事は、何を考えたのか、市第一の葬儀屋、ガス・アルヴァレッツ会社へ電話を掛けて、霊柩自動車を一台、至急バルテモア車庫へ廻わすようにと頼んだ。
「大事な仕事だから、責任のある運転手を寄越して呉れ給え」
 ジュッド医師と、判事と、二人きりで、その車庫へ出掛けて行く。そっと窓から外を見ながら、ルウスの来るのを待ったのだが、あれ程興奮した瞬間の連続はなかったという。それはそうだろう。
 来た。


「街を歩いて来るのが見えた」ラッセル判事が、後で新聞記者に話した。「まるで、罠を恐れる兎のように、前後左右を見ながら、急ぎ足に来ました。写真で見た通りのルウス・ジュッドでした。とうとう良人を見附けて、にっこりして手を振りました。ジュッド医師は堪らなくなったらしく、駈け出して行って彼女を抱きしめ、わざと人目を避けるために、角を曲って、第五街の入口からガレイジへ這入って来た。私は其処に立って、二人を待っていたのです」
 ルウス・ジュッドは、顔は蒼ざめていたが、予期したほど疲労の色もなく、割りに冷静だった。この辺は通行人も少なく、ガレイジの使用人には何も話してないので、二人の紳士が女を待ち受けて、何か話しているとだけに見えたに相違ない。それでも、人目を避けて、車庫内の自動車の一つに乗り込んで、其処で話すことにした。
「警察へ知らせないで下さい! 出て行く時が来れば、私から出て行きますから――」
 ルウスは繰り返しくりかえし、そう言った。
 そこへ予ねて手配してあったガス・アルヴァレッツ葬儀会社の金ぴかの自動車が来た。判事とジュッド医師は、何も言わずに、いきなりルウスの腕を取って、その葬儀車へ乗り移ったのだ。
 生きているうちに、柩に這入る――物好きな市民と、新聞社の自動車の追跡を避けて、無事に警察へ送り込むための、ラッセル判事の大苦心なのだった。
 柩車へ乗りこむと、ルウスはすっかり崩折れて、
「手が痛いの、あなた。死にそうに痛いのよ」
 と、良人に身を投げかけて啜り泣いた。若いヘドウィッグ・サミュエルスンと格闘の際、サミイに左手を撃たれたと言って怪我をしているのだ。
 警察へ着いてから、微温湯ぬるまゆの中に腕を漬さなければ、その、シイツを裂いて無器用に巻いた繃帯は、血で固まっていて取れない程、出血が甚だしかった。弾丸は深く肉に食い込んでいて、ジュッド医師も簡単に摘出し得なかった。もうこの時分は、ルウスはすっかり逆上していたらしく、警察へ連行された後も、其処を警察とは知らずに、
「どうぞ警察へだけは、出さないで下さい!」
 と、泣き続けていた。
「然し、何れは、法の裁きを受けなければならないのですから、自首なすったほうがお為です」
 既に警察に来ているのだとは言わずに、判事と良人が、左右から頼むように説くと、ルウスはやっと頷いた。
 判事がそっと卓上の鈴を押す。それを合図にテイラア課長、ダヴィッドスン捜査係長、フォニックス地方検事アンドリウス氏などが、一時に扉を排して這入って来て――ルウスも、もうさっきから警察に来ていることを知った。


 緑色の毛の洋服を来たルウスは、特徴のある、大きな眼で、人々を見廻すだけだった。襟と袖に、狐の附いた黒い外套を腕に掛けていた。流行のノウ・ストッキングで形の好い脚を高く組んでいる。帽子は被っていなかった。
 テイラア課長はにこにこして、
「何うなさいました、奥さん。怪我をしていらっしゃいますね」
 ルウスは、答えなかった。
 この時分にはもう、ルウス・ジュッドが逮捕されたというニュウスは、火のように市中に拡まって、部屋の外の廊下は、新聞記者や写真班で暴動のように犇めき合っている。
 傷の手当のために、ジョウジア街の市営病院へ移すことになった。その時、病院の入口で、新聞記者にもルウスを見せ、写真も撮らせる手筈がきまる。ライアン刑事と、ダヴィッドスン警部に左右から挟まれて、ルウスは、裏のエレヴエタアで署の建物を後にした。正面は群集で身動きもならないので、うまいたのだ。
 エギザミナア紙の記者、リン・スレエトンは、病院の係に幾らか掴ませでもしたのだろう。医者の着る糊で硬ばった白衣を身に附けて、この、ルウスの傷の手当に立会い、それを読物にして、紙上に連載した。混雑の際だったから、こんなことも出来たのだろうけれど。亜米利加式の活躍である。左手の弾丸は、訳なく取れた。

