車上

 六月四日、エルサレムを立ち、サマリヤを経てガリラヤに赴かんとす。十字架よりナザレの大工場だいくばへ、即ち四福音しふくいんを逆に読むなり。
 エル・ビレエにてエルサレムに最後の告別をなし、馬車はいよ/\北へ走る。車中には案内者一名載せたり。名はフィリップ・ジヤルルック三十八九、シリヤ人にしてクリスチアンなり。此馬車道は、八年以前独逸どいつ皇帝が土耳其とるこ領内遊歴の折修繕したるものとか。独帝の漫遊以来パレスタインに於ける独逸人の活動著しく、到る処のホテルの如きも独逸人の経営にかゝるもの多し。
 アブラハムが天幕を張りしベテルの跡なるべしと云ふ所をはじめとして、道の左右は遠き山のきは、近き谷のくま、到る処に旧約の古蹟と十字軍時代の建物の名残あり。岩の山、畑なくして唯処々しよ/\橄欖林かんらんりん或は稀に葡萄畑を見る。馬車とまりし或小屋にては、白き桑実くはのみを売れり。白、紫両種あり、皆果実の為に植うるなり。ダマスコ附近には養蚕用の桑畑ありと云ふ。やがて強盗谷、強盗泉あり。岩壁の下、草地くさぢ数弓すきう、荷を卸して駱駝臥し、人憩ふ。我儕われらの馬も水のみて行く。やがてまた十数頭の駱駝りんを鳴らし驢馬の人これを駆り来るを見る。荷は皆あんず
 昔のサマリヤ境に近きシンジルの村はづれにて、路傍橄欖樹下に三頭の馬を繋いで昼寝する男あり。ジヤルルック君車上より声かけしが、めず。車を下りて呼びさまし来る。此は夜をこめてエルサレムより余等の乗る可き馬をき来り此処こゝに待てる馬士まごイブラヒム君とて矢張シリヤ人なり。やがて道は急坂きふはんの上に尽く。此あたりやゝ快濶たる山坡さんばの上、遠くヘルモン山の片影へんえいを見得べしと云ふ。今日は空少し夏霞なつがすみして見えず、余等はこゝにて馬車を下る。エルサレムより約八里。

    馬上

 急坂を下りて、旅亭のあとあり、側に泉湧く。ガリラヤよりエルサレムに行くユダヤ人の男女、および駱駝ひき、羊かひなど大勢憩ふ。余等も無花果いちじゆくの蔭を求めて、昼食ちうじきす。
 やゝありて馬に上る。余は白馬、栗毛はジヤルルック君、イブラヒム君は余が荷物を駄せし黒に跨る。おとなしき馬をと特に頼み置きたる甲斐には、余の馬は極めて柔順なれど、極めて足遅く、しばしば道草を食ふ。イブラヒム君うしろより余の馬の尻をたゝく。おどろきて突然駈け出し、余は殆んど落ちむとして馬の首を抱くものいくたび。パレスタイン六月の日は容赦なく頭上より照りつけ、古鞍ふるぐらに尻いたく、岩山の上り下り頗る困憊を極む。旅杖たびづゑ一つ、サンダルに岩角を踏み小石を踏みて汗になりつゝ、徒歩し玉ひし師の昔を思ふ。タオルもてヘルメツト帽の上より頬かむりし、旅袋たびぶくろより毛布取出して鞍上に敷きて、また行く。岩間に錦糸撫子きんしなでしこなどの咲けるを見る。
 岩山幾つか越えて、また馬車も通ひ得べき谷の道に出づ。山、東西に低き屏風を開き、南北に細長き谷間は麦熟して黄河の流るゝが如し。已にサマリヤのさかひに入れるなり。

