私が、本当に他人の手から離れ、全くの独立で木彫りを家業として始めたのはこの時からであります。されば、自然と私の心も爽々しく、腕もまた、鳴るように思われたが、仏師の仕事は前申す通り全く疲弊していることとて、木彫りの仕事は一向にない。注文がさらにありません。これには私も大いに困じ果てました。
ところが、木彫りがこんなに微々として振わぬに反して、象牙彫りは実に盛んになって来ました。この時分は、正に、牙彫り全盛時代といってもよろしい位、ちょうど、それは西洋人の趣味嗜好に投じ、横浜貿易の貿易品にそっくり適ったのでありますから、それはまことに素晴らしい勢いとなった。つまり、象牙彫りは見る通り、美しくて可愛らしく、それになかなか精巧な細工が出来て、大人の玩弄には持って来いのように出来ているものであるから、西洋人の眼にそれが珍奇に見えて購買慾をそそられたのは道理のことと思われる。
けれども、まだ、明治八、九年の頃は牙彫りの流行も微々たるもので、根附師が二寸か三寸位の大きさのものを彫っていた位、もっとも材料に制限があることとて、三寸か三寸五分位の大きさが頂上で、五寸とあるのはなかなか無かった。それは、象牙木地は大部分は三味線の撥に取って、その後の三角木地を根附師が使ったものであるからである。で、十年の博覧会に出品された象牙彫りの作品もかなりはあったが、まだまだ大きさも小さなもの、図柄なども、貿易商人の好みのままに、乗合舟、鳥追、猿廻しなど在来の型の通りで、中には花見帰りの男が樽の尻を叩いて躍っている図などもあったが、一般にまだ極幼稚でありました。
しかるに、わずか三年位の間に、流行というものは恐ろしいもので(もっとも、これは外国貿易品で、欧米人の嗜好が基ではあるが)彫刻の世界は象牙で真ッ白になってしまいました。そうして外人の嗜好に一層投じようと、種々工夫を凝らすため、したがって大作と称するものが出来、七、八寸から一尺位象牙の木地一杯に作ってその出来栄を競ったもの、されば、その頃は、彫刻といえば象牙彫りのことのように思われ、木の代りに象牙が独り全盛を極め、明治十四年の博覧会の時などは、彫刻は全部象牙彫りで、「象牙にあらざれば彫刻にあらず」という勢いであった。
されば、従来、木彫家であった島村俊明氏なども世の好尚につれ、沢田(銀次郎)に勧められて牙彫りの方へ代ってしまいました(石川光明氏は最初より牙彫りをやった人で、当時の流行者の一人であった)。また本郷天神前に、旭玉山という牙彫家がいて弟子の五人十人も持ち、なかなか盛んであった。当時の物価の安い時分でも、一日の手間三円五十銭を得た位、師匠の作はもとより弟子たちの作でもドシドシ売れ捌けたものであった。それで、象牙商というものが、四、五軒も出来て大仕掛けに商売をしている。すべてこの調子で、象牙彫りは一世を圧倒するの勢いでありましたが、それに引き代え、木彫りは孤城落日の姿で、まことに散々な有様でありました。
されば、その頃、この流行を逆に行って、木彫りをやっているなどは、誠に気の利かない奴に相違なかったのであります。それに木彫りは破損しやすいが、象牙彫りは粘着力があって、しかも、見た目に美しく、何んとなく手の中へ入れて丸められるような可愛らしさがありますから、時流に適したは無理のないこと。需要の多いものを供給し、人の好むに投じて製作すれば、したがって収入多く、生計もたちまち豊かに、名声もまた高くなるのでありますが、私は、どうも、おかしな意地を持って、なかなかこの象牙彫りをやる気になれませんでした。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
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