理學士 坪井正五郎
緒言此風俗考を讀むに先だちて知らざるべからざる事數件有り。此所に列記して緒言とす。
コロボックルとは何ぞ。コロボックルとは元來北海道現住のアイヌ、所謂舊土人が己れ[#「己れ」は底本では「巳れ」]等よりも更に舊く彼の地に棲息せし人民に負はせたる名稱の一なり。然れども此人民の遺物なりとアイヌの言ひ傳へたる物を見るに本邦諸地方の石器時代遺跡に於て發見さるる古器物と同性質にして彼も此も正しく同一人民の手に成りしと考へらるるが故に、余は北海道以外に生存せし者をも人種を等しうする限りは、總てコロボックルなるアイヌ語を以て呼ぶ事となせり。
コロボックルの意義 コロボックルとはコロコニ即ち蕗、ボック即ち下、グル即ち人と云ふ三つの言葉より成れる名稱にして、蕗の下の人の義なり。アイヌに先だちて北海道の地に住せし人民は蕗の葉を以て其家の屋根を覆ひたる故アイヌは彼等に此名を與へたりと云ふ 此名は决して何れの地のアイヌも一樣に知れるものにはあらず。或地方にてはトイチセクルと云ふ名行はれ、或地方にてはトイチクルと云ふ名傳はれり。此他に異名多し。余が殊にコロボックルなる名稱を撰びたるは其口調好くして呼び易きと、多少世人に知られたるとに由るのみ。余は此人民の家は何地に於ても蕗の葉にて葺かれたりと信ずるにはあらす。讀者諸君コロボックルなる名を以て單に石器時代の跡を遺したる人民を呼ぶ假り名なりと考へらるれば可なり。
石器時代遺跡。これ右記述中にて殊に肝要なる言葉なり。念の爲手短に説明せん。我々日本人は現に鐵製の刃物を用ゐ居れども、世界中の人類が古今を通じて悉く然るにはあらず。曾て金屬の用を知らざりし人民も有れば、亦今尚ほ石を以て矢の根、槍先、斧の類を造る人民もあり。事の過去に屬すると現在に屬するとを問はず、人類が主として石の刃物を製造使用する時期をば人類學者は稱して石器時代と云ふなり。アウストラリヤ土人の如きは現在の石器時代人民の一例にして本邦諸地方に石の矢の根、石の斧等を遺したる者は過去の石器時代人民の一例なり。現在の例は一に止まるに非ず、過去の例亦甚多し。隨つて石器時代遺跡の種類も性質も諸所必しも一致するには非ざるなり。他國の事は姑く措き余は先づ我が日本の地に存在する石器時代遺跡の種類をば左に列擧すべし。
一、貝塚。多量の貝殼積み重なりて廣大なる物捨て塲の体を成せるもの。好例東京王子西ヶ原に在り。
二、遺物包含地。地下に石器及び他の石器時代遺物を包含する所。好例埼玉大宮公園内に在り。
三、竪穴。直徑二三間或は四五間の摺り鉢形の大穴。好例釧路國釧路郡役所近傍に在り。
是等は正當に石器時代の遺跡と稱すべきものなれど尚ほ他にも石器時代遺物の發見さるる所あり。これ以上の三種破壞攪亂されたる結果たるに過ぎざるなり。石器時代遺物。石器時代の遺跡は石器時代の遺物存在に由つて始めて確めらるるものなり。今此遺物中にて主要なる人造物を撰み出し其名目を掲ぐれば左の如し。
一、石器―(石の矢の根、欠き造りの石の斧、磨き造りの石の斧) 二、土器―瓶、鉢、壺、椀、人形。三、骨器 四、角器
石器時代人民に關する口碑傳説。石器時代の古物遺跡に關しては日本人中に傳ふる所の説誠に區々にて或は石器を以て神、天狗、雷の造る所となし、或は石器時代の土器を以て源義家酒宴の盃、又は鎌倉繁榮時代の鮹壺となし、或は貝塚を以て巨大なる人の住ひ跡となす。アイヌの口碑は是に反して何れの地に於けるも一樣なり。其大要を云へば次の如し。
アイヌは元來日本本州の方に居りし者なるが日本人の爲に追はれて北海道の地に移り來りしなり。其頃此地にアイヌと異りたる人類住ひ居れり。此人民は石にて刃物を造り、土にて鍋鉢を造り、竪穴を堀つて住居とせり。最初はアイヌと物品交易抔爲せしが後に至つてアイヌと不和を生じ追々と何れへか去り徃きて今日は誰も其所在を知らず。
本邦石器時代の年歴。北海道に石器時代人民の居りしは今より數百年前の事なるべけれど、日本本州に在る同人民の遺跡は更に古くして東京邊に於けるものは恐らく三千年を經過し居るならん。此人民もアイヌと等しく、本州より北海道の地に移りしものと考へらるるなり。
コロボックル風俗。北海道其他本邦諸地方に石器時代の跡を遺したる人民の風俗は如何なりしや。幾分かはアイヌの云ひ傳へたるコロボックルの昔話しのみに徴して知るを得べく、幾分かは古物遺跡の研究のみに由つて知るを得べけれど、兩者を對照して考ふる時には、一方を以て他方の不足を補ふことも有るべく、相方一に歸して想像を慥にすることも有るべく、互に相俟つて一事を證することも有るべく、石器を遺し、コロボックルの名を得たる此古代人民の風俗は一層明瞭と成るべきなり。以上指し示したる二つの根據は共に過ぎ去りたる事柄なるが、是等の他にも亦現在の事實にして參考に供すべきものあるなり。
未開人民の現状。未開人民の現状は實にコロボックルの風俗を探るに當つて大に參考とすべきものなり。石器時代の境界に在る人民今尚ほ存すとは既に云ひし所なるが本邦にて發見する石器の使ひ方造り方の如きは是等人民の所業を調査して始めて精く知るを得べきなり。土器の製造法も使用法も、竪穴の住ひ方も、貝塚の出來方も同じく皆現存未開人民の行爲に就て正しく推考することを得。此他の風俗に關する諸事に於ても亦然り。
コロボックル風俗考の主意。コロボックル風俗は第一、アイヌの傳へたる口碑、第二、本邦石器時代の古物遺跡、第三、未開人民の現状の三種の事柄に基いて考定すべきものなるが、之を爲すの主意たるや、啻に本邦古代住民コロボックルの生活の有樣を明にするのみならず、此人民と他の人民との關係、此人民の行衛迄も明にせんとするに在るなり。
コロボックルの体質。コロボックルは丈低き人民なりしとは諸地方アイヌの一樣に云ふ所なり。中には一尺計りと云ふ者もあり、八寸計りと云ふ者もあれど、こは日本語にて丈低き者をば一寸法師と呼ぶが如く形容たるに過ぎざるべし。容貌は男女見別け難かりしと云へば男子には髯無かりしならん。石器時代の土偶中には男子を摸せしと思はるる者も有れど髯の形を作り設けしものは未だ見ず。男子に髯無くして容貌女と等しき人民は他に例無きにあらず。アメリカの北端に住むエスキモとアジヤの東北端に住むチクチとの如きは殊に然りとす。コロボックルの顏の形は如何なりしか固より確知する能はずと雖とも土偶の面部の或は圓く或は平たきを以て考ふれば恐らく圓形なりしならんと思はるるなり。
●身体裝飾
頭髮 コロボックルは頭髮を如何に斷ちしや如何に束ねしや、余は或るアイヌよりコロボックルの女はアイヌの女と同樣に頭髮を切り下げに爲し居りし由との事を聞きしのみにて他には口碑に就て得る所無し。土偶に據つて考ふれば、男子は頭髮を頂上にて一つに束ね稍冠下の如くにし、女子は或は頭後に渦卷きを作り或は頭上に五つの小髷を載せ或は髮を左右に等分して全体を、への字形に爲せしと思はる。圖第一の周圍に在るは土偶頭部の實例にして中央に畫きたるは此等及ひ他の標本を基として作りたる想像圖なり。
實例圖中、上の中央に在るものは理科大學人類學教室所藏、其右のものは佐藤蔀氏藏、其下は岡田毅三郎氏藏、上の左は帝國博物舘藏、其下は理科大學人類學教室藏、下の中央は田口惣右衛門氏藏、其右は唐澤貞次郎氏藏、下の左は唐澤辨二氏藏。
入れ墨 コロボックルの女の入れ墨せし事は諸地方のアイヌの等しく傳ふる所なり。此の裝飾を施す額分は或は手先より臂迄と云ひ或は口の周圍及び手先より臂迄と云ふ。土偶には頬の邊に入れ墨を示せし如き線を畫きしが有り。アイヌの女が入れ墨するはコロボックルの風を學びしものなりとの云ひ傳へも諸所に存す。女子の入れ墨を以て身体を飾る事類例甚多し。エスキモの如き其一なり。圖第二の中央に畫きたる土偶は信州松本某氏の藏、鷹野秀雄氏の報に係る。其右に畫きたるは面部入れ墨の想像圖なり。
耳飾 耳飾の事は口碑に存せず。然れども諸地方發見の土偶中には耳の部分に前後に通ずる孔を穿ちたるもの往々存在するを以て見れば、耳飾の行はれたる事は疑ふべからず。凡諸人種間に行はるる耳飾には二種の別有り。第一種は耳に穿ちたる孔に緩く下ぐる輪形の物。第二種は耳に穿ちたる孔に固く挾む[#「挾む」は底本では「狹む」]棒形或はリウゴ形の物なり。土偶の耳の部には元來動き易き摸造の耳輪着け有りしものの如く、實際に於ても恐くは獸の皮、植物の線緯等にて作れる輪形の耳飾用ゐらしれ[#「用ゐらしれ」はママ]ならん。第二種の耳飾も存在せしやに考へらるれど未だ確言するを得ず。想像圖中には輪形の耳飾のみを畫きたり。
唇飾 土偶中には口の兩端に三角形のものを畫きたる有り。又口の周圍に環點を付けしもの有り。或る者は入れ墨なるも知るべからず、或る者は覆面の模樣なるも知るべからずと雖も、余は是等の中には唇飾も有るならんと考ふ。唇飾とは口の周邊に孔を穿ちて是に固く挾む所の棒形或はリウゴ形の裝飾なり。耳飾も唇飾も身体を傷くるに於ては同等なる弊風なり。されど甲は其分布甚だ廣くして、自ら開化人なりと稱する人々の中にさへ盛に行はれ、乙は其分布割り合に狹くして、發達したる社會に於ては跟跡だに見ざるが故に、古代の石器時代人民が耳輪を用ゐたりとの事を信ずる人も或は唇飾の事を疑はん。實に唇飾は耳輪よりも不便にして着け惡き物たるに相違無し。然れども習慣と成れば彼の支那婦人の小足の如き事も有るものにて、口の兩端或は周圍に孔を穿ちて唇飾を着くる風は現にエスキモ、チクチ、其他アメリカ、アフリカの諸土人中に行はれ居るなり。高橋鑛吉氏が宇都宮近傍に於て獲られたる土製の小さきリウゴ形の物は其形其大さ誠に好く現行の唇飾に似たり。物質は異れど此物の用は恐く唇飾ならん。右の下に畫きたる男子が唇飾を着けたる想像圖なり。
圖第二の中にて、口の兩端に二重の三角の畫き有る土偶は水戸徳川家の藏、簡單なる三角の畫き有るは羽後某氏の藏、口の四方に點を打ちたるは岡田毅三郎氏藏、口の周圍に點を打ち廻らしたるは理科大學人類學教室藏。
頸飾 土偶中には頸の周圍に紐を纒ひしが如きもの有り。恐らくは頸飾ならん。石器時代遺跡發見物中に在る曲玉及び其類品は裝飾として種々に用ゐられしなるべけれど、頸輪に貫くが如きは主要なる事なりしと信ず。石器時代の曲玉と我々日本人の祖先の用ゐたる曲玉とは其性質に於て等しからざる所有り。彼此混ずべからず。
圖第二に畫き集めたる玉類の中にて上段の右の端なるは栗色の石にて造れる物なり。所有主は理科大學人類學教室。次は緑色の石にて造れる物。兩面に各數個の切り目有り。但し表裏其紋を異にす。所有主は三宅長策氏。次は前と等しく緑色の石にて造れる物なれど切り目の付け方は相違せり。所有主は毛利昌教氏。次は鹿の角にて造れる物。所有主右に同じ。下の方に畫きたる二個の中、豆の莢の如き形したるは緑色の石にて造れる物。兩面に多くの切り目有り。所有主は高橋鑛吉氏。其下なるは鼠色の石にて造れる物。圓き部分の周邊に切り目有り。所有主は三宅米吉氏。
以上或は美しき原料を撰び或は巧みなる細工を施したるを以て考ふれば、是等の玉類は裝飾とするに足る物にして、一端に紐を貫く可き孔を穿ちたるが如きは誠に面白き事實と云ふべし。此他、池袋、馬込、新地等よりは徑三四分位の石製の小玉にて孔を有する物出でたる事有り。何れも頸の周圍抔に裝飾として着けし物ならん。右の上に畫きたるは女子が玉類を頸飾とせし体なり。
