私は現代の傾向を要約して「コンティティ」であると云ひたい。群衆と群集精神とは随所にはびこつて「クオリティ」を破壊しつつある。今や私どもの全生活――生産、政治、教育――は全く数と量との上に置かれてゐる。且て自己の作品の完全と質とにプライドを持つてゐた労働者は自己に対しては無価値に一般人類にとつては有害な多額の物品をいたずらに産出する無能の自働機械に変つてしまつた。かくして「量」は人生の慰藉と平和とを助くるに反し、唯だ人間の重荷を増加した。
 政治に於ては量以外に何物も省みられない。量の増加につれて、主義、理想、正義等はことごとく多数者の為に没却せられてしまふ。政治上の種々なる党派は常に虚偽と欺瞞と狡猾と陰謀をたくましうして相互の主権を争つてゐる。成功さへすれば勝利者として必ず多数者の歓迎を受ける――彼等は皆さう信じてゐる。成功――それのみが唯一の神。品性に対してどれ程恐しい価を払つてゐるかといふ事はまるで問題にもしてゐない。私どもは今更進んでこの悲しい事実を証拠立てる必要はない。
 政府の腐敗と堕落とがあばかれて今の様にはつきりと目前に示されたことはこれまでにないことである。数年の間、人民の権利自由の保護者と仰がれ、社会制度の本綱として全然誹難の外に立つてきた政府がか程迄にユダの如き性質を現はさうとは私どもの全く思ひ設けなかつたところである。
 かの党派の罪悪が次第に厚顔になつてきて盲人さへそれを見分けることが出来るやうになつた時、彼等は自党に対する阿諛あゆ追従者をしきりに召集するの必要に迫られた。しかしてその権勢は愈々いよいよ確立せられた。幾度となく欺かれ、裏切られ、蹂躙じゅうりんせられた犠牲者等はひたすら勝利者のためにのみ計つた。困惑せる少数者はこの時、亜米利加アメリカの自由はどうしてこの様に多数者のために裏切られたのであるか?と訊ねた。かくの如きことを敢へて行つた多数者の判断と推理力とは何処にあつたのであらう? 多数者には推理などいふことは出来ないのだ。判断などいうものは皆無なのだ――ただそれのみ。徹頭徹尾独創力と道義的勇気とを欠いてゐる多数者は常に自己の運命を他の手に托した。自己の責任を負ふて立つことが出来ない彼等は指導者の導くがままに奈落の淵にまでも追従せんとするのである。『われ等の中にあつて最も恐るべき真理と正義との敵は団結せる多数者である。呪はれたる群衆である』と叫んだストツクマンは正しかつた。およそ群衆の如く革新を憎むものはあるまい。彼等には新しき第一歩を踏み出す力もなければアンビシヨンもないのである。彼等は常に新しき真理の革新者、先駆者を弾劾し迫害し来つたのである。
 現代は個人主義の時代であり、少数者の時代であるとは全ての政治家、社会主義者を問はず一様に提唱し又屡々しばしば繰返される鯨波スローガンである。只だ浅薄皮層に止まる人々のみかくの如き見解によつて惑はされるかも知れない。如何にも少数者は世界の富を蓄積した。彼等は実に現代の主人であり、絶対の帝王である。然しながら彼等の成効は決して個人主義の影響によるものではない。否、全く群衆の怯懦と怠慢と絶対服従とに起因してゐるのである。群衆は只管ひたすら支配せられ、圧制せられ、指導せられんことをのみ求めてゐる。凡そ現代の如く個人主義がその完全な発想をなすの機会を失ひ、健全なる状態に於て自から肯定する事を得ざる時代は人類の歴史以来初めてのことなのではあるまいか。
 正直な目的のために没頭せる個人的特色ある教育家、独創的思想を抱く文学者及び芸術家、独立不覊ふきの科学者或は探究家、妥協せざる社会改良家――これ等の人々は老衰のため学識と創造力とを全く失つてしまつた人々によつて日々壁の一隅に押付けられてゐる。