      6

 手術を終って廊下へ出ると、群っているカメラ・マンの一人が、用ありげに大声に、
「ジュッドの奥さん!」
 ルウスが何気なく、そっちを振り向いた途端、蒼白いフラッシュが閃めいて、写真班は任務を果していた。
「何をするんです! 失礼な!」
 顔色を変えてルウスが叫んだ。
 写真班員は平気で、
「こっちを向いて下さい。ちょっと笑って下さい」
 などと、四方八方からカメラを向けて喚いた。翌日の新聞は、悲しい眼を大きく見開いて、左手を首から釣り繃帯した若い女の写真で、第一面をでかでかに埋めた。写真の上に大きく、
「アリゾナの女虎タイガレス、遂に檻へ!」とあった。


 次ぎは、其の深夜に行われた、捜査本部での、テイラア課長の訊問である。
「一体何うしたんです。奥さん。ちょいと人騒がせをやりましたね」
「私は何も申上げることはありません」
「一言お訊きしましょう。手はまだ痛みますか」
「――」
「明日になったら、少しは口を開けて呉れますか」
「そんなことお約束出来ませんわ」
「ルウス・ジュッド! いい加減にするがいい! 本当のことを言うのが恐ろしいんだろう」
「そんなことはありません!」
「まあ、いい。一人でやったことですか」
「さあ、何うですか」
「お前一人の仕事かと訊いているんだ」
「あなたの問いにはお答え致しません」
「死骸をトランクへ詰めるのに、誰か手を貸した者があるだろう――おい! 重かったろう? あの肥っちょのほうの死骸は」
 ルウスは、引き裂くような悲鳴を上げて、両手で顔を覆った。
「ねえ、奥さん、仲好く話し合いましょうや。アリゾナへお帰りになり度くはありませんか」
「え、帰り度いと思いますわ。私、アリゾナが大好きですの」
「私は、こんな腰弁で金も暇もありませんが、これでも旅行が大好きなんですよ。休暇というと旅行に出るんです。それも定ってアリゾナへ行くんですがねえ。一度行ったら病みつきになってしまって、はっはっは、実に好いところだ。沙漠と言ったって、この辺の南部の沙漠とは全然趣きが違っていますね。第一空の色が、こんな羅府などとは比べものになりませんよ。ねえ、奥さん」
「え――一度アリゾナへいらしった方は、皆さんアリゾナがお好きになりますわ。ほんとに好いところですもの」
「殊にフォニックスは、私にとって忘れられない町です。木に囲まれた真珠のような綺麗な、小さな市街で、カウボウイの群れが、肩を揺って歩いている、あの感じは、ちょっと他所よそでは見られませんねえ」
「ねえ、課長さん、あたくし――隠れていたことも罪になりますの?」
「飛んでもない! そんな馬鹿なことがあるもんですか。私だって、あなたの立場だったら、何日も逃げ隠れて、警察の奴等に鼻を明かしてやりますよ。参考のためにお訊きするんですが、この四日間何をしていらしった? はははは、じっとして――」
「何も食べずにいましたわ。お金も、泥棒する勇気もありませんでしたから」
「あの五弗は何うしました? 弟さんの上げた」
「この手の傷のお薬を買ったり、初めの二日程の食料や何かに費ってしまいましたの。一度サンタ・モニカへ出掛けて行きましたけれど、義妹の家の前を何度も通ったきりで、とうとう這入れずに、引っ返してまいりました」
「ちょっと好奇心でお訊きするんですがねえ。一体何処にいらしったんです」
「ずっとロスアンゼルスに居りましたわ」
「ロスアンゼルスの何処に?」
「――」
「まさか夜、町に寝て居たわけじゃあありますまい」
「随分恐ろしい思いを致しました。夢中でした」


 亜米利加の有名な女殺人犯に、ルウス・スナイダアとジュッド・グレイがある。Ruth Snyder, Judd Gray ――不思議にもルウス・ジュッドは、この二人の名前を一つに集めているのだ。


