この雨はもなくれて、庭も山も青き天鵞絨びろうど蝶花ちょうはな刺繍ぬいとりあるかすみを落した。何んの余波なごりやら、いおりにも、座にも、そでにも、菜種なたねかおりみたのである。
 出家は、さて出口でぐちから、裏山のそのじゃ矢倉やぐらを案内しよう、と老実まめやかに勧めたけれども、この際、観音かんおん御堂みどう背後うしろへ通り越す心持こころもちはしなかったので、挨拶あいさつ後日ごじつを期して、散策子は、やがていおりを辞した。
 差当さしあたり、出家の物語について、何んの思慮もなく、批評も出来ず、感想もべられなかったので、言われた事、話されただけを、不残のこらず鵜呑うのみにして、天窓あたまから詰込つめこんで、胸がふくれるまでになったから、ひとしずか歩行あるきながら、消化こなして胃のに落ちつけようと思ったから。
 対手あいても出家だから仔細しさいはあるまい、(さようなら)が唐突だしぬけであったかも知れぬ。
 ところで、石段を背後うしろにして、行手ゆくてへ例の二階を置いて、ほっと息をすると……、
転寐うたたねに……」
 とず口のうちでいって見て、小首を傾けた。ステッキが邪魔なのでかいなところゆすり上げて、引包ひきつつんだそのそでともに腕組をした。菜種の花道はなみち、幕の外の引込ひっこみには引立ひったたない野郎姿やろうすがた。雨上りで照々てかてかと日が射すのに、薄く一面にねんばりした足許あしもとすべって転ばねばい。
「恋しき人を見てしより……夢てふものは、」
 とちょいと顔を上げて見ると、左のがけからしいの樹が横に出ている――遠くからながめると、これが石段の根を仕切る緑なので、――庵室あんじつはもう右手めて背後うしろになった。
 見たばかりで、すぐにまた、
「夢と言えば、これ、自分も何んだか夢を見ているようだ。やがて目がめて、ああ、転寐うたたねだったと思えば夢だが、このまま、覚めなければ夢ではなかろう。何時いつか聞いた事がある、狂人きちがい真人間まにんげんは、ただ時間の長短だけのもので、風が立つと時々波が荒れるように、誰でもちょいちょいは狂気きちがいだけれど、直ぐ、ぎになって、のたりのたりかなで済む。もしそれが静まらないと、浮世の波に乗っかってる我々、ふらふらと脳が揺れる、静まらんと欲すれども風やまずと来た日にゃ、船にう、その浮世の波に浮んだ船に酔うのが、たちどころに狂人きちがいなんだと。
 危険々々けんのんけんのん
 ト来た日にゃ夢もまた同一おんなじだろう。目が覚めるから、夢だけれど、いつまでも覚めなけりゃ、夢じゃあるまい。
 夢になら恋人に逢えるときまれば、こりゃ一層いっそ夢にしてしまって、世間で、誰某たれそれは? と尋ねた時、はい、とか何んとか言って、蝶々ちょうちょう二つで、ひらひらなんぞは悟ったものだ。
 庵室あんじつの客人なんざ、今聞いたようだと、夢てふものをたのみ切りにしたのかな。」
 と考えが道草みちくさの蝶にさそわれて、ふわふわとたまが菜の花ぞいに伸びたところを、風もないのに、さっとばかり、横合よこあいから雪のかいなえりで、つと爪尖つまさきを反らして足を踏伸ふみのばした姿が、真黒まっくろな馬に乗って、蒼空あおぞら飜然ひらりと飛び、帽子のひさしかすめるばかり、大波を乗って、一跨ひとまたぎにくれないの虹をおどり越えたものがある。
 はたと、これに空想の前途ゆくてさえぎられて、驚いて心付こころづくと、赤楝蛇やまかがしのあとを過ぎて、はたを織る婦人おんな小家こいえも通り越していたのであった。
 音はと思うに、きりはたりする声は聞えず、山越えた停車場ステイション笛太鼓ふえたいこ、大きな時計のセコンドの如く、胸に響いてトトンと鳴る。
 筋向すじむかいの垣根かきねきわに、こなたを待ち受けたものらしい、くわいて立って、莞爾にこついて、のっそりと親仁おやじあり。
「はあ、もし今帰らせえますかね。」
「や、先刻は。」

 その莞爾々々にこにこの顔のまま、くわを離した手をんで、
「何んともハイしんせつに言わっせえて下せえやして、お庇様かげさまで、わし、えれえ手柄てがらして礼を聞いたでござりやすよ。」
「別に迷惑にもならなかったかい。」
 と悠々ゆうゆうとしていった時、少なからず風采ふうさい立上たちあがって見えた。勿論もちろん対手あいてくだんの親仁だけれど。
「迷惑どころではござりましねえ、かさねがさね礼を言われて、わしでっかくありがたがられました。」
「じゃ、むだにならなかったかい、お前さんが始末をしたんだね。」
「竹ンさきおさえつけてハイ、山の根っこさやぶの中へ棄てたでごぜえます。女中たちが殺すなと言うけえ。」
「その方が心持こころもちい、命を取ったんだと、そんなにせずともの事を、わたし訴人そにんしたんだから、うらみがあれば、こっちへ取付とッつくかも分らずさ。」
「はははは、旦那様の前だが、やっぱりお好きではねえでがすな。奥にいた女中は、蛇がと聞いただけでアレソレ打騒ぶっさわいで戸障子としょうじあたっただよ。
 わし先ず庭口にわぐちから入って、其処そこ縁側えんがわ案内あんねえして、それから台所口だいどこぐちに行ってあっちこっち探索のしたところ、何が、お前様御勘考ごかんこうさ違わねえ、湯殿ゆどのに西のすみに、べいらべいら舌さあいとるだ。
 思ったよりでっこうがした。
 畜生め。われさ行水ぎょうずいするだらかえる飛込とびこ古池ふるいけというへ行けさ。化粧部屋のぞきおって白粉おしろいつけてどうしるだい。白鷺しらさぎにでも押惚おっぽれたかと、ぐいとなやして動かさねえ。どうしべいな、長アくして思案のしていりゃ、遠くから足のさき爪立つまだって、お殺しでない、打棄うっちゃっておくれ、御新姐ごしんぞは病気のせいで物事ものごと気にしてなんねえから、と女中たちが口をそろえていうもんだでね、げえもねえ、殺生せっしょうするにゃ当らねえでがすから、藪畳やぶだたみへもぐらして退けました。
 御新姐ごしんぞは、気分がすぐれねえとって、二階に寝てござらしけえ。
 今しがた小雨こさめが降って、お天気が上ると、お前様めえさま、雨よりは大きい紅色べにいろの露がぽったりぽったりする、あの桃の木の下のとこさ、背戸口せどぐちから御新姐ごしんぞが、紫色の蝙蝠傘こうもりがささして出てござって、(じいやさん、今ほどはありがとう。そのいやなもののいた事を、通りがかりに知らして下すったお方は、巌殿いわどの方へおいでなすったというが、まだお帰りになった様子はないかい。)ッて聞かしった。
(どうだかね、わし内方うちかたへ参ったはちいとのだし、雨に駈出かけだしても来さっしゃらねえもんだで、まだ帰らっしゃらねえでごぜえましょう。
 それとも身軽でハイずんずん行かっせえたもんだで、山越しに名越なごえの方ささっしゃったかも知れましねえ、)言うたらばの。
