沈み行く夕陽ゆうひの最後の光が、窓硝子ガラスを通して室内をのぞき込んでいる。部屋の中には重苦しい静寂が、不気味な薬の香りと妙な調和をなして、悩ましき夜の近づくのを待っている。
 陽春のある黄昏たそがれである。しかし、万物甦生そせいに乱舞するこの世の春も、ただこの部屋をだけは訪れるのを忘れたかのように見える。
 寝台ベッドの上には、三十を越してまだいくらにもならないと思われる男が、死んだように横たわっている。分けるには長すぎる髪の毛が、手入れをせぬと見えて、蓬々ぼうぼうと乱れて顔にかかっているのが、死人のような顔の色を更に痛ましく見せている。細い高い鼻と格好かっこうのよい口元は、決して醜い感じを与えないのみか、むしろ美しくあるべきなのだが、生気のまったく見えぬその容貌には、なんとなく不気味な感じさえ現われているのである。
 そばには、やはり三十を越えたばかりと見える洋装の男が、石像のごとく佇立ちょりつして、憐れむように寝台ベッドの男を見つめている。彼もまた極めて立派な容貌の所有者である。しかし、この厳粛な、否むしろ不気味な静寂は、その容貌に一種のすごさを与えている。
 横たわれるは患者である。傍に立てるは医師である。この病院の副院長である。
 突然患者は目を開いた。
 立てる男と視線がはっきりと衝突した。立てる医師はふと目をそらす。
 患者が云う。
「山本、君一人か。」
 医師にはこの質問の意味がはっきり判らなかった。
「え……?」
「この部屋には、今、君と僕と二人切りしかいないのか。」
「ああ、看護婦は階下したへやった。用があったから。僕一人だよ。」
「そうか。」
 患者はしばらく考えているようであったがふたたび目をとじた。医学士山本正雄は患者が続いて何か云うことを予期していた。しかし患者はふたたび死んだように沈黙した。
 今度は医師が声をかけた。
「君、苦しくはないかね。」
「ああ……いや別段……」
 ふたたび重苦しい沈黙が襲う。
 日の光はしだいに薄れて、夜が近づく。
 陰惨な静寂に、医学士山本正雄は堪えられぬもののように頭をかきむしった。
 患者は大川竜太郎という有名な戯曲者である。彼はその二十七の年に処女作を発表し、当時の文壇のある大家にその才能を認められてから、がぜん有名になった。つづいて発表された第二、第三の諸作によって、彼は完全に文壇の寵児ちょうじとなり三十歳に達せざるに、社会はもはや彼が第一流の芸術家であることを認めないわけにはいかなかったのである。
 その大川竜太郎が、三十三の今日、劇薬を呑んで自殺を企てたのである。幸か不幸か、彼はすぐ死ぬということに失敗した。彼が苦悶くもんのままその家から程遠からぬこの病院にかつぎ込まれてから、今日でちょうど五日目である。
 副院長山本正雄は大川の友人であった。彼が必死の努力によって、大川は救われたかと思われた。しかし、それも一時のことであった。山本は今、大川の生命はただ時間の問題であることはよく知っている。
 なぜに大川は自殺を企てたか。
 大川が事実自殺を計ってこれを決行したにもかかわらず、なんら遺書と見らるべきものがのこされなかったため、諸新聞は大川の知己である文壇の諸名家の推測を、列挙して掲載したことは云うまでもない。
 文士であるにもかかわらず、一片の遺書も残さぬというところから、恐らくその自殺は発作的のものではないかと憶測したものもあった。しかし大川が数日前から劇薬を手に入れていた事実、および彼がそれとなく薬物に関して他人に質問をした事実によって、その考えがまったく空想に過ぎぬことが明かとなった。したがって文壇の諸家はおのおの自己の信ずる考えを述べたてたのであった。しかし、少くも二つの原因らしきもののあったことは、誰しも認めないわけにはいかなかった。
 その一つは、大川竜太郎一個人の芸術家としての問題であり、他はまったくこれと異るが同時に非常に有力らしく見えるところの、約半年ほど前に彼の家において行われた有名な悲劇である。
 三十歳に達せずして一代の盛名をはせた戯曲家大川竜太郎は、しかし、三十歳に達せずしてその芸術の絶頂に達したのかと思われた。
 彼が三十の時、盛名はなおいぜんとして衰えなかったにもかかわらず、ある人々はすでにその作品の中に彼の疲労を発見した。彼が三十一の年その作の中には芸術家としての行き詰りが明瞭あきらかに現われはじめた。その年の末に発表されたある戯曲は、作者のこの芸術上の苦悶をはっきりと示していた。彼はあせった。迷った。彼の行くべきみちいずれにありや、大川竜太郎は三十一にしてこの苦悶に直面した。
 世間はようやく大川の疲労を見てとったのである。しかし彼は怠けていたのではない。彼には怠けることは出来なかったはずだ。けれども、あせればあせる程、彼は自分の無力を感じた。三十二の年をこうやって彼は暮した。一つの作をも発表しないで、いな発表し得ないで。
 なぜ彼がかくもあせったか。
 大川には有力な競争者が現われたのである。米倉よねくら三造の出現がそれであった。
 米倉は大川とほとんど同年であった。はじめ大川の盛名に眩惑げんわくされていた文壇は、米倉の戯曲をさほどには買わなかった。けれども米倉は隠忍した。我慢した。そうして大川がその絶頂に達したと思われた頃、彼はがぜん奮起した。大川が疲労を見せ始めた頃、米倉は堂々と躍進し始めた。そうして大川があせりにあせってもがきはじめた頃、米倉は完全に文壇の一角を占領した。
 世間はうつり気である。
 大川の名は忘れられはしなかったけれど、彼の戯曲はこの頃ではただ発表されるにしか過ぎなくなった。しかるに米倉の諸作は、出づるごとに次から次へと脚光を浴びて行った。そうして、大川にとって最も痛ましかったことは、最初彼を文壇に送り出したある大家が、米倉三造を、大川以上のものとして折紙をつけたことであった。
 もしこの事実が、大川の元気一杯の時に起ったとしたなら、決して彼は驚かなかったであろう。しかし、ある限りの精力を出し切ってしまった彼が、いま目の前に米倉の異常な、大川のそれにもました出世ぶりを見ていなければならぬということは、たしかに痛ましいことだったにちがいない。