(續出)
[#改段]○コロボツクル風俗考第二回(畫參看)
理學士 坪井正五郎
●衣服總説 コロボツクルの衣服に付きては口碑甚不完全なり。或地のアイヌはコロボツクルの男子は裸体なりし由云へど、そは屋内の事か屋外の事か詳ならず、且つ女子は如何なりしか傳へず。又或地のアイヌはコロボツクルの女子がアイヌに近寄る時には片袖にて口を覆ひたりと云ひ傳ふ。女子が或種類の衣服を着せしとの事は深く考ふる要無し。男子の裸体なりしとの事は輕々しく看過すべからず。アイヌは膚を露す事を耻づる人民なり。住居の内たると外たるとを問はず裸体にて人の前に出づる事無し。コロボツクルの男子中果して衣服を着ざる者有りとせばアイヌは實に其無作法に驚きしならん。氣候の寒暖は衣服の有無を决定するものに非ず。テラデルフユウゴの住民は寒地に在りても裸体にて生活す。彼のエスキモを見よ屋外に出づるには温き衣服を纒へども屋内に入れば男女の別無く屡ば裸体となるに非ずや。生來の習慣と住居の搆造とは寒地人民の裸体を許すものなり。習慣を異にし住居を異にするアイヌとコロボツクルが裸体に對する考へを等しうせざるは怪むに足らず[#「足らず」は底本では「足らす」]。余はコロボツクルは衣服を有すれど時としては屋内抔[#「屋内抔」は底本では「屋内坏」]にて之を脱ぐ事有りしならんと想像す。以上は口碑に重きを置きての説なり。之を土偶に徴するに、裸体のもの有り、着服のもの有りて前述の諸事中甚しき誤無きを證す。
股引 土偶に據りてコロボツクルの服裝を考ふるに、身体の上半は筒袖の上着を以て覆ひ、下半は股引を以て覆ふ。着服の順序より云へば先づ股引に付いて述ぶるを適當とす。此物に二種の別有り。第一種は普通の股引にして、膚に密接するもの、第二種は裁ち付け袴の類にして、全体甚寛やかに、僅に足首の所に於て固く括られたるもの。
第一種は模樣に隨つて左の如く小別するを得。
(い)腰より足首迄の間に一行より五六行位の横線を畫きたるもの。是等の中には單に凹ましたるも有り亦朱にて彩りたるも有り。
(ろ)腰より足首に達する二條の縱線を畫きたるもの。
(は)腰より足首迄の間に十行計りの横線を畫きたるもの。
(に)腰の邊に一段の仕切りを爲して此中に種々の小模樣を畫きたるもの。
第二種は左の二より成る。(い)無紋。
(ろ)曲線連合の模樣有るもの。
股引に二種類有るは何に由るか未詳。然れども乳房の部の膨れ方少き土偶に限りて第二種を穿きたる樣に作り有るを見れば或は此方は男子用にして第一種は女子用ならんか。エスキモ男子中には第二種と等しき股引を穿く者有り。彼等の多數は男子共に第一種と同樣なる形の股引を穿く。原料の事は後に云ふべし」圖中、右の上(根岸武香氏藏)、其下(加藤某氏藏)、其斜に左の下(人類學教室藏)三個は第二種の好例なり。此他の脚部は皆第一種に屬す。上着 コロボツクルは身体の上半を覆ふに上着のみを以てせしか、他に膚着の類有りしか、知るに由無し。今は只上着のみに付きて記述を試むべし。
上着にも慥に二種の別有り。第一種は普通のフラネル製のシヤツの如く胸部より腹部に掛けて縱に眞直に合はせ目有り。第二種は白シヤツの如く胸部に開きたる所有りて腹部は左右連接す之を着るには第一種に在つては紐を以て諸所を括り、第二種に在つては胸部を開きたる儘にし、すでれ[#「すでれ」はママ]上部のみを紐にて止めたるならん。第一種の方には略製にして胸部の搆造詳ならざるものも有れど大概は右に述べしが如くなるべし。兩種共樣々の模樣有り。殊に渦卷き形を多しとす。第二種の上着は第二種の股引と相伴なふ[#「伴なふ」は底本では「伴ふ」]に因つて思へば此物は男子の着用品ならんか。第一種の上着を着する土偶には乳房の部の膨れ方甚きもの有り。是亦第一種の婦人用たるを示すものの如し。
圖中、右の上、其下、左の端より二行目の中央の三個は第二種の好例なり。(此他の土偶は皆人類學教室藏)エスキモは現に是等と同樣なる上着を用う。
男女服裝の別 土偶の用未だ詳ならざれば、其模したる物は男子のみの形か女子のみの形か、男女兩樣か明かに云ふ能はず。股引と上着とに各二種宛の別有るは地方の風の異るを示すものが階級の上下を示すものか是亦疑ひ無き能はざれど、其二種に限られしが如きと、兩樣の土偶一ヶ所より出づる事有るとは余をして土偶形状の別は男女の別を示すものならんとの考へを強からしむるなり。乳房の部の膨れ方に大小の差有るは尤も注意すべき事たり。余は有力なる反證を發見する迄は二樣の土偶は男女の相異を示すものとして記述すべし。
穿き物 土偶中には足の指を示したるものと然らざるものと有り。前者は素足の形にして後者は穿き物を着けたる形ならん。但し穿き物の搆造は未だ詳ならず。
衣服の原料 石器時代の土器の中には表面に織り物を押し付けたる痕有るものあり。織り物には精粗の別あれど最も精巧なるは五分四方に、たて、ぬき共に十八あり。アイヌの製するアツシ織りは五分四方に、たて十四、ぬき十計り故、コロボツクルの織り物中にはアイヌの衣服原料よりは更に精巧なるもの有りしなり。コロボツクルは獸の皮抔を以て衣服を作りし事も有らん。然れども土偶の衣服の部には他の土器の表面と同じく織り物を押し付けし痕有るもの少からず。既に衣服とするに足る織り物有り、土偶又織り物の痕を有す、余は少くともコロボツクルの衣服の或る物は織り物を以て作りたりと確信す。此織り物の經緯に用ゐたる糸は何より製せしや未だ明かならざれど、或る種類の植物線緯なる事は疑ふべからず。織り方は普通の布とは異れり。
裁縫 コロボツクルが衣服を作るには皮にも有れ布にも有れ適宜の大さ適宜の形に切りて之を縫ひ合はせし事勿論なり。筒袖と云ひ股引と云ひ一續きに作るを得べきものに非ず。切れ物は鋭き石の刄物なるべく、針は骨にて作りたるものなるべし。是等の器具に付きては別に記す所有るべし。共に石器時代の遺跡より出づ。
裝飾 衣服の裝飾は紐を縫ひ付け、又は糸にて縫ひ取り、又は繪の具にて塗りて作りしと思はる。土偶中には上着の所々に赤き繪の具を付けたるも有り、股引に數個の横線 畫きたるも有るなり。
紐 紐は上着の襟を止める爲にも、股引を身に着ける爲にも必要にして、又裝飾にも欠く可からざる物なり。土器の表面の模樣中には紐を押し付けし痕有り。是等を調査すれば種々の平打ち紐の有りし事を認むべし。其原料は植物の皮なるが如し。
(續出)
附言 前回の圖中、頭髮に關するものの外他は余の送りたる圖と其位置全く異りたる爲説明更に合はず。余は責任者が讀者に對して謝する所有る可しと確信す。[#改段]
○コロボツクル風俗考 第三回(畫參看)
理學士 坪井正五郎
●冠り物總説 冠り物に關しては口碑更に無し。併し土偶を調査すれば慥に二種有りし事知らるるなり。其一は通常の帽子の如く頭上に戴くもの、其二は外套頭巾の如く不用の時は頭後に埀れ置くを得るものなり。別種の冠り物も有りしやに見ゆれど精くは言ひ難し。此所には二種として説明すべし。原料として用ゐたるは獸皮或は織物ならん。
帽子 土偶中には帽子を戴きたるが如くに作られたる物二個有り。一は鍔の幅廣き帽子をば後部にて縱に截り、鍔の端をば下の方に引きて且つ後頭部に押し付けたるが如き形なり。此土偶は常陸國相馬郡小文間にて發見せし物にして岡田毅三郎氏の所藏(第一回の圖右の方下の隅を見よ)他の一は鍔の幅廣き帽子をば前部にて筋違ひに截り、鍔の端をば辷らして右の方は額の方に下げ、左の方は頂の方に寄せたるが如き形なり。此土偶は羽後國秋田郡船川村、字、田中、小字、大澤にて發見せし物にして佐藤初太郎氏の所藏。二種の帽子の形状は右に述べたる通りなるが、實物の搆造は果して如何なりしか余は未だ考定の材料を有せず。
頭巾 頭巾を着たる形に見ゆる土偶五個有り。其發見地及び所藏主は左の如し。(圖中央を見よ)
一、常陸國河内郡椎塚發見 理科大學人類學教室藏
二、下總國千葉郡小金澤村發見 帝國博物舘藏
三、常陸國河内郡福田村發見 理科大學人類學教室藏
四、常陸國河内郡椎塚發見 同前
五、同前 同前
此中四個の表面には額の部に「一の字」形隆まり有り、又兩方の耳の邊より顎の邊へ掛けて「への字」を倒さにしたる形の隆まりも有り。是等の隆まりにて界されたる中に兩眼と鼻と口との存するを見れば、土偶は頭巾の前部より面の現れたる形に作られ有るが如し。第三の土偶は面の上下共凹みたる線にて界されたれど、全体の形状境界の位置共他の土偶と等しくして、示す所は同じく頭巾の縁にて面の上下を覆ひたる形と思はる。二、下總國千葉郡小金澤村發見 帝國博物舘藏
三、常陸國河内郡福田村發見 理科大學人類學教室藏
四、常陸國河内郡椎塚發見 同前
五、同前 同前
五個の土偶は何れも後頭部に多少の膨らみ有り。第一、第二、第三の三個に於ては殊に甚し。此の膨らみは疑ひも無く頭巾の後部を示せしものなり。第一、第二、第三の頸部には一二條の線を廻らしたり。こは頭巾と上着と相連續する部分をば紐にて括りたる状ならん。是等三個の面部左右兩端には前後に貫通する小孔各一個有り。面部上下の境界を基として正確に言へば是等は頭巾の左右兩端に穿ちたるものの如くなれど、大体の位置より考ふれば耳輪を埀るる孔を示したるかとも思はる。余は前回に述べし如く乳房の突起は實際の形に非ずして女性の印しなりと信ずる者なるが、此事にして誤り無くば、實際頭巾にて覆はれ居るべき耳の形が外に作り設けて有ればとて格別に不審を懷くにも及ばざるべし。思ふに土偶製作者の意は頭巾の形を表はすと同時に耳輪の存在をも併せ示さんとするに在りしならん。
頭巾の形状は普通の外套頭巾或はエスモー[#「エスモー」はママ]の頭巾と大同小異なりと考へらる。
●覆面
覆面を着けたる形と見ゆる土偶五六個有り。覆面は皆面の全部を覆ふ假面形のものにして、粗布を以て作られたるが如し。製作の精なる方より始めて是等土偶の出所及び所在を列記すれば次の如し。(第一回の圖參看)
一、常陸國河内郡椎塚發見 理科大學人類學教室藏
二、常陸國相馬郡上高井發見 岡田毅三郎氏藏
三、下總國 平山村發見 帝國博物舘藏
四、武藏國荏原郡下沼部發見 理科大學人類學教室藏
五、同前 同前
何れも面部の周圍に沿て横長き橢圓形の隆まり有り。且つ額の部には輪廓の上縁より多少下の方に向ひて延たる隆まり有り。一見鼻の如くなれど其位置上部に寄り過ぎたり。是等土偶の素面ならざる事は面部輪廓の隆まりと兩眼及び口の部の異形とに由つて推知するを得れど、一、二に二個に於ては兩眼の下に小點數個或は横の並行線數個有るが故に覆面の性質は殊に著名に表示されたり。抑も斯かる覆面は何の爲に用ゐらるるかと言へば、故らに面貌を奇にする爲か他人に面貌を示さざる爲か然らざれば寒氣を防ぐ爲なるべし。思ふに第三種の用こそ此場合に於ける眞の用ならめ。此考へにして誤無からんか、是等の覆面は氣候の[#「氣候の」は底本では「氣侯の」]寒冷を示すものにして前項記載の頭巾と能く釣り合を保てるものと云ふべし。二、常陸國相馬郡上高井發見 岡田毅三郎氏藏
三、下總國 平山村發見 帝國博物舘藏
四、武藏國荏原郡下沼部發見 理科大學人類學教室藏