 汚れたハンカチイフで眼を拭きながら、ルウスはこの徹夜の訊問に踏み応えている。涙で顔が洗われて、白粉おしろいが剥げたのを気の毒がって、課長の女秘書マデリン・ケリイが、自分のコンパクトを貸したりしているのだ。ルウスは、終始、神経的に震えて、鍵のかかったドアの外にノックの音のする度びに、ぎょっとしてそっちを振り向いた。が、アリゾナの気候などを話している時には、可愛らしく微笑して、すっかり普通の時のように見える。その様子が如何にもわざとらしく、天性の俳優のように思われた。この、滑かな彼女の態度から、記者達はルウスに「天鵞絨びろうどの女虎」という新しい綽名を与えて、これが又新聞紙上を賑わしたものだ。
「台所で始まったんです」
 突然ルウスが言い出した。告白と見て、テイラア課長は緊張を隠し切れない。そっと秘書に合図をすると、マデリン・ケリイは紙に鉛筆を構えて、速記の支度をするのだ。
「あたしは、殺すつもりなどはなかったんです。サミイがピストルを持って来て、今すぐ此処を出て行け、出ないと撃つと言って、あたしを狙いました。あの晩、サミイのことで、アンと私が口論になった時、サミイがアンの肩をもって、こんな態度に出たのです。あたしは夢中で、片手でサミイの拳銃を握りながら、其処にあった麺麭パン切りナイフに手を掛けました。途端にサミイが引き金を引いて、この左の手へ当ったのです――」
 テイラア課長は、興味を示すまいとする努力で、不自然な欠伸あくびを作りながら、
「ああ、眠くなった。今夜はもう止しましょう。お話しは、明日にでもゆっくり伺いますから――」
 起とうとすると、ルウスは眼をきらめかして止めて、
「待って下さい! あたくし、すっかりお話ししてしまわなければ、とても眠られないんです!」
 迷惑そうに、テイラア課長は渋しぶ椅子に返る。
「サミイが先に撃ったんですね。で、奥さんは何うなさいました」
「それが、この、左の手に当ったんです。あたしは、もう夢中でした。全身の重みで、サミイを押し倒しますと、アンが大声に叫んで、食堂へ走り込んだと思うと、大きな旧式な拳銃ピストルを持って直ぐ飛び込んで来ました。あたしは何時の間にか、サミイのピストルを拾い上げて、手に持っていました。無意識でした。二発撃ったんです」
 課長の背後の卓子テエブルで、紙に滑る秘書の鉛筆の音が微かに響く。
 ルウスは一切気が付かない様子で、
「気がつくと、二人とも床に倒れていました。あたしはとても悲しかったんです。サミイがあたしを撃ったことが、何よりも悲しゅうございました。サミイの死骸を抱き起して、何時まで泣いていたか、覚えていません。死骸を台所にそのままにして、一と先ず家へ帰ったんです。そして、良人に宛てて手紙を書くと、朝までぐっすり眠りました」
 自白はこれで、一と先ず終っている。
 テイラア課長は微笑して、
「相手が先に引き金を引いたんだから、つまり、正当防衛という訳ですかな。ははははは、仲なか巧いことを言う――まあ、奥さん、それはそれとして、何卒どうぞこれに御署名を」
 秘書から告白の写しを受取って、その下段の余白を指さしながら、課長はルウスにペンを握らした。