 というわけは、大川竜太郎と米倉三造とは恐らく永久に手を握りあうことのできぬ仇敵かたき同士であったからである。
 彼等はその処女作を世に出す前において、すでに、競争者であった。おたがいに非常に神経質で頑固で、そうして嫉妬心を十分にもちあっていた彼等は、名をなす前に、心から愛しあうよりはむしろ、心から憎みあっていた。
「いまにみろ。」
 という考えをおたがいにもっていた。そうしてその気持の上に二人は精進した。
 けれども、この二人を決定的に仇敵とならしめたのは、こうした二人の名誉心ではなかったのである。実に彼等は、ある一人の女を、しかもほとんど同時に愛し始めたのであった。
 この恋愛闘争はかなり有名な事件として知られている。女は酒井蓉子ようこという、ある劇団の女優であった。大川のある作品が、この劇団によって脚光を浴びた時、彼は蓉子と相識った。しかし同じ頃、米倉もまた蓉子と知りあった。かくて蓉子を中心として二人の男は恋を争ったのであった。
 この闘争において、まったき勝利はまさに大川の上にあった。大川と蓉子とは彼が二十九、彼女が二十三の年に円満な家庭を作るに至った。蓉子は未練げもなく舞台を捨ててよき妻となり二人の間には愛らしき子さえ儲けらるるに至ったのである。
 自分の敗北を認めた時、米倉は死ぬかとすら思われた。しかし彼は奮起した。奮起して彼はいっそうその芸術に精進して、ついには大川をしのぐ盛名を博するに至ったのである。
 大川はいまや恋の勝利者ではあるが、芸術上の敗北者であった。と少くも世人には思われた。男子は、ことに大川のような男は、恋のみに生き得るものではない。
 昨年一杯彼の沈黙は果して何を示しているか。彼はついに力つきたのか。あるいはまさに再起せんとして一時の沈黙を忍んでいるのか。世人は深き興味をもってこれを眺めていたのである。かかる事情のもとに起った大川竜太郎の自殺事件である。文壇のある人々がこの点に彼の自殺の原因を見出したのも、決して無理とはいえなかった。
 けれども、これだけが唯一の原因だとも見られぬ事情があった。さきに述べた大川の家における惨劇を原因として――少くも原因の一つとして見逃すことは、正しくはあるまい。
 昨年の十月二十日の諸新聞の夕刊はこぞって大々的にその事件を報じている。そのうちの一つを次に掲げてみよう。

○強盗今暁大川竜太郎氏方を襲う[#「○強盗今暁大川竜太郎氏方を襲う」は2段階大きな文字]
――妻酒井蓉子(元女優)を惨殺して[#「妻酒井蓉子(元女優)を惨殺して」は1段階大きな文字]
  自分も大川氏に射殺さる[#「自分も大川氏に射殺さる」は1段階大きな文字]――
近来ほとんど連夜のごとく強盗出没し、今や警視庁の存在をさえ疑わるるに至ったが、今暁またまた一人の強盗戯曲家大川竜太郎氏方に押入り妻蓉子(かつて酒井蓉子と称し××劇場の女優)を殺し、自分はただちに現場において主人のため短銃ピストルにて射殺さるるの惨劇が突発した。今暁午前三時半頃、府下××町××番地先道路を警戒中の夜警谷某は、同番地先をへだたる約半丁ほどの大川竜太郎氏方とおぼしき方向より、突如二発の銃声を聞いたので、ただちに同家に向って急行すると、やがて同家より「泥棒、泥棒」と連呼する声をきき、非常笛を鳴らしながら同家の庭の垣根をとび越えて庭の中に入った。すると主人竜太郎氏が片手に短銃を持ったまま屋内より、庭に走り出て来たが、谷某の姿を認めると、「泥棒、内にいる。殺した。」と叫んだままその場に昏倒した。谷は驚いて竜太郎氏を抱き起すとさいわいにも氏はどこも負傷なくまったく一時の昂奮のための卒倒と知れたので、しきりに意識を回復せしめんと介抱している折柄、さきの銃声ならびに非常笛をききて密行中の巡査佐藤一郎が駈けつけたので、ただちに××署に急報、警視庁ならびに××署より係官出張取調べたところ、兇漢は午前三時過ぎ、出刃庖丁をたずさえ、同家台所の戸をこじあけて忍び入ったらしく、まず次の間に入り蓉子および長女久子の枕元を物色中、蓉子が目をさましたので俄然がぜん居直りと変じ出刃庖丁をもって同人を脅迫したところ、同人は驚愕きょうがくのあまり大声をあげて泥棒泥棒と連呼し隣室に就寝中の竜太郎氏に救いを求めたので、賊は狼狽ろうばいの極、蓉子に飛びかかりて馬乗りとなり両手をもって同人の頸部けいぶを絞めつけついに同人を窒息せしめた。この騒ぎに隣室より飛び出した竜太郎氏は護身用のピストルを向けて一発を賊の右胸部に、つづいて一発をその右額部に撃ち込んで即死せしめたのである。なお賊の身元、その他については目下詳細取調中である。

次の日の新聞には左のごとき記事が掲げられている。

○酒井蓉子殺し犯人は強盗前科四犯の兇漢と判明[#「○酒井蓉子殺し犯人は強盗前科四犯の兇漢と判明」は2段階大きな文字]
 ――大川氏の行為は正当防衛[#「大川氏の行為は正当防衛」は1段階大きな文字]――
昨朝文士大川竜太郎氏方に兇漢侵入し大惨劇を演じたことは既報の通りであるが、兇漢の指紋により果然同人は強盗前科四犯あり目下××刑務所に服役中の痣虎あざとらこと大米虎市おおごめとらいちと称する脱獄者であることが明かとなった。惨劇の顛末てんまつは判検事出張取調べの結果大体次のごとく報ぜられている。