 フエラア型の教育者(Francisco Ferrer――革命的教育家、一九〇九年九月一日、教権に反抗せりとの故をもつて西班牙スペイン政府の捕ふるところとなり、同十月十三日獄中にて銃殺せらる。――訳者)は現社会にあつては何処にも入れられないのである。衆愚と自働機械の時代に於てはかの俗流に媚ぶるエリオツト或はパツトラア教授の如き人々でなければ成功と永続とは覚束ないのである。文界及び劇界に於てもハンフレイ・ワアズ或はクライド・フイチエスの如きが群衆の偶像であるにひきかへ、エマアソン、トロウ、ホイツトマン、イブセン、イエツ、ステフエン・フイリツプスの如き天才の美を認識する者は極めて少数に過ぎない。彼等は群集地平線の遙かかなたに輝く孤独なる星辰である。
 出版業者、演劇主任、所謂いわゆる批評家等は創作に離るべからざる「質」を無視して、その売れ行きと俗受とをづ問題とする。悲しいかな、俗衆の口は塵芥箱ごみばこの如く、心力の咀嚼を要せざるもののみを受入れんとする。その結果として平凡陳腐なる作物のみが代表的作品として歓迎せられるのである。
 芸術界に於ても同一の悲しき事実に面することは改めて云ふまでもない。所謂芸術製造品の俗悪と醜さとが知りたければ公園や大通りを観察して歩けば直にわかることである。俗悪なる多数趣味以外になにものかかくの如き芸術の蹂躙を黙許することが出来よう。都市の随所に簇立せる銅像の類は悉く低級虚偽の作品のみであつて、真の芸術に比する時はあたかかもミケルアンヂエロの作物に対する土人の偶像であるかの如き観がある。然しそれ等が成功に価する唯一の芸術品である。社会の既成観念に囚はるることなく、自在に独創を発揮し、ひたすらライフに真実ならんと努力する芸術的天才は常に惨憺零落の生涯を送る。勿論彼の作物といえども何日か弥次馬の玩弄品となる時があるかも知れない。然しそれは少なくとも彼の心血が悉く注ぎ尽された後である。
 今日の芸術家はかのいにしえのブロメシヤスの如く絶へず経済的必迫の巖上に縛せらるるが故に自由なる創造に従事することが出来ないのであると一般に云はれてゐる。然しながらそれはいずれの時代を問はず常に真の芸術家に伴つてゐたことなのである。かのミケルアンヂエロすら保護者パトロンに依立してゐた。唯だ当時の芸術鑑識家は現代の盲目なる群衆とは遙かにその趣きを異にしてゐたのである。彼等は真に芸術の殿堂に参することを光栄と感じてゐた人々である。
 現代の芸術保護者はダラアといふ唯一つの標準、価値を知つてゐる。彼は傑作の真質に関して全く没交渉である。彼は芸術品のために支払はるる金の価にのみ重きを置く者である。かくしてミルポウの『商売は商売だ』中の財政家はある不明な画を指して「如何どうですこの傑作は、なんしろ五万フランですからな――」と云つた。現代成金の口吻そのままである。芸術品のために払はるる無意味の金嵩きんがさは彼等の貧弱なる趣味の埋合せをしなければならない。
 思想の独立といふことが又社会に於て最も許すべからざる罪になつてゐる。之が民主主義を標榜してゐる国に最も著しく現れてゐるといふことは甚だ意味深いことでなければならない。恐るべき多数者の力。
 ウエンデル・フイリツプスは五十年以前に云つた。『絶対民主平等のわが国では輿論は唯だに万能オムニポーテントである許りでなく、遍在オムニプレゼントでもある。輿論の暴戻ぼうれいから逃るべき道もなく隠るべき場所もない。仮令たとえ諸君がかの古の希臘ギリシア提燈ランタンを携へて探しまはつても、世間の評判によつて自己の社会上の位置や仕事の上に何等の利害得失を蒙らない人を見付出すことは不可能であらう。吾人は自己の確信を臆することなく吐露する個人の集団ではなく、他の国民に比して極めて臆病なる群衆である。吾人は相互に恐れ合つてゐるのである。』これによつて見ると現代はかのウエンデル・フイリツプスを障げた当時の状態から幾許も進んではゐないのである。