五、同前 同前
兩眼の部には恐らく小孔有りて此所より外界を窺ふを得る樣に成し有りしならん。
覆面は如何にして面部に着けられしや。精しく言ふ能はざれど、第五の土偶にては左右兩側に紐を付けて頭に結び付けたるが如く、他の四個の土偶にては左右兩側に輪を設けて耳に掛けたるが如し。土偶 頭髮の形状より考ふれば是等の覆面は女子の用ゐたる物と思はるるなり。
●遮光器
石器時代土偶中には其面貌實に奇異なるものあり。元來是等土偶は身体全部悉皆比例正しく出來居るものには非[#ルビの「あら」は底本では「あらざ」]ざれど數個の土偶に於ては兩眼に當る部分殊に不恰好に大きく作られたり。左に數例を掲ぐ。(圖右の下及び第一回圖右の方下の隅を見よ)
一、陸奧國西津輕郡龜ヶ岡發見 佐藤蔀氏藏
二、同前 理科大學人類學教室藏
三、陸奧國二戸郡小烏谷村發見 同前
四、同前 同前
五、羽後國南秋田郡御所野發見 同地某氏藏
是等土偶は眼の部何れも横長き橢圓形の輪廓を有し、其中央に一條の横線存在す。輪廓全体を眼とすれば横線を瞳とせざるべからず、横線のみを眼とすれば輪廓は何なるや考へ難し。何れとするも能く解したりとは言ふべからず。然らば此奇異なる面貌は何を示したるものなるか。未開人民の現状を調査すれば大に發明する所有るなり。シベリヤ東北の住民、アメリカ極北の住民及びグリーンランドのエスキモは眼の部分に細き横線を截り透かしたる眼蔓樣のものを用ゐる事有り。是太陽の光線が積雪の表面或は海水の表面より反射し來つて眼を害するを豫防せんが爲なり。其原料には獸の皮と木との別あれど余は是等を總稱して遮光器と言ふ。奇異なる面貌の土偶は疑ひも無く遮光器を着けたる形なり。輪廓は遮光器の周縁にして、横線は透かしなるのみ。コロボツクルの用ゐたる遮光器の原料は何なりしや、明言し難けれど面の彎曲に適ふ樣に作られたると、橢圓形の部の周縁に縫ひ目の如き凹みの存するとの二つに由つて考ふれば恐くは獸の皮なりしならんと思はる縁の部のみは布にて作りしものも有りしにや、第二例に於ては此部に布目の痕を付けたり是等の遮光器は左右兩端に在る紐を以て頭に結び付けられたるものの如し。之を用ゐしは男子ならん。そは此所に述べたる如き面貌の土偶は乳房の部の膨れ方甚少きを以て察すべし。光線反射の眼に害有る男女に從つて差有るの理無し。女子は如何にして眼を保護せしや。今後女子にして遮光器を着けるが如き形の土偶發見さるる事有るやも知らざれど、余は前項の覆面が充分遮光器の用を爲せしならんと考ふるなり。覆面の眼の部には小き孔ありて此所より外を見たりとすれば、光線の反射が甚く眼を害する事は無かりしならん。二、同前 理科大學人類學教室藏
三、陸奧國二戸郡小烏谷村發見 同前
四、同前 同前
五、羽後國南秋田郡御所野發見 同地某氏藏
未開人民の現状に由つて考ふれば遮光器の必要は積雪多き時に於て殊に深く感ずるものの如し。余は既に頭巾と覆面との事に付きて言ひしが如く遮光器の存在に關しても當時の氣候寒冷なりしならんとの事を想像するなり。
(續出)
[#改段]○コロボツクル風俗考 第四回
理學士 坪井正五郎
●飮み物服飾の事は前回にて記し終りたれば是より飮食の事を記すべし先づ飮み物には如何なる種類有りしかと云ふに、人生欠く可からざる水は勿論、此他に酒とか汁とか云ふ如き或る嗜好飮料も有りしが如し。此考への據は後に至つて明かならん。
未開社會に於ては井戸を掘る術、水道を設くる術も無き譯故、コロボツクルの如きも、水の入用を感じたる時には必ず川邊に至りしならん。遺跡より發見する所の土器の中には椀形のもの少からず。是等は實に水を汲み水を飮むに適したるものなり。又水を貯へ置くに用ゐしならんと思はるる瓶鉢の類も發見品中に存在す。今日迄に知れたる土器の中にて最も大なる物も直徑一尺五寸に達せず。現に我々の使用する水瓶に比しては其容量誠に小なりと云ふべし。思ふにコロボツクルは屋内に數個の瓶鉢類を並列して是等に水を貯へ置きしならん。
遺跡發見物中には灰も有り燒けたる木片も有りてコロボツクルが火の用を知り居りし事は明なるが、鉢形鍋形の土器の中には其外面の燻ぶりたる物も有れば、湯を沸かし、食物を煮或るは羹を作る事の有りしをも推知せらる。灰及び[#「及び」は底本では「及ひ」]燒け木は竪穴の隅より出づる事有り、又貝塚の中より出づる事有り。飮食物の煮焚きは屋内にても爲し又屋外にても爲せしが如し。
余は既に土器の中に湯水を飮むに適したる椀形のもの有る事を述べしが、別に急須形のもの有り。其製作形状等に付ては土器の事を言ふ折りに細説すべけれど、大概を述ぶれば其全体は大なる算盤玉の如くにして横に卷煙草のパイプを短くせし如き形の注ぎ出し口付きたり。此噐の用は未だ詳ならざれど[#「ならざれど」は底本では「ならざれと」]之を手に取りて持ち加減より考ふるに、兩方の掌を平らに並べ其上に此噐を受け、掌を凹くして噐の底に當て、左右の拇指を噐の上部に掛けて噐を押さへ、注ぎ出し口を我か身の方に向け之に唇を觸れて器を傾け飮料を口中に灌ぎ込みしものの如く思はる。
又小形の御神酒徳利に似たる土噐にて最も膨れたる部分に圓き孔を穿ちたるもの有り。是も用法不詳なれど、煙管のラウの如き管をば上より下へ傾け差し込み、全体をば大なる西洋煙管の如くにし、噐中に飮み物を盛りて管より之を吸ひしやに考へらる。
以上の二種の土器は或る飮料をば飮み手の口に移す時に用ゐし品の如くなれど、土瓶或は急須と等しく飮料を貯へ置き且つ他の器に灌ぎ込む時に用ゐし品と思はるる土噐も數種有り。
是等種々の土器の存在に由つて考ふるにコロボツクルの飮み物は湯水のみには非さりしが如し。灌ぎ出すに用ゐたりと見ゆる土噐唇に觸れたりと見ゆる土噐の容量、比較的に小なるは中に盛りたる飮料の直打ち湯水よりは貴きに由りしならん。余は普通の水、普通の湯をば斯かる器より灌ぎ、斯かる器より飮みしとは信ずる事能はざるなり。
湯水の他の飮料とは如何なるものなりしや。鳥獸魚介の汁も其一ならん。草根木實より採りたる澱粉をたるものも其一ならん。或は酒に似たる嗜好品有りしやも知る可からず。
●食ひ物
口碑に從へばコロボツクルは漁業に巧にして屡ばアイヌに魚類を贈れりと云へり。今諸地方貝塚よりの發見物を檢するに、實に魚骨魚鱗等有り。然れども彼等の食物は决して魚類に限りしには非ず。そは發見物に由つて充分に證する事を得るなり。
貝塚は如何にして作られたるか。總てに通じて斯く斯くなりと斷言する事は出來ざれど、主として物捨て塲なりと思へば誤り無し。貝塚の中よりは用に堪えざる土噐の破片出で、又折れ碎けたる石噐出づ。獸類の遺骨四肢所を異にし二枚貝は百中の九十九迄離れたり。遺跡を實踐して考ふるも、之を現存未開人民の所業に徴するも、貝塚に於ける穿鑿が食物原料調査に益有る事、實に明々白々なり。我々は牛肉を食へども我々の邸内に在る物捨て塲に於て牛骨を見る事は期し難し。是自家庖廚の他に牛肉販賣店有るに由る。未開社會に於いては事情大に異なり、食物の不要部は總て自家の物捨て塲、或は共同の物捨て塲に捨てらるるなり。此故にコロボツクルの食物は如何なる物なりしかとの事を知らんと欲せば宜く貝塚を發掘して諸種の遺物に注意すべきなり。貝塚より出でたる動物的遺物にして其軟部は食用に供されしならんと考へらるる物を列擧すれば大畧左の如し
貝の類 あはび つめたがひ きしやご うづらがひ あかにし かじめくひ さざえ たにし ばい ながにし いはやがひ ほたてがひ ししがひ さるぼう あかがひ まて ささらがひ いせしろがひ ささめがひ とりがひ あさり うばがひ みるくひ おほのがひ しじみ しほふき ばか はまぐり ゐがひ たひらぎ めんがひ いたぼ かき(名稱は丘淺次郎氏に從ふ)
他の軟体動物 いか
魚の類 たひ あかえい(此他種々の骨及ひ鱗有れど何に屬するや未だ詳ならず)
龜の類 うみがめ
鳥の類 種々有れど明記し難し。
哺乳動物 くじら いのしし しか ひと(此所に「ひと」と云ふ事を記したるに付ては異樣に感ずる讀者も有らん。順次記す所を見て疑ひを解かれよ。)
●調理法
余は貝塚に於ける遺物に就て動物性食物の原料を調査したり。コロボツクルは植物性食物をも有せしに相違無けれど、如何なる種類の如何なる部が常食として撰ばれしや嗜好品として撰ばれしや、考定の材料不足にして明言する能はず。口碑更に傳ふる所無く、遺跡亦之を示すべき望み少し。調理法を述ぶるに當つても確證は唯動物性食物に取るのみ。
コロボツクルは食物を生にても食ひ又火食をもせしならん。
遺跡には灰有り、燒け木有り。コロボツクルは如何にして火を發したるか。余は先づ此事を述べて後に煮燒の事に説き及ぼすべし。
未開人の發火法に二大別有り。一は摩擦の利用にして、一は急激なる衝突の利用なり。木と木の摩擦も火を生じ、石と石或は石と金の衝突も火を生ず。最も廣く行はるるは摩擦發火法なるが是に又一片の木切れに他の木切れを當てて鋸の如くに運動さする仕方も有り、同樣にして鉋の如くに運動さする仕方も有り一片の木切れに細き棒の先を當てて錐の如くに揉む仕方も有るなり。コロボツクルは何れの仕方に從つて火を得たるか。直接の手段にては到底考ふ可からず。コロボツクルの遺物中には石製の錐有り。土器の中には此石錐にて揉み開けたるに相違無き圓錐形の孔有る物有り。既に錐の用を知る、焉ぞ錐揉みの如き運動の熱を用ゆる事を知らざらん。余はコロボツクルは一片の木切れに細き棒の先を押し當て、恰も石錐を以て土器に孔を穿つが如き運動を與へ、引き續きたる摩擦の結果として熱を得煙を得、終に火を得たるならんと考ふ。木と木の摩擦は木質より細粉を生じ、此細粉は熱の爲に焦げてホクチの用を爲す。是實驗に因りて知るを得べし。現に斯かる法の行はるる所にては火の付きたるホクチ樣のものを枯れ草に裹み空中に於て激しく振り動かすなり。コロボツクルも此仕方を以て燃え草に火焔を移し、此火焔をば再び薪に轉ぜしならん。
貝塚に於て發見さるる獸骨貝殼の中には往々黒焦げに焦げたるもの有り。是等は恐らく獸肉なり貝肉なり燒きて食はれたる殘餘ならん。物に由りて或は串に差されて燒かれしも有るべく或は草木の葉に包まれて熱灰に埋められしも有るべし。
鉢形鍋形の土噐に外面の燻りたる物有る事は前にも云ひしが、貝塚發見の哺乳動物の長骨中には中間より二つに折り壞きたる物少からず[#「少からず」は底本では「少からす」]。是等は肉の大部分を取りたる後、尚ほ殘りて付着し居る部分をば骨と共に前述の土器に入れて煮たる事を示すものの如し。鹿猪等の骨を見るに筋肉の固着し居りし局部には鋭き刄物にて※[#「やまいだれ+比」、83-下-1]を付けし痕有り。此は石にて作れる刄物を用ゐて肉を切り離したる爲に生ぜしものたる事疑ふ可からず。
魚の中にて鱗の粗きものは調理する前に之を取り除きたりと見えて、貝塚中に於て魚鱗の散布せるを認むる事屡有り。コロボツクルは如何にして魚鱗を魚体より取り離したるか。今詳に之を知るに由なしと雖も、蛤貝の殼の内に魚鱗の充實したるを發見する事有れば貝殼を以て魚鱗を掻き除く事の有りしは慥なるべし。
卷き貝の中には上部の破れたるもの有り。是は肉を突き出したる跡と思はる。