大川竜太郎(三二)は妻蓉子(二六)長女久子(三歳)の三人家族で同家には他に佐藤定子とよぶ女中がいるのだが惨劇当夜より約一週間程前から父親が病気なので一時暇をとっていたため昨今はまったくの親子水入らずの三人暮しである。一時頃大川氏はおそくまで書きものをして、八畳の間に妻蓉子が久子とさきに就寝し、大川氏はその隣室の書斎六畳の間に就寝した。大川氏は近来ほとんど夜間に仕事をするため別室にねることになっていたのである。氏はあまりねつきのいい方でないので眠りにちたのは二時頃だろうということであった。兇漢が忍び入ったのは調べによると、台所で賊は戸をこじ開けて忍び入ったもので、最初台所の次の間を物色したが何物もないのでただちに蓉子の室に侵入し初めはひそかに枕元を探していたものらしく箪笥たんす抽斗ひきだしなどが開け放しになっていた。しかるにその物音に蓉子は目をさまして誰何すいかしたので、賊は俄然がぜん居直りとなり手にせる出刃庖丁を蓉子の前に突きつけておどかした。もし蓉子がこれで黙っていたならば、あるいはあの惨劇は行われなかったかもしれないが、蓉子は驚愕の極悲鳴をあげて救いを求めた。ふすま一つ隔てた隣室に眠っていた大川氏はこの声に目をさましいきなり枕元においてあったピストルを携えて隣室におどりこんだのである。賊は蓉子の声におどろいていきなり覆面用の黒布をとって蓉子の口へ押しこみ、同人を押したおし両腕に力をこめてその咽喉のどをしめつけたため同人はもがきながら悶死した。曲者が蓉子の上にのりかかって同人を絞め殺すと同時に大川氏が救いにかけつけこのていを見るより一発を賊の右側から撃ち、ひるむところを更に一発その頭部に命中せしめたのであった。しかしながら実に一瞬の差で蓉子の生命を救うことができなかったので、大川氏は悲痛のあまり、大声をあげながら外にとび出したのであった。
なお取調の結果、兇漢大米虎市の持っていた出刃庖丁は二日前、府下××町××番地金物商大野利吉方で兇漢自身が求めたもので同金物店の雇人やといにん某は、大米の顔を比較的よく覚えていたためまったく同人の買ったものなることが明かとなった。大川氏はこの悲劇のため一時まったく昏倒こんとうしたくらいで、ほとんど気抜けの態であるが、係員の質問に対しては割合明かに答えている。大川氏は一応××署の取調を受けたが正当防衛として不問に付することとなるらしい。兇漢の所持品としては出刃庖丁の他金三円二十三銭の現金、懐中電燈、ろうそく、覆面用の黒布等であった。右について司法某大官は語る。「自分は今度の大川竜太郎氏の強盗殺人事件について詳しいことをきいておらぬから何ともはっきり申せないが、きくところのごとくんば大川氏の行為は正当防衛でありかつ正当防衛の程度を超えざるものと思われるから問題にはなるまい。すなわち強盗でも何人でも深夜他人の家に忍びこんだ者が妻を殺さんとしている場合は明かに刑法第三十六条のいわゆる急迫不正の侵害であるし、これに向って発砲することはすなわち、『ムコトヲ得ザルニデタル行為』と認めてよろしかろうと思う。ただもし兇漢がすでに妻を殺してしまったあとで発砲したりとせば、妻に対する正当防衛は成立しないわけであるが、大川氏のごとき場合は妻を殺してもなお自己に対する急迫不正の侵害があるわけゆえやはり第三十六条の適用を受けるべく、たとえそれがために相手を殺したりとするもこの際は『防衛ノ程度ヲ超エタル行為』とは云えないであろう。ただ聞くところによれば、大川氏の携えていたピストルはなんらの許可を得ずしてもっていたものとのことであるから銃砲火薬類取締規則に触れることは別問題である」
参照 刑法第三十六条――急迫不正ノ侵害ニ対シ自己又ハ他人ノ権利ヲ防衛スル為メ已ムコトヲ得ザルニ出デタル行為ハコレヲ罰セズ。防衛ノ程度ヲ超エタル行為ハ情状ニ因リソノ刑ヲ減軽又ハ免除スルコトヲ得。

 大川氏の行為はその後もちろん正当防衛として問題にならなかったが、この事件が大川竜太郎氏に与えたショックは実に非常なものであった。彼はこの事件以来ほとんど喪神の態で数ヶ月を過して来た。あれほどまでに愛しあった夫婦である。しかもかくのごとき惨劇のショックは普通のものに対しても容易なものではない。まして大川のごとき、繊細なる神経の所有者である芸術家の場合に、このショックがほとんど致命的のものであることは誰しも疑うことはできまい。
 あの惨劇以来、大川竜太郎氏は、のこされた一人の娘を妻の里にあずけ、家をたたんで、全然一人となって、この病院に程近きアパートメントに入ったのであった。
 さなきだに作品を産出できなかった天才大川は、仇敵かたき米倉三造の盛名日に日にあがるのを見つつ、こうやって惨劇以来の半年を送って来たのであった。
 この惨劇が大川竜太郎のこのたびの劇薬自殺事件に関係なしと誰が云えよう。

 さて話はふたたび黄昏の病室に戻る。
 室はおいおいと暗くなってゆく。
 墓場のような静寂は突如大川によって、ふたたび破られた。
「山本、山本……」
「何だ、大川、え?」救われたように山本が答えた。
「君一人か、この部屋は。」
「ああ、今云った通りだ、誰もいない。」
「山本、君は永い間僕の親友でもあり、また医者でもあってくれた。僕あ、深く感謝するよ。」
「…………」
「それでね、僕は今、僕の医者としての君と、親友としての君にききたいことがあるんだが……君、はっきり云ってくれるだろうね。」
「どういう意味だい、それは。」
「つまり僕は一生を賭けた問を君に二つ出したいんだ。その一つには医者としてはっきり答えて貰いたい。それからも一つのには親友としてはっきり答えて貰いたいんだ。」
「うん、できるだけそうするようにしよう。なんでも云って見給え。」
 横たわれる大川の顔色には、犯し難き厳粛な色が現れていた。たたずめる山本のひたいには汗が浮き出している。彼は大川がどんな問を発するか、片唾かたずをのんで待ち構えた。
「医者として答えてくれ給え。僕は助かりはしないだろうね。とても。もう今にも死ぬかもしれないんじゃないか?」
「…………」
「いや、僕の聞き方が悪かったかもしれない。医者なるが故に、君はそれに答えられぬのかもしれない。それなら親友として云ってくれないか。僕はとても助からないんだろう?」
「ああ、決して安心してはいけない状態なんだ。いつ危険が来るかもわからない場合なんだ。しかし、こんな状態で回復した例はいくらでもある。だから絶望とは云えない。」
「ありがとう。けれど君は誤解している。僕は生きようと望んではいないんだ。死ぬなんてことは案外楽なものだぞ。生きよう生きようと努力するからこそ、回復する場合もあるだろう。しかし僕は生きようとは思っていない。だから回復することはない。もう一度ききたい。もし僕が遺言をするとすれば、今するのが適当だろうか。もっと延ばしておいていいだろうか。」
「そうだね、それは君の勝手だ。しかし、するなら今しても差支えないね。」山本は額の汗をぬぐいながら答えた。
