さて、話は自然私がどうして石川光明氏と交を結ぶことになったかということに落ちて来ます。それを話します。
 明治十五年、私は西町三番地の家で毎日仕事をしておりました。仕事場は往来を前にした処で、前述の通りのように至って質素な、ただ仕事が出来るという位の処であった。
 その頃、木彫りは衰え切っている。しかし牙彫りの方は全盛で、この方には知名の人が多く立派に門戸を張ってやっている。そのうちで私は石川光明氏の名前は知っておりました。それは明治十四年第二回勧業博覧会に同氏の出品があって、それを見て、心ひそかに感服したのでくその名を覚えていました。
 同氏の出品は薄肉の額で、同氏得意のもので、世評も大したものであったらしく、私が見ても牙彫げちょう界恐らくこの人の右に出るものはなかろうと思いました。しかし、その人は知らない。またこの時に島村俊明氏兄弟の出品もあり、これもなかなかすぐれていると感服して見たことで、光明氏なり、俊明氏なり、いまだ逢ったこともなく顔は見知らぬが定めし立派な人であろうと思うておりました。
 光明氏はその頃下谷竹町たけちょう生駒いこま様の屋敷中に立派な邸宅を構え、弟子の七、八人も使っておられ、既に立派な先生として世に立っておられたのであるが、そんなことまではその時は知らず、ただ、名前だけを記憶に留めておったのでした。

 私は相変らず降っても照っても西町の仕事場でコツコツと仕事をやっていた。
 すると、時折ちょいちょい私の仕事場の前に立ち留まって私の仕事をしているのを見ている人がある。時には朝晩立つことがあるので、私も気が附き、その人の人品じんぴんを見覚えるようになった。その人というのは小柄な人で、ひげをちょいとやし、打ち見たところお医師いしゃか、詩人か、そうでなければ書家画家といったような風体で至極人品のよい人である。格子こうしの外から熱心にのぞいて見ている。私も熱心に仕事をしているのだが、どうかしてちょっと頭を上げてその人の方を見ると、その人は面伏おもぶせなような顔をしてふいと去ってしまう。こういうことが幾度となく重なっていました。
 私は、妙な人だと思っていた。いずれ数奇者すきしゃで、彫刻を見るのが珍しいのであろう位に思っていた。風采の上から、まず自分の見当は違うまいなど思っていた。とにかく私の記憶には、もう何処どこで逢っても見覚えのついている人であった。

 すると、或る夏のこと、先年、私が鋳物師大島氏の家にいた時分、その家で心やすくなっていた牧光弘という鋳物師があって、久方ぶり私の仕事をしている処へ訪ねて来られた。久闊きゅうかつじょし、いろいろ話の中に、牧氏のいうには、
「高村さん、あなたに大変こがれている人があるんだが、一つその人に逢ってやりませんか。先方では是非一度逢いたいもんだといって大変逢いたがっているんですよ。この間も行ったらまたあなたの話が出てね。是非逢いたいっていってました。あなた逢う気がありますかね」
 こういう話。これは珍しいと私は思った。
「私に逢いたがってる人があるんですって、それは誰ですね」
「その人ですか。それは石川光明という牙彫家ですよ」
 私はびっくりしました。
「ええ、石川光明さん、その人が私に逢いたがってるってんですか。そうですか。石川さんならまだ逢ったことはないが、あの人の仕事は私も知ってる。今の世にどうも恐ろしい人があるもんだと実は私は驚いているんだ」
「あなたも石川さんの仕事を感心していますか」
「感心どころのことではない。敬服していますよ。私とは違って牙彫りの方だけれども、当今、日本広しといえども、牙彫り師としてはあの人の右に出るものは恐らくありますまい。私は博覧会の薄肉の額を見た時から、すっかり敬服しているんだ。その石川さんが私に逢いたいなんて……そんならこっちからお目に掛かりに行きたいもんです。案内してくれますか」
「そりゃ、案内するのは訳はありませんが、しかし、高村さん、そりゃいけませんよ。先方むこうがあなたに逢いたがって、是非一度引き逢わせてくれといってるんです。先方からいい出したことだから、先方がこっちへ出向いて来るのが順序ですよ。何もあなたの方から出掛けて行かなくても、先方がやって来ますよ。で、あなたは逢いますね」
「逢いますとも、……私もお目に掛かりたいもんだ。あの石川さんなら」
「では、私が今石川さんを貴宅につれて来ましょう。これは話がおもしろくなった」
「しかし、どうもそれでは恐れ入るが、じゃ、あなたのいう通りにしてお茶でも沸かして待っていましょう」
 私は素直に牧氏のいう通りに従いました。牧氏は直ぐ坐を立って出て行きました。拙宅からは竹町は二丁位の所、牧氏は直ぐ其所そこだから訳はないといって出て行きました。