 あの日の正午、この羅府の下町で弟の自動車を下りてから、ルウスは群集に紛れて町を歩き廻ったのち、ウールウオウスの店へ這入ってエレヴエタアで、最上階へ上り、カアテンの蔭に隠れて、閉店になるのを待ったのだという。何うして発見されなかったものか、そのカアテンの蔭で夜を迎えて、ルウスは店内に一夜を明かしたのだった。何度となく夜警が巡って来たが、彼女は売台の蔭に外套を敷いて寝ていて、とうとう朝まで見つからなかった。翌朝、開店時になると、便所に忍んで、買物の群集で店の混み出すのを待ち、何気なく立ち去ったのだ。何処へも行く当てがない。それでも、其の筋の眼を眩ますために変装を思いついて、薬屋へ立寄り、髪の毛を染める薬品やなどを買い込んでいるところを見ると、ちょっと本格的な犯罪者らしい閃きも見えるのだ。一日一ぱい歩き廻った末、午後、バサデナのラ・ヴィナ病院の看護婦募集の広告を見て、同地行きの電車に乗り込んだのだが、途中で気が変って田舎の停留所へ下車したのだった。足が痛んでならない。靴を脱って、裸足で草の上を歩いた。
 その夜は、近処の百姓家の乾草小屋に潜り込んで、一夜を明かした。翌朝早く、サンタ・モニカへ行ったが、義妹の家へは立ち寄り得ずに、また直ぐ羅府へ引き返したのである。そして、名もない場末の木賃宿へ泊り込んで、一歩も部屋から出ずに、息を凝らしていたというのだ。あの悲痛な、良人ジュッド氏の新聞広告などは、彼女の眼に触れなかった。ただ堪らなくなって電話帳を借りて、ああしてラッセル判事の許へ掛けたのである。
 フォニックス地方検事アンドリウスが、次ぎに訊問にかかって、
「あなたは何か隠していますね。犯罪のほんとの動機は何です?」
「動機と言って――あの時、ちょっと喧嘩しただけのことが、こんな結果になったんですわ」
「何のために、サミイの死骸をあんなに虐たらしく切り離したんですか」
「それだけは訊かないで下さい。あたしにも解らないのです。覚えがないんです。気が附くと何時の間にか、あんなことになっていました」
「屍体をトランクに詰めた時のことを、委しく話して下さい」
「――」
 これらのことは、ルウスは詳細に陳述したのかも知れないが、記録には、こんなようなところは、器用にぼかしてある。あまりにグロで風壊の恐れがあるので、公表されなかったものだろう。
「正当防衛か、或いは瞬間の発狂というようなことで、あなたは、自分の罪を軽くしようとしていますね。死人に口無しだ。サミイが先に発砲したなんて、他に証明のしようのないことじゃないですか」
 ルウスはにこにこ笑っていて、何とも答えなかった。
 共犯はなかった模様だが、あの犯行の翌日、彼女がグルノウ療養院に現れた時、左手に怪我などしていなかったということで、これにはアリゾナから証人が呼ばれたりなど、大問題になったが、結局、痛みを隠して繃帯をしていなかった為めに、誰も気が付かなかったのだろうということだった。トランクは自宅にあったのを、フランク・シュワルツという運送屋に頼んで、兇行の現場まで運ばせ、其処でアンの死骸と、ばらばらに料理したサミイの屍体とを詰め込んで、出発の夕方、自宅東ブリル街一一三〇番地の家主ハルナンに頼んで、停車場まで運んで貰ったのである。サミイの胴の中央部だけはスウツケイスに、入れて、手荷物として自分と一緒に羅府へ持って行ったことは前に言った。フォニックスから羅府までの車中、彼女の世話をした列車ボウイ、グリムも、そのトランクを認めたと言い、また、決して、ボウイにも其の鞄に手を触れさせなかったと、交番で述べた。


 ジュッド医師は、妻のために羅府第一の弁護士ポウル・W・シェンクを立てる。
 十月二十九日火曜日の夜、九時三十七分に、ルウス・ジュッドは看守マクファデンと女看守ロン・ジョルダン夫人と一緒に、郡刑務所から自動車で、アリゾナ州フォニックスへ向う。この「天鵞絨の女虎」を追って、羅府を始め、加州の新聞社の自動車が数十台となく国道に続いた。ルウスの次ぎの車には、ジュッド医師と、アリゾナの警察官一行が乗り込んで、一同無言だった。それは不思議な、深夜の自動車行列だった。
 一九三一年十月三十日、自動車は、州境に差掛って、此処で、州と州との間に、犯人引渡しの形式的な手続がある。
 フォニックスの町を自動車を駆って刑務所へ急ぐ間、ルウスは、車の窓から懐しそうに外を見つづけた。その出現に依って、この田舎町が一躍有名になった「われらの女虎」の一瞥を持とうという両側の群集も、ルウスの眼には這入らない様子だった。
 裁判は、一九三二年――今年――一月十九日に、フォニックス市法廷で開かれた。若い美しい、兇悪な殺人犯は、蒼白い顔に平静な色を浮かべて、まるで劇場にでも這入るように、法廷へ現れた。サミイが先に撃ったので、止むを得ず自分も発砲したというのは、彼女の弁護の建前で、終始一貫して、此の主張だった。
「この犯罪の真実の動機は何か?」
 ロジャアス裁判長の問いに、ルウスは悪びれもせずに、
「あたしは良人を愛していました。ですけれど、良人以上にサミイを愛していたのです。ああ、サミイ――サミイに対する私の愛は、決して説明することの出来ない気持ちです。男と女との間の恋などよりも、もっと深刻な、もっと真剣な――」

