さて、今日こんにちまでの話は、私のかげの仕事ばかりで何らこの社会とは交渉のないものであったが、これからはようやく私の生活が世間的に芽を出し掛けたことになります。すなわち自分の仕事として、その仕事が世の中に現われて来るということになる訳です。といって、まだまだようやくそれは世の中に顔を出した位のものであります。
 それは、どういう事から起因したかというと明治十七年頃日本美術協会というものがあった。これが私の世の中に顔を出した所で、いわば初舞台とでもいうものであろうか。この一つの会が私というものを社会的に紹介してくれたことになるのであります。が、この事を話そうとすると、その以前にさかのぼって美術協会というものの基を話さなければなりません。それを話しませんと顔を出した訳が分らんのです。

 私は、それまでは世の中がどういう風に進んでいるのか、我がくにの美術界がどんな有様になっているのか、実の所一向知りませんのでした。また、実際そういうことを特に知ろうという気もありませんでした。ちょうどそれは第一回の博覧会があった当時、その事にまるで風馬牛ふうばぎゅうであったように、一向世の中のこと……世の中のことといっても世の中のことも種々いろいろありますが、今日でいえば美術界とか、芸術界とかいう方の世界のことは一切どんな風に風潮が動いているか、その方面のことは一向知らずにいたのであります。で、どういう会が出来ていて、どういう人たちが会合して、どんなことを話し合ったり研究しあったりしているかなどは、さらに知らない。ただ、自分の仕事を毎日の仕事として、てくてく克明にやっていたばかりであったのです。

 ところが、明治十七年に初めて日本美術協会というものに或る一つの小品を高村光雲の名で出品しました。これがそもそもの私の世間的に自分の製作として公にした最初のことであった。今日までは全く蔭の仕事、人目には立たぬ仕事、いかに精力を振い、腕によりをかけたものであっても、それは私の仕事としては社会的に注目されるものではなかったのでありました。

 ここで美術協会の起りのそもそもの最初の事を話します。明治十三年頃に、当時或る一部の数奇者すきしゃ――単に数奇者といっては意を尽くせませんが、或る一部の学者物識ものしりであって、日本の美術工芸を愛好する人たち――そういう人たちが、その頃の日本の絵画、彫刻その他種々の工芸的製作が日に増して衰退し行く有様を見るにつけ、どうもこのまま打っちゃって置いては行く末のほども案じられる。これは今日において何らかしかるべき輓回ばんかいの策を講じなくてはならない、と、こう考え及んだのであります。その人たちというのは、山高信離やまたかのぶあきら、山本五郎、納富介次郎のうとみかいじろう松尾儀助まつおぎすけ、大森惟中いちゅう塩田真しおだまこと、岸光景みつかげ等十人足らずの諸氏でありました。この人たちは日頃から逢えば必ずこのことを話し合い、何か一つ適当な方法を取ろうではないかというておったが、まず何はとまれ、差し当って、手近な処から一つの催しを始めようではないか、ということになったのである。それは、お互いに所蔵している古い品物を持ち寄ってそれを鑑賞し批評し合って研究することになったのです。それは楽しみ半分で、数奇の気持でやったことで決してむずかしいことではなかった。それでもし工人側の人たちでこの会に参会することを望んで出品物を見たいとか、話しを傍聴したいという希望の人たちがあるなら喜んでこれを迎え、鑑賞側の人と、工人側の人とが一坐し、一緒になって話し合ったならば、さらに面白かろうということになって、月に一回ずつの催しを始め、各自に古いものを持ち寄ったのであった。

