東京湾怪物譚

 観音崎と富津ふっつ岬とが相抱いた東京湾口は、魚の楽園らしい。どんな魚でもゐる。それは餌が豊富であるのと、潮の流れが生きてゐるためであると思ふ。
 浦賀港から二三里三浦半島の突端の方へ寄つた下浦などは、黒鯛くろだい避寒ひかん地だとされてゐる。夏の間、江戸前や横浜附近の海で遊んでゐた黒鯛は、晩秋から初冬になるとぞろ/\揃つて下浦へ避寒にでかける。なか/\しやれてゐるぢやないか。といふのは、下浦といふところの海水は、夏の間冷い潮が流れてゐて、冬になると温かい潮が廻つて来るためなのである。そこの黒鯛は、冬でも餌を食つてゐるから円々と背の肉が厚い。
 黒鯛やすずきなどの小物は別として、東京湾口には凄いやうな大物も遊びに来たり居付いたりするのである。

 ふか、つまりさめの四五百貫もある奴が時々やつて来ては漁師を驚かす。鱶は悪食あくじきで何でも食ふ。殊に人間の肉は好きのやうである。大鱶を見たらこれにからかつちや損だ。釣つた魚の二三尾も投げてやつて這々ほうほうの体で逃げ帰るに限る。だが、勇敢な漁師もゐるものだ。浦賀港から東へ約一里ばかり行つた鴨居かもいといふ漁村に、丸茂英太郎君といふ四十二三歳の漁師がゐるがこの人が二三年前素晴らしい大物を捕つた。
 英太郎君が大鯛釣をやつてゐると、鱶が舟へ襲ひ掛つて来た。一呑みといふ形相であつた。英太郎君は覚悟した。だが、無抵抗で食はれてしまふのも残念だと思つて、舟のへさきの方を見ると折よくモリがあつたので、これを右手に奮ひつてふなべりに足をかけ、鱶の頭へとおして手綱をともにかけ、そのまま発動機を鳴らして港へ帰つて来たのである。港内へ入ればこつちのものだ。大勢の漁師連中が集つて来て、十数本のモリを打込んだから大鱶も遂に最期を遂げた。
 目方にかけたら二百八十貫あつたさうである。

 鱶よりもつと恐ろしいのも来てゐる。それはエビス鮫といふのである。刀のつかに巻く鮫の皮は、エビス鮫の子だ。長さ三四けんもあらうといふエビス鮫の親の皮についてゐる粒は想像しても分るやうに、鶏卵大位はある。石よりまだ堅い、アノ粒々のついてゐる背中を舟の底へゴリ/\と摺りつけて、穴をあけ舟を引つくり返して置いて、人間をパクリとやる代物である。漁師はこれを見ると、桑原々々である。歯の根も合はない始末である。青くなつて逃げ帰るのだ。このエビス鮫には十数間もある大きさのものが、伊豆の大島から三浦三崎の間にかけ、棲んでゐるといふ。こんな大物ぢや、到底人間の相手になる代物でない。矢でも鉄砲でも持つて来いといふ皮を持つてゐるのだから、これと喧嘩しちや負けるにきまつてゐる。

 鴨居の港外の、カヤマ根(釣場)の近所には海の神様がゐる。大亀だ。たたみ八畳敷はあるだらうといふ。北西の風が相模さがみ灘の方から吹いて来て、波の頭が白く立騒ぐと、この大亀は、海上に大きな背を出して悠々と泳ぎ廻るのである。尻の方に緑色の海藻がついてみののやうに見え、この大亀を一層神秘的に、また荘重に見せるのである。鴨居の漁師たちは決してこの大亀に手出しはしない。姿を海上に見ると目礼を送つて長寿を祝するさうだ。大亀ばかりではない、小亀が磯へ上つて来ても危害は加へないで充分酒を御馳走した上、海へ帰してやるさうである。そんな時「おれは亀になりたい……。」と咏嘆したべいの漁師もゐたさうだ。
 ところが、金沢八景の近くにある野島港には亀を捕つて産をなした漁師がある。異名を亀何とか言ふ漁師だが、海亀をモリで突くことが名人で、亀を見たら決してのがさないさうである。捕つた亀から脂肪を絞り取つて売るのである。亀の脂といふものは、性の方には特効があつて一週間も続けて飲めば、鏡を御覧といふ程威力を持つてゐる。そこで、東京や横浜から金はウンとあるが、ママならぬ奴といふ御年輩の人々が続々押しかけて行くから、亀何とかいふ漁師はたちまち産をなしてしまつた。その漁師は、いまでも亀を探して毎日海の上に暮してゐる。

