万物おのづから声あり。万物自から声あれば自から又た楽調あり。蚯蚓みゝずは動物の中に於て醜にして且つ拙なるものなり。然れども夜深々窓に当りて断続の音をく時は、人をして造化の生物を理する妙機の驚ろくべきものあるを悟らしむ。自然は不調和の中に調和を置けり。悲哀の中に欣悦を置けり。欣悦の裡に悲哀を置けり。運命は人を脅かすなり、而して人を駆つて怯懦卑劣なる行為をなさしむるなり。情慾は人を誘ふなり、而して人を率ゐて我儘気随のものとなすなり。自然は広漠たる大海にして、人生は廷々てい/\たる浮島に似たり。風浪常時に四囲を襲ひ来りて、寧静ねいせいなる事は甚だ稀なり。四節は追はずして駿馬しゆんめの如くに奔馳ほんちし、草木の栄枯は輪なくして廻転する車の如し。自然は常変なり、須臾しゆゆも停滞することあるなし。自然は常動なり、須臾も寂静あることなし。自然は常為なり、須臾も無為あることなし。その変、その動、その為、各自一個の定法の上に立てり、而して又た根本の法ありて之を支配するを見る。淵に臨みて静かに水流の動静を察するに、行きたるものは必らずへる、反へれるものは必らず行く。若きもの必らず老ゆ、生あるもの必らず死す。苦あるものに楽あり、楽あるものに苦あり。造化は偏頗へんぱにして偏頗にあらず、私にして無私なり。差別の底に無差別あり。不平等の懐に平等あり。然り、造化の妙機は秘して其最奥にあるなり。人間の最奥なるところ、之を人間の空と言ひ、造化の最奥なるところ、之を造化の霊と言ふ。造化の最奥! 造化の霊! そこに大平等の理あるなり。そこに天地至妙の調和あるなり。人間はいかほどに卑しくつたなくありとも、天地至妙の調和は、之によりて毀損きそんせらるゝことなきなり。あはれ、この至妙の調和より、万物皆な或一種の声を放ちつゝあるにあらずや。
 形の醜美を見て直ちに其醜美を決するは、未だ美を判ずるの最後にあらず。外極めて醜なるものにして、内極めて美なるものあり。外極めて美にして、内極めて醜なるものあり。醜と美とをわかつは、必らずしも其形象に関はるにあらざるなり。形躰にあらはれたる醜美を断ずるは、独り眼眸がんぼうのみ。眼眸は未だ以て醜美を断ずる唯一の判官となすべきにあらず。鼓膜亦た関つて力あるべきものなり。否、否、眼眸も鼓膜も未だ以て真に醜美を判ずべきものにあらざるなり。およそ形の美は心の美より出づ。形は心の現象のみ。形を知るものは形なり、心を視るものは又た心ならざるべからず。造化はしき力を以て、万物に自からなる声を発せしむ、之を以ていさゝかその心を形状の外にあらはさしむ、之を以てその情を語らしめ、之を以てその意を言はしむ。無絃の大琴懸けて宇宙の中央にあり。万物の情、万物の心、こと/″\くこの大琴に触れざるはなく、悉くこの大琴の音とならざるはなし。情及び心、一々其軌を異にするが如しといへども、要するに琴の音色の異なるが如くに異なるのみにして、宇宙の中心に懸れる大琴の音たるに於ては、均しきなり。個々特々の悲苦及び悦楽、要するにこの大琴の一部分のみ。悲しき時は独り悲しむが如くなれども、然るにあらず、すべてのものゝ悲しむなり、喜ぶ時は独り喜ぶが如くなれども、然るにあらず、凡てのものゝ喜ぶなり、「自然」は万物に「私情」あるを許さず。私情をして大法の外にほしいまゝなる運行をなさしむることあるなし。私情の喜は故なきの喜なり、私情の悲は故なきの悲なり、彼の大琴に相渉るところなければ、根なきうきくさの海に漂ふが如きのみ。情及び心、個々特立して、而して個々その中心を以て、宇宙の大琴の中心につらなれり。海も陸も、山も水も、ひとしく我が心の一部分にして、我れも亦たかれの一部分なり。渠も我も何物かの一部分にして、帰するところ即ち一なり。四節の更迭かうてつは、少老盛衰の理と果して幾程の差違かあらむ。樹葉の凋落てうらくは老衰の末後と如何の異別かあらむ。花笑ふ時に我も笑ひ、花落つる時に我も落つ。実熟する時に我も熟し、実墜つる時に我も墜つ。渠を支配する引力の法は、即ち我を支配する引力の法なり。渠を支配する生命の法は、即ち我を支配する生命の法なり。渠と我との間に「自然」の前に立ちて甚しき相違あることなし。法は一なり。法にしたがふものも亦た一なり。法と法に順ふものとの関係も亦た一なり。情及び心、漠として捕捉すべきやうなき如き情及び心、渠も亦た法の中にあり、渠も亦た法の下にあり。法の重きこと、かくの如し。こゝに於て、凡ての声、情及び心の響なる凡ての声の一致を見る、高きも低きも、濁れるもめるも。然り、此の一致あり、この一致を観て後に多くの不一致を観ず、之れ詩人なり。この大平等、大無差別を観じて、而して後に多くの不平等と差別とを観ず、之れ詩人なり。天地を取つて一の美術となすは之を以てなり。あらゆる声を取つて音楽となすは之を以てなり。詩人の前には凡ての物、凡ての事、悉く之れ詩なるは之を以てなり。多くの不一致の中の一不一致を取り、多くの不平等の中の一不平等を取り、多くの差別の中の一差別を取り、而して之に恋着するを知つて、彼の大一致、大平等、大差別に悟入すること能はざるものは、未だ以て天地の大なる詩たるを知らざるものなり。難いかな、詩人の業や。