「ありがとう。君の云うことは決定的だ、僕にははっきり判る。僕は自殺を仕損じてから今まで、遺言を君にきかせたいために、きいて貰いたいために生きていたのだ。そうして君からききたいことがあるために生きていたんだ。」
「よし、聞こう。云い給え。しかし疲れないように話し給え。君の生命は、それを云い終らぬうちになくなるかもしれない場合なのだ。」
 大川が今度は黙った。
 沈黙がしばらくつづく。部屋はもう闇になりかかっているのに、山本は電気のスイッチをひねるのを忘れていた。
「君は、僕がなぜ自殺をしようと計ったか、そのほんとうのわけを知っているか。……僕はこの数ヶ月、毎晩死んだ妻の亡霊に悩まされつづけていたんだ。」
「あんなに愛しあっていたんだからなあ……」
「いや、そういう意味ではない。殺された妻の死霊にのろわれつづけたのだ。」
「どうして?」
「どうして? では君もやはり、世間と同じことを信じているのか。山本。僕は何度妻を殺そうと思ったかしれないんだ。そうしてあの恐ろしい夜のあのできごとは、たとえ僕が自分で手を下したのではないと云え、僕に十分の責任があるんだ。山本、僕は強盗に妻を殺さしたのだよ。僕は僕の妻が強盗に殺されるまで、黙って見ていたんだよ……」
「大川、俺には君の云うことが信じられない……」
「だろう。そうだろう。しかしほんとなんだ。僕はすべてに敗れたんだ。仕事の上でも、恋愛の上でも! 僕は君が今なお独身でいることを祝福する。僕は結婚というものがあんな恐ろしいものとは、想像もしていなかった。僕と蓉子とは結婚した。だから僕は敗れたんだ。もしあの時、米倉と蓉子と結婚していてみろ。恐らくは僕が勝ったに違いないんだ。
 僕は初め勝ったと思った。少くも恋の上では! 勝って蓉子を完全に得たと信じた。そう信じて半年程幸福に暮した。しかしその幸福は六ヶ月程経った時、永久に失われてしまったのだ。僕は蓉子を完全に得ているかどうかということを疑いはじめた。そう思った時、すでに僕は幸福というものはなくなってしまったんだ。蓉子も初めは僕を愛した。しかし、はたして蓉子は人間としての僕を愛していたのだろうか。
 米倉の盛名が輝くにつれ、蓉子の瞳も輝きはじめた。僕は妻を疑いはじめた。蓉子がいつまでも僕を愛しきって行かれるかを。
 結婚! 人は結婚を愛の墓場だとか恋の墳墓だとかいう。そう思っていられる人々は何と幸福だろう。結婚は平和な墓場ではない。静かな休息所ではない。結婚は恐ろしき呪いだ。
 これは僕の生れつきの生活から来ているのか、あるいは僕が、米倉という恋の競争者をもっていて、それに一度打勝って妻を得たという、そういう特殊な場合だったからかもしれない。が、いずれにせよ、僕は結婚したことによって、ますます心の不安を感じなければならなかったのだ。
 結婚すれば蓉子を完全に得られる――彼女の身体もそうして心も、全部を! こう考えていた僕はなんという馬鹿者だったろう。僕ははじめこそ、それを二つながら得たと思った。しかし、結婚して自分の妻としての蓉子をはっきり眺めた時、僕はいかにして完全に永久に愛しあって行かれるかと思い始めたのだ。
 僕は自分の手に入れた妻が、果して永く僕の手の中にいるかどうかを疑いはじめたのだ。
 僕は多くの夫を知っている。彼等が幸福そうに妻とならんで歩いているのをしばしば見かける。僕は彼等のように暢気のんきに生れて来なかったことをうらみに思っている。彼等は皆自分の妻を独占していることによって、その身体を独占していることによって、慰められている。妻の気持には少しも考慮を払うことなしに!
 彼等の妻のある者は常に不平を抱いているだろう。ある者は諦めているだろう。幾人がほんとうに夫を愛し切っているだろう。僕の場合にはそれは考えてもたまらないことなのだ。僕は妻の身体を独占していると同時に、妻から愛し切っていられなければ一日でも安心して生きてはいられないのだ。こういう僕にとって、結婚ということは何と呪わしいことであったろう。
 結婚の当初、蓉子は僕を尊敬しかつ愛した。それはたしかだった。しかし愛にくらまされた僕は芸術の精進を怠った。僕はそれは感じていた。けれど僕は自分の仕事の全部を失っても蓉子に永久に愛され切っていたら、それでいいとすら考えた。
 この考えこそ、いかなる意味からでも呪われてあれ! 僕の仕事が衰えると同時に蓉子の僕に対する信頼と愛とが衰えはじめたのを僕ははっきりと感じはじめたのだ。蓉子は、はたして僕を、人間としての僕を愛していたのだろうか。
 その頃の僕の苦悩は二時間や三時間でここで今しゃべり切れるものではない。発表し得るものでもない。しかも僕の生命は、今君の云ったように今にも終るかもしれないのだ。云いたいことをすっかり云い切らぬうちに死ぬかもしれない僕なのだ。だから僕はもはや長たらしい詠嘆をくり返すことをやめよう。要するに僕はまず第一に蓉子の心が僕から離れ行くのを感じ、しかもそれに対してどうすることもできない僕を見出したのだ……僕は蓉子の心を信じ切れなくなったのだ。……」
 大川はこういうと突然、起き上ろうとした。
 石のようになって聞いていた山本は驚いてこれを制した。
「大川、落ちついてくれ。俺ははっきりきいているんだから。」
 こういいながら傍の水さしをとって大川の口のところにもって行った。大川は二口ほど水をうまそうに呑んでまた語りつづけた。
「蓉子が僕を愛し切っていない、ということが判ってから、僕はどんなに苦しんだろう。その上仕事はだんだんできなくなって来る。ところで米倉はますます成功して行く。蓉子はしばしば僕と結婚したことを後悔しはじめたような様子さえ、見せはじめた。
 ところが、山本、僕はこの上更にみじめな目にあわなければならなかったのだ。僕が今まで云ったことはただ心の問題ばかりだった。人によっては呑気のんきにくらして行かれることだったのかもしれない。ところがどうだ。僕は結婚後一年程たってから蓉子に不思議な挙動のあるのを見出したんだ。」
「何? なんだって?」
「妻としてあるまじき振舞だ。けしからん挙動だ。」
「と云うと?」