余は人類をも食物中に加へしが此事に付き左に少しく述ぶる所有らん。
食物の好き嫌ひと云ふ事は一家族の中にさへ有る事故、異りたる國民、異りたる人種の間に於ては猶更甚しき懸隔を見るものなり。或る人民の好んで食ふ物を他の人民は捨てて顧みず、或る人民の食ふ可からずとする物を他の人民は喜んで賞玩するの類其例决して少からす。人肉を食とするか如きも我々の習慣より言へは厭ふ可き事、寧恐る可き事には有れど、野蠻未開國の中には現に此風の行はるる所有り。彼のアウストラリヤのクヰンスランド土人の如きは實に食人人種の好標本なり。人肉は固より常食とすべき[#「すべき」は底本では「すへき」]物には非ず。敵を殺したる時復讐の意を以て其肉を食ふとか、親戚の死したる時敬慕の情を表す爲其肉を食ふとか、幾分かの制限は何れの塲合にも存在するものなり。大森貝塚の發見者たるモールス氏は此貝塚より出でたる人骨をして食人の証を列擧せり。一に曰く人骨は他動物の遺骨と共に食餘の貝殼に混して散在す。二に曰く人骨の外面殊に筋肉の付着點に刄物の疵有り。三に曰く人骨は他動物の遺骨と同樣に人工を以て折り碎かれたり。余は是等の事實は、モールス氏の説の如く、貝塚を遺せし人民が[#「人民が」は底本では「人民か」]時としては人肉を食ひし事有りしを証するものと考ふ。此想像にして誤り無からんか、コロボツクルは我々日本人は勿論アイヌも恐れ嫌ふ可き食人の習慣を有せし人民にして、其性質日本人及ひアイヌとは大に異りたるものと云ふ可きなり。人肉にして若し他の肉類と等しく食用に供されしものならは其調理法に於ても亦同樣なりしならん。
●飮食法
遺跡より發見せし土噐の中には椀形のもの有り、皿形のもの有り、鉢形のもの有り、諸種の飮食物を盛るに適す。是等の他に食器として用ゐるに足る小籠抔も有りしならん。土噐の形状中には籠の形を摸せしものも有れは此考へは一概に空想なりとは云ふ可からす。匙としては貝殼に柄を付けたるもの用ゐられ、肉差しとしては獸骨を割りて磨り尖らしたるもの用ゐられしならん。肉差しの如き骨器は常陸椎塚の貝塚より數個出でたり
(續出)
[#改段]○コロボックル風俗考 第五回(挿圖參看)
理學士 坪井正五郎
●住居人類の住居には樣々の種類有るものにて、我々日本人は現今地盤上に建てたる家にのみ住へど、古今を通じて何人種も同樣と云ふ譯にはあらず。ニウジイランド及びアフリカの一地方には立ち木の上に小屋を作りて住居とする者有り。ニラジイランド[#「ニラジイランド」はママ]、ヴェネジュラ、マレイ諸地方には海底、川底、湖底抔に杭を打ち込み水面上數尺の所に床を張り屋根を設けて住居とする者有り。カナリイ、チュニス、スペインのグラナダ、支那の陜西省諸地方には住居として穿ちたる横穴有り。千島カラフト、カムチャツカ、アラスカ、グリーンランド、朝鮮には住居として堀りたる竪穴有り。是等は皆現今用ゐらるるものの例なれど、古代に在ても地方に由り人種に由つては種々樣々なる住居有りし事疑ふべからず。コロボックルは如何なる種類の住居を有せしや。之をアイヌ間に存する口碑に徴するに、コロボックルは土を堀り窪めて低所を作り、木の幹枝を以て屋根の骨とし、之を草木の葉にて覆ひて住居とせしものの如し。
アイヌが指してコロボックルの遺跡なりとするものは何れも竪穴にして、其廣さは疊二枚敷より五十枚敷位に至り、深さは通例五六尺位なり多くの年月を經て斯かる有樣と成りしもの故其始めは更に廣く更に深かりしならん。是等の竪穴がコロボックルのものたる事、即ち石噐時代人民のものたる事は口碑のみに由つて推測するに非ず、土中の發見物に由つて確知するを得るなり、北海道諸地方現存の竪穴よりは石器時代土器石器の破片出づ。此事は余自らも釧路に於て實見せり。
農學士石川貞治氏の調査に從へば北海道本島中竪穴の存する地方は次の如し。後志國余市郡余市村、同郡河村、同國忍路郡忍路村、同國高島郡手宮、石狩國札幌郡札幌、同郡圓山村、同琴仙村、天※[#「(土へん+鹵)/皿)」、70-下-3]國留萠郡留萠、同郡オビラシベツ、同國苫前郡オンネシヨサンベツ、同郡風連別、同國天※[#「(土へん+鹵)/皿)」、70-下-4]郡天※[#「(土へん+鹵)/皿)」、70-下-4]村、北見國枝幸郡枝幸村、紋別郡雄武川筋、同郡サルマ湖南岸、同國常呂郡常呂村、同國網走郡能登呂山道、同郡網走市中及四近、根室國野付村標津西別間、花咲郡半田牛、釧路國釧路郡釧路、同郡釧路白糠間、セチリ河筋ピラカプト、同フシコタン、釧路郡トウロ、同國川上郡トウベツ川口、十勝國白糠郡尺別村、十勝河河口、同國當勝郡勇洞村、洞村、同郡トンケシ、同國廣尾郡茂寄村、日高國幌泉郡油駒村、同國靜内郡有良村マブタ山、同國沙流郡上ピラトリ、膽振國勇拂郡鵡川川筋カイカウン、同國白老郡苫小牧村、同國千歳郡漁村、同國室蘭郡室蘭。以上所に由りては數十或は數百、群を成して存在するもの故、竪穴の總數は甚だ多きものと知るべし。是等悉皆同性質のものなりや否や斷言し難しと雖も、石器時代に屬するもの夥多なるべきは疑ひを容れず。(余が知れるものにして石川氏の表に漏れたる地名は日高國靜内郡下下方、釧路國仙鳳阯及び厚岸邊)余は緒言(本誌第九十號に在り)に於て、コロボックルなる名稱は、アイヌが其先住者に與へたる綽名の一にして、此他にも種々の異名有りとの趣を述べしが、此所に其一二を説明して住居考の材料とせん。或る地方のアイヌはコロボックルの事をバトイチセコッコロカモイと云ひ或る地方のアイヌは之をトイチセクルと云ふ。前者は「土の家を持つ神」の義、後者は「土の家の人」の義、共に土中に住居する者の謂ひなり。アイヌは竪穴を指して先住者の遺跡とし、又此の如き名稱を彼等に與ふ。北海道に於けるコロボックルの住居の竪穴たりし事は確信して可なり。
日本本州に於けるコロボックルの住居は如何。口碑遺跡共に存せず、固より明言するの限にあらざれど、常陸風土記所載の一項は稍推考の手掛かりとするを得ん。同書那珂郡の條下に曰く「平津驛家、西一二里有岡、名曰大櫛、上古有人、體極長大、身居丘壟之上、採蜃食之、其所食具、積聚成岡、時人取大之義、今曰大櫛岡、其大人踐跡、長卅餘歩、廣廿餘歩、尿穴跡可廿餘許、」
大櫛今又大串と改稱して東茨城郡に屬せり。地勢に由つて考ふるも「其所食具、積聚成岡」と云ふ文に由つて考ふるも、此地に貝塚有りしは事疑ふべき理由無し。八木奬三郎氏の實見談に據れば此岡の麓には今尚ほ貝殼點々散布して、曾て一大貝塚有りし證跡を留むと云ふ。此地海岸を距る事凡一里。風土記の成りし頃は海水の入り込み方今日よりは深かりしなるべきも、岡の下迄は達せざりしならん。鹹水貝塚は元來海邊に在るべきものなれど年月の經つに從ひ土地隆起の爲、海水退きて其位置比較的内地に移る事有り。此理を知らざる者は海を距る事遠き所に於て鹹水貝殼の積聚するを見れば頗る奇異の思ひを作すべし。大人云々の説有る盖し此に基因するならん。果して然らは所謂「大人踐跡」とは何者を指すか。余は之を以て極めて大なる足跡の如きもの即ち竪穴に類したるものとなす。余は釧路貝塚の近傍に於て實に大人の歩きたる跡とも形容すべき數列の竪穴を見たり。常陸風土記所載の「大人踐跡」なるもの或は同種類の竪穴の群ならんか。「尿穴跡」と云ふものも亦一の竪穴ならん。北海道現存の竪穴中には長徑十間に達するもの無きに非ず、二十歩三十歩等の數敢て怪しむに足らざるなり。以上の考へにして誤り無くんば、常陸地方に棲息せし石器時代人民も北海道に於ける者と等しく竪穴を以て住居とせし者と思惟すべきなり。
余は全國の石器時代人民が悉皆竪穴に住居せしや否や明言する能はざれど、彼等の住居として余が今日迄に知るを得たるは竪穴に關する事實のみなるが故に、コロボックルの住居は如何なるものかとの問に對しては、少くとも或る地方に於ては竪穴なりしなりと答へんとす。
●竪穴
北海道現存の竪穴は、前にも述べし如く、二疊敷より五十疊敷位の大さにて深きは人の丈位なるが、周壁の上端は地面よりも高く盛り上がりて堤の形を成し居るもの故、摺り鉢を土中に埋めて其縁の部を少し高く地上に露し置けば竪穴の雛形と成るなり。土壁の部の深さを六尺位にせしとする者は、先づ地面を四尺計り堀り下げ、堀り出したる土を以て高さ二尺計りの堤を築き廻らせしならん。堤の一部分には切り開きたる所有り。出入口なるべし。竪穴の形は方形、長方形、圓形、橢圓形、瓢形等にて一つの穴の大さは八疊より十五疊迄を常とす。竪穴の中よりは古器物の他に、灰及び燒け木の出づる事有り。是等の中には煮焚きの爲、温暖を取らん爲、又は屋内を照さん爲、故意に焚き火せし跡も有るべけれど、火災の爲屋根の燃え落ちたる跡も有らん。屋根の事は次項に記すべし。
竪穴は風雨の作用塵埃の堆積の爲、自然に埋まる事も有るべく、開墾及び諸種の土木工事の爲、人爲を以て埋むる事も有るべきものなり。石器時代竪穴現存の例、北海道のみに多くして、他地方に於ては更に見聞無きも、必竟、北海道の地は比較的近き頃迄石器時代人民の棲息地なりしと、開拓未だ行き渡り居らさるとに由る事大ならん。
●屋根
或る地方のアイヌは北海道先住者は住居の屋根を葺くに蕗の葉を以てせりと言ひ傳ふ。是コロボックルの名有る所以なり、(第九十號緒言を見よ)。或る地方にてはクッロポックグルの名行はる。クッヲロとは蔦蔓の類を指すと云ふ。此名を直譯すれば蔦蔓の下の人となる。恐くは屋根を造る材料として多くの蔦蔓を用ゐたるを云ふならん。思ふに竪穴の中央に數本の柱を建て是に棟梁を結び付け、周圍より多くの木材を寄せ掛け、其上を種々のもの、殊に蕗の葉にて覆ひ、蔦蔓の類にて綴り合はせて住居を作り上けたるならん。葉の大なる蕗は北方にのみ生ずるもの故右の説明は固より全國に通ずべきに非ず。他地方に在つては主として獸皮、木皮、席類等を以て屋根を葺きしならん。
●住居の工事
野蠻未開の社會に於ては分業盛に行はれず、大工、土方の如き固り獨立して存す可き職業にあらず。此故に住居新築の擧有れば隣人相補けて土木の事に從ふを常とす。コロボックルも亦然りしならん。住居の位置は、第一に飮用水を汲むべき泉、川、或は湖より程遠からぬ所にして、次に食物の獲易き塲所、次に日當り好き地を撰びしなるべし。三つの條件を充たす地には大部落存せしならん。住居の大小は家族の多少に因る事勿論なれど塲合に由つては一個の大部屋を設くる代りに數個の小部屋を作る事も有りしと思はる。瓢形の竪穴の如き即ち其例なり。穴を作るに當つては、或は長さ幾歩、幅幾歩と歩み試み、或は繩を採り尋數を測りて地上に張り廻らし、堀る可き塲所の大さを定め、尖りたる棒を以て地を穿ち、籠、席の類に土を受け、且つ堀り且つ運び多くの勞力を費して仕上げたるものならん。アフリカ某地方の土人は土堀り用の尖りたる棒に石製の輪をば鍔の如くに篏めて重りとし、此道具の功力を増す事有り。本邦石器時代遺跡より出づる石輪中にも或は同種のもの有らんか繩、籠席の存在は土器の押紋及び形状裝飾等に由つて充分に證明するを得べし。建築用の木材は火にて燒き切り又は打製石斧にて扣き切りしなるべし、是等を括り合するには諸種の繩及び蔦蔓の類を用ゐしなるべし
●室内の有樣