(お見上げ申したら、よくお礼を申して下さいよ。)ッてよ。
 その溝さ飛越とびこして、そのみちを、」
 垣の外のこなたと同一おんなじ通筋とおりすじ
「ハイぶうらりぶうらり、谷戸やとの方へ、行かしっけえ。」
 と言いかけて身体からだごと、この巌殿いわどから橿原かしわばらへ出口の方へ振向いた。身の挙動こなし仰山ぎょうさんで、さも用ありげな素振そぶりだったので、散策子もおなじくそなたを。……帰途かえるさかれにはあたかも前途ゆくてに当る。
「それ見えるでがさ。の、彼処あすこさ土手の上にござらっしゃる。」
 にしきの帯を解いた様な、なまめかしい草の上、雨のあとの薄霞うすがすみ、山のすそ靉靆たなびうち一張いっちょうむらさき大きさ月輪げつりんの如く、はたすみれの花束に似たるあり。紫羅傘しらさんと書いていちはちの花、字の通りだと、それ美人の持物。
 散策子は一目ひとめ見て、早く既にそのかすみはしの、ひたひたと来てはだまとうのを覚えた。
 彼処かしことこなたと、言い知らぬ、春の景色の繋がる中へ、わらびのような親仁おやじの手、無骨ぶこつな指でゆびさしして、
彼処あすこさ、それ、かさの陰にやすんでござる。はははは、礼を聞かっせえ、待ってるだに。」

 横に落した紫の傘には、あの紫苑しおんに来る、黄金色こがねいろの昆虫のつばさの如き、煌々きらきらした日の光が射込いこんで、草に輝くばかりに見える。
 そのかげから、しなやかなもすそが、土手のみどりを左右へ残して、線もなしに、よろけじまのお召縮緬めしちりめんで、嬌態しなよく仕切ったが、油のようにとろりとした、雨のあとのみちとの間、あるかなしに、細い褄先つまさきやわらかくしっとりと、内端うちわ掻込かいこんだ足袋たびまって、其処そこから襦袢じゅばん友染ゆうぜんが、豊かに膝までさばかれた。雪駄せったひとツ土に脱いで、片足はしなやかに、草に曲げているのである。
 前を通ろうとして、我にもあらず立淀たちよどんだ。散策子は、下衆儕げしゅうばら賭物かけものして、鬼が出る宇治橋うじばしの夕暮を、ただ一騎いっき、東へたするおもいがした。
 かく近づいた跫音あしおとは、くだんの紫の傘を小楯こだてに、土手へかけて悠然ゆうぜんおぼろげに投げた、えんにしてすごはかまに、小波さざなみ寄するかすかな響きさえ与えなかったにもかかわらず、こなたは一ツ胴震どうぶるいをして、立直たちなおって、我知らず肩をそびやかすと、ステッキをぐいと振って、九字くじを切りかけて、束々つかつかと通った。
 路は、あわれ、鬼の脱いだそのくつまたがねばならぬほど狭いので、心から、一方は海のかたへ、一方は橿原かしわばらの山里へ、一方はかた巌殿いわどになる、久能谷くのやのこの出口は、あたかも、ものの撞木しゅもくなり。前は一面の麦畠むぎばたけ
 正面に、青麦あおむぎに対した時、散策子のおもてはあたかも酔えるが如きものであった。
 南無三宝なむさんぼう声がかかった。それ、言わぬことではない。
「…………」
 一散いっさんげもならず、立停たちどまったかれは、馬の尾に油を塗って置いて、鷲掴わしづかみのたなそこすべり抜けなんだを口惜くちおしく思ったろう。
わたし。」
 と振返って、
「ですかい、」と言いつつ一目ひとめ見たのは、かしら禿かむろあらわなるものではなく、日の光す紫のかげをめたおもかげは、几帳きちょうに宿る月の影、雲のびんずらかざしの星、丹花たんかの唇、芙蓉ふようまなじり、柳の腰を草にすがって、鼓草たんぽぽの花に浮べるさま、虚空にかかったよそおいである。
 白魚しらおのような指が、ちょいと、紫紺しこん半襟はんえりを引き合わせると、美しいひとみが動いて、
「失礼を……」
 とただ莞爾にっこりする。
「はあ、」と言ったきり、腰のまわり、みちを見て置くのである。
貴下あなたお呼びめ申しまして、」
 とふっくりとした胸を上げると、ややもたれかかって土手に寝るようにしていた姿を前へ。
「はあ、なに、」
 真正直まっしょうじきな顔をして、
「私ですか、」と空とぼける。
貴下あなたのようなお姿だ、と聞きましてございます。先刻せんこくは、まことに御心配下さいまして、」
 やおら、雪のような白足袋しろたびで、脱ぎ棄てた雪駄せった引寄ひきよせた時、友染ゆうぜんは一層はらはらと、模様の花がおもかげに立って、ぱッと留南奇とめきかおりがする。
 美女たおやめ立直たちなおって、
「お蔭様かげさまで災難を、」
 と襟首えりくびを見せてつむりを下げた。
 爾時そのとき独武者ひとりむしゃステッキをわきばさみ、かぶとを脱いで、
「ええ、何んですかな、」と曖昧あいまい
 美女たおやめは親しげに笑いかけて、
「ほほ、わたしはもう災難と申します。災難ですわ、貴下あなた。あれが座敷へでも入りますか、知らないでいて御覧なさいまし、当分うち明渡あけわたして、何処どこかへ参らなければなりませんの。真個ほんとうにそうなりましたら、どうしましょう。お庇様かげさまたすかりましてございますよ。ありがとう存じます。」
「それにしても、私とめたのは、」
 と思うことが思わず口へ出た。
 これはと調子はずれだったので、聞き返すように、
「ええ、」

先刻さっきの、あの青大将あおだいしょうの事なんでしょう。それにしても、よく私だというのが分りましたね、驚きました。」
 と棄鞭すてむち遁構にげがまえで、駒のかしら立直たてなおすと、なお打笑うちえみ、
「そりゃ知れますわ。こんな田舎いなかですもの。そして御覧の通り、人通りのないところじゃありませんか。
 貴下あなたのようなかた出入ではいりは、今朝けさッからお一人しかありませんもの。ちゃんと存じておりますよ。」
「では、あのじいさんにお聞きなすって、」
いいえ、私ども石垣の前をお通りがかりの時、二階からおがみました。」
「じゃあ、私が青大将を見た時に、」
貴下あなたのお姿がたてにおなり下さいましたから、爾時そのときも、いやなものを見ないで済みました。」
 と少し打傾うちかたむいてなつかしそう。
「ですが、貴女あなた、」とうっかりいう、
「はい?」
 とうながすように言いかけられて、ハタと行詰ゆきつまったらしく、ステッキをコツコツとまたたきひとツ、唇を引緊ひきしめた。
 追っかけて、
「何んでございますか、聞かして頂戴ちょうだい。」
 と婉然えんぜんとする。
 あわて気味に狼狽まごつきながら、
貴女あなたは、貴女あなたは気分が悪くって寝ていらっしゃるんだ、というじゃありませんか。」
「あら、こんなに甲羅こうらしておりますものを。」
「へい、」と、つな※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、ああ、我ながらまずいことを言った顔色がんしょく