 道徳を論ずるの書は多し。宗教の名と其の教法を設くるものは多し。然れども道徳は、未だ人間をしてほしいまゝに製作せしむる程に低くならざるなり。宗教も亦た人間をして随意に料理せしむる程に卑しくならざるなり。道徳の底に一の道徳あり、宗教の底に一の宗教あるは、美術の底に一の美術あると相異なる所なからんか。要するにモーラリチーは一なるのみ。政治的に所謂いはゆる道徳なりとするところの者、例せば儒教の如きもの、未だ以てモーラリチーの本然とは言ふべからず。宗派的に所謂道徳なりとするところのもの、未だ以てモーラリチーの本然と言ふべからず。宗教の中の宗教とすべきは、その人性、人情に感応する所多きにあり。モーラリチーも亦た、然らんか。美術も亦た然らんか。畢竟ひつきやうするに宗教も美術も、人心の上に臨める大感化力なるに於ては、相異なるところあるなし。然れどもラスキンの言へる如く、美術は道義を円満にするの力を有すれども、宗教の如く道義を創作することは能はず。宗教の天啓たるが如く、美術も亦た一種の天啓なり。宗教の高尚なる使命を帯びたる如くに、美術も亦た高尚なる使命を帯べり。ヒユーマニチーは其の唯一の目的なり。無より有を出すにあらず。有を取りて之をまつたうするものなり。尤も劣等なる動物より尤も高等なる動物を作るにあらず、尤も高等なる動物をして、その高等なる所以ゆゑん自覚せしめ、その高等なる職分を成就せしむるにあり。宇宙の存在は微妙なる階級の上に立てり。一点之を傷くるあれば、必らずその責罰としての不調和あり。之れ即ち調和の中に、戦へる不調和の原意ヱレメンツある所以なり。微妙なる階級、微妙なる秩序、これありて万物悉く其の処を安んずるを得るなり。東に吹く風は再び西に吹き来る、気かわくところに雲自からあつまるなり、雲は雨となり、雨は雲となる、是等のもの一として宇宙の大調和の為に動くところの小不調和にあらざるはなし。ろづの事皆な空にして、法のみ独りじつなり、法のみ独り実にして、法にしたがふところの万物皆な実なるを得べし。自然は常変にして不変、常動にして不動、常為にして無為、法の眼に於て然り。
 宗教完全にして美術も亦た完全ならんか、美術と宗教と相距あひへだゝること数歩を出でざるなり。然れども宗教にしていつまでも乾燥なる神学的の論拠に立籠たてこもらんか、美術も亦た己がじゝなる方向に傾かんとするは、当然の勢なり。宗教の度と美術の度とは、殆ど一種の比例をなせり。一国民の美術は到底、その倫理の表象なり。野卑なる国民は卑野なる美術に甘んじ、高尚なる国民は高尚なる美術を求む、勇敢なる国民に勇武の物語出で、淫逸なる国民に淫逸なる史乗あり。畢竟するに、万物そのおのづからなる声をなして、而して美術はその声を具躰にしたるものに過ぎざれば、形は如何にありとも、その声の主なる心にして卑野なれば、美術も卑野ならざらんと欲して得べからざるは至当の理なり。宇宙の中心に無絃の大琴あり、すべての詩人はその傍に来りて、己が代表する国民の為に、己が育成せられたる社会の為に、百種千態の音を成すものなり。ヒユーマニチーの各種の変状は之によりて発露せらる。真実にして容飾なき人生の説明者はこの絃琴の下にありて、明々地あからさまにその至情を吐く、その声の悲しき、その声の楽しき、一々深く人心の奥を貫ぬけり。詩人は己れの為に生くるにあらず、己が囲まれるミステリーの為めに生れたるなり、その声は己れの声にあらず、己れを囲める小天地の声なり、渠は誘惑にも人に先んじ、迷路にも人におくるゝなし、渠は無言にして常に語り、無為にして常に為せり、渠を囲める小天地は悲をも悦をも、彼を通じて発露せざることなし、渠は神聖なる蓄音器なり、万物自然の声、渠に蓄へられて、而して渠が為に世に啓示せらる。秋の虫はその悲を詩人に伝へ、空の鳥は其自由を詩人に告ぐ。牢獄も詩人は之を辞せず、碧空も詩人は之を遠しとせず、天地は一の美術なり、詩人なくんば誰れか能く斯の妙機をひらきて、之を人間に語らんか。
(明治二十六年十月)

底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
   1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「評論 十四號」女學雜誌社
   1893(明治26)年10月7日
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2007年11月27日作成
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