 しばらくすると両人ふたり這入はいって来る。ふと、私が、今一人の人の顔を見ると驚きました。その人は、医師か、詩人か、書画の先生でもあろうかと鑑定を附けた毎度自分の仕事場の前に立つ見覚えのある人であったので、牧氏が両人ふたりを紹介せぬ前に、もう両人は顔と顔とを見合って微笑ほほえまぬわけには行かないのでした。
「あなたですか」
「ええ、どうも……」
と、互いに名乗り合いこそしてはいないが、かねてから、顔は充分見知っている仲、自然にその事が、談話はなしの皮切りとなり、私が頭をち上げると、きまり悪そうに其所そこを去ったことなども笑い話の中に出て、石川光明氏はいかにも人ずきの好い人。かねてから逢いたい逢いたいと思うていたのに、今日は牧氏の橋渡しで念が届いて満足と光明氏がいえば、私もまた、お作にはかねてから敬服して、どういう方であろうか、さぞ立派な人であろうと心にゆかしく思いおったのに知らぬこととて、毎度仕事場をお見舞い下された方が石川さんあなたであったとはまことに奇縁。私は本懐至極に思いますなど、逢ったその日その時から、一見旧知という言葉をそのままに打ち解け、互いに仕事の話など根こそげ話をして時のつのを知らない位でありました。

 石川氏は既に一流の大家であって、堂々門戸を張っている当時の流行はやりですが、それでいて言葉使い、物腰、いかにも謙遜けんそんで少しも高ぶったところがない。私はいうまでもなく、まだ無名の人間、世に売れている人たちの仕事場などに比べては見るかげもないほどの手狭てぜまな処、当り前ならば、こっちからことばを低くして訪問もすべきであるのを、気軽に此所ここへわざわざ訪ねて来てくれられた人の心もうれしいと、私は茶など入れ、菓子などはさんで待遇もてなす。互いに話は尽きませんのでした。
「高村さん。私は随分前からあなたを知っていますよ。この宅へ、おでになってからのお顔馴染なじみではないんですよ。北元町にお出での時から知っていますよ」
 光明氏は静かに話す。
「それはまたどういう訳ですね」
「あなたは、北元町の東雲師匠のお店にお出での時分、西行さいぎょうを彫っていたことがありましょう」
「ええ、あります。それを知っているのですか」
「私は、毎朝、毎晩、楽しみにして、あなたの仕事を店先からのぞいて行ったものですよ。確か西行は一週間位掛かりましたね」
「そうですそうです。ちょうど七日目に彫り上げました。どうしてまたそんなことを詳しく知ってお出でなのですか」
「それはこういう訳です。私の宅はその頃下谷の松山町にありましたので、其所そこから日本橋の馬喰町ばくろうちょう越中屋えっちゅうやという木地きじ商(象牙の)の家へ仕事に毎日行くんでしてね。その往復毎日北元町を通るんで、つい、職業柄、お仕事の容子を覗いて見たような訳なんで……」
 光明氏はちゃんと何もかも知っている。なるほど、名人になる人は、平生ふだんの心掛けがまた別なものだ。職業柄とはいいながら、他人の仕事をもかく細かに注目し、朝夕立ち寄って見ては、それを楽しく感じたとは、熱心のほども推察される。この心あってこそ、あたまも腕も上達するというもの、まだまだ我々は其所までは行かない。名人上手の心掛けはまた別なものだと私は心ひそかに石川氏の心持に敬服したことでありました。