「君にはまだ判らないのか。妻としてあるべからざる振舞だよ。……つまり、僕は蓉子を身体の方面でも完全に独占してはいないということを見出したんだ。」
「…………」
「君はまさかと思うだろう。驚いたろう。しかし事実なんだからね。蓉子はしばしば僕の留守に自分も出かけるようになりはじめた。たとえば、君に身体を診てもらうというようなことを云っては出かける。そうして君にあとできいてみると、またはその時君の家へ電話でもかけると、それは嘘だったということがすぐわかったんだ。……蓉子の奴、身体まであいつに任せたんだ。」
「あいつとは誰だ?」
「無論米倉三造さ。」
「奥さんがそんなことを云ったかい?」
「馬鹿! 君は蓉子を知らないのか。あいつそんなことを白状するやつか。あの女はね、通常以上の女だぜ。女房をほめるわけじゃないが、あいつは人間より何より芸術を愛する女なんだ。頭もいいし口もうまいんだ。ただしたところで白状なんかするやつじゃない。だから僕は一回だとてそんなはずかしい質問をしたことはないよ。」
「それじゃ奥さんがけしからんことをしたかどうか第一疑わしいじゃないか。」
「君は法律家のようなことを云う。それが怪しいと考え感じたくらいたしかなことはないじゃないか。しかも相手は米倉以外に誰が蓉子に愛される資格があるか。君、僕のいうことは無茶のようかもしれない。しかし、夫としての直観を信じたまえ、そうして僕が芸術家としての直観を。直観といっていけなければ本能を!」
「…………」
「明かに云えば僕は妻の挙動が怪しいことを感じた。しばしばいいかげんなことを云って家をあけることを知った。これで十分じゃないか。ある口実を構えて蓉子が出かける。調べてみると(卑劣なことだが僕は調べたよ)まったく嘘だ。これだけの事実は、検事には不十分かもしれない。しかしわれわれには妻の不貞を信ぜしめるに十分じゃないか。その上、平生の蓉子の口に現わせぬ態度等を考えれば文句はないんだ。しかも相手は蓉子が僕の前でさえときどき賞讃する米倉以外の誰であり得るんだ?」
「僕は夫になったこともなし、芸術家でもない故かもしれぬが君に急には賛成しにくいね。」
「けれど僕だとて、空想や邪推ばかりしていたわけではないんだ。ことに蓉子の身体に異状が来てからはかなり冷静に考えたのだ。
 君はおぼえているだろう。蓉子が妊娠したことを。君に診断して貰いに来る前に、僕が君を訪ねたことを。あの時、僕は君に、一体僕は子供を作り得るかどうかをきいたはずだ。かつてある種の病気を君に治療してもらった経験から、君にはその判断がつくと思ったのだ。妻が妊娠した時、それが果して自分の子かどうかを疑わねばならぬ夫ほど、不幸なものが世にあろうか。しかも僕はそれを疑ったのだ。だから君にはっきり聞いたのだ。ところが君は、
『できぬことはないだろう。』
 というようななまぬるい返事をした。恥かしい自分の立場をかくすためには、いてそれ以上きくことができなかったのだ。しかし僕はあの時の君の返事を否定と解釈している。だから妊娠した時、僕の疑いはまったく確実だったもののように思われたのだ。
 ああ、しかし、さっきも君に言われた通り、証拠のないのをどうしよう。君の答えもあいまいなものなのだ。僕の子かもしれないのだ。僕はこうやって妻が妊娠してから約二年あまり苦悶に苦悶を重ねてきたのだ。
 どうにかして証拠を捕えたい、こう念じたが、蓉子は完全に自分の行為をかくしていた。僕は更に君以外の医者に自分の身体を診て貰おうかとも考えた。しかし一方から思えば、久子が僕の子でないことが判ったからとてあとはどうなるんだ。蓉子を知っている僕は彼女が素直に自白するとは信じなかった。いやたとえ自白したところでどうするんだ?
 もし蓉子が米倉を愛していると自白したらどうなるのだ。久子が米倉の子だということが判ったからとて幸福になるのか。法律はもちろんある結果をつけてくれるだろう。けれど、法律がどう解決をつけようがこの深刻な問題が少しでもよくなるのか。山本。妻を奪われた夫は一体どうすればいいんだ!」
「…………」
「誰でも考えるだろうが一番はじめ僕の頭に浮んだことは妻と男をいかなる手段ででもやっつけることだ。けれど僕は米倉と自分とを比べてみた。もしなんらかの方法で米倉をやっつけるとすれば、世間はどう思うだろう。何も知らぬ世間は彼の盛名に対する僕の嫉妬だとしか考えぬであろう。そう思われることは堪えられないのだ。それに、実に矛盾した考えだが、直観は直観としても、僕はどうにでもして米倉が姦夫かんぷであるという確信と証拠を得たい気がしていたのだ。僕は苦悶した。蓉子にも米倉にも何も云わず一人で苦しんだんだ。結局救われる道は一つしかない。芸術に精進することだ。そうして米倉の盛名を一撃に蹴落してくれることだ。そうすれば米倉に対して立派に復讐もできるし、蓉子もまたふたたび僕のものになるに違いない。
 こう決心して僕は終日ペンをとった。しかしもう駄目だ。僕はだめだ。何もできぬ、何も書けない。僕はふたたび絶望の淵に沈んだ。こうやってとうとう昨年の夏まできてしまったのだ。」
「そうか、そんな事情があったのか。僕は少しも知らなかった。」山本はこう云ったが、それはまるで作りつけの人形が、機械で物を云っているような、きわめてうつろな調子であった。
「僕の家庭はほとんど家庭をなしていなかった。僕と妻とはおたがいに終日物を云わないでいる日の方が多くなってきた。もういてもたってもいられないという時になった。蓉子もいよいよ僕を見捨てる決心をしたらしい。蓉子は夫として、芸術家としての僕にとうとう愛想をつかしてしまったのだ。
 たしか昨年の九月の十日頃だったと思う、蓉子が不意に僕と別々に生活してみようと云い出した。もう一度舞台に立ちたい、というのが表面の口実なのだ。僕はおとなしくそれをきいていた。そうして何も答えずにおいた。翌日になると蓉子は、もうその問題を出さなかった。だから表向きはきわめて平和にその時は過ぎてしまった。が、僕の心の中は嵐のようだった。