 美女たおやめはその顔を差覗さしのぞ風情ふぜいして、ひとみを斜めにと流しながら、華奢きゃしゃたなそこかろく頬に当てると、くれないがひらりとからむ、かいなの雪を払う音、さらさらと衣摺きぬずれして、
真個まったくは、寝ていましたの……」
「何んですッて、」
 と苦笑にがわらい
「でも爾時そのときは寝ていやしませんの。貴下あなた起きていたんですよ。あら、」
 とやや調子高ちょうしだかに、
「何を言ってるんだか分らないわねえ。」
 馴々なれなれしくいうと、急に胸をらして、すッきりとした耳許みみもとを見せながら、顔を反向そむけて俯向うつむいたが、そのまま身体からだの平均を保つように、片足をうしろへ引いて、立直たちなおって、
いいえ、寝ていたんじゃなかったんですけども、貴下あなたのお姿を拝みますと、急に心持こころもちが悪くなって、それから寝たんです。」
「これはひどい、ひどいよ、貴女あなたは。」
 つつと寄り進んで、
「じゃ青大将の方がましだったんだ。だのに、わざわざ呼留よびとめて、災難をのがれたとまで事を誇大こだいにして、礼なんぞおっしゃって、元来、私は余計なお世話だと思って、御婦人ばかりの御住居おすまいだと聞いたにつけても、いよいよきまりが悪くって、此処ここだって、貴女あなた、こそこそげて通ろうとしたんじゃありませんか。それを大袈裟おおげさに礼を言って、きまりを悪がらせた上に、姿とは何事です。幽霊ゆうれいじゃあるまいし、心持こころもちを悪くする姿というがありますか。図体ずうたいとか、さまとかいうものですよ。その私の図体を見て、心持が悪くなったははげしい。それがために寝たは、残酷じゃありませんか。
 らんおせっかいを申上げたのが、見苦しかったらそうおっしゃい。このお関所をあやまって通して頂く――勧進帳かんじんちょうでも読みましょうか。それでいけなけりゃ仕方がない。元の巌殿いわど引返ひっかえして、山越やまごえ出奔しゅっぽんするぶんの事です。」
 と逆寄さかよせの決心で、そう言ったのをキッカケに、どかと土手の草へ腰をかけたつもりのところ、負けまい気の、ものの顔を見詰みつめていたので、横ざまに落しつけるはずの腰がすわらず、床几しょうぎすべって、ずるりと大地へ。
「あら、おあぶない。」
 というが早いか、まばゆいばかり目の前へ、かすみを抜けた極彩色ごくさいしき。さそくに友染ゆうぜんの膝を乱して、つくろいもなくはらりと折敷おりしき、片手が踏み抜いた下駄げた一ツ前壺まえつぼを押して寄越よこすと、たすけ起すつもりであろう、片手が薄色の手巾ハンケチごと、ひらめいてぷんかおって、やさしく男のそびらにかかった。

 南無観世音大菩薩なむかんぜおんだいぼさつ………助けさせたまえと、散策子は心のうち陣備じんぞなえ身構みがまえもこれにてこなになる。
「お足袋たびが泥だらけになりました、其処そこでござんすから、ちょいとおいすがせ申しましょう。おぎ遊ばせな。」
 と指をかけようとする爪尖つまさきを、あわただしく引込ひっこませるを拍子ひょうしに、たいを引いて、今度は大丈夫だいじょうぶに、背中を土手へ寝るばかり、ばたりと腰をける。あたたかい草が、ちりげもとでかっとほてって、汗びっしょり、まっかな顔をしてかつ目をきょろつかせながら、
「構わんです、構わんです、こんな足袋たびなんぞ。」
 ヤレまた落語の前座ぜんざが言いそうなことを、とヒヤリとして、やっひとみさだめて見ると、美女たおやめ刎飛はねとんだステッキを拾って、しなやかに両手でついて、悠々ゆうゆうと立っている。
 羽織はおりなしのひっかけおび、ゆるやかなあわせの着こなしが、いまの身じろぎで、片前下かたまえさがりに友染ゆうぜんくれないにおいこぼれて、水色縮緬みずいろちりめん扱帯しごきはし、ややずりさがった風情ふぜいさえ、ステッキには似合わないだけ、あたかも人質に取られた形――可哀かわいや、おしゅうの身がわりに、恋の重荷おもにでへし折れよう。
真個ほんとに済みませんでした。」
 またぞろせんを越して、
わたし、どうしたらいでしょう。」
 と思い案ずる目をなかば閉じて、屈託くったくらしく、盲目めくら歎息たんそくをするように、ものあわれなよそおいして、
「うっかり飛んだ事を申上げて、私、そんなつもりで言ったんじゃありませんわ。
 貴下あなたのお姿を見て、それから心持こころもちが悪くなりましたって、言通ことばどおりの事が、もし真個まったくなら、どうして口へ出して言えますもんですか。貴下あなたのお姿を見て、それから心持が悪く……」
 再び口のうちで繰返して見て、
「おほほ、まあ、大概たいがいお察し遊ばして下さいましなね。」
 と楽にさし寄って、そでを土手へ敷いてもたれるようにして並べた。春の草は、その肩あたりをみどりに仕切って、二人のすそは、足許あしもとなる麦畠に臨んだのである。
「そういうつもりで申上げたんでござんせんことは、よく分ってますじゃありませんか。」
「はい、」
「ね、貴下あなた、」
「はい、」
 と無意味に合点がってんしてうなずくと、まだ心が済まぬらしく、
ことばとがめをなすってさ、真個ほんとにお人が悪いよ。」
 とおつからむ。
 いささべんぜざるべからず、と横に見向いて、
「人の悪いのは貴女あなたでしょう。わたしは何もことばとがめなんぞした覚えはない。心持が悪いとおっしゃるからおっしゃる通りにうかがいました。」
「そして、腹をお立てなすったんですもの。」
いや、恐縮をしたまでです。」
「そこは貴下あなた、お察し遊ばして下さるところじゃありませんか。
 ことばあやもございますわ。朝顔の葉を御覧なさいまし、表はあんなに薄っぺらなもんですが、裏はふっくりしておりますもの……裏を聞いて下さいよ。」
「裏だと……お待ちなさいよ。」
 ええ、といきつぎに目をねむって、仰向あおむいて一呼吸ひといきついて、
心持こころもちが悪くなった反対なんだから、私の姿を見ると、それから心持がくなった――事になる――加減かげんになさい、馬鹿になすって、」
 とめつける。ただし笑いながら。
 すずしい目できっと見て、
「むずかしいのね? どう言えばこうおっしゃって、貴下あなた、弱いものをおいじめ遊ばすもんじゃないわ。わたしわずらっているんじゃありませんか。」
 草に手をついて膝をずらし、
「お聞きなさいましよ、まあ、」
 と恍惚うっとりしたようにえみを含む口許くちもとは、鉄漿かねをつけていはしまいかと思われるほど、婀娜あだめいたものであった。
「まあ、私に、恋しいなつかしいかたがあるとしましょうね。うござんすか……」