 場所はいけはた弁天の境内静地院せいちいん。それで竜池会りゅうちかいと名附けた。この会が段々と育って行くにつけて次第に会員も多くなり、絵画、彫刻はもとより、蒔絵まきえ、金工等の諸家をも勧誘して入会させることにし回を重ねるごとに発展して行ったのであった。
 そこで会頭を佐野常民さのつねたみ氏、副会頭を河瀬秀治かわせひではる氏(同氏は今日なお健在である)に推薦し、日本美術協会と名を改め、毎月一度ずつ常会を、年に一度展覧会を開くということになって、これを観古美術会という。そして長い間それが続いたのでありました。
 会員の中には私がこれからお話しようと思っている石川光明こうめい旭玉山あさひぎょくざん、金田兼次郎、島村俊明としあきの諸氏、蒔絵師では白山松哉まつやなどもいて、会はますますさかんとなり観古美術会を開くことになったのでありました。

 観古美術会はさらに一歩進んだ形のもので、会員所蔵の逸品といっても数限りのあること故、一般に上流諸家から秘蔵品並びに宮内省御物ぎょぶつ等をも拝借し、各種にわたった名画名器等を陳列し、それを一般に縦覧を許すことにしました。そうして、宮様を総裁に頂きまして、歴とした会が成立したのであった。
 会場は下谷の海禅寺かいぜんじ合羽橋かっぱばし側)、東本願寺等であった。この会は二、三回続きましたが、美術思想を一般に普及した功は多大でありました。
 こんな有様で、竜池会から出た日本美術協会の年中行事として観古美術会の会員はますますえ、大分工人側の人たちも這入はいって来たのでありますから、会員の意見の交換などしばしばある中に、従来の如く、単に古いものばかりを出陳するということよりも、さらに新奇なものを加えて出陳してはどうか。彫刻、絵画、蒔絵、彫金等の名家も多いこと故、この人々自ら製作して、それを出したら一層おもしろかろう。そうして古人の作は参考品としたら、さらに興味が深いであろうという議が起りまして、それが決まると、早速築地つきじ本願寺で開会することになった。これがすなわち美術協会の新古展覧会の第一回で、明治十七年のことでありました。その時私は白檀びゃくだん蝦蟇仙人がませんにんを彫って出品しました。
 私の製作を自分の名で世間へ発表したそもそもの初めです。私はその時三等賞を貰いました。

 ところが、私は、実の所、日本美術協会というものの存在さえも知らなかったのです。明治十三年頃から竜池会というものがあり、それが発展して今日美術協会というものが出来ているなどいうことを一切知らなかった。ですから、どういう人たちがどんなことを話したり、論じたりしているかなどは知ろうようもない。私は毎度申す通り、ただこつこつと仕事をしていたのである。それほど何も世間のことを知らなかった私が、どうして日本美術協会のあることを知り、また出品したかというと、それは、石川光明という牙彫げぼりの名人で、当時既に牙彫りでは日本で一、二を争う人となっていた人であったのです。
 光明氏は私と同年輩の人、人格は申すまでもなく、風采も至って上品で、さすがに一技にすぐれた人ほどあって見上げたところのある人であった。後年美術学校教授を奉職し私とは同僚となりました。

 私は光明氏に勧められて美術協会に出品したのが縁となって、石川氏との交際はいよいよ親しくなりまた同会とも接近して行くようになった。いで会員となることをも勧められましたが、とてもまだ会員になる資格はないと辞退をしましたけれども、会頭の佐野氏からもいろいろ御言葉があり、或る時は、同氏のお宅へ招待され、大層歓待を受けた上に、また入会のことを勧められたりしましたので、私もついに会員の末席を汚すようなことになりました。
 この時から私はいろいろの人の顔も知り、また当時の美術界に重きをせる人々の所説をも聞き、明治十三年以降その当時に及んでいる斯界しかい趨勢すうせいの大略をも知ることが出来、また、その現在の有様をも了解することが出来たようなわけで、ここで私は一遍に世間を眺め、一どきに眼を開いたような感を致しました。
 今日までは実に眼の前に黒い幕が引かれていたようなもので、この時一時にそれが取れたという感じでありました。

底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年12月22日作成
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