 今日もかの当時に於ける輿論は遍在せる暴君である。現代の多数者は臆病者の群集を代表し、自己の心霊の貧弱を遺憾なく映ずる人間を喜んで歓迎してゐる。それはかのルウズベルトの如き人間が前例になき程の位置を得てゐるのでも解かる。彼は群衆心理の最悪なる要素を体現してゐる。彼は多数者が理想と純潔とを無視してゐるといふことをよく知りぬいてゐる政治家である。群衆の欲求するものは見世物である。それが犬芝居であらうが、懸賞決闘であらうが、黒奴の私刑リンチであらうが、結婚披露であらうがかまはない。精神顛倒が恐しければ恐しい程、群衆の歓喜と称讚とが激烈になるのである。かくして貧弱なる理想と俗悪なる精神とを有するルウズヴエルトの如き人間が時代の寵児として名誉を博するに至るのである。
 然るに一方にあつて、かくの如き政治上の小人の上に高く位する教養あり真に才能ある人々が懦夫だふとして嘲弄せられてゐる。現代を個人主義全盛の時代であると主張するが如きは極めて滑稽である。現代は歴史上に繰返される全ての現象中の最も有害なるものである。宗教と云はず、政治経済上の自由と云はず、人類の進歩に対する全ての努力は悉く少数者より発生するのである。而して今日に於てもなほ少数者はたへず誤解せられ、迫害せられ投獄せられ、或は殺戮せられてゐるではないか。
 ナザレの叛逆者によつて説かれたる同胞主義はそれが少数者の光明である間は生命、真理、正義の芽を保存してゐた。然しながら多数者がそれを捉へた瞬間、その偉大なる主義は一種の符諜となり、到る処に苦痛と災厄とを伝播する血と火の先駆者となつた。カルヴイン、ルウテル等の巨人が羅馬ローマの万能に対する攻撃は夜の暗黒に輝く旭日の如くであつた。然しながらルウテルとカルヴインが政治家と変じ貴族並びに群集精神に呼応し初むると同時に彼等は改革の本旨を危地に陥れた。彼等は多数者の味方を得て遂に成功した。けれどもその多数者はかの旧教の怪物モンスタアと同じく理想と理性に対する残酷な迫害者であつた。群集の輿論の前に低頭せざる少数異端者は禍なるかな。不断の熱誠と忍耐と犠牲によつて人心は遂に宗教的妄想より覚醒し、初めて自由なることを得るのである。少数者は新なる勝利の前途に猛進する。然るに年と共に虚偽に変りゆく真理を背負ふ多数者は疲れたる歩みを常にひきづツてゐるのである。
 王者及び圧制者の権力に反抗して一歩一歩自己勝算の道を踏みしめつゝ悪戦するジヨン・ボール、ワツト・テイラア、テルの如き巨人等が沢山出て来なければ人類は永久に絶対的奴隷状態を脱することは至難であらう。個人的先駆者の力によらなければかの仏蘭西フランス革命の巨濤も遂に社会をその根底から震憾させることは出来なかつたであらう。大事は常に小事によつて先立たれてゐる。かくてカミイル・デスモリンの熱烈なる雄弁はバスチル牢獄と苛酷なる政治とあらゆる伝習とを顛覆するエリコの前の喇叭ラッパであつた。
 如何なる時代に於ても少数者は常に偉大なる思想と自由の旗幟きしを真先に翻がへすのである。鉛の如く縛されたる群衆は何事をもなし得ない。この事実は露西亜ロシアに於て最も力強く証明せられた。数千の生命は血政のために犠牲となつた。しかもかの玉座の怪物は依然として滅ぼされない。最深最善の情緒が鉄のくびきの下に呻吟しつつある時、如何して文学、教養、思想の発達進歩を見ることが出来やう? かの惰眠を貪る不活溌愚昧の露西亜農民は言語に絶する悲惨、闘争、犠牲の一世紀を経たる後もなほ『白き手の人々』を絞殺せる縄は幸運の御咒おまじないになると信じてゐるのである。
 亜米利加に於ける自由獲得の歴史に於ても多数者は常にその障碍しょうがいである。今日に於てもなほジヤフアソン、パトリツク・ヘンリイ、トーマス・ペイン等の思想は後世のために拒否せられ、或は売られてゐる。群衆にとつてかかる思想は無用なのである。リンコルンの偉大と勇気とは当時の背景を創造した人々に於ては全く忘れられてゐる。黒人の真の保護者はボストン、ロイド・ガリゾン、ウエンデル・フイリツプス、トロウ、マアガレツト・フラア、セオドル・パアカア等の少数者によつて代表せられた。その人々の不屈なる勇気は巨人ジヨン・ブラウンとなつて現はれた。彼等の不撓なる熱心と雄弁と忍耐とは遂に南方領主の要塞を顛覆した。リンコルン及び彼の徒は奴隷廃止が実行となつて現はれ、万人によつて承認せられた時、始て運動に従事したのである。