 或る釣客が、一日静かな日を選んで東京湾口へ釣りに出た。すると百坪ほどもあらうと思ふ平らな岩礁を発見したので、磯釣りには屈強の場所と舟から岩へ飛び移り、静かにいとを垂れてゐると、突然その島が動き出し、否や泳ぎ出した。釣客はびつくりして島から舟へ飛び帰り、後を顧みるとそれは岩礁ではなくて大※(「魚+覃」、第3水準1-94-50)あかえいであつたといふ話がある。
 百坪もある赤※(「魚+覃」、第3水準1-94-50)が今時ゐるかゐないかは分らないが、漁師の話でも畳三枚敷位の赤※(「魚+覃」、第3水準1-94-50)なら珍らしくないと言ふ。五六貫目から、十二三貫位の※(「魚+覃」、第3水準1-94-50)なら鈎で釣つてとれないことはないが、畳四枚と来ると、もう鈎などでは手におへない。やはりモリを打ち込んで取るのである。赤※(「魚+覃」、第3水準1-94-50)の煮こゞりは素敵においしいものだ。寒くなるに従つて、煮こゞりの味の季節となる。しかし、こんな大きな赤※(「魚+覃」、第3水準1-94-50)は、どうして食つたらいゝか分るまい。
 房州の竹岡と、三浦半島とを結んだ線の南方にアシカ島といふ燈台の在る島が見える。この島にアシカ(海獣)がゐた。二三十年前までは数十頭雑居して奇観を呈してゐたのであるが、近所に砲台ができ、また軍艦が集つて来て実弾演習をやつて、海の中へ水柱みずばしらを盛んに立てるものだから、アシカは驚いて次第に湾外へ逃げ出してしまつた。そして最後に牝牡めすおす二頭の大きなアシカが残つた。およそ二百貫はあつたらうと言ふ。島の岩の日向に、二匹が長々と寝てゐる姿はまことに奇観であつたさうだが、思ひやりのない一人の漁師が一番アシカを捕つてやらうと考へ出した。モリに太い綱をつけて、その端をかと岩角へ結びつけ、春光に背を暖めながら昼寝してゐる牝に、グサとモリを打込んだ。牝牡は共に仰天した。そしてガバと海へ飛込んだが牝にはモリ綱が確かとついてゐる。牝は波間に頭を出して悲鳴を揚げた。一旦逃げた牡も牝のそばへ泳ぎ戻り、悲しく鳴いた。
 遂に、モリ綱を切つたのである。しかし、二三日過ぎてから、牝は観音崎燈台下の磯へしかばねとなつて波に打上げられた。モリの傷が死因をなしたのである。それは今から十年ばかり前であつた。牡はそれから後何処へ行つたか姿を見ぬさうである。

 アシカは大鱸おおすずきが大好物である。十一月半ばから一月中旬へかけ毎年、鴨居前や竹岡前の海へ大鱸が産卵に集つて来て、よくはりにかゝる。これを漁師は、腹太鱸または大太郎と呼んでゐるが、よく釣れる日には一貫目以上のものが二三十本になることがある。この鱸の群を目ざしてアシカも集つて来る。そしてアシカは大鱸を口にくはへると、海上へ顔を出して鱸をポンと空中へ抛り上げては口で受けて弱らせる。それが十頭も十五頭も揃つてやるのであるから、まことに奇観であつたといふ。
 そのアシカの群もいまでは、大砲の弾丸に驚いて遠く湾口を去り、大島の海の方へ行つてしまつたさうである。

底本:「集成 日本の釣り文学 第九巻 釣り話 魚話」作品社
   1996(平成8)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「釣の本」改造社
   1938(昭和13)年4月
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:山本弘子
2010年5月31日作成
2011年4月22日修正
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