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┃ 「生活」│ ┃
┃   + │ ┃ ┏━┓
┃ 「戦争」│0┃=┃能┃
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┃ 「競技」│ ┃
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 この標題は表現派の禁厭まじない札ではない。去年十月号の本誌の裏絵で、喜多実氏の「葵上」のスケッチ……又翌月号の本誌にその画を通じて、実氏の芸風と奏風氏の筆致をテニスに寄せて皮肉った無名氏の漫画……それから引き続いて新春号に奏風氏が書いた、これに対する感想文の「能楽スポーツ一体論」……と、この三ツを見ているうちに、ゆくりなくも出来上ったのがこの公式なのだ。
 どうだ、わかるかね……ハハーン、ちょっとわかるまい。宇宙間に於ける至大至高の玄妙がこの中に含まれているのだからね。しかもダーウィンの進化論や、アインスタインの相対性云々よりも、もっと深刻透徹した名原則をあらわす公式なのだからね。……まずお聞きやれ……こんなわけだ。

 吾々は日常生活に於て、途上車上のいずれを問わず、到る処に「能」を見ることが出来る。しかもその「能」なるものは、そこいらにありふれた専門家が舞台の上でやるソレよりも、はるかに緊張充実したものだから面白いではないか……と言ったとて、決して眉に唾するような話ではない。極めてありふれた、道理至極した話なのだ。

 まず吾々の日常生活を煎じ詰めると、そこに「能」が現われて来る。換言すれば、ある一つの仕事を熱心誠実にくり返していると、その心境なり、その動作なりが、イツ知らず純一崇高化して来て、自然と能の型の均整美に接近して来るのだ。
 その中でも姿態の方から観察すると、労働者が習熟鍛練した業務の三昧に入っている時には、その体の構え、動作の位取り、心持ちの静かさまでが、「能そのまま」になっていることが珍しくない。老船頭が櫓柄につかまって沖合の一点を白眼にらみつつ、悠々と大浪を乗り切る、その押す手引く手や腰構えの姿態美は、ソックリそのまま名人の仕カタ開キであるまいか。その心境は恍惚として虚に憑り風に御する底の「能」の心境と一致しているのではあるまいか。又は鉄塊上の一点を狙って大ハンマーを繰返し繰返し振り下す青服の壮漢の、焦らず弛まぬ純誠純一な身心の活動美も、又ソックリそのまま能のソレに当てはめられはしまいか。
 見たまえ! 物を運び、物を操り、作り、投げ、又は受取る……なぞいう稼働者の態度を。……台所で働く女中の身体のこなしまでも、しかもそれが練達洗練された三昧に入っている所作である限り……その心境がその仕事に対して純一無雑である限り……そこに能楽の型と同じ真実味の横溢した「人間美」が後光を放っているではないか。
 それが日常生活に於ける人間美の精髄ではないか。

「天神丸ヨーイ。デエコン煮えたかア――」と怒鳴る船乗の声は、永年波と風と、海の広さを相手として鍛えられたおかげで、立派に押えの利いた甲張りになっている。そのほか駅の構内で怒鳴りまわる貨物仲仕の声、魚市場の問屋のセリ声、物売の声、下足番の声、又は狂い飛ぶ火花と、轟々たる機械の大噪音の中に、一糸を乱さず、職工を叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)する錆びた声……なぞの中には、松籟、濤韻と対比すべき或るものを含んでいることを、よく気付かせられる。

 これを要するに、吾々の日常生活に於ける所作や発声は、その目的が何であるに拘らず、真剣に鍛えられて来るに従って、「能」のソレに近づいて来る。「生活の精華、即、能」であることを多少に拘らず証拠立てて来る。

 戦争となると、日常生活よりも真剣味が高潮しているだけに、一層この感が深い。一度火蓋を切ったが最後、全戦線が「能的の気魄」をもって充たされていると言っていいであろう。その砲煙弾雨の中を一意敵に向って散開し、躍進する千変万化の姿は、男性の姿態美の中でも、最高潮した「気をつけ」の緊張美以上に超越したものの千変万化でなければならぬ。勇ましいとも、美しいとも、尊いとも、勿体ないとも、涙ぐましいとも、何ともかんともたとえようのない人間美の現われでなければならぬ。更にその中で、毅然として勝敗の外に立ちつつ、全局を支配して行く名将の心境(というものがあるとすれば)、それこそ正に舞曲を以て天命の所作と心得ている能楽師(そんな人がいるとすれば)の心境と一致するものではあるまいか。