 蓉子が同じ問題をふたたびまじめに提出したのは、昨年の十月十九日、すなわちあの事件のちょうど前夜なんだ。蓉子はその時、自分のことをはっきり僕に云った。僕は確信を……」
「何? はっきり云った?」
「うん、十九日の夕食過ぎだ。蓉子がまた、改まって、僕に別居問題をもち出したんだ。もう堪えられなかった。僕はこうきいてやった。
『お前が俺と別れようというには、他に理由があるんだろう。たいてい俺も察している。はっきり云ってくれないか。』
 すると蓉子はこう云うのだ。
『あると云えばあることはあるんです。けれど、そんなことおききになったって仕方がありませんわ。』
 僕はこれをきいてかっとなった。
『馬鹿! 俺を盲目めくらだと思ってやがる。一体久子は誰の子だ!』
『何を云ってらっしゃるんです。』
 蓉子はこういうと黙ってしまった。山本。これがほんとに僕の子ならすぐ答えるはずじゃないか。蓉子が何も云わないのは、いや、云えないのは、久子が僕の子でないという証拠じゃないか。」
「それからどうなったね。」
「僕はあまり不愉快だったから、黙って自分の部屋に戻ったんだ。そうして割れるように痛む頭を押えて、机に向って、どうかして心を落つけようと努力した。
 そのうち蓉子も黙って床を敷いていた、僕は夜、そばに人がいては仕事ができないので、妻子の隣室でねることにしてある。それで自分も蓉子に床をとらせて黙ったまま床に入ったのだ。それがちょうど十九日の十時頃だったろう。
 さすがに蓉子もすぐはねつけなかったらしい。僕はしばらく床にはいっていたが、とうていそのまま眠れぬので、また机に向っていろいろ考えにふけったが、結局、蓉子を殺そう、という決心しかもち得なかった。
 そうだ、この苦悶から逃れる方法は、ただ蓉子を殺すより他にはない。そうして自分も死ぬことだ、とこう思って僕は、ただそればかりを考えて、押入れからかつて僕が外国にいた友から贈られたピストルを取り出して、弾丸たまを調べはじめたのだ。
 山本、君は人を殺すということがいかに難しいことか、少しでも考えてみたことがあるか。あらかじめ計って人殺しをするということは悪魔でない限りできるものではない。僕はあの夜あれだけの決心を堅め――おまけにその決心までくるのに二年余もかかったんだが、その深みある決心にもかかわらず、僕がピストルを手にとった時、すでにその決心がにぶりはじめたのだ。
 今でなくてもいい。あしただっていい。こう考えて僕はピストルをおいた。そうしてしばらくもだえたが、やはりピストルを手にとることができず、それを枕元においたまま床に入ってしまったんだ。
 非常に亢奮した後には非常な疲労がくる。夜半の一時頃に僕はすっかり疲れ切って眠入ねいってしまった。どのくらい眠入ったかおぼえはないが、不意にささやきのような声がきこえる。なかば起き上った時、隣室から明かに男の声がきこえた。
 僕は全身の血が一時に燃え上るように感じて、いきなり枕元のピストルをとると、できるだけひそかにふすまの端をあけてみた。
 いくらあわてていたとは云え、蓉子がどんな女であろうと、夫のねている隣室に男を入れるはずのあるものでないくらいのことは、すぐに考え浮ぶべきなのだが、実際その時の僕は怒りに燃えていたのだった。
 しかし、さすがに、襖を開けて隣室をのぞいたとたん、僕はあっと危く叫ぶところであった。
 蓉子の枕元にはスタンドがおいてあって彼女がねつく時一燭光にしておく習慣だったので、その光でおぼろに不思議な光景が目に入ったのだ。なかばねぼけたような蓉子が、半身を床の上に出そうとしている。その夜具の上に半分覆面した大男が出刃庖丁をつき出しながら、小さい声で何か云っているのだ。
 僕はすぐ強盗だなと感じた。いくら僕でも毎日の新聞で近頃の物騒さはよく知っている。すぐに飛び込んでやろうと身構えした時、男が不意に右手の出刃庖丁をつき出すと同時に『静かにしろ。早く金を出せ。』
 というのが聞えた。それに対する蓉子の態度を、僕は実に不思議なように感じたのだ。あんなに平生しっかりしていて、どんなことをも恐れない蓉子が、まるで気を失ったように恐怖の色を現わしているのだ。僕がどんなことをしたって、たとえ彼女を殺しにかかったところで彼女は敢然と首を伸したであろう。それがどうだ、その男に金を出せといわれると魂がぬけた人のように真青になってぶるぶる慄えはじめたんだ。
 スタンドの電気が、僕のいる方にきていないのを幸、僕は黙ってこの不思議な有様をながめていた。すると賊はまたまた押えるような声だ。
『早くしろ! しないとこうだぞ!』といってやにわに右手の出刃をひらめかした。
 僕が思わずあっと叫ぼうとする前に、早くも蓉子は絹をさくような悲鳴をあげた。すると賊は非常に狼狽したさまを現わしたが、いきなり蓉子にとびかかって首をしめつけたんだ!」
 不意に山本が訊ねた。
「出刃庖丁は? 出刃庖丁を使わなかったのか。」
「出刃か? うん、それを投げ出していきなりとびかかったんだ。ところがそれを見た僕は驚くべき程落つきはじめたんだ。その時僕の頭に、突然、恐ろしい考えが浮んだんだ。蓉子は今殺されかかっている。その蓉子を、数時間前にはこの俺が殺そうとしたのじゃないか。よし。僕が手を下す必要はない。時は今だ。賊をして決行せしめよ! 責任は賊に行く。よし、自分の空想した殺人行為が、今眼前で遂行さるるのを見よ!
 僕は鐘のように打つ心臓の鼓動をおさえつけながら、ピストルを握りつめてその有様を見つづけたのだ。
 蓉子は何か叫ぼうとした。そうして顔をあげた。僕はその時の蓉子の顔を決して忘れない。充血した顔の色、無理に開いた眼、ひっつれた唇、そうして痙攣けいれんしてふるえながらも、猛獣のような男の両腕にからみついたその二つの手!
 この抵抗にあった賊は野獣のようになって両腕にいっそう力を入れるかと思うと蓉子はいきなり後にたおれつづいて折重なって賊もその上に乗りかかった。彼は素早く顔から布をとってもう息が止っているらしい蓉子の口におしこもうとしている。
 恐ろしい地獄のような数秒間だった。しかし同時に何というすばらしい数秒間だったろう。僕は心に願ったことが今立派に行われたのを見たのだ!
