見知らぬ広い屋敷の庭に大きな池がある。大きな船が浮んでいる。それが船のようでもあり座敷のようでもある。天井がない。今に雨が降り出すと困るがと思っていると、自分がいつの間にかその船に乗って天幕を張ろうとしている。それが自分のようでもあり、友人のようでもある。非常に淋しい気がした。池が消えて夜の街の広場が現われる。空に一本水平に綱が張ってあるその上を玩具の馬のようなものが渡って行く。かちゃんと落っこってバラバラに毀れた。それをまた組立てて綱渡りをさせるのが自分の責任だがどうしたらよいかと思い惑っていると、周囲のラウベンコロニーの青い小屋からドイツ人の男女がぞろぞろ出て来た。
なんだかこんな風な夢であったのですが、今この新短歌を読んでいると、不思議にこの夢を想い出し、そうしてこれらの詩の中に私の夢のどうしても想い出されないかけらが隠れているのではないかという気がするのです。
『立像』の詩はおそらくそういう風な、常套の言葉で現わしにくいものを表現しようと狙っているのではないかという気がしました。
ただ、見馴れない吾々にはどうもあまりひねり過ぎたと思われるような、あるいは無用に誇張したと思われるような辞句が目に立って、却って感興をそがれるような気のするのもありました。一体にもう少し修辞法を練る余地があるのではないかと思われました。
日本の従来の「短歌」とは形式ばかりでなく内容的にも大分ちがった別物とは思いますが、こういう新しい詩形に固有な新しい詩の世界を創造して行くのは面白いことだろうと思われます。それにはもう少し誰にも分かりやすい言葉で誰の頭にもぴんと響くようなものを捕えて来るのが捷径ではないかという気がしますが如何でしょうか。
思いつくままを書きました。門外漢の妄語として御聞き捨てを願います。
(昭和九年七月『立像』)