「恋しいなつかしいかたがあって、そしてどうしてもえないで、夜もられないほどに思い詰めて、心も乱れれば気も狂いそうになっておりますものが、せめてたお方でもと思うのに、この頃はこうやって此処ここらには東京からおいでなすったらしいのも見えませんところへ、何年ぶりか、幾月越いくつきごしか、フトそうらしい、た姿をお見受け申したとしましたら、貴下あなた、」
 と手許てもとたけのびた影のある、土筆つくしの根をこころみ、
爾時そのときは……、そして何んですか、せつなくって、あとでふせったと申しますのに、爾時そのときは、どんな心持こころもちでと言っていのでございましょうね。
 やっぱり、あの、いやな心持になって、というほかはないではありませんか。それを申したんでございますよ。」
 一言いちごんもなく……しばらくして、
「じゃ、そういうかたがおあんなさるんですね、」とわずか一方いっぽう切抜きりぬけようとした。
「御存じのくせに。」
 と、伏兵ふくへい大いに起る。
「ええ、」
「御存じの癖に。」
「今お目にかかったばかり、お名も何も存じませんのに、どうしてそんな事が分ります。」
 うたゝに恋しき人を見てしより、その、みを、という名も知らぬではなかったけれども、夢のいわれも聞きたさに。
「それでも、私が気疾きやみをしております事を御存じのようでしたわ。先刻さっき、」
「それは、何、あの畑打はたうちのじいさんが、蛇をつかまえに行った時に、貴女あなたはお二階に、と言って、ちょっと御様子をらしただけです。それもただ御気分が悪いとだけ。
 私の形を見て、お心持が悪くなったなんぞって事は、ちっとも話しませんから、知ろう道理どうりはないのです。ただ礼をおっしゃるかも知れんというから、其奴そいつは困ったと思いましたけれども、此処ここを通らないじゃ帰られませんもんですから。こうと分ったら穴へでも入るんだっけ。お目にかかるのじゃなかったんです。しかし私が知らないで、二階から御覧なすっただけは、そりゃ仕方がない。」
「まだ、あんな事をおっしゃるよ。そうお疑いなさるんなら申しましょう。貴下あなた、このまあうららかな、樹も、草も、血があればくんでしょう。しゅの色した日の光にほかほかと、土も人膚ひとはだのようにあたたこうござんす。竹があっても暗くなく、花に陰もありません。燃えるようにちらちら咲いて、水へ散っても朱塗しゅぬりさかずきになってゆるゆる流れましょう。海も真蒼まっさおな酒のようで、空は、」
 と白いたなそこを、膝に仰向あおむけて打仰うちあおぎ、
「緑の油のよう。とろとろと、くもりもないのによどんでいて、夢を見ないかと勧めるようですわ。山の形もやわらかな天鵞絨びろうどの、ふっくりした括枕くくりまくらに似ています。そちこち陽炎かげろうや、糸遊いとゆうがたきしめた濃いたきもののようになびくでしょう。雲雀ひばりは鳴こうとしているんでしょう。うぐいすが、遠くの方で、低いところで、こちらにも里がある、楽しいよ、と鳴いています。何不足のない、申分もうしぶんのない、目をねむれば直ぐにうとうとと夢を見ますような、この春の日中ひなかなんでございますがね、貴下あなた、これをどうお考えなさいますえ。」
「どうと言って、」
 とことばに連れられた春のその日中ひなかから、ひとみ美女たおやめの姿にかえした。
貴下あなたは、どんなお心持がなさいますえ、」
「…………」
「おたのしみですか。」
「はあ、」
「おうれしゅうございますか。」
「はあ、」
「おにぎやかでございますか。」
貴女あなたは?」
「私は心持が悪いんでございます、ちょう貴下あなたのお姿を拝みました時のように、」
 と言いかけてと小さなといき、人質のかのステッキを、斜めに両手で膝へ取った。なさけの海にさおさす姿。思わず腕組をしてじっと見る。

「この春の日の日中ひなかの心持を申しますのは、夢をお話しするようで、何んとも口へ出しては言えませんのね。どうでしょう、このしんとしてさびしいことは。やっぱり、夢ににぎやかなところを見るようではござんすまいか。二歳ふたつ三歳みッつぐらいの時に、乳母うばの背中から見ました、祭礼おまつりの町のようにも思われます。
 何為なぜか、秋の暮より今、このほうが心細いんですもの。それでいて汗が出ます、汗じゃなくってこう、あの、暖かさで、心をしぼり出されるようですわ。苦しくもなく、せつなくもなく、血を絞られるようですわ。やわらかな木の葉のさきで、骨を抜かれますようではございませんか。こんな時には、はだとろけるのだって言いますが、私は何んだか、水になって、その溶けるのが消えてきそうで涙が出ます、涙だって、悲しいんじゃありません、そうかと言ってうれしいんでもありません。
 あの貴下あなたしかられて出る涙と慰められて出る涙とござんすのね。この春の日に出ますのは、その慰められて泣くんです。やっぱり悲しいんでしょうかねえ。おなじさびしさでも、秋の暮のは自然が寂しいので、春の日の寂しいのは、人が寂しいのではありませんか。
 ああって、田圃たんぼにちらほら見えます人も、秋のだと、しっかりして、てんでんが景色の寂しさに負けないように、張合はりあいを持っているんでしょう。見たところでも、しょんぼりしたあしにも気が入っているようですけれど、今しがたは、すっかりたましいを抜き取られて、ふわふわ浮き上って、あのまま、鳥か、蝶々ちょうちょうにでもなりそうですね。心細いようですね。
 あたたかい、やさしい、やわらかな、すなおな風にさそわれて、鼓草たんぽぽの花が、ふっと、綿わたになって消えるようにたましいがなりそうなんですもの。極楽というものが、アノたしかに目に見えて、そして死んでくと同一おなじ心持こころもちなんでしょう。
 楽しいと知りつつも、なさけない、心細い、頼りのない、悲しい事なんじゃありませんか。
 そして涙が出ますのは、悲しくって泣くんでしょうか、甘えて泣くんでしょうかねえ。
 私はずたずたに切られるようで、胸を掻きむしられるようで、そしてそれが痛くもかゆくもなく、日当りへ桃の花が、はらはらとこぼれるようで、長閑のどかで、うららかで、美しくって、それでいてさびしくって、雲のない空が頼りのないようで、緑の野が砂原すなはらのようで、前生ぜんせの事のようで、目の前の事のようで、心の内が言いたくッて、言われなくッて、じれッたくって、口惜くやしくッて、いらいらして、じりじりして、そのくせぼッとして、うっとりの底へ引込ひきこまれると申しますより、空へき上げられる塩梅あんばいの、何んとも言えない心持こころもちがして、それで寝ましたんですが、貴下あなた、」
 小雨こさめが晴れて日の照るよう、たちまうららかなおももちして、
「こう申してもやっぱりお気にさわりますか。貴下あなたのお姿を見て、心持が悪くなったと言いましたのを、まだ許しちゃ下さいませんか、おや、貴下あなたどうなさいましたの。」