    ヤコブの井

 狭き谷の麦圃に沿ひ、北行ほくかうやゝ久しく、西日まばしく馬影ばえいなゝめに落つる頃、路の左にそびえ起る一千尺ばかりの山を見る。中腹石屏せきびやうを立てたる如き山骨さんこつあらはれ、赭禿あかはげの山頂に小き建物あり。此れこそゲリジム山、昔サマリヤ人のエルサレムに対抗して神を拝せし跡、今山頂の建物は回教徒遥拝所なり、と案内者は説明す。
 こゝに谷は三叉みつまたをなし、街道はゲリジム山麓を西に折れてナブルスのまちに到る。余等はヤコブの井を見る可く、大道より右にきれ込む。しばし行けば、田隴でんろうの間塀をめぐらし杏の木茂れる一区斜面の地あり。此処は昔の寺の跡、今は希臘ぐりーき派の小庵、ヤコブの井は境内にあり。馬を下りて入る。
 年老いたる番僧の露西亜人ろしあびとに導かれて、古寺こじの廃跡いし累々るゐ/\たるを見つゝ、小石階せうせきかいを下りて、穹窿きゆうりゆうの建物いと小さく低きが中に入る。内に井あり、口径三尺ばかり、石を畳むでふちとす。番僧蝋燭の火をつりおろして井の中を見す。中はやゝ広く、岩を穿うがち石を畳みて深さ七十尺、底には一滴の水無くして、石ころ満てり。哀しいかな、この水涸れたること久し。井のかたはらなる壁に基督きりすとサマリヤの婦人をんなに語り玉ふ小さき画額を掲ぐ。建物の中にとりこめたるは、あらずもがなと思へど、昔のガリラヤ街道も此辺このへんを通りしと云へば、ゐどそのものは昔より云ひ伝へしヤコブの井たることうたがひなし。
 ゐどはたより出でゝ、境内カヤツリ草の離々りゝたる辺にたたずみ、ポッケットより新約聖書取り出でゝ吾愛する約翰よはね伝第四章を且読み且眺む。頭上には「此山」ゲリジムの山聳ふ。見よ、サマリヤの婦人はゆびさし、基督は目して居玉ふなり。直ぐうしろなるエバルの山の山つゞきには、昔のスカル今のアスカルの三家村さんかそん山にりて白し。かめを忘れて婦人の急ぎ行く後影うしろかげを見よ。弟子たち何ぞおろかしく顔見合すや。「目を挙げて観よ」、田は現に色づきて刈入時となりぬ、東の方狭き谷より向山むかふやまの頂かけて熟せる麦一面夕日に黄金こがねの波をうたすを見ずや。あゝ二千年何ものぞ。幽明何をか隔つる。基督は猶ここに坐して教へ玉ふ。活ける水は涸れず。感謝すべきかな。

    ナブルスの一夜

 ヤコブの井より遠からずして、其子そのこヨセフの墓なるものあれど、さるものは見ず。また馬に上りて西へナブルスの谷に入る。南はゲリジム山、北はエバル山に挟まれたる谷なり。ゲリジムの山頂には古き建物の跡多く、エバルの山には一面に覇王樹しやぼてんしげれり。覇王樹は土地の人新芽を皮剥きて咀嚼す。
 やがてナブルスに着き、羅甸らてん派の精舎しやうじや宿しゆくす。総じてパレンスタインの僧舎は、紹介状だに持参せば、旅客を泊むる仕組にて、此処にも幾個の客床かくしやうを設けあり、食堂もそなはる。かくは去る時応分の謝金を出して行くなり。エルサレムよりナブルスまで約十二里。
 ナブルスは旧約のシケム、ふるき所にて此処のサマリヤ人の会堂に秘蔵するモーゼの五経ごけいは有名なるものなり。目下もくか人口約三万、外人の居留も少なからず、エルサレムに次ぐ都会とす。半日の馬上に足腰おびたゞしく痛めば、見物を廃して休養す。
 夜は蚤と肢体の痛みに眠られず。昼間見置きし枕辺の聖母の心臓を剣さしとほせる油絵は、解剖図などかけし様にて、あまり心地よき寝覚めの伴侶ともにもあらざりき。