『今だ、今こそ逃してはいけない。』
 僕はそう思って襖をあけるや否や、脱兎のごとく賊の傍に行った。彼がまだすっかり起き上れないうちにいきなり第一発をその右胸に撃ち込んだ。ひるむところをその右額めがけて第二発を発射したのだ。むろんやりそこなうはずはない。賊は立ちどころに即死してしまった。泣き叫ぶ久子、この呪うべき久子をそこに転がしたまま僕は表に飛び出した。そうして泥棒泥棒と叫んだわけなのだ。
 僕の望みは美事に遂げられた。そこにはただ百分の一秒ぐらいの時の差があるばかりではないか。賊が蓉子を殺した後僕が賊を殺したかその最中に殺したか、誰が知ろう。……見給え世人はまったく僕が力およばずして妻を死なしたと思っている。……わらうべきではないか。僕は力およばずどころではない。故意に妻を死なせたんだ。
 山本、これがあの夜の恐ろしいできごとだったのだ。」
 大川は一気にこう云ってしまうと探るような眼付で山本をながめた。
 夕闇はきた。部屋はまったくくらくなった。闇の中に二人は相対している。
 聞き終った山本が突然、病人の傍においてある水をぐっと呑んだ。そうして云った。
「恐ろしい話だ。恐ろしい事実だ。……しかし君が死ぬ気になったのはどうしたのだ。」
「さ、そこなんだ。僕が君に云おうとしているのは。いいか? 僕のいうことは矛盾だらけかもしれない。しかしその矛盾だらけなのが人間の心なんだから了解してくれ。
 僕はああやって妻の殺されるのを見ていた。否、妻を殺さした。これが法律上どういうことになるかは知らない。しかし道徳上では十分責任を負うべきこと疑いない。
 ところで僕は、妻の死ぬのを見てからしばらくは自分のやったことに少しも悔を感じなかった。けれどもあれから十日程たつと、またまた深い苦しみに襲われはじめたのだ。
 僕はさきにも云った通り、芸術家の直観を信じた。夫としての直観を信じた。証拠をあざわらった。けれど、妻の死後……ことにあの断末魔の妻の顔を見てから、自分の疑いがまったくの邪推ではなかったかと思い始めたのだ。
 もし蓉子がほんとに僕を愛していたなら、もし久子がまったく僕の子だったなら? 僕はどうすればよいのだ? 僕はとんでもないことをしたのだ。罪なき妻を疑っていたのだ。あのいとしい蓉子を疑っていたのだ。しかも僕は――おお僕こそ呪われてあれ! あの野獣のような兇賊に妻を惨殺さしたのだ、僕のこの両眼の前で! しかも救うことができたのに※[#感嘆符三つ、98-上-22]
 蓉子が僕と別居しようと思っていたことは明かだった。しかしそれが不貞ということになるだろうか。僕は取り返しのつかぬことをしてしまったのだ。
 こう思ってから僕は久子と暮すのが堪えられなくなった。まず久子を妻の親にあずけて一人でくらすことにした。ところが毎夜のように断末魔の妻の顔が見えるのだ。僕がまちがっていたか? こう悩みつづけて半年は生きてきたのだ。けれども僕にはもう生は堪えられなくなったのだ。妻は地獄にいる。僕におとされたんだ。恨め! 恨め! 僕も地獄に行く! こういう決意をしてから僕はたびたび死ぬ時をねらった。そうしてついに決行したのだ。……蓉子が不貞であったろうとそうでなかったろうと僕には生きては行かれないのだ。……僕はもう死ぬ、しかし最後に君にはっきりききたい! 君の奉ずる聖なる科学の名においてはっきりきく、僕には子を作る能力があるのか。久子はたしかに僕の子だろうか?」
 そこには不気味な沈黙がまた襲いきたった。闇の中でも大川の苦しげな呼吸ははっきりときかれ得る。しかるに、大川よりいっそう亢奮したらしいのは山本であった。彼は医師としての己れを忘れたように見えた。彼は自分が病人の前に立っていることすら忘れたかのように見えた。
 突然山本はベッドの側に近づいて、大川の右手をつかんだ。山本の手はなぜかふるえている。絞るように山本が云った。
「大川、よくきいてくれ。君の生命はもう危いんだぞ。死ぬまぎわになってそれだけの重大なことをきくのに、君はなぜほんとうのことを云わないんだ? 君は妻の殺されるのを見ていたと云った。君は妻を賊に殺させたと云った。しかし君は自分が妻を殺したとは云わない。なぜはっきり云わないのだ? 大川! 君は賊を第一に殺して、それから妻を殺したんだろう※(感嘆符二つ、1-8-75)
 云う方もきく方も必死だった。つかまれた大川の手もつかんでいる山本の手も、ぶるぶると音をたてるまでにふるえた。
「大川、僕は君になんでもいう、だから君も最後にほんとうのことを云って死んでくれ!」
 氷のような静寂を破って、大川のふるえをおびた、わりに落ちついた声がひびいた。
「そうか、君は知っていたのか。僕がわるかった。僕がわるかった。死ぬ前なのに僕はなんということだ。僕が殺したのだ。僕が蓉子を殺したのだ。間違いはないほんとうのことをいうから聞いてくれ。
 あの夜、僕は一時頃に床に入った。しかしどうして眠れよう。ピストルを出して妻を殺そうかどうしようかと迷っていた僕だ。僕はね返りばかりしながら床中で悶々としていた。ところが三時頃だったろう。台所の方で妙な音がするのだ。しかし頭の中に悩みを持っていた僕は音のするのをきいてはいながらも少しも怪しいとは思わなかった。そうしてどうして蓉子に復讐してやろうか、どうして彼女を一人で永久にもちつづけられるか、を考えていたのだ。
 僕が物音をほんとに聞き始めたのは、蓉子のねている室の次の間でみしみしいう音をきいた時だ。強盗だな! と近頃の強盗騒ぎにおびやかされている僕は、すぐに感じた。いきなりピストルを手にとって、僕はそーッと襖に忍びよったのだ。
 ちょっとばかり襖をあけたとたん、蓉子のねている裾の方の襖がするすると開いて、覆面をした男がぬっと首をつき出した。次の瞬間には出刃庖丁らしいものをもった大の男が、ねている蓉子の裾のところに突っ立っていた。
 法律がどんなことを云おうとも、深夜、人の家に刃物をもってはいってくる奴を殺すことは、正しいことだと僕は思っていた。否今でもそれは信じている。パッと襖を開くや否や、僕は賊の右側からいきなり一発を発射した。あッと云って賊がよろよろとするところを、僕は飛鳥のようにとび出してねらいをつけながら、ピストルを賊の顔につきつけて第二発をそのひたいに撃ち込んだ。美事に命中すると同時に、賊は何の抵抗もなし得ずにたおれたのだ。戦いは実に簡単だった。
 この物音に蓉子も久子も目をさました。もしこの時、蓉子が、僕の奮闘を感謝してくれたなら、あんなことにならずにすんだろう。目をさました蓉子は驚いて、
『あなた、どうしたのです。』ときく。僕は仆れた賊をさしながら、
『泥棒がはいったんだ。やっつけたよ。』と答えた。すると蓉子は床の中からはい出して、賊の傍にするすると寄ってその血の出ている有様をながめたり、額に手をあてたりしていたが突然、
『あなた、殺しちゃったのね。……泥棒を。』
『そうさ、かまわないさ。』
『たいへんよ、いくら泥棒だって殺しちゃわるいわ。』
 この答えは、否非難は、なんという不愉快なものだったろう! もし僕が殺さなければ、そういう貴様が今ごろ何されているか判らないじゃないか! 僕はかっとなった。蓉子の顔をにらみつけた。この瞬間、賊の死体と蓉子の顔を見くらべているうちに、僕はたちまち非常に有効に利用さるべき機会がきていることに気がついた。
 よし! 今だ!