 身動みじろぎもせず聞きんだ散策子の茫然ぼんやりとした目の前へ、紅白粉べにおしろいの烈しいながれまばゆい日の光でうずまいて、くるくると廻っていた。
「何んだか、私も変な心持になりました、ああ、」
 とてのひらで目を払って、
「で、そこでお休みになって、」
「はあ、」
「夢でも御覧になりましたか。」
 思わず口へ出したが、言い直した、余り唐突だしぬけ心付こころづいて、
「そういうお心持こころもちでうたたでもしましたら、どんな夢を見るでしょうな。」
「やっぱり、貴下あなたのお姿を見ますわ。」
「ええ、」
此処ここにこうやっておりますような。ほほほほ。」
 と言い知らずあでやかなものである。
「いや、串戯じょうだんはよして、その貴女あなた、恋しい、したわしい、そしてどうしても、もうえない、とお言いなすった、そのかたの事を御覧なさるでしょうね。」
「その貴下あなたた、」
いいえさ、」
 ここで顔を見合わせて、二人とも※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしっていた草を同時に棄てた。
「なるほど。しんとしたもんですね、どうでしょう、このしずかさは……」
 いただきの松の中では、しきり目白めじろさえずるのである。

「またこの橿原かしわばらというんですか、山のすそがすくすく出張でばって、大きな怪物ばけものの土地の神が海の方へ向って、天地に開いた口の、奥歯へ苗代田なわしろだ麦畠むぎばたけなどを、引銜ひっくわえた形に見えます。谷戸やとの方は、こう見たところ、何んの影もなく、春の日が行渡ゆきわたって、くもりがあればそれがかすみのような、長閑のどかな景色でいながら、何んだかいや心持こころもちの処ですね。」
 美女たおやめは身を震わして、何故なぜうれしそうに、
「ああ、貴下あなたもその(いやな心持)をおっしゃいましたよ。じゃ、もう私もそのお話をいたしましても差支さしつかえございませんのね。」
うございます。ははははは。」
 トちょっとあらたまった容子ようすをして、うしろ見られるおもむきで、その二階家にかいやの前からみち一畝ひとうねり、ひく藁屋わらやの、屋根にも葉にも一面の、椿つばきの花のくれないの中へ入って、菜畠なばたけわずかあらわれ、苗代田なわしろだでまた絶えて、遥かに山のすそみどりに添うて、濁った灰汁あくの色をなして、ゆったりと向うへ通じて、左右から突出つきでた山でとまる。橿原かしわばらの奥深く、あがるように低くかすみの立つあたり、背中合せが停車場ステイションで、その腹へ笛太鼓ふえたいこの、異様に響くめた。其処そこへ、遥かにひとみかよわせ、しばらく茫然ぼうぜんとした風情ふぜいであった。
「そうですねえ、はじめは、まあ、心持こころもち、あの辺からだろうと思うんですわ、声が聞えて来ましたのは、」
「何んの声です?」
「はあ、私がふせりまして、枕に髪をこすりつけて、もだえて、あせって、れて、つくづく口惜くやしくって、なさけなくって、身がしびれるような、骨が溶けるような、心持でいた時でした。先刻さっきの、あの雨の音、さあっと他愛たわいなくのきへかかって通りましたのが、ちょう彼処あすこあたりから降り出して来たように、寝ていて思われたのでございます。
 あの停車場ステイション囃子はやしの音に、何時いつか気を取られていて、それだからでしょう。今でも停車場ステイションの人ごみの上へだけは、こまかい雨がかかっているように思われますもの。まだ何処どこにか雨気あまけが残っておりますなら、向うのかすみの中でしょうと思いますよ。
 と、その細い、かすかな、空を通るかと思う雨の中に、図太い、底力そこぢからのある、そして、さびのついた塩辛声しおからごえを、腹の底から押出おしだして、
(ええ、ええ、ええ、うかがいます。お話はお馴染なじみの東京世渡草よわたりぐさ商人あきんど仮声こわいろ物真似ものまね。先ず神田辺かんだへんの事でござりまして、ええ、大家たいけ店前みせさきにござります。のしらしら明けに、小僧さんが門口かどぐちいておりますると、納豆なっとう、納豆――)
 と申して、なさけない調子になって、
(ええ、お御酒みきを頂きまして声が続きません、助けてっておくんなさい。)
 といやな声が、流れ星のように、尾をいて響くんでございますの。
 私は何んですか、悚然ぞっとして寝床に足を縮めました。しばらくして、またその(ええ、ええ、)という変な声が聞えるんです。今度はちっと近くなって。
 それから段々あの橿原かしわばらうちを向い合いに、飛び飛びに、千鳥ちどりにかけて一軒一軒、何処どこでもおなじことを同一おなじところまで言って、おあしをねだりますんでございますがね、あたたかい、ねんばりした雨も、その門附かどづけの足と一緒に、向うへ寄ったり、こっちへよったり、ゆるゆる歩行あるいて来ますようです。
 その納豆納豆――というのだの、東京というのですの、店前みせさきだの、小僧が門口かどぐちを掃いているところだと申しますのが、何んだかなつかしい、両親の事や、生れました処なんぞ、昔が思い出されまして、身体からだを煮られるような心持がして我慢が出来ないで、掻巻かいまきえりいついて、しっかり胸をいて、そして恍惚うっとりとなっておりますと、やがて、と強く雨が来て当ります時、うちかどへ参ったのでございます。
(ええ、ええ、ええ、)
 と言い出すじゃございませんか。
(お話はお馴染なじみの東京世渡草よわたりぐさ商人あきんど仮声こわいろ物真似ものまね。先ず神田辺かんだへんの事でござりまして、ええ、大家たいけの店さきでござります。のしらしらあけに、小僧さんが門口かどぐちを掃いておりますと、納豆納豆――)
 とだけ申して、
(ええ、お御酒みきを頂きまして声が続きません、助けてっておくんなさい。)
 と一りんおなじことを、おなじ調子でいうんですもの。私のかどへ来ましたまでに、遠くからちょうど十三たび聞いたのでございます。」

「女中が直ぐに出なかったんです。
(ねえ、助けておくんなさいな、お御酒みきを頂いたもんだからね、声が続かねえんで、えへ、えへ、)
 いやせきなんぞして、
っておくんなさいよ、飲み過ぎてせつねえんで、助けておくんなさい、おねげえだ。)
 と言って独言ひとりごとのように、貴下あなた
きれねえや、)ッて、いけ太々ふとぶとしい容子ようすったらないんですもの。其処そこらへ、べッべッつばをしっかけていそうですわ。
 小銭こぜにの音をちゃらちゃらとさして、女中が出そうにしましたから、
みつかい、光や、)
 と呼んで、二階のあがり口へ来ましたのを、押留おしとめるように、とこの中から、
(何んだね、)
 と自分でも尖々とげとげしく言ったんです。
門附かどづけでございます。)
芸人げいにんかい!)