      7

「被告には、自分の意識しない残虐性があって、それがこの犯行の誘因となったのではないか」
「そんなことはないと思いますけれど――」
「然し、そんなに愛して居った相手の死骸を、ああも残虐に切断するという事は、とても常識では考えられんじゃないか」
「あの瞬間あたしは気が狂っていたのです」
「それは被告にとって一番都合の好い言葉である。殺人は正当防衛で、残忍行為の時は、一時的に精神の異状を呈しておった、と斯う言うのだろうが、精神鑑定は別の問題として、それで被告の責任は軽くはなりはせんから、予め申聞けて置く」
 羅府ロスアンゼルスから来たシェンク弁護士のほかに、フォニックスの弁護士としてヘルマン・ルウコウイッツと、ジョセフ・B・ザバサック、この三人が被告側の弁護人、検事は、前にたびたび出て来ているアンドリウス氏と、ハリイ・ジョンソン。裁判長はいま言った、A・G・ロジャアス。
 アリゾナ州立精神病院長ジョウジ・スティブンス博士が、ルウスの精神鑑定を行ったが別に異状は認められないと言うことだった。例のトランクが二つ法廷へ持出されたりして、亜米利加の裁判に特有の劇的場面を呈する。ルウスはけろりとしてトランクを眺めていたが、右手で左手の人さし指に、ハンケチの端を巻いたり解いたりしていた。物好きな新聞記者が、それを数えて、二百四十三回ハンケチを指へ巻きつけたと傍聴記事に書いている。
 この裁判の間に、連日の興奮に疲れ切っているジュッド医師が大きな鼾を立てて、居眠りを始めた。それは実に大きな鼾で、検事の論告や弁護士の反駁やらで、騒然としている法廷内に、隅から隅まで鳴り響いて高く聞えた。
 飽気に取られた廷丁が、そばへ寄って揺り起そうとすると、ロジャアス裁判長が、静かに止めて、
「起しちゃいかん。ジュッドさんを眠らして置き給え」
 検事が一寸顔色を変えて、
「然し、裁判長、この神聖な法廷に於て鼾をかくとは――」
 裁判長はにっこりして、
「神聖な法廷だからこそ、お気の毒なジュッドさんに、ぐっすり眠って頂き度いのです。被告を始め、誰も彼も狂気のようなこの法廷の中で、只一人、真面まともな人間らしい人は、ジュッドさんだけだ。ジュッド氏の眠りを妨げてはいけない」
 ちょっと、めりけん大岡越前守というところ。
 一月二十八日、裁判は一時中止される。翌二十九日は、ルウス・ジュッドの二十七回の誕生日で、ジュッド氏は獄中の妻へ白いカアネエションの花束を贈った。が、いくら亜米利加でも、誕生日が来たので裁判を休んだという訳でもあるまい。然し何といっても呑気なもので、ルウスはこの日、許可を得て、監房内へ美容師を呼び入れ、パアマネント・ウエイヴをかけたりしている。ここらは、鳥渡想像が出来ない。
 二月八日月曜日、午後五時。裁判長ロジャアス氏は起立して、陪審員の判定を読み上げる。
「被告を最重の殺人犯と認め、死刑に処す」
 この判決を他人ひと事のように聞いていて、ルウスは眉毛一つ動かさなかった。ジュッド医師が、彼女をしっかり抱き締めて接吻をしても、ルウスは機械のように、される儘になっているだけで、何の感動も、興奮も示さなかった。が、その抱擁から引き離されて、女看守に手を取られて退廷する時、初めて人々は、彼女の口から洩れ出る長い低い啜泣きの声を聞いた。
 アリゾナ州フロウレンスの州刑務所で、ウイニイ・ルウス・ジュッド――女囚第8811号――が、電気椅子に掛かったのは、今年の二月二十三日の星の寒い明方だった。アリゾナの沙漠に、粉雪の降っている朝だった。
「サミイが待っています。あたしはサミイの所へ行くんです」
 彼女は、そう繰り返しながら、長い石の廊下を死刑室へ進んで行った。暗いドアの前に、警官に守られて、最後の別れを告げに立っていた良人のジュッド医師には、ルウスは一瞥も与えずに静かにドアの中へ導かれて行った。

底本:「世界怪奇実話2[#「2」はローマ数字、1-13-22]」桃源社
   1969(昭和44)年11月10日発行
入力:A子
校正:小林繁雄
2006年7月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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