 能を見て頭が下がるのは、かように生死以上の生死をあらわす「舞台=戦場」の厳粛さに打たれるからではあるまいか。

 戦国の世のこと……名前は忘れたが、敵味方二人の騎馬武者が、夕暮れの余吾の湖のほとりで行き遭った。
「ヤアヤア、それなる御方に物申す。お見受け申す処、しかるべき大将と存ずる。願わくは一合わせ見参仕りたい」
「イヤ、これはお言葉までもないこと。なれども、暫時お待ちあれ。手前の槍は雑兵の血で汚れておりますれば……」
 といううちに、その武士は、かたわらの湖に槍の穂先を浸して、ザブザブと洗い始めた。その武者振りの見事さに、相手は感に堪えて見惚れさせられた。かくて互いに槍を合わせること十数合に及んだが、そのうちにとうとう真暗になってしまったので一方が槍を引いた。
「待たれよ。もはや、槍の穂先も見えぬげに御座れば、残念ながらこれにてお別れ申そう」
「いや、某もさように存じておったところ……」
「さらば」
「さらば」
 というのでドロンゲームになったが、後にこの二人は某侯の御前で出会して、本名を名乗り合って莫逆の友となった……というような話が「常山紀談」に載っている。

 外国は知らず、日本の戦争はここまで「純美化」し、「能化」している。美しく名乗りをあげ、美しく戦い、美しく死に、又は殺すべく……人間性の真剣味を極度にまで発揮すべく……死生を超越して努力している。

 ここに於てか、能は、戦争の真剣味以上に高潮したる、真剣美そのものの現われでなければならぬ事がわかるであろう。

 しからば現代の能は、どこまで死生の上に超越しているか。どこで砲煙弾雨以上の火花を散らし、白兵戦以上の屍山血河の間を悠遊しているか。……オット、脱線脱線……サテその次に……。

 スポーツは「平和時代に於ける人間の争闘精神のあらわれ」だと言える。但し、議会の乱闘なぞとは全然正反対の意味に於けるアラワレなので……しかもその目的が利欲の観念を含まぬ、純粋な意味の勝敗のみに限られているだけに、吾々の日常生活や戦争なぞよりもはるかに高潮した肉体と精神の純真純美さを、あらゆる刹那に発揮し得るように出来ている。換言すれば、生活の極致のノンセンスが戦争になる。戦争のノンセンスの極致がスポーツとなるので、生活から戦争が生まれ、戦争からスポーツが生まれる。そうしてそのスポーツをもう一つノンセンスにしたものが、舞い、歌い、囃子(胴上げ、凱歌、拍子がその濫觴……だかどうか知らないが)となるわけである。そうしてまた、その舞い、歌い、囃子の中でも、最もノンセンスなものが「能」なのだからトテモやり切れない。

 こうして人類の文化は漸次「生活」から「能」へと進化高潮しつつある。現代のスポーツ流行はそうした進化の一階段に過ぎないので、喜多実氏がテニスのスタイルを能の中に体現し、松野奏風氏が素早くこれをスケッチしたのも、決して偶然の事ではない。吾が喜多流の根本精神が、かような進化の道程と合致している好例証である。将来の喜多流万々歳の瑞兆に外ならぬのである。

「生活プラス戦争プラススポーツ÷0=能」の意味がわかったかナ?……ウン、わかった。……諸君なかなか頭がいい……。

 ナニ、わからない。+……+……ナルホド。……÷0=能の「0」はそもそも何じゃと言うのだね。アハハハハこれは説明せん方がよかろう。テンテレツク天狗の面……だからな……。
 ……どうも弱ったな。そんなにわかりたければ、喜多実君か松野奏風君にきいてみるさ。両君はその「0」を掴むべく夢中になって御座るようだから……。
 ……オット……断っておくが、それは「金」の事じゃないよ。ハハハハ。

底本:「夢野久作全集7」三一書房
   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行
   1992(平成4)年2月29日第1版第12刷発行
初出:「喜多」
   1928(昭和3)年3月
※底本では、ファイル本文の冒頭に置いた図が、表題として扱われています。
※冒頭の図版の太線素片は、底本では点線です。
※底本の解題によれば、初出時の署名は「見鈍太郎」です。
入力:川山隆
校正:土屋隆
2007年7月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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