(はい、)
 ッて吃驚びっくりしていました。
不可いけないよ、っちゃ不可いけない。
 芸人なら芸人らしく芸をしておあしをお取り、とそうお言い。出来ないなら出来ないと言って乞食こじきをおし。なぜまた自分の芸が出来ないほど酒を呑んだ、と言っており。いけ洒亜々々しゃあしゃあ失礼じゃないか。)
 とむらむらとして、どうしたんですか、じりじり胸が煮え返るようでめつけますと、そっ跫音あしおとを忍んで、みつやは、二階を下りましたっけ。
 おはずかしゅうございますわ。
 甲高かんだかかったそうで、よく下まで聞えたと見えます。表二階おもてにかいにいたんですから。
(何んだって、)
 と門口かどぐちってかかるような声がしました。
 枕をおさえて起上おきあがりますと、女中の声で、御病気なんだからと、こそこそいうのが聞えました。
 あざけるように、
(病人なら病人らしく死んじまえ。なおるもんなら治ったらかろう。何んだって愚図ぐずついて、わずらっているんだ。)
 と赭顔あからがおなのが白い歯をき出していうようです。はあ、そんな心持がしましたの。
(おお、死んで見せようか、死ぬのが何も、)とつっと立つと、ふらふらしてとこはなれて倒れました。段へ、すそを投げ出して、欄干らんかんにつかまった時、雨がさっと暗くなって、私はひとりで泣いたんです。それッきり、声も聞えなくなって、門附かどづけ何処どこへ参りましたか。雨も上って、またあかるい日が当りました。何んですかねえ、十文字に小児こども引背負ひっしょって跣足はだし歩行あるいている、四十恰好かっこうの、巌乗がんじょうな、絵にいた、赤鬼あかおにと言った形のもののように、今こうやってお話をしますうちも考えられます。女中に聞いたのでもございませんのに――
 またもう寝床へ倒れッきりになりましょうかとも存じましたけれども、そうしたら気でも違いそうですから、ぶらぶら日向ひなたへ出て来たんでございます。
 いいえ、はじめてお目にかかりました貴下あなたに、こんなお話を申上げまして、もう気が違っておりますのかも分りませんが、」
 と言いかけて、心をめて見詰めたらしい、目の色は美しかった。
貴下あなた真個ほんとうに未来というものはありますものでございましょうか知ら。」
「…………」
「もしあるものときまりますなら、地獄でも極楽でも構いません。逢いたい人が其処そこにいるんなら。さっさと其処へけばよろしいんですけれども、」
 と土筆つくしのたけのゆびしろう、またうつつなげに草をみ、摘み、
「きっとそうときまりませんから、もしか、死んでそれっきりになってはなさけないんですもの。そのくらいなら、生きていて思い悩んで、わずらって、段々消えてきます方が、いくらかましだと思います。忘れないで、何時いつまでも、何時までも、」
 と言い言い抜き取った草の葉をキリキリと白歯しろはんだ。
 トタンにあわただしく、男の膝越ひざごしとのばしたそでの色も、帯の影も、緑の中に濃くなって、活々いきいきとして蓮葉はすはなものいい。
「いけないわ、人の悪い。」
 散策子は答えにきゅうして、実は草の上に位置も構わず投出なげだされた、オリイブ色の上表紙うわびょうしに、とき色のリボンで封のある、ノオトブックを、つまさぐっていたのを見たので。

「こっちへ下さいよ、いやですよ。」
 とはしへかけた手を手帳に控えて、麦畠むぎばたけ真正面まっしょうめん。話をわきへずらそうと、青天白日せいてんはくじつに身構えつつ、
「歌がお出来なさいましたか。」
「ほほほほ、」
 とただ笑う。
「絵をおきになるんですか。」
「ほほほほ。」
「結構ですな、お楽しみですね、と拝見いたしたいもんです。」
 手をはなしたが、附着くッついた肩も退けないで、
「お見せ申しましょうかね。」
 あどけないさまで笑いながら、持直もちなおしてぱらぱらと男の帯のあたりへ開く。手帳の枚頁ページは、この人の手にあたかも蝶のつばさを重ねたようであったが、鉛筆でいたのは……
 一目ひとめ見て散策子はあおくなった。
 大小濃薄のうはく乱雑に、なかばかきさしたのもあり、ゆがんだのもあり、震えたのもあり、やめたのもあるが、まるしかくさんかくばかり。
「ね、上手じょうずでしょう。此処等ここいらの人たちは、貴下あなた玉脇たまわきでは、絵をくと申しますとさ。この土手へ出ちゃ、何時いつまでもこうしていますのに、ただいては、谷戸口やとぐちの番人のようでおかしゅうござんすから、いつかッからはじめたんですわ。
 大層評判がよろしゅうございますから……なんですよ、この頃に絵具えのぐ持出もちだして、草の上で風流の店びらきをしようと思います、大した写生じゃありませんか。
 このまるいのが海、この三角が山、この四角しかくいのが田圃たんぼだと思えばそれでもようござんす。それからまるい顔にして、しかくい胴にしてさんかくに坐っている、今戸焼いまどやき姉様あねさんだと思えばそれでもうございます、はかま穿いた殿様だと思えばそれでもいでしょう。
 それから……水中に物あり、筆者に問えば知らずと答うと、高慢な顔色かおつきをしてもいんですし、名を知らない死んだ人の戒名かいみょうだと思っておがんでもいんですよ。」
 ようよう声が出て、
戒名かいみょう、」
 と口が利ける。
なに、何んというんです。」
四角院円々三角居士しかくいんまるまるさんかくこじと、」
 いいながら土手に胸をつけて、そでを草に、太脛ふくらはぎのあたりまで、友染ゆうぜん敷乱しきみだして、すらりと片足片褄かたづまを泳がせながら、こううち掻込かきこむようにして、鉛筆ですらすらとその三体さんたいの秘密をしるした。
 テンテンカラ、テンカラと、耳許みみもと太鼓たいこの音。二人のほかに人のない世ではない。アノ椿つばきの、燃え落ちるように、向うの茅屋かややへ、続いてぼたぼたとあふれたと思うと、菜種なたねみちを葉がくれに、真黄色まっきいろな花の上へ、ひらりといろどって出たものがある。
 茅屋かややの軒へ、にわとりが二羽舞上まいあがったのかと思った。
 二個ふたつかしら獅子頭ししがしら、高いのと低いのと、あとになり先になり、もつれる、狂う、花すれ、葉ずれ、菜種に、と見るとやがて、足許あしもとからそなたへ続く青麦のはたけの端、玉脇の門の前へ、出て来た連獅子れんじし
 汚れた萌黄もえぎ裁着たッつけに、泥草鞋どろわらじの乾いたほこりも、かすみが麦にかかるよう、こころざして何処どこく。はやその太鼓を打留うちやめて、急足いそぎあしに近づいた。いずれも子獅子の角兵衛かくべえ大小だいしょう。小さい方は八ツばかり、上は十三―四と見えたが、すぐに久能谷くのやの出口を突切つッきり、紅白の牡丹ぼたんの花、はっとおもかげに立つばかり、ひらりと前をき過ぎる。
「お待ちちょいと、」
 と声をかけた美女たおやめ起直おきなおった。今の姿をそのままに、雪駄せったは獅子の蝶に飛ばして、土手の草に横坐よこずわりになる。
 ト獅子はくれないきれさばいて、二つとも、立ってかしらを向けた。
「ああ、あの、たち、お待ちなね。」
 テンテンテン、(大きい方が)トンと当てると、太鼓のおもばちが飛んで、ぶるぶるとこまかおどる。
「アリャ」
 小獅子はみちへ橋にった、のけざまあぎとふっくりと、ふたかわこうちょうして、口許くちもと可愛かわいらしい、色の白いであった。

「おほほほ、大層勉強するわねえ、まあ、お待ちよ。あれさ、そんなに苦しい思いをしてひっくりかえらなくってもいんだよ、可いんだよ。」