    サマリヤの墟址

 五日。日と共に馬に上る。のぼりて見れば、昨夜この痛さにてはと思ひし程にはあらず。サマリヤは概してユダヤよりも地味ちみまされり。殊にナブルスの谷は、清泉処々しよ/\に湧きて、橄欖かんらん無花果いちじゆくあんず、桑、林檎、葡萄、各種野菜など青々と茂り、小川の末にはかはづの音さへ聞こえぬ。
 ナブルスを出はなれて程なく新道より北に折れ、山路やまぢを行くこと二時間、セバスチエーに到る。即ち昔のイスラエル王国の首都サマリヤにて、後ヘロデも此処に壮麗なる府を建てぬ。四方しはう山の中に立ちたる高さ三百尺の一孤邱いつこきう、段々畠の上にちとの橄欖の樹あり、土小屋つちごや五六其ひたひに巣くふ。馬上ながらに邱上きうじやうを一巡す。昔の名残には、ヘロデの建てし街の面影を見るべき花崗岩みかげいしの柱十数本、一丈五尺にして往々わう/\一石より成るもの、また山背さんはいの窪地に劇場の墟址あとあり。麦圃のくろ、橄欖の影に、断柱だんちう残礎ざんそ散在す。
 村の附近に古寺こじあとあり、地下室にバプテスマのヨハネの墓、エリシヤの墓、オバデヤの墓など称するものあり。村人古銭など持ち来りてすゝむ。山上より西に地中海の寸碧すんぺきを見る。

    旅の興

 サマリヤの廃墟より山いくつか越えてシレーと云ふ山腹の村の近くにいたり、馬を繋ぎ、無花果の枝の下に潜り入りて、毛布けつとを地に敷き、少し早けれど携へたる牛乳、パン、ジヤム等にて昼食ちうじきし、午憩ひるやすみす。杏多き所にて、ジヤルルック君一風呂敷ひとふろしき買ひ来りしかど、余はエルサレムに、杏にてられたれば食はず。ほとり近く泉あり。村の婦人をんな甕を頭に乗せて来り汲む。或はこゝにて洗濯をなすあり。いづれも日に焼けて赤黒く、素足なり。或は襟に、或は手首に、或は髪に銀貨をつらねかけて装飾かざりとするは珍らし。極めて稀には金貨をかざれるもあり。シリアを旅して往々わう/\穴のあきたる銀貨のツリを貰ふことあるは、此風習あるが為なり。
 一睡してまた馬に上る。岩山を上り下りしてやゝたひらなる浅き谷を行く。午後の日して、馬上すこぶる退屈す。前を見ればジヤルルック君は土耳其とるこ帽の上に白手巾しろはんけちを被り、棒縞の白地(筒袖にして裾の二方を五寸ばかり開く)に五寸幅の猩々緋しやう/″\ひの帯して栗毛を歩ませ、後を顧みれば馬士まごのイブラヒム君土耳其帽を横ちよにかぶり、真黒く焼けし顔を日に曝し、荷物の上に両足投げ出して、ほくほく歩ます。やがて二人はしきりに歌ひ出しぬ。云々しか/″\してヤーモ、ヤーモ、ヤーモーヤーモー、ヤーモ、ヤーモ何の事か一切す可からず。中なる馬上の客も、多くは知らね賛美歌の種をきらして、人に習はぬ「忍路高島おしよろたかしま」を歌ふ。