 いきなり僕は蓉子にとびかかった。そうして驚いて何もするすべさえないうち、両腕に全身の力をこめて蓉子の首をしめつけた。
 蓉子は叫ぼうとした。しかし声がつまっていた。けれど蓉子は自分がどうされようとしているかをはっきり知ったらしい。おお、あの時の断末魔の顔! 僕をにらんだあの眼! 呪いをあびせようとしたあの唇※(感嘆符二つ、1-8-75) 僕の頭から消え去らぬのはそれなのだ。
 蓉子はたちまち息絶えた。僕はすばやくたんすの引出しをあけたり、そこらのものをちらかしたりした。賊の手から出刃をとってそばに投げすて、その死体を蓉子の死体の上にのせ、覆面をとって蓉子のくいしばった歯をおしあけてそこへつめこんだ。これらのことは電光のごとく行われた。なぜならば、ピストルの音をきいて、誰かきはしないかという考えがあったから。
 こうやって万事にぬかりはないと信じてから、泥棒と叫んで表にとび出したのだが、意外にも早く、夜警の男に出会でくわしてしまったのだ。僕はすぐに筋道のたった話をしなければならない。十分に考え切ってなかった僕はやむを得ずわざとそこへひっくり返ったのだ。こうやっている間に頭を冷静にして、警官に対する申立てを考えはじめたのだった。
 僕が申立てようとすることに、不自然なところは少しもないはずだ。立派に泥棒が押し入っている。しかも出刃庖丁をもっている。それを僕が殺すことは不思議はない。なぜならば妻が殺されているからだ。
 僕はすっかり安心した。そうしてはっきりとすじ道をたてて申立てたのだった。ただたった一箇所、犯罪事件に関してはまったくの素人の僕が心配した点がある。それは賊が出刃で、妻をおどかしている最中、妻が悲鳴をあげたとすると、賊が持っている出刃を使用する方が自然じゃないか、と思われたのだ。しめ殺すとすれば出刃庖丁をほうり出さねばならないわけなのだ。そういう場合、強盗は実際どうするか。出刃を投げ出してしめにかかるものだろうかどうか、という点だった。
 ところが係官は美事に僕のいうことに乗せられてしまった。恐らく判事も検事もその道にかけて玄人だから、かえって欺されたのではないかと考える。実際そういう場合があるのだろう。彼等の経験から推して、僕のいうところに不自然さがなかったためだろう。美事に通ったのだ。
 ところが君には僕の嘘が判ったね、君にさっき出刃のことを聞かれた時はいやな気持だったんだ。恐らく君はあの点から疑ったのだろうが、それはやはり君が僕同様に素人だからだよ。
 これで僕のいうことは終った。さあきかしてくれ、さっき僕のきいたことだ。僕は妻を殺した。しかし妻は不貞ではなかったのだろうか。」
 もし部屋が明るかったら、山本の顔色は瀕死ひんしの大川にもまして、死人の色を呈していることが認められたろう。ごくりとつばをのんで山本が云った。
「君はどっちの答えをのぞんでいるのだ。君の妻が貞淑だったと答えたら、君は安心するのか。」
ああ、たまらない。貞淑な妻を疑って惨殺したとは!」
「では不貞だったと答えれば、君は満足できるのか? 久子が君の子でないと判れば!」
「噫、不貞だったとしたら! それもたまらないんだ。ああどうしたらいいのだろう僕は! しかししかしやはりききたい! きいてから死ぬ! 僕は子を作れるのだろうか。久子は僕のほんとの子だろうか? それに君は蓉子によく会ってあの女の気持をよく知っているはずだ。医者として、親友として答えてくれ! 答えてくれ。……僕は君の頭を信ずる! 君の云うことを信じる。君は何もかも知っているはずだ。僕の言葉の僅かの不自然さから、僕の嘘をあてた君だ……しかし、それにしても僕の殺人の動機までは知らぬはずの君が……?」
 突然烈しいせきが大川を襲った。たんがのどで鳴った。明かに大川は断末魔に迫っている。
 死人のような山本はしかしおっかぶせるように大川の手をとって耳に口をよせながら叫んだ。
「今こそほんとうを云おう! 大川! 君には子はできないわけなのだ。だから久子は君の子であるわけはない。君の感じは正しかったんだ。君の直観は正しかったんだよ! 大川、もう一つ云う、云わなければならない。君の夫としての直観は正しかったのだ。しかし全部が正しくはなかったのだよ。……僕は君が蓉子を殺したことを知ったのではない。また推察したのでもない。君は夫として芸術家としての直観と云ったね。しかし僕のは……僕のは、恋人として、愛人としての……」
 ここまで夢中になって語ってきた山本はこの時はじめて大川の異状に気がついた。医師としての観念が彼を支配した。彼はいきなり電気のスイッチをひねった。照らし出されたベッドの上に、彼はもはや永久の眠りに入っている大川竜太郎を見出したのであった。
 山本ははじめて友人の死体と対話していたことに気がついた。山本の最後に云った言葉がどこまで大川に聞えたか疑問である。しかし大川が聞かずに死んだとすれば、二人にとって幸福であったろう。なぜならば、山本正雄の語った言葉、そして更に語ろうとした言葉は地獄からでなければ聞き得ず、また地獄にちなければ語り得なかった事実であったであろうから。
 黄昏の告白はここで終る。
 しかし次のことを一つつけ加えておかないのは事実に対して忠実ではなかろう。

 大川竜太郎の死後、彼の一代の傑作は新しき表装のもとにふたたび出版され、親友たる山本正雄はその出版に全力をそそいだ。
 大川の遺児久子は大川の親友山本正雄によって育てられることになったが、大川の作の出版その他が完全にすんだ時、山本正雄は或る日その家で久子の過失から突然変死したことが発見された。
 大川の遺品のピストルが山本によって愛蔵されていたのを、幼い久子がいつのまにかもて遊んでいるうち、過って引金に手がふれて発射し、一発のもとに頭を撃たれて即死したものである。
 しかしこのことを信じない人もかなりある。四歳の女児によってピストルがたやすく発射されないということを知っている人達は、少しもこの話を信じてはいないだろう。
 が、なぜに山本が自殺したか。これを知るものは恐らくは一人もあるまい。

底本:「新青年傑作選第一巻(新装版)」立風書房
   1991(平成3)年6月10日第1刷発行
初出:「新青年」博文館
   1929(昭和4)年7月
入力:川山隆
校正:noriko saito
2007年9月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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