 とおさえつけるようにいうと、ぴょいと立直たちなおってかしらうずたかく大きく突出つきでた、くれないの花のひさしの下に、くるッとした目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって立った。
 ブルブルッと、あとを引いて太鼓がむ。
 美女たおやめは膝をずらしながら、帯に手をかけて、り上げたが、
「お待ちよ、今おあしあげるからね、」
 手帳の紙へはしりがきして、一枚手許てもと引切ひききった、そのまま獅子をさし招いて、
「おいでおいで、ああ、お前ね、これを持って、そのかどの二階家へ行って取っておいで。」
 留守へ言いつけた為替かわせと見える。
 後馳おくればせに散策子はたもとへ手を突込つきこんで、
こまかいのならありますよ。」
いいえうござんすよ、さあ、あにや、行って来な。」
 ばちを片手でひッつかむと、恐る恐る差出さしだした手を素疾すばや引込ひっこめ、とさかをはらりと振ってく。
「さあ、お前こっちへおいで、」
 小さな方を膝許ひざもとへ。
 きょとんとして、ものも言わず、棒を呑んだ人形のような顔を、じっと見て、
幾歳いくつなの、」
八歳やッつでごぜえス。」
おっかさんはないの、」
「角兵衛に、そんなものがあるもんか。」
「お前は知らないでもね、母様おっかさんの方は知ってるかも知れないよ、」
 とと手を袴越はかまごしに白くかける、とぐいと引寄ひきよせて、横抱きに抱くと、獅子頭ししがしらはばくりと仰向あおむけに地を払って、草鞋わらんじは高くった。とりはねかざりには、椰子やしの葉を吹く風が渡る。
貴下あなた、」
 と落着おちついて見返って、
「私のかも知れないんですよ。」
 トタンに、つるりとかいなすべって、獅子は、さかさにトンと返って、ぶるぶると身体からだをふったが、けろりとして突立つッたった。
「えへへへへへ、」
 此処ここいきおいよく兄獅子が引返ひきかえして、
「頂いたい、頂いたい。」
 二つばかり天窓あたまったが、小さい方の背中を突いて、テンとまたばちを当てる。
いよ、そんなことをしなくっても、」
 ともすそをずりおろすようにしてめた顔と、まだつかんだままのおおきな銀貨とをたがい見較みくらべ、二個ふたりともとぼんとする。時に朱盆しゅぼんの口を開いて、まなこかがやかすものは何。
「そのかわり、ことづけたいものがあるんだよ、待っておくれ。」
 とその○□△を楽書らくがきの余白へ、鉛筆を真直まっすぐに取ってすらすらと春の水のなびくさまに走らした仮名かなは、かくれもなく、散策子に読得よみえられた。
君とまたみるめおひせば四方よもうみ
水の底をもかつき見てまし
 散策子は思わず海のかたきっと見た。波はたいらかである。青麦につづく紺青こんじょうの、水平線上ゆき一山いっさん
 富士の影がなぎさを打って、ひたひたと薄くかぶさる、藍色あいいろの西洋館のむねたかく、二、三羽はとはねをのして、ゆるく手巾ハンケチり動かすさまであった。
 小さくたたんで、おさない方の手にその(ことづけ)を渡すと、ふッくりしたおとがいで、合点々々がてんがてんをすると見えたが、いきなり二階家の方へこうとした。
 使つかいを頼まれたと思ったらしい。
「おい、そっちへくんじゃない。」
 と立入たちいったが声を懸けた。
 美女たおやめ莞爾にっこりして、
ただ持って行ってくれればいの、何処どこへッてあてはないの。落したら其処そこでよし、失くしたらそれッきりでいいんだから……ただ心持こころもちだけなんだから……」
「じゃ、ただ持って行きゃいのかね、奥さん、」
 と聞いてうなずくのを見て、年紀上としうえだけに心得顔こころえがおで、あぶなっかしそうに仰向あおむいて吃驚びっくりしたふうでいる幼い方の、獅子頭ししがしら背後うしろへ引いて、
「こん中へ入れとくだア、やっこ、大事にして持ッとんねえよ。」
 獅子が並んでお辞儀じぎをすると、すたすたと駈け出した。後白浪あとしらなみに海のかたくれない母衣ほろ翩翻へんぽんとして、青麦の根にかすく。

 さて半時ばかりの後、散策子の姿は、一人、彼処かしこから鳩の舞うのを見た、浜辺の藍色あいいろの西洋館のかたわらなる、砂山の上にあらわれた。
 其処そこへ来ると、浪打際なみうちぎわまでもかないで、いた草臥くたびれたさまで、ぐッたりと先ず足を投げて腰をおろす。どれ、貴女あなたのために(ことづけ)の行方ゆくえを見届けましょう。連獅子れんじしのあとを追って、というのをしおに、まだ我儘わがままが言い足りず、話相手の欲しかったらしい美女びじょに辞して、たもとを分ったが、獅子の飛ぶのに足の続くわけはない。
 一先ひとまず帰宅して寝転ぼうと思ったのであるが、久能谷くのやを離れて街道を見ると、人の瀬を造って、停車場ステイション押懸おしかけるおびただしさ。中にはもう此処等ここいらから仮声こわいろをつかって壮佼わかものがある、浅黄あさぎ襦袢じゅばん膚脱はだぬいく女房がある、その演劇しばいの恐しさ。大江山おおえやまの段か何か知らず、とても町へは寄附よりつかれたものではない。
 で、路と一緒に、人通ひとどおりの横を切って、田圃たんぼを抜けて来たのである。
 正面にくぎり正しい、雪白せっぱくかすみを召した山の女王にょおうのましますばかり。見渡す限り海の色。浜に引上げた船や、びくや、馬秣まぐさのようにちらばったかじめの如き、いずれも海に対して、われがおをするのではないから、もとより馴れた目をさえぎりはせぬ。
 かつひと一人ひとりいなければ、真昼の様な月夜とも想われよう。長閑のどかさはしかし野にも山にもまさって、あらゆる白砂はくさおもかげは、あたたかい霧に似ている。
 鳩は蒼空あおぞらを舞うのである。ゆったりしたなみにもさそわれず、風にも乗らず、同一処おなじところを――その友はやかたの中に、ことこととねぐらを踏んで、くくとく。
 人はこういうところに、こうしていても、胸の雲霧くもきりれぬ事は、られぬふすま相違そういはない。
 いたずらに砂を握れば、くぼみもせず、高くもならず、他愛たわいなくほろほろと崩れると、またかたわらからもり添える。水をつかむようなもので、さぐればはらはらとただ貝が出る。
 なぎさには敷満しきみちたが、何んにも見えない処でも、わずかに砂を分ければ貝がある。まだこの他に、何が住んでいようも知れぬ。手の届く近い処がそうである。
 水の底を捜したら、かれがためにこがれじにをしたと言う、久能谷くのや庵室あんじつの客も、其処そこに健在であろうも知れぬ。
 いな、健在ならばという心で、君とそのみるめおひせば四方よもの海の、水の底へもくぐろうと、(ことづけ)をしたのであろう。
 この歌は、平安朝に艶名えんめい一世いっせあっした、かりけるわらべあおをかりて、あをかりしより思ひそめてき、とあこがれたなさけに感じて、奥へと言ひて呼び入れけるとなむ……名媛めいえんの作と思う。
 言うまでもないが、手帳にこれをしるした人は、御堂みどうの柱に、うたたの歌を楽書らくがきしたとおなじ玉脇の妻、みを子である。
 深く考うるまでもなく、いおりの客と玉脇の妻との間には、不可思議の感応で、夢のちぎりがあったらしい。
 男は真先まっさき世間外せけんがいに、はた世間のあるのを知って、空想をして実現せしめんがために、身をってただちに幽冥ゆうめいおもむいたもののようであるが、婦人おんなはまだ半信半疑でいるのは、それとなく胸中の鬱悶うつもんらした、未来があるものとさだまり、霊魂の行末ゆくすえきまったら、直ぐにあとを追おうと言った、ことばはしにもあらわれていた。