 石川光明氏と私とは、嘉永かえい五年子歳の同年生まれです。私は二月、石川氏は五月生まれというから、少し私が兄である。
 私は下谷北清島町に生まれ、光明氏もやはり下谷で、北清島町からは何程いくらもない稲荷町の宮彫師石川家に生まれた人です(稲荷町は行徳寺ぎょうとくじの稲荷と柳の稲荷とふたつあるが、光明氏は柳の稲荷の方)。父親に早く別れ、祖父の養育で、十二歳の時に根岸ねぎし在住の菊川という牙彫の師匠の家に弟子入りをして、十一年の年季を勤め上げ、年明けが二十三の時、それから日本橋の馬喰町の木地問屋に仕事に通い出したというのですから、その少年時代から青年へ掛けての逕路は、ほとんど私と同じであってただ私が仏師の家の弟子となり、光明氏が牙彫師の家の弟子となったという相違だけです。共に二十三歳にして年が明けてから、一方は松山町から馬喰町へ、一方は清島町から蔵前元町へ通う。その道程みちのりもほぼ同じこと、恐らく修業の有様も、牙彫木彫の相違はあっても、一生懸命であったことは同じことであったと思われます。但し、石川氏は牙彫であったため、時流に投じ、早く出世をして、世の中へ出て名人の名をち得たので、既に明治十三年の竜池会が出来た時分、間もなくその会員となって、山高、山本、岸などいう諸先生と知り合い、美術のことを研究していられたのであった。もっとも、光明氏が抜群の技倆があってこそかかる幸運に際会するを得たのでありますが、私は、それに反し、木彫りのような時勢と逆行したものにたずさわり、世の中におくれ、かかる会合のあることも何にも知らず、十三年から四年目に、初めて石川氏に邂逅かいこうして、その伝手つてによってようやく世間へ顔を出したような訳随分遅れていたといわねばなりません。

 その後両人ふたりは毎度訪ね合っている。
 光明氏はしきりと木彫りをやって見たいことなど話され、
「ほんとに木彫りは面白いですねえ。今度の美術会には是非一つあなたの木彫りを出品して下さい。きっとそれは評判になりますよ」
など毎々私に向って勧められる。
「どうも、なかなか、まだ、そういう処までに行きませんよ。もっと修業をしなければ」
 私が答えますと、
「そんなことがあるものですか。何んでも好い。あなたの手に成ったものなら何んでも結構……是非出品して下さい」
 石川氏は熱心にいわれる。
「そう、あなたがいって下さるなら私も何んだかやって見たい気がして来ました。どんなものを製作こしらえましょうか」
「何んだって、あなたの好きなもので好いでしょう」
「では、何んともつかず、一つこしらえて見ましょう」
 そういって製作したのが蝦蟇仙人であったのでした。これが相当評判よろしく三等賞を貰ったようなわけで、全く光明氏の知遇によってこの縁を生じたようなわけで、それから間もなく会員になったりして、会員中の主立おもだった竜池会当時の先輩は申すまでもなく、工人側でも金田兼次郎氏、旭玉山氏、島村俊明氏その他当時知名の彫刻家や、蒔絵師、金工の人たちとも知り合いましたが、その中でも石川光明氏とは特に親密で兄弟もただならずというように交際しました。それで、世間では、光明氏も光が附き、私も光が附いているので、兄弟弟子ででもあるかのように、余り仲がいものですから思っていた人もありました。

 とにかく、明治十三年に生まれた竜池会というものは、その後に起った美術界のいろいろな会の母でありました。そして好い根柢こんていを植え附けたのであった。
 つまり、少数の先覚者が、幕末より明治初年にかけ、日本の美術は衰退し行くにかかわらず、在来の日本古美術は、どしどし西洋人に持って行かれ、いものをこしらえる人は少なくなり、日本にあるものは持って行かれ、日本の美術がからになって行く有様を見てこれはこうしては置けないと気が附き一方これを救済し、一方これを奨励するということが動機となって、ついに竜池会が始まったのですが、この事はまことに日本の美術界に取っては有難いことであったのであります。
 しかして、明治十七年日本美術協会が生まれてから、さらに進歩発達の度を高めて行ったのでありました。美術協会が上野に引っ越して来た時は、副会頭の河瀬秀治かわせひではる氏がやめ、九鬼隆一くきりゅういち氏がその後を継ぎました。会頭の佐野常民氏はまことに我が美術界に取っての大恩人で、人物といい、見識といい、実に得がたい方でありました。

底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年12月22日作成
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