室内の有樣に付きては口碑存せず。火を焚きし跡の他、實地に就いての調査も何の證をも引き出さず。余は茲に想像を述べて此點に關する事實の缺乏を補はんとす。
昇降口の高さは少くとも三尺位は有るべし。恐らくは木製の梯子或は蹈み臺の設け有りしならん。入り口と周壁の或る部分には席を下げ置きしなるべく、地上には木材を並べ、其上に席、編み物、獸皮、木皮抔敷き列ねて座臥の塲所とせしなるべし。室内一部分には土間有りて此所は火を焚き、水瓶を置く爲に用ゐられたるならん。土器石器の中には小さき物あり、美しき物あり。是等が床の上に直に置かれたりとは考ふる能はず。余は室内には大小種々の棚の有りし事を信ずる者なり。入り口の他にも數個の窓有りしなるべければ、室内は充分に明かりしならん。
(續出)
[#改段]○コロボックル風俗考 第六回(挿圖參看)
理學士 坪井正五郎
●器具衣食住の事は述べ終りたるを以て是より器具の方に移るべし。コロボックルは如何なる器具を用ゐしやと云ふ事を考ふるには三つの據有り。其一はアイヌの傳ふる口碑、其二は遺跡に存する實物、其三は土器形状模樣よりの推測是なり。
先づ噐具製造の原料を調査せん。
今日迄の實見と推測とに從ひ噐具を原料に由つて分類すれば左の如し。
┌土器
┌無機…………………………┤
原料┤ └石器
│ ┌植物……………………植物質噐具
└有機│ ┌無脊動物………貝殼器
└動物┤ ┌骨器
└有脊動物……┤角器
└牙器
尚ほ製法(打製、磨製等)功用(利器、容器等)用途(日用器具、漁獵具等)に由つても分類するを得れど、餘りに精密に亘りて專門的に傾くは、畫報の記事として不適當なるの感無きに非ざれば、記載は見合はせ、一般讀者の便宜を計り、直ちに各種の器具に就き説明を試む事とすべし。┌無機…………………………┤
原料┤ └石器
│ ┌植物……………………植物質噐具
└有機│ ┌無脊動物………貝殼器
└動物┤ ┌骨器
└有脊動物……┤角器
└牙器
●石製の利噐
既に緒言中にも記し置きたる通り、石器時代とは、人類が主として石の刄物を製造使用する時期の謂ひなれば、此時代の遺物中最も強く人の意を惹くものは石器殊に石製の利器たる事勿論なり。コロボックルが石製の利噐を用ゐたりとの事はアイヌも口碑として云ひ傳へ居る事なるが、日本全國諸地方の石器時代遺跡より出づる石器中には、左に列擧する如き種々の利器有り。
(第一)石を打ち欠きて作れる斧形の者。(之を打製石斧と呼ぶ)。
(第二)石を研ぎ磨きて作れる斧形の者。(之を磨製石斧と呼ぶ)。
(第三)石を打ち欠きて作れる槍形の者。(之を石槍と呼ぶ)。
(第四)石を打ち欠きて作れる鏃形の者。(之を石鏃と呼ぶ)。
(第五)石を打ち欠きて作れる錐形の者。(之を石錐と呼ぶ)。
(第六)石を打ち欠きて作れる匕形の者。(之を石匕と呼ぶ)。
以上を主要なるものとす。
●打製類
總説 石製の利器を見るに、刄の部分打ち欠きて作られたるものと、研ぎ磨きて作られたるものと、の二類有り。第一類に屬するものを、打製石斧、石槍、石鏃、石錐、石匕、等とす。是等石器の製法用法は現存未開人民の所爲に由つても充分に推考するを得るなり。
打製石斧 打製石斧は通例長さ三寸計りにして、其形状は長方形、橢圓形、分銅形等なり。刄は一端に在る事有り、兩端に在る事有り。或る物は手にて直に握りしなるべく、或る物には柄を括り付けしならん。使用の目的は樹木を扣き切り、木材を扣き割り、木質を刳り取り、獸を斃し、敵を傷くる等に在りしと思はる。未開社會に於ては器具の上にも分業起らざるを常とす。一個の打製石斧もコロボックルの爲には建築、造船、獸獵、爭鬪に際して、極めて肝要なる役目を勤めしなるべし。是等の事はアウストラリヤ、クインスランド土人の現状に徴して推考するを得るなり。
石槍 此石器は長さ二三寸より五六寸に至り、扁平にして紡錘形[#「紡錘形」は底本では「紡錐形」]或は菱形をなすものなり。現存石器時代人民中には、此の如き物に短き柄を添[#ルビの「そ」は底本では「お」]へて短刀の如くに用ゐ、或は長き柄を添へて槍とする者有り。中央アメリカ發見の古器物中には此類の石器に短き柄を付け寄せ石細工を以て之を飾れる物在り、又一手に首級を抱へ他手に石槍形の匕首を携へたる人物の石面彫刻物有り。然れば形状に由りて等しく石槍と稱する物の中には、其用より云へば、槍も有るべく、短刀も有るべきなり。フランス、ベリゴードの洞穴よりは馴鹿の脊椎に石槍の立ちたる物を發見せし事有り。思ふにコロボックルも石槍をば兩樣に用ゐ、時としては其働きを食用動物の上に施し、時としては之を人類の上に施せしならん。石槍を柄に固着する爲には木詣の類と植物の皮又は獸類の皮を細くしたるものを併せ用ゐしなるべし。
石鏃 石鏃は通例長さ六七分にして其形状一定せざれど、何れも一端鋭く尖り、左右常に均整なり。此種の石器夥多の中には石質美麗、製作緻密、實用に供するは惜ししと思はるる物無きに非ず。小に過ぎて用を爲さざる物有り、赤色の色料を塗りて明かに裝飾を加へし物有り。是等は玩弄品か裝飾品か將た貨幣の如き用を爲せし物か容易に考定する事能はずと雖も、石鏃本來の用及ひ主要の用は、此所に掲げたる名稱の意味する通り、矢の先に着けて目的物を傷くるに在るや必せり。アメリカ土人中には現に石鏃を使用する者有り。ニウジヤアシイにては人類の前頭骨に石鏃の立ちたる儘の物を發見し、チリのコピアポにては人類の第二の脊椎に石鏃の立ちたる儘の物を發見し、フランスのフヲンリヤルにては人類の脛骨に石鏃の立ちたる儘の物を發見したる事有り。本邦に於ては未だ斯かる發見物無しと雖も石鏃の根底部或は把柄に木脂を付けたる痕を留むる物往々有りて能く※[#「竹かんむり/可」、78-下-10]を固着せし状を示せり。矢有れは弓有り、弓有れば絃有り。コロボックル遺跡に石鏃の現存するは、間接に彼等が※[#「竹かんむり/可」、78-下-12]、弓及び絃を有せし事を證するものと云ふべし。矢には羽根を付くる事有りしや否や考ふるに由無し。※[#「竹かんむり/可」、78-下-13]は細き竹或は葭を以て作り、弓は木或は太き竹を以て作りしならん。絃の原料は植物の皮或は獸類の皮を細く截りしものなりし事勿論なれど、余は此絃には好く撚りを掛け有りしならんと考ふ。そは土器表面押し付け模樣の中に撚りを掛けたる紐の跟有るを以て推察せらる。撚りの有無と絃の強弱との關係は僅少の經驗に由つても悟るを得べき事なり。弓矢は鳥獸獵に於ても用ゐられしなるべく、人類同志の爭鬪に於ても用ゐられしならん。或は海獸大魚を捕獲するに際しても用ゐられし事有る可きか。水中に矢を射込む事其例無きに非ず。石鏃は石器時代遺跡に於て他の遺物と共に存在する[#「共に存在する」は底本では「共に存在する」]を常とすれど、左の諸所にては山中に於て單獨に發見されし事有るなり。
(一)山城國比叡山頂 (山崎直方氏報)
(二)信濃國大門峠 (若林勝邦氏報)
(三)飛彈國神岡鑛山 (西邑孝太郎氏報)
(四)同國大西峠頂上 (田中正太郎氏報)
(五)同國高城山絶頂 (同氏報)
(六)羽後國男鹿半島眞山々中 (若林勝邦氏報)
是等石鏃は鳥獸獵の際射損じて地に落ちたるものなるべく、其存在の事實は、如何にコロボックルが鳥獸捕獲の爲め高山に登りし事有るかを告ぐるものたり。(二)信濃國大門峠 (若林勝邦氏報)
(三)飛彈國神岡鑛山 (西邑孝太郎氏報)
(四)同國大西峠頂上 (田中正太郎氏報)
(五)同國高城山絶頂 (同氏報)
(六)羽後國男鹿半島眞山々中 (若林勝邦氏報)
矢は如何なる物の内に入れ置きしか詳ならざれど、獸皮或は木質を以て作りたる一種の矢筒有りしは疑無からん。石鏃は製造終るに隨ひ悉皆※[#「竹かんむり/可」、79-上-13]に固着されしにはあらずして、餘分の物は種々の入れ物に貯へ置かれしものと見ゆ。渡島國凾舘住吉町、後志國余市川村、石狩國空知監獄署用地、日高國捫別舊會所の裏等よりは石鏃を入れたる儘の土器を掘出せし事有り。思ふにコロボツクルは適當の石を獲たる時、又は氣の向[#ルビの「む」は底本では「むき」]きたる時に、必要以外の石鏃を作り置き之を土器其他の入れ物に収めて後日の豫備とし或は物品交換の用に供する爲貯へ置きしならん。
弓矢の使用は、諸人種に普通なるものに非ず。未開人民中には今尚ほ之を知らざる者有り。此點のみに就いて云ふも、コロボックル、の智識は决して甚だ低きものには非ざるなり。
石錐 石鏃の類品にして、全体棒の形を成せる物有り、又一方のみ棒の形を成し一端は杓子の如くに膨らみたる物有り。是等は錐の用を爲せしものなるべし。柄の着け方は石鏃に※[#「竹かんむり/可」、79-下-2]を着くると異る所無からん。膨み有る物は殊に柄を固着するに適したり。石錐は種々の物に孔を穿つに用ゐられしなるべけれど、孔の開きたる儘にて今日迄遺存する物は土器のみなり。石器時代土器の腹壁には石錐を以て揉み明けたるに相違無き孔の存する事有り。尚ほ土器の部に於て細説する所有るべし。
石匕 石鏃石錐抔と同質にして其大さ是等の五倍或は十倍なる物有り。形状は長方形、橢圓形、三角形等の不規則なるものにして一部に必ず短き把柄有り。此の如き石器を俗に天狗の飯匙と呼ぶ。近頃は石匕の名行はるる樣に成りしが、是とても决して好き稱へには非ざるなり。イースタアアイランド土人及びエスキモーは現に此石器を有す。其使用の目的は鳥獸の皮を剥ぎたる後に脂肪を掻き取るが如き事に在るなり。石匕の把柄の部には木脂の附着せし痕あるもの有り。是疑ひも無く更に長き木製の把柄を添へたるに基因す。
製法 以上諸種の石器の製法は石器其者の形状を見ても推察するを得れど、遺物包含地及び其攪亂されたる塲所を實踐して調査すれば、現に稍々大なる石材を打ち壞き押し缺きて漸次目的の形状とせし跟を認むるを得るなり。打製石斧は最初先づ漬け物の重し石の如き物を採り、之を他の石と打ち合はせ數個の破片を作り、其中より石斧とするに適したる形のものを撰み出し、臺石の上に乘せ、或は他の石片を槌として直ちに其周縁を打ち缺き或は骨角の如き堅き物にて、作れる長さ數寸の棒の一端を、石斧とすべき石片の一部分に當て、此棒の他端をば、片手の掌に握り込むを得る程の石にて打ち、恰も桶屋が桶の籠を打ち込む時の如き有樣に、手を動かし、次第次第に全形を作り上げしならん。此所に列擧したる製造用の道具は皆發見物中に在り。石槍、石鏃、石錐、石匕の如く細工の精巧なるものは打製石斧よりは更に注意して作り上げしならん。稍々大なる石片を採り、打ち壞き小破片とし、其中より目的に適ひたるものを撰み出す迄は右に記せし所に同樣なるべきも、夫より後は或は左手に獸皮の小片を持ち皮越しに石片を撮み、或は臺の上に石を横たへて左手の指にて之を押へ右手には、前述の骨角の如き堅き物にて作れる棒を持ち、此棒の尖端を石片の周縁に當て少し宛壓し缺きしならん。時としては棒二本を以て毛拔き樣の道具を作り、之を用ゐて石片の周縁を撮み缺きし事も有りしならん
既に述べしが如く、石器製造の順序は未開人民實際の所爲と、遺跡に存する原料、破片、作り掛け、作り損じ、製造用具と思はる物品等の比較研究とに由つて窺ひ知るを得るなり
●磨製類