    水なるかな水

 やがて此浅き谷は低き山のくまに尽きて、其処そこに大なる無花果、ポプラル、葡萄、石榴ざくろなど一族いちぞくの緑眼もさむるばかり鮮かなる小村あり。ドタンと云ふ。旧約の少年ヨセフが、父の命により十人の兄を尋ね来てあなに打込まれはては売られし所と伝ふ。この処に径一丈ばかりの泉あり。ヱル・ハフイレーの泉と称す。ヨセフの坑とは例の附会なるべきも、ドタンは昔よりかゝる泉の為に羊を牧すべき地なりしならん。雨期を過ぎて未だ久しからねば、泉の清水満々とたゝへたるに、旅僧たびそうらしきが二人、驢馬を放ち真裸になりて、首までひたり居りぬ。ぐるりの石に縄かけてすがり居るを見れば、水の深さも知らる。泉の水は溢れていさゝ小川をなし、胡瓜きうりなどつくれる野の畑へと流れ行く。吾馬熱き蹄を小川に踏み入れて、鼻鳴らしつゝ水飲む。
 水なるかな水、シリヤに夏の旅して「活ける水」の味を知る。烈しき日、乾燥せる空気、日を照りかへして白くきらめく岩の山、見るだに咽喉のんどのいらく土の家、見るものこと/″\く唯渇きに渇きて、旅人の気も遠く目もくらまんとする時、こゝに活ける水の泉あり、滾々こん/\として岩間より湧き出づ。
 嬉しさはことばに尽し難し。水なるかな、水ありて緑あり、水はのんど湿うるほし、緑は眼を潤す。水ありて、人あり、獣あり、村をなす。水なるかな、ヨハネが生命いのちの川の水を夢み、熱砂に育ちしマホメツトの天国が四時しゞ清水流れ果樹実を結ぶ処なるも、うべなるかな。自然の乳房に不尽の乳を満たせし者に永遠とこしへ光栄ほまれあれよ。

    エニンの夕

 ドタンより丘を越えてカバチエーに到る。パレスタイン第一の橄欖林かんらんりんあり。皆古木。何千株なるを知らず。橄欖の実は九月に熟す。生食せいしよくし、塩蔵し、オリーブ油を製し、また石鹸しやぼんの原料となる。
 これより始終谷を下り、日没椶櫚しゆろふるエニンに到り、独逸どいつ人のホテルに投ず。今日は終日サマリヤの山を行けるなり。行程わづかに七里余。
 エニンは昔のエンガンニム、海抜約六百五十フイート、人口二千左右さう小邑せういふ、サマリヤの山尽きしもガリラヤの平原起る所のさかひにあり。ホテルの窓より眺むれば、展望幾重、紫嵐しらんこらすカルメル山脈の上、金を流せる入日いりひの空を点破して飛鳥遥にナザレの方を指す。
 明星のゆふべはやがて月の夜となりぬ。ホテルの下に泉あり。清冽の水滾々と湧き、小川をなして流る。甕の婦人来り、牧夫来り、ぎうやう駱駝らくだ、首さしのべて月下に飲む。
 再び称へむ、水なるかな、水なるかな。

    エズレルの平原

 六日。今日はナザレに着く日なり。朝六時欣々きん/\として馬に上る。漸く馴れて馬上も比較的楽になりぬ。
 エルサレムよりサマリヤを経て一路エニンに到る迄、常に山上、または峡谷を過ぎて来り、エニンより一歩北すればたちましもガリラヤの野、パレスタイン第一のエズレル平原、またの名エスドレロン平原に下りぬ。エニンを出でゝ三十分ならず、行手の山の上分明ふんみやうに白きむらを見る。あれは何と云ふ邑ぞ。あれこそナザレに候、と案内者が答ふる言葉の下より吾心わがむねは雀の如く躍りぬ。あゝあれがナザレか。父母に伴はれてエルサレムよりの帰るさ、弟子を伴ふてユダヤよりの帰途、基督きりすとは如何に其なつかしき、つれなき程なほなつかしき其ふるさとをば眺め玉ひけむ。おゝあれがナザレか、近いかなナザレ。いや、近く見えても、あれでも一八九マイルは候、と案内者は制す。
 此大平原は、北はナザレ一帯かみガリラヤの連山、南はサマリヤの連山、東はキルボア山、小ヘルモン山、西はカルメル山脈に囲繞ゐねうされたるほゞ三角形の盆地にて、南北の最長約七里、東西の最長十一二里もあらん。地中海面より低きこと二百五十フイート、乾ける湖の如く、一面麦熟れて黄金こがねせんを敷く。パレスタインに来りて今日初めて平野を見、黒土の土らしき土を見る。麦はうねなしのばら蒔き、肥料を施さずしてよく出来たり。地味の豊饒思ふべし。春は野の花夥しく咲くと聞く。今はツユあをい、矢車、野しゆん菊、人参にんじんの類のみ。
 当面は新約、三方は旧約の古跡に包まれたる此平原はおのづから是れ古今ここんの戦場、十字軍がサラヂンの為に大敗をとりたるも此処なりき。