 ただその有耶無耶うやむやであるために、男のあとを追いもならず、生長いきながらえるかいもないので。
 そぞろに門附かどづけを怪しんで、冥土めいど使つかいのように感じた如きは幾分か心が乱れている。意気張いきばりずくで死んで見せように到っては、益々ますます悩乱のうらんのほどが思いられる。
 また一面から見れば、門附かどづけ談話はなしの中に、神田辺かんだへんの店で、江戸紫えどむらさきの夜あけがた、小僧がかどいている、納豆なっとうの声がした……のは、その人が生涯の東雲頃しののめごろであったかも知れぬ。――やがて暴風雨あらしとなったが――
 とにかく、(ことづけ)はどうなろう。玉脇の妻は、もって未来の有無をうらなおうとしたらしかったに――頭陀袋ずだぶくろにも納めず、帯にもつけず、たもとにも入れず、角兵衛がその獅子頭ししがしらの中に、封じて去ったのも気懸きがかりになる。為替かわせしてきらめくものをつかませて、のッつッつの苦患くげんを見せない、上花主じょうとくいのために、商売冥利みょうり随一ずいいち大切なところへ、偶然受取うけとって行ったのであろうけれども。
 あれがもし、鳥にでもさらわれたら、思う人は虚空こくうにあり、と信じて、夫人は羽化うかして飛ぶであろうか。いやいや羊が食うまでも、角兵衛は再び引返ひきかえしてその音信おとずれは伝えまい。
 従って砂を崩せば、従って手にたまった、色々の貝殻にフト目をめて、
君とまたみるおひせば四方よもうみの……
と我にもあらず口ずさんだ。
 更に答えぬ。
 もしまたうつせがいが、大いなる水の心を語り得るなら、渚に敷いた、いささがいの花吹雪は、いつも私語ささやきを絶えせぬだろうに。されば幼児おさなごが拾っても、われらが砂から掘り出しても、このものいわぬは同一おなじである。
 小貝こがいをそこで捨てた。
 そうして横ざまに砂に倒れた。腰の下はすぐになだれたけれども、すべり落ちてもうもれはせぬ。
 しばらくして、その半眼はんがんに閉じた目は、斜めに鳴鶴なきつるさきまで線を引いて、その半ばと思う点へ、ひらひらと燃え立つような、不知火しらぬいにはっきり覚めた。
 とそれは獅子頭ししがしら母衣ほろであった。
 二人とも出て来た。浜は鳴鶴ヶ岬から、小坪こつぼがけまで、人影一ツ見えぬところへ。
 停車場ステイション演劇しばいがある、町も村も引っぷるってたれが角兵衛に取合とりあおう。あわれ人の中のぼうふらのようなせわしい稼業のたち、今日はおのずからかんなのである。
 二人は此処ここでもあとになり先になり、脚絆きゃはんの足を入れ違いに、かしらを組んで白波しらなみかつぐばかり浪打際なみうちぎわ歩行あるいたが、やがてその大きい方は、五、六尺なぎさはなれて、日影の如く散乱ちりみだれた、かじめの中へ、草鞋わらじ突出つきだして休んだ。
 小獅子は一層活溌かっぱつに、と浪を追う、さっと追われる。その光景、ひとえに人のたわむれるようには見えず、かつて孤児院の児が此処ここに来て、一種の監督の下に、遊んだのを見たが、それとひとつで、浮世の浪にみ立てられるかといじらしい。ただそのかしらの獅子が怒り狂って、たけり戦ういきおいである。
 かつではい!
 ト草鞋わらじを脱いで、跣足はだしになって横歩行よこあるきをしはじめた。あしを濡らして遊んでいる。
 大きい方は仰向あおむけに母衣ほろを敷いて、膝を小さな山形に寝た。
 いそを横ッとびの時は、その草鞋わらじを脱いだばかりであったが、やがて脚絆きゃはんを取って、膝まで入って、静かに立っていたと思うと、引返ひきかえしてはかまを脱いで、今度は衣類きものをまくって腰までつかって、二、三度そっしおをはねたが、またちょこちょこと取って返して、かしら刎退はねのけ、衣類きものを脱いで、丸裸になって一文字に飛込とびこんだ。陽気はそれでもかったが、泳ぎは知らぬと見える。ただいきおいよく、水を逆にね返した。手でなぐって、足で踏むを、海水は稲妻いなずまのように幼児おさなごを包んでその左右へ飛んだ。――しずくばかりの音もせず――獅子はひとえに嬰児みどりごになった、白光びゃくこうかしらで、緑波りょくはは胸をいだいた。何らの寵児ちょうじぞ、天地あめつちの大きなたらい産湯うぶゆを浴びるよ。
 散策子はむくと起きて、ひそかにその幸福を祝するのであった。
 あとで聞くと、小児心こどもごころにもあまりのうれしさに、この一幅いっぷくの春の海に対して、報恩ほうおんこころざしであったという。一旦いったん出て、浜へ上って、寝た獅子の肩のところへしゃがんでいたが、対手あいて起返おきかえると、濡れた身体からだに、かしらだけ取って獅子をかついだ。
 それから更に水に入った。出過ですぎたと思うほど、分けられた波のあしは、二線ふたすじ長く広く尾を引いて、小獅子の姿は伊豆いずの岬に、ちょと小さな点になった。
 浜にいるのが胡坐あぐらかいたと思うと、テン、テン、テンテンツツテンテンテン波にちょう打込うちこむ太鼓、油のような海面うなづらへ、あやを流して、響くと同時に、水の中に立ったのが、一曲、かしらさかさまに。
 これにめくるめいたものであろう、※(「口+阿」、第4水準2-4-5)あないまわし、よみじの(ことづけ)をめたる獅子を、と見る内に、幼児おさなごは見えなくなった。
 まだ浮ばぬ。
 太鼓がんで、浜なるは棒立ちになった。
 砂山をあわただしく一文字に駈けて、こなたがちかづいた時、どうしたのか、脱ぎ捨てたはかま、着物、脚絆きゃはん、海草のからびたさまの、あらゆる記念かたみと一緒に、太鼓も泥草鞋どろわらじひとまとめにひっかかえて、大きなかれは、砂煙すなけむりを上げて町のかた一散いっさんげたのである。
 なみはのたりと打つ。
 ハヤ二、三人駈けて来たが、いずれも高声たかごえの大笑い、
「馬鹿な奴だ。」
「馬鹿野郎。」
 ポクポクと来た巡査に、散策子が、すがりつくようにして、一言ひとこというと、
「角兵衛が、ははは、そうじゃそうで。」
 死骸しがいはその日終日ひねもす見当らなかったが、翌日しらしらあけの引潮ひきしおに、去年の夏、庵室あんじつの客が溺れたとおなじ鳴鶴なきつるさきの岩にあがった時は二人であった。顔がたまのような乳房ちぶさにくッついて、緋母衣ひほろがびっしょり、その雪のかいなにからんで、一人はにしてえんであった。玉脇の妻は霊魂れいこん行方ゆくえが分ったのであろう。
 さらば、といって、土手の下で、分れぎわに、やや遠ざかって、見返った時――その紫の深張ふかばりを帯のあたりで横にして、少し打傾うちかたむいて、黒髪くろかみかしらおもげに見送っていた姿を忘れぬ。どんなにうしおに乱れたろう。なぎさの砂は、崩しても、積る、くぼめば、たまる、音もせぬ。ただ美しい骨が出る。貝の色は、日のくれない、渚の雪、なみの緑。

底本:「春昼・春昼後刻」岩波文庫
   1987(昭和62)年4月16日第1刷発行
   1999(平成11)年7月5日第19刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十卷」岩波書店
   1940(昭和15)年5月
初出:「新小説」
   1906(明治39)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※章番号は「春昼」から連続しています。
入力:小林繁雄
校正:平野彩子、土屋隆
2006年7月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。