總説 石片に鋭利なる刄を設くるに二法有り。一は打ち缺き或は壓し缺く法にして、斯くして作りたる石噐の事は前項に記したり。他の一法は研ぎ磨く法なり。石の磨製利噐には磨製石鏃と呼ばる物も有り、石庖丁の名を得たる物も有れど、是等は寧ろ稀なる品なれば説明を止め、是より磨製石斧の事のみに付て述ぶる所有るべし。
磨製石斧 磨製石斧とは細長くして其端に刄を付けたる石器の稱へなり。大小不定なれど長さ五六寸計りを常とす。刄は殆と悉皆一端のみに在りと云つて可なり。理科大學人類學教室には磨製石斧三百個計り有れど、兩端に刄有るものは唯一個のみ。コロボックルは磨製石斧を何の目的に用ゐしや。固より確言する能はざれど、現存石器時代人民の所爲を以て推す時は、是等は石器の用は食料の肉を切り、木質を削り、人獸を傷くるに在りしと思はる。極めて大なる物及び極めて小なる物に至つては實用有りしとは認め難し或は標章玩具の類なりしならんか。磨製石斧は手にて直に握られし事も有るべけれど斧の如くに柄を添へて用ゐられし事も在りしと見ゆ。武藏國大里郡冑山村の土中よりは柄の着きし儘なる磨製石斧出でし事有り。柄は木質にて朽ちて居りし事故、如何なる方法にて石斧を括り付けしか詳ならされど、其状現今行はるるタガネと大差無かりしならん。
製法 磨製石斧の製法は現存石器時代人民の爲す所に由つても知るを得れと、遺跡に於て獲る所の截り掛けの凹み有る石片截り目を存する石斧、刄の鈍きもの刄の鋭きもの、截り取りたる石屑及び砥石に用ゐしと思はるる石器等を比較すれば、正しくコロボックルが磨製石斧を作りたる順序を知るを得るなり。石を摩り截るには木の小枝抔を採り、其の一端へ堅き砂を付けて之を握り墨を摺る時の如くに手を前後に動かし、一面より摩り初めて凹みの深さ石の厚さの半に達したる頃、石を裏返しにして再び他面に溝を作り、兩面よりの截り目殆んと相連なるに及んで、石の一部分を強く打ち之を他の部分より取り離したるならん、石を截るにも石を研ぐにも多少の水を要すべし。石斧製造に必要なる砂及び水は各々適宜なる大さの土器中に貯へられしものと想像せらる。
(續出)
[#改段]●コロボックル風俗考 第七回(挿圖參看)
理學士 坪井正五郎
●利器以外の石器石器とは石を以て作りたる道具の總稱なるが、其中にて刄の付きたる分、即ち石製の利器の事は、打製類も磨製類も大畧記し終りたるを以て、是より刄物ならざる石器の事を述ぶ可し。是等の中にて主要なるは左の數種なり。
(第一)石を棒形に截取り摩り※[#「冫+咸」、81-下-8]らしたる者。(之を石棒と呼ぶ)
(第二)糸を掛ける爲と思はるる溝の有る石。(之を糸掛け石と呼ぶ)
(第三)扁平石の周圍相對する所に缺損ある者。(之を錘り石と呼ぶ)
(第四)質の粗き丸石にして凹所を有する者。(之を凹み石と呼ぶ)
(第五)皿或は箕の如き形にして長徑一尺許の者。(之を石皿と呼ぶ)
●石棒石棒に粗製のものと精製のものとの二種有り、長さは共に二三尺の間を常とすれど、粗製の方は太くして精製の方は細し。圖中上に畫きしは、第一種、下に畫きしは第二種の石棒なり。粗製石棒には兩端に玉無きもの、一端に玉有るもの、兩端に玉有るものの別有れど、精製石棒は兩端に玉有るを以て定則と爲すが如し。精製石棒の玉の部には徃々美麗なる彫刻を施せしもの有り。石棒なるものは抑何の用に供せしものか、諸説有りと雖も何れも堅固なる根據を有せず。余は只粗製石棒中の或る者はメキシコに於ける石棒と等しく、石製の臺上に横たへ轉ばして餅の類を延すに用ゐられしなるべく、精製石棒中の或る者はニウジーランドに於ける精巧なる石噐の如く、酋長抔の位階の標しとして用ゐられしなるべしと思惟するのみ。彼石棒を以て古史に所謂イシツツイなりと爲すが如きは遺物發見の状况に重みを置かざる人の説にして、苟も石器時代遺跡の何たるを知る者は决して同意せざる所ならん。圖中粗製石棒の例として掲げたるものは遠江豊田郡大栗安村にて發見せしもの、精製石棒の例として掲げたるものは羽後飽海郡上郷村にて發見せしもの、共に理科大學人類學教室の藏品なり。扨是等の石器は如何にして造られしやと云ふに、石斧石鏃の塲合とは事變はりて、半成品も見當たらず、細工屑も見當たらざれば、明かに知る由無しと雖も製法の大畧は先づ板の如く扁平なる石片を採りて之を適宜の幅に引き截るか、又は自然に細長き石を周圍より缺き※[#「冫+咸」、82-上-12]らし磨り※[#「冫+咸」、82-上-13]らしして適宜の太さにするかして、後徐々に手持砥石の類にて磨き上げしものなるべし。石を引き截り石を缺き※[#「冫+咸」、82-上-14]らす爲には石斧製造の條下に述べしが如き方法行はれしならん。
糸掛け石とは圖中精製石棒の右の端の下に畫き有るが如きものなり。此所に例として擧げたるものの出所は遠江周智郡入野村なるが此地よりは尚ほ類品數個出でたり。他地方より出でたる糸掛け石も形状大さとも概ね此例の如し。此石器の用は未だ詳ならざれども切り目の樣子を見れば糸を以て括りたるものなる事疑ひ無し。案ずるに此類の石噐は或は釣糸を埀るる時に錘りとして用ゐられし事も有るべく、或は鳥を捕ふるに際し束ね糸の端に括り付けられし事も有るべく、(此捕鳥器の事は別に詳記すべし)或は打ち紐を作るに當つて糸の錘りとして用ゐられし事も有るべし。製法は自然の扁平石の小さきものを採り、又は石を打ち缺き摩り※[#「冫+咸」、82-上-26]らして斯かる形と爲し、其上に燧石抔の尖りたる角にて切り目を付けしものならん
●錘り石
圖中[#圖中」は底本では「國中」]精製石棒中央の下に畫きたるは自然の扁平石にして、周縁相對する部に人爲の缺損有り。此者の用も未た詳ならされと、前項に記したる糸掛け石に於けるよりは更に太き紐を以て括りし者たる事殆と疑ひ無く、從つて何物かの錘りに用ゐられしならんと考へらるるなり。此所に畫きたるものは伊豆君澤郡久連村より出でしものなるが、類品は諸地方より出でたり。恐らくは網の錘りならん。(網の存在に付きては慥なる證據あり。此事に關しては再び記す所あるべし。)
●凹み石
錘り石の左方に畫きたる火山石を人工にて橢圓体状に爲したる者にして、上下兩面の中央には人工にて穿ち凹めたる穴有り出所は甲斐西八代郡大塚村なり。諸地方より出でたる類品甚多し。用法未だ詳ならず。之を造るには先づ適宜の大さの火山石を拾ひ自然面の利用すべき部は之を利用し、他の不規則に高低有る部は或は缺き或は摩りて全体を大なる牡丹餅の如き形とし兩面の中央部には尖端の鋭き石片又は鹿の角抔を當て、他の小石を槌として之を打ち徐々に凹みを設けしならん。
●石皿
圖中凹み石の下に畫きたるは石皿の例にして其發見地は武藏青梅近傍日向和田なり。一方には深き凹み有り、一方には物を掻き出すに都合好き構造有り。單に形状のみを見るも穀類抔を粉にする時の臺の如くに思はるれど、アフリカの内地の土人は現に同形の石器を同樣の目的に用ゐ居るなり。此類の石器にして果して粉製りの臺たらば、是に對する粉潰しの道具も有る可き筈なり。事實如何と云ふに日向和田に於ては實際石皿と伴ふて是に適合する橢圓石發見されしなり。思ふにコロボツクルは是等の石器を用ゐて草木の實を壓し潰し食用の粉を製りしならん。石皿の名は决して適切には非ざれど、他に好き名を思ひ付かざれば姑く通稱に從ふのみ。類品諸所より出でたり。之を作るには火山石の適宜の大さのものを撰び凹み石を作ると同樣の順序を經て、一面に大なる凹みを設け、此凹みの内部をば他の石を以て摩り※[#「冫+咸」、83-上-6]らしたるものなるべし
●骨器
石器時代の器具とて何者も總て石を材料とせしには非ず。獸類の骨にて作りたる物、魚類の骨にて作りたる物等も正しく石器時代の遺跡より發見さるるなり。圖中石皿の右に在るは獸骨器の尖端なり。此の如き骨噐はエスキモーの現用漁業具中に在り。此所に畫きたるものの出所は岩磐新地貝塚なるが、其用は恐らくエスキモーの所用の者と等しく銛の先に着けて海獸大魚を打ち留むるに在りしならん。類品は北海道レブン島よりも出でたり。獸骨器の右に畫きたるは魚骨器なり。上端の孔は糸を貫くに適したり。思ふに此骨器は粗き物を縫ひ合はする時に針として用ゐられしならん。類品は他より出でたれど此所に掲げたるものは武藏荏原郡大森貝塚より出でたるなり。骨器の類は此他種々有れど煩を厭ひて記さず
●角器牙器
石器時代遺跡よりは又鹿の角にて作りたる噐具も出づ。魚骨器の右に畫きたるは其一例にして、發見地は相模[#「相模」は底本では「相摸」]三浦郡久比利貝塚なり。用は大魚を釣るに在りし事何の疑か有らん
角器の上に畫きたるは猪の牙を摩り※[#「冫+咸」、83-上-24]らして作りたる矢の根形の利噐なり。此品は常陸河内郡椎塚より出でたるものなるが是と同樣の品は大森貝塚よりも發見されたり。思ふに此利噐は前に掲げたる獸骨器と等しく、銛の尖端として用ゐられしものなるべし。
以上の骨器角器牙器は燧石の角にて疵付くる事と、砥石の類に摩り付くる事とに由りて作り上げしならん。圖中に畫きたる石器骨器角噐牙噐は皆理科大學人類學教室の藏品なり。
●土器
石器時代遺跡より發見さるる土器は四部に大別するを得。
(第一)飮食物其他の諸品を容るるに適したる噐。(之を容噐と呼ぶ)
(第二)裝飾として身に帶びしが如きもの。(之を裝飾品と呼ぶ)
(第三)人の形に造られたるもの。(之を土偶と呼ぶ)
(第四)はがき位の大さにて札形のもの。(之を土版と呼ぶ)
此他、用法も詳ならず、分類も爲し難きもの數品有り。
製法は何れも手づくね素燒きなり。土質中には多少の雲母を含むを常とす。
●容器容器には種々の形有り。一々名状すべからず。大は口徑一尺餘。小は口徑一寸許り。高さ厚さ亦區々なり。圖版中右の上に畫く所は形状を主とす、大小の比例は必しも眞の如くならず。色は黒色栗色鳶色カハラケ色等種々有りて表面の精粗も一定せず、製法は圖版中左の下に畫きたるが如し。先づ底面を作り其上に紐形にしたる土を乘せ、周圍に添ふて之を段々に螺旋状に積み上げ、内外兩面を滑かに擦りて全形を仕上げ、後種々の裝飾を施して火に掛けたるならん。此順序は遺跡發見物中に存在する造り掛けの土噐を比較して明かに知るを得るなり。土噐の底面には網代の痕又は木の葉の痕を存するものあり。是製造の始敷き物として用ゐたる編み物或は木の葉が偶然此所に印せられしに他ならず。裝飾には摸樣と彩色との二種有り。摸樣は燒く前に施し、彩色は燒きたる後に施せしなり。摸樣は種類甚多しと雖も大別して沈紋浮紋の二とするを得、沈紋とは土器の面より凹みて付きたる摸樣にして、浮紋とは土器の面上に他の土塊を添へて作りたるものの謂なり。沈紋の中に又押紋畫紋の別有り。布、席、編み物、紐細き棒の小口、貝殼等を押し付けて印したる紋を押紋と云ひ、細き棒或は篦を以て畫きたる摸樣を畫紋と云ふ。是等諸種の摸樣は通例彼此[#「彼此」はママ]相混じて施され居るなり。彩色には總塗り有り、畫紋有り、兩種を合算するも其數甚少し。色は何れも赤なれど其内に四五種の別有り。(繪具の事に付きては別に記す所あるべし)
容器の用は必しも飮食品を貯ふるに在らず、時としては手箱の用をも辨じたるなるべし。現に石鏃の入りたる儘の土器、小砂利の入りたる儘の土器、繪具を入れたる痕有る土器等の發見されたる事有るなり。