    古跡より古跡

 露の朝日をあたら馬蹄に散らしつゝ、やがてギルボア山に到る。是れサウル、ヨナタンのペリシテ人と戦ふて討死うちじにせし処、多恨のダビデが歌ふて「ギルボアの山よ、願はくは汝の上に雨露あめつゆ降ることあらざれ、亦供物そなへもの田園はたもあらざれ、彼処かしこに勇士の干棄たてすてらるればなり」とこくせし山也。昔は樹木ありしと云ふも、今は赭禿の山海抜千六七百尺に過ぎず。此山のして平原にくだる所はエズレルのあと也。曾てイスラエルの王アハブが隣の民の葡萄園を貪り、こうイゼベル夫の為にはかつて其民を殺して葡萄園を奪ひ、其むくいとしてイゼベルは後王宮の窓より投落なげおとされ、犬其肉をくらひしと伝へらるゝ所。今は土小屋七八立てるのみ。ほとりにふるき酒槽さかふねの跡あり。
 エズレルの跡を見て山を北へ下れば、平原の余波はギルボア小ヘルモン両山の間を東へ走りて、ヨルダンの谷に到る。ギルボアの北麓には、ギデオンがメデア人を撃ちし時、水を飲ませてイスラエルの勇士をすぐりし泉の跡ありと、案内者は遥に山下さんかの一所を指しぬ。やがて鉄道線路を横ぎる。此はダマスコよりカルメル山下のハイフア港へ通ふもの、ヱスドレロン平原を東西に横断す。
 馬は傾斜をのぼりて小ヘルモン山南のシユネムの跡に到る。旧約にモレの山とあるは此小ヘルモンなるべしと云ふ。高さはギルボアと伯仲はくちゆうの間なり。シユネムはギルボアのサウルに対してペリシテ人の陣せし所、双方の間は小銃のいくさ出来可でくべき程に近く思はる。此処はまた預言者エリシヤが敬虔なる婦人の歓待を受け、後其子を死より復活せしめしと伝ふる所。今は夥しく茂れる覇王樹しやぼてんに囲繞されし十戸足らずの寒村なり。此処に三人抱程の素晴しき無花果の大木三本あり。三頭の馬を其一本に繋ぎ、余等三人は他の一本の下に毛布を敷いて坐し、昼食ちうじき午眠ひるねしての前後四時間を此無花果樹下に費しぬ。小指の頭程の青きヒシとれるを、小鳥は上よりつゝき、何処どこも変わらぬ村の子供等下よりタヽき落してくらふ。

    ナザレへ

 午後二時無花果樹下を出でて再び馬に上り、小ヘルモン山の麓を北へ越えてナザレをす。小ヘルモンの北麓、麦の穂末に平たき屋根の七八つあらはれたる孤村こそんは、基督の寡婦の子を蘇らし玉ひしと云ふナインの村なり。かしらまるくして形優美なるタボルの山も東に近く見ゆ。今日過ぐる所は、すべて旧約の士師記しゝき、列王紀略上下、サムエル書上下等に関する名所旧蹟に満ちたる地なり。
 畑中の一堆いつたいきうに土造の穀物納屋の立ちたるを聖書の画見る心地にをかしと見つゝ、やがてナザレの山麓に到る。石だらけの山坂路やまさかみち、電光形に上りて行く。右手に険崖矗立ちくりつせる所を陥擠山かんせいざんと呼び、ナザレ人等が基督をおしおとさんとせし所と伝ふ。やゝしばし上りて山上のたいらなる道となり、西することしばらくにして、山上の凹みに巣くへる白き家と緑と錯綜せるナザレのむらあらはれ出づ。
 午後四時過※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)クトリア・ホテルの前に馬を下る。今日の行程七里。エルサレムよりナザレまで約二十七里。急げば二日

底本:「日本の名随筆 別巻21 巡礼」作品社
   1992(平成4)11月25日第1刷発行
入力:斎藤由布子
校正:noriko saito
2007年1月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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