 約五十年以前、彗星の如き思想は世界の社会的地平線上に現出した、其思想は全世界の圧制者を悉く戦慄せしめた。遠大にして革命的な思想は又万人の歓喜であり希望であつた。パイオニヤアは彼等の進みゆく道の如何に険悪であるかを自覚してゐた。あらゆる迫害と反抗と艱難と痛苦とが彼等を待つてゐるといふ事を知りぬいてゐた。然しながら、彼等は自若として彼等の信ずる道に進み、進んだ。今や、其思想は全世界のスローガンとなつた。今日に於て人は皆な一個の社会主義者である。富豪とその哀れむべき犠牲者と、律法と威権の維持者と不幸なる犯罪者と、自由思想家と虚偽なる宗教伝道者と、流行界にときめく淑女と襤褸ぼろをまとふ工女と皆な等しく社会主義者である。然るにかの五十年以前の真理は全く虚偽と変つてしまつた。当時の盛なる青春の意気と勢力と革命的理想とは悉く萎縮し去つたのである。何故にかくの如き現象が生じたのであらう? かの思想は今は美しき幻影ではなく、多数者の意志を基礎として行はるる『実際的計画』と変じたからである。政治権謀はとこしへに虐げられたる哀れな群集の称讚を歌つてゐる。
 私は全ての選挙者と共に如何に群衆が常に簒奪さんだつせられ、利用せられつつあるかを知つてゐる。此恐るべき状態に対して当然責任を有すべきはかの寄生虫ばかりでなく、群衆それ自身であると主張したい。群衆は常にその主人に屈従し、鞭韃せらるるを好む。而も一度、朽廃せる制度と資本家の神聖に対する反抗の声の挙げらるる時、「十字架につけよ!」と真先に叫ぶ者は実に彼等である。群衆にして兵士たり、政治家たり、獄吏たり、死刑執行者たるの意志なくんば、如何にしてかの当局者と私有財産の存在を維持することが出来やう。私が改めて云ふまでもなくこれは社会党の主領もよく心得てゐることである。然しながら彼等の生活法が権力の永続を意味してゐるので、彼等は多数者の効力といふ神話を主張してゐる。如何にも、権力と強迫と従属とは群衆を基礎として成立せられてゐる。然しながらかの個人の自由を主張し得る自由なる社会の出現は到底望むことが出来ないのである。
 かく云ふ私は必ずしも地上の追放者と被圧制者に対する同情がないからではない。又彼等の送る生活が如何に悲惨であり、侮辱せられたるものであるかを知らないからではない。私は只だ善の創造力を欠如せるが故に群衆を唾棄するのである。否、否、私は只だ彼等が一団の群衆として何等の正義、平等をも代表し得ないことをあまりによく知りぬいてゐるから。彼等は人類の精神を圧服し、肉体を束縛した。群衆は人生を砂漠の如く単調灰色なるものと化さんことをのみ目的とする。彼等は常に独創と個人主義と自由思想の絶滅者である。『群衆は浅薄で不具で彼等の要求と勢力とは常に有害である。彼等に媚びる必要は決してない、彼等は只だ教育せらるべきである。私は群集に対して譲歩すべき何物も有してはゐない。私は彼等を訓練し、分離せしめて優秀なる個人を撰抜せんと欲するばかりである。群集! 彼等は禍なるかな。群衆は無用である。私は唯だ正直なる男子と美しく愛らしい賢婦人とを要求する。』とエマアソンは云つた。私はその言葉を彼と共に信ずる。
 言葉を換へて云へば、健全なる社会状態の幸福と真理とは唯だ賢明なる少数者の妥協せざる熱心と勇気と決断によつて実現せられるのである。

底本:「定本 伊藤野枝全集 第四巻 翻訳」學藝書林
   2000(平成12)年12月15日初版発行
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:Juki
2009年8月3日作成
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