圖版中左の上に畫きたるは沈紋の數例なり、形状の圖と共に其據は總て理科大學人類學教室所藏品に在り。
(續出)
[#改段]●コロボックル風俗考 第八回(圖參看)
理學士 坪井正五郎
●土製裝飾品身体裝飾として用ゐられしならんと思はるる土製品は極めて稀にして、好例として示すべき物は余の手近には唯一個有るのみなり。(圖中、下段右の端を見よ)此品は大森貝塚より發見されたり。全体に樣々の沈紋有り。他の土器と等しく火に掛けたる物にして、色は黒し。長さの向きに孔有りて恰も軸を拔き取りたる紡錘の[#「紡錘の」は底本では「紡錐の」]如し。思ふに此孔に糸を貫きて身に帶ぶるに便にせしならん。
●土偶
既に身体裝飾衣服等の事を述べし折に言ひしが如く、本邦石噐時代の諸遺跡よりは燒き物の人形屡ば發見さるるなり。大さは種々なれど今日迄に知れたる事實に由れば最も大なるは陸奧龜ヶ岡發見加藤某氏所藏(第三回圖中に頭部のみを畫き置きしもの、佐藤蔀氏藏せしは誤なり)全長一尺二寸計、最も小なるは武藏下沼發見理科大學人類學教室所藏の物にして全長二寸五分、製作に付きては内部の充實したる物と空虚なる物との二種有り形式に付きては全体に太りたる物と前後より押し平めたるが如き物との二種有り。其用は信仰上關係を有するか、單に玩弄品たるか未だ詳ならずと雖も、間々製作の巧妙精緻なる物有るを以て見れば甲の考への方實に近からんと思はる。物質の異同は有れど、小偶像を作りて禮拜の目的物とし又は身の護りとする事野蠻未開人民中其例少しとせず。貝塚即ち石器時代人民の掃き溜めより宗教上の物を發見すとは如何にも誠しからず聞こゆべしと雖も、一定の時日を經たる後、或は一定の祭祀を終りたる後は、偶像の利益功力を失ふと云ふが如き考へは存し得べき事にして、尊崇すべき物品が食餘の汚物と共に同一所に捨てられしとするも敢て怪むべきには非ざるなり。土偶の頭部或は手足部の欠損せる事常なること、恐くは一種の妄信の爲、故意に破壞せるに由るならん。土偶の用は信仰上に關係有りと假定するも、尚ほ實在の人の形を現したる物か、想像上の神の形を示したる物かとの疑問有らん。此事に付きては後段別に述ぶる所有るべけれど、土偶の形状はコロボツクル日常の有樣を基として作りしものならんとの事丈は此所に記し置くべし。土偶中には裸体の物有り、着服の物有り、素面の物有り、覆面の物有り、冠り物の在る有り、無き有り、穿き物の在る有り、無き有り、上衣と股引とには赤色の彩色を施したるも有るなり、圖中下段右より二つ目に畫きたるものは裸体土偶の一例にして出所は常陸椎塚貝塚、所藏主は理科大學人類學教室なり。左に土偶發見國名表を掲ぐ。
渡島、陸奧、羽後、磐城、岩代、下總、常陸、武藏、信濃、就中多く出でたるは陸奧龜ヶ岡なり。
●土版
土版には長方形のものと小判形のものとの二種有り。用法詳ならずと雖も、恐くは[#「恐くは」はママ]身の護り又は咒ひの具抔ならん。中には前述の土偶との中間物の如きものも有り。從來發見されたる土版の出所は左の如し。圖に示す所は武藏北足立郡貝塚村より出でしものなり。
武藏荏原郡大森貝塚
同 郡上沼部貝塚
同北豊島郡小豆澤貝塚
同 郡西ヶ原貝塚
同北足立郡貝塚村
同 郡小室村
同南埼玉郡[#「南埼玉郡」は底本では「南崎玉郡」]黒谷村
常陸河内郡椎塚貝塚
下總東葛飾郡國分寺村貝塚
陸奧南津輕郡浪岡村
●貝殼器同 郡上沼部貝塚
同北豊島郡小豆澤貝塚
同 郡西ヶ原貝塚
同北足立郡貝塚村
同 郡小室村
同南埼玉郡[#「南埼玉郡」は底本では「南崎玉郡」]黒谷村
常陸河内郡椎塚貝塚
下總東葛飾郡國分寺村貝塚
陸奧南津輕郡浪岡村
はまぐりの如き貝殼は自然に皿形を成し、且つ相對する者二枚を合する時葢と身との部さへ具はるが故に物を貯ふる器とするに適したり。我々は是に膏藥の類を入るる事有れどコロボツクルは之を以て繪の具入れとせしなり。赤色の繪の具を入れたる儘のはまぐり貝は大森貝塚より數個發見されたり。
はまぐり貝は又物を掻き取るに適したり。魚鱗の充ちたる儘のもの貝塚より出づる事有り。
貝塚發見物中に猪の牙を細く研ぎ※[#「冫+咸」、87-下-14]らしたるが如き形のもの有り。其用は未だ詳ならざれど、明かに貝殼の一つなり。最も細く作られたるものは其原料甚だ見分け難けれど稍太きもの及び未成のものを列ね考ふれば、あかがひの縁の部分なる事を知るを得。發見地は常陸椎塚、武藏上沼部、箕輪及び東京谷中延命院脇の貝塚なり。
●植物質器具
植物質のものにして今日迄に石器時代遺跡より發見されたるは菱の實、胡桃の實、及び一種の水草の類にして、是等は唯有りの儘の形にて存在したるのみ。植物質の器具に至つては未だ一品も出でたる事無し。木にもせよ、竹にもせよ、草にもせよ、植物質の原料にて作りたるものは腐敗し易き事勿論なれば、其今日に遺存せざるの故を以て曾て存在せざりし證とは爲すべからず。現に土器底面中には網代形の痕有るもの有り、土器形状模様中には明かに籠の形を摸したるもの有り、コロボックルが籠の類を有せし事は推知し得べきなり。
アイヌ間に存する口碑に由ればコロボックルは又木製の皿をも有せしが如し。
既に服飾の部に於ても述べしが如く、土器表面の押紋をすれば、コロボツクルが種々の編み物、織り物、及び紐の類を有せし事明かにして、從つて袋を製する事抔も有りしならんと想像せらる。
以上諸種の植物質器具は食物其他の物品を容るるに用ゐられしならん。
●日常生活
前々より述べ來りしが如き衣服を着、飮食を採り、竪穴に住ひ、噐具を用ゐたる人民、即ちコロボックル、の日常生活[#ルビの「にちじようせいくわつ」は底本では「につじようせいくわつ」]は如何なりしか、固より明言するを得る限りには非ざれど試みに想像を畫きて他日精査を爲すの端緒とせん。
余は曾てコロボックルは人肉を食ひしならんとの事を云ひしが、此風習は必しも粗暴猛惡の民の間にのみ行はるるには非ず、且つ人肉は决して彼等の平常の食料には非ざりし事、貝塚の實地調査に由りて知るを得べければ、此一事はコロボックルの日常の有樣を考ふに付きて深き據とは爲すべからず
土器の形状の爲に種々の意匠を廻らし、土器の紋樣の爲に幾多の圖案を工夫せしが如きは土器製造者の心中餘裕有りしを知るに足るべく、土器使用者の性質寧沈着なりしを察するに足るべし。余はコロボックルは温和なる生活を爲せし者と考ふ
彼等は朝起きて先づ火焚き塲の火を熾にし、食物調理を爲し、飮食を終りたる後は、或は食物原料採集に出掛け、或は器具製造に從事し、日中の時を費したる後、各又我が火焚き塲の傍に集り座して且つ談じ且つ食ひ、飽けば即ち横臥して漁獵の夢抔を結びしならん。
男の仕事は鳥獸魚の捕獲、住居の建築、石器の製造、舟の製造、發火等を主とし、女の仕事は植物性食物原料及び貝類の採集、編み物、織り物、紐類、土噐の製造、調理、小兒保育等を主とせしなり
●漁業
遺跡よりは角製の釣り針の出でし事あり(第七回參照)。土器押紋中には慥に網の痕有るもの有り。切り目有る扁平石噐中には網の錘りと思はるるもの有り。貝塚より魚骨魚鱗の出づる傍ら是等遺物の存在するは實にコロボックル漁業の法を明示するものと云ふべきなり。釣り竿の有無は考へ難けれど、網は恐らく曳き網なりしならんと思はる。是等の他にも大魚を捕ふる法有りしなり。此事は常陸椎塚より發見されたる大鯛の頭骨に骨器の刺さり在りし事に由つて知られたり。骨器、牙噐、石噐中には其形状如何にも銛の如くに見ゆるもの有る上に、斯かる證據物さへ出でたる事なれば大魚を漁する爲に銛の用ゐられし事何の疑か有らん。銛は鋭き尖端と槍の如き柄とより成る物なるが魚の力強き時は假令骨に刺さりたるも其儘にて水中深く入る事も有るべく、又漁夫が誤つて此道具を流す事も有るべし。コロボックルは如何にして之を防ぎしか。余は彼等はエスキモーが爲す如く、銛に長き紐を付け其端に獸類の膀胱抔にて作りたる浮き袋を括り付け置きしならんと考ふるなり。エスキモーは斯かる浮き袋に息を吹き込み、且つ其氣の漏るるを防ぐ爲に栓を爲るの便を謀りて、角製の管を是に付け置く事なるが是と等しき物武藏西ヶ原貝塚及び下總柏井貝塚より出でたり。余はコロボックルの遺物たる是等の角噐は實に浮き袋の口として用ゐられしならんと信ずるなり。圖に示す物は余が西ヶ原に於て發見せし所なり。網形の押紋有る土噐片、骨器の刺さりたる大鯛の頭骨、浮き袋の口と思はるる角製の管、皆人類學教室の藏品なり。
コロボックルが漁業に巧みなりしとの事はアイヌ間の口碑にも存せり。既に漁業に巧みなりと云へば舟の類の存せし事推知すべき事なるが、アイヌは又此事に付きても言ひ傳へを有せり(後回に細説すべし)
(未完)
[#改段]●コロボックル風俗考 第九回(挿圖參看)
理學士 坪井正五郎
○鳥獸捕獲貝塚の貝殼層中には鳥骨有り獸骨有り、コロボックルが鳥獸の肉を食とせし事は明かなるが、如何なる方法を以て是等を捕獲せしならんか。或は棒を以て打ち、或は石を投げ付けし事も有るべけれど、弓矢の力を藉りし事蓋し多かりしならん。石鏃の事は既に云へり、其山中にて單獨に發見さるる事有るは射損じたるものの遺れるに由るならんとの事も既に云へり。新に述ぶべきは弓矢の用ゐ方なり。弓柄を左手に握り、矢の一端を弦の中程に當てて右手の指にて摘まむと云ふは何所も同じ事なれど、摘み方に於ては諸地方住民種々異同有り。未開人民に普通なるは、握り拳を作り、人差し指第二關節の角の側面と拇指の腹面との間に矢の一端と弓弦とを挾む方法なり。コロボックルも恐くは此方を採りしならん。鳥類ならば一發の石鏃の爲に斃るることも有るべけれど、鹿猪の如き獸類は中々彼樣の法にて死すべきにあらず。思ふにコロボックルは數人連合し互に相助けて獸獵に從事し、此所彼所より多くの矢を射掛け、鹿なり猪なり勢衰へて充分に走る事能はざるに至るを見濟まし、各自棍棒石斧抔を手にして獸に近寄り之を捕獲せしならん。
鳥類の捕獲には一端に石或は角の小片を結び付けたる紐の、長さ二三尺位のもの數本を作り之を他の端に於て一束ねに括りたるものを用ゐし事も有りしならん。そはエスキモーが斯かる事を爲す時に用ゐる錘りと好く似たる石片角片の遺跡より發見さるるに由りて推考せらるるなり。此捕鳥器の用ゐ方は先づ束ね有る方を握り、錘りの方を下に垂れ、手を中心として錘りを振り廻らすなり。斯くする事數回に及べば、各の紐夫々に延びて、全体の形、恰も車輪の如くに成りて勢好く廻轉す。斯く爲しつつ空中の鳥を目掛けて投げる時は、網を以て之を覆ふと同樣、翼を抑へ体を締め付け鳥をして飛揚する事を得ざらしむ。斯くて鳥の地に落ちたる時は、捕鳥者は直ちに其塲に駈け付け獲物を抑へ紐を解くなり。石鏃と違ひて此道具は幾度にても用ゐる事を得。
○他の食料採集
貝類は磯にて集むる事も有り、干潟にて拾ふ事も有り、時としては深く水を潜りて取る事も有りしならん。あはびを岩より離すには骨製の篦或は角製の細棒抔を使ひし事も有るべけれど、他の貝類を採集するには、袋或は籠の如き入れ物さへ有れば事足りしならん。袋には粗布を縫ひ合はせ作りしも有るべく、目を細くせし網も有るべし。コロボックルが粗布をも作り網をも作りし事は、前にも述べ置きし通り慥なる證有る事なり。籠の事も既に記せし故此所には再説せず。
植物性食物採集の爲には諸種の石器及び入れ物を要せしなるべけれど、何物の如何なる部分が食料に撰まれしや詳ならざるを以て、精細には記し難し。
○製造
コロボックルの知り居りし製造業を列擧すれは左の如し。
石器製造。(第六回、打製類及び磨製類考説の末文等を見よ。)
骨器製造。(第七回、角器牙器考説の終りを見よ。)
角器製造。(同前。)
牙器製造。(同前。)
土器製造。(第七回、容器考説の中程を見よ。)
貝器製造。(第七回、貝殼器考説の末を見よ。)
籠類製造。(第七回、植物質器具考説を見よ。)
網代類製造。(同前。)
席類製造。(同前。)
糸紐製造。(同前。又同回、糸掛け石の條を見よ。)
布類製造。(同前。又第二回、衣服原料の條を見よ。)
此他漆液の類、繪の具の類を造りし證跡有り。(第六回、打製類の條及び第八回、貝殼器の條を見よ。)繪具の原料と思はるる赤色物質の塊り、及び之を打ち碎くに用ゐしならんと考へらるる扁平石(縁部に赤色料付着す)は遺跡より發見されし事有るなり。コロボックルは又丸木舟を始として種々の木具をも製作せしならん。
○美術
磨製石斧の中には石材の撰擇、形状の意匠、明かに美術思想の發達を示すもの有り、石鏃中にも亦實用のみを目的とせずして色と云[#ルビの「い」は底本では「いヽ」]ひ形と云ひ實に美を極めたるもの少からず。土噐の形状紋樣に至つては多言を要せず、實物を見たる人は更なり、第七回の挿圖のみを見たる人も、未開の人民が如何にして斯く迄に美事なるものを作り出せしかと意外の感を抱くならん。今回の挿圖中右の上の隅の三個と右の下の隅の一個との他、周圍に寫したるものは總て土器の把手なり。其形其紋實に名状すべからず。コロボックル美術の標本たるの價値[#「價値」はママ]充分なりと云ふべし。右の下の隅に圖したるは土瓶形土器の横口にして。模樣は赤色の繪の具を以て畫きたり。右の上の三個は、土器表面に在る押紋を其原に還したるものにして、取りも直さず紐細工の裝飾なり。土偶に由りて想像さるる衣服の紋樣も此の如くにして縫ひ付けられしものなるべし。(第二回の挿圖を見よ。)此他土版と云ひ諸種の裝飾品と云ひ美術思想發動の結果を見るべきもの少しとせざるなり
○分業
石器は何石を以ても隨意に造るを得と云ふものに非ず。土器も亦何れの土にても造るを得と云ふものに非ず。且つ石器を造るには夫々の道具有るべく、土器を作るに於ては之を燒く塲所を要す。去れば適當の原料と製造所及び製造器具を手近に有する者は必要の品を造るの序、余分の品をも造り置く事有る可く、是に反して以上の便宜無き者は、必要の品さへも造る事能はざる事有らん。或る者は漁業に巧にして或る者は鳥獸捕獲に巧に、或る者は織り物に妙を得、或る者は籠細工を得意とすと云ふが如き事はコロボックル社會に有りし事なるべし。斯かる塲合に於ては、石器製造を好む者は多くの石器を造り、土器製造を好む者は多くの土器を造り互に余分の品を交換すると云ふか如き事も有りさうなる事ならずや。余は固よりコロボックル中に斯く斯くの職業有り、何々の專門有り抔との事は主張せざれど、上來述べ來りし程の知識有る人民中には多少の分業は存せざるを得ずと思考するなり。
○貿易
アイヌの口碑に由ればコロボックルはアイヌと物品交換をせしなり。コロボックルの方より持ち來りし品は何かと云ふに、或る所にては魚類なりと云ひ或る所にては土器なりと云ふ。恐らく兩方ならん。交換の方法コロボックル先づ何品かを携へ來りアイヌの小家の入り口又は窓の前に進み此所にてアイヌの方より出す相當の品と引き換へにせしものなりとぞ。斯く入り口又は窓を隔てて品物の遣り取りを爲せしは同類の間ならざるが故ならん。コロボックル同志ならば親しく相對して事を辨ぜしなるべし。余は不足の品と余分の品との直接交換のみならず、必要以外の品と雖も後日の用を考へて取り換へ置く事も有りしならんと思惟するなり、斯かる塲合に於ては美麗なる石斧石鏃類は幾分か交換の媒の用を爲せしならん。
(未完)
[#改段]●コロボックル風俗考 第十回(挿圖參看)
理學士 坪井正五郎
○交通石器時代遺跡は琉球より千島に至るまで日本諸地方に散在する事挿圖中に示すが如くなるが、是等は恐らく同一人民の手に成りしものなる可し。各遺跡を一々檢査し相互に比較したりとは斷言し難けれど、日本諸地方の石器時代遺跡中には互に異れる人民の手に成りしもの有りとの反証出でざる間は斯く考ふる方道理有りと云ふべし。同一人民とは即ちコロボックルなり。彼等の住居せし跡が斯く諸地方に散在するは、移住に原因するか、又は同一時に於ても此所彼所に部落の在りしに原因するか、如何と云ふに、こは何れか一つと限るべきに非ず、移住にも因る可く部落の散在にも因る可きなり。移住と云へば固よりの事、部落散在と云ふも異地方交通の途開け居りし事推知すべきなり。同一時に於て此所彼所に同一人民の部落存在せりとは、取りも直さず、其前の時代に於て移住行はれたりと云ふ事なり。既に交通の途開け居たりとすれば、異部落相互の間にも往來有りしと考ふるを得べし。此事の確証は遺物中より發見さるるなり。一例を擧げんか。東京にも其近傍にも天然に黒曜石を産する地は有らざるに、此地方の石器時代遺跡よりは黒曜石製の石鏃出づる事多し。原料の儘にもせよ、又は製造品としてにもせよ、是等の黒曜石は他地方、恐らくは信濃地方より此地方に運ばれしものたる事明かなり。他の地方に於ける他の石質に付いても同樣の事を云ふを得べし。異地方發見の土器を比較して、其土質、製法、形状、紋樣等を對照するも亦類似の度強くして一地方の物の他地方に移りし事、即ち異地方相互の間に交通ありし事を證明する事實少しとせざるなり。
○道路
釧路國釧路郡役所裏の丘上にはコロボックルの住居跡たる竪穴數多存在する事なるが、其並び方は一列に非すして、恰も道路を挾みて兩側に一二列宛在るが如く成り居るなり。(第五回參照)尚ほ精しく云へは、中央に一線の往來有りて、其兩側に或は一戸宛向ひ合ひ、或は向ひ合ひたる住居の後方にも亦一二戸の住居存在せしか如き有樣に、竪穴散在す。此塲合に於ては此邊道路なりしならん、此所より此所の間には當さに道路有りしなるべきなり抔と云ふを得れど、斯なる塲合は决して多からさるなり。一遺跡と他の遺跡との間には甞て道路存在せしなるへけれど、此所と云ひて指示するを得る所は未だ發見せす。今交通の事を述へたる後に熟考するに、一部落と他部落との間には、人々の多く徃來する所、即ち多くの人に蹈まれて自[#ルビの「おのづか」は底本では「お」]ら定まりたる道路の形を成せる所有りしならんとは推知せらるるなり。コロボックルの住居には直徑五六間のもの徃々有り。是彼等が長大なる木材を用ゐし事有るを間接に示すものなり。(第五回參照)コロボックルにして長大なる木材を用ゐたりとせんか、既に衣服有つて其水に潤ふを厭ふべき彼等が、細流の上に丸木橋を架して徃來に便にする事を思ひ付かざる理有らんや。余は未だ[#「未だ」は底本では「未ば」]確證を得ざれども、推理及び現存未開人民の例に由りて、コロボックルは恐らく橋を有せしならんと考ふるなり。
○運搬
コロボックルが舟を用ゐしとの事はアイヌの[#「アイヌの」は底本では「アイヌノ」]口碑に存す。但し其舟は丸木舟のみならずして、草を編みて作れる輕き物も有りと云へり。前にも述べし如く、コロボックルは銛の類にて魚を捕りし事も有り、網を以て魚を捕りし事も有りしは明かなれば、或る種類の舟も存在せしならんとは推知さるる事ながら、そは丸木舟の如き物なりしなるべく、草を編みたる物抔とは思ひも由らざる事なり。然らば此輕き舟とは何を指すかと云ふに、口碑に隨へば、こは陸上にて荷ひ易く、水上にては人を乘するに足る物なりとの事なり。エスキモ其他北地現住民の用ゐる獸皮舟は是に似たり。陸上にては使用者之を荷ひ、水上にては使用者是に乘る、誠に輕便なる物と云ふへきなり。所謂草とは如何なる物か詳ならされと、丸木舟とは構造を異にする一種の舟、恐らくは木の皮抔にて造りたる舟、も存在せしなるべし。(第三回挿圖參照)是等二種の舟は、人の往來、諸物の運送に際して等しく用ゐられしならんと考へらる。
○人事
出産、保育、結婚等の人事に關しては未だ探究の端緒を得ず。疾病の種類にして存在の証跡を今日に留むるは黴毒と虫齒なり是等の事は遺跡より出つる骨と齒とに由りて知るを得る事なれど、風俗考には縁故遠き事故細説は爲さざるべし。治療の事は知るに由無しと雖とも鋭利なる石器骨器の存在を以て推せば外科的施術は多少行はれしならんと考へらる。死亡者は如何に取扱ひしか、普通の塲合は反つて知り難けれど、死者中の或る者を食ふ風習の有りし事は、貝殼、獸骨、等に混じて破碎せる人骨の遺れるに由りて知るを得るなり。(第四回參照) ○結論
余は本篇の初めに於て身体裝飾の事を云ひ、次で衣服、冠り物覆面、遮光器、の事を述べ、飮食、より住居、器具に移り、夫より日常生活、鳥獸魚介の採集、製造、美術、分業、貿易、交通、運搬、人事に付いてコロボックル風俗の大概を記し終れり今是等の諸事を通じ考ふるに、此石器時代人民の我々日本人の祖先たらざりしは勿論、又アイヌの祖先たらざりし事も明かなり。一事を擧げて之を日本人及びアイヌの所業に照らし、一物を採つて之を日本人及びアイヌの製品に比し、論斷を下すが如きは、畫報の記事として不適當なるの感無きに非ざれば、夫等の事は一切省畧して、只肝要なる一事のみを記すべし。之は他に非ず、石器時代の遺跡より發見する所の人骨は日本人の骨とも異り、又アイヌの骨とも等しからずとの一事なり。日本諸地方に石器時代の跡を遺したる人民にして、體格風俗、日本人とも同じからずアイヌとも同じからずとせば、此人民は何者なりしか、其行衛は如何との二疑問次いで生ずべし。余は本篇の諸所に於て現存のエスキモが好く此石器時代人民に似たりとの事を記し置しが、古物、遺跡、口碑を總括して判斷するに、アイヌの所謂[#ルビの「いわゆる」は底本では「ゆわいる」]コロボックルはエスキモ其他の北地現住民に縁故近き者にして、元來は日本諸地方に廣がり居りしが、後にはアイヌ或は日本人の爲に北海道の地に追ひ込まれ、最後にアイヌの爲に北海道の地より更に北方に追ひ遣られたるならんと考へらるアイヌとはコロボックルと曾て平和の交際をも[#「交際をも」はママ]爲したりしと云ふに如何にして、不和を生じて相別かるるに至りしか。固より詳知し難しと雖とも、口碑に隨へば、或時コロボックルの女子貿易の爲アイヌの小屋の傍に行きしに、アイヌ共此女を捕へて内に引き入れ、其の手の入れ墨を見んとて、強ゐて抑留せし事有るに原因すとの事なり。(第一回參照)此事は今の十勝の地に於て起こりし事なりと云ふ。
終りに臨んで讀者諸君に一言す。余は以上の風俗考を以て自ら滿足する者に非ず、尚ほ多くの事實を蒐集總括して更に精しき風俗考を著さんとは余の平常の望みなり。日本石器時代の研究は啻に日本の地に於ける古事を明かにする力を有するのみならず人類學に益を與ふる事も亦極めて大なり。是等に關する古物遺跡に付いて見聞を有せらるる諸君希くは報告の勞を悋まるる事勿れ。
(完)
東京本郷理科大學人類學教室に於て 坪井正五郎記す